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    みなさま、はじめまして。
    私は戦後に生まれましたので、戦争中のことをほとんど知りません。

    終戦記念日が近づくと、テレビなどでいくらかは知ることができますが、恐らく極く一部の体験談に過ぎないと思うのです。

    そこで、この場をお借りして、皆様の体験談をお聞かせ頂ければと思いまして、ここに空きが出るのを待っておりました。
    今日、ようやく空きが出ましたので、トピを立てさせて頂きました。

    本当は、シニアカテではなく、いろいろな年代の方に読んで頂ける場所が欲しいのですが、取りあえずここから始めさせて頂きたいと思います。

    男性でも女性でも、
    従軍された方でも、一般の方でも、
    外地におられた方でも、内地におられた方でも、
    大人になっておられた方でも、まだ子供だった方でも、
    長いお話でも、短いお話でも、
    どんなお話でも大歓迎ですので、沢山のかたの参加をお待ち致します。

    どうぞよろしくお願い致します。

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    rouzinn79 9月22日 21:34

    自動車整備士が大工に早変わり、来る日も来る日も食堂作り、
    だが、私も本来物作りが大好きな性格、気が付いたら上司の指示を受けずに
    勝手に図面を見ながら自分で想像しながら作り組み立てていた。

    季節は7月だったので、自然に四方柱だけ、床と屋根だけの簡単なものだったが、
    遠く多摩川を望む見晴らしの素晴らしい、清水の舞台によく似たものが出来上がった。

    立石少尉も満足な顔をして嬉しそうだった。
    毎日ここにテーブルを並べ、昼食は当番が毎日本廠の食堂へ取りに行った。

    人数をごまかして、多く申告していたので昼食は十分腹いっぱい食べられた。
    毎日毎日が充実した日々だった。戦争などどこの国の話だろう。

    そんな毎日を送りながら、夏も盛りになっていった。
    その頃になると、何処からともなく「広島、長崎に新型爆弾が落とされたそうだ。」とか、
    「ピカッと光った瞬間に何万人も死んだそうだ。」などと噂が私たちの耳に入るようになってきた。

    何か嫌な予感がして、「若し東京にその爆弾が落とされたら俺たちもいちころだなあ。」。
    そんな会話が繰り返されるようになり、立石少尉殿もだんだん無口になっていった。

    毎日毎日が重苦しくなり、今までの幸せ感は何だったのだろう。
    今まで浮かれて冗談を言っていたのが何か気が引けて、みんなの顔から笑顔が消えていった。

  • 本廠も鉄筋の建物を除いて殆ど壊滅状態で、倉庫を除いて再起不能の状態。
    運輸課も事務所は無事だが、トラックの3分の2は燃え落ち、
    運転手も毎日が手持ち無沙汰。

    そんな状態で、2~3か月が過ぎた。ある時立石少尉殿から朝礼の時に、
    「本部より命令があった。当輸送課は敵の空襲を避けるべく疎開を命ぜられた。」
    との訓令があり、ここから焼く1kmほど離れた所に、身延山別院なる寺院があって、
    そこに疎開移転することになった。

    少尉殿と一緒に身延山別院に視察に行った。
    入り口を入るとすぐ左側に管理人の家があり、そのさらに左側に小高い山がある。
    寺の庫裡は撤去されて、その山肌に横穴式の防空壕が彫られてあった。
    右側は崖になっていて20mほどの高低差があって、どうも此処は山の中腹ほどに位置しているようだ。

    どうも少尉殿は此処をどのような基地にするか、もう頭に描いているらしい。
    翌日、立石少尉自ら先頭に立ち、義肢課の裏の方に材木が野積みになっていて、
    それをトラック2台に積み込んで、疎開先に運んだ。

    材木を全部おろすと、少尉殿が「此処のばけっぷちにせり出すように食堂を造る。」
    と云って自ら書いた図面を見せた。見るとまるで清水の舞台そっくりだ。

    「ええーっ」と皆声を上げた、こんなの造れるのかい、まあ屋根は方屋根の平屋根だから良いが、
    床が崖の前1m程せり出している。素人にこんなもの造れるのかい、と思った。

