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    ○ 特殊ローレンツ変換での ds^2不変式は座標系の採り方に無関係に成立するので、今S系とそれに対し速さvの質点上に原点をおくS'に適用すると
    ds^2=dx^2-c^2dt^2=-c^2dt'^2 ⇒ -ds^2/c^2=dt^2-dx^2/c^2=dt'^2・・?
    が成立。(各系は唯一通りの時間で統一されており、dt,dx,dt'はそれら座標軸上の目盛で計測した事象dsの計測値)
    これに dx=vdtを代入整理すると
    dt^2(1-β^2)=dt'^2⇒ dt'=√(1-β^2)・dt・・?
    つまりS'時計の遅れを示す?は単に両系時間同士だけの関係なのではなく、既にdx項効果も織り込んでおり,ds^2不変関係と同値とみなせます。(?下段[物理元]は[時間]^2)

    ○ ?で v≠0 なる限り数値上dt'≠dt。ところが相対論では「どの系上の尺度も区別しない」のが前提だから”同一事象ds”の間の両時計の進みも同じ、つまり dt'=dtのはずで、これは?と矛盾。
    そこで理論の前提維持のため,S'時計の遅れに関して「Sからみると遅れて”みえる”」という゛危うい”弁明が用意されている。しかしのdt'定義は「S'時計での事象dsの計測値」であり、「S'時計をSからみたときの数値」という意味はなく、どこからみる・みないという視点の関与とは無関係に速さ0,V両系を第三者の目で比較しての結論であって、遅れ(両時計の1秒の大きさ不同)は客観的な事実だと考えます(遅れて”みえる”のは単なるその結果に過ぎず、”Sからみること”が遅れの原因ではない。どの系の1秒も同一視する前提の下でS'時計は一体どちらの速さで進み dt'を得たのか? 先の弁明は dt'の意味を不当に曖昧化することで,矛盾する「遅れ」と「理論の前提」の両立を意図する姑息で的外れな対応に過ぎないのではないか?)。

    ○ 両系上で尺度が違うとする立場を採って?を γ・dt'=1・dt とおきます。不変関係は少なくとも数値上の不変(同一)を意味しているのだから、共通としてきた基準(orS系基準)でのγがS'系では1に縮小→両系単位長1の大きさ不同 とすることで、形式上・数値上の不変関係 1・dt'=1・dt → dt'^2=dt^2 が実現、これが ds'^2=ds^2 に相当すると考えます。
    一般相対論でのgによると同様、vによっても各系上の単位長1は不同とすることで、時空はどの局面でも原理上局所性をもって成立していると統一的に考えられることになります(原理上と近似上は別。元々近似処置は当該両局所の不同を前提とするもの)。これは広域や大域の慣性系の否定に通じることにもなります。 

    ○ 結論:ds^2不変の現行解釈「両系同一単位長1での同一数値」は「各系異単位長1での同一数値」に変更すべきではないか(計量基準の相対化)というのが疑問です(始めに不変とした際のdsはどの系での尺度で計った大きさなのか。速さ0の系での計量基準をvの系にも押し付けていないか。ローレンツ変換はスケールの変換も伴っているのでないか。両系の相対性・同等とは「どちらを基準の系に採っても同じ結論に到達する」というにとどまり、両系上の同等までは意味しないのではないか)。

    ○ ご意見・反論をおきかせ下さい。

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  • 1994 1970
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  • 1994(最新)

    qnj***** 2月12日 20:30

    >>1993

      ≪抽象場の理論の性格;a priori性依拠のままでは観念論もどき!≫

    ○ 現実⇔抽象 の対応無視での議論ではa priori4D時空の位置づけはどうなのか。「現実の場」に根拠を見出せず、そうした理論の全体像は観念的あるいは”共同幻想の類どまり”と評されて否定しきれるだろうか。
     我々は”何を見ている”のか。
     多世界議論は「感知している世界像」と「抽象理論での世界像」の無差別な後者一元化・出処無視としか受け取れず、信奉者は自身を”そのどちらの世界にいるとして議論している”のか。
     勿論「科学」という名の下でどんな思考も免罪符を得ている訳ではなく、”多世界分立”も何か末端肥大的症状の表われに思えてくる(←”悟空”本人?の居る場所は何処??)。
     列挙の確率各項は”不確定要素を残す種々の世界像の並立”と受け取れるのではないか。

    ○「時空・事象の関連容認」は、余りにも現実感覚と隔絶・肥大化した「抽象概念としての大域4D時空像」への疑念、それはそのまま現実ではあり得ないとし、「現実感覚としての物質的世界との関連づけで捉え直そう」との意図に受け取れる。
     これは取りも直さず、局所化以前の”大域一様慣性系に依拠”する「特殊相対論思考への批判的見解」と見做せるだけでなく、量子力学の立場への批判ともなる。
     例えば観測問題での披検対象である粒子・波動両性具備の電子や光子も(猫も!)、reductionまでへの過程は(不確定要因内包のままであれ)大きさ≠0な実体量であり、「確率波そのものが飛翔している」訳ではない。
     粒子性・波動性を問わず量子力学の対象も現実的実体性をもつことに変わりなく、「≠0な大さの単位量容認」は”不存在との区別に不可欠”で、確率解釈は実在量(粒子)に関する抽象場での議論に留どまる(ex. 1913 18 )。
     
    ○ 実体性のないものに局所化などの区別は無用で、慣性系の局所化は非一様時空像の表われであり、局所毎の計量は結局現実の場での「”変化の際の単位量としての個別粒子”の移動・変化」に帰する(ex.#1968)。

    一般相対論による”大域慣性系の存在拒否”は、局所内計量の一意絶対性は限定された範囲での近似であり、自身の立場の絶対視による「外部の存在or客観的視点の”無視”」に過ぎないとの指摘と捉えられる(独り居での壷中の天下enjoy!)。

