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    「歎異抄」について、語り合いませんか。

    「歎異抄」について、「彌陀」について、「親鸞」について、語り合える人 メッセージください。

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  • 30277(最新)

    さんね 2月22日 22:37

    >>30276

    四 懺悔道としての哲学と親鸞

    田辺元 「懺悔道としての哲学」 (昭和21年4月)
    武内義範「浄土仏教の思想九、親鸞」(講談社)1991年
    西谷啓治「現代と仏教」〈「親鸞教学」21号「教行信証の研究」〉

    彼が他力に摂取される前に持っていた自由は自己中心的な自我の自由であったのに対して、他力に摂取され、他力を廻向された、他力によって生きる彼は、「无碍の一道」を生きる「信心の行者」であって、彼の「无碍」と呼ばれる自由は、天神地祇も業報もいかなるものも妨げることのできない絶対的自由である。このような絶対的自由を生きる無礙の行人も、罪業と呼ばれる自己中心性の根を自己の内にもっており、「業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と言われるが、彼は「よきこともあしきことも業報にさしまさせて」おり、自己中心的自我の自由は全く動く余地がない。信心の行者も「「業縁のもよほし」によって悪を為さんとも限らないが、「わろからんにつけても(自分の力でそれを正そうとはせず)、いよいよ願力をあふぎまいわせば、自然のことわりにて(他力の働きで)柔和忍辱のこゝろもいでくべし。」と教えられている。普通に言われる人間の自由は自己中心的自我の自由であり、それは限られている。それが働かない所に、他力の「无碍」と呼ばれる自由の領域がある。親鸞ではこのような仕方で有限者たる人間(罪業の人)が、絶対者の自由(無礙)にあずかることができるのであると私は理解している。
    西谷博士は「無礙の一道といわれるような行、そこに本当の自由ということが考えられる。・・・その行者の立場は無我であって、その無我の立場が自由である。・・・ところが現代人に於いてはそういう自由はなくなって、すべて我の自由が中心になっている。我という立場である。」「現代と仏教」〈「親鸞教学」21号「教行信証の研究」三百五十八頁〉 p211

    以上

  • >>30275

    *方便法身(本願海)から「法性法身(涅槃)への移りゆきは自然におこなわれ、それは凡夫のはからいにあらず、仏智の不思議である。かたちない無上仏に、かたちのある本願海からどのようにして、また何時、移っていくか、それは我々には知り得ないことである。明らかにれわれに知られる臨終が、法性法身へ移る境目であるなどということはあり得ない。かたちのないものには、それの境目もつける事は出来ない。
    しかしわれわれが知り得なくても、親鸞が繰り返しこのことを述べているというこは、それが何らかの仕方でわかっていたことを意味すると私は思う。 p150

    ーーー
    H29.12/17

    同時・同処で

    過去が諦められ、未来が明らかになったとこしえ今の光景。

    信心の業識を以て帰依し今生往生した等正覚不退・正定聚の世界に立つ時

    全ては「一味・一如」になっている。

    無我・無常に崩れ去った業縁の大地(過去)の岸に
    永遠の我が家が立っている(現在)。
    虚空にはひかり満ち満ちひかり(法性法性)の中ひかり(方便法身の弥陀)飛び交う(未来)

    去来現が同時同処に現成している世界です。

    永遠の今です。

    信心の業識を持って弥陀光明名に帰依した瞬間の光景であり、境目は既に取り払われて

    一如・一味ですが

    過去は過去のままで諦められ、未来は未来のまま臨終一念の未来に即成仏し還相してきます。

    真実信心にて開かれてくれ正定聚不退転の世界です。

    釈 三会

  • >>30274

    (五)「 臨終」の立場と「平生」の立場

    *自然といふはしからしむるという、しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを善に転じかへなすといふなり。転ずるといふはつみをけしうしなはずして善になすなり、よろずのみづ大海にいればすなはちうしおとなるがごとし。弥陀の願力をしんじるがゆへに、如来の功徳をえしむるがゆへに、しからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからはざれば自然のいふ。
    (唯信鈔文意) p140

    六 「かたち」あるものから「かたち」なきものへ p144

    この章で詳し述べられてるよう

    *われわれは心に思うことも感ずることもできない。いわんや、言葉にあらわすことはできない。「かたちのないもの」とか「一如」とか「無上仏」とか「自然」とか、いろいろ言ってみても、どれも「かたちをのないもの」自体をあらわしてはいない。
    「かたちのないもの」に至り、それを知り、などできる唯一の道は、かたちないものがかたちをとって現れた方便法身・阿弥陀仏によることである。弥陀の願海に入ることによってのみかたちなき無上仏を知り、それになることができる。そして弥陀の願海に入るのは平生における信心決定のときである。ここにかたちなき無上仏への入り口がある。ここからかたちなき無上仏への道において、最後のかたちの超克がなされるところが臨終である。 p146~147

