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    「歎異抄」について、語り合いませんか。

    「歎異抄」について、「彌陀」について、「親鸞」について、語り合える人 メッセージください。

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  • 30653(最新)

    無依 12月12日 04:53

    メタ宗教について語り合いましょう
    No.197382
    愚連隊仲間のヘイトの投稿じゃよ…
    2018/12/12 01:06
    >>No. 197380
    愚連隊仲間のヘイトの投稿じゃよ!

    まっこと底レベルなど痴漢ストーカーじゃね!!

    自己愛性人格障害はユリ姫も同じかも知れん?!?

    ーーー
       さんね メタはお前に関係ないし

       誰が見ても バカ丸出しじゃないか w


       バカめ by 親鸞   ^^v 



    197353

    トピズレ写真連投、

    おおよそ正義などとは程遠い、自己中愚連隊の証じゃね!

    自己愛性人格障害愚連隊テルぜ一味

    と言われても仕方ないこのふてぶてしい写真連投。

    これだけの下げポチの連続はヤフー史上最悪の記録じゃないか。

    最後の日までこの不名誉な記録残して去りたいのかな?

    意地張らずに素直な気持ちを取り戻し

    最後ぐらい穏やかなトピにして終えたらどじゃどじゃ!

    メタのドジャドジャドジャース サンネ

    ーーー
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  • >>30650

    横超の金剛心

    また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。
    横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。
    横超とは、これ乃ち願力廻向の信楽、これを願作仏心といふ。
    〔願作仏心〕即ちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
    (教行信証 信巻)

    他力の者の「菩提心」とは如何にが説かれています。
    即ち
    ≪願力廻向の信楽≫が「他力の者」の《菩提心》だと。

    我が心には「菩提心」も「仏性」も何もない。
    仏になるべき種がない。
    一闡提。

    阿弥陀如来とは『仏性』そのものです。
    弥陀より廻向され来る『菩提心』こそが信心の行者の崩れざる『仏性』。

    横超の金剛心とは《弥陀如来廻向の大菩提心》であり《大信心》です。

    南無不可思議光如来

  • >>30650

    .

       さんね メタはお前に関係ないし

       誰が見ても バカ丸出しじゃないか w


       バカめ by 親鸞   ^^v 



    197353

    トピズレ写真連投、

    おおよそ正義などとは程遠い、自己中愚連隊の証じゃね!

    自己愛性人格障害愚連隊テルぜ一味

    と言われても仕方ないこのふてぶてしい写真連投。

    これだけの下げポチの連続はヤフー史上最悪の記録じゃないか。

    最後の日までこの不名誉な記録残して去りたいのかな?

    意地張らずに素直な気持ちを取り戻し

    最後ぐらい穏やかなトピにして終えたらどじゃどじゃ!

    メタのドジャドジャドジャース サンネ

    .

  • >>30649

    九願文       (平成二十四年 2012年版)
    平成二十四年九月二日~十月五日
    私度僧 三会(さんね)

    6年前の九願文最終バージョンです。

    現代人のための弥陀の本願開示のための準備とおもい、読み直しています。

    やはり

    「華厳五教章」の「事事無碍法界」に至る前までの未熟さも見えてますが、

    とりあえずここでは最後まで未修正で挙げていき、

    最後に「華厳の世界」にふれ、終わりたいと思います。

    さんね

  • >>30645

    九願文 Ⅵ 十九願

    <至心発願の願、修諸功徳の願、臨終現前の願、来迎引接の願、現前導生の願> 

    十九 設ひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、菩提心を発し、諸の功徳を修して、心を至し、願を発してわが国に生れむと欲ふて、命終わらむ時に臨みて、
    たとひ大衆と囲繞してそのひとの前に現ぜずは、正覚を取らじと。

    宗祖御真蹟 九願文 には
    *コノグワンハヨロヅノゼンヲシユシテリンジユウノライガウニアヅカルグワンナリ

    教行信証、化身土巻には

    *無量寿仏観経の意 至心発願の願 邪定聚の機 双樹林下往生 

    とあります。

    これを浄土三部経の観経に相応するものと見る。

    又四十八願のここにも見出している。

    <懈慢の浄土>
    二十八 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の菩薩、乃至、小功徳の者、その道場樹の無量の光色あて、高さ四百万里を知見することあたはずは、正覚をとらじと。

    ≪至心発願の願≫とはとりもなおさず【自力の発菩提心】のことです。
    ≪修諸功徳の願≫とは自力修行を何世にもわたり縦に越えていく行者のことです。
    ≪臨終現前の願、来迎引接の願、現前導生の願≫とはこの何世にもわたる止まることを知らぬ修行が今生を期として弥陀の本願によって終えることができるという意味です。
    ここでも今生を期として成仏が誓われているのですが、それは死を待たずしては訪れない。
    何故?
    弥陀を頼ることなく≪双樹林下往生≫つまりは釈迦と同じ菩提樹下の悟りを自力で求める故に。
    観経で説かれている釈迦の応化道、見仏、三福の自力行は決着することなく無限の円周運動を繰り返すしかない。

    これを≪邪定聚の機≫という。

    下根劣後の機、末法という期においてはもはや今生で仏となることあたわず。
    流転を繰り返すしかなく、自力では不退転の者と定まることも不可。
    故にこの者を≪邪定聚の機≫という。
    ≪懈慢の浄土≫として二十八願であげているのも≪双樹林下往生≫と同じ。
    これは次の二十願にも共通するので、ここではあげてないのだと思われるが、
    何故昼夜急作急修して頭燃をはらうごとく菩提樹の下精進してる修行者が怠け者なのか?

