ここから本文です
  • 1

    *****

    ○ 特殊ローレンツ変換での ds^2不変式は座標系の採り方に無関係に成立するので、今S系とそれに対し速さvの質点上に原点をおくS'に適用すると
    ds^2=dx^2-c^2dt^2=-c^2dt'^2 ⇒ -ds^2/c^2=dt^2-dx^2/c^2=dt'^2・・?
    が成立。(各系は唯一通りの時間で統一されており、dt,dx,dt'はそれら座標軸上の目盛で計測した事象dsの計測値)
    これに dx=vdtを代入整理すると
    dt^2(1-β^2)=dt'^2⇒ dt'=√(1-β^2)・dt・・?
    つまりS'時計の遅れを示す?は単に両系時間同士だけの関係なのではなく、既にdx項効果も織り込んでおり,ds^2不変関係と同値とみなせます。(?下段[物理元]は[時間]^2)

    ○ ?で v≠0 なる限り数値上dt'≠dt。ところが相対論では「どの系上の尺度も区別しない」のが前提だから”同一事象ds”の間の両時計の進みも同じ、つまり dt'=dtのはずで、これは?と矛盾。
    そこで理論の前提維持のため,S'時計の遅れに関して「Sからみると遅れて”みえる”」という゛危うい”弁明が用意されている。しかしのdt'定義は「S'時計での事象dsの計測値」であり、「S'時計をSからみたときの数値」という意味はなく、どこからみる・みないという視点の関与とは無関係に速さ0,V両系を第三者の目で比較しての結論であって、遅れ(両時計の1秒の大きさ不同)は客観的な事実だと考えます(遅れて”みえる”のは単なるその結果に過ぎず、”Sからみること”が遅れの原因ではない。どの系の1秒も同一視する前提の下でS'時計は一体どちらの速さで進み dt'を得たのか? 先の弁明は dt'の意味を不当に曖昧化することで,矛盾する「遅れ」と「理論の前提」の両立を意図する姑息で的外れな対応に過ぎないのではないか?)。

    ○ 両系上で尺度が違うとする立場を採って?を γ・dt'=1・dt とおきます。不変関係は少なくとも数値上の不変(同一)を意味しているのだから、共通としてきた基準(orS系基準)でのγがS'系では1に縮小→両系単位長1の大きさ不同 とすることで、形式上・数値上の不変関係 1・dt'=1・dt → dt'^2=dt^2 が実現、これが ds'^2=ds^2 に相当すると考えます。
    一般相対論でのgによると同様、vによっても各系上の単位長1は不同とすることで、時空はどの局面でも原理上局所性をもって成立していると統一的に考えられることになります(原理上と近似上は別。元々近似処置は当該両局所の不同を前提とするもの)。これは広域や大域の慣性系の否定に通じることにもなります。 

    ○ 結論:ds^2不変の現行解釈「両系同一単位長1での同一数値」は「各系異単位長1での同一数値」に変更すべきではないか(計量基準の相対化)というのが疑問です(始めに不変とした際のdsはどの系での尺度で計った大きさなのか。速さ0の系での計量基準をvの系にも押し付けていないか。ローレンツ変換はスケールの変換も伴っているのでないか。両系の相対性・同等とは「どちらを基準の系に採っても同じ結論に到達する」というにとどまり、両系上の同等までは意味しないのではないか)。

    ○ ご意見・反論をおきかせ下さい。

  • <<
  • 2049 2030
  • >>
  • 2049(最新)

    qnj***** 1月19日 19:26

    >>2048

    (補遺)3 「”大きさ0”な点は 存在する? しない? 」

    ○ 存在する・しない は直接であれ間接であれ認知可能か否かによる。
    ”空や無”というのはそれが欠如している状態のはず。なのにそれにa prioriに4D特性が賦与されていることに違和感がある。
     「大きさのない点の集合で「拡がりのある空間は構成可能なのか」との疑問提示に実証主義に立つ物理学は答え得ているとは思えないのだ。 

    間接的手段で存在を保証・検証されているものは自然科学で珍しくないが、それらのmicroな領域でも「認知の最小単位の存在」は不可欠。  
    実際は3D空間の拡がりや時間の経過も「変化の最小単位の存在に基づいている」のに、その意識が希薄なことで「空や無のa prioriな特性視されているに過ぎない」のでないか。

     座標軸上の隣接点区別も「変位・変化の際の単位量のcount数」に基づいている。その区別も一様性・対称性という理論の大義維持のために近似で糊塗されているだけでないか(0・v同等視にみるように)。

    ○ 現在までの理論成果がその正当性を実証と言っても、「一般」段階でのg・g’区別はそうした微小域での対処法を提起、隣接点区別は「特殊」段階的近似思考への立ち入りに他ならず、同段階思考絶対視からの離脱を促しているのでないか。

    「時空・事象の関連容認」は根源的局面でのε量体と時空像の関係への言及であり、それが実体・実在量と非存在量区別に通じる「実在・非実在区別思考」ではないのか(cf. ds=cdτ=√(1-β^2)cdt での個別固有時の捉え方 #2046 etc.)。

  • >>2047


    (補遺)2 「座標系の基盤」

    ○ 抽象場にあっても座標系は「a prioriに空虚に設定」か「何等かの存在量の上に設定」かの問題は残る。

     空間の虚・実に関しては古代から対立する立場があり、座標系の創始者とされるDescartesがNewtonの存在物質とは全く無関係とする「絶対空間」以前に想定していた空間像は「”空”ではなく充満し回転するetowas」を容認するものだった。
     これは Newton→「特殊」段階 の流れと 「特殊」段階→『物質との関連容認」の流れ のそれぞれに対応すると受け止め得る。
     勿論、自然考察手段としての数学自体の発展・展開に伴ない事情は往時とは隔絶するが、そうした装いを外した"時空像自体"に関してはどこまで本質的に異なると言えるだろうか。

