ここから本文です

>>1804

 大政奉還後の薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?


「勅命候義重罪不可免候二付、征夷大将軍職ヲ奪、削封ノ上諸侯之列二被召加度」(大久保利通「久光公に呈せし意見書」)
 薩摩藩では、「征夷大将軍職ヲ奪、削封ノ上諸侯之列二被召」という大戦略があって、そのための和戦両にらみで準備を進めている。


 ただ圧倒的指導力を持って、政局をリードする勢力が無かった。キーマンの一人である慶喜にしても、これまでの言動に変節が多かったのと、臣下であるはずの幕府組織を統制できていない。
 
 ただ薩摩の軍事力が、幕府側にある程度の圧力となり、大政奉還の受け入れの要素となっていた部分もある。大政奉還直後の10月19日、佐幕派の大垣藩士が、正親町三条実愛に語ったところでは「一、水会一万有之故、薩二千位を攘は、易き事に候へ共、(薩摩の)本国大国故、敵になしかたきこと」(嵯峨実愛手記)とある。
 事態は、新政府側も幕府側も、複雑を極めている。その中で戊辰戦争を回避できた可能性は、限りなく低い。




>複雑ではない、簡単である。現実世界では、たんなる指導権争いである。武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたので、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相 桑名中将に「誅戮」をくわえるには、「一ト通リ条理ヲ立テ」る新たなる段取りが必要になったのだ。つまり名目だよ。




 その主導権争いの決着を、軍事力でつけるか政治決着でつけるかは状況による。政戦いずれにも対応できるように準備するのは、当然のことだ。
 慶応3年末の時点で、慶喜が大政奉還し「幕府が消滅していた」のは、あくまで紙の上でのこと。実際は幕府直轄の軍事力も、また親幕府の大名群も健在だ。その最右翼である会津らは強硬姿勢を解いていない。


「此の時会桑二藩は大兵を擁して京都に駐在し、依然として徳川家の重鎮たり。其藩主肥後守、越中守こそ大政奉還の大義を了解しつらめ。其藩士に到りては旧幕府に眷戀たる者多かりければ、公は板倉伊賀守に告げて『…会桑二藩をも各本国に就かしめん』と仰せられしに、伊賀守は遮って、『二藩は万一の変ある時有力なる後援なれば、帰国せしめんこと然るべからず。また帰国せよと命じたりとも、諾せざるは明なり。其他の兵士も同様なり』と稱して従わず。」(昔夢会筆記)








>薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。




 しかし西郷は、幕府を支える軍事力が四散して、軍事的優勢が動かない段階になったとたん、一転して慶喜助命に動くではないか。
 また容保も定敬も赦免されており、「誅戮」されていませんな。新政府にとっては、幕府軍の抵抗が熄めば戦闘をする理由も意図も無かった。




ようやく理解しえたね!




あめでとう!

  • >>1806

    >まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

    ???

    「12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?(日付 ?)

    >まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)

    松平慶永は12月5日、慶喜にニ条城で対面し、何としても会津を抑えるよう求めた。その要請に応じて慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせている。さらに同日、慶喜は慶永に対して、朝廷が長州藩に寛大な処置を下しても異存はない旨を伝えておるよ。

    >オタクは、日本の歴史に疎いようだね。現実の歴史では、慶喜も松平容保(会津)も定敬(桑名)も誅殺されていないんだよ。

    アホか!
    それは西鄕らが用意した名目だよ。強いて言えば、兵を叱咤するかけ声のようなものです。気持ちだよ。だから、実際取消になっても別に構わんのだ。

    > しかし慶応3年11月の段階では、慶喜が大政奉還を宣言しただけ。幕府陸海軍も、幕府側に立つ大名群も多数いる。しかもその幕府勢力を、慶喜は統制できていない以上、戦闘という選択肢は放棄できないのは当然だ。

    上記のように慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせているので、「慶喜は統制できていない」とは、なにかの間違いであろう。