    【自力にばかり目がゆき、自ら己を見ることに忙しく、自らを助ける計らいに気を取られ、阿弥陀様を頼る心まるで欠如し、法恩の念仏申す暇なき故に。】

    しかし自力の菩提心を否定しているものではありません。
    誰しもここから出発します。

    自力にしろ他力にしろ≪発菩提心≫なき仏教はありません。

    特に欧米の価値観に生きる現代の日本人にはここから話し始めないといけない。
    主体性とは何か?
    自信とは何か?
    自らをたよりとせよと釈迦が遺言した「自」とは何か?
    自らをたよりなさいという「自」とは「求道」の我。
    この「我」なくして弥陀の他力もないのです。
    まずは求めなさいなのです。
    この世を離れ、我が身を厭う心なしに仏教はありません。
    ただそのまんまで良いんだなんて仏教はないのです。
    四季折々の変遷は諸行無常の美しさでそのままいただいていくなんていう美意識とは仏教は無縁だし、親鸞聖人の南無阿弥陀仏でもありません。

    「自灯明」の『自』とは
    ただ一人誰をたよることもなく、ただ如来と一対一で向き合い真理(法)を聞き求めなさい、ということです。

    まさに犀のように一人歩めです。

    南無不可思議光仏

  • >>30647

    ミチオよう来て下された、ありがとう!

    親鸞聖人の信心を最後の日まで語り、伝えていくのはわしとミチオだけじゃね!!

    今夜も続けていくからね!!!

    さんね

  • ここも
    あふぉの ホムホムくんが 出没してるのか

    テルゼは 逃走したぞ  ホムホムくん

    恥を知りなさい
    恥をーー

    逃走とまでは いかなくても 完敗なんだからさ
      わかったね

    ホムホム

  • .

       南無魔光大馬鹿私度僧 さんね

       なまんだぶ なまんだぶ


    > 南無不可思議光如来 なまんだぶつ なまんだぶつ

    .

  • >>30644

    九願文 Ⅴ 十八願成就 (3)

    「ただ五逆と誹謗正法とをば除くと。」

    「唯除」といわれ、善導は「抑止門」ということで説明します。
    これほど重大な罪であると注意を喚起し、抑止するための文であって、
    犯してしまったものも救われるとされるものですが、
    聖人の信受はもっと深い処でなされています。

    意訳すれば
    仏法の全てを知らされながら、五つの罪を犯し、仏法に背を向けた者であろ
    と、いやそういう仏になる種が絶えた者であるからこそ、一心に私を救いとり、仏となり、今も救い続けてる永遠の菩薩となったのだ。

    ここでははじめて十願の我が身に貪計しない、正定聚、等正覚の者と成らせていただけます。

    即ち信心の虚空を遮る煩悩の雲霧はもう障りではなくなり、消えうせます。

                 南無不可思議光如来

  • >>30642

    九願文 Ⅴ 十八願成就 (2)

    まさにこの末燈鈔三、親鸞の南無阿弥陀仏の至宝です。
    ちなみに私は末燈鈔の次の文の≪三会≫に増谷文雄氏が
    「仏がさとりを開いた時三度説法するを三会という」
    の註を発見して“三つの夢の出来事”は某かの如来が悟りを開いて
    私一人のために説法されたものなんだと知りました。二十四歳の時でした。
    この三度の夢告は如来直々の説法であり、この『九願文』はその信受に重要な示唆を与えてくれました。弥陀の衆生と彼の国のことあきらかになりました。
    末燈鈔
    [三]
    信心をえたるひとは、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに等正覚のくらゐとまふすなり。『大无量寿経』には、摂取不捨に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には、等正覚とときたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚はひとつこゝろ、ひとつくらゐなり。等正覚とまふすくらゐは補処の弥勒とおなじくらゐなり。
    弥勒とおなじく、このたび无上覚にいたるべきゆへに、弥勒におなじとときたまへり。
    さて『大経』には「次如弥勒」とまふすなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひはまふすなり。しかれば弥勒に同じくらゐなれば、正定聚のひとは、如来とひとしともまふすなり。浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとしければ、如来とひとしともふすこともあるべしとしらせまたへ。弥勒すでに无上覚にその心さだまりてあるべきにならせたまふによりて、≪三会≫のあかつきとまふすなり。浄土真実のひとも、このこゝろうべきなり。
    光明寺の和尚の『般舟讃』には、信心のひとはこの心すでにつねに浄土に居す、と釈したまへり。居すといふは、浄土に信心のひとのこゝろつねにゐたりといふこころなり。これは弥勒とおなじといふことをもふすなり。これは等正覚弥勒とおなじとまふすによりて、信心のひとは如来とひとしとまふすこゝろなり。
                           (石田瑞麿 親鸞全集)
    救われた尽くした安堵と慶喜(よろこび)にただただ南無阿弥陀仏。

