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    みなさま、はじめまして。
    私は戦後に生まれましたので、戦争中のことをほとんど知りません。

    終戦記念日が近づくと、テレビなどでいくらかは知ることができますが、恐らく極く一部の体験談に過ぎないと思うのです。

    そこで、この場をお借りして、皆様の体験談をお聞かせ頂ければと思いまして、ここに空きが出るのを待っておりました。
    今日、ようやく空きが出ましたので、トピを立てさせて頂きました。

    本当は、シニアカテではなく、いろいろな年代の方に読んで頂ける場所が欲しいのですが、取りあえずここから始めさせて頂きたいと思います。

    男性でも女性でも、
    従軍された方でも、一般の方でも、
    外地におられた方でも、内地におられた方でも、
    大人になっておられた方でも、まだ子供だった方でも、
    長いお話でも、短いお話でも、
    どんなお話でも大歓迎ですので、沢山のかたの参加をお待ち致します。

    どうぞよろしくお願い致します。

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    rouzinn79 6月15日 16:15

    >>3923

    そんな中、9ヵ月ほど経ったある日、やる気のない私の処に運輸部から、
    運転手見習い募集の回覧が回ってきた。

    私は即座にその募集に飛びついた。理由はこれからの時代、必ず自動車の普及が活発化し、
    将来、運転技術を持っているものは、就職時絶対優遇されると思ったからだ。

    班長に頼み、私の運輸部応募を上司に伝えてもらい、ついに転職することに成功した。
    一週間ほどたちわたしに辞令が下り、私物の荷物を整理して、周りの皆に挨拶をして
    わたしは運輸部に向かった。

    運輸部輸送課に配属され、上官立石少尉を紹介され、各部から集まった総勢やく10数名が
    立石少尉の基、最初は色々な使役に携わり、輸送課の20台ほどあるトラックの整備、掃除などをやらされた。

    当時のトラックは殆どが代燃車で、木炭車あり、薪木車あり、コーライト車ありで、
    その燃やす材料で夫々特徴があって、次回にその特徴を一つ一つ説明してゆきます。

  • 然し、そこは研究班とは名ばかり、必要のない人間の捨て場所。
    工場長などは僅か一か月ほどの研修期間で私と云う人間が判るはずはない。

    ヤスリ掛けやタガネはすりがサウスポーのために巧くいかないというだけで、
    必要のない人間の捨て場に追いやられるのは私としては非情に悔しい思いをしていた。

    更に自分の周りはと云うと、技術的に使えないというのでなくて、皆、少しお頭がおかしい者ばかり。
    自分としては、こんなのと一緒くたにされたのではたまらないと思った。

    私は不貞腐れて毎日女子挺身隊で自分より二つ三つ年上のグループの作業場に行っては油を売っていた。
    時々下士官が見回りに来るが、私を痴呆者と思っているから何も咎めずにそのまま行ってしまう。

    私は使役を自分から買って出て、毎日のように食堂に手伝いで出て行った。
    此処では隙を見て、どんぶりにご飯を詰め込み、食器棚に隠して置くのである。

    昼食が終わり、後片づけが終わり、おかず類が残ると責任者がそれを皆に分けてくれるのだ。
    隠してあったご飯と分けて貰ったおかずを持って職場に帰り、それをみんなにお裾分けするのだ。

    だから私が職場に居ようが居まいが誰も咎めるものは居ない。むしろ可愛がって呉れ、
    私が何か頼みごとをしても、積極的に協力してくれる。

  • 戦争のさなか、高等小学校卒業して就職したのが、陸軍衛生材料本廠。
    何故そこを選んだか。それは配給が多いから。

    当時15歳母親一人に育てられ、配給の物資も買えないほどの貧乏。
    滅私奉公も”欲しがりません勝つまでは”も関係なく飢えていた。

    少しでも配給で靴、衣料品、食料が欲しかった。
    それをいつも自分の貧もじい思いをこらえて私たちに分け与え我慢した母親に
    少しでも喜んで貰いたい一心で選んだ就職先だ。

    私の選んだ衛生材料相は間違いなく配給が多かった。
    三日に一度は配給があり、それも日用品から食料まで多種多様に及んだ。
    それを家に持ち帰り、母親の喜ぶ顔を見るのが私の一番の喜びだった。

