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>>1820

> その慶喜が、大政奉還直後から、江戸の幕軍を呼び寄せているのはなぜ?

西鄕らの逆賊連合軍を牽制して、朝廷をお守りするためです。

 >それに、慶喜が幕府の支持を失い、幕軍が沸き立っていたのはすでに提示した史料の通りだ。

は~
どちらの史料ですか??

 >私闘でないなら、政府からの命令があるはず。その史料を提示してくれるかね?これがオタクの口から出まかせでないなら、当然提示できるよね。

盗賊を取り締まるのに、いちいち「政府からの命令」はいらんよ!

> そもそも大名の藩邸には、幕府全盛時代でも介入できないよ。それを、大政奉還後に焼き討ちするとすれば、旧幕府側の大名が、薩摩藩に戦争を仕掛けたことになる。

薩摩藩の実質指導者である西鄕から徳川を挑発する使命を受け、伊牟田尚平、益満休之助を盗賊の取りまとめ役として江戸へ下らせている。この薩摩藩賊徒は江戸城の後閣に放火してことごとく炎上させ、さらに、市中取締の兵営を攻撃している。この応戦により、芝三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ薩摩藩賊徒らの犯人の引渡を求めたが、薩摩側が拒否したことにより起こったものである。江戸市民を恐怖に陥れていた薩摩藩のテロ行為にたいしての取り締まり一環としてなされたものであるので私闘とは言わんよ。しかし、薩摩藩はこれにより徳川との決戦に藩論が纏った。つまり、西郷らの陰謀によって、公儀政体派の慎重論に薩摩藩の藩論が変わっていたのが、徳川との決戦に誘導されたということでしょう。徳川家に対して戦争を仕掛けた西鄕らの陰謀により、鳥羽伏見の戦いが始まったといえる。

> 慶喜が上洛するのに、完全武装の大軍を引き連れてこいなんて詔勅は出ていない。そして北上する幕軍の主力は会桑藩軍だが、この二藩には帰国命令が出ていたよ。それを無視して完全武装で上洛を強行する以上、天子を蔑ろしていること甚だしい。どう見ても彼らは逆賊である。W

その「帰国命令」はいつ発令されたのですか?

> 慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組織を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。

自らが直率して大阪に引き下げておるから、慶喜が統制している証拠だよ。

  • >>1826

    > もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。

    西鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておるからでしょう。

    > だから西郷にとっては、軍事作戦は、情勢によって放棄してもいいものだ。
    > 西郷にとっては、「戦闘ありき」ではなく、目的が達成できればどうしても行使する必要はない。

    誰でもそうですが。なにか?

    > とぼけても無駄だな。

    日付が間違っておらんか!

    > これまで当方は、大政奉還(10月14日)から鳥羽伏見の戦いまで、幕府側は混乱していた。そして、会桑ら強硬派は、ともすれば慶喜の意に従わず、戦いを欲求していたということ。12月に入っても、それが続いている。

    慶喜はそれを押さえておるよ!
     
    > 幕府がこうだから、新政府側が全く戦闘の準備を放棄できるはずがないでないか。

    君の言う新政府とは、天子を「玉」とか「たま」とか、挙げ句の果て「○」とかいう記号で表して天子を道具の一部として扱っておる西鄕らが作った政府のことですか?

  • >>1826

     慶喜が、大政奉還直後から、江戸の幕軍を呼び寄せているのはなぜ?そんなことをせずとも、10月の段階ですでに在京の幕府戦力は、薩摩その他を圧倒しているのに。


    >西鄕らの逆賊連合軍を権勢して、朝廷をお守りするためです。


     その根拠は?オタクの脳内妄想でなく、何か根拠資料でもあるのかね?
     
     ただし大政奉還の時点では、御所を固めていたのは会津桑名で、在京の兵力では、幕府が圧倒している。ちなみに、この兵力差は、鳥羽伏見の戦いまで変わらない。
     オタクも、多少は歴史を勉強しなさいよ。こんなだからピント外れのレスしか返せないんだよ。

     ちなみに大政奉還を聞いた江戸では大混乱だ。
    「勝安房守は、大君支持派が早まったことをし、その結果内戦が勃発することを恐れていると語った。…酒井飛騨守(若年寄)の家臣金子太輔は、次のような話をしてくれた。大名たちは部隊を大阪に結集中であり、薩摩はすでに5千の兵を大阪に集め、毛利長門の指揮下にある長州と土佐兵は、大阪に陣を張っている。…さらに金子によれば、大君は江戸から四千乃至五千の兵の派遣を命じたそうだし、老中は金子の主君と松平伯耆守(老中)に、今後大君と御門のいずれに従うか、自分の意識で決めて良いと言ったそうである。また旗本の間を秘密の回状がまわっていて、それは現在の大君が前大君(14代将軍、家茂)を毒殺したと言って非難し、誠忠の士は向島に集合せよと呼びかけている。…京都での戦争は不可避である。…始まりの終わりが開始されたのである。」
     (アーネストサトウの日記、慶応3年10月23日)

     薩摩も11月に主力艦春日を新規購入し、また藩軍を上洛させた。それでも、幕軍の方が優勢だった。だから11月に三田尻で協議した薩長芸の首脳は、計画の中に決戦で敗れた場合の作戦まで盛り込まざるを得なかった。
     それに、慶喜が幕府の支持を失い、幕軍が沸き立っていたのはすでに提示した史料の通りだ。

    >は~どちらの史料ですか??

