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    ○ 特殊ローレンツ変換での ds^2不変式は座標系の採り方に無関係に成立するので、今S系とそれに対し速さvの質点上に原点をおくS'に適用すると
    ds^2=dx^2-c^2dt^2=-c^2dt'^2 ⇒ -ds^2/c^2=dt^2-dx^2/c^2=dt'^2・・?
    が成立。(各系は唯一通りの時間で統一されており、dt,dx,dt'はそれら座標軸上の目盛で計測した事象dsの計測値)
    これに dx=vdtを代入整理すると
    dt^2(1-β^2)=dt'^2⇒ dt'=√(1-β^2)・dt・・?
    つまりS'時計の遅れを示す?は単に両系時間同士だけの関係なのではなく、既にdx項効果も織り込んでおり,ds^2不変関係と同値とみなせます。(?下段[物理元]は[時間]^2)

    ○ ?で v≠0 なる限り数値上dt'≠dt。ところが相対論では「どの系上の尺度も区別しない」のが前提だから”同一事象ds”の間の両時計の進みも同じ、つまり dt'=dtのはずで、これは?と矛盾。
    そこで理論の前提維持のため,S'時計の遅れに関して「Sからみると遅れて”みえる”」という゛危うい”弁明が用意されている。しかしのdt'定義は「S'時計での事象dsの計測値」であり、「S'時計をSからみたときの数値」という意味はなく、どこからみる・みないという視点の関与とは無関係に速さ0,V両系を第三者の目で比較しての結論であって、遅れ(両時計の1秒の大きさ不同)は客観的な事実だと考えます(遅れて”みえる”のは単なるその結果に過ぎず、”Sからみること”が遅れの原因ではない。どの系の1秒も同一視する前提の下でS'時計は一体どちらの速さで進み dt'を得たのか? 先の弁明は dt'の意味を不当に曖昧化することで,矛盾する「遅れ」と「理論の前提」の両立を意図する姑息で的外れな対応に過ぎないのではないか?)。

    ○ 両系上で尺度が違うとする立場を採って?を γ・dt'=1・dt とおきます。不変関係は少なくとも数値上の不変(同一)を意味しているのだから、共通としてきた基準(orS系基準)でのγがS'系では1に縮小→両系単位長1の大きさ不同 とすることで、形式上・数値上の不変関係 1・dt'=1・dt → dt'^2=dt^2 が実現、これが ds'^2=ds^2 に相当すると考えます。
    一般相対論でのgによると同様、vによっても各系上の単位長1は不同とすることで、時空はどの局面でも原理上局所性をもって成立していると統一的に考えられることになります(原理上と近似上は別。元々近似処置は当該両局所の不同を前提とするもの)。これは広域や大域の慣性系の否定に通じることにもなります。 

    ○ 結論:ds^2不変の現行解釈「両系同一単位長1での同一数値」は「各系異単位長1での同一数値」に変更すべきではないか(計量基準の相対化)というのが疑問です(始めに不変とした際のdsはどの系での尺度で計った大きさなのか。速さ0の系での計量基準をvの系にも押し付けていないか。ローレンツ変換はスケールの変換も伴っているのでないか。両系の相対性・同等とは「どちらを基準の系に採っても同じ結論に到達する」というにとどまり、両系上の同等までは意味しないのではないか)。

    ○ ご意見・反論をおきかせ下さい。

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  • 1984 1960
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  • 1984(最新)

    qnj***** 12月11日 18:53

    >>1983

    ≪ 原理Ⅱ(光速c不変)の raisond'etre;”慣性系局所化”に耐え得ない!≫

    ○ ds^2の”不変”議論で、同形性は必至だが原理Ⅱに”開き直り”などの評がまつわるのは設定の判断根拠に疑問の余地があるから。
     現にその遅速は「一般」段階で時空の歪み(⇔不均一な物質存在)による湾曲で認知されているが、原因は 「不同とした0・vの同等視」にまで遡る(cf.#1975 76 83)。

    一様時空では元々場所による区別がないのだから「位置不同の座標系間やcの”同等”」も始めから含意しており、それらの間の近似処理なども不要なはず。
     それなのに一方で0・v〈≠0)区別に即した座標の変換関係を考えることで両者間の区別の有無に曖昧さを生じている。
     Galilei変換がc不変を充たさないというのも「v差に基づく区別」が原因で、これは特殊段階でも同事情だが、差を微小とし近似で同一視、x・x’やt・t’間の違いを「一方からみることによる”みかけ”」かの説明を採っている。  だが問題の本質は、”一様時空容認の上で”の「v差の齎す位置不同」に留どまらぬ、もっと深刻な「baseである”時空の一様性自体の近似性”levelで捉えるべき事態であること」にあって、一般変換が不可避的に齎した”時空のε量的場への移行”を俟って説明されることになる。

     Maxwell式では特別の慣性系を選んだ訳でもないのに「どの系でも不変なcの出現」となったが、元々一様時空下では座標系の区別がないのだから「c不変」も別に奇異なことではない。
     「特殊」段階での”みかけ”」差扱いも本来一様不変との思考があったからだろう。唯、それなら何故当然含意済みの不変cに関し殊更に”不変容認”の「原理Ⅱ」設定の必要があったのか、となる。

     この曖昧さの因は「0・v区別の有無が不明瞭」と言う事情に帰し、その解明不十分なことから「Maxwell式事情を斟酌しての”開き直り”」との評が流れることにもなる。

    ○ 結局”ε量場時空”は本来的に非一様であり(定常性維持には要・不断なε量補給)、0・v区別も表層的なv差でなく、一般相対論での慣性系局所化指向・位置による計量tensor区別(g≠g’;不同な基準1)下で捉えるべきことに。 
    (各局所性は個別化固有時の主体(粒子)に帰着 ⇔ ”一様な大域慣性系”の拒否)