    私は数日たって工作課に配属され、そこで寺島工場長の元、毎日ヤスリ掛け、鏨の使い方、等
    毎日訓練を受け、技術の向上を目指したが、如何せん私は生まれついてのサウスポー。
    戦時中、左利きの工具なんていう配慮なんてなかった。ヤスリ掛けをしてもヤスリ目が出てしまい、
    何時も工場長に咎められた。

    そして訓練期間が終わり、配属された部署は研究班。医療器具を研究して新しいものを作り出す
    と云うのが名目である。
    そこに配属されたのは私を含めて3人、班長と総勢4人である。
    班長は徴用を受ける前は飾り職人だと云っていた。非常に器用で、確かに上から命令された物を
    巧くこなし製品化していった。

  • どっこい生きている。
    むかし毎日のように投稿していたが、辻正信信奉者にこのスレを乗っ取られ、
    私をはじめ、他の投稿者も一斉に引いてしまった。
    当時カキコしていた人たちは、それぞれ自分の居場所を求めて散っていきました。
    中にはもう物故者になってしまわれた方もいらっしゃるかもしれない。
    何とか又戻って来られてもう一度、昔のようにお話ししたいものです。
    ぞうさん、紫蘭さん戻って来てください。

  •    秋深し 隣は荻生 徂徠軒
     深まり行く秋に、帝都の紅葉も盛りを迎へてゐます
     往年の壮丁の皆様、如何御過しでせうか
     小兵も齢と共に躰のあちこち傷んでは來ましたが、金澤聯隊の軍旗手辻政信少尉の元氣を見倣ひ、心は現役の儘でありたく相努めて居ります
     最後の一兵まで、各郷土部隊歴戰の武功を傳へて行きませう m(_ _)m

  •  猛暑の候 御歴々には御勇健に被遊候や
     さて過る八月七日はガダルカナル爭奪戰勃發七十五周年記念日
     辻政信中佐(當時)も大本營派遣参謀として剣電彈雨の渦中に投じました
     なほ弟御も同島に於て一兵卒として臣節を全うされました
     忠良の臣民珍しからねど誠忠戰の御兄弟でした
     殉國の英霊に敬禮 (/_;)

  •  方々御勇健にてや
     今日は花祭
     釈尊のみもとへ旅立たれと覺しき辻政信大佐が今更ながら思ひ出されます
     清廉剛直積極有為!
     萬人の亀鑑たり!

  •  方々御勇健にてや。
     勇健と申せば大勇健児辻政信議員失踪時の参議院議事録を繰返し精讀したものですが、議會、政府ともラオスにて失踪てふのみにて、良く分らなかったやうです。
     小兵に限らず、當時普通の推測として、共産軍が日本の有力者と知らず殺した、と思ってました。今でもさう思ひます。
     好きなやうに暴れ回った生涯でした。

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  •  けふは明治節。
     四大節と申上る重要な祝日でした。
    ♪梅に櫻にまた菊に
      いつも掲げた日の丸の
       光仰いだ 故郷の家
        忠と孝とをその 門で
         誓って育った健男児
     今年は明治百四十九年。
     昭和すら九十一年。 
     明治百年奉祝事業も昔のことになりました。
     辻政信大佐は明治三十五年生まれ。
     福田赳夫首相は明治三十八七歳を唱へてゐました。

  •  毎月一度は書くやう心掛けて來ましたが、つい遠のいて仕舞ひました。

     頃日、領海侵犯報道を耳にする度、辻参謀の卓見が思ひ出されます。
     海上保安廰の巡視船に座乗し、指揮官に肉薄突入を強ゐてました。
     特攻精神か ^_^;
     總理大臣が、戰爭になるから止めて呉れ、と頼んでました。
     でも、先送りせず、即時處理す可きだったでせう。
     時経なば實効支配が續き、既成事實化が進みます。
     作戰要務令に曰く、為さざると遅疑するとは指揮官の嚴に戒む可き處‥‥
     眞に立派な指導者でした。

     皆様ご勇健に。  m(__)m

  • 何をやつても出来る人だつた それも物凄く でも、若しかしたら飽く迄属僚の才で、総帥の資質でなかつたかも知れない 水清ければ魚棲まず 厳格に過ぎた嫌ひはある 参謀次長とか、陸軍次官は能く勤まったらうと思ふ