  • 我が家の無事が確かめられて、ようやく意欲をもって視察に出かけられえる。
    踵を返すように三軒茶屋に向かった。
    三軒茶屋の五差路は広い範囲で焼け野原である。
    遠く下北沢辺りまで見渡せる。

    三軒茶屋を後にして、三宿、大橋、道元坂と辿って行き、この辺から被害が多い。
    道元坂を下るところから爆弾の被害が多い。焼夷弾では避難できたのに
    渋谷は死体がゴロゴロ横たわっている。
    木造、鉄筋コンクリートが混りあっているので両方使われたのであろう。
    良く調べたものだ。何台もの消防自動車が丸焦げになっている。

    死体はみな虚空を掴むような格好で、上を向いて黒焦げになっている。
    辺り一面意図が焼かれた異常な臭いだ。

    宮益坂を上って青山にむかう。この辺で何と遥か千住の火力発電所のお化け煙突が見えた。
    もうこの辺で切り上げ本廠に戻り報告することにした。

  • 普段、当直明けの時は8時には我が家への帰途に就くのだが、
    今日はそれ処ではない、当然玉川線(東急渋谷~玉川間の市電のような電車)も不通、
    歩いて帰らなくてはならない、然し我が家の状態も心配だ。

    そんな時上部から「爆撃されたところの被害状況と交通状況を把握してくるように。」
    との命令が来た。
    まだ出勤者も交通の事情で誰も来ていない。当然私たちが行く事になった。

    代燃車は昨日の爆撃で木炭やコーライトなどが全て燃え尽き、また始動にも時間がかかる。
    昨日真っ先に対させた、取って置きのガソリン車のトラックで出かけることにした。

    正門から桜新町方面に向かって走ると、この辺は全く被害を受けていない。
    この辺は田畑が多く、焼夷弾を落とす価値がないからだろう。
    どうやら本廠が狙い撃ちされたようだ。
    やがて現在の246号線に出て、渋谷方面にむかう。

    上馬(現在の環七交差点)に掛かると、途端に様相が変わる。
    もうあたり一面焼け野原で、まだ燻っていて焦げ臭い。
    この先から左にそれて我が家の方に向かう。
    この辺は住宅密集地なのに爆撃を免れている。
    何となく期待をしながら右に曲がり、我が家に近づく、「ヤッター!!」
    そこには皆非難をして誰もいなかったが、我が家は無事だった。

  • 少したって石川さんが戻ってきた。
    「いやー調子いいよ、さすがハーレイだなあ。」と言いながら降りてきた。

    暫くして立石少尉殿もやってきて試乗、「うん、大丈夫これでいい、
    あとこの側車、担架をどうにかならんか。」

    まさか1200CCものを単車で走らせるのも重すぎて危険だし、
    結局側車を張りぼてでサイドカーらしく格好つけて少尉殿に見て貰ったが、
    ことのほか気に入られて、早速その日、乗って帰ることになった。

    翌日自宅から出勤した少尉殿がご機嫌で、その日から私にやいする態度が急によくなった。
    それから数か月経って丁度私が宿直の時、夕食を終え、さあそろそろ寝るかという時、
    空襲警報のサイレンが鳴り響いた。