    転じて、私には本当に何もない。

    救いの根拠となる懺悔も、信の一念も、ましてや広大難思の慶心など本当に何もないのです。
    愚痴だらけ、いつも迷い、苦しみ、怒り、嫉む私でしかない。
    弥陀の全てを知らされながら、愛欲と称賛とわが身のみの存続以外何も望まぬ素の私。
    一闡提とはこのさんねそのものです。
    だから
    一依に我をたよれと南無阿弥陀仏の真心を下さった。

    語りつくせない程遠方にいらっしゃる阿弥陀様がかたじけなくも向こうから
    この娑婆、この私へとやってこられた。
    【弥陀の全てを知らされながらも、弥陀喜ばず、背を向け逃げる私】をどこまでも追いかけてきて、『弥陀の真心、我をたよれの一念』に信楽を開発し、帰らんと願えば、即願船に乗せ金色の海を連れ帰る。
    去来現の全てがあきらかになったとわの我が家を何もかも崩れ去った此岸の岸に眼前し、普賢の徳に遵う者としてしまう。
    凄いです。
    懺悔も、信の一念も、
    ましてや広大難思の慶心もないさんねと救われつくす十八願成就でした。

    まさにあの三願転入の

    『かの因を建立せることを了知することあたわざる故に、報土に入ることなきなり。』

    逆謗の二者に一闡提を加えねば、信ならなかった聖人の心、私の心でした。
    アジャセの無根の信と大菩提心獲得。
    ここまで来て初めていただけた信心でした。

    南無不可思議光如来 なまんだぶつ なまんだぶつ

  • >>30641


    九願文 Ⅴ 十八願成就 (1)

    <念仏往生の願 往相廻向>
    十八 設ひわれ仏を得たらむに、十方衆生、心を至し、信楽してわが国に生れんと欲ふて、乃至十念せむ、もし生まれずは、正覚を取らじと。
    だゞ五逆と正法を誹謗せむおば除く。

    *「九願文」の上欄には何も記さない。
    *「至心信楽の願」 正定聚の機 
    念仏往生の願 選択本願 本願三心の願 往相信心の願

    この願だけでは親鸞聖人の南無阿弥陀仏は不十分になってしまうような気がします。

    聖人の南無阿弥陀仏は十八願成就の南無阿弥陀仏といってよいのではないでしょうか。
    まずは願成就文あげておきます。

    「諸有衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ、至心に回向したまへり。 かの国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せむ」
    (教行信証 信巻)

    さてこの王本願とも言われてきた親鸞の信心の根幹をなす十八願信受続けたいと思います。

    先ずは続けて二つの言葉拾いたいと思います。

    *しかるに経に「聞」と言ふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
    「信心」と言ふは、則ち本願力廻向の信心なり。「歓喜」と言ふは、身心の悦予の兒を形すなり。
    「乃至」と言ふは、多少の言を摂するなり。「一念」といふは、信心二心なきが故に一念と曰ふ、これを一心と名ずく。
    一心は則ち清浄浄土の真因なり。 
    (教行信証 信巻)
    *真実浄信心は、内因なり。摂取不捨は、外縁なり。
     本願を信受するは、前念命終なり。「即ち正定聚の数に入る。」文
     即得往生は、後念即生なり。   「即の時、必定に入る。」文                      「また必定の菩薩と名ずくるなり。」文
     他力金剛心なり。知るべし 
     便ち弥勒菩薩と同じ。自力金剛心なり。知るべし。
    大経には「次如弥勒」と言へり。 文      
    (愚禿鈔 上)

    そして最後に「信楽の一念」

    *それ真実の信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、
    広大難思の慶心を彰すなり。

    ≪生起本末を聞きて疑心あることなし≫

    ≪「信心」と言ふは、則ち本願力廻向の信心なり≫

    ≪「一念」といふは、信心二心なきが故に一念と曰ふ、これを一心と名ずく≫

    ≪前念命終→「即ち正定聚の数に入る」

    後念即生→「即の時、必定に入る。」「また必定の菩薩と名ずくるなり」≫

    この一念とは阿弥陀様の一念。

    阿弥陀様の真心をもってこの一念を廻向してくださった。
    『弥陀の一念』ゆえに普く全てが成就してるんです。

    この我を依(た)よれの真心、『如来の一念』を一依にいただき、信楽するゆえに救われ尽くす。

    『弥陀の一念』ゆえに『横超』というのでしょう。
    華厳経の一念、法華の一念等「一念」とは「超」を顕す言葉のようにみえますが、
    竪と横の違いありと言った聖人は、この『信楽の一念』こそ『弥陀如来の一念』であり、横であり、救い尽くしたという広大難思の『如来の大慶喜心』だといいたかったのです。
    あの浄土のひかり充ち充ちた虚空飛び交う如来の姿でした。

