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東洋哲学

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  • 2015/05/14 23:11
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    2002年 6月30日 池田大作先生の指導

    80歳を越えたら、仏法で説く「不老不死の事」、永遠に広布の指揮を執る。

    私に残されているのは、あと数年。「急げ!急げ!急げ!」との思いだ。
    今、遺言と思って、数々の著作を書いている。

    一番伝えたいことは、「心ひとつで、どうにでもなる」という事を教えたい。
    不況の空の上にも『諸天善神』はいる。「天まで届く題目」をあげれば、必ず
    「食」と「健康」を得る。私は心に福運をつけて、一切を開いてきた。

    昭和25年、戸田先生と東京駅前の丸ビルを見て、先生が「大ちゃん、
    ああいうビルを学会も建てたいな」と言われた時、私は「必ず、造ります」
    と言ったんだ。しかし、ポケットの中には「10円玉」が一つだけしかなかった。

    戸田先生が事業の倒産の時だった。仕事の残務処理で頑張っていた時、
    戸田先生から「大作は本当によくやってくれているな。勲章をあげよう」と言われ、
    花瓶にあった花を胸のポケットに挿してくれた事があった。

    みんなは笑っていたが、私は家に戻った時、御宝前に、その花をあげて、
    題目をあげた。
    そして「これは、私が世界中から勲章をいただく瑞相だ」と思った。(今では)
    その通りになった。

    信心は算数ではないんだ。
    「なんで、こんな給料で生活ができるんだ」と思ってもできてしまう。
    それが、「秘術」なんだ。心を磁石にするんだ。何万ボルトの磁石にして、
    欲しいものを、宇宙から集めるんだ。「さいわいを万里の外よりあつむべし」なんだ。


    【法華経を信じる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし】 (十字御書)

    http://www.sokanet.jp/info/gaiyo.html

    http://www.soka.ac.jp/about/founder/honorary/index.html

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  • 【釣り師】
      ID:「fgnxs416」⇒「シャイ~ん」⇒「シャんイ~」
        (IDを変え、スレを徘徊しています。)

      勧誘が目的の為、注意が必要です。


    -クチコミ①(「cafe憩☆心☆唯【fgnxs416(汚爺惨)】排除戒」/No.211)-
     fgnxs416からシャイーんに変わっても、未だに馬鹿さ加減を発揮してる。
     さあ、皆さん被害を受けた方はヤフーに違反通告をしましょうね。
     鬱などの病気を診る場合、医師免許を必要としてます。
     が、fgnxs416ことシャイーんは医師免許を持っていないようです。
     なのに治療をしようとしています。

    -クチコミ②(「人間不信になりそう!」/No.23)-
     鬱などの病気を治してあげたいのであれば、先ずは医師免許を取得しなさい。
     医師免許がなければ診察行為は出来ないし、その他臨床心理士など保有しなさい。
     そして貴方の治療法を掲げれば良い。
     信用性と信憑性が全くないのよ。
     医師免許も臨床心理士も取れないのは、貴方の信用度は全くなし。
     だから荒らし認定され、誰も相手はしてくれない、しないの。

    -クチコミ③(「一言だけ」/No.35259 )-
     シャイーンに救われた人居ますか?居る人教えてください。


    ※無視リストへの登録をお勧めします。

  • ガンジーキング池田は、大阪の人と言っていたな・・・・

    こんどの台風27号

    天誅のため

    大阪に、甚大な被害をもたらそう

    せいぜい、懺悔を請うんだな、仏教かぶれども

  • あのさ、例えば、貴方の買った車がいつまでも新車同様だったら、
    貴方は、その車を大切にするでしょ!!!
    でも、大金をはたいて買った車が欠陥だらけだったら!!!
    廃車にするか、購入先の会社を訴えるはずです。

    要するに、ガタが来るから争いは、起こるのです。

    いつまでも、新車同様なら、あえて争いは起こしません。

    人間も同じこと、新車同様の修理と保障を施すのが

    大いなるシーレン、アルゴモアの大王、イエスキリスト。

  • くたばるには早過ぎます。

    生き残ったものたちから、言いたい放題言われますよ!!