     ”場と物質間に性質的違いはなく量的差異に留どまる(#1481)”とする思考や「時空・事象の関連容認」の一般相対論の立場は、ε量体とは隔絶したNewton的“空間”像から離れてDescartes的”実体的場“への回帰とみれるものであり、higgs粒子・higgs場と呼ぶかは兎も角、時空間の4D特性はε量体に帰すると言えるのでないか(変動因は究極的に全ε量体としての宇宙自身のdynamismに帰するとしてーー”万物は流転する”!)。

    ○ 一様時空はどこまでも非一様時空の近似どまりであり、基盤の異なる0・v系上の座標系は特殊相対論の主張のように”計測量ds^2に関し「同一不変敷」なのではなく、厳密には「異尺度1下での同形・同一数値」に留どまる(c→√(1-β^2)c)。
     結局 ”同等”の意味は『各自系1による計量結果は同一数値を呈する(→同一scalarの一義性拒否)』との解釈に移行と捉えることに。
    「0・v同等視」と”「”真空”内の存在量無視事情」はともに「特殊」段階思考の曖昧さに起因、同根と言えよう。

     一般相対論は、技術的側面を含め「特殊」段階思考に全面依拠の現状へのwarningと捉え得る(⇒理論自身をも相対化の高みへ)。

  • (補遺) 「宇宙」と「その背後の計量用時空」の関係総括

    ○ 物理学の対象は実在ε量体(場)としての「宇宙」の方であって、「座標系時空」はその計量・記述のための2次的・抽象場での存在に留どまり、現実の場にはない。
     だから4D特性も、元よりa prioriでも“無や空”に帰するものでもなく「実在量に起因」している。

     一般相対論的非一様時空像下では当然「時間の進みは一様」などではあり得ず(「特殊」段階的一様時空はその局所近似どまり)、結局それは個別固有時に帰し、それらの主体であるε量体の変化・変位に帰着する。

     記号・数値・数式化された場は既に検討のための抽象場であって、「その前段に存在する事象・ε量場からの抽出物」。

    ○ 「時空・事象の関連容認」の真意はこの点にある。

  • >>2045

      ≪ 固有時の特異点⇔理論の特異点:a priori時間は宇宙の固有時ではない!≫

    ○ 不変量関係 ds^2=(cdt)^2-(dx)^2 は変量ds^2=0であっても変化の主体Sの存在までは否定しないし、ε量体・光(子)のcがdt、dx変化の単位量であり得ることは、相対論の時空は始めから非「特殊」段階的で、4D特性もa prioriなどでなくε量場由来であることを示唆している。

    ○ 物理学と幾何学の違いは対象をenergy的観点で捉えるか否かで、線素dsは幾何学的にはcdt・dxで表示される”長さ”であっても、それがε量場でのことである以上、物理的対象でもある。
    「質量はその本質を省みれば一種の長さである(H.Weyl)」などの言及もこうした長さ・ε量体の関係を示しているということに。

     ε=γmc^2と主体の運動量の時間成分(p^0)との関係を介しても時空・事象の関連がみてとれるが、宇宙(ε量場)とその背後の計量用時空は本来「宇宙(ε量体)一体」であるべきはず。後者は「一様性要請」で単位的ε量(≠0な質点)を軽視・無視、本来”単位ε量のcount数で区別されるべき軸上の位置区別”にも曖昧さを残す。

    ○ 固有時の ds=cdτ=√(1-β^2)cdt 式で、主体自身に関する計量は無意味となるが(特異点)、これは主体が全宇宙である場合、その宇宙年齢の意義or算定に疑問が生じる。
     宇宙開闢に無関係であるかの背後時空の性格(→a priori性の存続)orその軸上目盛の大きさなど”≠0なε量質点の存在容認以前の時空の意味”は「不透明なまま」でないか。

    ○ 数式化は本来現実の抽象化であり、それとの対応で捉えるべきはずのもの。
     その観点からは、現実としての全宇宙(ε量体)の背後に想定の計量用時空座標系の位置づけ(身分・出自)が問われるが、「時空・事象関連容認」を示す重力場の式からのSchwarzschild解は事象の地平の内外で「重力に象徴されるε量の存否が分かれている」ことで「特殊」・「一般段階時空像の違いを示唆するものになっていると受け取れる。
     
     Schwarzschild以外にも種々な解が提示されているが、こうした数学的時空像展開の物理的意味はどうなのか。理論の最基盤に残るa priori性などの不透明さがこうした事情の真因と言えないだろうか。

  • >>2044

    ≪Schwarzschild時空は物理?幾何学?;4D特性起源の曖昧さ?≫ (続)

    ○「事象の地平」近傍で特殊相対論的時空は困難に遭遇しても、固有時であれば”難なく通過”となる。これは固有時が変わらないということではなく、常に自身の環境に適応と言える個別固有時の連続・継起となっているから。
     してみると「特殊」段階的”一様対称時空”というのは、自身の基盤であるε量場にまでは踏み込まず、対象・計測器(者)とも「常に局所状態に即応して変化しているのを”不変と受け止めて”成立していたもの」と捉えることに。

     これはつまり、例えば#2041の固有時と座標時の関係からみてとれる「種々なvに応じたた異なる基準単位1」を自身の一様時空像に従い「どこでの1も同じ」と表面的に区別なく取り扱っていたと言うことで、一旦区別した0・vを近似とは言え不変同一視していることの不透明さに起因する。一般相対論はこの事情を「原理的には異尺度(g≠g’)である」ことを指摘していることになる。