    *そのかたちなき法性法身は前述のようにわれわれは知ることも感じることもできない。しかし親鸞は我々に教えている----方便法身は法性法身と「一にして同じべからず、異にして分かつべからず」いう関係にあるから、方便法身と「一味」になることは{やがて法性法身と「一味」になる}ことであるということを。親鸞に従えば方便法身の誓願はかたちなき無上仏にならしめんと誓いたまえるものであり、無上仏になるのは、われわれ行者のはからいにあらず、如来のちかいのゆえにしかる(法爾)のであるから、われわれは知ることがなくてもそれは起こる。(後は自然法爾を持って来て「つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふこは、なを義のあるにあるへし、これは仏智の不思議にてあるべし」)と彼は述べている。
    p147~148

    つづく

  • >>30273

    後篇 主要概念の個別的考察

    一「往生」の思想

    p98

    (一)往生の二義

    p106

    (二) 真如

    清浄に到達したもの(如来)とそうでなくて未だ不浄でいるもの(衆生)という差別が存している。ここに如来と如来蔵(衆生=有身者)という差別がある。
    清浄に達するための「行」の立場。
    p107~108


    p109

    (三)証

    p111~p114

    p114~115

    (四) 大乗仏教の根本思想

    この思想は前に見たように果(涅槃・滅度・無上菩提)は因(正定聚・不退転の位)と異なっているとともに、また因と無異であるというように表現することができる。p115~116

    「華厳五教章」の「相即相入」を持ってくる。
    「誓願一仏乗」が因と果を結ぶ行である。

  • >>30267

    六 不退の位

    p77

    p81

    七 真実と方便

    真仏を方便法身の阿弥陀仏と捉えていた上田氏の見解は違う。弥陀如来は真実・方便兼ね備えた法身、「報身」です。

    *龍樹のいう二道の区別は、阿惟越致すなわち不退転地に至る道について言われるのであるが、親鸞の難行・易行という区別は、すでに不退転の位(信心獲得)に達した人について言われているのであるから事柄が全く違ってるのである。「真」にいることがわれわれにとって「難中の難」であるのは、人間が道徳心をも含めて、自力心を離れてしまうことが、いかに難しいことかということである思う。p91
    →死ぬ間際まで真実信心追い求めてきた上田さんの述懐ですな。
    私も真実信心に至るまでには紆余曲折、入ったと思ったら落ちての連続であり、既に45年の月日が経っていました。やっと真実信心に入れはのはここ数年の事でした。

    十八願成就の真実信心は本当に生易しいことではないです。

  • >>30269

    .

      ノロ感染、スイス選手にも=フリースタイル元世界王者

    【平昌時事】国際オリンピック委員会(IOC)のアダムス広報部長は
    16日、平昌五輪に参加しているスイスの2選手が
    ノロウイルスに感染したことを明らかにした。
    スイスのメディアなどによると、フリースタイルスキー男子で
    2015年世界選手権のスロープスタイルを制したファビアン・ベシュと、
    エリアス・アンビュール。

    ノロウイルス感染は既に警備員など150人以上のスタッフの間で広がっていたが、選手で発覚したのは初めて。
    IOCによると、2人は一時的に選手村を離れて回復に努めている。

    また、15日に平昌のホテルで警備員にけがをさせた疑いがあるIOCのアダム・ペンギリー委員(英国)は、大会組織委員長やバッハIOC会長らに謝罪し、既に韓国を離れたという。(2018/02/16-14:57)
    ttps://www.jiji.com/jc/pyeongchang2018?s=news&k=2018021600745

    .

  • >>30268

    ホムホムや

    偽善・欺瞞はてるママ譲り!

    類は友じゃよ!!


    さかなやさんも出てきたことだし、もう少しで会えるぞ!!!

    メタの再会待ち遠し ヘイトほむ

  • >>30266

    .

         アッホ  ^^v


    > もっともらしい欺瞞者。
    > お前の真似はんの極黒は言い訳はなし。
    > 偽善者ヘイトほむ見苦しさの極み。
    > メタの幕引き サンネ

    .

  • >>30264

    *親鸞においては、この「時と永遠との綜合」が成立する「時」を中心にして、過去の方向に於いて阿弥陀仏の本願成就があり、未来の方向において浄土への往生即成仏がある。こういう「時」の構造からみれば、彼の思想の体系は、この信心決定の「時」を中心として展開していくことがよくわかる。従来の浄土教が、死後の浄土を目指して進む巡礼の旅であったのに対して、親鸞の浄土教は「臨終一念の夕に往生すると同時に大般涅槃を超証する(無上仏になる)」ことに決定して、現在の常住なるものに安住する、言わば現在中心の宗教である。彼が
    「如来より御ちかひをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつへからず」と言って、従来の臨終来迎の思想を強く否定したところに、従来の浄土教との違いがはっきりと現れている。その相違は時間論の相違としてはっきり現れていると同時に、浄土という思想の相違ともなり、不退の位についての相違ともなって、思想の体系的構造が全く違うものとなっている。

  • >>30265

    もっともらしい欺瞞者。

    お前の真似はんの極黒は言い訳はなし。

    偽善者ヘイトほむ見苦しさの極み。

    メタの幕引き サンネ

  • .