    はやく、帰ってきてください。

  • 1999年に私を挑発するため、遺伝子組み換え推進に
    2兆円の予算を組むように指示した池田大作も死んだ、

    衆議院選挙沖縄一区で、私の立候補を陰湿な手口で
    散々妨害した白保台一も死んだ、

    そして、私を散々嘲笑った、ガンディ・キング・池田も死んだ、

    創価学会ども、わたしにたてつくとどうなるか

    これからもっと思い知る事になるだろう。

  • いかに、から知識・無駄知識を露呈しても

    結局生物は、遺伝子DNAには

    かなわないんだよ!!!

  • >>320

    元気です。
    最近、ガンジー・キング・池田さんの書き込みがないので
    とても心配しています。
    やはり、生物にとって最大の宝は長寿健康だと思います。    シーレン

  • 「弘教」について、日蓮大聖人は、諸法実相抄で「我もいたし人をも教化候へ……力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)と仰せられています。

    また寂日房御書では「かかる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり(同903ページ)と言われています。

    勤行をして自分自身だけが境涯を変革するのではなく、自他共の幸福を目指して、一文一句でも仏法のことを友に語っていくことが大切です。

    それによって、自らの信心を更に深めることができるとともに、万人の成仏のために戦う仏や菩薩の境涯を自身の命に呼び起こし、大聖人の真の弟子となっていくことができます。

    勤行とともに、弘教の実践が、自身の生命変革への大きな力となっていくのです。

    また、法華経には「能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」とあります。

    この文を踏まえて、大聖人は「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」(同1121ページ)と仰せです。

    すなわち、私たちの化他行は、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い(如来の事)を実践する行為なのです。

  • >>318

    1970年代に池田大作先生がアーノルド・J・トインビー博士との対談で
    もし、生まれる前に重い障害が出る、という特殊なケースであれば
    中絶もやむをえない部分もある、という趣旨の対話をされていますね。

    詳しくは「二十一世への対話」(上~下)の三冊を参考にしてみてください。
    アマゾンでも入手可能です↓
    http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%80%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E8%81%96%E6%95%99%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BBJ-%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC/dp/4412012131/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1367196910&sr=8-1&keywords=%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%80%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A9%B1

  • もし、貴方の女房が羊水検査で、重度の障害をもった子供が産まれれ来ると診断されたとき

    貴方は、中絶をすすめますか?

    それとも、絶対、産むことを勧めますか?

    偽善をとりはらい、真摯な気持ちでお答えください。

  • 「勤行」とは、御本尊に向かって読経・唱題することをいいます。これが生命変革の具体的な実践の一つです。

    日蓮大聖人は、勤行を曇った鏡を磨くことに譬えて次のように仰せです。

    「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、
    只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、
    深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき
    只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(御書384ページ)。

    この譬えで示されているように、鏡自体は磨く前も磨いた後も同じ鏡であり、別のものに変わるわけではありませんが、働きは全く違ってきます。

    同じように、私たち自身も、勤行することによって決して別の人間になるわけではありませんが、生命が浄化され、その働きが大きく違ってくるのです。

    日寛上人は、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と述べています。

    すなわち、勤行の実践によって、私たち自身の生命に一念三千の御本尊が顕現し、末法の御本仏・日蓮大聖人と同じ智慧と力が顕れるのです。

  • 日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。

    それとともに、各人の生命境涯の変革を通して社会全体の平和を達成することを目指しています。大聖人は、平和実現のための原理を立正安国論のなかで示されました。

    「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」と読みます。

    「立正」とは人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、また、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されることです。

    「安国」とは社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現することです。

    立正安国論における「国」とは、権力を中心にした統治機構という面とともに、より一歩深く、民衆の生活の基盤としてとらえられています。

    その意味で、人間が形成している社会体制だけでなく自然環境の国土も含まれます。

    大聖人が民衆を中心に国をとらえられていたことは立正安国論の御真筆において、国を意味する漢字を書かれる多くの場合に「国構えに民」の字を用いられていることにもうかがうことができます。

    立正安国論は、直接的には当時の日本の安国の実現のために著された書ですが、その根底となっている精神は、民衆の安穏の実現にあり、したがって、未来永遠にわたる全世界の平和と人々の幸せを実現することにあります。

    また、大聖人が当時の人々の苦悩を解決するため、立正安国論を著し、権力者を諫められたこと自体、仏法を行ずる者はただ自身の成仏を祈って信仰していればよいのではなく、
    仏法の理念・精神を根本にして、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを身をもって示されたものと拝察できます。

