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    ○ 特殊ローレンツ変換での ds^2不変式は座標系の採り方に無関係に成立するので、今S系とそれに対し速さvの質点上に原点をおくS'に適用すると
    ds^2=dx^2-c^2dt^2=-c^2dt'^2 ⇒ -ds^2/c^2=dt^2-dx^2/c^2=dt'^2・・?
    が成立。(各系は唯一通りの時間で統一されており、dt,dx,dt'はそれら座標軸上の目盛で計測した事象dsの計測値)
    これに dx=vdtを代入整理すると
    dt^2(1-β^2)=dt'^2⇒ dt'=√(1-β^2)・dt・・?
    つまりS'時計の遅れを示す?は単に両系時間同士だけの関係なのではなく、既にdx項効果も織り込んでおり,ds^2不変関係と同値とみなせます。(?下段[物理元]は[時間]^2)

    ○ ?で v≠0 なる限り数値上dt'≠dt。ところが相対論では「どの系上の尺度も区別しない」のが前提だから”同一事象ds”の間の両時計の進みも同じ、つまり dt'=dtのはずで、これは?と矛盾。
    そこで理論の前提維持のため,S'時計の遅れに関して「Sからみると遅れて”みえる”」という゛危うい”弁明が用意されている。しかしのdt'定義は「S'時計での事象dsの計測値」であり、「S'時計をSからみたときの数値」という意味はなく、どこからみる・みないという視点の関与とは無関係に速さ0,V両系を第三者の目で比較しての結論であって、遅れ(両時計の1秒の大きさ不同)は客観的な事実だと考えます(遅れて”みえる”のは単なるその結果に過ぎず、”Sからみること”が遅れの原因ではない。どの系の1秒も同一視する前提の下でS'時計は一体どちらの速さで進み dt'を得たのか? 先の弁明は dt'の意味を不当に曖昧化することで,矛盾する「遅れ」と「理論の前提」の両立を意図する姑息で的外れな対応に過ぎないのではないか?)。

    ○ 両系上で尺度が違うとする立場を採って?を γ・dt'=1・dt とおきます。不変関係は少なくとも数値上の不変(同一)を意味しているのだから、共通としてきた基準(orS系基準)でのγがS'系では1に縮小→両系単位長1の大きさ不同 とすることで、形式上・数値上の不変関係 1・dt'=1・dt → dt'^2=dt^2 が実現、これが ds'^2=ds^2 に相当すると考えます。
    一般相対論でのgによると同様、vによっても各系上の単位長1は不同とすることで、時空はどの局面でも原理上局所性をもって成立していると統一的に考えられることになります(原理上と近似上は別。元々近似処置は当該両局所の不同を前提とするもの)。これは広域や大域の慣性系の否定に通じることにもなります。 

    ○ 結論:ds^2不変の現行解釈「両系同一単位長1での同一数値」は「各系異単位長1での同一数値」に変更すべきではないか(計量基準の相対化)というのが疑問です(始めに不変とした際のdsはどの系での尺度で計った大きさなのか。速さ0の系での計量基準をvの系にも押し付けていないか。ローレンツ変換はスケールの変換も伴っているのでないか。両系の相対性・同等とは「どちらを基準の系に採っても同じ結論に到達する」というにとどまり、両系上の同等までは意味しないのではないか)。

    ○ ご意見・反論をおきかせ下さい。

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  • 2031 2010
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  • 2031(最新)

    qnj***** 9月17日 21:45

    >>2030

      ≪a priori基盤は”疑問の余地なき真”でなく未解明なだけ;脆弱地盤崩壊は理論でも!≫ (続)

    ○ 基盤の「一様→非一様へ」の転換は当然「理論全体の構図」の大変革を意味する。 
     一様視の時空下では局所状態を区別しないことから「区別に不可欠な単位量の存否が不透明」で、これは”大きさ0な点の許容"に結びつく。4D特性が”空や無”に帰せられた真因はここにあり、如何に些少でも存在ε量体は≠0の点として”空や無”と区別されるべきなのだ(ε量場・tensor場原点に想定の0tensorはε量的に≠0)

     ○ 記号・数式による表現は、それらで表現されているもの(対象)が先ず存在するということであり、これが記号・数式は第一義的存在ではないとする理由(「現実→抽象」の対応での前段優先視)。
     物質が内在する現実時空は空虚でも一様でもなく(明らかに「特殊」段階時空とは乖離)、「一般」段階思考に徹した場合の時空像にmatchと受け取れるのに、現在も数式表現のbase(時空)は 一様・非一様性や空・実などの点で不徹底・不分明なままでないか(特殊・一般両段階思考の混在)。
     これらはmappingによって数式に取り込まれる以前の「考え方の問題」であり(cf.#2030)、両段階が等価(mappingが完全)なら、数式以前の「現実に即した直観的把握」の方が簡明。

    漸近的に細部での近似度を高め対象粒子の確定値追究の以前に、「対象の≠0な単位的量の存否」や「”空や無”が3・4D特性をもつ非合理性」checkなどを通じての「”大もと”である時空像の確定が」先決で、そこでの相互作用が不可避なら粒子の確定値という考え自体の再考が必要では。
     これは古典・量子力学段階の区別なく考慮されるべき理論基盤に残る問題と考えられる(#2027)。 
     
     一般相対論は「計量の一義絶対性が成立するような環境は最早局所近似以外には存在しない」とするもので、これは「特殊」段階思考に依拠の場は”原理的に成立しない”という「従来科学思考の限界宣言」に等しい。

    ○ 4D特性を”空”から分離しようということの根底にはこのような「存在量に関する思考が不可欠」。しかし「人間の認知作用の発生自体も”原”物質的ε量が源」と捉えるなら、原理的に意識の優先はあり得ず、高々「あるがままの存在量容認」を超え得ない。

