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    「歎異抄」について、語り合いませんか。

    「歎異抄」について、「彌陀」について、「親鸞」について、語り合える人 メッセージください。

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  • 30503 30483
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  • >>30501

    それは ヒーおじいちゃん???

    答えてみなさーれ

    メタの??? サンネ

  • >>30500

    .

       それは ヒーおじいちゃん


       零点  ^^v


    > あべちゃん?
    >
    > メタの岸信介おじいちゃん

    .

  • >>30498

    .

         おじいちゃん   ^^v


    > ほむくんは
    >
    > トランプどうおもってるの?

    .

  • >>30494

    .

       さんね お前 結局ただのバカじゃねーか w

       話しにならんわ


       ^^v
        
    > メンタルがヘイト!
    >
    > 人間改造しようね!!
    >
    > わかりますたね!!!
    >
    > メタの人間改造請負人 サンネ

    .

  • >>30493

    メンタルがヘイト!

    人間改造しようね!!

    わかりますたね!!!

    メタの人間改造請負人 サンネ

  • >>30491

    .

       メンタルが竹島を不法占拠してる泥棒民族と同じだな w


       反省しろ  バカめ   ^^v


       > メタの・・・

    .

  • >>30491

    .

       痴漢のクセに 贅沢ゆーな  アホ  ^^v


    > オモロ
    >
    > なーい
    >
    > メタのもう少しましなのどぞどぞ サンネ

    .

  • >>30488

    身体のかゆみが止まらない。

    どう掻かやーいいのさこのわたし。

    しかし

    彼岸のいりですね、もう。

  • 深夜に思うことひとつ。

    先の大戦の敗北を悲しみ

    戦後の奇跡的は復興を誇りに思い、

    バブル崩壊後の停滞混迷を憂う

    何より希望に満ちた未来を願う

    愛国の者であります、どこまでいっても。

    野にあるさんね

  • >>30485



    →既成の「言葉」にまみれることなく触れた「生の現実」、「作者の経験」と「作品」の間に横たわる深い断絶は
    作家の「言葉」、「フィクション」はたまた「思想」とも言えるもので
    飛び越えることができるし、世俗の約束事、道徳や風俗を見下している。

    こんな伝統的な「無」に呑み込まれないで、能動的に社会との連帯を目指す新しい文化、文芸はいかにして可能か?

    「自我をもっとも透明なフィルター」

    とする事で実現できるとする。

    全く逆説的であるが、伝統的な自己抹殺「無」の境地に入り、
    初めて言葉になる以前の「生のリアリティー」にふれるこのができるとする。

    自ら否定してきた伝統的な「無」という手法で、
    自己否定の上に新しい「無なる自我」をもて作らんとする「思想」は
    本当に「希望と勇気」を与え「民族の連帯」を生み出すことができるのか?

    その後の彼の苦悩の人生の根本原因はこの戦後のスタートの時期に内在していたもののようにおもわれましたが、
    代表作であり、ライフワークともいえる「漱石とその時代」で見極めてみようと思います。

    2018年9月14日 さんね

  • >>30484



    →ではこのような「人間のイメージ」「希望と勇気を与えるリアリズム」「民族の連帯」は如何にしてして実現できるのか?


    また長い引用ですが載せてみます。



    《さきほど、私が諦念、「美」、感覚の断片などによって人間を孤独にする思想を死の思想だと言ったのは別に詩的な修辞ではない。それは現実に死に導くのである。(中略)
    われわれはいつも「生きたい、生きたい」と叫んでいる。人間を死や、悲惨や、動物の方向に傾斜させるのは、すべて死の思想である。われわれは常に'も'のや環境の奴隷ではなく支配者であるべきである。
    p93
     