  • >>1992

     ≪必要な”原点問題”への回帰;「特殊」段階での時空点とは?≫

    ○「特殊」段階までの時空点は”空”の表象か”実体量の位置”か?
     時空を位相構造で捉える際も、一点を数学的/質点(ε量を表象→不確定性問題へ)のいずれで捉えるかで時空像は根源的に異なり、4D特性をa priori時空/実体量どちら由来とにするかに直結している。
    「固有時と一様dt時間系の関係」に言及の際、議論すべきその担い手(主体)問題をthroughしたことで「時空とε量体関連の有無」の不透明状態続行へ(ex.1773~75)。

     時空をε量的場とし、”物体と場はenergyの凝集度の違い”と捉える立場では(cf.1481)、「場」内のどの一点も質点となり、座標系はそれらを原点とする2次的抽象的上部構造とみることになって”その移動は原点運動に帰する”。
     数学的時空像に準拠する「特殊」段階での0・v系対比では、原点やv運動因に関するε量的観点が不鮮明だが、これを明確に「質点が原点の系」・「それに対するv運動の系」間の問題として捉えると、それぞれε=γmc^2における2点上での「系全ε量間の対比問題」、つまり Hamiltonian;mc^2+mv^2/2 によるv=0、≠0両系間対比となり(ex.1986 87)、基準系(v=0)原点にもpotential部分相当のmc^2量が存在することに。(potential部分までへの踏み込み対比で「各系毎のε量は不同」となり「異尺度1下での数値上不変の成立」となる)。

    ○ 従来、ds^2の「両系不変視」は、ベースがε量に無縁な一様a priori時空であることで、曖昧な「原点の不定定数処理(1967etc.)」などによる「potential部分の処理が不鮮明」で、「変化量dsの原資の性格」に不透明さを残してきたが、上記で基準系原点に”変化の主体”としの「ε量体”s”の存在」が明瞭になった。
     近似であれ、Hamiltonian が”各時点”での時間経過の際のcore(単位)であることは「時間は事象変化の抽象化・2次的存在であることの証し」との捉え方と符合する(固有時と時間的記述の限界;ex.1775)。
     
     非一様時空像下でds^2不変視が系毎の全ε量対比・局所別計量であるなら、Lagrangianによる不変議論はそうした環境に不適でないのか。

  • >>1991

    ≪「時空・事象関連容認」⇒「Copernicus的転換」の要請へ;近似では解消しないa priori性 ≫

    ○ 数学の抽象性を認めるなら数式使用の自然・事象表現は抽象場(頭の中)でのものであり、「現実の場」というのはそうした思考を巡らす主体や物質存在の場。
    「抽象世界が総て」かの”数理議論絶対視”的立場は、そうした当然な区別を看過しての”前のめり”な、言わば”末端肥大症状”に類するものでないか。

     任意次元の場想定が”可”な数学とは異なり、物理学は運動・変化するε量主体の記述が目的である以上、記述の場(時空)はその性質を反映しての成立でなくてはならないし、更なる高次元化を図る場合も”時空のため”ではなく事象説明への適‣否が判定基準で、これは時空の特性決定は対象となる事象優先であることを意味する。
     4D特性の担い手として「a priori時空優先」というのはこの事情に反し、”空”なまま「根拠の提示なし」では首肯し難く分かりづらい、つまり不自然なのだ。

     これまでの理論結果が「正当さを実証」と言うなら、それは各固有時主体起源の立場でも 現実⇔抽象 の対応関係に立って言える事。何よりも何故「一般」段階的ε量場への展開があったのかの説明がつかない!
     不変関係の加速系までへの拡張は、0・v系間をε量差の視点で捉え直す契機を齎し、それが時空・ε量事象関連容認に連らなり、結局は一様時空像に立脚し同等視の「特殊」段階思考に対し「その基盤からの再考を促す」ものになっている。
     時間反転も当に事象の反転に他ならず、時空は「事象特性を反映しての成立」と捉え直すべきなのだ。

    ○ a priori4D時空像に立脚しての数式展開は一途な高階tensor化による重装備指向に思える。
     しかし基盤の検討・変革を意図せぬままでの展開続行は、何か”周転円での複雑な説明に落ち込んでいった”「天動説の衰退事情」を彷彿させる。
     「時空・事象関連容認」は従前思考の延長・そこでの近似ではなく、当に「Copernicus的飛躍の要請」に連らなるものでないか。

     つまり「時空・事象関連容認」は、両者間を「”空”でa prioriな4D時空に基づく」のではなく、「実体であるε量体起源で説明する」ことの方がはるかに論理的に首肯しやすく、「そうした隘路からの解放に連なる」ことへの示唆と捉え得る。

  • >>1990

     ≪”a priori視のまま”では済まぬ「4D時空像」;現実的・幾何学的経験が介在!≫

    〇 「時間は”a prioriな”実在ではない」というのは「その推移は事象の変化・変位からの写像であり、事象ナシでの存在ではない」と言うこと。
     ”空”が何故「他次元ならぬ3D特性をもつのか」も現実の幾何学的経験抜きでは考え難く、時空とその4D特性容認の間にone cushionがあるべきだというのも「”空”なままでは何故”固有”時や”局所”時間が存在するのか」の説明にもならないから。
     その意味で「事象との関連不認承」の「特殊」段階時空に依拠のままでは明かに不備。
     抑々「4元距離ds^2不変への移行段階」で既に3D空間・時間の意味の変容が論じられるべきだったのに”それらのa priori視の故に”触れられずにきた。 

    ○「特殊」・「一般」段階の違いの根幹は数値的なものでなく「自然の捉え方」にあり、「時空・事象関連容認」のもつ意味は安易な対処では済まない。
    「理論の”絶対性”」も「自身基盤がa prioriに真である」との確信の上で初めて主張できること。
    それに対し両者関連容認は一様・a prioriな3D空間やdt時間系への疑問提起であり、それらの「個別事象への帰着」は「理論の相対化を指向」と捉え得る。

     原理(仮説)設定が不可避な人為的理論には必然的に限界があり、「各事象由来の時間系の適用限界(cf. 固有時の即自的限界→発散)」はそれを示唆している( Babelの塔 !? )。