  • >>2029

    ≪a priori基盤は”疑問の余地なき真”でなく未解明なだけ;脆弱地盤崩壊は理論でも!≫ 

    ○ 3D空間・時間は解明済みなどではなく本質的な疑問を残したままで(ex.1945)、そうした状況での「基盤枠組変革」は現実の脆弱地盤の崩落と同様catastrophicであり得る。
     如何に微小でも「単位量の存在は局所区別に不可欠」なのに、一様視の時空(場)ではその存否が不透明なまま( 時空像の変革に伴ない「自然の解釈」]や「計量の意義」に変化は生じても、それは〝理論の変更止まり”で、当然「自然自体の問題ではない」←理論というもののの性格・限界を示す)。

     ”相互〝作用を言うにも先ず区別の存在があるはずで、〝空や無〝との間にもあるこうした自他区別が不透明なままの状態下で究極的粒子の詮索が行われても、早晩行き詰まらずに済むとは思えない。
     むしろ理論基盤に関する解明不足であることが、且つて基盤変革で一変した「周転円問題」が陥っていた些末な議論を彷彿させる。

    ○ 数式は事象解明に際しての手段であって、「物理学は数式で始まる」訳ではない。議論の対象となるε量事象が先ず存在、記号や数値・数式はそれらの解明に適した簡明な言語として有用というに留どまり、理論の吟味は数式上が出発点ではない。
      例えば ds^2=η_µνdx^µdx^ν での添え字μ、νが0~3 を採るということはは数式以前に決まっていて「数式で決まる」ものではない。
     
     「時間経過」は「ε量事象の変化・変位の抽象化」とみる立場では、ε=γmc^2内のβ=、≠0の2系は既に異なる位置にある不同状態で、≠0系上への移行で同形となってもそれは形式上のことに留どまる(cf.#1928 1933 etc.)。
     それらの位置区別はε量状態の差異を反映 or rmappingと言え、それぞれの地点を原点に採る座標系は同一視できない。こうした関係は対象事象の位置q運動量pとする(qp)座標形式にも見て取れる。

     事象と時空の対応関係は「ε量体を表象する質点の運動方程式と測地線との関係」にも表われていて(#1860 )、物質と時空が相互に影響し合うという以上に”両者は同一事象の2通りの捉え方”であって、「実体世界とその抽象化である数式世との関連・対応関係」を表わしている。

  • >>2028

    ≪”対称性の破れ”で「特殊段階時空像」崩壊!;「非一様時空像」は”理論限界”も視野に≫

    ○ どこも区別がない一様時空は対称的とできても、現実の実体時空を一般相対論的ε量場とみる限り(cf.#1481 2018~etc.)、隔たりを区別した時点でどの異なる2点を原点とする座標系も最早同じとは言えない。
     これはds^2不変議論の根幹に関わるもので、「時空・事象関連容認」の立場は端的な「特殊」段階思考の不適格性の指摘になっている。
     結局「一様対称性基軸の理論」への明白な限界示唆は「徹底的な自然解明手段としては期待できない」ということ。
     
     時空の一様・非一様性に関わる事例の一つがdt時間系と個別固有時の関係;ds=cdτ=√(1-β^2)cdt で、ここで優先されたのは「特殊」段階までの時空像に依拠の一義的計量維持の方だった。
     つまり、dτは各v系上での経過時間ということで系毎にv効果はcancelされているが、それらを全て唯一通りのdt時間系に集約という構図。
     しかし各v運動系の原点対比に迄立ち入り区別するなら、それら系上の時間経過は区別されて唯一通りではなく、”共通事象”の間の経過時間は「異尺度1での同一数値」に留どまる。

     結局dt時間系での経過秒数は「基準1の区別無視での形式上のみor高々近似的同一視での同一数値」どまりということに(近似は同一に不要)。
     時空一様視の「特殊」段階思考下でならdt系時間は唯一通りであり得ても、「一般」段階思考下の客観的対比では「各系経過時間は全く同じ」とはならない。
    「時空の一様性」と「共通事象の唯一性」は不可分であり、逆に非一様時空を認める限り「一様時間など全く形式上のもの」で、生起事象の総括的把握を試みる際の便宜・道具に過ぎない。

    ○ 場を静的と設定した上で時間経過を使用の記述は「事象と舞台枠組が独立でなくては本質的に無理」で、現在の計量手法・結果は絶対的ではあり得ない。
    「時空・事象の関連容認」は両者の本来的同一性(前者は後者の抽象化)の示唆であり、観測による擾乱という「不確定性原理」とは全く別次元の問題。
     数式を介しても表現されている上記関連容認は自然への洞察力の問題で、「非一様場」主張は「不備な一様統一場基盤の理論への限界指摘」であり、「統一された自然記述の可能性」に対しても悲観的立場と言える。

  • >>2027

      ≪特殊・一般相対論思考の連続・不連続;非共通部分の意義こそが重要!≫

    ○「一般」段階は「特殊」段階をbaseに構築であることで当然共通部分があることは Newton力学→特殊相対論 のcaseと同じ。むしろ移行前後での異質な「非共通部分」こそが新展開として重要で、それを含む全体像はそれ以前の理論像を一変させる。
    「特殊→一般」段階では、明かなε量変化を伴う「不変関係の加速系までへの展開」こそがそれに相当、その新機軸が出処不明な所与vへの立ち入りともなって「a prioriで空虚な一様時空がε量的場という実体的原理的非一様・非対称場へ移行」する。

     不変関係 ds^2=(cdt)^2‐(dx)^2=(cdt)^2(1-β^2)の変形を通してみれば、≠0なds^2量は、β=0、≠0の2系間で異なり、同等不変はどこまでも近似であることは明らか。
     その差異を「一様時空像下の同一基準での同形・同一数値」ではなく、「非一様時空像下の異尺度1での同形・同一数値」とみるのが「一般」段階解釈であり、数値上の一致は「既に異尺度1下での”みかけ”止まり」となる。 
     近似処理が普通である日常技術的見地ではこの微小差は軽視可でも、理論の全体像にとっては「自身の基盤を覆す大変革」で、こうした微小領域での差異区別で「近似処理の意味を根底から捉え直す」点に一般相対論へ展開したことの本質的意義がある。

