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    ○ 特殊ローレンツ変換での ds^2不変式は座標系の採り方に無関係に成立するので、今S系とそれに対し速さvの質点上に原点をおくS'に適用すると
    ds^2=dx^2-c^2dt^2=-c^2dt'^2 ⇒ -ds^2/c^2=dt^2-dx^2/c^2=dt'^2・・?
    が成立。(各系は唯一通りの時間で統一されており、dt,dx,dt'はそれら座標軸上の目盛で計測した事象dsの計測値)
    これに dx=vdtを代入整理すると
    dt^2(1-β^2)=dt'^2⇒ dt'=√(1-β^2)・dt・・?
    つまりS'時計の遅れを示す?は単に両系時間同士だけの関係なのではなく、既にdx項効果も織り込んでおり,ds^2不変関係と同値とみなせます。(?下段[物理元]は[時間]^2)

    ○ ?で v≠0 なる限り数値上dt'≠dt。ところが相対論では「どの系上の尺度も区別しない」のが前提だから”同一事象ds”の間の両時計の進みも同じ、つまり dt'=dtのはずで、これは?と矛盾。
    そこで理論の前提維持のため,S'時計の遅れに関して「Sからみると遅れて”みえる”」という゛危うい”弁明が用意されている。しかしのdt'定義は「S'時計での事象dsの計測値」であり、「S'時計をSからみたときの数値」という意味はなく、どこからみる・みないという視点の関与とは無関係に速さ0,V両系を第三者の目で比較しての結論であって、遅れ(両時計の1秒の大きさ不同)は客観的な事実だと考えます(遅れて”みえる”のは単なるその結果に過ぎず、”Sからみること”が遅れの原因ではない。どの系の1秒も同一視する前提の下でS'時計は一体どちらの速さで進み dt'を得たのか? 先の弁明は dt'の意味を不当に曖昧化することで,矛盾する「遅れ」と「理論の前提」の両立を意図する姑息で的外れな対応に過ぎないのではないか?)。

    ○ 両系上で尺度が違うとする立場を採って?を γ・dt'=1・dt とおきます。不変関係は少なくとも数値上の不変(同一)を意味しているのだから、共通としてきた基準(orS系基準)でのγがS'系では1に縮小→両系単位長1の大きさ不同 とすることで、形式上・数値上の不変関係 1・dt'=1・dt → dt'^2=dt^2 が実現、これが ds'^2=ds^2 に相当すると考えます。
    一般相対論でのgによると同様、vによっても各系上の単位長1は不同とすることで、時空はどの局面でも原理上局所性をもって成立していると統一的に考えられることになります(原理上と近似上は別。元々近似処置は当該両局所の不同を前提とするもの)。これは広域や大域の慣性系の否定に通じることにもなります。 

    ○ 結論:ds^2不変の現行解釈「両系同一単位長1での同一数値」は「各系異単位長1での同一数値」に変更すべきではないか(計量基準の相対化)というのが疑問です(始めに不変とした際のdsはどの系での尺度で計った大きさなのか。速さ0の系での計量基準をvの系にも押し付けていないか。ローレンツ変換はスケールの変換も伴っているのでないか。両系の相対性・同等とは「どちらを基準の系に採っても同じ結論に到達する」というにとどまり、両系上の同等までは意味しないのではないか)。

    ○ ご意見・反論をおきかせ下さい。

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  • 2018 1999
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  • 2018(最新)

    qnj***** 7月16日 21:09

    >>2017

     ≪「理論基盤の調整」が最優先事項!;不透明さを残し続ける一様・非一様性≫

    ○「一般」段階の微小域での2階微分、Riemann‐tensorの全成分checkは同等視部分での詳細probeであり、「異なるものは区別する”計量の本旨”」に則した立場からの「0・v同等視仮説への異議申し立て」とみれ、「特殊」段階思考どまりの議論の「明白な考察不足」を指摘するもの。
     この原理的・根幹部分における不協和音「隣接点同等視の是・否」は、「加速ε量考慮の有無」が左右し、それが「実在量の一様・非一様問題」に連なっている。

    ○ ε量事象の最終的段階に相当する素粒子の詳細記述levelでは、究極的に個々の”素”粒子の区別・分類は可能なのかor全ε量場の相互作用の一部分という身分で終わるのか、の見極めが要請される。
     前者の立場は「異なるものの同等視」という曖昧さを残す現理論の基盤に則したままで可能なのか、自身の立論の背景・baseへの立ち入りcheckが必要でないか。

     そうした根源的局面ではhiggs機構が粒子に質量を与えるなどの思考以前に、ε=ɤmc^2の全面適用に基づく「従来の質量概念の徹底的変革・拡張」があるべきで(ex. #1481 83 92 1530 etc.)、”素”粒子的存在はそうした”原物質”的ε量場での相互作用から出現すると捉えることで例えばquarkやgluonなど単独では取り出し得ない事情の説明になり得るのでないか。
     
    ○ 究極的に「不同なものの同一視許容の理論」というのは「微小域での”素”粒子区別の意味を認めるのか無用と言うこと」なのか?
     最終的にε量事象の主体である総ての粒子区別が可能であれ不可能であれ、結局は一様・非一様性が曖昧なままな基盤では「理論が不十分だった」ことになるのでは。

    ○「現実と映像」関係同様、「現実・抽象」は違うからこそ区別がある。どのようなε量事象にもその主体があるはずで、作用の拡がり部分が事象主体(従来の質量体)と捉えられる。

     ”抽象”数学・数式表現への移行によって「自然に関して何が変わるのか」?
     座標系(原点)は現実のε量場の大きさ≠0な一点上に構築という「現実との対応」こそが肝要で、抽象化に際し「一様視に起因する単位量存在感覚の不在or希薄(ex.大きさ0の質点)に問題はない」と言えるのか?