  • >>1976

     ≪ 抽象4D特性は”固有時の担い手”に帰着;時空・事象関連のsymbol ≫
      
    ○ 抽象理論が現実を説明と言えるのは現実に起因・そこが出発点だから。理論結果の検証も現実場でなされ、合致しないと排除される。
      受け止め方は種々でも 存在する自然は一つ。
     物理理論として「特殊」→「一般」段階への進展の最大の変容はbaseである4D時空像の ”空”→ε量的実体へ の転化にある。
     真空のenergy・振動子などは従来の”空や無”と対照をなす「”実体時空”の基本量」とみるべきで、座標系の運動はその原点に存在のε量体(0‐tensor)の運動・変化に帰着、それが0・vなど不同位置にある系間関係を規定する(数学的多様体もそうしたtensor場として”空や無”と区別、「対称性の破れ」も殊更なnewsでなくなる)。

    ○ 物理・数学を問わず、隣接数値との区別に際し”変位・変化の単位量の存在”は不可欠で、その認知が不十分なため根幹の「場の一様・非一様区別」に曖昧さが残り続ける。
     人為的MKSA単位系も「立場の唯一絶対性・局所性区別」への言及なしに”一般性を主張”しているだけ。

     そうした「状態区別」は「固有時区別」に直結する。   
     固有時は「事象変化と時間の関連を端的に示すもの」で、#1976での dt’=√(1-β^2)dt は”不変扱い”の ds=cdτ=√(1-β^2)cdt そのものであって、「β区別はdτ従ってまたds区別」に通じる。
     一様時空・数値の一意絶対視思考下でこの固有時区別は回避されたが(#1972)、cは時間経過の単位がε量体光(子)に関連づけられることを示唆、その大きさは局所状態に依存し、dx=cdtの適用で「dx・dx’関係はdt・dt’関係に帰する」(#1787 88)。
     この一体化は、既述のように個々の局所系(粒子)に帰着、それのscalar・vector potentialを意味していることになる。
     こうした時空・事象関連容認に基づかない議論はいたずらに”藪を叩いて出てきた蛇を追い回している”に類するものでないか。  

    ○ 理論が数式上で唯一通りに決定しても、「局所毎での同一scalar区別」はそれが唯一絶対的ではないことを意味し、完全性判定には至り得ない(→ゲーデル的)。 
     これは結局「人為的理論の限界」を示唆している。

  • >>1975

    ≪ 数値上の 遅れ・短縮は単位levelでの問題;非一様時空下での計量基準相対化 ≫
      
    ○ 0・v(≠0)系間の不変関係をε量場での問題としてみると ε=mc^2=γmc^2・・(1)。 この成立に必要な条件はγ(=1/√(1-β^2)=1(cf.#1796)、つまり”何らかの形で”運動vのもたらす効果(γ差)を除去すればよい。
     唯、自然の側に「特殊」用、「一般」用の区別などある訳がないのだから、遅れ・短縮の説明も統一すべき。

     先ず、前者の一様時空像下ではどの位置の系基準尺度1も区別がないはずだが、v差が過大になると矛盾が目立つので当初からv≒0の近傍という制約を課してある。
     しかしv≠0使用での同等議論は原理的にやはり無理。そこで一様時空という大原則維持のため
    dt’=√(1-β^2)dt(やdx’=√(1-β^2dx) 関係でのdt≠dt’(dx≠dx’)の数値不同を、断定表現「0(xt)系上に比しv系時計の進みは遅れ、長さも短縮」を回避(∵両系同等ならそのようなことは有り得ない)、「0系からみるとv系上がそう見える」と「みかけ問題であるかの表現」を採る(ex.β=0.6 dt=60;dt’=48)。ここに両系同・不同の曖昧さが表われている。

     他方、後者の非一様時空像下では、客観的対比での”運動状態or位置不同”に基づく系基準尺度不同(g≠g’)は「実際」で、「0系上と同一数値となるのは対象・計器(時計・物差;計測者)とも同比でvの影響を受けることによる”みかけ”」となる。

     数値は(単位量)・(そのcount数)の積。だから「一般」>「特殊」の優先度に従うなら、両系の数値差は「どこも一様ゆえでの”みかけ”」処理でなく、系間の客観的差異としての「単位長差での説明」へ。

    ○「一般」段階でも近似的にg≒g’であり得るが、それも先ず位置区別があってのこと。それによる原理的区別(g≠g’)の立場に立脚しないと、”より詳細な局所区別”に立ち入っての ”大域慣性系の拒否”→”慣性系の局所化” という主張の流れが怪しくなる。

     局所区別こそが 固有時間の区別→「4D特性の個別粒子(局所系)への帰着」 に至る出発点であり(cf.#1787~)、「計量基準の相対化」の代償は「同一scalarの局所状態による区別」に至る。
     一般相対論はその可否を問うもの。

  • >>1974

     ≪ds^2”不変”とg≠g’の相克;potential部分のHamiltonianへの組み込み≫

    ○  物質(ε量体)は始めから現実"時空”内に存在しているが、Newton力学が依拠した数学的場・空間内の各点はその特性表象に留どまり、それと異質な存在物質とは無関係。「時空・事象関連容認」は初めてそこに踏み込んだ。 

     ε量場議論としての一般相対論の非一様時空像の根幹はpotential部分の区別にある。
     自由落下のelevator内在者は自身の系を慣性系と捉えていても、機外者は重力下にあると判断する。
     前者は自身の立場は唯一で総てと受け止めていて自系がどんなpotential場にあるかなどは考慮外なので他局所との違いの有無など立ち入りようがない。
     ”別の重力場で落下中”の機内計測者も同様だが、両系を比較し得る外部計測者はそれぞれを「異なる状態下にある局所慣性系」と位置づけ得、両系を「異尺度1・同形」の関係と判断する(g≠g’)。
     これは別に外部計測者が絶対的判定者という訳でなく、”自身の立場を総てとし、だからどこでも同じ”と結論づけることなく「2局所を客観的に対比する立場」で得られる結論だ。