    ○ Newton力学で独立な3D空間と時間のds^2への一体化の必然性は、上記のように異なる一様座標系間で「同一事象に関し得られる数値が同一不変であるべき」とする”相対性原理”確認のため。 しかしds^2≠0な限り「厳密な一致はあり得ず、近似的一致どまり」なことは明白で、逆にこれは「同一scalarの普遍的一義性の再考」を促していることにもなる。
     結局「時空の原理的な非一様・非対称性」が逆に確かめられ、それに伴い電磁場の従来解釈も再検討対象となる(#1999~)。

    ○ 計量tensorg≠g’は既にε量場としての時空の非一様性・一義的計量の拒否を意味するに拘わらず、一様4D性維持のためその阻害要因を外部次元に委ねようとする議論は、真っ向での「時空・事象関連との対処」とは言い難く、「時空の4D特性の出自解明に不達のまま」では根源問題を回避の不十分なものでないか。
    と考えます。

  • >>2026

      ≪理論の「完結」は「自己否定」で;「前提(仮説)の可否」不問・踏襲どまりでは不備≫ 

    ○ 慣性系の局所化は全時空の非一様視を意味し、それは物理的には不均一なε量体存在によると解し得るもの。 
     時空点に4D特性付与ということは最早時空を”空や無”とみなしていないことを示唆するもので、 数学的一様座標軸上の順序数区別(or位置区別)も対象の物理的v運動の違いに由来と捉え得る。
     時間経過は時計を含む事象の変位・変化を通してしか知り得ないことも事象存在の第一義性(逆に時間・空間の3D性の二義性)を示すものだ。
    (cf.#2026 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8741370.html
    「時空・事象の関連容認」もこうした背景事情に沿うもの。

    ○「物理的な”空や無”に相当の数学的時空点」と「tensor表示に従う時空点」の区別が曖昧なことは、先ず理論出発時点での”仮定の曖昧さ”(0・v状態の区別の有無)、更には摂動などの近似processでやはり区別したはずの2点の一致を希求する処理法などと同根と言えるものでないか。
    両点の一致は自身の立脚点(異なる2点の存在容認)の否定となる事情をどう受け止めていることになるのか?

     量子(quantum)表現自体も存在量の近似表現であり、どのような粒子も相互作用なしで存在し得ないとするなら、古典段階での0・v区別の有無と同じ問題を含むものと言える。
    「0であり1でもある」とする重ね合わせ思考も「”まだ重ね合わせの洗礼を受けていない”別存在である両者を先ず認めた上でのこと」でないのか?
     どの系状態も相互作用を除外できないということなら、やはり「計量の意義(異なるものは区別する)」が問われていることになる。

    ○「”空”状態を表示する点」と「”4D性”状態表示点」の区別こそ”より詳細領域での探索への要請であるはず。成功体験に依拠し「従来思考踏襲のまま」では、未解決問題へのapproachとしての適性を問いたい、「自身の立場への自省の欠如ではないのか」と。

     諸般の問題は結局「”空”と4D特性点の区別の有無」に帰するように思える。
     近傍との相互作用を拒否し得ないなら、「異なるものは区別」という思考に立脚の理論は、最終的に自身の立場を維持できないと言うことにならないか(少なくとも絶対視は不可)。

  • >>2025

      ≪粒子の”内部空間”が本来の「実時空」;時間・3D枠組は「抽象場」へ≫

    ○ どのような場も「その特性を備えた単位となる≠0な点の存在なし」では”場としての拡がりは構築し得ない"という批判に反論できない。3・4D特性空間も同様で、”空虚”にa prioriに同特性を付与する「特殊」段階までの理論では自身の基盤枠組に曖昧さを抱え続けていることになる。
     
    「時空‣事象の関連容認」の立場でも「場は時空の各点に関連する物理量である 」と言うに留どまるのでは踏み込み不足で、依然「”空虚”に終始a prioriに4D特性を付与」という「特殊」段階side思考どまり。
    「時間経過は事象の変化・変位の読み替え」とすることで初めてa priori時空像から解放され、同一位置での時間経過も既に異なる位置を意味する(同位置での位相変化にも適用)。
     それに基づく「局所毎の計量基準」という「gauge不定性」は「計量の意義の再検討を要請する」ことにもなる。

    ○ そうした観点からは「”粒子の内部空間”は従来時空に似せたもの」とする発想は解消・逆転となる。
     つまり内部空間による記述は「自身が4D体であるそれら粒子・ε量主体に関するもの」であることで、”不明瞭な4D特性のa priori起源視”から解放され、実体場の4D量に終始する記述となっている(cf.固有時とその主体の関係)。
    「重力場の式」を右辺優先で捉えることは理論自身の根底にある4D性の起源や一様・非一様性の曖昧さを脱し得るだけでなく、ε量場の考え方の下でε=mc^2関係の徹底を介して従来の質量概念の変革も進め得ることになる。
     各系・局所間は系の全ε量対比となり(Lagrangian→Hamiltonian)、「4D特性のε量起源」は「接続場」におけるgaugeの異同に関わる”単位量の存否”問題にも連らなる。

  • >>2024

     ≪一様時空像と順序数区別;一般相対論の「a priori性拒否」指向の重要性≫

    ○ ”どこも変わらない”一様対称時空が大前提なら、”計量基準が変わる余地もない”のだから特殊相対論の原理Ⅰ(同形性)と原理Ⅱ(c不変)要請の内、原理Ⅱは既にⅠに含意されていて「元々不要のはず」でないか(→一様時空下での同形性要請だけで足りる)。
     計量基準の不同(g≠g’)は”局所区別”の非一様時空と表裏一体の主張。 

     更に一様時空下での座標系上の「位置区別」と「一様性主張との整合性」はどうなのか?
     順序数も「局所区別」の一環であり、より微細な領域精査である「一般」段階でのその区別は首肯できるが、そうでないそれ以前の一様時空像下・「特殊」段階での区別の有無は不透明で、「変化に際しての≠0な単位の存在無視or軽視」が問われるべきでないのか。
     ”energyが下に有界であるべき”との要請(cf.#2022引用site)は”≠0な最小単位の存在認知の要請”と受け取れる。

    ○ 数学は無限次元を含め任意次元の場を設定できるのに「現実時空が何故3・4Dなのか」に答え得ていないが、数学的多様体は”無や空”ではないetwasの存在形態であり、場と物質を「質でなく量的な違い」とする物理的非一様時空像(cf.#1481)はそれをε量的に捉えたもの。