    ○ 全事象に共通する一様時間系は「生起事象を統一的に順序立てて記述するための”全く人為的な基準・場”であって、それが唯一絶対性をもたぬことは慣性系の局所化からも明らかで、個別事象の生起・変化に先立つ存在ではない。
     ε=γmc^2からのHamiltonianはpotential部分を内包することで系全ε量主体として各時点での時間的記述の対象(単位量)となり得ている(ex.#1881 82)。
     MKSA単位系設定自体が人為的取り決めであり、局所状態の差異に起因する「基準"1"の相対化」への言及・配慮もない。 
     
     整数列の中での「0の位置・身分」は”その数値列が表象し得る対象の欠如”ではなく、「変化0状態(変化・変位の起点」を意味、「変化の主体の存在認知」は明らか。

  • >>1989

     ≪ 現実はdynamicな非一様ε量場;「a priori4D時空」はε量場に収斂 ≫

     ○ 抽象場での「時空・事象関連」は 等号(=)左右の一体化にまでは至っておらず、その不徹底さが現実の場把握に際しても抽象的時空概念の残存を許容と考えられる。 
     論理性最優先の理論が自身の枠組自体をa priori視のままということは自身の立場への自省不足ということでないか。
     移動・変化には必ず≠0な主体が存在、抽象的時間の経過も時計の進みを含め「事象の変化・移動なし」では認知され得ないし空間的位置移動も同事情、更に言えば「位置移動は時間経過なしではあり得ない」。
     ε量事象の運動・変化は抽象場ではa prioriな時空枠組(座標系)内で記述されているが、その枠組自体が対象ε量事象の特性を反映して成立しているもの。
    「時空・事象の関連」は究極的に事象に収斂しての一体化で(cf.質点運動と測地線ex.#1987)、その全体が「非一様なε量体で構成の場」であることに(←sampleは個別化した固有時のε量主体・担い手。そこでの即自的時間・位置の限界は「抽象的存在の2次性・限界」を示す)。

     座標値は本来a priori視4D時空側でなく「事象側のもの」との事情は未だ明瞭に認知されていないのでは。
     慣性系の局所視からも「一様・対称時空像」は”人為的理論体系で必須とする枠組構造に留まる”と考えられ、理論の全体像は「現実の写像」であって、対応する現実ナシでは架空のものとなる。

    ○ 固有値方程式 Hφ(r)=εφ(r) 自体は抽象場のもので、波動関数φは”状態”という多少曖昧な拡がりを持つ表現を採っているが、それに作用する物理的演算子は対象の変容を要請する(→固有値へ)。
     つまり「演算子自体が確定すべき対象(状態φ)を受容の上で「その確定」に当たっており、右辺のφ(r)は「得られた解としての数値εはあくまでφの量であることの明示」ともなっている(#1940)。

     「時空・宇宙」は重力場の式の左右両辺一体化で統合され、両者の接点と言える粒子所在地での時空量・ε量間の読み替え操作は上記演算子の作用とparallelに思え、量子力学でのHeisenberg ・Schrõdinger 両表示の実質同等性は結局「想定される時空・事象の統合状態の妥当性」を意味していると受け取れる。

  • >>1988

    ≪ 事象は理論枠組以前の存在:古典・量子力学不問 ≫ (続)

    〇  つまり、「時空・事象の関連容認」に基づく「理論基盤の変革要請」とは、「特殊」段階での抑々の仮説”0・v〈≠0)同等視”は「原理的に不同なものの同一視に他ならず(”原罪”!)、それの許容は「計量の本義”異なるものは区別する”に悖る」という事情へのimplicitなwarningと受け取れるということ。

     ∵ 一般変換での同等視の「加速系までへの拡張」は、0・v系間は 0→vまでへの加速processの前後の2系と捉えられることで当然「ε量不同」を意味し、「同等視への疑問惹起の契機であり得る」のだから。

     両系位置不同(←尺度1区別に直結)の座標軸上への反映は順序数の違いで示されるが、そうした違いの同等視は「基準尺度1の各位置での違い無視に”落とし込んだ上で”」で得られていることになる。
     唯それは表面的な糊塗でしかなく、「異なるものが同じ」になることはない(”近似”処置を除いては)。
     0・v区別は「客観的対比の結果」であるのに対し、「特殊」段階的同一・不変視は各系上それぞれでの〈言わば各主観的立場で得られる)同一数値を以って”何処も同じ”とする類推で成立しているに留どまる。

     これは理論の成立基盤自体への内省から出てくるもので、物理内思考に止どまらぬ「人為理論の限界の指摘orその絶対性の否定」と言える。
     
     0・v同等視は「”客観的な非一様状態”の”一様視”」であり、「”原理的非対称”の”対称視”」に他ならない。
     「特殊」段階は「不同なものを取り敢えず近似的に同等とし」、その仮説(仮定)に立って論理的。数学的議論を浸透させてきた。
     しかし”より微小差・微小域への立入り・究明”となる「一般」段階や量子力学段階ではその近似度が俎上にのぼらざるを得ないのであり、”近似”の追究段階に入っていることになる。
    「固有時の個別化」もその一環であり、究極では4D性は個別ε量体(物質)の時間成分・空間成分に帰することになる。

    ○ 抽象的数学と自然の関係として”自然は純粋数学によって初めて完全に説明し得る”かの主張は、既に自身の体系外の”自然”の存在を認知している。
     「現実と抽象場の対応関係」は認めるべきだし、その理論体系自身の完全さの保証もないはずでないか(cf. ゲ―デル)。

  • >>1987

     ≪ 事象は理論枠組以前の存在:古典・量子力学不問 ≫ 

    ○ 古典・量子力学を問わず理論の目的はε量事象の解明であり、対象・その記述枠組の関係は当然前者優先で、それに合わせ枠組は事象特性に準拠でなくては役立たない。 
     時空の4D性や確率表現という枠組も先ずそうした特性をもつ実体(記述対象)の存在が前提でapriori4D枠組への不調和感は当にそうした事情から。
     ”空”と対応する主体事象(ε量体)が先ず存在していて、それらの特性としての3・4D性判断には幾何学的経験に基づくone cushionを要する。
     その枠組・時空構造の変革は「4D特性の対象ε量体起源」までへの遡及で初めて明確になる。