     つまりこれは「慣性系とは重力potentialのない系のことではなく、それに立ち入らぬ範囲での不十分な系の捉え方だった」ということで(必要に応じad hocにCoriolisの力などで対処)、「原点の不定定数処理」(cf.#1966~ 68)もこうしたレベルでの状況判断による。

    ○「一般」段階の局所区別は客観的視点に立っての比較対照に基づく判断で、ε量状態相応の異尺度1となるが(#1753 1882etc.)、実は「特殊」段階でも既に客観的対比の立場にありながらその自覚が希薄で不徹底だっただけと捉え得る。∵原理Ⅱ(”どの系でも”c不変)自体がimplicitであれ既に”不同な系状態の存在を含意”と捉え得て、系間はHamiltonian(potential部分も取り込んだ全energy)で比較すべきとの予感含みともみれるのだから
    (#1938)。 

     x、x+dx typeなど不同位置での同一数値も、「”不同な0・v”同一視」仮説下では当然同一視できる。
     唯、疑問はその根幹の”仮説自体の妥当性”に関するもの。
     
    (前回末尾;#1991→1971)

  • >>1973

      ≪特殊・一般相対論の峻別を;一意絶対的基準尺度は既に消滅!≫

    ○ 0・v(≠0)区別の一方での同等視は矛盾含みで、近似な限り原理的矛盾が解消する訳ではない。
    「時空・事象関連容認」や局所区別(g≠g’)による「一般」段階の非一様時空像指向(ε量場化)は、明らかに「特殊」段階までの一様対称時空像と両立せず、慣性系の局所化も非一様時空の立場にあることではじめて実現する(←近似処理の矮小化どまり)。
     計量の2階微分による”より詳細な局所状態判断”が更なる段階へ進むか否かに拘わらず「どこまでも近似を超えず”完全一致”でない」以上、「一般」段階以降は明確に「非一様時空像に立脚」とbasic段階での”理論構造の転換”を認めて初めて「時空像の異同に関する曖昧さ」が払拭される。

     両状態の不変同等視によるこれまでの理論・技術的成果に関する評価は以下となる:
    「同じものを等しいというだけ」では余りにも当然すぎ、それで終わっては何も出てこない。本来不同なものを仮に同等と置くことに伴う不透明感がその解明を促進、段階的に細部まで詰めてきた結果が現状であると。

     唯、両系同等という”不合理な前提に立脚”することで成果が得られてきた事実を認めても、その究極ではやはり「不同なものが同じ」では済まないし(最後の一歩は千里の隔たり!)、現在までの手法が「永遠に真である」ことにはならないとの認識があるべきで、そうでないと明らかに不合理な結論への無駄なprocess・approachを重ねることにもなる。
     例えば、時計の遅れは当しく系間の客観的対比(計量基準不同;g≠g’)に基づくものなのに、一様時空像が払拭されないことで”みかけどまり”かの曖昧解釈の存続を許すことになる(←「同一scalarでも既に異尺度」なことの認知不足)。

    ○ 最大の問題は、0・v間に限らず隣接数値との違いは「変位・変化の際の”単位量の存在”とそのcount数による」ことが明確に認知されていない事情にあり、一様時空や軸上の一様性容認もそれによる(にも拘らず数値区別がなされている曖昧さ!)。

     dx=cdtでの光(子)のcは、countの際の基準ε量単位として抽象時間の1sec.に代わり得〈従って長さについても)、現実事象と抽象時間・空間との関連の絆ともなっている(ex.#1788 1991etc.)。

  • >>1972

     ≪対称性議論の根拠に疑問!;無理な異質2時空像の併用 ≫
     
    ○ 0・v(≠0)間をε量的不同に導く「一般」段階思考は、「特殊」段階の両系不変同一視の方こそが”みかけ”と指摘するもので、摂動など"近似手法によるapproachでの同一視"以前の原理的立場。
     抑々近似で一致・同一とするのも元々”2局所が不同で区別されているから”で、結局「一様・対称を原理的としていること」にこそ問題があることになる。  
     だが「一般」段階自身も前段階baseでの展開であることから「時空・事象関連容認」は自己矛盾を含むものとなり、そこが未決着で滞っている。「分かり難さ」の原因はこの不徹底さにある。

     0・vと区別している以上、「特殊」段階でも既に「系間を客観的に対比してみている」はずなのに、同一視は「どの系上でも計測状態は同じ」とする推測からか。
     しかしv系は 0→vへ の加速後の定常状態であり、対象・計測器(者)とも同比でvの影響を受ける相殺を考慮すれば「数値上は0系上と同じでも、既に異尺度での同形・同一数値」と捉えるべきもの。

     特殊相対論では原理的立場上”同一としなくては矛盾”となるが、一般相対論は”位置不同による異尺度1の立場からそれに対し否定的。
     前段階と同じでは今度は自身の主張(位置によるg≠g’)に矛盾となる。

    ○「時空」・「宇宙」の違いは内部をε量的場とみるか否かにあり、4D特性の主体の存否に直結している〈cf.超ひもと背後の時空共存の可否)。宇宙時もε量体である自身に由来(固有時)とすると、自身が時間経過の単位であることから、「事象に無関係とするa prioriな一意絶対時間系」による膨張・縮小議論など消滅する(cf.#1971 72)。

     3D性というのは幾何学的対象に関する1・2D的存在などとの区分上の使用で、ε量体との意識まではなくてもそれら対象は”空や”無”でなく(cf.多様体)、それが「3D場という一般化に先行」とすると、「時空特性は初めからa prioriではなかった」ことになる。
     ”空や無”と3・4D特性の結びつきの間にone‐cushionと言うのも、特性には必ず担い手・主体を想定するから(ex.#1762)。