    創価学会が、今日、仏法の理念を根本に、平和・文化・教育・人権などの分野で、地球的課題の解決に取り組んでいるのも「立正安国」の法理と精神に基づく実践にほかなりません。

  • 法華経勧持品第十三の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち三類の強敵が出現することが示されています。

    その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢(僣聖増上慢とも書く)、と名づけられています。増上慢とは、いまだ悟っていないのに悟りを得た等の種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも勝れていると思う人をいいます。

    第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な衆生をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈等を浴びせ、刀杖で危害を加えることもあると説かれています。

    第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。

    第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貪り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。その手口は、国王や大臣等に向かって、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言し、権力者を動かして弾圧を加えるように仕向けるのです。

    悪鬼が身に入ったこれらの迫害者たちによって、末法に法華経を持つ人は、何回も所を追われたりすると説かれています。

    このうち、第1と第2は堪え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体はなかなか見破り難いからです。

    この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、必ず現われてくるものです。

    日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。

  • 法華経見宝塔品第十一では、六難九易を説いて、滅後に法華経を受持し、弘めることが困難であることを強調し、菩薩たちに、釈尊滅後に法華経を弘通する誓いを立てるように勧めています。

    「六難」とは、滅後に法華経を(1)説き、(2)書き、(3)読み、(4)一人のために説き、(5)意義を問い、(6)受持することが困難であること。

    「九易」とは、例えば、「須弥山を他の無数の仏土に投げ置くこと」「大地を足の甲に置いて梵天まで登ること」「乾いた草を背負って大火の中に入っても焼けないこと」「ガンジス河の砂の数ほどの経典を説くこと」などの九つです。

    ここで九易として挙げられている九つの事例は、いずれも、普通ではとても為しえないことですが、滅後悪世に法華経を弘める六つの難事に比べれば、まだ易しいことであると説かれているのです。

    このように説いて、至難中の至難事である滅後悪世の法華経弘通を勧める仏意を強く示しているのです。

  • 地涌の菩薩とは、法華経涌出品第十五で、釈尊が滅後弘通のために大地から呼び出した無数の菩薩をいいます。大地の底から涌き出たので地涌の菩薩といいます。大地の底とは、真理の世界に住していたことを意味します。
    この地涌の菩薩の数は六万恒河沙です。「恒河」とはインドのガンジス河のことで、その砂の数を一恒河沙といいます。その一恒河沙の6万倍の菩薩が出現し、しかも、それぞれが無数の眷属(=従者、仲間)を率いているのです。
    経典には、釈尊を25歳の青年とすれば、この地涌の菩薩は100歳の翁に譬えられるほど、仏以上の立派な姿をしていたことが説かれます。
    この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊に教化され、“成仏のための根源の法”をすでに所持しており、釈尊と同じ仏としての生命境涯を持ちながら、菩薩の姿で悪世末法に妙法を広宣流布していく使命を帯びているのです。
    この地涌の菩薩は、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という4人の導師(=衆生を導くリーダー)に率いられています。
    そして、上行菩薩らは、法華経神力品第二十一において、仏の滅後に真実の大法を弘めることを誓います。これに対して釈尊から滅後の弘教を付嘱されます。付嘱とは、未来に法を弘通することを託すことです。
    大聖人は、虚空会の説法の内容全体から、地涌の菩薩が出現する時は、滅後の中でも悪世末法であり、弘める大法とは南無妙法蓮華経にほかならないことを明かされています。
    この付嘱通りに末法の初めに、先駆けて南無妙法蓮華経を弘通された日蓮大聖人が上行菩薩にあたります。
    また「諸法実相抄」に「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(御書1360ページ)と仰せのように、日蓮大聖人の教えを信受して、大聖人の御精神の通り広布の実践に励む私たち一人ひとりも、すべて地涌の菩薩であり、末法の御本仏・日蓮大聖人の本眷属なのです。

  • 2012年4月号 (41ページ)

    本「勝利の経典「御書」に学ぶ」


    ある時、戸田城聖先生は、獄中闘争で勝ち得た
    ご自身の境涯について、こう言われました。

    「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。
    そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人に、あげてもあげても
    出てくるんだ。尽きることはない。
    君たちも、こういう境涯になれ。なりたかったら、法華経のため、
    広宣流布のため、りょっぴり牢屋に入ってみろ」