     確率場の対象もそれ自体は実在量(存在確率1の事象)、唯その細部は検証までは未確定との立場で各項列挙とみれるもの(可能性段階どまり)。
     検証なしで確定扱いしてきた古典論段階の対象も、確率表現の導入で原則”要確認”とすることになったと捉え得る(微細域が主対象の量子力学の展開と呼応し)。

    ○ 物理学は実体的ε量場での事象解明が目的であり(抽象3D性・時間枠組のapriori性究明もその一環)、抽象場・数式上議論はあくまで解明の手段どまり。
    「抽象場議論が総て」かの立場はその主旨から外れ考慮外とするもので、要検証の立場の放棄ともなる(cf.多世界の”実在”視 etc.#1918)。

     抽象場・数式内で使用の記号・数値が「現実での存在量の代替表現である」ことを認めるなら、それは既に抽象化以前の対応量の存在認知を意味する。そうでないなら何を表象していることになるのか?

    ○「時空・事象の関連容認」は理論基盤の変革要請と考えられ、理論基盤の3D空間・時間枠組のa priori性にまで踏み込まぬ限り変革は未了で、非一様時空像下での同形・同一数値は「計量基準1不同」にまでは立ち入っていない。

  • >>1986


    ≪ 逆の発想が”近道”;時空・事象の一体化へ≫

    ○ 元々”物質(ε量体)と空間”の対応は”実在と無”の相補的関係を表象するもので、数式上での事象追究のbaseにある関係性。
    ≠0な点imageは粒子・波動両性具有の物質存在を象徴し、対時空は「両性区分に無関係な”それ以前の”問題」(区分はscale的にどちらに傾斜しているかの程度問題で副次的)。

     論理矛盾とも言える「”空”∧3D特性」の安易さには、”その間にone cushionあり”と繰り返してきたが、数学的nD特性の場は少なくとも多様体であるべきで、「時空・事象関連容認」はそこへの踏み込みに当たる。

     その物理的表現が重力場の式であり、右辺のT_μν(energy・運動量tensor) が示す物質性の「優先」が左辺の「”a priori起源時空”見直しへ」の契機となる(←基盤に残る”欠陥の除去"で理論の論理性貫徹へ!)。

     左辺優先で不透明なa priori性のまま「屋上屋を重ねても一層混迷を増すだけ」であり、数理論的究極でその不当さが証されることがあっても、それは一般相対論超えでの難解の極だろう。
     だから逆に”特性の担い手は実体”に矛盾しない「”4Dε量体表現”の右辺優先思考」で理論の”浄化”へ。
    ∵ 基礎概念は基盤・最先端で一貫のはずだから(そうでなくてはおかしい:現実⇔抽象場議論 の構図)。

    ○ 固有時の”-担い手(ε量体)想定”(ex.#1775)も、「理論baseの時空から不明瞭なa priori性」を除去し透明化に資する(←vに応じた個別のcarrierが時空の非一様化に対応)。
     更に、抽象場での「質点の運動方程式は測地線に沿う」という事情(#1880 60 21)も、現実の宇宙・ε量場での生起事象の一体化を示唆している。

     Hamiltonianは”ある時点”における「変化の単位・主体ε量」であり(含・v=0状態)、厳密には時空点毎に変化する近似的量どまりで(cf.”時間を含まぬ”Schrõdinger式 )、これは「個別化した固有時に類する性格」をもつ。

    「時空・事象関連容認」は「理論基盤重視」、つまり”抽象的記述・数式”と”それ以前に存在する対象”との関連性を強調するもので、議論の場の4D性もそこから出てくる。
     
     ”相対”論に「一意絶対計量の存続」はそぐわない。

  •  ≪ 事象・時空の相補関係;現実・抽象の対応構築へ≫ (続)

    ○ 相対論はどの慣性系も同等というconceptで導入した位置不同な座標系間で”不変量ds^2議論”を展開してきたが、「特殊」段階の時空はε量場でないので、平行・回転を問わず2系間の運動状態or位置不同因を”ε量差”として捉えていない。
     原理Ⅰ(→同等・同性形)も大前提の「一様時空」が既に含意するものだが、理論創出に際して”一様時空に立脚する”との「理念の表明」であり、電磁場も実体としての一様視以上に自身の基盤に迄踏み込んでいる訳ではない(電子・光子も4Dε量主体)。
     しかし「一般」段階の位置に応じての計量尺度区別(g≠g’)は、同形性維持思考は変わらなくても”両系間の不変”に再考を促すもので、光速cを含む両系同一数値に「異尺度1による不同(→局所毎での同一scalar区別による原理Ⅱの破綻)を齎したと捉えるべきで、「gauge不変」判断も純理論的に一様・非一様性に踏み込む以前に現実・実用性に傾斜しての採用でないか。

    ○ 宇宙と枠組時空の違いは何か。
    現実時空or宇宙は「事象内包」だが、それとは別の”内在事象と無関係なa prioriな座標系(時空枠組)”は「内在宇宙の影響・宇宙時との関係はどうなのか?