       さんね お前 東哲にも同じ投稿してるだろ w

       複重投稿は マナー違反だ


       判るか ?   ^^v


    https://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/26884c7b502556dcb6513752a32c7b81/1/1209

    .

  • >>30263

    五 「時」の思想

    *またこのとき(時)が「極めて速い」というのは、どういう意味かと言えば、このと'き'に行者の上に「転ず」が起こり、行者の煩悩心が如来の善心にかわる(アクノ心がゼントナルヲテンズルナリトイフナリ)ので、煩悩心が滅して菩提心のなる(かならず煩悩のほこりとけ、すなわち菩提のみずとなる)からである。煩悩心から菩提心へと移り行きの過程には、煩悩心の滅(論理的に言えば否定)があり、それと同時に善心(願心)がおこる。自力心を離れることが、そのまま他力心の起こることになる。言わば否定と肯定とが重なる意味がある。ちょうど氷のとけるのがそのまま水のできることになるようなものである。p65
    →両重因縁の「信心の業識」の能因・内因・帰依と光明名成就弥陀仏・外縁和合により生まれ出てくる仏身・仏体で説明するといいと思う。

    *この過程は自力心が無となって、その無の所から他力心(信心)が生れる。かくして生まれた善心(他力心)は、その中に罪障の悪人を摂取しているので、「罪障と功徳の体となる(罪障と功徳とが一体である)と言われる。「こほりとみづのごとくにて こほりお'ほ'き'にみづお'ほ'し' さわりおほきに徳おほし」(和讃)と言われている。如来の願心は、生死の流れ(これは無常)を超えており、それは常住であるから煩悩心と願心との一'体'は、時間的に言えば無常と常との無'二'である。この一や無二は単純なone,singleではなく中に否定が含まれているから、矛盾的同一である。
    信心が決定するときのと'き'の構造を分析すれば、このようにはっきりした特徴を示している。この時に生死の時間は終り、それは無の中に入る。換言すればながれる時間の否定がある。それを換言すれば、時間の流れの過程に断絶(非連続)があることである。 p66

    さんね評
    →これは「横超」という無常から常住への「瞬間移動」ともいうべき超越でありこの二つは即の字で結ばれていて「断絶・非連続」などない。
    ただし去来現が一つに眼前に現成してくる世界には過去・現在・未来の時の境目が消え失せ、一如ですから、時間の世界とは異次元の世界であり、「時間が断絶」されている表現もあるかとおもわれますが、、、

  • >>30262

    四 弥陀の本願は逆悪を摂取するーーー宗教と道徳

    *「悪人成仏」とか、「悪人のための本願」とか言う場合は道徳を超えた意味の悪であって、この意味の悪人の中には、道徳的な意味の善人も含まれる。仏智や如来の功徳を呼ぶ場合の「善」と区別していうときは、道徳的な善を「雑毒の善」と親鸞は呼んでいる。道徳的な善は、煩悩に染まっている、すなわち道徳的には善人と言われる人も、煩悩をもっているから、煩悩が全くない如来の善に比べると、善と言えないからである。雑毒とは「毒(煩悩)がまじった」という意味である。如来の善に対して言えば、人間に属するものは、善・悪ともに悪てある。p59

    *これに対する「ゼン」は和讃の最後に言う「大悲心」である。「唯信鈔文意」に「自然」という語を説明して、

    過去・今生・未来の一切の罪を善に転じかえなす。転ずというは罪を消し失わすして善になすなり。

    という場合の「善」は、如来の智慧・功徳を意味しており、それに対して人間の行為は全て「罪」と呼ばれている。 p59~60

    *「親鸞は「蛇蝎奸詐の心にて 自力衆善はかなふまじ」という考えであったから、自分の努力で善をせよとは言わない。蛇蝎のような汚い醜い心で善に努めても、真実の善かできる筈がない。そういう奸詐の心で心から悔い改めると言ったところで、再び罪を重ねて、もう一度悔い改めねばならないようなことが起こらないという保証はどこにもない。二度三度と、悔い改めを繰返すことになるのいうことは、人間の「悔い改'め'」というものは、本当の意味でそれをすることがいかに困難であるかということを顕わしている。人間の悪の根深さを、奥の奥まで見透した親鸞は悔い改めよとは言わない。どこまでも真実を求めて止まない彼は、悔い改めよと言わないで、真'実'に'悔い改めることができない人間の悪性に真'実'性を見た。
    人間の悪性は、人間が自分で改めることのできないほどのものであり、ただ慚愧するほかはないということ、そこに真'実'がある。それが如来の真'実'心'(善心)と一つになるのである。悪人が如来の清浄な善心(願心)に摂取される理由がそこにある。「無慙無愧で、まことの心のない身」に「弥陀の廻向のみ名」が恵まれる。
    「無慙無愧」の身が「十方にみちたもう功徳」を具えることになるのである。 p62