    そして、「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために
    骨身を惜しまず、戦うことだ」

  • 人を好きになるのも、“きれいだな”と思うのも自由、お付き合いするのも自分の意志であり、本来、人がとやかく言うものではないかもしれない。

    ただ、人生の先輩として、皆さんに語っておきたいことは、「自分自身を大きく育てていく」という根本軌道を忘れてはいけないということです。

    「恋は盲目」といわれるように、ともすれば、自分を冷静に見るゆとりがなくなってしまうのも恋愛の現実です。親に心配をかけたり、非行的になったり、勉強をおろそかにするようでは、お互いが「魔」になっている。お互いが傷つけ合うことになっては不幸です。

    大事なことは「あの人がいるから、もっと勉強しよう」なのか、それとも「勉強よりも、あの人」なのか。

    今、自分たちは何をすべきか、その目的を忘れての付き合いは邪道です。目的を達成させようという、励まし・希望を持ち合っていくことが大切です。恋愛は、感動し、元気になり、希望を生み、生き抜く源泉とならなくてはいけない。

    『星の王子さま』の著者であるサンテグジュペリは、「愛するとは、互いに見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見ることだ」と言っている。

    “恋愛さえうまくいけば、他のことはどうでもいい”という「恋愛至上主義」になったり、“どんどん深みに入って傷つくことも美しい”といわんばかりの「無責任な恋愛論」にだまされてもいけない。

    恋愛には“ときめき”があり、ドラマがあるように思える。自分が小説の主人公になったような気がする。しかし、面白くないからといって、歩むべき軌道を外れて、恋愛に飛び込んでも、それは逃避です。夢を見ているようなものだ。夢は、見ている時は本当だと思っている。

    しかし、恋愛に逃避しても、実際には、楽しいことばかり続くはずがない。むしろ、だんだん苦しいこと、悲しいことが増えてくる。どんなに逃げても、自分からは逃げられないからです。弱い自分のままでは、どこまで行っても、苦しみしかない。自分で自分を変えないで、喜びはないのです。

    幸福は誰かが与えてくれるのではない。恋人が与えてくれるのではない。自分が自分で幸福になっていくのです。そのためには、「自分を大きく育てる」しかない。「自分を十分に生かす」しかない。自分の成長や可能性を犠牲にして恋愛をしても、絶対に幸福はない。

    自分を十分に生かすことによって得られる幸福こそ本物です。

  • 日蓮大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています。

    これは、正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法(誹謗正法)こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられているのです。

    謗法の行為は、妙法に対する不信・違背の心から起こります。そして、妙法への不信・違背の心が、あらゆる悪業を生む根源悪なのです。

    この妙法に対する不信・謗法という根本的な悪業を、妙法を信じ、守り、弘めていくという実践によって今世のうちに転換していくのが、大聖人の仏法における宿命転換です。

    そして、その実践の核心が南無妙法蓮華経の題目です。

    大聖人は「衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」という普賢経の文を引いて、自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、
    南無妙法蓮華経の題目の慧日(智慧の太陽)にあえば、たちまちのうちに消し去ることができると言われています(御書786ページ)。

    御本尊を信受して自行化他にわたる唱題に励み、自身の胸中に太陽のような仏界の生命が現れれば、さまざまな罪業も霜露のように消えていくのです。

  • 人生のなかで出あう悩みや苦難はさまざまです。

    そのなかには今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。

    “自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこのような苦しみを受けなければならないのか”と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。

    仏法では、このような苦難は、過去世において自分が行った行為(宿業)の結果が今世に現れたものであるととらえます。

    「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。

    この宿業には、善と悪の両方がありますが、今世の苦悩をもたらす過去世の悪業を宿業という場合が多いと言えます。

    仏法では、“三世の生命”あるいは“三世の因果”を説きます。すなわち、生命は今世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるものであり、
    過去世の行為が因となって現在世の結果として現れ、また、現在世の行為が因となって未来世の果をもたらすと見るのです。

    過去世に悪因があれば今世に悪果(悪い結果)があり、善因があれば善果があるとするのが、仏教一般で言われる宿業の因果です。

    しかし、これで終わってしまっては、現在の苦しみの原因はわかっても、それを変革することはできず、未来世にわたって生死を繰り返しながら清算していく以外に道はないことになります。

    このように、宿業の考え方は、往々にして希望のない宿命論に陥りやすいのです。これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。

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