    以前、製薬工場の屋上に、何台かの機関砲が据え付けて有ったのだだが、
    却って爆撃の目標になるとのことで、今は取り外し、攻撃することはできない。

    外に出て見上げるとB29が4~5機、白い腹を見せ通りすぎていった。
    それを見て、「ああ今日も目標は他の場所か。」と妙な安ど感で見ていた。

    然しそのあとである、同じような編隊が又編隊を組んで退去してやって来るのが見えた。
    瞬間、何となく危険を感じ、皆も同じに思ったのか、慌てて宿直室に戻り、

    鉄兜ならぬ泥兜をかぶり、トラックが置いてある車庫に向かって走り出した。
    その途端である。ガラガラガラという音とともに、焼夷弾が降って来た。

    私はとっさに脇に有ったどぶ川に飛び込み、身を伏せた。
    次の瞬間、辺りが急に明るくなり、見ると車庫の周りが炎に包まれている。

    身の危険も顧みず、ガレージに向かって走り出した。
    みんなも来て、トラックを押し、一人がハンドルを取り、外へ押し出した。

    私も他の車に乗り、「よしっ押して呉れーっ」と怒鳴った。
    然しいくら待っても車が動かない。
    見るともう直ぐそこまで火が回ってすでにみんな避難してしまっていた。
    私は慌てて車から飛び出し、外へ逃げた。

  • 「ようやくエアコンの取り換えが済み、快適な時間を過ごしています。」

    アイドリングが「ドッドッド」と腹に響き渡る。
    先ずは試乗、ボイラーの前に広場があり、そこには直径4Mほどの煙突が経っていて、
    丁度自動車が煙突の周りを一周できる道路状になっている。

    手前から走って行って、煙突を一回りして戻って来る。そんな考えで車にまたがる。
    二、三回空吹かしし、ギアをローに入れ、ゆっくりとクラッチを前に倒した、・・・と思った瞬間
    車は前にすっ飛び、私はその場で尻餅を搗き、前にすっ飛びだしたハーレイは、
    そのまま煙突に正面衝突。

    尾てい骨をしこたま強く打った私は、這いずる様にして車の処へ駆け寄った。
    見ると無残、ハンドルはガスタンクにめり込み、ホークはよじれ、
    フエンダー、ホイールリムもぐんにゃりと曲がってしまった。

    仲間達は駆け寄って来て、茫然として誰も私の体を心配して呉れる者は居ない。
    幸い煙突の方はかすり傷で問題なく不幸中の幸いでした。

    仲間たちは無言のまんまガレージからトラックと人数人を載せて来て、
    事故車を載せ、戻っていった。

    翌日私たちはB車からA車の破損したパーツを取り外し、取り換え、どうにか元に戻し、
    今度は一番の年長者である宗形さんに市場をお願いしたが、もう皆ブルってしまい、
    誰も試運転をする者がいなかった。

    すると運転手の中から石川さんと云うガッチリした体格の人で、
    普段冗談をよく言って人を笑わせるのが巧い40歳台の人が、「俺が試運転してやるよ、
    若い時よく乗ったもんだぜ。」と申し出てきた。

    それではと云う事で、試運転を任せることにした。
    石川さんは車にまたがり、暫くあちこち触っていたが、やがてキックを踏み、エンジンをかけ、
    ギアを言えると颯爽と走っていった。

  • ”毎日毎日、異常な暑さで何もやる気が起きず、唯々熱中症などに掛らぬ様気を付けるだけです。”

    これと思しき3台をトラックに乗せ、ガレージに持ち帰り、どの車をベースに生き返らせるかを
    良く見定めてA車と決め、そのA車のどこの何が悪いかを見定めた結果、まずスパークプラグに
    高電圧が来ない為発火しない。このハーレイは側車のベッドがついていて、なんと1200CCも
    排気量があります。

    ハンドルの右側にレバー式のアクセレーターがついていて、アクセルを絞ると同時に左グリップ
    を回して着火タイミングを早めるような様式になっています。

    ギアはガスタンクの左側にレバーがあって、ニュートラルから手前に引いて1速2速3速とあり、
    ニュートラルから前に押すと何とリバースがあります。(サイドカーだから当たり前か)

    クラッチは左足元にあり、手前に倒すと切れ、前に倒すと入ります。
    何とこのクラッチの使い辛いこと、

    構造は此の位にして、まず、発火しないマグネットを取り外し、(イグニッションコイル式ではない。)
    回してみたが発電しない。中のポイントを磨いても作動しない。
    多分コンデンサー不良か、二次コイルの断線だろう、
    B車のマグネットはどうか、発火するのを確認してA車の方に取り換え、完了。

