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  • 中学生の時から数学が苦手でした。
    わからない問題があると先生にも親にも
    「よく考えれば解けるはずだ、がんばれ!」と言われ、
    1時間も2時間も頭から湯気が出るくらい考えても、
    やっぱり解法が思い付かない。。。
    「お前はすぐに解説を見ようとする。自分の頭で考えないから進歩しないんだ。もっと粘り強く考えろ!」と言われ、
    同じ問題を粘り強く1か月間考えたこともありました。
    でも、結局、自分の頭だけでは解けませんでした。
    結局、数学(理系)は選択肢から外し、私立文系の大学に入りました。
    でも、自分がバカじゃないと思ったのは、できなかったのは数学だけで、
    英語も国語も社会も、理科でさえも成績は良く、
    私立文系の中では難関と言われる学校に入れました。
    それから大人になり、見識も広がり、今思うことは、
    数学って、限られた試験時間の中で解法を思い付くか思いつかないかが、
    勝負のすべて。
    思い付いたら、方程式を書き始めて、展開して、
    答えがそのあとに「出て来る」もの。
    別に論理的に考えたから正解に辿り着いたワケではなく、
    解法をひらめくか、ひらめかないか、の世界だと思うのですが。
    哲学の世界では、論理実証主義者が「発見の文脈」と「正当化の文脈」なんて言葉を使いますが、
    まさに解法を思い付くのは「発見の文脈」、方程式を展開するのが「正当化の文脈」。前者には論理的な思考も何もないのだと思います。
    よく数学の得意な人が「論理的に考える訓練をしたからだ」と言いますが、
    その言葉は欺瞞ですよね?
    問題が解ける人は、「なんとなく解法が思い付いて、なんとなく方程式を展開してみたら、あら不思議、解けた!」
    というだけのことではないでしょうか。
    グルメな人にはキャビアのおいしさを認識できるけど、
    味オンチの人にはそれが認識できない。
    数学の得意な人は解法を認識できるけど、
    苦手な人は認識できない。
    目のいい人と目の悪い人。先に見えるものが違う。
    結局、それだけの差だと思いませんか?
    そういったこと自体が試験という社会的選抜の評価の道具に用いられること自体に不条理を感じます。
    賛否両論あれば面白いと思います。
    いろいろお聞かせください。

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  • 14 1
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  • >>12

    直観的な人は教育によっては論理的になれないというのは、人は自意識を持つ前に思考しているからです。要するに自分が考えているわけではないので、若いうちに思考方法を変えるのはまず無理でしょう。前頭葉のごく一部に自我の座があるのみで、脳のそのほかの部分は機械とほとんど同じ仕組みだとみることができるそうです。この部分に変更を加えるのには長い期間の修行のようなものがいると思います。

  • >>8

    「ひらめき」というのは、おそらく質問者さんが考えているよりも複雑だと思います。「ひらめき」が公式化されれば、人間と人工知能の差がなくなるのではないでしょうか。

    質問者さんは「ひらめき」を「ある」「なし」で考えていませんか?実際はそんな単純なものではないはずです。「ひらめき」を得るためには、それなりの前提知識や経験が必要でしょう。たとえば、「log」の記号も知らないのに、対数の問題を見て「ひらめく」ことはできないわけです。ですから、「ひらめき」をテストしているように見えても、それは同時に「ひらめき」に至るまでの「努力やキャパシティ」をテストしているとも言えるわけです。

    それに、世の中には「文系科目は1時間努力すれば1時間分進歩がある」と言える人ばかりではありません。いくら努力しても進歩しない人もいます。数学のほうが文系科目よりも努力しがいのある人だっているのです。

    そもそも、試験における「フェア」とはどういうものなのでしょうか?

    個人的な経験則を、無根拠に一般化しているように思えます。

  • 数学が得意な人が論理的な訓練をしてきたからだというのは、別段欺瞞でもなんでもなく、論理的になれたから数学が得意になったのだと思います。直観的な人は論理的になれないので、論理的になる訓練もできないで酔う。まあ、性格によるとしか言いようがないでしょうね。

  • >>9
    >で、問題提起である社会的評価基準の適否の話だが、反問すれば
    >それ以外のどのような社会的評価方法があるのか?という一言に尽きる

    これはその通りだと思います。ただ、揚げ足を取るようですが、その前提として「受験数学の学力と、論理思考力」がある程度「比例」することが必要ではないでしょうか。「比例」と言っても厳密な意味ではなく、「正の相関」みたいなことですが。