     ”超ひも”議論などに残る「ε量体とその背後の計量用時空」、あるいは「実体的宇宙とそれをds^2量として記述する背後の時空」の関係など、一様時空像下での自然記述どまりで「時空・事象の関連容認」への斟酌など無用とする立場なのか。

     一般相対論がこれまでの成功体験の基盤自体へ立ち入っての省察であるのに比し、従前思考・状況の延長上の思考のままで「抽象概念は経験と全く無関係に想定される」と捉えているとすれば安易で、「a prioriな”空間”の3D性・時間の容認」は自身基盤への省察不足としか思えず、そこからは新機軸に連らなるような発展性を期待できるとは思えない。
     
    ○ cの各座標系での計量基本単位への読み込みは単にdt・dx間の物理元統一要請を充たすだけでなく(dx=cdt)、基本的ε量体として「時空・物質関連性を象徴」する。
     系間対比は系全ε量によるなら、Laglangianでなく「従来のpotential部分までを含むHamiltonian によるべき」でないのか(#1928~)。

  • >>1984

     ≪ 事象・時空の相補関係;現実・抽象の対応構築へ ≫

    ○ 一様時空像下で「どの系でもc不変」というのは「v系上では対象・計測器(計測者)とも一様にvの影響を受けることによる相殺効果で既にv差を問題にする契機がない」事情による。
     ところが加速系までを含む一般変換は不可避的にε量場の議論となり、0→vの位置移動を加速processと捉えての「より微小域への立ち入りcheck(α=d^2x/dt^2)での位置区別」によって一様時空像は最早維持されず(g≠g’)、「系基盤の不同状態」に基づき「cも各局所系上で同一数値であっても既に”異尺度1”によるもの」に変わっている。

    ○ 一体、”空”が”何か特性の担い手”であり得るものなのか? 
     誰かが”ある晴れた日に”全く唐突に「空間は3Dであり、時間の流れがある」と思いつくものだろうか?。
     それらのa priori視はその唐突さの容認に等しく、「時空・事象の関連容認」までは「現実の物理基盤枠組は”内在物質とは無関係”」とするそうした立場を一貫して容認してきただけでないか。

     時間概念は天体の周航・原子時計などにみるように「事象変化と不可分」であり、Newton力学と数学の密接な関係から「3D空間は幾何学的3D体が存在する場」からの演繹とみなすべきで、「無限大まで可能な他次元選択でない」こともそれを示唆している。

     数学での○○空間というのは既に”空”でなく、ある特性を持つ”場”(実体概念)なのであり、単位vectorの存在があっても「隣接点との区別or順序数区別」は”一様性最優先の大前提下”では曖昧化or無視される(→一様時空の本来的近似性を示唆)。
     現実を対象とする物理学では、存在物質(ε量体)に≠0な定量を要請することがそれを内包する空間との区別となっているが、数学的手法依存の一様な抽象場ではその「大きさ0な点」意識を脱し得ないでいる。

    ○「物質」と「空間」はその実体性の有無で区別される。しかしその対比自体が他方の存在によってもう一方の特性が浮上・認知されるという一種の”相補関係”にある。
     唯、現実時空内に物質(ε量体)が存在する以上、両者に共通の4D特性は”空”でない「内在物質に由来」とすべきで(←”固有時の個別化”に通じる)、結局これは「現実と抽象場の区別・対応関係」問題に収束する。

  • >>1983

    ≪ 原理Ⅱ(光速c不変)の raisond'etre;”慣性系局所化”に耐え得ない!≫

    ○ ds^2の”不変”議論で、同形性は必至だが原理Ⅱに”開き直り”などの評がまつわるのは設定の判断根拠に疑問の余地があるから。
     現にその遅速は「一般」段階で時空の歪み(⇔不均一な物質存在)による湾曲で認知されているが、原因は 「不同とした0・vの同等視」にまで遡る(cf.#1975 76 83)。

    一様時空では元々場所による区別がないのだから「位置不同の座標系間やcの”同等”」も始めから含意しており、それらの間の近似処理なども不要なはず。
     それなのに一方で0・v〈≠0)区別に即した座標の変換関係を考えることで両者間の区別の有無に曖昧さを生じている。
     Galilei変換がc不変を充たさないというのも「v差に基づく区別」が原因で、これは特殊段階でも同事情だが、差を微小とし近似で同一視、x・x’やt・t’間の違いを「一方からみることによる”みかけ”」かの説明を採っている。  だが問題の本質は、”一様時空容認の上で”の「v差の齎す位置不同」に留どまらぬ、もっと深刻な「baseである”時空の一様性自体の近似性”levelで捉えるべき事態であること」にあって、一般変換が不可避的に齎した”時空のε量的場への移行”を俟って説明されることになる。

     Maxwell式では特別の慣性系を選んだ訳でもないのに「どの系でも不変なcの出現」となったが、元々一様時空下では座標系の区別がないのだから「c不変」も別に奇異なことではない。
     「特殊」段階での”みかけ”」差扱いも本来一様不変との思考があったからだろう。唯、それなら何故当然含意済みの不変cに関し殊更に”不変容認”の「原理Ⅱ」設定の必要があったのか、となる。

     この曖昧さの因は「0・v区別の有無が不明瞭」と言う事情に帰し、その解明不十分なことから「Maxwell式事情を斟酌しての”開き直り”」との評が流れることにもなる。

    ○ 結局”ε量場時空”は本来的に非一様であり(定常性維持には要・不断なε量補給)、0・v区別も表層的なv差でなく、一般相対論での慣性系局所化指向・位置による計量tensor区別(g≠g’;不同な基準1)下で捉えるべきことに。 
    (各局所性は個別化固有時の主体(粒子)に帰着 ⇔ ”一様な大域慣性系”の拒否)

  • >>1976

     ≪ 抽象4D特性は”固有時の担い手”に帰着;時空・事象関連のsymbol ≫
      
    ○ 抽象理論が現実を説明と言えるのは現実に起因・そこが出発点だから。理論結果の検証も現実場でなされ、合致しないと排除される。
      受け止め方は種々でも 存在する自然は一つ。
     物理理論として「特殊」→「一般」段階への進展の最大の変容はbaseである4D時空像の ”空”→ε量的実体へ の転化にある。
     真空のenergy・振動子などは従来の”空や無”と対照をなす「”実体時空”の基本量」とみるべきで、座標系の運動はその原点に存在のε量体(0‐tensor)の運動・変化に帰着、それが0・vなど不同位置にある系間関係を規定する(数学的多様体もそうしたtensor場として”空や無”と区別、「対称性の破れ」も殊更なnewsでなくなる)。