    本当の作家は、自分の「経験」を'完'全'に伝達し、その結果、われわれの全体的な存在の中に鳴りひびくような感動を呼びおこす人である。そういう芸当の出来る人は芸術家---作家、詩人、劇作家以外にいないのである。
    ところでこの経験というものはどうして得られるか?いうまでもなく、われわれが自分という唯一の点で
    この混沌とした世界に接触することによってである。(中略)
    われわれ一人一人がこの世界に接触してうける刺激と反応の集積---経験は、もともと唯一の、内密で共有出来ない、言葉以前のものである。
    しかし実は、われわれが通常経験と呼ぶものは世界と生々しいしく接触して得られるものではない。たいていその前にはりめぐらされた第二次的な現実である言葉の網にひっかかって、そこから投げもどされて来た結果にすぎない。誰もが世界とじかに接触出来る人ではない。その上、その新しい、唯一の経験を表現出来る人はもっと少ない。作家は本来この数少ない人々の中に属すべき人間である。作家がアウトサイダーだというのは、この存在のしかたを指さすものでしかない。このようなこのような存在のしかたをしていない作家は、アウトサイダーではなく、したがって孤立をおそれもしない。アウトサイダーは単に孤独であるばかりか、孤独を抹殺しようと意思する人である。
    作家は、それでは何によって表現するのか?無論言葉によってである。唯一の、出来合いの表現では語れない作家の'新'し'い経験と伝達されてみんなの共有な精神的財産となる作品との間には、決定的な断層が横たわっている。それをとび超えることを可能にするのは、言葉だけである。(中略)
    作家は'言'葉によって現実---経験の支配者となる。それに失敗すれば経験に所有される奴隷となって深い孤独の中に沈むであろう。

    p94~95

    フィクション=うそ、客観的真実=ほんと、などという早合点は心して避けるべきである。むしろ私は、普遍的妥当な真実は徐々に人間の知性の視野をひろげていくだけで、決して人を感動させるものではないと考える。
    感動させるものはフィクションだけである。われわれの言葉がアニミズム
    時代のものであるように、われわれの心も原始的な感動をあたえるものなしには生きられないのである。(中略)

    この言葉によるフィクション、それをわれわれは「思想」と呼んでもよい。もともと論証を目的としない言葉でかかれた文学作品は、その故に、無内容な言葉で真理を論証しようとする哲学や神学などよりずっと強力な「思想」を表現することがで出来る。いってみれは、それは論証すること自体無意味であるような、'う'そでもなければ'ほ'ん'と'うでもない思想である。そしてこの「思想」のあらわしているものは、「真実」ではなくて一つの「イメージ」である。科学的な言葉が究極的には正確な対応関係を決定する数式や論理式に用いられる記号になったように、この感動的な言葉(エモーティングランゲジ)による「思想」は、旧約聖書や「モービイ・ディック」に見られるように、逆にその細部にいたるまで、最も原始的な力に充ちている。
    それは究極的には宗教的な、といえるほどのなにものかに近づくのである。

    p97~98

    そのイメージ---思想、フィクション、何と呼ぼうと自由だが---はあの言葉以前の現実に深く根ざしてその様々な濃いヴァイタリティを樹液のように吸い上げ、第二次的な約束事である道徳律や習俗を見下している。
    (念ためにいいそえておくが道徳律に超然としているのは作品のイメージてあって作家ではない。日常的な世界に生きる人間の悪徳などイメージの悪徳に比べれば知れたものである)マクベスやキャプテン・エイハブはそのようなイメージである。かりにシェークスピアを相手に訴訟をおこしても、誰がマクベスやイヤゴーを法律で裁こうとするか?
    この例からわかるように、作家の存在は、作品に比べれば限りなく卑小なものにすぎない。自己表現などはみみっちいかぎりで、シェークスピアが実在しようがしまいがそれは作品の価値とは無関係である。伝達者としての作家の何であるにせよ、自己表現ではない。洋の東西をとわず---真の作家、詩人は、自我を最も透明なフィルターとすることに甘んじて来た。
    つまり作品によって自己の存在の条件---孤独を抹殺し、人間の連帯感の方に歩み進んで来ることに甘んじてきた。あらゆるページに自分の名をかきたがるような作家は、リチャーズによれば、アブノーマルな作家である。キーツのいったように、詩人ほど詩的でない人間はいない。同じように、
    作家ほど非小説的な存在はいないはずである。
    p99