     一般相対論は前段階までの上記のような不透明な一様性設定・a priori視への疑念に関連して”更なる理論基盤への考察・立ち入りを要請するもの”と受け取れる。

  • >>2022

    ≪「一様対称時空像」の終焉!;一般相対論時空と相反≫

    ○ 事象記述の数値・数式はそれだけで既に”自立”ではない。対象は粒子・波動いずれで表現されてきたものであれ”物理的実在量”であって、それらの形態はscaleに応じてgradationはあっても、粒子像は波動像の集約的表現とみれる。

     物理学での数式記述対象はそうした「”真空”やetherとは異なるε量的実在量」であり、「一般変換」における”加速系までへの不変関係の拡張”は”明瞭な局所系間ε量差の存在を意味する。
     位置毎のg≠g’や慣性系の局所化は「一様時空像」とは相容れず、等価原理(慣性・重力質量間)も局所毎に限定されて「一義的計量(数値)の意義の限界を示す事例」と言える。

    「時空・事象関連容認」はそうした時空変容への包括的表明であり、ε量場思考は「振動子などの存在による真空概念の変容事情」とも呼応、「一意絶対的計量基準拒否」は「特殊相対論依拠議論へ明確な制約を課している」。

     一般相対論のこうした「非一様・非対称な場主張」は当に「CPT対称性の破れはLorentz対称性の破れ」とする立場(cf.#2022引用site)」の具現に他ならず、その結果『特殊相対論自体が理論構成の”絶対的基軸の座”からslip down」となる(近似思考へ移行したNewton力学とのanalogy)。
     にも拘らぬ対称性議論への固執は”既に首を刎ねられた”のに未だ気づいていないだけ?
     (← オマエ ハ モウ シンデイル!) 

    ○「一般」段階的思考は既に日常技術的にも疎遠なものではなく、物理理論として基盤不透明なままでの高次元化は一層の混迷を深めるだけで(「一般」段階思考拒否でない限り早晩それに則した解決へ)、「ε量的宇宙とその背後の計量用時空の関係」もa priori時間・3D空間を離脱して始めて決着と考えられる(”揺らぎ”は”無”に属さない!)。

     observableな世界は“全て”ではないが(複素世界の上部構造)、計量は各々の「存在位置毎の基準1」によるもので、「事象の変化・変位は時間経過なしにはあり得ない」、というより「そうした変化・変位を時間経過と呼びなしてきた(→(qp)形式でqがpの所在のはず)。
     単位ε量(≠0)が時間経過の単位であることは”粒子の空間成分・時間成分が表象している(cf.固有時)。

  • >>2020

      ≪CPTを含む総ての変換は≠0なε量場で;特殊相対論時空は「ε量性の有無が曖昧」なまま≫ 

    ○ 比較対照に「基準の系」は不可欠だが、それは運動状態の異なる種々の系に対し運動・変化量0の系であれば十分で、”絶対静止系”である必要は元々なく、相対論へ移行の背景にもこの事情があった。
    唯、その際の「0・v系不変同一視」という設定はv→0という制約条件下ではあるにしろ「両系の異同」に関し曖昧さを残し続けることになる。
    「特殊」段階までの理論展開はNewton力学が数学的時空像に依拠していたことで可能だったと言える一方で、vは「物質ではなく座標系に関わる」故にか「それに要するenergyの出処不明」なまま”始めからの所与”扱いで済まされている。
     一様対称時空というのは抽象的・数学的思考では”点の大きさ0視”であることで容易に想定され得るが 物理的に”≠0な質点”を想定すれば周囲との区別・更には運動のenergyの考慮も要する。
     これは逆に「物理的時空は始めから非一様・非対称であるべきこと」を示唆している。
     
    ○ 対称・非対称問題の本質は「≠0なε量事象の認否」にあり、その存在認知は即「不存在部分の発生」をも意味し、反物質・反世界は「物質(ε量体)世界の存在容認」とその裏返し「ε量性不在」という相反概念間の問題であって、両世界は「ε量の”存・否”が決定」する(量的差異の多・寡問題ではない)。
     一方、粒子・反粒子はε量場内での形態区別の問題で、CやPなどの変換も総てε量事象に関わるもので、物質・反物質とは”別次元”のもの。

    ○「時空・事象関連」示唆は、「”抽象的な時間経過”は”事象変化に帰する”」という方向性指向と捉えられるが、「一般」段階が最初ということは、「前段階まで両者は”無関係とされていた”」ことの証しでもある。
     これは「”真空”のenergy容認・振動子の存在」にも拘わらず「ε量不存在を意味する真空概念が放置されている」事情と通底する。

     量子力学の”状態”は存在事象とも時空状態ともみなせ(ex.#2015 16)、極微領域での素粒子・量子探索段階に至っている以上、理論baseは明確な一般相対論的ε量場であるべき。 

     cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/CPT%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7

  • >>2019

    ≪「”真空”の変容」で4D特性は既にε量体へ移行済み!;不透明さ残存は「概念未整理」の怠慢≫

    ○ 原理的問題は局面のmicro・macroに無関係で、(力により作用の到達範囲の問題はあっても)一般的にmacro領域での様相はmicro局面の拡大提示と言える(ex.重力)。
    「時空・事象関連容認」も、そうした「全時空・全局面に亘る問題」なのに、その意義の把握が不十分なままでないか?
    上記「関連容認」は、”内在ε量体無視・空虚なだけ”の「不自然で説明不能なa priori性依拠時空」に対する 『王様は裸だ!』 宣告とみなせる。
     つまり、「時空・事象関連」は最もbasicな理論枠組局面における両者関係の究明問題であり、(種々な理論・数式議論展開以前に)「”無や空”概念がa prioriに4D特性をもつとするlogic的不自然さ」への言及(ex.#1957)、or(現実・抽象の対応関係下で)「数学的多様体は無‣空ではなく、”物理的ε量場に相当”という事情に気づくべきだ」という理論側の自省に基づく提言と言えるからだ。