    戦争中の体験談をお聞かせ下さい 何をやつても出来る人だつた それも物凄く でも、若しかしたら飽く迄属僚の才で、総帥の資質でなかつたか

  •  都知事選も終盤ですが、東京都制の施行は大東亞戰爭酣の昭和十八年 これで東京市が消滅し、♪紫匂ふ武蔵の野邉に てふ市歌も唄はれなくなりました 橋下辯護士が大阪都構想掲げて府と市の二重統治廃絶を説くのも、大阪都に成って大阪市廃止とふ次第です
     都だらうが府だらうが昔の知事は官選の内務官僚で、人事異動で廻って來るだけ 當然在任期間短く、昨今みたいな多選知事問題はありませんでした 沖縄縣知事は二等官僚の終着驛と謂はれたものですが、二等でも高等文官試験行政科合格の秀才ですから、今みたいなクルクルパーはゐませんでした
     現行法は國も都道府縣も對等の公法人ですが、昔ははっきり上下關係 乃木將軍が善通寺の師團長に着任なさつた時、四國四縣の知事が伺候したのも官等に差が有ったからです 内務大臣の下に次官、警視總監、警保局長の内務三役がゐて、その又下でしたから、臺閣と爭ふなんてことは出來ません 石原都知事やなんとやらいふ沖縄縣知事が國と爭ひ徹せるのも現行法下故です
     辻大佐殿みたいな人が戰後の知事に成ったら凄かったでせうな あの物凄い人氣から見て、本拠地の北陸なら樂勝でしたらう 周圍の凡人が音をあげる程清廉でしたから、猪瀬舛添型金銭トラブルなんて頼んだって置きやしない ゲーテは永遠の女性を求めましたが、庶民の星☆辻政信大佐は永遠の男性かも

    戦争中の体験談をお聞かせ下さい  都知事選も終盤ですが、東京都制の施行は大東亞戰爭酣の昭和十八年 これで東京市が消滅し、♪紫匂ふ武蔵

  • 陸軍 最新鋭機 五式戦の 勇姿(写真)掲載、有り難う御座います。
    後に 此の機種の子細を何度も 読破 しました。
    その頃、私の(小三年生)見ました、日本陸軍戦闘機 の 最たる機種はー
    飛燕 でした、
    液冷エンジン特有 の 機首の とんがり 均整のとれた 機体のライン・・
    新鋭機や、、新鋭機や と 離陸時の 其の勇姿に憧れ、、、敵 の B29が
    やってきても、此の戦闘機 が 必ず我らを守ってくれる・・・
    と 信じ切って居ました。。

  •  お蔭様にて些かの眩暈以外、さしたる大過も無く過して居ります。m(__)m
     戰爭では重病でも半身不随でも待った無しですから、これしきで苦情を申立ては罰が當ります。東京大空襲なんか、先づ馬蹄形に焼いて、次に開口部から奥部へ向け絨毯爆撃で大量殺戮。廣嶋は初め日曜日の空襲豫定だったのをもっと効率的に打ち殺さうと人の多い平日に變更した由。分り易い戰爭犯罪なれど勝てば官軍にてお咎め無し。
     陸軍は戰前から防空の不備を知ってゐました。「防空の観點からは戰爭は出來ません」と参謀總長の面前で担當官が言ひ切って、總長も無言だったと傳はります。それでも戰爭回避出來なかつたABCD包圍陣の壓迫もさはさりながら ↓
     敎訓 防空に注力せよ 備へ有れば憂無し

     寫眞は終戰直前實戰配備され群る敵機を撫で斬りにしたる無敵の陸軍五式戰闘機 戰隊長曰く、せめてあと半歳早く配備されて居れば戰局は變ってゐただらう、と 惜しむ可し 五式戰の機體も發動機も半歳どころか遥か以前から有つたのである