     従来思考に準拠ではminor‐changeでしかあり得ない。時空像の不備は規格外の一般相対論思考を俟って初めて見出せた。

  • >>1971

    ≪自然は元々“非対称”!;不変対称は近似どまり≫

    ○ 自然の”認知”と”記述”は別。
     認知には格別の前提は不要だが、記述(理論)には原理や公理の設定が不可避で、その適否は基盤枠組に無定義概念として採用の3D空間や時間に及ぶ。
     記述枠組がa prioriどまりな限り理論全体もobscureであり続けるが、「時空・事象関連容認」は理論内部からのその事情への疑問提起となっている。

     ε量事象記述の時空枠組は記述対象と同じ4D特性を備えていなくては不適格だが、これまでの変換議論では”運動vに不可欠なε量”は最初からの所与扱いで、その出処への言及がなかった。
     これは「対称性仮説or2局所の等置」で始まる数式での事象記述では、「時間的・空間的変化・変位はε量変化と不可分」との認識に欠けていたから。
     一般変換段階の重力・加速系間問題では実体的ε量場が不可避な要請である結果、計量用座標系は現実世界に居場所を失い2次的抽象場へshift。元々座標系はε量場での異なる位置にある点上に原点を置く抽象的上部構造とみれるもので(cf.#1968 70)、そこでの0・v両系は、0系(原点に実体量対応の0‐tensor)とそれに対し運動v(≠0)の位置不同な2系として既に「異尺度1での同形・同一数値」の関係にあり(cf.ε=γmc^2;非対称)、最早「”空”で一様対称な時空下での関係」にはない。

     計量基準が「相対化徹底」の最後にまで取り残されてきた事情は、裏に”計量数値を至上”とする「数値上の一致絶対視or一様基準枠組絶対視」があったからと捉えることで「固有時個別化の方向に向かわなかった事情」が首肯できる。

    ○ 真空の「相移転」は”空”でなく非一様状態の存在が前提であり、4D時空の ”空”→実体的ε量場への移行 と呼応するが、「真空のenergy容認」・「時空・事象関連容認」はともに理論的考察・要請からの必然だとすれば、従来の‴空や無”とみなされてきた「特殊」段階までの時空像の不備・内実的にも「一般」段階思考の近似どまりなことが明かされたことになる( ex.#1957)。
     
     ε量との関連認識を欠いた数学的時空像は「一般」段階では”局所近似どまり”と限界を画され、「(明示的・自発的を通し)対称性の破れ」は「本来的に非一様な自然が示すdynamismに帰すべきもの」でないか。

  • >>1970

     ≪ 4D特性の系・粒子への個別化⇒理論・数値の絶対性消失;0・v系位置区別の帰結 ≫
    ○ 理論の発展とは”更なる抽象化のこと”か?
    出発点の前提・基盤に何の疑問もないならそうも言えようが、a prioriでそれ以上の説明拒否の「”空”なものの3・4D性」ではそれに応え得ていない。
     例えば”真空energy”は従来の「”空”とε量を別々とする時空像のまま」ではどう理解できるのか、更に無限次元まで可能なのに3・4D止まりなのは何故か?

     0・v(≠0)2系は空間的同一位置になく、0→vまでへの加速前後の2定常状態としてε量差がある(当然0系原点にもε量を想定;cf.0‐tensor#1968)。
     一般変換の下では、従来の時空や真空は「励起・運動の有無による区別」はあっても、全体としてε量場であり、「真空のenergy」もその立場で受容される。

    つまり高度な抽象段階にある一般相対論の立場では、抽象化の最先端は「理論自身の基盤枠組のa priori性・不透明さの解明」へ向けられたことになる。
     3・4D特性もそのε量場での実体量に帰着し、それぞれを固有時の主体とみることを介して各”素”粒子に至り得るものだ。
     ”抽象の高度化”とは”事象の数学化”を意味するだけのものなのか。

     粒子・量子どちらも”一体としてのまとまりを表現”し単位量的意味をもつ。
     その事情に触れない議論は不十分であり、ある時点での各固有時主体・粒子の大きさ(空間量)は時間経過の際の「countの単位量」となっている。
     これが”一体としての各粒子”の空間・時間成分の関係であり、厳密に粒子に即した”即自時間”は自己計量となって無意味化(発散)する。
     こうした事情こそが”実体性のない抽象的存在である時間の本質を示すもの”でないか。
     
    ○ 座標系は「ε量場の各点上でその上部構造(←抽象的)として構築」され、ε=γmc^2に基づく位置の不同・区別は立場の入れ替えでも解消せず、両系での計測数値が一致しても計量tensorg≠g’ではそれは最早同じ大きさを意味しない。
     唯一絶対的座標系から複数座標系への移行、理論のbase枠組へのcの組み込み(dx=cdt;時間・空間同等視)は、時空枠組自体の「4D成分を持つ固有時主体起源」にまで遡及する(元々Newton力学でもそう捉えるべきだったのだ)。

  • >>1969

    ≪ 射影関係「現実⇔抽象」の成立を示唆;「時空・事象関連」の意義 ≫

    ○ 既述のことながら、”自身も属する宇宙”や”0・v系区別”議論の際の記述者の「第三者的立ち位置」が曖昧なままなことが理論全体の位置づけに不透明さを残してきた。
     理論物理の目的が現実事象の解明にある以上、理論上の問題は現実の反映でもあるはず。
     ”真空energy”も「時空・事象関連容認」思考に則して捉えるとき、その存在によってa prioriな一様対称時空像下で「大きさ0扱いでその存否まで曖昧だった質点(ε量事象)」が浮上してくる(4D特性も実体的ε量場の実体に移行)。

     それが現実の場での「時空とε量事象の対応」となるが、「物質と場の違いは量的なものに留まる(#1481)」とする以上は、現実世界全体が「非一様なε量の場」となって「特殊」段階的時空は”現実から消滅”となる。
    数学的時空の”湾曲”も一様時空像とは相容れず、各局所系近傍でも一様性は維持されないのだから(除・近似)。