    ○ 既に局所性容認で大域的一様性が成立しないことが明らかである以上、「同一scalarでも局所毎に大ささが異なる」こと、つまり一般相対論の立場を容認する限り「一意絶対的計量は最早成り立たない」ことを認めざるを得ず、これは「相対化を計量基準にまで徹底したことの結論」と考えることになる(ex.#2040)。

  •  ≪ 事象の地平」のもつ意味;Schwarzschild時空は幾何学?物理学? ≫

    ○ 「時空・事象の関連」はどこまで容認されるのか?
     Schwarzschild時空も「超ひもと背後の時空」関係同様、根幹ではa priori4D性に立脚と捉えられるが、物理理論の基盤にa priori性残存は許容できないとし「時空自体を始めからε量的場」との立場に徹してみるとき、「事象の地平」の意味も再吟味へ。

     同時空は”超ひも(ε量体)的”なのか”背後の時空座標系的”なのか?
     幾何学的計量用座標上では、対象のε量運動に伴なう位置(座標値)区別をする。0・v系位置区別も系全ε量差を表現と受け取れ、g≠g’はそうした位置の違い(目盛区別)に対応している(質量⇔長さ)。
     唯、抽象座標系上への反映に際し、時空内での質点の大きさが0扱いであることが、対象事象の大きさと数値上の対応関係を曖昧にしている。物理的に時空を”ε量体による場”と捉える限り、そのscaleに応じて各系原点のε量も≠0で種々の値であるべきなのに、「原点の不定定数処理」(#1768 etc.)にみるように、本来必要な原点区別の無視で
    根幹に曖昧さを残す(←ε量体存在を認めない「特殊」段階的「一様対称なa priori時空像の不備」)。
     
    ○ この視点でSchwarzschild半径近傍をみると、「事象の地平」内外で時空・場の様相がが一変していて、外部は従来の一様対称時空像の世界、内部は重力までを含むε量場という重大な違いがあることになる。
     外部の一般座標系は同半径近傍で時間経過の遅れ・赤方変移の増大に遭遇し、自身の一様性崩壊の事態に陥りつつあることになる。
     他方、同半径内部は全体がε量場であり、中心に向かうほど強い重力を感じるというε量体に関する普通な物理的世界に思える(この内部の方がむしろ”物理的なのでは”とみるのもこうした事情から。 #2010 24 etc.)。

    ○ 結局、Schwarzschild半径近傍では、「特殊」段階的一様時空or座標系は≠0なε量存在により「大域的一様性のままでは通用せず、原理的には各局所系毎の計量基準1(及びその近似許容の範囲)での成立であること(cf.個別固有時)、時空座標系は「ε量場である現実からの抽象・二次的場である」ことを示していると考えられる。

  •   ≪ ≠0な質点の内在容認で時空は 一様対称→非一様像へ;現実の"ε量場"への回帰 ≫

    ○ 物理学の目的は自然界での生起事象の解明にあり、客観的記述であるにはそれらと独立・無関係である「一様な場・背景」が必須で、Newton力学での座標系(3D空間・時間使用)は当にそうした場として選択された。
     対象の位置や量的変化followに一様baseは不可欠と言っても、対象一般に共通する特性と全く無関係では抑々記述場としては不適格で、そうした”受け皿”である記述場の特性は当然対象のそれと一致しているべきだ(無関係ではあり得ないなら、逆に「無関係・a prioriな場での記述の方に限界がある」ということ!)。

    ○ 数学的”空間”はある特性を持つものの集合体としての特性空間で、始めから“無や空”とは無関係で、一義絶対的計量成立のためにも一様性は不可欠であり、同質であることで個別化への意識も希薄だったと言えよう。
    他方、「物理空間」は数学的空間の援用で、一様性最優先であるため記述対象(質点)の大きさは0扱いに。  
     局所化容認は粒子区別にまで通じると考えられるが、Planck定数などの存在にも拘らず「大きさ≠0の質点」は一様時空像内で明瞭に存在を許容されず、“時空とは別な場の量扱い”で「両者の接点は存否の曖昧な”大きさ0な質点”」に限られてきたと言える。

     大きさ≠.0な物質一般は”空疎な”背後空間とは始めから対立関係にあり、3D性や時間はa prioriに後者の属性とされ、それが一様時空最優先思考下で「ε量主体に起因と考えられる固有時軽視」にも連らなっている。

    ○ 適用理論の「最先端問題」は「自身の基盤適用可否の限界問題でもある」と言え、一般相対論段階での「時空・事象の関連容認」は当にそうした4D特性の帰属を巡る時空像変革への嚆矢」と言えるものではないか(これは解決済みの問題などではない ex.#1945 or st.Augustinusの告白 〉。
     同特性を“無や空”に帰するのはnonsenseである以上、物理や数学空間の特性は何を表象しているのかの根源に立ち入った詮索が求められる(cf. ε/c=ɤmc=(p^0〉;運動量の時間成分)。
     量子力学は専ら存在物質の検証には関わっていても、基本的に古典段階の時空概念依拠に変わりはない。

  • >>2041

    ≪g≠ℊ’下での”数値不変”は「不変」なのか?;位置移動は”ε量関与”を意味≫

    ○「時空・事象の関連容認」は両者を無関係としてきた「特殊」段階思考への疑問提起であり、4D性をε量体に帰着させることで「untouchableで曖昧な時空のa prioriな4D特性」への拒否志向と捉えられ(#2041)、時空の非一様視への移行に至る(g≠g’はそうした事情を表象)。