    あとはエンジンオイル、ギヤオイルを確認、両輪共に空気が抜けているのでパンクも確認。
    とりあえずエンジンをかけてみることにした。

    イグニッションキーが無いので、直結である。キャブレーターの口を手でふさぎ、
    軽くキックしてみた。
    いきなりケッチングが来て、吃驚、よく見たら左側のグリップが絞ったままになっていた。
    グリップを戻し、再びキック、轟音とともにエンジンがかかった。

  • 本廠に戻り、まず最初に立石少尉殿に帰廠報告をし、少尉殿からねぎらいの言葉を頂き、
    私たちは整備課に配属されました。
    整備課と云っても出来たばかりのホヤホヤで人員も私たち3人だけです。

    整備員と呼ばれても、たった3ヶ月の教育で、それも毎日のような空襲で碌に夜寝られもせず、
    自動車の構造について何の知識もなく、上から修理の依頼が来ても首をひねるばかりで、
    精々治せるのはタイヤのパンクくらいが精一杯でした。

    それでも毎日様々な修理依頼が来て、悪戦苦闘、修理をこなしているうちに、
    結構何とかなるもので、どうにか周りの上官達にも認められるようになっていきました。

    ある時立石少尉殿からお呼びが掛かり、付いて行くと、廠内の北側の広場に行くと、
    そこには普段私たちは入れないのだが、何と戦利品の救急車、医療車、レントゲン車、
    担架側車付サイドカーなど医療用車が何百台となく置いてある。

    立石少尉殿はその中のハーレイダビットソンの担架付き側車を指さし、
    これを治して乗れるようにして欲しい。と私たちに指示を出した。

    私たちはその中の比較的程度の良さそうなのを3台選び出し、
    「少尉殿、この3台から夫々部品を取り、一台にまとめたいと思いますが如何でしょうか。」
    と尋ねた。少尉殿はうなずき「では頼む」と一言だけ言って戻っていった。

  • 結局追及もできず、文句も言えず、一番年上である宗形氏が代表で本廠に戻り、
    食堂で事情を話し、何とかコメや副食物の量を増やして貰い、帰ってきました。

    その時に彼は大豆を南京袋に半分ほど貰ってきたのだが、それだけは出張先に提出せず、
    部屋に持って帰ってきました。
    その夜は近所でコンロと琺瑯、炭などを買い求め、それから毎晩カラコロ大豆を炒め、
    それを食べながら日頃の空腹を癒し、夫々の故郷話に花を咲かせました。

    新興ボーリングの暮らしにも慣れ始め、自動車の修理もボチボチ教えられるようになってくると共に、
    夜ごと空襲が激しくなり、空襲警報のサイレンが鳴る度にたたき起こされ、
    工場や周りにおいてある修理待機車両を、できるだけ安全な場所に移動させらるのだが、
    自力で走れる車は一台もないので、みんなで押して移動しなければならない。

    もうへとへとになり、車を分散し終えたころには空襲も終わり、西の空は炎で真っ赤に染まり、
    東からは太陽が昇り始め、青白く開け始め、私たちはただ茫然と佇むだけであった。

    そんな夜が何日かあり、やがて私達も何の技術も覚えることもなく、
    ようやく3か月間の出張期間が終わり、本廠に帰る日が来ました。

    本省から迎えのトラックが来て、ぞの荷台の人となった私たちは毎日見慣れた千住新橋をぼんやり見つめ、
    誰も喋ることなく、新興ボーリングを後にしました。

  • 色々なことがあって、みんな各運転手と助手の配置もきまり、
    未だ決まっていないのが私とかなり年配の宗形氏と、名前は忘れたが、Aとしておこう。
    この3人が取り残されてしまった。