    ○ 物理・数学を問わず、隣接数値との区別に際し”変位・変化の単位量の存在”は不可欠で、その認知が不十分なため根幹の「場の一様・非一様区別」に曖昧さが残り続ける。
     人為的MKSA単位系も「立場の唯一絶対性・局所性区別」への言及なしに”一般性を主張”しているだけ。

     そうした「状態区別」は「固有時区別」に直結する。   
     固有時は「事象変化と時間の関連を端的に示すもの」で、#1976での dt’=√(1-β^2)dt は”不変扱い”の ds=cdτ=√(1-β^2)cdt そのものであって、「β区別はdτ従ってまたds区別」に通じる。
     一様時空・数値の一意絶対視思考下でこの固有時区別は回避されたが(#1972)、cは時間経過の単位がε量体光(子)に関連づけられることを示唆、その大きさは局所状態に依存し、dx=cdtの適用で「dx・dx’関係はdt・dt’関係に帰する」(#1787 88)。
     この一体化は、既述のように個々の局所系(粒子)に帰着、それのscalar・vector potentialを意味していることになる。
     こうした時空・事象関連容認に基づかない議論はいたずらに”藪を叩いて出てきた蛇を追い回している”に類するものでないか。  

    ○ 理論が数式上で唯一通りに決定しても、「局所毎での同一scalar区別」はそれが唯一絶対的ではないことを意味し、完全性判定には至り得ない(→ゲーデル的)。 
     これは結局「人為的理論の限界」を示唆している。

  • >>1975

    ≪ 数値上の 遅れ・短縮は単位levelでの問題;非一様時空下での計量基準相対化 ≫
      
    ○ 0・v(≠0)系間の不変関係をε量場での問題としてみると ε=mc^2=γmc^2・・(1)。 この成立に必要な条件はγ(=1/√(1-β^2)=1(cf.#1796)、つまり”何らかの形で”運動vのもたらす効果(γ差)を除去すればよい。
     唯、自然の側に「特殊」用、「一般」用の区別などある訳がないのだから、遅れ・短縮の説明も統一すべき。

     先ず、前者の一様時空像下ではどの位置の系基準尺度1も区別がないはずだが、v差が過大になると矛盾が目立つので当初からv≒0の近傍という制約を課してある。
     しかしv≠0使用での同等議論は原理的にやはり無理。そこで一様時空という大原則維持のため
    dt’=√(1-β^2)dt(やdx’=√(1-β^2dx) 関係でのdt≠dt’(dx≠dx’)の数値不同を、断定表現「0(xt)系上に比しv系時計の進みは遅れ、長さも短縮」を回避(∵両系同等ならそのようなことは有り得ない)、「0系からみるとv系上がそう見える」と「みかけ問題であるかの表現」を採る(ex.β=0.6 dt=60;dt’=48)。ここに両系同・不同の曖昧さが表われている。

     他方、後者の非一様時空像下では、客観的対比での”運動状態or位置不同”に基づく系基準尺度不同(g≠g’)は「実際」で、「0系上と同一数値となるのは対象・計器(時計・物差;計測者)とも同比でvの影響を受けることによる”みかけ”」となる。

     数値は(単位量)・(そのcount数)の積。だから「一般」>「特殊」の優先度に従うなら、両系の数値差は「どこも一様ゆえでの”みかけ”」処理でなく、系間の客観的差異としての「単位長差での説明」へ。

    ○「一般」段階でも近似的にg≒g’であり得るが、それも先ず位置区別があってのこと。それによる原理的区別(g≠g’)の立場に立脚しないと、”より詳細な局所区別”に立ち入っての ”大域慣性系の拒否”→”慣性系の局所化” という主張の流れが怪しくなる。

     局所区別こそが 固有時間の区別→「4D特性の個別粒子(局所系)への帰着」 に至る出発点であり(cf.#1787~)、「計量基準の相対化」の代償は「同一scalarの局所状態による区別」に至る。
     一般相対論はその可否を問うもの。

  • >>1974

     ≪ds^2”不変”とg≠g’の相克;potential部分のHamiltonianへの組み込み≫

    ○  物質(ε量体)は始めから現実"時空”内に存在しているが、Newton力学が依拠した数学的場・空間内の各点はその特性表象に留どまり、それと異質な存在物質とは無関係。「時空・事象関連容認」は初めてそこに踏み込んだ。 

     ε量場議論としての一般相対論の非一様時空像の根幹はpotential部分の区別にある。
     自由落下のelevator内在者は自身の系を慣性系と捉えていても、機外者は重力下にあると判断する。
     前者は自身の立場は唯一で総てと受け止めていて自系がどんなpotential場にあるかなどは考慮外なので他局所との違いの有無など立ち入りようがない。
     ”別の重力場で落下中”の機内計測者も同様だが、両系を比較し得る外部計測者はそれぞれを「異なる状態下にある局所慣性系」と位置づけ得、両系を「異尺度1・同形」の関係と判断する(g≠g’)。
     これは別に外部計測者が絶対的判定者という訳でなく、”自身の立場を総てとし、だからどこでも同じ”と結論づけることなく「2局所を客観的に対比する立場」で得られる結論だ。

     つまりこれは「慣性系とは重力potentialのない系のことではなく、それに立ち入らぬ範囲での不十分な系の捉え方だった」ということで(必要に応じad hocにCoriolisの力などで対処)、「原点の不定定数処理」(cf.#1966~ 68)もこうしたレベルでの状況判断による。

    ○「一般」段階の局所区別は客観的視点に立っての比較対照に基づく判断で、ε量状態相応の異尺度1となるが(#1753 1882etc.)、実は「特殊」段階でも既に客観的対比の立場にありながらその自覚が希薄で不徹底だっただけと捉え得る。∵原理Ⅱ(”どの系でも”c不変)自体がimplicitであれ既に”不同な系状態の存在を含意”と捉え得て、系間はHamiltonian(potential部分も取り込んだ全energy)で比較すべきとの予感含みともみれるのだから
    (#1938)。 

     x、x+dx typeなど不同位置での同一数値も、「”不同な0・v”同一視」仮説下では当然同一視できる。
     唯、疑問はその根幹の”仮説自体の妥当性”に関するもの。
     