  • >>2016

    ≪「不変」仮説と”理論の限界”;「計量基準までへの相対化徹底」の意義≫

    ○ 加速はε量状態の変化を意味する以上、一般変換への移行段階でその視点に則した両系関係の見直しがあるべきだった。
     だがNewton力学の数学的時空が維持されていることで、0・v両系間も”数学的座標系としての位置関係に終始、つまり「最初からε量的観点とは無関係な所与とする議論どまり」だった(両定常系はともにある時点でのstop-motion状態での対比。その時点で既に両系位置は不同:g≠g’)。

     理論は”論理性に徹してこそ有効”なのであり、現実の電磁場・重力場など物理的・ε量場での計測が技術的制約から近似を免れ得ない事情とは異なる。
     ところが、0・v(≠0)の同等不変視は理論の出発時点・根底において既に”不同なものの同一視”であり、局面に応じて恣意的に好都合な方を適用してきていないか。
     この仮説設定時点で理論は自身の根幹である「2局所の対称‣非対称区別の有無」を曖昧にし、”対称性が非対称の近似である事情”を隠蔽していることになる(←「原点の不定定数処理にも通じる問題 ex. #1967 etc.)。
     どちらであるかは「理論の根幹枠組である時空自身の一様・非一様区別に直結」し、その全体像を左右するに拘わらず!

     加速によるε量差認知に至らないこの不条理が結局「ε量とは無関係とするa prioriな3・4D時空維持」に連らなっており、一般相対論も自身の局所区別(g≠g’)指向と不変同等視の間で不徹底さ・曖昧さを残し続けている状態と言える。

    ○ g≠g’思考に対し、「特殊」段階までの唯一絶対的計量基準維持は、相対化の「計量基準までへの未達・不徹底」を意味する。
     その変革には「原理Ⅱの光速c不変」の解釈を変更し、「不変は計測対象・計測器類とも同比で系状態不同の影響を受けた上での同形・数値不変に留どまるとの解釈を採るべき」となる。

     理論は漸近的な近似手法に拠っているものの、究極において「異なるものの同一視」or「異なるものは同じ」を許容するのか? 
     そうした局面でも「一意絶対基準の解消徹底」であれば、現在の科学的手法絶対視・過度な期待への再考を要請するものと受け取れ、bigbang以前の時空の性格や多世界の実在性(←末端肥大症的!)などに新たな視点を齎すと考えられる。

  • >>2015

    ≪ ds^2"不変”の意味変容・空洞化も視野に!;理論の基盤変革を齎す”大域慣性系拒否” ≫

    ○ 同一scalarが同じ大きさであり得るのは「場」の一様・不変が保証されている場合に限られる。
    「一般」段階での慣性系局所化は一様視許容の範囲を限定するもので、異なる位置を原点とする局所系は各計量基準が不同となることで(cf.g≠g')、「同形・同一数値を以って同一不変成立とするのは形式上でのことに留どまる」と捉えることになる。

     どの系上でも「自身の系基準1での計測である」ことでは変わりなく、その意味では同等と言えても、それは既に基盤状態が変わった上でのことである以上、「表面的・形式的に留どまる」ということで、これは前段階までの一様不変時空像離脱に伴う”原理的にi不可避な”結論だ。

    ○ 対象の粒子・波動両性具有は存在量のε量性・それに起因の作用など物理法則の根幹は古典・量子力学両段階を通して変わらないとの立場を保証・示唆するもので、確率解釈もその範囲内でのことに留どまる(ex.#1864 74 1998~215)。
     ≠0な単位量の存在は不可避といっても,observableな部分が総てでないことは波動関数などに見るような複素数の世界が議論されていることからも明白で、粒子の消滅も”無”に帰することではなく「ε量に関する相移転」どまり。エルミート性などpairingがε量関連のobservable世界への転化を齎していることになる。

     そうした変化はε量の関与なしではあり得ず、その意味でもa priori時空の不可侵性などは容認し難く、加速系までへの不変関係の拡張にみるように「世界はε量事象として把握されるべき」なのであり、抽象的時間・3D空間はそうした事象の把握・議論の際の二次的な枠組・整理用手段に過ぎない。

    ○「一般」段階は従来思考絶対視ではなく、2階微分などによる”そのより微小領域への立ち入りcheck”により、従来理論の同一視部分に目を向けさせる契機となっている。
     更には理論の最終的局面での近似手法(摂動など)の限界or対象の連続・切断問題への関心をも喚起するものでないか。

  • >>2014

      ≪未踏領域への踏み出し;一般相対論の真骨頂≫

    ○ どのような理論も設定した原理に依拠するものである限り「自然の完全な説明」とはなり難い。だからこそ相対論でも未完部分の解明が継続しているのであり、不完全だとしての批判は的外れ。
     まして相対論と同基盤に立ちながらの批判であればnonsenseでしかない。
    相対論自身が未完なことは「時空・事象関連容認」の表われとしての重力場の式での「右辺は”わら”」表現が示しているが、問題の本質は「関連容認」にあって、非一様なε量場の局所区別に連らなる。

     実体的存在量は非存在との区別として「≠0な大きさ”」をもち、それぞれが個別に固有時主体にも通じる”単位的な量”(cf.時空での”素領域”相当)とみなせるものとなっている。
     一方、どの大きさの数値も抽象場では一様に記号なみに”時空的拡がり0扱い”。 この”不整合”が例えば軸上の一様・非一様区別の有無を曖昧なものにしている。

    ○ 波動関数の導入など新機軸を展開の量子力学でも「根底枠組のa priori性4D時空は持続」であって、理論最奥の基盤まで変えた訳ではないし、波動関数が表現しているのは当初de Broglieが想定したような物質波そのものではないにしても、実在ε量体と無関係ではあり得ない(←そうでないと確率も何に関するものか分からない)。
     更には、状態関数が時空・事象いずれの状態表現なのか「は明確だ」と言えるだろうか?むしろ両者一致の可能性が示唆されていると受けとれないか(#1940)。
     そうだとすれば「一般」段階の「時空・事象関連容認」と概念的に”同方向を向いている”とみなし得ることにもなる。

    ○ 接続係数は隣接点の存在なしには決まらないし、連続的なε量場での相互作用を考慮するとき、”隣接点での厳密なg・g’区別”も疑問に。両系の不変関係も”近傍”という曖昧な条件下で許容されているだけ(0・vと区別しながらの同一視に通じる!)。

     一般相対論の大域慣性系拒否はその曖昧さを拡大checkする視点を提供し、両系間の変換不変性成立への本質的疑問の存在を示唆と受け取れる。
     つまり前段階までの「一義絶対的基準尺度の存在拒否」を通じて”同一scalarであれば不変”とする数値絶対視・過剰なまでの現手法依存への疑念提示とも。