    ある日、私たち3人が呼び出され、立石少尉殿から整備士になるよう命じられた。
    そして整備士としての技術見習いとして、千住にある、”新興ボーリング”と云う自動車の修理工場に
    3か月間の技術見習いとして出張を命じられました。

    この新興ボーリングという修理工場には社長の他、職人が一人、どう見ても自動車関係の人とは
    見えない60歳近いおじさんが一人の小さな会社だ。

    衛生材料廠とこの会社とどのような繋がりがあるのかわからない。
    本廠の車が一台でも修理に入庫されていれば、それなりに取引があるとの解釈もできるがそれもない。

    とりあえず、私たちは食堂から米を3斗程南京袋に入れて貰い、出張先に向かった。
    工場には三台ほどと表通りに4~5台の車があり、これらは部品がないために修理できずそのままに
    なっているそうだ。

    私たち3名は取り合えず2回の6畳ほどの部屋をあてがわれた。
    翌日から早速自動車修理の見習いとして社長や職人の傍で何か命じられるのを待って居たが、
    全く関係のない金庫を物置に運ぶ仕事とか、私的な買い物にやらされるとか、
    自動車修理に関係のある仕事は一切ない。

    何も無いまま10日ほど経ったある日、社長の奥さんが私たちに、「持ってきたコメはもう無いよ、
    内で賄いするのであれば、もっとお米を持って来て貰わないとね」と言われ吃驚した。
    まさか3斗のお米が僅か10日で無くなってしまうとは、私達も毎日ほとんどすいとんだとか、
    蒸し芋だとか、お米のご飯など滅多に食べさせて貰えなかったのにどう云う訳だ。

  • 続き。
    仕方がないので、夫々持っている水筒から水を足して紙を張っていったがそれでも足りそうにない。
    余り何度も水で薄めたため、遂に張っても風が吹くとすぐに剥がれてしまうようになってきました。

    もうどうしようも無くなり、結局誰かが意を決して軍曹殿に怒られるのを覚悟して報告をしました。
    軍曹殿は怒りはしなかったが、苦虫を噛みしめるような顔をして事務所に糊を貰いに行った。

    無事糊を数名で取りに行き、何とか囮飛行機の紙張りを完成させ、無事本廠に戻ってきました。
    帰って来てから立石少尉の前に整列をし、軍曹殿より報告をし、少尉殿から怒鳴られるかと思いきや、
    大笑いされて事なきを得ました。  良かった~・・・

  • >>3929

    つづき。
    最初に行ったところは事務所のような所に停まり、軍曹殿が中に入り暫くして戻ってきました。
    そこから又車で少し走り、次に停まったところはどうも格納庫のような所で、みんな降ろされました。

    大きな吊り戸を二人がかりで開け中に入ると、そこにはバケツに入った糊が20杯ほど置いてあって、
    私たちはそれを持って又トラックに乗り込みました。

    滑走路らしきところを横切っていくと、飛行場のフエンスに沿って12~3の掩体壕(漢字がわからない。)
    が一列に掘って有って、その中には竹や木材で飛行機の骨組みが作って有った。

    これを見てすぐに「これは囮の飛行機だな。」とすぐに理解できた。
    私たちはこの囮飛行機に紙を貼って日の丸をペンキで書くのが今日の仕事だった。

    然しもう昼が近く腹がグウグウなっているが、軍曹殿の命令がなければ弁当を食べることはできません。
    そこで誰かがバケツの糊を指の先に付けて舐めたら、これが結構旨かった。

    それとなくみんなに伝わり、夫々のバケツの糊を舐め始めた。
    暫くして軍曹殿から昼食の許可が出て、ホッと一息入れて、ガツガツ食べ始めた。
    やっぱり弁当の方が旨い。

    昼飯が終わり、暫くある者は昼寝、ある者は紙製の将棋を持ってきていて、仲間と将棋を指したりしていた。
    やがて軍曹殿の号令とともに紙を機体に貼り始めた。

    なにか貼っているうちに段々糊の量が心元なくなってきた。だってみんなで舐めちゃったんだものね~。
                        続 く

  • 話を元に戻します。
    総務課から使役の人材を、数人差し出すよう命令が来ました。
    出張先は立川飛行場です。私たち助手から数人選ばれ出張することになりました。