     こうした視点がハッキリしていれば、固有時への対応も違っていたはずで、ds=cdτ=√(1―β^2)cdtでの各固有時の経過はv次第で異なる。各系上で「同じdt的時間経過」とみえても、それは対象・計器(計測者)が同比で受ける”v効果の相殺”による「みかけ」止まりで、基盤状態が既に異なっている(「同一scalarが共通の大きさであり得る」のは特殊相対論的基盤に限られる)。

    ○ 量子力学での零点振動をまつまでもなく、電磁場が4D特性を充たすと判明した時点で同特性の担い手は「”空や無”ではなくε量体(4元vector)である」との見解に移行し得たはずだが、それではa prioriな一様時空枠組優先下での「事象変化の時空的記述」に至り得ぬことから看過されてきた。 
     一般相対論的「時空・事象の同等視・読み替え」がbaseにあるからこそ、時間経過と状態vector間に存在するHeisenberg ・Schrõdinger 表示の同等性が容認されることにもなる(#1940)。
     
     時間はa prioriな存在ではなく、科学に限らず人為的活動を総て統一的にcontrolするために”後天的に設定された便宜的枠組”に過ぎない。一般相対論思考はそうした根柢枠組への挑戦と位置付け得る。

  • >>1968

     ≪ 不可欠な数式成立の背景検証;現実・抽象「対応図式」成立のkey ≫
    ○(≡との区別は必ずしも明瞭ではないが)数式で等号”=”の左右は数値上だけでなく、明示的でなくても”対象にある種の共通性(何に関する数か)”をも要請している。だから左右2通りに記述の際の認知内容(何による区別なのか)が問われる。

     G_μν(=R_μν-(1/2)g_μνR)=-kT_μν)を右辺優先で捉えるなら、左辺も実体的なenergy・運動量tensorに即して読みかえられ、一体性・同質性を要素的・個別的に捉えるなら”局所毎の個別粒子像”に帰し、「左辺4D時空のa priori性解明」に資することに。
     現実の場と抽象場の「対応図式」は、後者での”理論的結論”は前者の現実の場で”実験検証されている”事情からも明白(←「抽象場即現実」視の立場は”皮相的”)。
     そうした現実・抽象の対応図式下で、上式を抽象場での議論と捉えるなら、そこでの議論対象は「そっくり”現実的・実体的存在に関するもの”」となる(#1787 1946 )。

    ○ 「体内時計の存在確認」のcaseに限らず、天体の周期運動やCs原子内振動でも”時間の存在確認”は常に「具体的事象の変位・変化」に帰し、それ以外に”時間自体の推移”など確かめられていない(今日でも未解決な時間・3D空間は後世で獲得の高度な抽象概念。primitive段階の人類が既にもち、その下で行動していたとは考え得ない)。
     結局、時空・事象(⇔抽象・具象)関係成立のkeyはε量事象の≠0な基準単位量(→粒子)の存在とその変位・変化容認に帰する(cf. dx=cdt;光子は非存在と区別される「現実世界or ε量場」構成の最もbasicな”cの主体”)。
     一般相対論での「時空・事象関連容認」はをそうした基底levelにまで及ぼうとする洞察力がもたらした。

    ○ 議論者のいる現実の場と抽象場(議論者の頭の中に限定される)の区別は容認されるべきで、両者の関係を把握している自己は既に「この対応関係の外」にある(0・v系関係議論でも議論者はそのどちらの系上にもいる必要はなく”「第三者的立場”で両系関係を議論している)。

     現実認識は既に”対象と自己”という対応関係下で捉えられており、「どこまで自己の客観視ができるか」の問題。
     客観的視点とはそうしたものでないか。

  • >>1967

    ≪ 抽象数値・数式は”直”現実ではない!;任意座標系上での対象事象表示 ≫ 

    ○ 現実世界を非一様な物理的ε量場相当とみるとき(#1967)、0・v(≠0)両系原点にも当然不同なε量が存在(g≠g’→ 異尺度1下での同形)、系個別化の時点で「同一scalar(含・ds^2)の一義性喪失」であり、このprocess下で「原点の”不定定数問題”」も自然消滅へ。

     ”対象の記号・数値化は既に抽象場での議論”であり、「時空・事象関連容認」は「抽象で閉じず,”対応する現実”までを視野に」と遡及段階との対応までを示唆しているものと言える。

     ds-2=(cdt)^2-(dx)^2でみて、cdt=dx→ds-2=0 は既に”変化する≠0なetwasの存在が前提で、それが”空や無を意味する0など”との区別に。
     つまり「変化する主体の存在容認」であり、それが変化表記の際の基点or変化量0状態の存在を明示している(cf.(1・n)形式の「1」; ex.#1934)。
     c=dx/dt≠0 のcはそうした実在ε量の”変化の際の基準としての「1」^で、これは”ε量基盤としての基準粒子の存在”に通じ、その時間・空間成分が「変化の際の基準量・空間的長さの単位」相当量であり、物質分布に応じた時空の非一様な場の示現ともなる(#1787)。

    ○ 特殊・一般変換をとわず同形性維持に不可欠な全成分0の”0‐tensor”の存在は、「特殊」段階では時空の一様性前提(仮説)下で「存在自体が曖昧」に、「一般」段階でも「不変同一視」は個々の系上視点の間での”みなし”どまりで、客観的対比では「各異尺度1下での同形・同一数値(”同一scalar区別”)ということであって「計量(数値)の絶対視に見直しを迫っている」ことになる。

    ○ 理論展開としての量子力学での成果・視点が加味されて当然だが、4D枠組下にある以上は「基盤時空に新たな寄与」という訳でなく、「先代からのDNÀ受容」に留どまる〈対・時空に関しては粒子・波動の別は本質的でない)。
     c=νλは粒子・波動性の読み替え許容の一例に他ならず、前段階否定は自身の否定に(Schrõdinger式はobservableでなく、実験検証の際の対象粒子(猫!)は確率表現でなく近似であれ既に”実体量”)。
    そうした関連性無視で"閉じている分野の想定"など戯画。