     これは曲線に沿ったvectorの平行移動の際、その移動前後の大きさ(数値)は不変でもそれは同じbaseでのことなのか、それとも既にvectorの基底の変化が明らかな以上それに則しての不変同等なのかの疑問に通じる。 元の位置とε量運動の結果としての新位置の状態間にはε量差があり、その違い(接続係数Γに応じた分だけの)を認知した上での同等視なら「計量基準1の大きさ」は既に異なっており、ε量とは無関係とする一様時空像の立場のままでなら実情を反映しない”名目的なだけの不変同等視”ということに。
     これは不変関係の基盤区別にまで立ち入った「一般」段階思考を容認するか否の問題であり、にも拘らず「特殊」段階思考にこだわり「同一数値でありさえすれば不変は維持」と言えるのかという問題で、「どの系上でも光速c不変(原理Ⅱ)」というのも、不変な共通基準1下での数値なのかor各系状態に応じた基準1での数値なのかの違いとなる。

    ○ 空間・時間は数学や物理学以前の直観であっても、Newton力学の基盤をなす3D空間は幾何学概念の借用と言え、時間とともに物理理論の根底であり続けてきた。抽象理論の場は現実の忠実な反映であるべきなのに「内在ε量体と無関係とする一様4D時空」枠組は抽象化に際し≠0な内在ε量(質点)の大きさをを=0扱いした時点で忠実な「現実の反映」ではなくなっている。
    「特殊」→「一般」段階への展開で不変関係の加速系までへの拡張はあってもa priori時空構造まで払拭された訳ではない。唯、明かなε量差を伴う加速系までへの拡張が「0・v系間同等視」への新視点を齎すことになり、時空の局所化(cf.g≠g’)がε量関与を一切受けつけない前段階時空との違いを浮上させることになった。
    「単位量を備えたvector場・tensor場」は多様体と同様、最早「“空”とは無縁である」ことは明らかでないか。

  • >>2040

    ≪ 現実世界はε量体の相移転の場;a priori一様時空解消で特殊相対論の位置づけは?≫

    ○ 「特殊」→「一般」への移行は、当然前段階を不十分としてのこと。前段階でのv〈≠0)は最初からの所与で、0→vまでへの加速前後の2系間対比という”加速関係への視点”を欠いていた。
     v状態の更なる細部への立ち入り(dv/dt)or重力加速度に関わる「一般」段階視点からは、そうした前段階はε量に起因する状態差・数値の関係に不透明さを残していたことになり、対称性議論を「原理的非対称の近似と見做す」こととも同根。
     この視点に立つ限り「対称性の破れ」は格別のことではなくなり、逆にそれがnewsとなるのは理論が「特殊」段階思考に立脚してきたことの証しで、「一般」段階はその根底での変革要請であることに。
     
    ○「不変」関係は”座標系上での長さds”に関しstartしたにしろ(#2040)、v状態の精査は位置関係をε量的観点で見直すこととなり、運動量0の各系原点も”空”などではあり得ない(≠0な単位vectorの存在)。
     ds=cdτ=√(1-β^2)cdt を個別vに対応の「各系上dτ系基軸」(v=0状態)でみれば、従来のa prioriな抽象的座標系時間であるdt系はそれに対し"進みが遅れている"ことになる(単位の縮小;c→√(1-β^2)cへ)。
     これは「一般」段階思考下での局所系間の事情を示すもので(→局所系時間の個別固有時への収斂)、時間や幾何学的長さは初めて実体的ε量関連で説明されたことになる。
     つまり、局所系の時間経過には固有時間の考えが反映されていたのに、「特殊」段階の一様時空像下ではその「全時空に亘る唯一絶対性維持の”大前提最優先”」によってその思考は疎外視・throughされていた!

    ○ ”ひも”のscaleが即Planck定数levelかどうかは兎も角、ε=mc^2によって粒子質量の”本質的ε量性”は明白で、物質概念の根底が明らかになったと考え得る以上、必要なのは”従来質量概念の変革”のはず。
     にも拘らず”根源的粒子”を求めて探索を継続し続けるのは、その先にどのような時空の全体像が想定されているのか?
     ε量主体の在りようと全時空に亘る一様性はどちらが優先するのか?技術的側面でのmeritがあるにせよ、その選択が最優先課題ではないのか?

  • >>2039

    ≪ ε=mc^2、γmc^2 ⇔ 「特殊」,「一般」と対応;energy≠0の場での位置区別 ≫ 

    ○ 理論枠組である時空を相対論ではどう捉えているのか。
     始めからε量とは無関係とする「特殊」段階の一様時空像の下では、基盤sは高々”抽象的長さ(拡がり)”どまりで、系状態による差の有無も議論の対象外。これは「原点の不定定数処理」にもみてとれる事情(ex.#1967)。
     他方、3D空間を”空”ではなくε量的場と捉えると、0・v〈≠0)系間での不変関係ds^2は「ε量状態s(≠0)からの変化量(の2乗)が両系で変わらない」を意味していることに。 

     対象の記述が目的である以上、記述場(座標系)の性格はaprioriでなく「対象の特性に応じて決まる」とするのが当然で、3・4D特性を事象起源と捉えるのもそうした事情から。
     重力の”ありよう”は、「一般」段階の”基準の系からの距離・位置によって系の全ε量が異なる事情”の典型であり、両段階時空像の違いの把握には、始めから「一般」段階の2局所区別(g≠g’)思考の立場で対照的に捉える方が簡潔。
     標記での γ=1/√(1-β^2):1 の違いは当に運動vの惹起に要する両定常状態のε量差を示し、両系対比は系全ε量間でのことであるべきことを明示している(→Hamiltonian ex. #1881 82 1999~)。 

    ○ 全時空に亘る「計量or同一数値・scalarの不変」は「特殊」段階的時空像下でのみ”絶対的意味”をもち得たのであり、「系毎に異なる計量基準」は当然「同一数値が得られても、それは「既に各系毎の異尺度1下でのこと」となる。むしろこうした独自性の容認こそが「どの系も同等を意味する」と受け取れる。