    個々に見て行けばその相関から外れた人もいるわけです。スレ主さんはレアケースなのかもしれません。

    ただ、「先生にも親にも~」「自分がバカじゃないと思ったのは~」などの表現から、数学に対する苦手意識がかなり強いことが読み取れます。おそらく、数学の時間がかなり苦痛だったのではないでしょうか。

    (受験)数学というのは、精神的なことが結構影響を与えます。私の経験則ですが、難しい問題を見たときに「思い出そう」とすると、たいてい失敗します。そんな場合は、「忘れたことはしかたない」とサッサと諦めて、「問題」そのものを見て、その場で考えます。「思い出そう」とする脳の働きは、「考える」脳の働きを阻害するのではなかろうかと勝手に思ったりします。

    「私は数学は苦手だ」「暗記した公式を当てはめなきゃ」みたいなことが数学を解くときにストレスとなって、数学の問題が解けなくなり、ますます暗記に走って、それが悪循環になったのかもしれません。

    bismark0507さんも書いていますが、「論理的思考」というのは数学に限られることではありません。「論理的思考」の下部に「数学的論理的思考」「文系的論理的思考」などがあるのではないでしょうか。ですから、受験数学ができなくても問題はないと思います。

    それでも、自分の事例だけを根拠に、数学を試験に課すことを「不条理」だと結論付けるのは飛躍だと思ったりもします。

  • 学校、受験数学の学力と、論理思考力は比例しないだけの話でしょ?
    オイラは一橋出身で数学の二次荷重が重い文系なのだが、一橋の受験数学の成績が良い学友の多くが論理力など含めて数学能力全てに優れていたと思ったことはないけどね
    要は、受験数学の評価は、どのように解を導き出すか?という課程と方法の合理的な選択が出来る能力が問われるだけの話で、導き出された解が結果論として「妥当・正当」であれば社会的選抜評価としては問題にする必然性は、本義はないわけだ
    現実社会では解がまったく論理的ではなくても「空気」で”新しい解”が創造される恐怖があるがw
    同時に、解をどのように出力するか?という問題も別に存在しているわけだが、それは仔細割愛させてもらいたい

    オイラは数学系統は概ね高い成績だったが『論理的に考える訓練をした』という身の覚えはないので、なんとも言えないw
    そもそも、数学の論理思考とそれ以外の論理思考に大差はないし、むしろ文系の論理思考の方が「より複雑」とも言える次元も多々あるわけで

    で、問題提起である社会的評価基準の適否の話だが、反問すれば
    それ以外のどのような社会的評価方法があるのか?という一言に尽きる

    要はそれ以外の評定方法が困難であるが故に、現状に理不尽な部分もある評定手法が用いられるのであって、その方法に適合性を含めて社会評価を相対的基準をおいている社会が存在する以上は、社会変革をしない限りは、現状の評定方法を否定できても打破することは出来ない、と思う
    要は、憲法改正という世論が強くても、それだけでは改正不可能であって、改正草案なりの対案なしには「改正できない」という話と同じ

    というか、現実社会はもっと理不尽な評定があったりするので、学校・受験の評定における理不尽さは現実社会の理不尽に対する耐性を養う意味でも、その理不尽さを忍従するしかないように思うのだが・・・
    自力で導き出した解が「正」であっても、その過程・方法が(入試・学校教育的な意味で)合理的でなければ評価されない、という奇妙さは数学では多いがw


    ただ最近思うことなのだが、必要条件・十分条件などの基礎的な数学論理の知識を持っていない人間が、証明などと吹聴するのが不愉快だったりしますがね

  • >>5
    ご意見ありがとうございました。
    goo*****さんの言うところの

    >「スタート地点」と「ゴール地点」がわかっているわけですから、その間の道筋はうっすらと見えてきます。

    がすべてかと思います。
    うっすらも何も見えないところでひたすら必死になって頭から湯気を出しながら頭の中で100通りも200通りも、こうしたら解けるか?ああしたら解けるか?文字通り泥臭く何度も何度も試行錯誤を繰り返しても、やっぱり何も見えなかったのが苦痛でした。

    なにも世紀の大発見とか大証明という大げさな話ではなく、「この問題を解くためのちょっとしたひらめき」がまったく湧いてこなかったのです。

    公式もちゃんと覚えたし、証明のプロセスも理解したけど、いざ「別の設問」になると、「どう手を出していいのか」さっぱりわからなくなりました。例題1000台とかいう参考書を徹底的に練習し、あらかた解法を覚えましたが、やはり、本番のテストになると、結局、何も進歩はしていませんでした。数学は高校2年でやめましたが、中1~高2の5年間に自分が勉強した総時間数のうち、7割は数学と無駄な努力につぎ込んでしまったような気がします。