  • >>2013

      ≪両段階で”gauge不変”の意味変容;大域慣性系拒否の当然な帰結≫

    ○「一般」段階では「時空・事象関連容認」は、例えば「事象の世界線は時空の測地線に沿った動き(#1860)」or「事象と時空は相互に影響を及ぼし合う」などにみるように格別なことではない。
     他方、一様時空が大前提の下では「時空内にε量体を含まぬ or 大きさ0の質点として影響は考慮外」であってきたが、それで「現実を反映」とは言い難い。
     
     一般変換では「0・v状態を0→vまでへの加速前後の2系と捉える」ことで、両系を「不同な系全ε量間での対比」でみることになる( ε=γmc^2 or Lagrangian→ Hamiltonian ex.1881 82 1999~)。
     つまり系間をε量関与で見直す「加速状態までへの不変関係の拡張」によって、両系間対比の場は「従来時空からε量場へ」と切り替わっていることになる。

    ○ 座標軸上の位置区別は「単位のcount数差」であり、g≠g’の立場からは「軸上一様視は明確な局所区別以前の思考だった」とし、そこでの「両系不変」も客観対比の意識不十分なままな一様大前提依拠により”単位1の区別が見えない状態”と捉える。
     唯、「3・4D性の起源」となると、理論・数式自体その基盤に立脚であることから”自身基盤への懐疑的立場は採りづらい事情”であってきたことは首肯できる。
     
     結局、「一般」段階でのg≠g’は明白な「両系実質的不同」の立場であることで、「両系同等は”各系基準1の区別に立ち入らぬ範囲での”名目的なもの」とみ、「gauge”不変”への立ち入りも要請していないか」と言うこと( 時空内での光の湾曲は隣接局所との状態差に起因する”光速不同”によるものであり、「一般」段階は前段階の原理Ⅱ(一律なc不変)に背馳する立場にある! )。
     
    ○「両段階は異なる前提下にあるとの認知が不可欠」なのにそれが不十分なままではないか。
     だからこそ理論の原理的局面へ切り込む「一般」段階的思考が重要で、「加速系までへの不変関係の拡張」は「従来時空への明瞭なε量関与の契機となった」と考えられる(←”余分な哲学の持ち込み”ではなく、時空に関する”前段階までの考察不足”!)。

     疑問の余地のない「時空・事象関連」はどう捉えられているのか?

  • >>2012

    ≪「時間経過の単位としてのc」の意義;「ε量事象・時空関連」の証し≫ 

    ○ ds^2=(cdt)^2-(dx)^2 でのcは時間項・空間項が左辺「4D的”長さ”dsに一体化表現されるための「物理元調整」に資するもの(→時空量の4D”長さ”は結局「一般」段階でε量へ;H.Weyl”質量は一種の長さ”)。
     しかし時間経過が従来通り”tのcountに依存のまま”では「cのraisond'etre 」が今一つ不透明。
     そこでcdtを「c=各系毎の1;時間経過の際の単位量、t;cの単なるcount数」とexplicitに役割を分けることで「実体量光(子)の存在」が明確に認識され、座標値はそのcountに基づく数値となる(→dx=cdtから空間量の単位にも)。
     つまり一般」段階の「時空・ε量事象関連容認」の主張が上記cの立場を介し「抽象時空座標値と現実のε量場の関係」として提示されていることになる(1996 97)。

    ○ 位置区別意識が希薄な一様時空像下の「特殊」段階では、計測に際しての「単位量1の存在」は軽視or明瞭に意識されていたとは言い難く、「4D特性のε量事象への移行」はa priori性からの離脱だけでなく、結果的に「同特性の固有時主体や”素”粒子への帰着」をも意味することに。
     そのcontextの中で粒子・波動両性具有の光(子)も「一般」段階的ε量場の最もbasicなε量体として”仮想視”を免れ得、higgs粒子~陰・陽電子の生滅にも関与とみなせる立場であることとなる。

     大域慣性系拒否と言う「理論の大綱」は「計量数値の相対化」を支持、個別化固有時は自己計量の無意味さなど従来の計量の問題点を提示、一系内での「原点時計に同期させる一様化処理の可否」にも及び得る(→大綱・現実的技術的便宜の”優先順位の問題”)。

     局所区別指向は「究極的に個別ε量体に帰着し”単位量存在の明確化”に至る」との立場からは、時間結晶など同特性移行processでの中間的存在は「明確な単位量の存在意識欠如の範囲での思考どまり」で、格別意義があると思えない。

    ○ 時空のε量場視は古典・量子段階の区別なく理論baseの大変革であり(波動関数もbaseにde Broglie 的実在)、各原点毎の0-tensor想定で「原点の不定定数処理も解消」となる(ex.1967 99)。

  • >>2011

     ≪g≠g’と”gauge不変”の整合性;異尺度1での同形・同一数値!≫

    ○ 「一般」段階での大域慣性系拒否・Minkowski時空の局所化は、前段階までの一様時空像とは明らかに立場が異なり(cf.#2011)、重力場の式は「時空・事象関連容認」の証しであって、「空虚なa priori4D時空→実体的ε量場へ」という明瞭な立ち位置の変移を示す(元々座標系上で表示の数値は対象事象の変化・変位に由来)。

    ○ 原理的levelでの議論であれ、「一般」段階でのg≠g’関係は不同位置ϕ、 ϕ′(=ϕ−∂χ/∂t )にある両系間での”gauge不変性”と 調和するのか。

     つまり前段階とは異なり”局所性指向である”ことにより、『各系同等視』と言うのも既に不同位置でのことで、『異尺度1下での同一数値なのを区別せず、”どの局所系結果も平等視”』という意味になっていないかということ。

     同形同一数値と言っても、従前は「時計・物差(or計測者)も対象同様に系状態から同比の影響を受ける事情の無視」に依っていた(←唯一絶対的計量思考:違いのみかけ扱い)。
     しかしそれには無理があり、同等視は各系毎の異尺度1容認の上となれば「計量数値の一義性放棄」に至る。