  • >>1966

     ≪ 事象>時空 は ε量>座標系;一般相対論は理論基盤の全面reset!≫

    ○ ”真空”が空間概念と無縁でない限り、理論としての「"空"でなくenergyをもつ」の容認は、既にε量関与拒否の「特殊」段階時空から「一般」段階時空への移行を意味し、”現実”のε量場に対し”4D時空”の方は2次的・抽象場に位置づけとの「対応関係」も成立する。

    「特殊」段階までが依拠してきた”一様な数学的時空”自体、その隣接数値への移行は”変化の単位量の存在とそのcount数による区別”で、それが”物理的非一様な実体場”に対応する(→boson・fermion )。 

    ○ ε量事象>時空 の優先順位は、座標系の形式・それによる計量数値の違いなど以前の、「時空特性の根源に関わる問題」。
     一般相対論的ε量場でε量主体(粒子)上の0・v系をx軸方向のboostで対比するとき、「0系原点にもε量が存在」、位置不同はε量差を示し、両系同等視はε=γmc^2から mc^2=γmc^2 → 1=γ を意味する(同一基準では不同な2数の等置!)。

     Hamiltonian(mc^2+mv^2/2)を系全ε量すると、mc^2は「従来のpotential相当部分へ立ち入り”系ε量に加えたもの”となる(L=KーUでなく)。
     v系上への移行の際、vの影響の相殺作用で0系上と同形維持となるが(#1946 1787)、”客観的対比”では両系間は1:γであり、同等視はあくまで近似を超え得ず、全体としての非一様性or基準尺度1の局所性という一般相対論の主張に則している。
     
    ○ 両系対比での基準尺度1は各v(含・0)に応じたγであるべきで、これに関し、下記の記述がある。

     ≪ 運動energyと運動量とが4Dvectorとしての変換性を示し、慣性系のとり方によらぬ客観的物理量として意味をもつには、運動energyはT_0=mc^2{γ-1}でなくT=γmc^2であるべきで、mc^2をenergyの原点の不定定数のなかに繰り込んでしまう訳にはいかない ≫ (「相対性理論の考え方」;砂川重信 p54~55 岩波)
     
     一般相対論は究極的に現理論枠組を超え、時空特性をa prioriでなく個々のε量体に帰着させ、「相対化の計量基準までへの徹底」で「系状態による同一scalar区別」にも及ぶと考えます。

  • >>1965


     ≪ ”scaleの変換不変”は「0・v不同状態の無視」による;一般相対論(ε量場)ではε量差!≫ 

    ○「時空・事象関連」の究極は 一様4D時空像→非一様4Dε量場へ の移行であり、ε量体存在による「対称性の破れ」は数学的一様対称時空像に依拠してきた理論枠組を”非一様の近似”と位置づける根底的変革となる。

     従来の座標系間の関係はε量間の関係に読み変えられ「変換関係は粒子間関係」に移行、時空量(4D長さ)ds^2が一義性を失い「異なる位置毎の”異尺度1下での同一数値”」に(”同一視の方がみかけ”ex.#1778)。

     これは固有時の個別化、つまり"各系を個別4D粒子”とみなすことと同義で、”不変仮説”は「ε量体(場・粒子)間の相互作用に共通する作用機序」を「basicな局面で一般化して提示してきたもの」で、「2局所系・粒子の同等視」と捉え得る(各場は粒子に帰着、そこでのM・K・S単位の一つを仮定すれば残り2つも決まる;cf.重力定数・Compton波長も)。

    ○ その結果”両系間の不同・差異部分”が「変換に伴う状態差を意味するもの」に。
     これは両状態を同等としてきた”不変仮定”に何が加えられるべきかを示し、この明らかな不当性の補填に必要とされたのがgauge不変性orgauge粒子相当量だとなる。
     ただそこでも ε=mc^2を認める以上は質量概念への拘りを整理し、”energyをもつが質量0”などを許容しないapproachが要請される。

     曖昧な「原点の不定定数扱い(#1517)」も系間(粒子間)区別の過程で処理されるべきものだし、「ε量場での相互作用の存在」は各粒子固有質量確定の可能性を疑問視することにもなる。
    「一般」段階はそれが得難い理由は単に技術的制約に留まらぬ「抑々のε量基盤に起因する」ことを示した〈←2数間の連続性・区別に関わる問題)。 

    ○ 物理的記述の目的は現実に生起の事象の解明であり(ex.#1955)、4D枠組(時空)はその手段・議論の場に過ぎず、記述対象の特性を反映していなくては「議論の場の適性」を欠く。
     
    「時空・事象の関連容認」は従来a priori扱いで済ませてきた部分への立入り宣言であって、曖昧な時空・宇宙の識別をも要請する(ex.Robertson-Walker式も”宇宙”を”時空枠組内”でのds^2式で議論)。

  • >>1964

    ≪ 問題は”系内時計の同期化”にまで遡る ; ”局所区別”に背反!≫

    ○ ∅ などで表現の”空”概念は、特定分野例えば”物理的量の存否”に関し、「その対象countの基点としての”0”」とは区別される。座標軸上での順序数の基点としての0も”虚や空”とは異なる。
     古典・量子力学を問わず数式内での議論対象は”不存在との区別が曖昧なままでの0”ではなく、「大きさ≠0なcount対象量の基点状態」なのであり(#1964)、(1・n)形式での局所系毎の”1”部分がその事情を示す(#1957)。不変議論での0系も当にそうしたv=0状態で、それとv系との区別無視が”計量区別の理念”に背反。

    ○ 時空をε量的場と捉えるとき、粒子像は「特殊」段階での4Dvector場A_µ(x)の集約的表現となり、そうした時間・空間成分(scalar/vectorpotential→電場/磁場)をもつ「≠0な一体としてのε量体」の全体が一般相対論的非一様実体時空(⇔場)に相応する(存在物体の近傍で影響を受ける時空は”一様のまま”のはずがない cf.#1942 etc.)。