     これは即「”真空”概念は内部振動子の存在容認などで既に”空虚”の意味を失い、変質してしまっている」事情に相応する(何もないのに原点振動などあるはずがない!)。 
     抑々「ds^2不変」も「変化量dsの主体”s”の存在」が前提であり(無や空ではない!)、0・v両系で同一数値が得られても、それは「各系毎の基準尺度1によるもの」となっている。

    ○「既に大域慣性系の拒否によって「原理的に唯一絶対的基準系は存在せず、同一scalarの一義性喪失は明白」なのに、何故絶対的・特殊相対論的a prioriな唯一時間系が存続し得ているのか?
     概念変更の徹底に関わる「明瞭な発言が聴こえない状況継続」の真因は、根深い「特殊」段階思考の”絶対視”(信仰に近い!)でないか(重力の”繰り込み”⇔一様不変理論の崩壊)。 
     この点の変革なしでは例えば「宇宙とその背後の計量用時空」に関わる異同・混乱解消の目途は立たない(⇔真空と内部ε量”の認知問題)。

    「実体・現実」は「数値・数式自体」ではなく「それらが表象している”etwas”」の方であり、固有時とその主体間の関係が「時空・事象関連」の典型。
     粒子の生滅は“無”との関係でなく”ε量場での相移転で捉える”ことになる。

  • >>2018

    ≪「特殊」⇒「一般」段階 は“継続”よりも”断絶”!; ∵ 一様⇒非一様 は世界像の根源的変革≫
       
    ○ 「同一scalarが唯一通りの大きさであり得る」のは一様不変な背景の存在が前提(ex.#1950 2012 etc.)。
     慣性系の局所化という「一般」段階思考下では、もはや時空(場)の一意絶対的or「特殊」段階的一様対象性は近似を超え得ないことは明白で、「大域慣性系拒否」が「特殊」段階思考に制約を課する以上、既にa prioriな、それ故に絶対視されてきた「特殊」段階的時空像は維持できない。

     一般相対論的実体ε量場思考下ではまた、一様時空を背景としてきた人為的MKSA単位系も局所状態に応じて解釈されるべきことを意味し、数値の一意絶対視の変革にも及ぶ(←計量数値の一義性拒否 既述)。

     つまりε量体が存在の現実の場では「”変化の単位の軽視or無視により成立”の抽象的一様場」はもはや存在し得ない(or特殊相対論的時空は現実場ではあり得ない)。
     これが「一般」段階での「時空・事象関連容認」の意味することであり、そうした理論基盤の違いを看過・放置していることが曖昧さの継続を許している原因と考えられる(一般相対論の包括的意図把握の困難さが“事態の把握”を妨げている!)。
     
    ○ 上記のcaseに限らず、理論成否の境界に位置する「基盤周辺」にこそ”識別に関わる重要問題”が潜んでいる。
     例えば連続と切断に関し、量子力学的に「隣接2数はある確率で混合」と考えてみても、予め前提に採る2数はそれ以前の、そうした思考の洗礼を受けていない確定値として捉えて使用していないか(洗礼済みなら改めて対象にするまでもない)。
     計量・計測は対象の数量的確定値を求める操作だとして、究極においてそれは果たして可能なことなのだろうか(ウロボロスの蛇的!)。
     こうした問題は粒子・波動両性共有を介して古典・量子力学に共通する事情と言うことになる(最もbasicなε量体としての光(子)がそれを象徴)。

    〇 現実の場に存在するのは「”個別扱い”されているε量事象」であり、抽象場では「固有時間」がそれに対応する。
     更にそれらの包括的存在である「抽象場における大域的一様統一時間系」はその一般化、つまり「生起事象の概括的な整理把握を期する補助手段止まり」を超えるものではない。

  • >>2017

     ≪「理論基盤の調整」が最優先事項!;不透明さを残し続ける一様・非一様性≫

    ○「一般」段階の微小域での2階微分、Riemann‐tensorの全成分checkは同等視部分での詳細probeであり、「異なるものは区別する”計量の本旨”」に則した立場からの「0・v同等視仮説への異議申し立て」とみれ、「特殊」段階思考どまりの議論の「明白な考察不足」を指摘するもの。
     この原理的・根幹部分における不協和音「隣接点同等視の是・否」は、「加速ε量考慮の有無」が左右し、それが「実在量の一様・非一様問題」に連なっている。

    ○ ε量事象の最終的段階に相当する素粒子の詳細記述levelでは、究極的に個々の”素”粒子の区別・分類は可能なのかor全ε量場の相互作用の一部分という身分で終わるのか、の見極めが要請される。
     前者の立場は「異なるものの同等視」という曖昧さを残す現理論の基盤に則したままで可能なのか、自身の立論の背景・baseへの立ち入りcheckが必要でないか。

     そうした根源的局面ではhiggs機構が粒子に質量を与えるなどの思考以前に、ε=ɤmc^2の全面適用に基づく「従来の質量概念の徹底的変革・拡張」があるべきで(ex. #1481 83 92 1530 etc.)、”素”粒子的存在はそうした”原物質”的ε量場での相互作用から出現すると捉えることで例えばquarkやgluonなど単独では取り出し得ない事情の説明になり得るのでないか。
     
    ○ 究極的に「不同なものの同一視許容の理論」というのは「微小域での”素”粒子区別の意味を認めるのか無用と言うこと」なのか?
     最終的にε量事象の主体である総ての粒子区別が可能であれ不可能であれ、結局は一様・非一様性が曖昧なままな基盤では「理論が不十分だった」ことになるのでは。

    ○「現実と映像」関係同様、「現実・抽象」は違うからこそ区別がある。どのようなε量事象にもその主体があるはずで、作用の拡がり部分が事象主体(従来の質量体)と捉えられる。

     ”抽象”数学・数式表現への移行によって「自然に関して何が変わるのか」?
     座標系(原点)は現実のε量場の大きさ≠0な一点上に構築という「現実との対応」こそが肝要で、抽象化に際し「一様視に起因する単位量存在感覚の不在or希薄(ex.大きさ0の質点)に問題はない」と言えるのか?