     これは「前段階までの一意絶対性への懐疑思想or局所性容認思考」からも認めるべき事情で、『各系毎の尺度1であっても”同形同一数値を得る点では区別しない”』という意味での同等視と捉えることになる。

    ○ 一律基準の喪失により「計量数値は一意絶対的意味を失う」が、これは非一様時空像に拠る限り当然受容すべき事情。
     抑々MKS基準系はどこでも通用する人為的な一般規約どまりであり、本来「局所状態毎に異なる事情」は免れ得ない(大域一様性拒否の当然な帰結)。
     これは各固有時主体を区別する限り不可避なことであり、どの基本的ε量体(”素”粒子)も近傍との相互作用なしではあり得ず「厳密な一意確定値など元々期待できない」という事情もある。
     
     上記は既述の「局所状態不同による同一scalarの大さ区別」に他ならず、自然数の大小は例えば座標軸上での順序に依る、つまり”一般相対論思考の”「原点からの位置区別に基づく」ことは明瞭でないか(→変化の単位量のcount数による区別;(1・n)形式 n=0,1,2、… cf.#1934 1798etc.)。

  • ≪「特殊」・「一般」段階で理論基盤が変容;「0・v状態同等視」許容の可・否≫

    ○ v→0の極限においてであれ、一旦別々と認知し異なる位置で存在を区別された0・v状態の「同等視」は「logicとしてclear」なのか。
     問題は両系”同一不変視”に関し、
    (イ)位置の違いが計量tensorg≠g’の区別となる「一般」段階的思考
    (ロ)その無視orそこまで立ち入らぬ区別未了、換言すれば「場のa priori一様性が大前提の「特殊」段階的思考 
    には明確な立場の違いがあり、(イ)では「異尺度1での同形・同一数値」、(ロ)では「同一尺度1での同形・同一数値」と考えられ、後者では区別の有無は両義的で”曖昧なままでの容認どまり”でないか という疑念。

     運動を議論する限りそこはε量場であり、座標系基盤としての0系原点位置にも運動主体としてのε量体が存在しているべきで(”空”との区別;0-tensor)、0→vまでへの加速processは両系状態の不同を招来する(cf.f=mα)。
     同位置では区別の仕様がなく同等視であっても、v差による位置不同を容認の限り、基盤状態間にε=γmc^2に基づくε量差が存在しg≠g’に結びつき、4D特性もa priori起源ではないことになる。 
     
    ○ 存在・不存在の区別は微小域では殊に本質的で、「大きさ0な質点」という捉え方の曖昧さが「”真空”におけるenergyの存在容認」という曖昧さ放置の因ともなり、実体的”超ひも”や”宇宙”とそれらの背後の座標系時空との関係も同根と言え、「時空は”空”か”実体的”か、概念上の混乱が放置されている」と受け取れる(ε量場としての時空はむしろ固有時主体 or blackholeに親近性 #2010 etc.)。

     従来通り大前提のa prioriな4D時空像に則し判断している限り、上記時空(or場)概念の混乱・曖昧さは疑問の対象とはならない。
     しかし「時空・事象の関連容認」の立場は当にその絶対視されてきた従来時空像への「異なる革新的視点の導入」を意味し、上記「概念上の混乱」は「時空の4D性の起源に関連」との解釈の可能性を齎す。

     一般相対論は「基本的問題では根幹にまで遡る思考が必要」なこと、「落とし物は明るい電灯の光の範囲内で見つかるとは限らない」ことを示唆しているのでないか。  3

  • >>2009

    ≪ Planck長さの向こう側;a priori時空像の終焉 or blackhole!≫

    ○ 古典・量子力学を問わず、理論の目的は実在ε量体の存在形態や変位・変化の記述。
     だから微小域でのPlanck長もそうした実在量に関するものであって、重力定数がPlanck長を含むということ(l_p=√ℏG/c^3=1.6162×(10)^−35m)は当に場との関連を示し、Planckenergyも導かれている。

     これは微小ε量・重力levelでの区別に踏み込むことで「a prioriな一様4D時空像(重力に伴う時間の遅れなどと無関係でどの局所も区別しない)との決別」、あるいは”≠0な単位的ε量”の存在確認による「実在量baseの世界記述への移行」を意味する。
     つまり座標時が顕著な遅延状態に陥るblackholeとの境界or事象の地平線付近(cf.Schwarzschild半径)の事情は「ε量体とは無関係とする現a priori4D時空像の限界」を示唆、逆に「質量集中のblackhole部分は「4D特性の質量体起源を示すε量場で、いわば現a priori4D時空とは対照的な世界である」ことを示唆するものと受け取れる(#1996 90~ )。 
     更にまた、ds=cdτ=√(1-β^2)cdt から時空量としての”長さds”のε量体への帰着、or根源的単位量としてのε量主体は「≠0な大きさをもつ一体として重力源⇔固有時特性」でもあることをも示唆と捉え得る(←一意絶対的MKS計量基準系から局所状態毎での計量基準系へ)。

    ○ これが一般変換にまで到達した理論における「時空・事象の関連容認からの帰結」と考えられ、量子力学段階もこうした相対論からの帰結を超え得るものでなく、不確定性議論も、まず実在ε量の存在容認に立った上での実態確認のprocessとみることになる。
     粒子・波動の両性具備は前者が後者の集約的表現であって近似的ではあれ一体のもので(一時点での一体性)、両状態は加算的に記述されるような関係ではない(重力子も重力の集約的表現であって、重力源に無関係な存在ではない)。時空の4D特性がこのように実体ε量に帰着し得ることでuntouchableなものとして理論の基盤・根源に潜在してきたa priori性は解除されることになる。

  •   ≪要・再確認「事象単位量の存在」;「存・否」区別や「運動主体の確認」に不可欠≫ 

    ○ 光子(ε量体)の運動と空間(長さ)・時間の関係から即、時間・事象の ” 関連 ⇒一体化” が推認され、≠0な運動主体の想定は直ちに空間・時間の単位量の存在に結びつく。
     変化・変位の際に単位不在ではそのcountによる隣接点との区別ができない。座標軸上の一様視もそこでの順序数区別の無視or近似での成立で、これは即「場の”原理的”非一様性」を意味する。
    明白なε量変化を伴う「不変関係の加速系までへの拡張」は、 前段階までの抽象・数学的一様時空⇒局所不同・非対称なε量場へ の移行を不可避なものとし、宇宙方程式の含意「時空・事象関連」はその確認要請と受け取れる。