    (前回末尾;#1991→1971)

  • >>1973

      ≪特殊・一般相対論の峻別を;一意絶対的基準尺度は既に消滅!≫

    ○ 0・v(≠0)区別の一方での同等視は矛盾含みで、近似な限り原理的矛盾が解消する訳ではない。
    「時空・事象関連容認」や局所区別(g≠g’)による「一般」段階の非一様時空像指向(ε量場化)は、明らかに「特殊」段階までの一様対称時空像と両立せず、慣性系の局所化も非一様時空の立場にあることではじめて実現する(←近似処理の矮小化どまり)。
     計量の2階微分による”より詳細な局所状態判断”が更なる段階へ進むか否かに拘わらず「どこまでも近似を超えず”完全一致”でない」以上、「一般」段階以降は明確に「非一様時空像に立脚」とbasic段階での”理論構造の転換”を認めて初めて「時空像の異同に関する曖昧さ」が払拭される。

     両状態の不変同等視によるこれまでの理論・技術的成果に関する評価は以下となる:
    「同じものを等しいというだけ」では余りにも当然すぎ、それで終わっては何も出てこない。本来不同なものを仮に同等と置くことに伴う不透明感がその解明を促進、段階的に細部まで詰めてきた結果が現状であると。

     唯、両系同等という”不合理な前提に立脚”することで成果が得られてきた事実を認めても、その究極ではやはり「不同なものが同じ」では済まないし(最後の一歩は千里の隔たり!)、現在までの手法が「永遠に真である」ことにはならないとの認識があるべきで、そうでないと明らかに不合理な結論への無駄なprocess・approachを重ねることにもなる。
     例えば、時計の遅れは当しく系間の客観的対比(計量基準不同;g≠g’)に基づくものなのに、一様時空像が払拭されないことで”みかけどまり”かの曖昧解釈の存続を許すことになる(←「同一scalarでも既に異尺度」なことの認知不足)。

    ○ 最大の問題は、0・v間に限らず隣接数値との違いは「変位・変化の際の”単位量の存在”とそのcount数による」ことが明確に認知されていない事情にあり、一様時空や軸上の一様性容認もそれによる(にも拘らず数値区別がなされている曖昧さ!)。

     dx=cdtでの光(子)のcは、countの際の基準ε量単位として抽象時間の1sec.に代わり得〈従って長さについても)、現実事象と抽象時間・空間との関連の絆ともなっている(ex.#1788 1991etc.)。

  • >>1972

     ≪対称性議論の根拠に疑問!;無理な異質2時空像の併用 ≫
     
    ○ 0・v(≠0)間をε量的不同に導く「一般」段階思考は、「特殊」段階の両系不変同一視の方こそが”みかけ”と指摘するもので、摂動など"近似手法によるapproachでの同一視"以前の原理的立場。
     抑々近似で一致・同一とするのも元々”2局所が不同で区別されているから”で、結局「一様・対称を原理的としていること」にこそ問題があることになる。  
     だが「一般」段階自身も前段階baseでの展開であることから「時空・事象関連容認」は自己矛盾を含むものとなり、そこが未決着で滞っている。「分かり難さ」の原因はこの不徹底さにある。

     0・vと区別している以上、「特殊」段階でも既に「系間を客観的に対比してみている」はずなのに、同一視は「どの系上でも計測状態は同じ」とする推測からか。
     しかしv系は 0→vへ の加速後の定常状態であり、対象・計測器(者)とも同比でvの影響を受ける相殺を考慮すれば「数値上は0系上と同じでも、既に異尺度での同形・同一数値」と捉えるべきもの。

     特殊相対論では原理的立場上”同一としなくては矛盾”となるが、一般相対論は”位置不同による異尺度1の立場からそれに対し否定的。
     前段階と同じでは今度は自身の主張(位置によるg≠g’)に矛盾となる。

    ○「時空」・「宇宙」の違いは内部をε量的場とみるか否かにあり、4D特性の主体の存否に直結している〈cf.超ひもと背後の時空共存の可否)。宇宙時もε量体である自身に由来(固有時)とすると、自身が時間経過の単位であることから、「事象に無関係とするa prioriな一意絶対時間系」による膨張・縮小議論など消滅する(cf.#1971 72)。

     3D性というのは幾何学的対象に関する1・2D的存在などとの区分上の使用で、ε量体との意識まではなくてもそれら対象は”空や”無”でなく(cf.多様体)、それが「3D場という一般化に先行」とすると、「時空特性は初めからa prioriではなかった」ことになる。
     ”空や無”と3・4D特性の結びつきの間にone‐cushionと言うのも、特性には必ず担い手・主体を想定するから(ex.#1762)。

     従来思考に準拠ではminor‐changeでしかあり得ない。時空像の不備は規格外の一般相対論思考を俟って初めて見出せた。

  • >>1971

    ≪自然は元々“非対称”!;不変対称は近似どまり≫

    ○ 自然の”認知”と”記述”は別。
     認知には格別の前提は不要だが、記述(理論)には原理や公理の設定が不可避で、その適否は基盤枠組に無定義概念として採用の3D空間や時間に及ぶ。
     記述枠組がa prioriどまりな限り理論全体もobscureであり続けるが、「時空・事象関連容認」は理論内部からのその事情への疑問提起となっている。

     ε量事象記述の時空枠組は記述対象と同じ4D特性を備えていなくては不適格だが、これまでの変換議論では”運動vに不可欠なε量”は最初からの所与扱いで、その出処への言及がなかった。
     これは「対称性仮説or2局所の等置」で始まる数式での事象記述では、「時間的・空間的変化・変位はε量変化と不可分」との認識に欠けていたから。
     一般変換段階の重力・加速系間問題では実体的ε量場が不可避な要請である結果、計量用座標系は現実世界に居場所を失い2次的抽象場へshift。元々座標系はε量場での異なる位置にある点上に原点を置く抽象的上部構造とみれるもので(cf.#1968 70)、そこでの0・v両系は、0系(原点に実体量対応の0‐tensor)とそれに対し運動v(≠0)の位置不同な2系として既に「異尺度1での同形・同一数値」の関係にあり(cf.ε=γmc^2;非対称)、最早「”空”で一様対称な時空下での関係」にはない。