     これはvの影響無視という「一様対称時空像の絶対視」を離れ、計測器(時計・物差or計測者)も対象と同比でv差の影響を受ける事情を示すもので、「時計の遅れ・長さの縮小とも”単位量の縮小に帰着”」として説明されることの明示となり、曖昧な”みかけ的解釈”からも解放されることになる。

     結局これは人為的規約である一律のMKSA単位系も「局所状態依存」であることを意味するものであり、「一般」段階思考は「相対化を計量基準にまで徹底して”自身の立場をも相対化した”」と言えることに。

  • >>2036

       ≪ ”関連”を超え,時空・事象は一致!;g≠g’が拓く非一様個別時空 ≫

    ○ 現実or技術的局面は別として、原理的にみた「ds^2不変」議論は「一般」段階への移行で大きく変容、重力場の式の左・右両辺等置(時空・事象側)は、説明不十分なa priori4D時空が理論基盤であることへの明白な疑問提示と受け取れる(ex.#2035 etc.)。
     例えば ”真空”が振動子に満ちていても、”宇宙の外に”4D時空が展開していても、それが科学的時空像だと許容されているかの事情の根底にあるのは、内在ε量体の有無に左右されない『a prioriな「特殊」段階的時空像の絶対視』であろう。しかしそれでは重力差に基づく時空の湾曲の説明がつかず、「一般」段階思考の方が誤っているのかと。
    「時空・事象の関連容認」はそうした状況からの脱出の契機を提示しているものと捉えられる(局面毎のprogram変更ではなくOSlevelでの変革要請!)。

     座標系上で事象とその所在位置は区別して意識しているだろうか。
     時空・事象が”互いに影響を及ぼし合う”という以上に「実質上同じことの2通りの捉え方に過ぎない」との見方(質点の運動方程式が測地線の式と一致と認められるように)、あるいは「実体事象(現実)vs.抽象時空 という対応容認で捉える」などの方へ軸足を移すことが要請されているのでないか。
     
    ○ 「一般」段階のg≠g’は包括的に時空の原理的非一様性・局所化を要請するもので、それが「一様対称時空の解体(近似化)」・「原理Ⅱのc不変→系状態毎の基準によるcへ転換」などの大変革に連らなり、結局これはa priori4D時空から「固有時の個別化」を介して4D特性のε量起源へ行き着くものと考えられ、「≠0な単位量の存在容認」による区別の存在で「特殊」段階的時空像は生き残れない(g≠g’は状態の異なる0・v系同等視という前提自体の否認に相当する)。

  • >>2037

     ≪ Lagrangian と「a priori4D時空⇒ε量場」の関係;"無"の退場で時空・事象議論一新!≫

    ○ 空間は”空虚”か”何かで充満か”は目新しい問題ではなく、etherもその一例。
     唯、相対論への移行に際し、dx・cdt項を物理的に等価として「不変量ds^2の一項に集約した時点」でその根源までは詰め切れていなかった。
     Newton力学での自由粒子の L=mv^2/2 とその「相対論的近似」間の差(定数項-mc^2)部分は運動方程式を求める分には無関係とするが、「一般」段階の「時空・事象関連容認」の立場では「局所毎のε量状態差考慮」となるのでその処理が問題となる。
     時間・空間がε量事象に無関係というのは「特殊」段階止まりであり、系間対比は原理的にε=γmc^2に基づく局所系毎の全ε量; H=mc^2+mv^2/2・・・(1)でみることになり、位置不同な0・v系間でε量差があるはず(← ex.「原点の不定定数処理問題」#1769 1967)。

     つまり一般相対論の時空は全体として「非一様なε量場」とみなせ、時空のa priori4D性は実体的baseを得たことになり、”場のenergyの凝集点”が「粒子」相当量として存在する。
     そこでは ε=γmⅽ^2=m(v)cであることで0・v系でのHは異なる時刻に対応、0系は上記(1)式でv=0のcase。同形性からは逆にv系が2項に分かれていることが不自然でないかということに(#1881 1825etc.)。
     これは「一般」段階的ε量場でのどの局所系でも「一体としての主体の空間成分が時間経過の際の”変化の単位量”(←Lagragian密度!)とまで徹底して捉えていない」からでないか。

    ○ こうした捉え方が「固有時の個別化」or「全時空に亘る一様a priori時空の拒否」に通じ、「特殊」段階的思考からの離脱に伴うa priori時空の解消で余儀なく議論の前提が全く異なってしまい、”変容生起”となる。
     時空・事象関連での数多な数学的議論(ex. www2.yukawa.kyotou.ac.jp/~sokened/.../vol15/nakanishi.pdf)は、記述内容が大幅に変更とならざるを得ないことにも。 

      a priori4D時空の解消で「現実」は「事象の継起」で説明され得ることに。

  • >>2036

     ≪ 遅れ・短縮の原因は「単位の不同(g≠g’)」!;あり得ない「同一単位での数値不同」≫ (補足)

    ○ この問題の要諦は「議論者の立ち位置」。
     つまり、0・v系間議論は全く抽象場(or”議論者の頭の中”)でのことであり、議論者は第三者の立場で「両系間を客観的対比」しているのであって、自身はその枠外にあり”0・vどちらの系上にもいる必要がない”。
     理論としての両系対比の場に介在していては客観的議論にならない。

    「純粋に両局所系間の客観的対比の問題」(#"2036)というのもこうした事情を指し、その明確な把握がないと混乱を免れ得ない。
    「理論的結論」と「その(議論者のいる)現実の場での実証」は別段階のことであり(「議論者を含む宇宙をもds^2式上で対象として扱っている」のもその例)、”抽象”的数式の場でのfollow結果が”全てでない”ことはその結論が「全感覚的”現実の場”に投げ返して検証されている」事情が示している(cf.#2034)。
     