     ε/c=ɤmc→(p)^0(#1931etc.)は単位時間における空間量に相当(cf.⊿p⊿x)、これは当に各固有時主体の”在りよう(4元量)”、つまり「粒子における両成分の一元化」の示唆に他ならない(粒子の生滅⇒場内でのε量体の様態変化との意味づけに)。
     時空の4D性がε量事象起源というのもこうした事情からで、座標軸上の順序数であれ個別粒子であれ、数値的単位なしにその大きさ表示は不可能で、少なくともε=γmc^2のm≠0が不可欠な以上は「運動量p=mvやmcでのm=0はあり得ない」(cf.Hamiltonian)。

     dsはa prioriな一様時空像下の各局所系での変化量で、不変視はその同一を主張してきた。「一般」段階ではその共通baseはε量場であり、0tensorは「不存在ではなく、”≠0な存在量”」であって、dsは各系上でのそれからの変化量。位置不同が計量基準1の不同(g≠g’)を意味するなら、不変関係は既に「異尺度1での数値上不変に留どまる」(←時空像の違いによる「不変解釈」の違い)。

    ○ 量子力学での確率表示も”被検対象の実在”が前提で、各項はその”未検証な可能性状態”の列挙(実在量・猫の「未確定な生・死状態の確定まで」へのprocess;多世界問題も同じ)。
     つまり確率表示は「大きさ≠0の実在量」に関してであり、不存在量(背反事象)との関係は別levelの問題(如何に微小差であれ≠0と不存在0の間は”一歩が千里”)。
     その区別の曖昧さは特殊相対論までの局所区別の曖昧さを表象していないか。

  • >>2007

    ≪根本問題は「数値」以前に「計測基準の異同;必須な固有時の個別化≫ (続)

    ○ 存在量はどんなに小でも=0つまり不存在には至り得ず区別され、”空”からPlanck energyは出てこない。 
    「一般」段階での「時空・事象関連容認」は当にこの事情への言及と言え、局面のmicro・macroは関係しない。
     
     『 プランク時間は光子が光速でプランク長を移動するのにかかる時間であり、なんらかの物理的意味を持ちうる最小の時間単位である。プランク長、プランク時間のような短い単位においては古典的理論は有効ではなく、量子論が重要となる(Wiki) 』
     
     上記でも実体としての光子(≠0なε量体)の運動と「空間(長さ)・時間の単位導出」の関連は明らかで、(意識的か否かは兎も角)「時空・事象の関連容認」は否定の仕様がないと言える。
     dx=cdtでのcを時間経過の際の単位(単位時間当たりの長さ;c=dx/dt)に採ることで、dxやdtは「現実のε量場での変位・変化つまりε量運動の抽象場(時空)表現である」ことが明示され、これは量子論段階でも不確定性議論以前に「実在量の認知に関する問題が存在する」ことを意味する(量子力学自体もε量事象解明の議論であり、不確定性などはそうした事象存在を容認した上での次段階での問題 cf. #2003~)。

    ○ 当然運動(変化・変位)には≠0な主体が存在するが、massとしてであれwaveとしてであれ光(子)はそうした主体ε量の基本量・象徴と見做せる存在であると言える。 元々ε=mc^2関係の存在からも、光(子)が運動量(ε=pc)をもつ以上は「当然大さ≠0な単位的質量をもつ」とすべきであり、古典的理論の有効性云々より「従来の質量概念の変更が要請されている」と言うことでないか(cf.#1998 99)。
     こうした事情は個別固有時に集約的に表れている。

  • >>2006

     ≪根幹の問題は「数値」以前に「計測基準1の異同」!;必須な固有時の個別化≫

    ○ ⊿ε⊿t、⊿p⊿x~hの左辺各項を実体量とその時空表現間の関係として捉えるとき(現実・抽象の対応図式)、右辺hは≠0な実体量の単位的表現とみなせるものとなり(ex.#1787 1814)、極限的には『素領域⇔単位的素粒子』を意味し、結局は「個別“素”粒子」に帰するものと考え得る(→個別固有時へ)。

     ε量事象の存在・変化(含・時計)と無関係に時間経過が認知されていることはないし、a prioriな3・4D性は論理的にも容認し難く、議論の出発時点が既に曖昧である。
     CP=Tの左辺は実体の”相”であり、そう考えることで「4D特性の時空と事象に関わる2重性」は回避されるが、”超ひも”や宇宙背後の時空(座標系)の存否や性格が問われるのもこうしたcontextに於いてであり、big bangも「宇宙を実在量とした上での現状からの逆算」であって、これらは宇宙年齢など具体的数値議論以前に、背後の時空(座標系)の素性こそが問題であることを意味する。

    ○ 0・v系間の不変関係 ds^2=(cdt)^2=(cdt)^2(1-β^2) におけるcは長さdsの単位時間当たりの大きさとみなせ、両局所系間で「γ差がある」ことを示していることにもなる。これは幾何学的にも「0系での”≠0な長さ・広がりの存在”」を前提としている。
    「連続と切断」or coinの表裏がそうであるように、「ある”相”決め」は即「それ以外」との区別の発生を意味するが、”空”とε量体も当にそうした相補的関係にあって、「”空”が変化の主体であり得ない」ならそれは実在ε量体に帰属することになる。

     両局所間の微細部分までへの立ち入り区別〈計量tensorの2階微分)による「局所毎の基準区別(g≠g’)」は”各ε量体の変位・変化に起因”の個別固有時に通じるもので、各系上での自己計量の無意味さは「計量の意義自体の限界性を示唆している」ことにもなる。
     結局大域一様時間系は諸事象の統一的記述のための人為的時間系に留どまると考えられる。

  • ≪ds^2不変の別解釈へ;原因は非a prioriなε量基盤への移行!≫

    ○ #2003 04でもみたように、接続問題はε量場では「隣接2点間のε量差」に帰し、これは平・曲面(or直・曲線)上での不変議論を総括するものになっている。
     つまり隣接両局所間の問題として「同形・同一数値」であっても、系状態・位置の不同に基づくε量差はg≠g’に表われ、既に「異尺度1での同形・同一数値」へ移行となる。

