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>>1869

>会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、
勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

>「三日松平容堂上書して…会桑遅速に拘らず、一日も早く上京の御沙汰ありたしと奏請したれども、会桑帰国の儀早々慮置に及びたる後、徳川内府上京のやう御内命なり」(徳川慶喜公伝)
 このように、会桑をさっさと追い返して、それから慶喜に上京せよというのが結論だ。

上記の簑田宛西郷書簡の日付や上記の徳川慶喜公伝の資料を改竄しておるが、なぜそのようにするのかね?

  • >>1870

    >上記の簑田宛西郷書簡の日付や上記の徳川慶喜公伝の資料を改竄しておるが、なぜそのようにするのかね?

     だから、話をそらさないように。オタクは、「12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?」と見当はずれのレスをした。

     議論の流れは、こうだ。
     慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。
     もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。
     大政奉還を独断で決めた慶喜だが、その慶喜は幕府勢力を全く統制できていない、10月の大政奉還から鳥羽伏見の戦いまで、幕府側は軍事対決を指向して、軍を集中させている、ということだ
     慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。


     これに対して、まともに反論できないから、
     >12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?(日付 ?)
    と言い出した。12月中の話について「だいぶ日付けがあいている資料をもって」なんていうのは反論になっていない。
     というのも、幕府軍が動いたのは、12月のことではない。大政奉還直後から12月までずっと続いている。

     慶喜は旧幕府のほとんどに諮らずに、突然大政奉還を言い出した。もともと幕臣に信望が無い慶喜が、大政奉還を突然言い出しても、幕府勢力が素直に従うはずがないんだよ。その事実が上記に紹介した、幕軍の大挙移動だ。これで京阪に大軍が集中し、さらに気勢が上がって行った。
     大政奉還直後から鳥羽伏見直前まで、慶喜の内命があった否かはともかく、この3ヶ月間ずっと幕軍は沸騰して、京都へ増援を続けている。これでも、鳥羽・伏見の戦いの発生は、ただ西郷の責任かね?
     それに対する返答は?答えられないから、必死で話題をそらしている。w

      西郷書簡を、一つ紹介する。12月11日付けの蓑田伝兵衛宛て書簡だ。
    「…俄かに薩兵を以って、固め付け候処、僅かも動かれず、会桑の兵も一時は仰天の様子、前以っては会桑より暴発いたすとの説喧敷事にて御座候得共、其の時に臨み候処、案外気後れいたし、早々人数を引き纏め、二条城に両藩とも引き込み候事に御座候」
     大政奉還の公表後、薩摩軍の素早い展開が、会桑を抑えて戦闘を防遏したと西郷は国元の同志に書き送っている。
     これは、12月10日付け薩摩藩江戸屋敷宛ての吉井書簡(「其内今、御鎮静被下候様、御一同へ宜敷御伝置可被下候」)と連動している。
     戦闘発生は、最強硬派である会桑がキーを握っている。だから、西郷は会桑の動きを注視していたわけだし。鳥羽伏見の後になり、江戸総攻撃を目前にして、会桑やそれに連動する幕府の洋式軍がいなくなれば、さっさと戦闘態勢を解除している。

  • >>1870

    >慶応四年一月二日に開かれた廟議の席で、慶喜が議定職への就任が内定して、慶喜が再上洛して来る前に、賊らが会桑両藩の帰国を強く求めた主張は拒否されておる。この時、追い詰められた大久保は慶喜との対決を決意し、その旨を盟友の西郷と岩倉具視に、それぞれ伝えておる。だから、1月3日、慶喜の新政府入りに備えて上洛して来た徳川軍に対し、薩摩側から攻撃が仕掛けられ戦闘が始まったのは、至極当然の成り行きであったのだ。 


     それは嘘だな。
    「三日松平容堂上書して…会桑遅速に拘らず、一日も早く上京の御沙汰ありたしと奏請したれども、会桑帰国の儀早々慮置に及びたる後、徳川内府上京のやう御内命なり」(徳川慶喜公伝)
     このように、会桑をさっさと追い返して、それから慶喜に上京せよというのが結論だ。
     もっとも、この時すでに大阪の旧幕軍は、戦闘準備を整えて進撃中だったが。慶喜は、朝命を無視して、戦闘力を持つ会桑を滞在させ、しかも彼らを従えて攻め上ったんだよ。


    >上記の簑田宛西郷書簡の日付や上記の徳川慶喜公伝の資料を改竄しておるが、なぜそのようにするのかね?