    ○ 理論の根幹がa prioriなままではいつまでも”不分明さ”が付き纏う。
    「一般」段階での「時空・事象の関連容認」はその解消に向けての大きな踏み出しで、「抽象的4D時空と現実のε量場を関連づける」もの。

     理論のこうした側面に関する議論が希薄であってきたことが”分かり難さ”の大きな一因でないか。

  • >>2035

     ≪ 遅れ・短縮の原因は「単位の不同(ℊ≠ℊ’)」!;あり得ない「同一単位での数値不同」≫ 

    ○ 「慣性系の局所化」が明らかとなった時点で相対論の基盤が大きく変質。そのことさえ明瞭に認知しないままでの相対論の是非議論は不毛・無意味。
     局所化の原因が重力を含む加速系までへの不変議論の拡張にあることは「時空⇒ε量場へ」の移行を意味し、光の湾曲・遅速もそれによって説明される。

     これは 『固有時の個別化⇒個別粒子上の時間経過区別』 に直結する(cf.#2035 etc.)。
     換言すれば「時間の遅れ・長さの短縮」問題は「各vに依拠する固有時区別」の問題だということ
    (cf. ds=cdτ=√(1-β^2)cdt)。

     ex.
     cdt’=√(1-β^2)cdt …(1) でβ=0.8、dt=60s.のとき、dt'=36s. これをcと√(1-β^2)ⅽ間の問題とみて  基準単位の比 1:√(1-β^2)⇒1:0.6。
     つまり dt’系単位>dt系単位 であることで(1)両辺の数値上の不変関係 『36=36』 が成立、これは『異尺度1での同一数値』に他ならない(←”同等”と言うなら高々「それぞれの系毎の1での同一数値」という意味で)。

    ○「特殊」段階思考の基盤である”一様時空”はどこも区別なしである以上、どの地点での時計の進みも同じを含意。”v系上の時計の遅れ”はこれと矛盾することで「遅れは基準の系からは”遅れてみえる(だけ)”」かの”みかけ“的説明となるが、dt’は「v系上時計での計測値」で”基準の系から見た”かの意味などなく、dt・dt’間は「純粋に両局所系間の客観的対比の問題」。

     故に、これは「運動系上ではvの影響は計測対象にも計測器(時計・物差or計測者)にも区別なく同比で及ぶ」との説明であるべき事情であって、結局「一般」段階では前段階での数値上の不同を「数値levelでではなく、計量基準levelで説明(g≠g’)」、数値不同を「位置毎の単位不同の問題」としての解決となっている(←『原理的非一様時空像』への移行)。
     元々0・v系同等視は異なる位置・状態の近似的同等視(原罪!)。微小域での究明段階に達していても依然「原理的不同は見逃せる」のか。

      状態の異なる系上で同一数値が得られても「不変・同等」とは言えないだろう。

  • >>2034

    ≪” 対称性の破れ”は「特殊]⇒「一般」段階移行 伴う必然;”a priorior性or一様時空像の終焉”と同義!≫

    ○「特殊」⇒「一般」段階へ の移行は明白な時空像の違い・理論枠組の骨格変更であり、「時空・事象の関連容認の徹底]はa priori性の排除に向かい、ε量介在に基づく不可避な「一様時空由来の対称性⇒原理的非対称性の近似への移行」を齎す。
     この認識が薄弱なままのこれまでの相対論に”安直に依拠しての議論”では混迷から脱し得ない。
     対称性の可否はこうした点にまで遡及せずに済むような”軽薄な議論”とは思えない。

    ○ dx=cdt関係は、cの組み込みがx‣t間の物理元調整に留どまらず、「時・空間関係がε量baseであること」をも示す(ex.#2013 etc.)。
     cは光が1sec.間に進む長さであることで左辺dxは時間経過を長さで換算したものとなっている。これは時間経過の”見える化”と言え、一体として局所系つまり「固有時主体ε量(粒子)毎の変位・変化の単位量」に相当している。
     
     時間の進みが一様なa priori時間系に対し、「固有時の個別化」はその拒否であり、 ⅽ=νλ=1s.等をその観点でみるなら(λ=1/ν)、「νは各主体を特徴づけ得る指標としての1sec当たりの振動数」であることでそれぞれに「”時間"1s.の代替品」とみなせ、そのとき「λは”νの大・少に逆比で少・大”」となって、これは単位時間経過の”遅・速”に対応する。

     この事情は例えばCs原子での遷移現象に由来する原子時に対し、逆にその際の1振動を1s.と捉えるもので、どのε量体でもその変位・変化を各固有時の単位=1s.とみることを意味する。
     これにより、世界は「局所毎に異なる速さで変位・変化するε量系の全体」とみることになり、抽象的一様時間系の縛り・支配を脱して、”(一義的計量不成立な)ε量事象主導or物質的世界の究極像levelに到達”することになる。

     ε=hνは (ε量単位)-(1s.代替の長さ)の積 として各ε量体が「時間経過の単位・主体であること」を表現しているとともに、併せて時間・3D性の2次的抽象性も示していることになる。

  • >>2033

     ≪ grand designがみえてこない!;不調和時空像の併存で”計量未整理”状態!≫
      
    ○ 一般相対論の視点拒否でない限り「時空・事象の関連容認」は不可避であり、これは直ちに「関連なしの立場で理論構成」の特殊相対論への制約となる。
    「”真空”のenergy」は既に時空内ε量の存在容認で、所謂”形容矛盾”以外の何ものでもなく、実質「空虚な時空⇒実体的ε量場へ移行」を意味するもの。
     これは『理論の基盤枠組自体の大変革』と捉えるべき状況であり、結果として「計量基準の唯一絶対性or同一scalarの一義性喪失」を招来する。
     にも拘らず、それを恰も”真空に関する科学の成果・発展の証し”かにみなす程度の評価に留どまっていないか。