    過去が諦められ、未来(成仏)が定まった、去来現が同時、同処に顕れている。
    我なし、我がものなし。
    全てが明らかになった一如涅槃界。
    全てが崩れ去った娑婆の岸に真新しい永遠の我が家煌々と照らされてあり。
    虚空には弥陀如来充ち充ちて流れ星のように活き活きと慶び行きかう。

    信楽に、この如来の大慶喜の姿を「仏とならんと願う心」といただけた。

    願成就文を意訳すれば
    生きとし生けるものあり。阿弥陀様の生起本末を聞いて疑いなし。
    弥陀廻向の信心を歓喜して、「我をたよれ」の如来の一念に瞬時に信楽開発され、この信楽に我が家に帰ろうと願えば即願船に乗せられ、金色の海の中連れ帰され、弥陀のひかり虚空に満ち充ちる世界に生まれる事が出来る。
    現生正定聚の世界とはこの世界です。

    当然今生の出来事であり、
    まさに大経で現わされた阿弥陀様の誓願の真意は、来世成仏ではなく今生にてこの正定聚の者とすることであった。
    この世界で弥陀のひかりにふれ、智慧たまわり、浄化され、同化されていくんです。

    今生にて煩悩を断ぜずして涅槃を取らせ、生死即涅槃と目覚めさせ、仏とならんと尽未来際普賢の行を習修し続ける『煩悩成就の菩薩』とすることだったのです。

    帰命尽十方無碍光如来

  • >>30639

    九願文 Ⅳ 十七願

    <諸仏咨嗟の願>
    十七 設ひわれ仏を得たらむに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟してわが名を称せずは、正覚をとらじと。

    *九願文の上欄には何も記さない。
    この願は十八願と一体のもののように思います。
    十願、十一願も同様ではないでしょうか。

    *諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行
    往相廻向の願 選択称名の願 
                             (教行信証 行巻)

    *願成就文
    十方恒砂の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ。
    (教行信証 行巻)

    伝統的には「選択本願」といえば十八願だったのではないかと浅薄な知識ですが思っていたので、「行の一念」と「信の一念」を分けて捉えた聖人のオリジナリティーをこの願の命名、「浄土真実の行 選択本願の行 往相廻向の願」に感じます。

    「信の一念」にて浄土に今生で生まれても生涯続いていく信心の念仏がこの願で誓われている。

    ≪また「乃至一念」は、これ更に観想・功徳・徧数等の一念を言ふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促に就いて乃至一念と言ふなりと。応に知るべし。≫
    (浄土文類聚鈔)
    ※即ち一念をもって往生治定る(さだまる)所を「促」いふ。
     その上に命が延びてゆきて後念にわたることを示して「延」と仰せられる。
    (教行信証講義 山辺・赤沼著)

    十劫前に成就し、今も成就し続けている浄土に今生で連れ帰り、諸地成就した等正覚となし、誰よりも強く仏にならんと思う菩薩とし、
    順次生で成仏しても永遠に人々を救い続ける弥陀如来と同体の者とする。
    この瓦礫、一闡提を。

    この法蔵菩薩の行が完成したという福音ですね。

    「いま弥勒付属の一念は即ち一声なり。一声即ちこれ一念なり。一念即ちこれ
    一行なり。一行即ちこれ正行なり。正行即ちこれ正業なり。正業即ちこれ正念なり。正念即ちこれ念仏なり。則ちこれ南無阿弥陀仏なり。 
    しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に至りて、大般涅槃を証す。普賢の徳に遵ふなり。知るべしと」
    (行巻)

    行の一念
    おほよそ往相回向の行信について、行に則ち一念あり、また信に一念あり。
    行の一念と言ふは、謂く称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。
    (行巻)

    弥勒附属の一念
    かるがゆへに大本に言はく、
    [仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くを得て、歓喜踊躍して乃至一念せむことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。則ち無上の功徳を具足するなり」]
    (行巻)

