ここから本文です

>>1806

>まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
 会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

???

「12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?(日付 ?)

>まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)

松平慶永は12月5日、慶喜にニ条城で対面し、何としても会津を抑えるよう求めた。その要請に応じて慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせている。さらに同日、慶喜は慶永に対して、朝廷が長州藩に寛大な処置を下しても異存はない旨を伝えておるよ。

>オタクは、日本の歴史に疎いようだね。現実の歴史では、慶喜も松平容保(会津)も定敬(桑名)も誅殺されていないんだよ。

アホか!
それは西鄕らが用意した名目だよ。強いて言えば、兵を叱咤するかけ声のようなものです。気持ちだよ。だから、実際取消になっても別に構わんのだ。

> しかし慶応3年11月の段階では、慶喜が大政奉還を宣言しただけ。幕府陸海軍も、幕府側に立つ大名群も多数いる。しかもその幕府勢力を、慶喜は統制できていない以上、戦闘という選択肢は放棄できないのは当然だ。

上記のように慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせているので、「慶喜は統制できていない」とは、なにかの間違いであろう。

  • >>1808

    >それに、オタクは、『西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。』ということで、本当にいいのかね?

    慶喜が朝廷に大政奉還して、朝廷による新しい日本が始まっておる。そして将軍職も返している。朝廷は10月22日、諸大名が上京してくるまで、外国の事情に精通している「両三藩」と申し合わせて外交問題を処理せよ、という指示を下した。25日には慶喜は将軍職も返したが、朝廷は、諸大名が上京してくるまでは、慶喜に政務を一時委任するという指令を発している。さらに朝廷は10月21日に「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮を加う」という指令も撤回した。そして慶喜はこのすべての天子の命を遵守している。しかし、一方、西鄕らは天子を「玉」とか「たま」とか、挙げ句の果て「○」とかいう記号で表していることから分かるように、天子を道具の一部として扱っており、天子を蔑ろしていること甚だしい。どう見ても彼らは逆賊である。

    > そうなれば薩摩藩藩邸の焼き討ちは、大名同士の私闘になる。そして鳥羽伏見の戦いは、政府に対する反乱になる。

    薩摩藩藩邸の焼き討ちは、西鄕の謀略によって盗賊らの巣となっていた薩摩江戸藩邸に彼らを引き渡わすように求めたが、薩摩側が拒否したことにより起こったもので、「大名同士の私闘」とは言わんよ。鳥羽伏見の戦いも、慶喜が詔勅により入朝するための先触れの兵に薩摩藩がいきなり大砲をぶっ放なしたことで、仕方が無く武門の習いで起きたものであるので、「反乱」とは違うと思う。勿論どちらも「私闘」とみる見解もあるがね!

    >オタクとしては、絶対にあってはならないことじゃないのか。w

    そんなものはありゃせんよ!
    強いて言えば、君の資料にたいするピント外れの解説です。

  • >>1808

    >「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮を加う」という戦闘の名目が「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付」「火急二一発ト申訳二参サル」になった。そこで、「一ト通リ条理ヲ立テ」新たなる戦闘する名目が必要になったのだ。
    つまり慶喜を「殄戮」して、さらに会津宰相と桑名中将を「誅戮」するという西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。これが「薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われ」なかった理由です。






     まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。




    >12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?(日付 ?)




     とぼけても無駄だな。
     これまで当方は、大政奉還(10月14日)から鳥羽伏見の戦いまで、幕府側は混乱していた。そして、会桑ら強硬派は、ともすれば慶喜の意に従わず、戦いを欲求していたということ。12月に入っても、それが続いている。
     
     これは記述したことだが。


     10月下旬には幕府側も、軍を上洛させた。10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京。12月14日にも、長鯨丸、長崎丸に歩兵2個大隊等が乗船して上京。兵力を増強した幕府側の戦意は高まるばかりで、兵庫にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、実家への書簡で「とても一戦これなく候わでは、徳川氏の天下とても盛んに相成り申さず…クズクズさえ致し申さず候へば勝利は十分…」(12月14日、母親宛書簡)と書き残している。


     11月17日、長州三田尻に島津茂久が到着し、長州藩首脳と面会していた同じ頃、京都では幕府の激昂ぶりが公然と語られている。
    「一関東沸のこと  一大樹失人心のこと … 一両三はんのこと、関東沸のこと  一同上薩土へ兵を向のこと  一兵隊多、舟に而上坂居のこと  一復古関東不服のこと」(嵯峨実愛手記)
     そして幕府海軍の主力艦、開陽丸に座乗して兵庫にいる榎本武揚は、「…会津、桑名、大垣、加賀、紀州、藤堂、松山、井伊の大小名は全て我が徳川氏に忠を尽くし、力を尽くし候こと、実に頼もしき事にて候」(12月14日、母親宛榎本武揚書簡)と揚言している。


     幕府がこうだから、新政府側が全く戦闘の準備を放棄できるはずがないでないか。

  • >>1808

    >だから、「薩摩も長州も、和戦両にらみで動いている」わけではなし、薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。



     オタクは、日本の歴史に疎いようだね。現実の歴史では、慶喜も松平容保(会津)も定敬(桑名)も誅殺されていないんだよ。
     しかし慶応3年11月の段階では、慶喜が大政奉還を宣言しただけ。幕府陸海軍も、幕府側に立つ大名群も多数いる。しかもその幕府勢力を、慶喜は統制できていない以上、戦闘という選択肢は放棄できないのは当然だ。






    >アホか!それは西鄕らが用意した名目だよ。強いて言えば、兵を叱咤するかけ声のようなものです。気持ちだよ。だから、実際取消になっても別に構わんのだ。


     だから西郷にとっては、軍事作戦は、情勢によって放棄してもいいものだ。
     大政奉還から鳥羽伏見の戦いまでの間、京大阪には、戦闘意欲満々の幕府戦力がいた。だから薩摩でも戦闘に備え、実際に来襲した幕府軍を撃退し、江戸に結集している幕府戦力を追撃して追討軍を発した。しかし、西郷自身が江戸目前で、幕府に抗戦の意思も戦力も四散したことが確認できた。だから、西郷は戦闘を中止した。
     西郷にとっては、「戦闘ありき」ではなく、目的が達成できればどうしても行使する必要はない。


    ようやく理解しえたね!
    あめでとう!

  • >>1808

     松平慶永は12月5日、慶喜にニ条城で対面し、何としても会津を抑えるよう求めた。その要請に応じて慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせている。さらに同日、慶喜は慶永に対して、朝廷が長州藩に寛大な処置を下しても異存はない旨を伝えておるよ。




     しかし慶応3年11月の段階では、慶喜が大政奉還を宣言しただけ。幕府陸海軍も、幕府側に立つ大名群も多数いる。しかもその幕府勢力を、慶喜は統制できていない以上、戦闘という選択肢は放棄できないのは当然だ。




    >上記のように慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせているので、「慶喜は統制できていない」とは、なにかの間違いであろう。




     慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組織を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。
     
     もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。