    「特殊」段階でのds^2は、a prioriな一様性baseの故に「両局所1も不変」で「一意絶対計量の成立・維持」を意味し、v系上時計の遅れ・長さの短縮も「0系計測者からみた場合のこと扱い」に留どまる〈元々v→0との網もをかけてある)。
     他方、「一般」段階では同形・同一数値は既に異尺度1下にあり、近似的同一視も”不同尺度に関し”との解釈に。
     この違いは計測器〈時計・物差or計測者)も対象と同比でvの影響を受けることの結果「v系上でもε=γmc^2はε=mc^2となる」事情を認めるか否かにあり、前者はその部分をskipしていることになる(両段階時空像の違い)。
     しかしε=γmc^2のγ差はε量差とともに、mc^2+mv^2/2(Hamiltonian)は「v=0系でのmc^2と同一時点でのものではあり得ない」ことを示唆する(#1790 2002etc.)。
     
    ○ 実在ε量場の抽象tenso表現での各点区別は”各0tensorの不同”を意味するが、両系間の変換不変はこの0tensorの同等視に留どまる。
     しかし、より微小域でのcheckによるg≠g’は”両者不同”の主張であり、これがRiemann-tensorでの不同部”≠0な成分の存在”に相応と捉え得る。
     結局これは元々区別した両者を同じとみることの矛盾(原罪!)の指摘である一方、相互作用なしの「原初的”素”粒子探索の意義」への疑問も(ex.1775~78 85~90)。

    ○ 位置によるε量差は直線上においても隣接点との差異と見做せ、「特殊」段階的0・v状態系同一視ではdτ= √(-g‗00)cdt や光の湾曲が説明できず、ε量場でのds^2(≠0)は系の入れ替え・移動で「その差異解消」とはならない。
    光速c不変(原理Ⅱ)は各系上毎のものとなり、電磁場の捉え方もそれに従うことになる(cf.1999)。

  • ≪時空基盤の不同は別理論を意味する;ε量関与の有無 ・原理的非対称など ≫

    ○ 「特殊」→「一般」段階 は 3D空間・時間→4D時空 という変革の、更なる深層に踏み込む時空基盤の解明であり、最終的に同特性の「ε量体起源にまで到達」と捉え得る(「時空・事象関連容認」はその方向への出発点)。
     徹底した非一様時空像に全面的に移行するか否かは兎も角、a priori3・4D時空像維持のままの高次元化はε量事象関与容認の「一般」段階思考・評価に基づくものではない。
     tensor場のどの位置でも0tensorは”空”ではない実在量の基盤状態を意味し、位置毎の基準尺度1は既に一様時空像の制約から解放されている。
    ε=γmc^2→各系毎のmc^2であり、「特殊」段階とは”同等視の意味”は異なる(一意絶対計量拒否;ex.2002)。

     事象を数式・それ以前の言葉のどちらの表現を採るかは第一義的問題ではない。
     ε量場としての時空は原理的に非一様で、”各時刻に対応するのは単位的空間量であるべき”で、「原点の不定定数扱い(ex.1769)」も局所系区別の不徹底さの表われであり、更にはds^2表記宇宙(cf.Robertson-Walker式)とその記述場である時空(座標系)との優劣・異同or超ひもとその背後の時空との関係はどうなのか(数式表現上で種々の演繹的思考を巡らす以前に、「ds^2自体の≠0なε量的性格の有無」を巡る問題)。
     dark matter/energy問題も「不変量ds^2が系間の全ε量対比になっていない事情」とは無関係か。

    ○ ”真空のenergy認知”も科学発展の成果というより”空なる概念は如何なる特性の担い手でもあり得ない”という単純過ぎる事情の見逃しに帰すると言え、光(子)が枠組基盤としてのε量場での実体・運動の基本単位量とするなら、ether以来の「空間・時間枠組の内実有無の議論」は、”物体運動”の「ε量場での励起状態の搬送・伝播への敷衍」で収束することになる。

     更に⊿ε⊿tや⊿p⊿x~hの各左辺を「現実の実在量とその抽象量」と読むとき(cf.#1787)、hは実在量の単位となるが、時間・空間の同等性思考からそれをある瞬間での空間的単位量とするなら、H(q , p)形式もgauge不変視同様「異なる瞬間での状態を同一視している」ことになる。

  • >>2003

    ≪現実軽視の対称性理論の限界;局所性はa priori時空からは出てこない≫

    ○ 当トピの当初からのthemeは”運動状態or位置不同な2系間の不変同等視への疑問”であり、それが原理的には「一般」段階での局所区別の表明(g≠g’)とは明らかに不整合である以上、「ds^2不変の解釈はgaugeの同・不同への立ち入りで再checkされるべきでないか」ということ(#2000~etc.もその補習相当)。

    「gauge不変」は不同局所での同一位相・同数値を意味し得ても、それは「対象・計測器とも運動・位置不同から同比の影響を受けることの結果」であって、「計測基準の相対化以前の思考」でないのか。

     これは元々対称性議論がε量体内在の”現実時空”にでなく、”抽象的数学時空に依拠のNewton力学の絶対時空像"
    に立脚、ε量関与の視点不在であり、系の変換もその「一様不変時空の前提下という事情に由来でないか」を問題としている(⇔両系状態不同はは客観差であり、みかけ差ではない!)。 

     現実時空の性格は内在ε量と無関係ではあり得ず、他に時空に影響する存在量がない以上、(説明不能なa priori視の立場を回避するなら)「4D特性はε量に起因し、原理的非一様な場」とする以外にない。

     これは「時空特性は内在量の特性と一致、その象徴」との捉え方とも合致する。
     つまり重力など内在ε量を付加的に外部次元に位置づける(←a priori4D性持続)のではなく、その内実に則し時空自体を「ε量場へ移行と捉える」のが自然で、一般変換の場は当にそうした解釈の導入を準備したことになる。

     してみれば”両系間差異の見かけ解釈”はその場しのぎのお座なりなもので、一様性自体への内省にまでは至らぬままの抽象場思考優先・絶対視に基づくものにみえてくる(←軸上の一様視には順序数値区別に必須なcount単位の存在軽視問題も)。 

    ○ 抑々一様時空像準拠の立場で「大域慣性系の拒否 or Minkowski時空の局所化はどのように導入できるのか」。
     対称性など元々非一様‣非対称の近似でしかあり得ず、"人為的理論の方こそが現実の近似"!