  • >>2016

    ≪「不変」仮説と”理論の限界”;「計量基準までへの相対化徹底」の意義≫

    ○ 加速はε量状態の変化を意味する以上、一般変換への移行段階でその視点に則した両系関係の見直しがあるべきだった。
     だがNewton力学の数学的時空が維持されていることで、0・v両系間も”数学的座標系としての位置関係に終始、つまり「最初からε量的観点とは無関係な所与とする議論どまり」だった(両定常系はともにある時点でのstop-motion状態での対比。その時点で既に両系位置は不同:g≠g’)。

     理論は”論理性に徹してこそ有効”なのであり、現実の電磁場・重力場など物理的・ε量場での計測が技術的制約から近似を免れ得ない事情とは異なる。
     ところが、0・v(≠0)の同等不変視は理論の出発時点・根底において既に”不同なものの同一視”であり、局面に応じて恣意的に好都合な方を適用してきていないか。
     この仮説設定時点で理論は自身の根幹である「2局所の対称‣非対称区別の有無」を曖昧にし、”対称性が非対称の近似である事情”を隠蔽していることになる(←「原点の不定定数処理にも通じる問題 ex. #1967 etc.)。
     どちらであるかは「理論の根幹枠組である時空自身の一様・非一様区別に直結」し、その全体像を左右するに拘わらず!

     加速によるε量差認知に至らないこの不条理が結局「ε量とは無関係とするa prioriな3・4D時空維持」に連らなっており、一般相対論も自身の局所区別(g≠g’)指向と不変同等視の間で不徹底さ・曖昧さを残し続けている状態と言える。

    ○ g≠g’思考に対し、「特殊」段階までの唯一絶対的計量基準維持は、相対化の「計量基準までへの未達・不徹底」を意味する。
     その変革には「原理Ⅱの光速c不変」の解釈を変更し、「不変は計測対象・計測器類とも同比で系状態不同の影響を受けた上での同形・数値不変に留どまるとの解釈を採るべき」となる。

     理論は漸近的な近似手法に拠っているものの、究極において「異なるものの同一視」or「異なるものは同じ」を許容するのか? 
     そうした局面でも「一意絶対基準の解消徹底」であれば、現在の科学的手法絶対視・過度な期待への再考を要請するものと受け取れ、bigbang以前の時空の性格や多世界の実在性(←末端肥大症的!)などに新たな視点を齎すと考えられる。

  • >>2015

    ≪ ds^2"不変”の意味変容・空洞化も視野に!;理論の基盤変革を齎す”大域慣性系拒否” ≫

    ○ 同一scalarが同じ大きさであり得るのは「場」の一様・不変が保証されている場合に限られる。
    「一般」段階での慣性系局所化は一様視許容の範囲を限定するもので、異なる位置を原点とする局所系は各計量基準が不同となることで(cf.g≠g')、「同形・同一数値を以って同一不変成立とするのは形式上でのことに留どまる」と捉えることになる。

     どの系上でも「自身の系基準1での計測である」ことでは変わりなく、その意味では同等と言えても、それは既に基盤状態が変わった上でのことである以上、「表面的・形式的に留どまる」ということで、これは前段階までの一様不変時空像離脱に伴う”原理的にi不可避な”結論だ。

    ○ 対象の粒子・波動両性具有は存在量のε量性・それに起因の作用など物理法則の根幹は古典・量子力学両段階を通して変わらないとの立場を保証・示唆するもので、確率解釈もその範囲内でのことに留どまる(ex.#1864 74 1998~215)。
     ≠0な単位量の存在は不可避といっても,observableな部分が総てでないことは波動関数などに見るような複素数の世界が議論されていることからも明白で、粒子の消滅も”無”に帰することではなく「ε量に関する相移転」どまり。エルミート性などpairingがε量関連のobservable世界への転化を齎していることになる。

     そうした変化はε量の関与なしではあり得ず、その意味でもa priori時空の不可侵性などは容認し難く、加速系までへの不変関係の拡張にみるように「世界はε量事象として把握されるべき」なのであり、抽象的時間・3D空間はそうした事象の把握・議論の際の二次的な枠組・整理用手段に過ぎない。

    ○「一般」段階は従来思考絶対視ではなく、2階微分などによる”そのより微小領域への立ち入りcheck”により、従来理論の同一視部分に目を向けさせる契機となっている。
     更には理論の最終的局面での近似手法(摂動など)の限界or対象の連続・切断問題への関心をも喚起するものでないか。

  • >>2014

      ≪未踏領域への踏み出し;一般相対論の真骨頂≫

    ○ どのような理論も設定した原理に依拠するものである限り「自然の完全な説明」とはなり難い。だからこそ相対論でも未完部分の解明が継続しているのであり、不完全だとしての批判は的外れ。
     まして相対論と同基盤に立ちながらの批判であればnonsenseでしかない。
    相対論自身が未完なことは「時空・事象関連容認」の表われとしての重力場の式での「右辺は”わら”」表現が示しているが、問題の本質は「関連容認」にあって、非一様なε量場の局所区別に連らなる。

     実体的存在量は非存在との区別として「≠0な大きさ”」をもち、それぞれが個別に固有時主体にも通じる”単位的な量”(cf.時空での”素領域”相当)とみなせるものとなっている。
     一方、どの大きさの数値も抽象場では一様に記号なみに”時空的拡がり0扱い”。 この”不整合”が例えば軸上の一様・非一様区別の有無を曖昧なものにしている。

    ○ 波動関数の導入など新機軸を展開の量子力学でも「根底枠組のa priori性4D時空は持続」であって、理論最奥の基盤まで変えた訳ではないし、波動関数が表現しているのは当初de Broglieが想定したような物質波そのものではないにしても、実在ε量体と無関係ではあり得ない(←そうでないと確率も何に関するものか分からない)。
     更には、状態関数が時空・事象いずれの状態表現なのか「は明確だ」と言えるだろうか?むしろ両者一致の可能性が示唆されていると受けとれないか(#1940)。
     そうだとすれば「一般」段階の「時空・事象関連容認」と概念的に”同方向を向いている”とみなし得ることにもなる。