    「其有得聞被仏名号」トイフハ、本願ノ名号ヲ信ズベシト、釈尊トキタマヘル御ノリナリ。
    「歓喜踊躍、乃至一念」トイフハ、歓喜ハウベキコトヲエテムズト、サキダチテカネテヨロコブコヽロナリ。踊ハ天ニオドルトイフ、躍ハ地ニオドルトイフ、ヨロコブコヽロノキワマリナキカタチナリ、慶楽スルアリサマヲアラワスナリ。慶ハウベキコトヲエテノチニヨロコブコヽロナリ、楽ハタノシムコヽロナリ
    コレハ正定聚のクラヰヲウルカタチヲアラワスナリスナリ。
    乃至ハ称名ノ徧数ノサダマリナキコトヲアナワス。一念ハ功徳ノキワマリ、
    一念万徳コトヽ゛ヽクソナワル、ヨロズノ善ミナオサマルナリ。
    「当知此人」トイフハ、信心ノヒトヲアラワス御ノリナリ。
    「為得大利」トイフハ、无上涅槃ヲサトルユヘニ、「則是具足无上功徳」トモノタマヘルナリ。則トイフハ、スナワチトイフ、ノリトマフスコトバナリ。
    如来ノ本願ヲ信ジテ一念スルニ、カナラズモトメザルニ、无上ノ功徳ヲエシメ、
    シラザルニ、无上ノ利益ヲウルナリ。自然ニサマヽ゛ヽノサトリヲスナワチヒラク法則ナリ。法則トイフハ、ハジメテ行者ノハカラヒニアラズ、モトヨリ不可思議ノ利益ニアズカルコト、自然ノアリサマトマフスコトヲシラシムルヲ、法則トハイフナリ、
    一念信心をウルヒトノアリサマノ自然ナルコトヲアラワスヲ、法則トハマフスナリ。
    (一念多念文意)

    これらの証文にてあきらかのように、
    順序からいえば始めに名号が十七願にて成就され、
    その謂れ、為し成された業が信の一念で私に届き、行の一念となり相続され
    弥陀の大行のゆえ、万徳が自然に備わり、我が身に顕れて来る。
    即ち
    「しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に至りて、大般涅槃を証す。普賢の徳に遵ふなり。知るべしと」」

    南無不可思議光如来

  • >>30634

    .

        こら さんね お前

        > お返事わ、永遠にナーシ! なんだろ ?

        やっぱり バカ だ w


        あはは   ^^v

    .

  • >>30638

    九願文 Ⅱ Ⅲ 十二願、十三願  (2)

    この等正覚不退転の正定聚の世界にて法蔵菩薩の因位の時の願心に生き生かされて、未来永劫普賢の行を行じる者と決しられたのなら現益一益でいいんじゃないか?

    いやいや衆生済度といってみたところで、心は蛇蝎のごとくなり。
    弥陀に帰依した後も真実の心あることなしの虚仮不実のこの身。
    煩悩成就しきってしまっているさんねに思うが如くなど論外で、
    弥陀の法伝え歩く姿さえ我執に侵されつくしているのを露見して、
    唯一人さえ救うことができぬ身。

    真実といえるのは、真の大悲といえるのはただ南無阿弥陀仏の名号だけ。
    まさに私という泥沼に根を生やし、大輪と咲いた白蓮華。

    無慙無愧のこのみにて
    まことのこヽろはなけれども
    弥陀の廻向の御名なれば
    功徳は十方にみちたまふ 
    (正像末和讃 愚禿悲歎述懐)

    弥陀同体のひかりとなり、決して涅槃をとらない永遠の菩薩となれる『当益』がなければ今生で始まる普賢の行の修習も如来のマネゴトのままで終わってしまう。

    歎異抄の第四段の浄土の慈悲は今生でこの不実の身のまま普賢の徳に遵う者となった者の心行であり、限りなく確かな希望であり、歓喜でもあります。
    聖道の慈悲が「機の深信」信受により諦められない限りはこの浄土の大悲(「法の深信」)にはあずかれません。
    この『かわりめ』を如来廻向の信心により横ざまに超えさせていただき
    今生で普賢の行を修習し、普賢の徳に遵う者とせられるのものと信受します。
    「煩悩具足の菩薩」というより『煩悩成就の菩薩』の誕生ですね。

    今生ではただ「ありがたや」で過ごせばよいということではなかったのです。

    南無阿弥陀仏

  • >>30637

    九願文 Ⅱ Ⅲ 十二願、十三願  (1)

    <光明無量の願>
    十二 設ひわれ仏を得たらむに、光明よく限量あて、下、百千億那由他の諸仏の国を照さざるに至らば、正覚を取らじと。
    <寿命無量の願>
    十三 設ひわれ仏を得たらむに、寿命よく限量あて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじと。

    『九願文』の上欄には
    *「コノグワンニヨリテジン十ホウムゲクワウニヨライ[ト]マフスナリ」
    *「コノグワンニヨリテムリョウジユニヨライトマフスナリ」

    *願成就文
     仏、阿難に告げたまはく、
    「無量寿仏の威神光明の及ぶことあたはざる所なり。乃至この故に無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。
     それ衆生ありて、この光に遇ふ者は、三垢消滅し、身意柔濡なり、歓喜踊躍し善心生ず。
    もし三塗懃苦の処にありて、この光明をみば、みな休息を得て、また苦悩なけむ。寿終えての後、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀して聞こへざることなし。ただわれいまその光明を称するにあらず、一切諸仏、声聞、縁覚、諸の菩薩衆、咸くともに嘆誉すること、またかくの如し。もし衆生ありて、その光明威神功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断へざれば、意の所願に随ふて、その国に生を得て、諸の菩薩、声聞、大衆のために、ともにその功徳を嘆誉し、称せられむ。
    それしこうして後、仏道を得る時に至りて、普く十方の諸仏、菩薩のために、その光明を嘆ぜられむこと、また今の如きならむ」
                            (教行信証 真仏土巻)