     一般相対論は理論自身の限界性までも視野に入れた議論と捉えるべきで、固有時区別は「計量の相対化に呼応」する(「場所により尺度が変わっては物理にならない」ではなくて)。

  • >>2002

     ≪ " ε量場での座標変換"と "Riemann tensorの≠0成分残存"≫

    ○「特殊」段階までとは本質的に異なり、一般変換(変換の加速系までへの拡張)段階で物理理論は「時空⇒ε量場への移行要請」段階に入ったことになる(ex.0-tensorのε量視)。
     これが一般相対論の画期的意義であり、「時空・事象関連容認」はそのturning-pointの意味をもつ。

     #2002でもみたように、座標変換に際しての”所要ε量や時間の無視”は幾何学的思考に基づくが、「一般相対論での時間経過は力学変数で決まる」との見地からは、その事情が変換前後の定常2系間のε量状態不同の生成因と見做せ、両系接続部位での不適合が「Riemann tensorの≠0成分残存に相当」と捉え得る。

    ○「最小作用原理」もε量場としては経路の直・曲対比以前に位置不同な2点間にε量問題があり(直線経路に依ってみても同一視には原理的限界がある)、その差異の最小化が「隣接2点間の接続問題とみなせる」ものとなっている。
     つまりε量場での「質点の運動energyに限らぬ全ε量問題」としてみるとき(cf.# 1928 etc.)、それは曲面上の測地線での接続問題に収束との捉え方が可能となる。
     逆に言えば「幾何学的思考依存での変換処理は共変関係の視点から見直されるべき!」ということになる。

    ○ 非一様時空像の根底を為すのは”空”でなく種々なε量体であり(cf.多様体)、自然はその連続性をbaseに集積度の差異としての個別局所で成立している。 
    「連続と切断」はどちらが優先ということではなく、”当に相補的”と捉えるべきで、一意絶対的計量基準存続下での究極的個別粒子の追究は最早意味を失っていないか(既にa priori由来でない”様々な局所ε量体上固有時”の存在がある!)。

    数式上でのfollowは厳密な論考を期してのもので、その結果が”粒子やenergyなど現実世界の存在に翻訳されている”ように「自身だけで閉じている」訳ではない(← 現実⇔抽象場 の対応関係)。
     だからそうした数学手法絶対視は実体の存在する現実軽視であり、確率的表現も検証以前の未確認状態の列挙止まりのはず。
     それがapriori性抽象場偏重であっては、”多世界の実在視”のような奇妙さに疑問を感じなくなる状況に陥ることに。

  • >>2001

     ≪幾何学的計量か物理的計量か;ε量場での変位と基準尺度の異同≫

    ○ 相対論での0系は運動状態の異なるv系の基準としての設定であって、Newton力学的唯一の絶対時空表現とは既に同義ではない。
    「特殊」段階での「ds^2=cdt^2(1-β^2)量の不変」は0・vの近似的同一視によるが、より詳細な隣接点区別の立場で非一様時空像に立脚の「一般」段階は、一様時空依拠に基づく0・v系同等視許容の立場にはなく、重力加速度などの考慮で時空をε量場と捉えているもので、g≠g’関係も両系間のε量差に関連づけられる。
     
     これは「局所毎の基準尺度1不同」の立場であって、Minkowski時空局所化という原理的立場を遵守するなら、(同段階でも現実的には近似手法を採るにしても)「運動系上での時計の遅れ・長さの短縮は”同一尺度での数値不同”ではなく、”異尺度1(γ差)下での同一数値”で説明されるべき」と言うことであり、「基準の系からは遅れ・短縮して”みえる”のではなく、実際に計器〈時計・物差or計測者)も対象と同比で変位の影響を受けることによる」と
    の説明となる。
     結局この事情は「相対化の計量基準までへの徹底からの帰結」で説明されるものと言える。

     これが「特殊」・「一般」両段階での時空像の違いを踏まえた「同等・不変解釈の違い」であり、「基準尺度1の不同に基づく数値の増減」であって、「一様時空前提のままでの同一尺度での数値不同」ではなく、両系間の長さ・時計の進みの違いは「どこから見る・見ないに関係しない客観的基準尺度の不同に基づく現実である」ことを意味している。

    ○ 時空の表象である座標系自体が数学由来であり、「特殊」段階までの一様時空像下での位置移動は「(並進・回転を問わず)ε量関与のない幾何学的思考に準拠」、「その運動vも最初からの所与」としての存在であって、運動に伴うはずのε量的観点が見いだせない。この点で「一般」段階思考と異なり、内在量とは無関係に「a prioriに一様な場としての3D性・時間下で成立している」ことで「自身の時空特性の出自を説明する手掛かりが見出せない事情にある」ということでないか。

    「一般」段階は現実時空内に存在のε量事象との関連容認によって、不同局所間の移動を幾何学的観点で捉えていた「特殊」段階思考を離脱、”物理的に”時空を捉え直したと言える。

  • >>2000

     ≪「単位の存在」軽視の罪;奇異な「”空”の特性」や「数値区別抜きでの一様性」容認≫

    ○「”変化の単位量の存在”軽視or無視」は、時空特性の「担い手」の存否や「一様性下での数値区別の有無」を曖昧にする(ex.座標軸の一様性容認は、数値やε量には当然な「存在単位のcountによる位置区別・重みづけ」の無視or軽視 で成立)。
     これは「理論基盤での当然過ぎる事情の見過ごし」による「不自然・無理な帰結の受容へ」のprocessと言える。

    ○ 元々ds^2”不変”は「仮説で絶対的真でない」ことは、客観的に位置不同な0・v状態の”近似的同等視”で明らか。
     これは「対称性基軸の理論で記述されている自然・ε量事象は実は本来非対称で、対称性はその近似でしかない」ことと同義(1972 88 etc.)。
     だから一様対称時空・それに依拠の理論には始めから限界があり、「絶対的真というに等しいa priori視」は「一般変換段階での時空のε量場視」で解消へ。