     だから位置不同な0・v両系間での不変関係はε量問題として原理的に不同なのであり、≠0な各系(各粒子)内ではdx=cdtによる対等な時間・空間量は「長さ(L)次元で大きさが一致」していなくてはならない。
     ところが”系内時計を原点時計に同期させる”「系内統一時刻(時間経過0視)」は、”隔たり≠0(or位置不同)に基づく時刻不同の拒否”→”時間・空間の同等性否定” という曖昧事態を惹起する操作になっている。

     この「系内時計の同期化」は”位置区別無視の原型”と言え「変換議論の不変視」に資してきたが、局所区別指向の「一般」段階での”より精密な議論下で”糾弾の対象となる。
       
    ○ 極めて自然に日常レベルから出発した力学体系はmicro・macro両方向へwingを伸ばし、量子力学・一般相対論段階へ到達したが、基本枠組である4D特性は(不透明なa priori性を問われつつも)一貫して維持されている。量子力学もそうした「相対論餌枠組を改変し得る立場」にはなく、計量に際しての古典的手続きの精密化に資するに留まる(#1955)。 

    (訂正)  #1964 7行目 ; (誤) ⅽ・μ・ν → (正) ⅽ・ν・λ

  • >>1963

     ≪ 相対論での”0”の意義 ; ”不存在”ではなく”変化量ゼロ” ≫

    ○ 加速系にまで拡張の一般変換はε量関与が明白なことから, 従来時空像→ε量場化へ の変容は回避できない(cf. G_μν(=R_μν-(1/2)g_μνR)=-kT_μν)。
     つまり「時空・事象の関連容認」は、0・v同等視によるa prioriな一様連続4D特性の曖昧さからの離脱要請で(←0が不存在か変化ナシかの区別が不明瞭な0tensorの問題点:#1960 62)、同特性の担い手に「それ以上分割できない≠0な単位量の存在」を示唆し「時空像の変革」を方向づけている。

     相対論自身がこの段階にまで至っている以上、従来のa priori時空像依拠議論のままでの批判は的外れで、時空の4D性問題は量子力学の確率表現にも無関係な”それ以前の問題”(c=νλのⅽ・μ・νいずれもが単位時間の代替品であり得、相互換算可能)。
     
    ○ 元々vは加速度aの局所近似で、局所慣性系が「一般」段階的非一様時空の部分空間として内包されている事情に相応し、v運動にはその主体が存在する。それが「特殊」段階でのように0・v同等視で”0扱い”では両局所系区別だけでなく”区別の対象の存否”までが不透明となる。
     
    「一般」段階でのgg’区別にみるように、同・不同議論には先ず 1) ある議論対象が存在、2) その異なる2状態間の議論 との順序・区別が明瞭になされるべきで、これが0-tensorの区別の明確化に他ならない。

     抽象場である数直線上でも、原点位置は不存在(”虚”)ではなく、他の数値と対等な身分で〝位置を占めている”。隣接点とは”≠0な変化の単位量ぶんだけの違い”があり、”立場の入れ替えによってもその違いは解消しない。
     それがv運動に伴うε量差だと捉えるのが物理的観点であり(cf. γmc^2=c(p^0);運動量の時間成分のⅽ倍)、幾何学的な時空の湾曲は系全ε量間の問題に帰せしめ得る(←現実世界とそれを表象する抽象場表現の関係)。

     つまり、存在tensorに関し「先ずその変化の =0、≠0 2状態を区別、近似はその次段階」となるが、表象するのは”時空ではなくε量体”に移行、時間・空間はその時間成分・空間成分へと転化する。
     実・虚世界も同様に「≠0なε量体の存否」での区別となる 。

  • >>1962

    ≪ ”矛盾内包理論”の限界;”近似超え”は自己破綻!≫ (続)
    ○ 内在する≠0な質点の無視・軽視で成立の一様時空像は、質点の”0視”によって「大きさだけでなく”その存在までも見えなくした”(水とともに赤ん坊まで流してしまった!)。
     これによって「特殊」段階での3・4D特性はその担い手・ε量的主体を喪失し、a prioriに”空”な時空自体に帰せざるを得なくなった。

    「時空・事象関連容認」はそのa priori性排除への嚆矢であり、当に”宇宙方程式の右辺を優先する”ことで(方程式の左右両辺は等価!)、前段階までの”不備な時空像変革”が達成される」事情に相応する(←数式成立の根底にある思考を言語化した)。

    ○ 4D特性のε量体帰属は「固有時区別を介し、時空の非一様性認知に至る」もので、これは「相対化の計量基準までへの徹底」による「計量数値の一意絶対性の拒否(系状態に依る同一scalarの大さ区別)」をも意味する。

  •  ≪ ”矛盾内包理論”の限界;”近似超え”は自己破綻! ≫ 
    ○ #1481でのように「物体と場の相異は性質的でなく数量的」とみる立場は、既に「”≠0な拡がりをもつε量体の内在を認めぬ"一様a priori時空像」との間に乖離がある。
     空間変位・時間経過には当然運動主体が存在し、大きさ≠0な質点(→粒子)はその際の単位であり得るが、その存在が「特殊」段階的時空に無関係ではあり得ない(ex.#1956)。

    ○ 種々のε量体が存在する「現実の場」は始めから非一様・非対称であり、そうした自然の解明を試みる理論は基盤に先ず一様な場(時空)を想定、その前提下で物体(ε量体)の”客観的”記述を始めるのだから両者は”無関係”であらねばならない。枠組のa prioriな3D性・時間の背景にはこうした「時空枠組優先事情」があったと言えよう。