    「性はこれ本の義なり。言ふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、華厳経の宝王如来の性起の義に同じ。」
    (教行信証 真仏土巻)


    「真仏土巻」にはこの二つの願だけが掲げられていますが、

    聖人はこの無量無辺の影なきひかり、阿弥陀如来を
    無自性、空の智慧そのものであり、涅槃そのものであり、常楽我常であり、仏性であり、大菩提心であり、大慈大悲心であると説かれています。
    そして
    その土は法性そのものを具現化したものであり、如来の心身そのものがはたらく処だと。

    実はそれは信心獲得の時即生まれる正定聚の世界だといっているのではないでしょうか。

    信心の行者が信を獲て今生でこの無限無碍な光に遇うことができる場所。
    この無量無辺の影なきひかりが顕現してきてその身に触れ、三垢消滅し、如来の智慧、如来の涅槃、常楽我常、如来の大菩提心賜り、限りなく浄化され、同化されていく場所ということではないでしょうか。

    真仏土とは証巻冒頭のあの世界。
    流転の過去があきらかになり、仏となる未来が確定されてる永遠の今。
    尽未来際を貫き通す普賢の心いただける時空を超えた時空。

    十一願では阿弥陀如来の衆生のあり様、十二、十三願ではその器(国土)と用(はたらき)を顕かにしていると信受できます。

    虚空にはひかり満ち充ちて活き活きと飛び交い(未来成仏)、
    地には全てが崩れ去った娑婆の大地の岸に、 (過去宿業)
    真新しい永遠の我が家煌々と照らされてあり (現在普賢)。

    信を獲て今生でこの土に生まれた者の見る光景です、
    この時空を超えた時空、真仏土にて六根のこの身消えうせる時、虚空のひかりそのものになる。

    それを臨終(往生)即成仏と聖人は捉えているように見えます。

    「この中に方便と言ふは、謂く作願して一切衆生を摂取して共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。」  
    (証巻)

    この大地のひかり満ち充ちる虚空を『極楽』といっているかに見えます。

    南無不可思議光如来

    つづく

  • >>30636

    補足1
    「コノグワンハ、ホウドニムマレテ、ムジョウダイネチハンニイタルベキナリ
    (宗祖御真蹟 九願文)

    今生で既に生死横ざまに超え報土にうまれて後、未証浄心の菩薩、名づけて「煩悩具足菩薩」から畢竟じて八地以上の「法性生身の菩薩」となり、順次生にひかりそのものになり思うがごとくまず有縁の者から救い取る。
    今生での念仏者の菩薩行とはただ弥陀の為し成された業を信じ、讃嘆し、感謝し、伝え歩くことのみ。

    大事なことは今生では地にあるということ。
    あくまでどこまで行っても因縁生、業の者としてある。
    決してこの身この心が神仏の働きをするなどという神人合一や神人混合のカルトが入り込む余地など微塵もないということ。

    ありがたいことです。

                 南無不可思議光如来 

    補足2
    念仏伝え歩く「煩悩具足菩薩」は真実の帰依生じて、阿弥陀様の心そのものをいただいていきます。

    阿弥陀様のお心とは大悲心です。
    大悲心とは度衆生心です。
    浄土に到達する行を与え、連れ帰り、生まれさせ、一切智を与え、真実一如に目覚めさせ、救わんとする真心です。

    念仏の者は自ら己を励まして、自らの力で涅槃を獲た者ではありません。
    弥陀より賜りたる南無阿弥陀仏の真心によってこの果報を獲た者たちです。

    未証浄心の「煩悩具足菩薩」の賜りたる弥陀の大悲は、『自信教人信』という『度衆生心』となり具現化してきます。

    この心そのものが仏と成ります。この心以外仏となる心ありません。

    これ『他力の大菩提心』というものです。

    おおよそ自力にしろ、他力にしろ仏とならんとする≪菩提心≫なきところに仏教はありません。

                 なむあみだぶつ

    補足3
    私は唯円の全てを否定しているのではありません。
    まず何処に親鸞の念仏、教行信証に照らして違和感を感じるかということです。
    歎異抄[十四段]の
    《そのゆへは、弥陀の光明にてらされまひらするゆえに、一念発起するとき金剛の信心をたまひぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて、命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり》

    【命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて“無生忍”をさとらしめたまふなり】

    まずここでこの人の念仏は違うのではないかとはじめに引っかかったのです。
    “無生忍”は「無生法忍」とも言い、親鸞の「教行信証」においては今生で得られる利益です。
    この益を来世に持って行くのは法然の教義なのではないでしょうか。