     改ざん?
    「三日松平容堂上書して、内府を召して国是を議定し、四海寧謐の基本を立つるは今日の急務なれば、会桑遅速に拘らず、一日も早く上京の御沙汰ありたしと奏請したれども、会桑帰国の儀早々慮置に及びたる後、徳川内府上京のやう御内命なり」(徳川慶喜公伝)

     このように土佐の山内容堂は、会桑に関わらず慶喜を上洛させよと言った。しかし会桑については、12月18日の命令通り解任帰国のままだ。

     それをオタクは、
    >それは撤回されておるよ。
    と言い出したわけだが、その根拠は?
     いつものことだが、オタクはレスに窮すると、苦し紛れに嘘を吐き散らす。


     大阪の幕府軍は、もういきり立ってどうしようもない。徳川慶勝(尾張徳川藩主、新政府議定)が12月24日付けで、幕府側を鎮静できない責任を取って議定を辞めると申し出た事態になった。その混乱の先に、鳥羽伏見の戦いは開始された。

     それにしても、オタクの話は、本当に嘘ばっかりだな。挙げ句の果てに、「西郷らが御所を軍事的に制圧」とか「西郷らは次のように政府転覆の叛乱計画」とか「西鄕らの逆賊連合軍」とか。もう歴史から離れてしまって、妄想全開だな。w

  • >>1870

    >西鄕らは大政奉還直後、偽勅を作り叛乱の兵を集めるために…玉を奪う朝廷転覆の叛乱計画を…
    >江戸幕府は慶喜の大政奉還で無くなっておるよ。



     オタクの話に沿っていえば、「幕府」こそ逆賊、朝敵、売国奴となる。

     幕府がしきりに、軍事力を大阪に集めつつあった12月半ばに、慶喜は欧米諸国にも手を打っている。
     六カ国公使引見は、12月16日に行われているが、その席上、慶喜の口述書の英訳が公使に配られた。その内容は、「…一朝数名の諸侯、兵杖を帯して禁門に突入し、先帝雇命の摂政殿下を始め、宮、堂上を放逐し、先朝譴責の公卿等を引き入れこれに代わらしめ、最前勅命の旨を変じ、公儀を待たず将軍職をも廃止するに至れり。我が麾下、譜代の諸藩大いに憤激し、…兵を上ぐるの外なしと日夜余に迫れり…余はこの乱階を避くるがため、一先ず下坂に及べり。然れども彼の幼主を挟み、叡慮に託して私心を行い、万民を悩ませる凶暴の所業を見るに忍びず…正理を貫き事業を遂げ、公儀を定めんと希うの外なし…」(徳川慶喜公伝)

     慶喜は、京都側の言うままにならんぞ、と各国公使に宣言して見せた。そして特に、ロッシュに対してだけ、単独で親書を贈っている。この時期の幕府とフランスの癒着ぶりをよく示している。

     そしてロッシュは、本国のムスティエ外相宛て報告書の中で「大臣閣下、情勢はもちろん深刻であるが、憂慮するほどのものではない。…大君は引き続きその権力を行使しており、これがわれわれとこの国の安定とこの国の平和との保障になっている。」と自信たっぷりに書いている。

     この慶喜の自信、ロッシュの自信の根拠が、先に示した、大阪に集結しつつある幕軍というわけだ。長州征伐あたりから、幕府は極めて好戦的になっている。乏しい財源の大半をつぎ込み、足らずはフランスからの借款によって、幕府は大規模な軍拡に走っている。
     幕府が慶応元年以降、軍艦の購入額は急増している。購入金額は130万ドルに達し、富士山、回天、開陽などの大艦が幕府海軍に加わった。
     陸軍も、ロッシュの斡旋により、フランスのゼネラル社に対し、最新鋭元込銃1万丁を含む2万1千丁の小銃を発注。ただし財政難の幕府は、結局滅亡までに代金を完済できなかった。ただし、この財政を破綻させて拡充した軍事力を持ってしても、落ち目の政権はどうにもならなかったが。

     さらにこの幕府は、末期になって日本にとってトンデモなことをやらかした。小笠原長生(外国奉行)は、大政奉還のどさくさに紛れて、鉄道利権をアメリカに進呈してしまった。
     もちろん、すでに幕府にこれほどの利権をうごかす権限など無い。

     そして戊辰戦争になってから、会津藩は、国土(蝦夷地、越後の一部)をプロシアに売却しようとした。新政府憎しと自己保全のために、日本列島の一部を欧米に売り渡そうとした。典型的な売国奴だが、こんな連中が幕府の中枢にいた。
     第一次長州征伐と四カ国艦隊砲撃事件という苦境にあっても、イギリスによる彦島の租借を蹴った長州藩とは大違いだな。