    出張の時は大体一日掛かるので、食堂へ行って食券を差し出し弁当を作って貰ってきます。
    弁当箱は、小さくても、大きくても一杯詰めてくれますので、
    皆手造りで重箱より一回り大きいものを作り、それに弁当を詰めて貰います。

    集合場所に行くと既に各課から徴集された人たちが集まっていて、私たちを含めて30人程になりました。
    やがて総務課の軍曹殿がやってきて、点呼を取り、行先での仕事の説明があり、
    それが終わるとトラック2台に分乗して出発です。

    現地での仕事の中身は、どうも張りぼての飛行機の骨組みに紙を張って、お取りの飛行機を作るらしい。
    初めての仕事なので、半分興味、半分不安な気持ちで車に揺られ、一時間ほど経って飛行場に着きました。

                     つづく

  • 工作課に居た頃の失敗話。
    戦争が益々激しくなり、材料廠の上空にも毎日のようにB29が低空で白い腹を見せながら、
    不気味に飛ぶ姿を見るようになってきました。

    当時、切削機械に使われる油に菜種油が使われていました。
    ある日、当直に当たった5人程が、悪事を企み先輩が私たち後輩に「お前は食堂からてんぷらにする
    材料を盗んで来い。」「お前は工具室に行って菜種油を盗んで来い。」と命じられ、
    私は菜種油を盗む役を命じられました。

    夜になると明かりは全部消され、真っ暗なところを手探りで部品庫に行き、
    昼間偵察して於いた「確か左から三台目のドラムだったな。」とそのドラムから一升瓶に
    一杯の油を抜き取りました。

    先輩は既に七輪に炭を起こし、酒も倉庫課の友人から分けて貰った、
    皇国赤酒(赤玉ポートワインの事)2~3本用意して待っていた。

    もう一人の後輩は食堂からじゃが芋やら、ニンジンなどを盗んできて用意万端整った。
    薄暗い作業場で黙々と天ぷらを揚げ、みんなで食べた。

    なんだかチョット味がおかしいなと思ったが、皆腹を空かしているから黙って食べた。
    一時間ほど経ったらみんな少し腹の具合がおかしいと言い出し、慌てて厠に飛び込んだ。

    全員が入れ替わり立ち代わり厠に行って、朝まで眠る事さえできなかった。
    翌朝、とぼけて部品庫の担当者に尋ねたところ、「2.3日前から菜種油は貴重品で使えなくなり、
    飛行機のエンジンオイルに使っているひまし油の廃油を利用することになった。」と説明を受けた。

    道理で、私たちは飛行機で使い終えたひまし油の廃油で天ぷらを揚げて食べていた訳です。
    一晩中下痢で悩まされ、朝飯も食べられず、我が家に帰っていきました。
    ヤッパリ悪いことはするもんじゃ~ないですね、天罰てき面の話でした。お粗末。

  • 私が勤めていた陸軍衛生材料廠は世田谷の用賀と桜新町の中間に位置し、
    大体246号線を通って渋谷に出るコースが多く、道元坂上で一旦止まります。

    ここで窯のふたを開け、長い鉄棒で真っ赤になっている炭をグリグリかき回し、
    灰を下に振り落とし、炭を補充します。
    次に清浄器のふたも全て開け、中の棕櫚、手ぬぐいなど水で汚れを洗い流します。

    エンジンルームの中で予め乾かして置いたものと取り換え、元に戻します。
    送風機を回し、ガスが程よく発生したところで、下り坂を利用して自力で走り始めます。
    程よく速度が出たときにギアを入れ、クラッチを話し、惰力を利用してエンジンを掛ます。