    次に決定的にこれは違うと確信したのは

    「第十五段」
    《いかにいはんや、戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦界をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてさふらへ。》

    唯円の南無阿弥陀仏では凡夫は今生では阿弥陀様の願船の中にいて運ばれているということです。
    これでは
    十一願成就の世界が没落してしまって真仏土の光景が死んでしまうのです。

    『報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、』

    親鸞の南無阿弥陀仏に於いては、ここまで今生にていけます。

    十一願成就の世界では煩悩あるまま涅槃(さとり)が得られています。
    〈十願の我が身に貧計せず〉を煩悩断じて我が身に執着せずと唯円は読んでいるのだと思いますが、これが違うのです。
    この願は先にも述べましたが“機の深信の願”とも名付けられるべきもので、煩悩を断じきれない我が身に拘らなくなるということです。
    だから四十八願には五つの神通力は誓われているが〔漏尽通〕が誓われていないのです。〔漏尽通〕とは煩悩を断じ切れたと確信出来ることですが、
    その代わりにこの二つの願が成就され、廻向されて来ます。

    つまりは煩悩のまま障りとならず、いやなるどころかその種となり、この拘り、苦しみから解き放たれ、即ち黒雲は晴れ、ひかりそのもののになって虚空を飛び交うのではなく、
    {法性の覚月すみやかにあらはれて}は影なきひかりの大地に立って(彼岸)です。
    地にあって無常無我、を知らされる身となり、常しえの我が家、全てが崩れ去った無常無我の大地の岸に与えられ、如来と等しい者としていただけている。
    真の帰依が生じて一切の衆生を利益せんとの弥陀の大願大悲を仏にならんと願うこころといただける。
          衆生済度の弥陀の“度衆生心”に生かされる他力の菩薩、
    『煩悩具足菩薩』の誕生です。

    この心が仏となります。この心以外に仏となる因はありません。
    過激なこと書きますと、この信心、この心頂けぬ者に「往生(臨終)即成仏」の利益はありません。
    死後に浄土に生まれて、そこで修行して後仏になるという浄土宗の念仏になってしまいます。

    ここを唯円のまま引きずるから本願寺教団の還相廻向は死んで仏になってからという誤った教義となってしまいます。
    もうはっきりと唯円の南無阿弥陀仏と決別する時が来ているのだと思います。

    南無不可思議光如来

  • >>30635

    第十一願 (2)

    願成就文
    それ衆生ありて、かの国に生るれば、みな悉く定聚の聚に住す。所以はいかん。かの仏国の中には諸の[邪]聚および不定聚なければなり
                          (教行信証 証巻 大経・下)

    また論に曰く
    「「荘厳清浄功徳成就とは、偈に、
    観被世界相、勝過三界道の故にと言たまへり。」
    これいかんが不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。
    則ちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いずくんぞ思議すべきや」。
                            (教行信証 証巻)

    「かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥オンの道に次し。
    それ諸の声聞、菩薩、天、人、智慧高明にして、神通洞達せり。咸く同じく一類にして、 形異状なし。ただ余方に因順するが故に、人天の名あり。顔貌端政にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天あらず人にあらず、みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり。」   
    (教行信証 証巻)    

    これらに前回引用したこれ重ねてみてください。

    「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。
    必ず滅度に至るは即ちこれ常楽なり、常楽は即ちこれ畢竟寂滅なり、寂滅は即ちこれ無上涅槃なり、無上涅槃は即ちこれ無為法身なり、無為法身は即ち実相なり、実相は即ちこれ法性なり、法性は即ちこれ真如なり、真如は即ちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。」              
    (教行信証 証巻)

    浄土の構造がわかってきます。

    煩悩成就のまま弥陀の心行を獲れば即往生する。
    今生にてすでに往生するのです。
    そして
    その時私は虚空にあらず。
    あの法華経の虚空会のように虚空の中に身を置かず。
    これとっても大事なことです。

    私がかねがね使ってきた「地にあって」という意味分かってください。

    「地にあって」とは正定聚の者、言い換えれば煩悩成就の者としてそのまま正定聚の者と浄土に生まれてるのであって
    虚空舞う如来、菩薩などではない私という意味です。
    この私がそれに終わらず「地にあって」言いかえれば「未証浄心の菩薩」が
    八地以上の平等法身、法性生身の菩薩そして滅度して仏身を得、如より来生して種種の身を現じる者へと転じられている。

    {初}地にいながら
    既に弥陀の十一願成就故に、同時同処ですでに還相の如来まで獲得できてしまう「地にあって」なんです。

    要するに知らされ信じ歓喜してかの国に生まれたいと願ったその瞬間に生死をすでに超えさせていただいている。
    もうそこは死後も生前もない一如界。
    {初}地にあってもうすべてをいただけている不思議なんです。