    ○ 接続係数は隣接点の存在なしには決まらないし、連続的なε量場での相互作用を考慮するとき、”隣接点での厳密なg・g’区別”も疑問に。両系の不変関係も”近傍”という曖昧な条件下で許容されているだけ(0・vと区別しながらの同一視に通じる!)。

     一般相対論の大域慣性系拒否はその曖昧さを拡大checkする視点を提供し、両系間の変換不変性成立への本質的疑問の存在を示唆と受け取れる。
     つまり前段階までの「一義絶対的基準尺度の存在拒否」を通じて”同一scalarであれば不変”とする数値絶対視・過剰なまでの現手法依存への疑念提示とも。

  • >>2013

      ≪両段階で”gauge不変”の意味変容;大域慣性系拒否の当然な帰結≫

    ○「一般」段階では「時空・事象関連容認」は、例えば「事象の世界線は時空の測地線に沿った動き(#1860)」or「事象と時空は相互に影響を及ぼし合う」などにみるように格別なことではない。
     他方、一様時空が大前提の下では「時空内にε量体を含まぬ or 大きさ0の質点として影響は考慮外」であってきたが、それで「現実を反映」とは言い難い。
     
     一般変換では「0・v状態を0→vまでへの加速前後の2系と捉える」ことで、両系を「不同な系全ε量間での対比」でみることになる( ε=γmc^2 or Lagrangian→ Hamiltonian ex.1881 82 1999~)。
     つまり系間をε量関与で見直す「加速状態までへの不変関係の拡張」によって、両系間対比の場は「従来時空からε量場へ」と切り替わっていることになる。

    ○ 座標軸上の位置区別は「単位のcount数差」であり、g≠g’の立場からは「軸上一様視は明確な局所区別以前の思考だった」とし、そこでの「両系不変」も客観対比の意識不十分なままな一様大前提依拠により”単位1の区別が見えない状態”と捉える。
     唯、「3・4D性の起源」となると、理論・数式自体その基盤に立脚であることから”自身基盤への懐疑的立場は採りづらい事情”であってきたことは首肯できる。
     
     結局、「一般」段階でのg≠g’は明白な「両系実質的不同」の立場であることで、「両系同等は”各系基準1の区別に立ち入らぬ範囲での”名目的なもの」とみ、「gauge”不変”への立ち入りも要請していないか」と言うこと( 時空内での光の湾曲は隣接局所との状態差に起因する”光速不同”によるものであり、「一般」段階は前段階の原理Ⅱ(一律なc不変)に背馳する立場にある! )。
     
    ○「両段階は異なる前提下にあるとの認知が不可欠」なのにそれが不十分なままではないか。
     だからこそ理論の原理的局面へ切り込む「一般」段階的思考が重要で、「加速系までへの不変関係の拡張」は「従来時空への明瞭なε量関与の契機となった」と考えられる(←”余分な哲学の持ち込み”ではなく、時空に関する”前段階までの考察不足”!)。

     疑問の余地のない「時空・事象関連」はどう捉えられているのか?

  • >>2012

    ≪「時間経過の単位としてのc」の意義;「ε量事象・時空関連」の証し≫ 

    ○ ds^2=(cdt)^2-(dx)^2 でのcは時間項・空間項が左辺「4D的”長さ”dsに一体化表現されるための「物理元調整」に資するもの(→時空量の4D”長さ”は結局「一般」段階でε量へ;H.Weyl”質量は一種の長さ”)。
     しかし時間経過が従来通り”tのcountに依存のまま”では「cのraisond'etre 」が今一つ不透明。
     そこでcdtを「c=各系毎の1;時間経過の際の単位量、t;cの単なるcount数」とexplicitに役割を分けることで「実体量光(子)の存在」が明確に認識され、座標値はそのcountに基づく数値となる(→dx=cdtから空間量の単位にも)。
     つまり一般」段階の「時空・ε量事象関連容認」の主張が上記cの立場を介し「抽象時空座標値と現実のε量場の関係」として提示されていることになる(1996 97)。

    ○ 位置区別意識が希薄な一様時空像下の「特殊」段階では、計測に際しての「単位量1の存在」は軽視or明瞭に意識されていたとは言い難く、「4D特性のε量事象への移行」はa priori性からの離脱だけでなく、結果的に「同特性の固有時主体や”素”粒子への帰着」をも意味することに。
     そのcontextの中で粒子・波動両性具有の光(子)も「一般」段階的ε量場の最もbasicなε量体として”仮想視”を免れ得、higgs粒子~陰・陽電子の生滅にも関与とみなせる立場であることとなる。

     大域慣性系拒否と言う「理論の大綱」は「計量数値の相対化」を支持、個別化固有時は自己計量の無意味さなど従来の計量の問題点を提示、一系内での「原点時計に同期させる一様化処理の可否」にも及び得る(→大綱・現実的技術的便宜の”優先順位の問題”)。

     局所区別指向は「究極的に個別ε量体に帰着し”単位量存在の明確化”に至る」との立場からは、時間結晶など同特性移行processでの中間的存在は「明確な単位量の存在意識欠如の範囲での思考どまり」で、格別意義があると思えない。

    ○ 時空のε量場視は古典・量子段階の区別なく理論baseの大変革であり(波動関数もbaseにde Broglie 的実在)、各原点毎の0-tensor想定で「原点の不定定数処理も解消」となる(ex.1967 99)。

  • >>2011

     ≪g≠g’と”gauge不変”の整合性;異尺度1での同形・同一数値!≫

    ○ 「一般」段階での大域慣性系拒否・Minkowski時空の局所化は、前段階までの一様時空像とは明らかに立場が異なり(cf.#2011)、重力場の式は「時空・事象関連容認」の証しであって、「空虚なa priori4D時空→実体的ε量場へ」という明瞭な立ち位置の変移を示す(元々座標系上で表示の数値は対象事象の変化・変位に由来)。

    ○ 原理的levelでの議論であれ、「一般」段階でのg≠g’関係は不同位置ϕ、 ϕ′(=ϕ−∂χ/∂t )にある両系間での”gauge不変性”と 調和するのか。

     つまり前段階とは異なり”局所性指向である”ことにより、『各系同等視』と言うのも既に不同位置でのことで、『異尺度1下での同一数値なのを区別せず、”どの局所系結果も平等視”』という意味になっていないかということ。