     計量基準が「相対化徹底」の最後にまで取り残されてきた事情は、裏に”計量数値を至上”とする「数値上の一致絶対視or一様基準枠組絶対視」があったからと捉えることで「固有時個別化の方向に向かわなかった事情」が首肯できる。

    ○ 真空の「相移転」は”空”でなく非一様状態の存在が前提であり、4D時空の ”空”→実体的ε量場への移行 と呼応するが、「真空のenergy容認」・「時空・事象関連容認」はともに理論的考察・要請からの必然だとすれば、従来の‴空や無”とみなされてきた「特殊」段階までの時空像の不備・内実的にも「一般」段階思考の近似どまりなことが明かされたことになる( ex.#1957)。
     
     ε量との関連認識を欠いた数学的時空像は「一般」段階では”局所近似どまり”と限界を画され、「(明示的・自発的を通し)対称性の破れ」は「本来的に非一様な自然が示すdynamismに帰すべきもの」でないか。

  • >>1970

     ≪ 4D特性の系・粒子への個別化⇒理論・数値の絶対性消失;0・v系位置区別の帰結 ≫
    ○ 理論の発展とは”更なる抽象化のこと”か?
    出発点の前提・基盤に何の疑問もないならそうも言えようが、a prioriでそれ以上の説明拒否の「”空”なものの3・4D性」ではそれに応え得ていない。
     例えば”真空energy”は従来の「”空”とε量を別々とする時空像のまま」ではどう理解できるのか、更に無限次元まで可能なのに3・4D止まりなのは何故か?

     0・v(≠0)2系は空間的同一位置になく、0→vまでへの加速前後の2定常状態としてε量差がある(当然0系原点にもε量を想定;cf.0‐tensor#1968)。
     一般変換の下では、従来の時空や真空は「励起・運動の有無による区別」はあっても、全体としてε量場であり、「真空のenergy」もその立場で受容される。

    つまり高度な抽象段階にある一般相対論の立場では、抽象化の最先端は「理論自身の基盤枠組のa priori性・不透明さの解明」へ向けられたことになる。
     3・4D特性もそのε量場での実体量に帰着し、それぞれを固有時の主体とみることを介して各”素”粒子に至り得るものだ。
     ”抽象の高度化”とは”事象の数学化”を意味するだけのものなのか。

     粒子・量子どちらも”一体としてのまとまりを表現”し単位量的意味をもつ。
     その事情に触れない議論は不十分であり、ある時点での各固有時主体・粒子の大きさ(空間量)は時間経過の際の「countの単位量」となっている。
     これが”一体としての各粒子”の空間・時間成分の関係であり、厳密に粒子に即した”即自時間”は自己計量となって無意味化(発散)する。
     こうした事情こそが”実体性のない抽象的存在である時間の本質を示すもの”でないか。
     
    ○ 座標系は「ε量場の各点上でその上部構造(←抽象的)として構築」され、ε=γmc^2に基づく位置の不同・区別は立場の入れ替えでも解消せず、両系での計測数値が一致しても計量tensorg≠g’ではそれは最早同じ大きさを意味しない。
     唯一絶対的座標系から複数座標系への移行、理論のbase枠組へのcの組み込み(dx=cdt;時間・空間同等視)は、時空枠組自体の「4D成分を持つ固有時主体起源」にまで遡及する(元々Newton力学でもそう捉えるべきだったのだ)。

  • >>1969

    ≪ 射影関係「現実⇔抽象」の成立を示唆;「時空・事象関連」の意義 ≫

    ○ 既述のことながら、”自身も属する宇宙”や”0・v系区別”議論の際の記述者の「第三者的立ち位置」が曖昧なままなことが理論全体の位置づけに不透明さを残してきた。
     理論物理の目的が現実事象の解明にある以上、理論上の問題は現実の反映でもあるはず。
     ”真空energy”も「時空・事象関連容認」思考に則して捉えるとき、その存在によってa prioriな一様対称時空像下で「大きさ0扱いでその存否まで曖昧だった質点(ε量事象)」が浮上してくる(4D特性も実体的ε量場の実体に移行)。

     それが現実の場での「時空とε量事象の対応」となるが、「物質と場の違いは量的なものに留まる(#1481)」とする以上は、現実世界全体が「非一様なε量の場」となって「特殊」段階的時空は”現実から消滅”となる。
    数学的時空の”湾曲”も一様時空像とは相容れず、各局所系近傍でも一様性は維持されないのだから(除・近似)。

     こうした視点がハッキリしていれば、固有時への対応も違っていたはずで、ds=cdτ=√(1―β^2)cdtでの各固有時の経過はv次第で異なる。各系上で「同じdt的時間経過」とみえても、それは対象・計器(計測者)が同比で受ける”v効果の相殺”による「みかけ」止まりで、基盤状態が既に異なっている(「同一scalarが共通の大きさであり得る」のは特殊相対論的基盤に限られる)。

    ○ 量子力学での零点振動をまつまでもなく、電磁場が4D特性を充たすと判明した時点で同特性の担い手は「”空や無”ではなくε量体(4元vector)である」との見解に移行し得たはずだが、それではa prioriな一様時空枠組優先下での「事象変化の時空的記述」に至り得ぬことから看過されてきた。 
     一般相対論的「時空・事象の同等視・読み替え」がbaseにあるからこそ、時間経過と状態vector間に存在するHeisenberg ・Schrõdinger 表示の同等性が容認されることにもなる(#1940)。
     
     時間はa prioriな存在ではなく、科学に限らず人為的活動を総て統一的にcontrolするために”後天的に設定された便宜的枠組”に過ぎない。一般相対論思考はそうした根柢枠組への挑戦と位置付け得る。

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