    戦争中の体験談をお聞かせ下さい  お蔭様にて些かの眩暈以外、さしたる大過も無く過して居ります。m(__)m  戰爭では重病でも半身不

  • そして、幸いな事に我が家 は 奇跡的に焼け残り、
    小雨の降り続く 大阪大空襲後 の 朝を迎えた。 父母は近くに住んでいた
    身内の安否を 心配し、 くすぶり続ける家屋の間 をかいくぐり つつ、其処に何とか たどり着いたが 見渡す限りの焼け野原 の中に其の身内家族5人が
    元、有った家の焼け跡に 没前と手荷物だけで佇んで居た。
    焼け残った 我が家 が有るからと 家族5人 を連れて帰って来た。
    さほど広くもない我が家、が 急に大所帯、
    乍ら 配給でなけなしの 食べ物とかを出し合い、私達子供も 賑やかさが嬉しくて、
    空襲後、2日目、国鉄駅前に有る 陸軍食料倉庫が焼夷弾空襲で 燃え続けている。。と 人から聴き 私達兄弟二人 同居の方二人 共に未だ小学生が 手に手に、ドンゴロス袋 や スコップ 等を持って 広い道に出て 国鉄駅まで
    広い道は 電柱が折り重なり、電線が 道幅一杯に、垂れ下がり。
    遙かむこうまで 焼け野原 所、所 鉄筋コンクリート造りの建物だけが ニョッキリ、と 見え 広漠としたような 焼け跡を 当時荷車を引くのに 多数飼育されていた、馬。牛、が 群れをなして 走り回るーーー
    まるでアメリカ映画の 西部劇 の様でした。
    サテ 陸軍の食料倉庫、其処は 鮭の缶詰 を大量に保管していて、缶詰の梱包用木材が 延々 と燃え続き 缶詰は其の火勢 で パンパン と弾け飛び 火山の様。。。燃えていない所を掘り 木箱ゴト 担いで持ち帰ろうとする人。
    其れをさせまいと 警察官が サーベル を抜いて 取り押さえ。
    木箱をサーベルで 明け 中の鮭の缶詰 を 我ら子供や女子 に分け与える。
    で 大変な騒ぎだった。
    お陰で我ら 子供四人 持ちきれないくらい 缶詰 を担いでの 凱旋と 言う
    一幕もありました。

  • 勝ってくるぞと、勇まし、誓って国を出たからわー
    僕は 軍人 大好きだーー鉄砲持って剣下げてーー
    打ちてし、やまむ、、
    ソロソロ トオーーイ 昔、に覚えていた歌を 忘れソウーな歳 に成って参りました。。
    当年 80歳 
    小3年の時 でしたか、アノ大阪大空襲 に会い 家族6人 命カラガラ 生き延びたのが、不思議なくらいです。。

    家の 床下に 掘った当時の防空壕、は いわば炭焼き、、焼夷弾により類炎が広がり、アッという間 に大阪中 火の海
    安全だと、教え込まれ、皆が夢中で駆け込んだ 床下防空壕 の上 の家屋が火災で、焼け落ちた家屋に残るは 灰 だけ。
    床下防空壕に入っていた、人達 は 逃げ場を無くし、蒸し焼き同然・・・
    警防団員によって 一人、マタ 一人、と 防空壕から 抱きかかえられて 出てくる、 一様に 被災者は小さく、大人は 子供くらい しか無く
    そのくせ 着ている衣服 は タダ すすけて黒っぽく成っていたが、焦げて無く
    ダブ。ダブ 
    あのような修羅場を見ていると、人間 としての感覚が 完全に麻痺してしまいます。。あの頃の悲惨極まりのない、戦争、
    忘れない様に、、究極の惨劇、子や孫 にと 思いつつ、も 当方からアノ悲惨な実話を 言葉にして語りかける、に 一抹の(過ぎたこと)矛盾を感じます。
    兵庫県 80老

  •  村の道は兵営に繋がつてゐたてふ日本放送協會の特別番組があつた 左様陸軍は全く郷土部隊の編成を採つてゐたから地元で愛されてゐた だから徴兵検査は本籍地に戻つて受ける 聯隊長以下の將校團も「原隊」として勤務する者多く、郷土の誉、實に地域と一體にてありき 軍民一體これなり
     佐倉聯隊なら房総健児の意氣高く、大部分佐倉聯隊區たる千葉縣民 山名温泉在の貧農の子に生まれし辻政信少尉も當然に金澤聯隊を原隊とし、聯隊旗手も務めた 軍旗を掲げ行進せば颯爽たる英姿に沿道の女學生はため息をついたと今に傳ふ 軍が存續して居れば數年内に歩兵第七聯隊長を拝命した事と思ふ 思はざりき國軍無き末の世を見むとは

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