     時空の局所区別の象徴g≠g’は、現実の場での局所間ε量差の反映であり、抽象場の記号としての個々の数値の大小は”順序数”or”基点からの隔たりの大きさとしての配列”で初めて「位置による区別」と呼応する。
     これは「系状態差による同一scalarの区別」と同義で、「各局所系1の不同」は「計量基準までへの相対化の徹底の結果」であり(cf.各固有時とa prioriなdt時間系との関係 ex.1997)、更には隣接2局所の接続点(場)でのgauge変換を許容というのは時空(場)が元々非一様なことの追認と言える(「異尺度1下での同形・同一数値」どまり)。
     
     3D性・時間にも不可欠な単位量が最終的にはε量体に帰着とすれば、big bang以前の時間の存在や宇宙膨張議論なども”基準の相対化以前”の「尺度不変なa priori時間系下」でのnaive過ぎる把握でないか。

    ○ 理論は未だ4D特性のε事象起源を明言の段階にはないが、既に「事象の世界線は測地線と見做せる」事情もある(1860)。
     時空・事象の本質的関係は”固有時の在りよう”に示されており、座標軸がc単位のnull直線的に表現されるという事情はSchwarzschildや Kruskal座標系などの展開での「変数の特性」に関わる点で”より本質的な意味”をもつ。

  • >>1999

     ≪不可避な「一般」段階時空像に立脚の議論;未達議論の不備・限界≫

    ○「特殊」→「一般」段階へ の展開で最重要なのは基本枠組である時空構造の変革で、「一様4D時空⇒局所性(非一様時空)容認へ」の展開は、内在ε量事象との関連なしではあり得ない。
     物質(ε量事象)の様態解明が目的の物理学は、その”運動・変化を記述する”以上、如何に微小でも「≠0な単位量の存在は全理論に不可欠なのに、”その存在にも拘わらず”explicitでない曖昧感を払拭できずにきている(cf.#1996)。

     これは「どこも区別しない一様対称なa priori4D時空に依拠(←理論的追究の場としての要請)という背景によるが、「一般」段階での”時空のε量場化・局所化”が初めてそれへの立ち入り・変革を要請するものとなった。
     時空局所化のg≠g’を介して「一様4D時空像⇒の個別ε量事象へ」の道筋が拓け、従来のpotential部分まで取り込んでの局所区別はそのまま「粒子区別」に連らなる。
     それに基づく「現実のε量体由来の単位」はa priori性と緊密な”無限や不存在”との区別要因となる。「思考の変革(#1999)」とはそうした曖昧さからの離脱・明確化を指す。 
     量子力学の展開も微小域の精査という必然性に基づくものだが、時空像の根底に≠0な存在量を明瞭に認知意識するか否かは「4D特性の一様a priori視許容か否か」に直結している。

    ○ これは異局所間の状態差への言及である点で、「計測数値の一致が即同一・不変と即断できない」とし「観測による同一視判断への疑問(観測結果絶対視の否定)」の指摘、つまり観測の意義に関わる疑問提起ともなっていて「問題の本質はそれ以前にある」ことをも示している。

     こうした時空・事象関連への展開は「特殊」段階までは未達だったことから、時間・空間量とε量場事象との関連抜きに時空構造としての対称・非対称議論が不十分なことは明白で、その延長での時間・空間議論は解明に資するものでなく、無用な一層の混迷・迷路に陥ち入っていくだけ。

    ○ 「一般」段階思考は「特殊」段階までの理論展開processを精査、その上での不備認知に基づく展開であり、拒否できないはず。
     そうである以上、「時空・事象関連」は既定とし、今は両者の関わり方への立ち入った説明・解釈が必要な段階ではないか。

  • >>1998

    ≪”時間を含まぬ”式の意味;空間量自体が”時間経過のcore”≫ 

    ○ cdtの形で光(子)が座標系における計測基準単位の役割を担うということは(#1998etc.)、「抽象座標系は実体的ε量場をbaseに”2次的に構築された写像”とみれる」こと、その各系基盤は”不定定数扱いで不透明な原点状態(#1786 1993 67 etc.)への立ち入り”により「不同一とみれる」ことを意味する(局所区別)。
     これは同時に、「原理Ⅱ(光速c不変)が”異尺度1下での同一数値どまり”であること」を示唆し、そうした「計量数値の一意絶対視の拒否(同一scalar区別)」と言う事情下では、電磁場の式の一意性も逆に近似と捉え直すべきとの要請となる。

     「4D時空像は個別4D事象(粒子)に帰着・還元」という事情は「固有時とその主体(担い手)の関係に通底するが、「一般」段階でのg≠g’など局所区別容認の立場を採る以上、「大局的一様時空の解体」とともに「特殊」段階思考に立脚してきた理論は各局所議論に留まることになる(ex.上記「電磁場の式の一様性再考」)。

    ○「時間を含まぬSchrõdinger 式」は厳密には”一時点での局所状態表示”に留どまり、”状態”は「時間経過の際のcore」と捉えるもので、これは結果として「”演算子・波動関数のいずれか時間依存か”によるHeisenberg、Schrõdinger表示の同等性を説明している」ことにもなる( #1940)。 
     こうした「空間量は時間経過の際の基準単位・coreとして存在」という関係は、古典・量子力学に共通するもので(#1987)、「大きさ0点でのε量発散回避」の為の無理な現行解釈(瞬間的許容)を拒否する。

    ○ 問題の根源は『理論の最先端と言うより理論の思考自体の改変』にある ⇒ 『局所系毎での慣性・重力質量の等価原理にi基づく非一様全時空像』(ex.#1483 1496)。

     DNAのlevelで捉えれば個人も「どこまでが自分自身か」の問題となる。理論の継承も同様で、根幹は古典‣量子力学段階に隔絶などなく(ex.ε=mc^2=hν、ⅽ=μν #1954)、現実⇔抽象 の対応関係無視では抽象場絶対視や多世界の実在視に陥ることになる。

      (訂正) #1998 最下段: (誤)ε=γc^2 → (正)ε=γmc^2

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