     実際は「特殊」段階でも順序数区別に「countの際の単位量」の使用が明白なのに一様性前提最優先でその意識が希薄であってきたに過ぎない(#2032 33etc.)。
     基盤枠組のこうした不透明さに無頓着なままでは皮相的と言うしかなく、微小域での展望が期待できない(gluon的粒子などの介在も相互作用のある背後のε量的場確認の上でのことでないか)。
     更にまた「光速不変」も、実体的非一様時空での湾曲・遅延が明らかな以上は「高々原理的非一様の近似or各系毎の基準1による同一数値どまり(表面的な数的一致)でないか」など「特殊」段階思考は根底から再考されるべき立場でないのか(「原点の不定定数問題」とも関連ex.#1967 1769)。

    ○ 抑々相対論への転換に際し、不変式で「時間項・空間項が左辺ds^2一項に集約の意義把握」が不十分なままで来たことが時間・3D空間の関係考察不備の原因と言える(ex.#1997)。
     これは「時空・事象関連容認」or「固有時の考え方」に既にみてとれるもので、不透明な「両段階時空像間の差異不問」には早晩「根幹の不備解消という大変革の洗礼」が不可避でないか。

     ”抽象”的数式の場でのfollow結果が”全てでない”ことはその結論が「全感覚的”現実の場”に投げ返して検証されている」事情が示しているし、運動orその結果としてであれ、異なる位置を占める両局所系の不変同等視というのは「元の状態に変位分のε量を加えた上でのこと」のはず。
     
     一般相対論の主張「位置区別」がもつ意味の大きさは十分に認知されているのか。

  • >>2032

     ≪不透明な一様時空の”位置区別”;局所性容認は「単位量の存在主張」!≫

    ○ 特性空間はその特性をもつ対象(symbolicには”点”で表象)で構成されている。
     全ての”空や無”が4D性を持つ訳ではないから「現実の同特性空間は何故そうなのか要説明」なのに、「未だa priori視」に留どまっていないか(←時間や3D性の出自不問)。
     一方、4D時空内の存在量がその特性を持っていなかったらその方がおかしいのだから「内在量と”空や無”のどちらが同特性の合理的担い手であり得るか」は明白でないか(時間経過は天体運行・原子時計など全てε量事象で計測!)。
     #2032etc.でみたように、不変関係の加速系までへの踏み込み・拡張は「事象のε量性」を強く印象づけるもので、「時空・事象の関連容認」とも通底。
    「質点の描く世界線と測地線の同等視許容」などもε量場・4D特性一体視の情況証拠であり得る。

     このように、時空特性はそうした存在量の包括的表現と見做すべきなのであり、そうでなくては事象の記述場としての資格がない。
     だから粒子・波動を問わずε量事象と4D時空の本質的関係への思料を欠く議論は再考不可避であろう(ex.bigbang以前の時空や「ε量事象としての”超ひも”とその背後の時空」の関係)。

    ○ こうした視点では、抑々時空の一様視は位置区別をどう捉えていたのか、時空点の認識に関する疑問が出てくる。
    (曖昧な”微小域”という制約を外して)時空の表象としての座標系上は順序数区別の存在に拘わらず何故一様視されてきたのか。
     従来の座標系上での順序数は抽象的数値区別に留どまるが、「座標系はε量場をbaseに設定」とするとき、原点位置からの隔たりは「ε量差問題を含む」ことで各点毎の”重み”が異なり、最早従前の座標軸上の各点とは同一視できず「ε量的に異なる状態」にあり、これが従来座標系上での順序数区別の根底にある事情と考えられる。

    ○ 大域慣性系拒否or局所性容認に基づいた「一般」段階的時空の各点上に想定の座標系は「既に異なる基準1での同形状態」にあり、これは従来の「一義的計量」の拒否、つまり「計量基準にまで及ぶ相対化の徹底」に他ならず、単位的量の存在が前提なのは明白でないか(cf.#1787 1814 etc.)。

     両段階時空像の根源的違いに関する認識が希薄過ぎないか。

  • >>2031

      ≪特殊・一般時空像の間に「ε量認否」問題;内部からの変革に”壁”≫ 

    ○ 既述のように、ds^2の”不変”は0・v〈≠0)という既に異なる運動状態系の同一視という点で「元々近似を超え得ない」(cf.原理的非一様時空)。 
     これは単に数値上のことではなく、両定常状態間における”運動v生起のε量差問題である”ことを示唆したのが一般相対論で、0→vまでへの加速orその結果としての両系位置の不同は両局所系のε量差なしではあり得ず、それが計量tensorg≠g’や重力差として顕在化している。

     不変関係の加速系までへの拡張は、それまでの数学的・「特殊」段階的時空像を「明白にε量関与の物理的性格へと転換した」が、これはv差の更なる微小域への立ち入り(dv/dt)がもたらし実現したもの。
     しかし”一様時空が大前提の「特殊」段階”では、運動系での”時間の遅れ・長さの短縮(←実は本質的に両者は同じex.#1996 93)が「0系からはそうみえる」とする言わば”見かけ扱い”かの曖昧さを残す。
     これは0・vが既に”客観的視点での区別”であり、事実として「時空の一様性は既に崩れている」事情を無視、「一様前提のままで捉えている」からに過ぎない。「一般」段階はその点を明瞭にε量的非一様場の立場で指摘した。