    過去を諦められ、未来が明らかになった、永遠の今。

    浄土とは流転の過去があきらかになり、仏となる未来が確定されてる今。

    去来現が同時、同処で成立してる常しえの時空。

    因縁生である故に過去、現在、未来のある身なんですが、
    この常しえの時空において初めて業(因縁生)から解き放たれる者となっている。

    過去、現在、未来の時間が消滅し、自他の境目が無くなった永久無量無辺の一如界。
    不可称、不可説、不可思義な如来の世界です。

    これ涅槃が具体的な姿として顕現してる阿弥陀如来の浄土、涅槃界です。

    何物にも動じない、崩れざる、とわのやすらぎの我が家が目前に与えられています。

    信じて願うだけで私たちは煩悩のまま涅槃を得られます。

    この言い尽くせぬ不思議は弥陀の生起本末をわが身に聞きえて、一依に帰依することで開かれてきます。

                 南無不可思議光如来

  • >>30634

    九願文 Ⅰ 第十一願 (1)

    <必死滅度の願>
    十一 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじと。

    『九願文』の上欄には
    *コノグワンハ、ホウドニムマレテ、ムジョウダイネチハンニイタルベキナリ

    まずは六神通と言われてる悟りに至ったものが得る神通力。
    宿命通 天眼通 天耳通 他心通 神足通 
    漏尽通(自己の煩悩が尽きたことを知る能力)

    <宿命通の願>
    五 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、宿命を識らずして、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじと。 

    <天眼通の願>
    六 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、天眼を得ずして、下、百千那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚をとらじと。

    <天耳通>
    七 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、下、百千億那由他の諸仏の所説を聞かず、悉く受持せざるに至らば、正覚を取らじと。

    <他心通の願>
    八 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、他心を見る智を得ずして、下、
    百千億那由他の諸仏の国の中の衆生の心念をしらざるに至らば、正覚を取らじと。

    <神足通の願>
    九 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、神足を得ずして、一念の頃におひて、下、百千那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らずば、正覚をとらじと。

    以上のように五から九願までで五つの神通力は誓われてるんですが、

    漏尽通(自己の煩悩が尽きたことを知る能力)だけが出てこない。

    これとても阿弥陀様の浄土の特徴あらわしていることだと思うのです。

    他の仏のいずれの浄土も煩悩ある者は住めない世界。

    この阿弥陀様の浄土だけは煩悩ありの灌頂の王子、
    即ち今はまだ仏ではなく未来において必ず仏となると授記された者。
    即ち声聞、縁覚、煩悩の人、天、それから仏になれないとされている一闡提まで生まれ、住んでいる。

    だから「漏尽通」が誓われていない。
    代わりにこの二願が誓われている。

    十 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、もし想念を起こして身を貪計せば正覚を取らじと。

    <必死滅度の願>
    十一 設ひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじと。

    この十願は我執から解放された姿を言っているのではなく、
    この我執に囚われて絶望などと生易しいものではなく、それを通り越し
    「悲歎」するしかない、懺悔も出来ぬ身をあれこれと沙汰しなくなるという意味ではないでしょうか。

    究極のまんま主義といえるかも知れません。

    名づければ「機の深信の願」と言ってもよい大事な願になっていると思います。

    それに続いて十一願。
    これ他力の不退転地をあきらかにしたものです。
    即ち今生での初地、歓喜地から八地を経て十地を超えた等正覚の世界まで含み、順次生成仏まで刺し貫く大信心海を開示したものですね。
    名づけて「法の深信の願」といってもよいのではないでしょうか。

    煩悩断じてない故に仏ではない身。
    これ唯円は正しい。
    しかし等正覚の者は如来と等しい者。
    即ち
    如来の知見、涅槃を信心として賜っている者。
    涅槃を会得させられてる者。
    ここが唯円が今一の所。

    「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。
    必ず滅度に至るは即ちこれ常楽なり、常楽は即ちこれ畢竟寂滅なり、寂滅は即ちこれ無上涅槃なり、無上涅槃は即ちこれ無為法身なり、無為法身は即ち実相なり、実相は即ちこれ法性なり、法性は即ちこれ真如なり、真如は即ちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。」                  (教行信証 証巻)

    これよく味わってみましょう。
    地にあって如来と等しい涅槃の中で自らの未来を確信、体験してしまってる。

    私のいう

    過去を諦められ、未来が明らかになった、永遠の今

    これ今生で生まれる十一願の正定聚の世界です。

    死んでみなければあの世のことはわからないというのは嘘です。

    この正定聚の永遠の今に未来は確信され、どのようなものかを知らされています。

                  南無不可思議光仏

  • >>30633

    残り少ないヤフー掲示板の日々。
    最後に現代人への弥陀のメッセージの下書きみたいな「九顔文」挙げていきます。

    ーーー

    『九願文』とは仮称であり、大谷大学蔵の『宗祖御真蹟』です。
    この『九願文』は「第十八願成就文」を九つの願に開き示し、解り易く説いたものです。
    東西本願寺の聖典には載せられていないものです。
    何故載せられてないのか不明ですが
    親鸞聖人の信心を理解する上で非常に重要なものです。

    私の信受を書いてみます。

    つづく

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