  • >>30261

    親鸞は門弟のために書いた「唯信鈔文意」の中で「転ずといふは、罪をけしうしなわずして善になすなり」と説明している。 p37

    *善は他力であり、南無阿弥陀仏である。自分が他力になっている(他力と一味)という同一性の面に自分の立場を置かないで、他力と対立する愚悪の面に自分の立場を置いている。他が単に他であるに止まらず、自でもある。自でありながら、他として意識されている、というところに他力の二義性と前に言った構造が認められる。他力の二義性は、換言すれば、信心の行者の二面性---罪悪深重でありながら、如来とひとしい---を示しているのである。p39

    *功徳と罪障とが他力の中で一体(一味)であるので、他力の中に摂取された行者は「我が身の罪の深きほどをおもひ知」っているので、恥ずべし、傷むべし」と思いつつ、同時に「如来のご恩のありがたさを感謝するという日々の生活の中に、おのずから右の一体(一味)が成立して如来の功徳を得しめられる。次の和讃は彼の単なる思想ではなくて、真実信心の行者の上に自然(じねん)によって起る、あるいは起こった事柄を述べたものと私は思っている。

    五濁悪世の衆生の
    選択本願信ずれば
    不可称不可説不可思議の
    功徳は行者の身にみてり
    (浄土和讃・浄土高僧和讃)
    p41

    高僧和讃

    (一一九)
    南無阿弥陀仏をとけるには
    衆善海水のごとくなり
    かの清浄の善身にえたり
    ひとしく衆生に回向せん

    (浄土真宗聖典)
    H29年11月27日 書写

  • >>30255

    どうして罪障が多ければ功徳も多いということになるのかと言えば人間が自己の罪悪の深いことを自覚するのは、道徳の範囲ではまだ浅い。人間はどうしても自己の悪を見ることには甘くなり、他人の悪を見ることは厳しくなる傾向がある。それは人間というものがもつ自己中心性(self,centeredness,egocentricitity,etc)が、人間の存在そのものの根底をなしていて、人間の道徳的努力だけでは、これを無くすことはできない。親鸞はこのような自己中心性を、如来から廻向された智慧(これが信心と呼ばれる)によって根本から照らし見ることができたから、それが悪であることを掌を指すが如く知ることができたと思われる。この信心(真実の心)と呼ばれる、智慧の洞察(これが功徳と呼ばれているのである)が深まれば深まるほど、人間のもっている罪悪性の根強さが見えてくることが、罪障と功徳とが同時にふえることである。 p28~29

    三 他力

    *人間が証を得るための因として自力でやる行はすべて無効であるということが、親鸞の個人的経験として成立したとしても、それは親鸞の力がたらないから、その行が成就しなかったということもあり得る。(中略)自力の修行に絶望して山を下った親鸞が法然を訪ねて知ったことは、濁世末法の世には選択本願の念仏だけが唯一の有効な行てあり、他の行はすべて無力であるということが、既に法然によって明らかにされているということであった。彼が法然の教えを聞いて解ったことは、彼の叡山での自力修行が成就しなかったのは、単に彼の個人的、従って主観的経験にすぎないのてはなくて、一般的、従って客観的な真実であるということであった。p34

    *人間が自力で行う一切の行を無価値として切り捨てることができてこそ、他力仏教成立の地盤が出来上がるからである。地上の最高の権力も恐れず、敢えて全ての行を捨て去った法然の力は人間として偉大だと思うが、それは単なる人力ではなく、法然の心底深くにあった願力の力と思う。
    p35

  • >>30256

    ヤァヤァ、さかなやさんじゃないかえ~~~!

    おかえりおかえり!!

    いつでも顔だしてくださ~~~れ!!!

    メタのオカエリ さんね

  • homunさんの
    ちょいセン(^___^)
    のはなし そうなんですか

    そこまでは知りませんでした

    日本も もっと 本当の歴史を
    世界に 報道しなくてはね

    しかし 外務省は ひどい

    日中戦争も太平洋戦争も
    外務省の チョンボなんですからね!!

    チョンボばかりしている

    無能の 害務省!!

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