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>>1840

> 西郷は、薩摩藩の利害関係を計算しなければならない要職にある。和戦両にらみで戦略を立てているんだよ。「戦闘ありき」なんて幼稚な男ではない。

御所占拠の反乱計画は「戦闘ありき」の前提でたてておるよ。

 >慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組織を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。
 もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。

慶喜は反乱軍と違い宮禁を血でけなすことはせんのだよ。

> 幕府軍の増援は、10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京、そして28日には陸軍奉行石川総管が幕府歩兵を率いて大阪に向かった。
 一方西郷、大久保、小松は10月17日に京を離れ、再び帰ったのは11月23日だ。この間、西郷らは京都にいなかったわけで。「鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておる」と言うのは、全くの嘘、口から出まかせもいいところ。

大政奉還直後、逆賊長州と手を組んで、玉を奪う政府転覆の計画を立て、実行しておるよ。

>慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
 会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

当たり前だ。でも、天子を道具の一部と扱っておる賊軍とちがい会桑は尊王に厚いので闕下を血で貶すことはせんよ。

 >一体、以下の事実の中で、どの日付けが間違っているのかね。必死のおとぼけ、ご苦労

脳内健忘症におかされておるのか?
「只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候」の書簡の日付が間違っておらんか。

  • >>1841

    > 幕府は、大政奉還し、徳川家は一大名になっている。警察権もなく大名への指揮権も無い。その状態で、薩摩藩の藩邸を攻撃するのは、特別な権限を付与されてないなら、完全な私闘だね。もちろん鳥羽伏見の戦いも同じことだが。

    薩摩藩邸の攻撃は治安維持のためで、特別な権限はいらんよ。鳥羽伏見は天子を道具の一部として扱っておる反乱賊の退治のためだから私闘とは言わんと思うが。

    > 薩摩藩では、大政奉還以後、一貫して江戸の浪士団に活動停止を命じているがね。それを聞かなかったのは、浪士だ。

    西郷は浪士団に活動停止を命じておらんし、江戸には密偵を配置しておるから江戸のことはすべて承知なはずである。

    >すでに会桑や幕臣は抑えようも無いほど興奮していた。慶喜自身が抑えても、抑えきれなかったから、慶喜は会桑を連れて、京都から大阪にくだらざるを得なかった。このように江戸の騒動がなくても、戦闘回避の可能性は限りなく低い。

    西郷らの反乱政府内部でも、慶喜の誠意を認める大勢が多数を占めておるから、西郷の謀略がなければ、戦争する理由はなくなっておる。そして、膨張主義でない、日本の実情にあった近代化が進められ、象徴天皇という本来の国が生まれたと思うが。

    > 慶喜が新政府の中で一定の地位を得ているなら、当然彼自身は京都にいるべきだよな。それができないほど、幕臣がいきり立っていたわけだ。

    反乱の賊軍がおるのに、常識で考えてもできるわけがなかろう。

    > そもそも解任、帰国命令が朝廷から出ていた会津、桑名は、公然と朝廷の命令に逆らっている。それを慶喜がどうすることもできなかった。

    それは撤回されておるよ。

    >ただし大政奉還の時点では、御所を固めていたのは会津桑名で、在京の兵力では、幕府が圧倒している。ちなみに、この兵力差は、鳥羽伏見の戦いまで変わらない。
     
    だからどうだというのかね???

    > ちなみに大政奉還を聞いた江戸では大混乱だ。

    あたりまえだ。
    それがなんだというのかね?

    > 幕臣の慶喜に対する不信感はピークに達している。

    それで?

  • >>1841

     西郷は、薩摩藩の利害関係を計算しなければならない要職にある。和戦両にらみで戦略を立てているんだよ。「戦闘ありき」なんて幼稚な男ではない。


    >御所占拠の反乱計画は「戦闘ありき」の前提でたてておるよ。


     幕府との戦闘の可能性が高い以上、事前に戦闘に備える準備は当然だろ。それはのちの江戸総攻撃も同じ。そして、現実には戦闘の可能性がほぼなくなったと判断すれば、戦闘を中止した。
     現実の歴史は、そういうものだよ。w






     慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組織を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。
     もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。



    >西鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておるからでしょう。


     それは全くの嘘だな。
     幕府軍の増援は、10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京、そして28日には陸軍奉行石川総管が幕府歩兵を率いて大阪に向かった。
     一方西郷、大久保、小松は10月17日に京を離れ、再び帰ったのは11月23日だ。この間、西郷らは京都にいなかったわけで。「鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておる」と言うのは、全くの嘘、口から出まかせもいいところ。

    >………………

     これに懲りて、適当なデマを吐くのはやめなさい。




    >慶喜は反乱軍と違い宮禁を血でけなすことはせんのだよ。

     脳内妄想で、自己満足しておるのか?




     慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。


    >当たり前だ。でも、天子を道具の一部と扱っておる賊軍とちがい会桑は尊王に厚いので闕下を血で貶すことはせんよ。


     薩長とも、闕下を血で貶すことはせんよ。というか、現実にそんなことはしていない。

  • >>1841

    >12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?(日付 ?)


     とぼけても無駄だな。
     これまで当方は、大政奉還(10月14日)から鳥羽伏見の戦いまで、幕府側は混乱していた。そして、会桑ら強硬派は、ともすれば慶喜の意に従わず、戦いを欲求していたということ。12月に入っても、それが続いている。
     

    >日付が間違っておらんか!


     一体、以下の事実の中で、どの日付けが間違っているのかね。必死のおとぼけ、ご苦労さん。w

     10月下旬には幕府側も、軍を上洛させた。10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京。12月14日にも、長鯨丸、長崎丸に歩兵2個大隊等が乗船して上京。兵力を増強した幕府側の戦意は高まるばかりで、兵庫にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、実家への書簡で「とても一戦これなく候わでは、徳川氏の天下とても盛んに相成り申さず…クズクズさえ致し申さず候へば勝利は十分…」(12月14日、母親宛書簡)と書き残している。


     11月17日、長州三田尻に島津茂久が到着し、長州藩首脳と面会していた同じ頃、京都では幕府の激昂ぶりが公然と語られている。
    「一関東沸のこと  一大樹失人心のこと … 一両三はんのこと、関東沸のこと  一同上薩土へ兵を向のこと  一兵隊多、舟に而上坂居のこと  一復古関東不服のこと」(嵯峨実愛手記)
     そして幕府海軍の主力艦、開陽丸に座乗して兵庫にいる榎本武揚は、「…会津、桑名、大垣、加賀、紀州、藤堂、松山、井伊の大小名は全て我が徳川氏に忠を尽くし、力を尽くし候こと、実に頼もしき事にて候」(12月14日、母親宛榎本武揚書簡)と揚言している。


    >「只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候」の書簡の日付が間違っておらんか。

     
     話をそらさないように。オタクは、「12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?」と見当はずれのレスをした。

     しかし戦闘意欲満々で軍事力を動員しているのは、12月に限ったことではない。それは大政奉還直後から始まっている。
     幕府が旺盛な戦意で、軍を動かしている以上、西郷がそれに対応して戦闘準備をするのは当然のことだと言っている。

     江戸の幕閣も、京阪の老中や会桑も戦う気満々だ。大政奉還という慶喜の行為は、こういう事態を引き起こしてしまったのだよ。