     レスを返せないから、知らんふりかね。哀れで惨めだね。そんなことを言う暇があったら、勉強しろと。

     11月17日、長州三田尻に島津茂久が到着し、長州藩首脳と面会していた同じ頃、京都では幕府の激昂ぶりが公然と語られている。
    「一関東沸のこと  一大樹失人心のこと … 一両三はんのこと、関東沸のこと  一同上薩土へ兵を向のこと  一兵隊多、舟に而上坂居のこと  一復古関東不服のこと」(嵯峨実愛手記)


     幕臣の慶喜に対する不信感はピークに達している。

  • >>1826

     薩摩も11月に主力艦春日を新規購入し、また藩軍を上洛させた。それでも、幕軍の方が優勢だった。だから11月に三田尻で協議した薩長芸の首脳は、計画の中に決戦で敗れた場合の作戦まで盛り込まざるを得なかった。
     それに、慶喜が幕府の支持を失い、幕軍が沸き立っていたのはすでに提示した史料の通りだ。
     ところで、幕府がすでに消滅しているなら、薩摩藩藩邸の焼き討ちは、大名同士の私闘になる。そして鳥羽伏見の戦いは、政府に対する反乱になる。




    >薩摩藩藩邸の焼き討ちは、西鄕の謀略によって盗賊らの巣となっていた薩摩江戸藩邸に彼らを引き渡わすように求めたが、薩摩側が拒否したことにより起こったもので、「大名同士の私闘」とは言わんよ。


     私闘でないなら、政府からの命令があるはず。その史料を提示してくれるかね?これがオタクの口から出まかせでないなら、当然提示できるよね。
     そもそも大名の藩邸には、幕府全盛時代でも介入できないよ。それを、大政奉還後に焼き討ちするとすれば、旧幕府側の大名が、薩摩藩に戦争を仕掛けたことになる。


    >盗賊を取り締まるのに、いちいち「政府からの命令」はいらんよ!


     幕府は、大政奉還し、徳川家は一大名になっている。警察権もなく大名への指揮権も無い。その状態で、薩摩藩の藩邸を攻撃するのは、特別な権限を付与されてないなら、完全な私闘だね。もちろん鳥羽伏見の戦いも同じことだが。

     榎本武揚(幕府海軍開陽丸艦長)も、薩摩藩とは戦争状態であると言って、春日丸他の薩摩藩船に攻撃して、発生したのが阿波沖海戦。まあ、幕府海軍の水準が低かったから、砲弾は当たらなかったけど。


    >薩摩藩の実質指導者である西鄕から徳川を挑発する使命を受け、伊牟田尚平、益満休之助を盗賊の取りまとめ役として江戸へ下らせている。この薩摩藩賊徒は江戸城の後閣に放火してことごとく炎上させ、さらに、市中取締の兵営を攻撃している。この応戦により、芝三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ薩摩藩賊徒らの犯人の引渡を求めたが、薩摩側が拒否したことにより起こったものである。江戸市民を恐怖に陥れていた薩摩藩のテロ行為にたいしての取り締まり一環としてなされたものであるので、私闘とは言わんよ。しかし、薩摩藩はこれにより徳川との決戦に藩論が纏った。つまり、西郷らの陰謀によって、薩摩藩の公儀政体派の慎重論も徳川との決戦に藩論が誘導されたということでしょう。徳川家に対して戦争を仕掛けた西鄕らの陰謀により、鳥羽伏見の戦いが始まったといえる。


     薩摩藩では、大政奉還以後、一貫して江戸の浪士団に活動停止を命じているがね。それを聞かなかったのは、浪士だ。
     もっとも、すでに会桑や幕臣は抑えようも無いほど興奮していた。慶喜自身が抑えても、抑えきれなかったから、慶喜は会桑を連れて、京都から大阪にくだらざるを得なかった。このように江戸の騒動がなくても、戦闘回避の可能性は限りなく低い。


    >自らが直率して大阪に引き下げておるから、慶喜が統制している証拠だよ。


     慶喜が新政府の中で一定の地位を得ているなら、当然彼自身は京都にいるべきだよな。それができないほど、幕臣がいきり立っていたわけだ。
     そもそも解任、帰国命令が朝廷から出ていた会津、桑名は、公然と朝廷の命令に逆らっている。それを慶喜がどうすることもできなかった。

    >その「帰国命令」はいつ発令されたのですか?

     慶応三年12月18日ですが、何か?
     会桑が帰国命令を無視したか、慶喜が止めたかは知らんが。朝命を無視したことに違いない。