    このように10㎞位走ると坂を見つけ同じことを繰り返し走ります。
    薪窯も大体同じ要領で走りますが、薪の場合、タールが出ますので清浄器のろ過材料が変わってきます。
    石炭(こーライト)の場合はクリンカという飴みたいに粘った滓が大量にでます。
    このクリンカはロストルに絡みついて空気穴を塞いでしまい、厄介なものです。
    ただガスの燃焼がよく馬力が出ます。

    でもわが国では石炭も産出が少ないので、やはり木炭か薪が主流になります。
    運転手は田舎道の車の走らない所へ来ると運転を変わってくれます。

    助手に早く運転を覚えさせると自分が楽ができるので、熱心に教えてくれます。
    早く上手になったものは、品川の鮫洲試験場に免許の試験を受けに行き、
    うまく試験に合格すると運転手として昇格します。給料は変わりません。

  • >>3925

    こうして出来上がった代燃車、私たちは見習いとして運転手の助手になり、
    毎日トラックが出発できるようにしなければなりません。

    先ず木炭車ですが、俵から木炭を取り出し、のこぎりで5㎝位に切り、上から窯の中に投げ込みます。
    下の焚き口にオイルを浸み込ませたぼろ布を投げ込み、脇の送風機を回して火が早く回る様に
    夢中で回します。

    或る程度火が回ったところで、上の蓋の密閉のための石綿を前日の物と取り換えます。
    そうしたら蓋を閉めてガスが漏らないように固く締め、

    第一の清浄器の中の棕櫚の毛の束を取り換えます。ここは炭粉などの割合大きなものを篩います。
    第二、第三の清浄器は円筒状の穴が沢山開いた枠に巻き付けます。
    そして何れも窯の蓋のように石綿を取り換え蓋を閉めて密閉します。

    再び窯の送風機を回し、全て密閉されているので、ガスはエンジンのインテークマニホールドの
    方に送られていきます。

    ここで初めて運転手が乗り込みOKのサインを出します。
    当時の車は節約のためにスターターモーターなどは付いていません。
    私は前に回り、クランクハンドルをバンパーから突っ込み回します。

    代燃ガスは燃焼が遅いので、着火タイミングをかなり早めてあります。
    だからクランクを回すと逆回転をします。この時に直ぐ手を放さないと腕の骨を折るなど、
    大変な大怪我をします。

    こうしてようやくエンジンが掛かるわけですが、この時にはもう、顔は真っ黒、腕はくたくた。
    休む間もなく出発です。炭俵をその日の走る距離に応じて2~4位積み込んでさあ出発。

  • >>3924

    今、自動車と言えばガソリンエンジンから電気自動車にとって代わろうとする時代に来ました。
    日本がアメリカと戦った2WWの原因は、アメリカが日本に石油の供給を絶ったのが原因です。

    日本は仕方なく様々な代替え燃料を研究開発しました。
    アルコール、薪、炭、石炭、松根油、燃えるものは何でも動力源にしました。

    その内アルコールが一番効率が良かったのですが、これはバイオ燃料のため、
    作る工程が多く、時間も掛り、コストも高く自動車の燃料としては不向きでした。

    その点、炭や薪、石炭などはそのまま使え、代替え燃料として最適でした。
    然し、これらの代替え燃料をガソリン代わりに使うには、ガス化しなければ使えません。

    そのための装置が大変大がかりなものになり、また積載量にもかなり影響します。
    炭、薪、石炭とも装置に大きな違いはありませんが、各燃料の性質上個別な装置が必要になります。

    まず、燃料を蒸し焼きにする窯、径60縦100糎ほどの円筒型の窯をトラックのキャビンの後ろに取り付け、
    そこから蛇腹状のパイプをガスを冷却するため、3mほどボデー下を引き回し、清浄器をところどころ配し、
    最後をエンジンのキャブレータを外し、そこにパイプを取り付けます。