     そのa priori性解消への糸口となるのは「時空・事象の関連容認」だが、局所毎の計量gg’区別の立場と言っても、周囲との相互作用はstageを問わぬ以上「厳密なε量体の単独確定量取り出し」は可能なのか(gluon等に限らず)。  
     現不変議論には”不同な0・v状態の近似的同一視”という「同・不同に関わる解消し難い原理的矛盾内包」の疑惑がつき纏い、より厳密な立場の「一般」段階でもそれから解放されている訳ではない。
     ”異なるものは区別する”のが「計量の根本理念だ」とすれば、「不変議論は根底においてそれに背反している。
     こうした問題が背景にあるから「一般」段階でも未だに”近似を超えて完全な局所性容認一辺倒となり得ていない”のでないか。

    ○ 近似性を解消し得ず「”異なるものの同一視”という内部矛盾を逃れ得ない」事情は「現行不変議論の限界を画するもの」と考えられる。

     人為的理論には自らが設定した原理的立場は超え得ないという限界がある。
     ”素粒子”にはそれ以上分解し得ない均質な≠0のε量体としての位置があり、座標系上の順序数による隣接点区別にも≠0な単位量が存在しているべきだ(←素領域的)。

     理論の根源幹性格を左右する”変化の際の≠0な単位量の存在”を先ず明瞭に表明すべきでないか(cf.#1959~)。

  • >>1960

     理論基盤は「時空(座標系)」?「宇宙(ε量場)」?;「特殊」・「一般」段階の違い
    ○ 抽象は空想ではない。
    抽象的数値・数式の汎用性は具象的現実processに転化し得る”対応関係”にある。
    「特殊」段階の時空は内部に質点(≠0)を含んでいても”大きさ0視”、それで獲た一様な場で「”無関係とする”ε量事象を記述する」が、”実体ε量と無関係”なことで場の4D特性はa prioriたらざるを得ない(”真空のenergy”という表現は曖昧)。
    この近似的同一視(仮定)の時点で既に「原理的非一様性容認」なのであり、接続場(→gauge場)に移行しても”同じ哲学の踏襲”で同巧異曲。
     他方、加速系まで容認の「一般」段階時空は、その宇宙像にみるように”始めからε量場”であり、局所性容認で非一様時空像となっている。

     結局両時空像では大きさ≠0な実体ε量内在の認・否が決定的で、前段階では結果的に「a prioriな4D性の場(座標系内←事象の計量・記述のための抽象場)でのε量体・事象記述」に終始している。
     後段階は自身がε量的な場で、事象記述は各点・局所をbaseとし「その上に設立の抽象座標系(←原理的に局所系毎の基準1を備えた抽象場)でなされている」とするもので、「座標系基盤への踏み込み」を意味する。
     更に究極的に座標系は原点に収斂〈→特異点)、そこでの計量は「自己計量に終わる」と制約する。
    「特殊」段階までの一様な4D時空絶対視で構築の理論は包括的な(外部or客観的)対応の視点を欠き、位置による計量tensorgg’区別思考の欠如で「scalar1の大きさ区別」に立入っていない。

    ○ 粒子の実験検証は第一義的にはε量事象の4D性の証明で、それが即「”ε量事象と無関係な”理論枠組自体の実在性容認」とはならない。
    「時空‣事象の関連容認」はそうした事情に言及と捉えられ、「4D特性の一次的担い手は各ε量体とし(cf.固有時の主体)、dt・dε、dx・dp の非可換性から「時間・3D空間を抽象場に位置づけるべきことを示唆」と受け止め得る(ex.#1787)。

    ○ 理論基盤である3D 空間・時間への先達の疑問(ex.#1945)は根拠のない杞憂なのか、単にそこまで思い至っていないだけなのか。
     理論把握の難しさ以前に”その基盤の不透明さ”が見過ごされている。

  • >>1959

     全成分0のtensorは”抽象量”止まり?”実在量に対応”?;一般相対論のdilemma
    ○ 数学的多様体は「”空”ではなく”何かの存在する場”」で、それが物理的4D時空に相応する。
     その時空は物質(ε量体)との対比では”空”と見做される側であるに拘わらず「a prioriに4D特性をもつ」とすることで「空なるものの4D性」というlogic的に曖昧な状況を招いている。
     これは数式展開に先立つ”理論基盤の適否問題”で、その解明なしに時空の一様/非一様性・a priori特性などの問題解決はあり得ない。
    「時空・事象の関連容認」は前段階までのa priori4D時空像に対し「その特性は実在ε量事象に起因」とする 実在➡抽象 の対応関系を示唆するもの。

    ○ 「特殊」段階の時空点は”大きさ0と見做されている”ことで、ε量体の存否に不透明さを残す。
     0・v座標系はともに抽象場での一点を原点とするが、現実世界の忠実な反映であればそれらは大きさ≠0なε量点(質点)の写像で、両系間の関係はε=γmc^2に象徴される。
     そうした時空を明確にε量場(tensor場)と認知することで初めて0系原点も「変化量0のtensor状態」として”存在量”の立場を得る。
     各系での事象記述には対象と独立な時空座標系が必要だが、現実対応のtensor場での各座標系・数値は自身の基盤状態を反映する(系毎の基準尺度1←究極的には各自己計量に)。

    ○ 前段階思考が母胎の「一般」段階は、その全面容認でも全面拒否でもあり得ぬ事情から不透明さを残すが、その解消に必要な「重複しない部分の”前段階への影響check”」では、当然”曖昧なa priori部分”がtargetとなる。

     唯その際「tensorの全成分0が一般共変性をもつ条件である(wiki)」と言うだけでは、上記のようにそれがa priori時空の属性か”空”とは異なるtensor主体の存在容認かは不透明なままだ。
     後者の立場を採って初めて「4D特性のε量体起源明示」となり、存在量をbaseとする実体的時空像が得られ、それが「何故他次元でなく4Dなのか」の説明ともなる(cf.固有時の主体区別による非一様時空像)。

     結局”空”への特性授与は「特殊」段階的な「存在量と不存在0との同等視」による”存在量見落としの結果だった”ことに。

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