  • >>30483



    →「無」に飲み込まれ、自然と一体化するアミニズム的な「後進性」から抜け出せないもので、偶像崇拝的であるとする。

    これに対するこれからの日本人のあるべき姿はまた長い引用ですが、江藤淳氏は次のようにいう。


    ⦅堀田善衛氏が「インドで考えたこと」(1957年岩波新書)の中でいうように、このような思想に「決定的にかけているもの」は「人間の責任という体系」であり、「責任という体系から生み出されるべき未来へかけての夢」である。しかし、つづけて堀田氏の次のような言葉に注意する必要がある。
    《その国に固有な思想---それがいかに西欧的な眼から見て、凹形の、なんでもかでも吸い込んで音もたてぬ古井戸か深い淵か流砂のようなものであろうとも、民族運動というもの、民族全体のエネルギーを結集するに足る目標がそこに存在するならば、たとえどんな厭世的、消極的、生よりも死を思索の中心とするのであっても、それを「しかるが故に生の思想」とし質的に、勢いのよい、生のよいものに転換できるのだ・・・・そのきっかけは希望だ》
    その「希望」を与えることの出来る人間の一人は、私には真の作家だと思われる。われわれは外来思想にあまりに忠実に、律儀につきあいすぎてきた。その結果、極度の外来思想崇拝と排他主義の間を彷徨して、結局西欧をも日本をも、正しいプロポーションで眺めることを忘れ、われわれの新しい可能性のありかから眼をそらせて来た。そしてあまりに多くの'も'のを、比類のない鋭敏な感覚で分断しながら描き、その中に自らを埋めて来た。この近代日本の小説の歴史は、その故に極めて貴重な、外来思想の拘束の中で、死の思想に傾斜していった日本の近代の縮図である。しかし、もう誰も律儀である必要はない。われわれの求めるものは、「感覚」でも「美」でも「真実」ですらない。それは人間としてのプロポーションを持った、唯一の'人'間'の'イ‘メ'ー'ジである。

    それは抑圧された、はけ口のない民族のエネルギーの中から描き出して、'伝'達してくれるのが、真の作家の責任である。「阿Q正伝」を古今の傑作というのは感傷的な誇張であろうが、とにかく近代の日本文学は一人の「阿Q」すらうみだしはしなかった。
    必要なのは自分の手足を自分でしばりあげているインテリの自己表現ではない。卑劣であろうが、悪徳に満ちていようが、残酷であろうが、淫猥であろうか、執拗に、虫けらのように生きている日本人のイメイジである。
    それこそ逆説的にではなく、われわれに「希望と勇気」を与えるであろう。
    むしろこれは卑小なリアリズムを超えた叙事詩的な人間像である。

    p101~102

    そして近代近代に対する疑惑の生まれる時、、いつも決まって思い出されるわれわれの「古典」は、すでにのべたようにな孤独な死の思想に、'も'のに傾いていて、その原型はぽっかりとあいた「無」であった。
    われわれの求めるのは、そのような方向に向かわない可能性である。極論すればその文学作品は、従来の因襲的規範からすれば、どんなに奇想天外のものであってよい。ただ民族のエネルギーから生まれた一つの確実な輪郭とプロポーションを持った人間のイメイジが描かれればよい。
    それによってわれわれははじめて民族の真の連帯感を得ることが出来るであろう。
    p103

  • >>30482

    奴隷の思想を排す」を読んで ①

    →江藤淳氏が1958年、昭和33年に書いたものだが、基本的な立ち位置は
    日本人の伝統文化を「自己否定」し、「主体的」に物や現実に関わり能動的に行動していく新しい日本人像を目指すものである。

    彼が分析する日本人の伝統文化は少し引用がながくなるが以下のようなものである。


    【そして時任謙作(*暗夜行路)や光源氏の前には、ぼうばくとした「無」があるにすぎない。それは「無」の中に---「自然」の中に自らを消去して行くイメージである。かつてアルタミラに描かれたような野牛は、おそらく農耕民族であったわれわれの祖先の知らない所であろう。別のエッセイの中で指摘したことであるが、われわれは行動や歴史をしるより、四季の変遷を知っていた。われわれは周囲の皮相な、しかし異常に敏感な感覚で分断された'も'のが充満し、人間は、そのかげに小さくえがかれるにすぎない。あたかも、存在し、行動し、主張することをそのものが罪悪であるかのように。そしてこのもの、'そ'れに埋っている人間も、さほど強烈とはいえない感傷のうちにあの「無」の中に吸い込まれて行く。われわれに生きることよりは死を、努力より諦念を、支配することより支配されることをおしえる。澱んだ、飢餓と怠惰と死の奴隷の思想の中に。
    日本の芸術に於いては、アルタミラの野牛の描かれていた場所に「無」がある。そこに野牛を追って、共通の目的、希望のために闘っている人間の連帯した姿はなくて、孤独なうなだれた、「無」に呑まれて行く人間の姿だけがある。】

    p101

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