    窯の焚口の近くに送風機を取り付け窯に風を送るようにパイプで繋ぎ完成です。

  • >>3923

    そんな中、9ヵ月ほど経ったある日、やる気のない私の処に運輸部から、
    運転手見習い募集の回覧が回ってきた。

    私は即座にその募集に飛びついた。理由はこれからの時代、必ず自動車の普及が活発化し、
    将来、運転技術を持っているものは、就職時絶対優遇されると思ったからだ。

    班長に頼み、私の運輸部応募を上司に伝えてもらい、ついに転職することに成功した。
    一週間ほどたちわたしに辞令が下り、私物の荷物を整理して、周りの皆に挨拶をして
    わたしは運輸部に向かった。

    運輸部輸送課に配属され、上官立石少尉を紹介され、各部から集まった総勢やく10数名が
    立石少尉の基、最初は色々な使役に携わり、輸送課の20台ほどあるトラックの整備、掃除などをやらされた。

    当時のトラックは殆どが代燃車で、木炭車あり、薪木車あり、コーライト車ありで、
    その燃やす材料で夫々特徴があって、次回にその特徴を一つ一つ説明してゆきます。

  • 然し、そこは研究班とは名ばかり、必要のない人間の捨て場所。
    工場長などは僅か一か月ほどの研修期間で私と云う人間が判るはずはない。

    ヤスリ掛けやタガネはすりがサウスポーのために巧くいかないというだけで、
    必要のない人間の捨て場に追いやられるのは私としては非情に悔しい思いをしていた。

    更に自分の周りはと云うと、技術的に使えないというのでなくて、皆、少しお頭がおかしい者ばかり。
    自分としては、こんなのと一緒くたにされたのではたまらないと思った。

    私は不貞腐れて毎日女子挺身隊で自分より二つ三つ年上のグループの作業場に行っては油を売っていた。
    時々下士官が見回りに来るが、私を痴呆者と思っているから何も咎めずにそのまま行ってしまう。

    私は使役を自分から買って出て、毎日のように食堂に手伝いで出て行った。
    此処では隙を見て、どんぶりにご飯を詰め込み、食器棚に隠して置くのである。

    昼食が終わり、後片づけが終わり、おかず類が残ると責任者がそれを皆に分けてくれるのだ。
    隠してあったご飯と分けて貰ったおかずを持って職場に帰り、それをみんなにお裾分けするのだ。

    だから私が職場に居ようが居まいが誰も咎めるものは居ない。むしろ可愛がって呉れ、
    私が何か頼みごとをしても、積極的に協力してくれる。

  • 戦争のさなか、高等小学校卒業して就職したのが、陸軍衛生材料本廠。
    何故そこを選んだか。それは配給が多いから。

    当時15歳母親一人に育てられ、配給の物資も買えないほどの貧乏。
    滅私奉公も”欲しがりません勝つまでは”も関係なく飢えていた。

    少しでも配給で靴、衣料品、食料が欲しかった。
    それをいつも自分の貧もじい思いをこらえて私たちに分け与え我慢した母親に
    少しでも喜んで貰いたい一心で選んだ就職先だ。

    私の選んだ衛生材料相は間違いなく配給が多かった。
    三日に一度は配給があり、それも日用品から食料まで多種多様に及んだ。
    それを家に持ち帰り、母親の喜ぶ顔を見るのが私の一番の喜びだった。

    私は数日たって工作課に配属され、そこで寺島工場長の元、毎日ヤスリ掛け、鏨の使い方、等
    毎日訓練を受け、技術の向上を目指したが、如何せん私は生まれついてのサウスポー。
    戦時中、左利きの工具なんていう配慮なんてなかった。ヤスリ掛けをしてもヤスリ目が出てしまい、
    何時も工場長に咎められた。

    そして訓練期間が終わり、配属された部署は研究班。医療器具を研究して新しいものを作り出す
    と云うのが名目である。
    そこに配属されたのは私を含めて3人、班長と総勢4人である。
    班長は徴用を受ける前は飾り職人だと云っていた。非常に器用で、確かに上から命令された物を
    巧くこなし製品化していった。

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