     同形同一数値と言っても、従前は「時計・物差(or計測者)も対象同様に系状態から同比の影響を受ける事情の無視」に依っていた(←唯一絶対的計量思考:違いのみかけ扱い)。
     しかしそれには無理があり、同等視は各系毎の異尺度1容認の上となれば「計量数値の一義性放棄」に至る。

     これは「前段階までの一意絶対性への懐疑思想or局所性容認思考」からも認めるべき事情で、『各系毎の尺度1であっても”同形同一数値を得る点では区別しない”』という意味での同等視と捉えることになる。

    ○ 一律基準の喪失により「計量数値は一意絶対的意味を失う」が、これは非一様時空像に拠る限り当然受容すべき事情。
     抑々MKS基準系はどこでも通用する人為的な一般規約どまりであり、本来「局所状態毎に異なる事情」は免れ得ない(大域一様性拒否の当然な帰結)。
     これは各固有時主体を区別する限り不可避なことであり、どの基本的ε量体(”素”粒子)も近傍との相互作用なしではあり得ず「厳密な一意確定値など元々期待できない」という事情もある。
     
     上記は既述の「局所状態不同による同一scalarの大さ区別」に他ならず、自然数の大小は例えば座標軸上での順序に依る、つまり”一般相対論思考の”「原点からの位置区別に基づく」ことは明瞭でないか(→変化の単位量のcount数による区別;(1・n)形式 n=0,1,2、… cf.#1934 1798etc.)。

  • ≪「特殊」・「一般」段階で理論基盤が変容;「0・v状態同等視」許容の可・否≫

    ○ v→0の極限においてであれ、一旦別々と認知し異なる位置で存在を区別された0・v状態の「同等視」は「logicとしてclear」なのか。
     問題は両系”同一不変視”に関し、
    (イ)位置の違いが計量tensorg≠g’の区別となる「一般」段階的思考
    (ロ)その無視orそこまで立ち入らぬ区別未了、換言すれば「場のa priori一様性が大前提の「特殊」段階的思考 
    には明確な立場の違いがあり、(イ)では「異尺度1での同形・同一数値」、(ロ)では「同一尺度1での同形・同一数値」と考えられ、後者では区別の有無は両義的で”曖昧なままでの容認どまり”でないか という疑念。

     運動を議論する限りそこはε量場であり、座標系基盤としての0系原点位置にも運動主体としてのε量体が存在しているべきで(”空”との区別;0-tensor)、0→vまでへの加速processは両系状態の不同を招来する(cf.f=mα)。
     同位置では区別の仕様がなく同等視であっても、v差による位置不同を容認の限り、基盤状態間にε=γmc^2に基づくε量差が存在しg≠g’に結びつき、4D特性もa priori起源ではないことになる。 
     
    ○ 存在・不存在の区別は微小域では殊に本質的で、「大きさ0な質点」という捉え方の曖昧さが「”真空”におけるenergyの存在容認」という曖昧さ放置の因ともなり、実体的”超ひも”や”宇宙”とそれらの背後の座標系時空との関係も同根と言え、「時空は”空”か”実体的”か、概念上の混乱が放置されている」と受け取れる(ε量場としての時空はむしろ固有時主体 or blackholeに親近性 #2010 etc.)。

     従来通り大前提のa prioriな4D時空像に則し判断している限り、上記時空(or場)概念の混乱・曖昧さは疑問の対象とはならない。
     しかし「時空・事象の関連容認」の立場は当にその絶対視されてきた従来時空像への「異なる革新的視点の導入」を意味し、上記「概念上の混乱」は「時空の4D性の起源に関連」との解釈の可能性を齎す。

     一般相対論は「基本的問題では根幹にまで遡る思考が必要」なこと、「落とし物は明るい電灯の光の範囲内で見つかるとは限らない」ことを示唆しているのでないか。  3

  • >>2009

    ≪ Planck長さの向こう側;a priori時空像の終焉 or blackhole!≫

    ○ 古典・量子力学を問わず、理論の目的は実在ε量体の存在形態や変位・変化の記述。
     だから微小域でのPlanck長もそうした実在量に関するものであって、重力定数がPlanck長を含むということ(l_p=√ℏG/c^3=1.6162×(10)^−35m)は当に場との関連を示し、Planckenergyも導かれている。

     これは微小ε量・重力levelでの区別に踏み込むことで「a prioriな一様4D時空像(重力に伴う時間の遅れなどと無関係でどの局所も区別しない)との決別」、あるいは”≠0な単位的ε量”の存在確認による「実在量baseの世界記述への移行」を意味する。
     つまり座標時が顕著な遅延状態に陥るblackholeとの境界or事象の地平線付近(cf.Schwarzschild半径)の事情は「ε量体とは無関係とする現a priori4D時空像の限界」を示唆、逆に「質量集中のblackhole部分は「4D特性の質量体起源を示すε量場で、いわば現a priori4D時空とは対照的な世界である」ことを示唆するものと受け取れる(#1996 90~ )。 
     更にまた、ds=cdτ=√(1-β^2)cdt から時空量としての”長さds”のε量体への帰着、or根源的単位量としてのε量主体は「≠0な大きさをもつ一体として重力源⇔固有時特性」でもあることをも示唆と捉え得る(←一意絶対的MKS計量基準系から局所状態毎での計量基準系へ)。

    ○ これが一般変換にまで到達した理論における「時空・事象の関連容認からの帰結」と考えられ、量子力学段階もこうした相対論からの帰結を超え得るものでなく、不確定性議論も、まず実在ε量の存在容認に立った上での実態確認のprocessとみることになる。
     粒子・波動の両性具備は前者が後者の集約的表現であって近似的ではあれ一体のもので(一時点での一体性)、両状態は加算的に記述されるような関係ではない(重力子も重力の集約的表現であって、重力源に無関係な存在ではない)。時空の4D特性がこのように実体ε量に帰着し得ることでuntouchableなものとして理論の基盤・根源に潜在してきたa priori性は解除されることになる。

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