     唯、これには出発点が特殊相対論であることで”理論内部からの徹底批判は期待できない事情”がある。
     ∵ ε量内在の容認は一様時空に立脚の「特殊」段階にとっての自己否定であり、それが理論全体に響いてくるから。「一般」段階も「時空・事象の関連容認・示唆」以上に踏み込んでいない(or踏み込めない)のもこの事情があるからで、「相対論絶対視」はε量存否に踏み込まない範囲でしか容認され得ない。

      こうしたlevelへの到達は、理論の根源的baseである”時空の一様性(0・v状態の同等視)、or異なるものの同等視”の許容levelに関する「更なる微小域での究明に進んだ自省,or自身の立ち位置の客観視の深化」があって初めて可能となるもの。

    ○「一般」段階思考を無視しないなら、計量は「数値上の一致」以前に「局所状態に応じた”基準尺度1”の異同問題」なのであり(←人為的MKSA基準系の局所化)、これは「計量基準までへの相対化の徹底」を意味し、計量の意義の再考を促すものになっている。1

  • >>2030

      ≪a priori基盤は”疑問の余地なき真”でなく未解明なだけ;脆弱地盤崩壊は理論でも!≫ (続)

    ○ 基盤の「一様→非一様へ」の転換は当然「理論全体の構図」の大変革を意味する。 
     一様視の時空下では局所状態を区別しないことから「区別に不可欠な単位量の存否が不透明」で、これは”大きさ0な点の許容"に結びつく。4D特性が”空や無”に帰せられた真因はここにあり、如何に些少でも存在ε量体は≠0の点として”空や無”と区別されるべきなのだ(ε量場・tensor場原点に想定の0tensorはε量的に≠0)

     ○ 記号・数式による表現は、それらで表現されているもの(対象)が先ず存在するということであり、これが記号・数式は第一義的存在ではないとする理由(「現実→抽象」の対応での前段優先視)。
     物質が内在する現実時空は空虚でも一様でもなく(明らかに「特殊」段階時空とは乖離)、「一般」段階思考に徹した場合の時空像にmatchと受け取れるのに、現在も数式表現のbase(時空)は 一様・非一様性や空・実などの点で不徹底・不分明なままでないか(特殊・一般両段階思考の混在)。
     これらはmappingによって数式に取り込まれる以前の「考え方の問題」であり(cf.#2030)、両段階が等価(mappingが完全)なら、数式以前の「現実に即した直観的把握」の方が簡明。

    漸近的に細部での近似度を高め対象粒子の確定値追究の以前に、「対象の≠0な単位的量の存否」や「”空や無”が3・4D特性をもつ非合理性」checkなどを通じての「”大もと”である時空像の確定が」先決で、そこでの相互作用が不可避なら粒子の確定値という考え自体の再考が必要では。
     これは古典・量子力学段階の区別なく考慮されるべき理論基盤に残る問題と考えられる(#2027)。 
     
     一般相対論は「計量の一義絶対性が成立するような環境は最早局所近似以外には存在しない」とするもので、これは「特殊」段階思考に依拠の場は”原理的に成立しない”という「従来科学思考の限界宣言」に等しい。

    ○ 4D特性を”空”から分離しようということの根底にはこのような「存在量に関する思考が不可欠」。しかし「人間の認知作用の発生自体も”原”物質的ε量が源」と捉えるなら、原理的に意識の優先はあり得ず、高々「あるがままの存在量容認」を超え得ない。

  • >>2029

    ≪a priori基盤は”疑問の余地なき真”でなく未解明なだけ;脆弱地盤崩壊は理論でも!≫ 

    ○ 3D空間・時間は解明済みなどではなく本質的な疑問を残したままで(ex.1945)、そうした状況での「基盤枠組変革」は現実の脆弱地盤の崩落と同様catastrophicであり得る。
     如何に微小でも「単位量の存在は局所区別に不可欠」なのに、一様視の時空(場)ではその存否が不透明なまま( 時空像の変革に伴ない「自然の解釈」]や「計量の意義」に変化は生じても、それは〝理論の変更止まり”で、当然「自然自体の問題ではない」←理論というもののの性格・限界を示す)。

     ”相互〝作用を言うにも先ず区別の存在があるはずで、〝空や無〝との間にもあるこうした自他区別が不透明なままの状態下で究極的粒子の詮索が行われても、早晩行き詰まらずに済むとは思えない。
     むしろ理論基盤に関する解明不足であることが、且つて基盤変革で一変した「周転円問題」が陥っていた些末な議論を彷彿させる。

    ○ 数式は事象解明に際しての手段であって、「物理学は数式で始まる」訳ではない。議論の対象となるε量事象が先ず存在、記号や数値・数式はそれらの解明に適した簡明な言語として有用というに留どまり、理論の吟味は数式上が出発点ではない。
      例えば ds^2=η_µνdx^µdx^ν での添え字μ、νが0~3 を採るということはは数式以前に決まっていて「数式で決まる」ものではない。
     
     「時間経過」は「ε量事象の変化・変位の抽象化」とみる立場では、ε=γmc^2内のβ=、≠0の2系は既に異なる位置にある不同状態で、≠0系上への移行で同形となってもそれは形式上のことに留どまる(cf.#1928 1933 etc.)。
     それらの位置区別はε量状態の差異を反映 or rmappingと言え、それぞれの地点を原点に採る座標系は同一視できない。こうした関係は対象事象の位置q運動量pとする(qp)座標形式にも見て取れる。

     事象と時空の対応関係は「ε量体を表象する質点の運動方程式と測地線との関係」にも表われていて(#1860 )、物質と時空が相互に影響し合うという以上に”両者は同一事象の2通りの捉え方”であって、「実体世界とその抽象化である数式世との関連・対応関係」を表わしている。

  • <<
  • 2049 2030
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順