    今は、社会人ですが、一般社会の中で数学が苦手だからと言って「自分は論理的な思考能力が劣っている」と感じることはありません。職場でもそれなりに「分かっている事を論理的に説明する」ことはできていると思います。むしろやはり「ひらめきが足りない」と思うことの方が多いかもしれません。

    文系科目は1時間努力すれば1時間分進歩があるので、これは人の事務処理能力や努力のキャパシティを図ることができるので、社会的な評価の指標として使用されることにはとても有用な科目だと思いますが、やはり、数学だけはフェアじゃないと思うのです。

  • >>6

    >三角関数の加法定理について、これを「証明せよ」という問題が東大の二次試験で出題されたことがあります。

    ほお? だったら小生は今の世の中では東大に合格できたことになる__、ルン!

  • そうやって覚える作業は、「道具」を増やす作業です。その道具を使って「⇒⇒⇒」を進んでいくわけです。

    三角関数の加法定理について、これを「証明せよ」という問題が東大の二次試験で出題されたことがあります。これは裏を返せば、「受験数学」が得意な人でも「加法定理」を証明できる人は、それほど多くないということです。

    しかし、「受験数学」が得意な人は全員、「加法定理」を覚えています。おそらく「ににんがし」と同じくらいの定着度で「しんこすこすしん」「こすこすまいなすさいんさいん」と頭に入っているはずです。そして、「受験数学」が得意な人は、その使い方が身についているはずです。

    スレ主さんは「加法定理」は「覚えるもの」ではなく「理解するもの」、あるいは「自分で思いつくもの」と思っていたのではないでしょうか?「sin(α+β)」がどうなるかを自分でひねり出そうとしていたのではありませんか?

    それはともかく、数学に限らず、解決困難な問題に直面した場合、私たちはどうするのか?それは、自分の持っている知識や、既存の知識を駆使して、その問題を解こうとします。決してすべてをゼロから始めるわけではありません。

    「とりあえず、時間があと三日ある。」
    「この仕事は絶対にやらなければならない。」
    「だから、残り時間でできることは・・・」

    このような思考過程は、数学の問題を解くときのプロセスと同じだと思います。ですから、受験で数学を課すことは充分合理的だと思います。

  • スレ主さんが言う「数学が得意」というのは、「入試に必要な数学」のことですよね?私も文系ですが、二次で数学が必須でした。数学一般について「得意」とは言えませんが、受験数学については、おそらくスレ主さんよりも得意だと思います。

    私は受験で数学を課すことは合理的なことだと思います。以下説明します。

    受験の数学の場合は、必ず正解があります。「リーマン予想」みたいな問題は出題されません。「A=Bを証明せよ」とあった場合、「A=B」であることは明確なのです。そこが数学一般とは異なるところです。

    私は数学を解くとき、

    ★「わかっていること」⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒「わかっていないこと」

    というイメージで解きます。「わかっていること」というのは、問題に書かれていることです。「AB=AC」「AB//CD」みたいなことです。受験数学は「ゼロ」から「答えを出せ」みたいな問題はあまりありません。スタート地点は示されているのです。そのスタート地点(わかっていること)から、ゴール(問われていること)までたどり着けますか?と問われているのがほとんどです。

    そこで、★のようにイメージするわけです。「⇒」の矢印が短い問題もあれば、長い問題もあります。短い場合はすぐに答えが思いつきますが、長い場合は「どうやってゴールに辿りつけるのだろう?」と途方に暮れることもあります。

    ただ、「スタート地点」と「ゴール地点」がわかっているわけですから、その間の道筋はうっすらと見えてきます。霧に包まれて見えない場合でも、とりあえず「スタート地点」から一歩踏み出せば見通しがよくなる場合もあります。

    その道を進むときに「道具」が必要になります。その「道具」というのは、たとえば「解の公式」のようなものです。「接戦の傾きは微分で出せる」みたいなことです。

    私は、そこに「ひらめき」はあまり必要ないと思います。たとえば「√2」は中学で学習します。しかし、この「√」で処理する方法は、私たちがひらめいたわけではありません。そんなことを思いつけるわけがありません。私たちにできるのは、過去から現在まで天才たちがひらめいたことを「へー、凄い!」と感動しながら理解して覚えるだけだと思います。

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