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自分探しの旅

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  • 2018/08/19 10:01
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    自分を見つけられましたか?

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    旅人 8月19日 10:01

    今思えば私

    五世帯同居の嫁で頑張ってきたんです
    自分でも信じられないです
    先祖様の遺影を見ているとしみじみと・・・
    あの頃は子育てしながら自営の仕事と夢中でした
    今があるのはその結果だと思います
    努力をしていても報われない人もいる中
    私は幸せなんだなぁと思うしかありませんね
    今は時間に余裕が出てきたせいか
    回りの物事に振り回されています
    70歳近くになっていますが嫁をしています
    なんとなくですが面倒になってきています

    なんだかんだしているうちにもう秋
    肌寒くなり落ち着いて過ごしやすくなります
    心も軌道修正しながら自分らしく行きます
    本物の自分はどれなのか???
    ほんものがない自分だったらどうしよう?

  • 今晩は
    お盆ですね~
    実家の13歳上の兄の初盆なので線香あげに行ってきました。
    まだまだ暑いですね~
    お体に気を付けて頑張りましょう!

  • 今日は~

    fiji-に行ってきました
    しばらくぶりの海外旅行で精一杯楽しんできました
    日本の豊かさに気付かされ、環境に恵まれて幸せなんだと
    今更ながらに実感です

    もうすぐお盆
    今日は草取りで午前中は大忙し
    これから、ランチに行きま~す!

    歌代子さんはお仕事ですか?
    たぶん同じ年齢
    よろしくね!

  • 昨日の夕焼け
    素晴らしく広範囲に真っ赤でした
    恐ろしいくらい明るくて
    こんなに衝撃的な自然の変化
    やっぱりおかしい

    今日も暑い
    近所で農家をやっている友達がきゅうりとなすを
    段ボールにドッサリ持ってきてくれました
    こんなにどうするの~
    嬉しい悲鳴?
    こまった、困った~

  • おはようさん

    なつかしい!
    お元気でしたか
    私は大型の愛犬を無くし、心に穴が・・・
    今思うとこの酷暑を乗り超えることは困難だと
    思いますので諦めもつきます
    そんな神様もなんとなくいます

    私も新車一年前に買いましたが常の用は軽で充分
    というかその方が楽(笑)
    休日の気分の良いとき那須方面に飛ばしに行きます
    今日は何しようか?
    何もない日曜日、最高!
    ポールモーリアを聞きながらコーヒーを・・

    良い一日を~

  • 今日は~

    お久しぶりです
    なんとなく忙しく
    なんとなく入れませんでした
    いろんな事情、いろんなタイミング

    いろんな運命、いろんな偶然が重なり
    生きていることに気がつきます
    pcで遊ぶことには気力も体力も十分必要です
    気楽に遊びたい時に入ります
    よろしくで~す

  • 私は、この掲示板「自分探しの旅」トピックの起案者ではありません。
    いまや、 私は、すっかり老いぼれになり、知力や体力が衰えました。
    そこで、このスレッドから、「老兵、去るのみ」の言葉どおりに
    ここから、去ってゆきます。

    あとは、皆様の中から、このトピに関心がある人が投稿して下さい。
    それでは、よろしくお願い申しあげます。
    グッド・バイ ~~ バ~イ ♪ ♫ ♬

    自分探しの旅 私は、この掲示板「自分探しの旅」トピックの起案者ではありません。 いまや、 私は、すっかり老いぼれに

  • いまを生きる人間として、私達にとって大切なものとは・・・
      
           *健康   
           *安定・平和   
           *尊敬・尊厳   
           *人格・自己の確立   
           *自然との調和   
           *友情・隣人愛   
           *余暇・趣味

  • ↓ 曽野綾子さんの言葉 ↓

    ①  人生は、絶えず変化し、人間も変わる

    ② 自分を守るのは、自分以外にいない

    ③ 人間は、自分以外の人間にはなれない

    ④ 人間には、運というものがある

    ⑤ 体力の限界を知ると、謙虚になれる

    ⑥ 人間は、どんな立場になろうが、自分を生かすしかない

  • 「やなせ たかし」の晩年


    ユニークで元気なキャラクターを演じ続けそのイメージが強いが、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていた。なお、膀胱癌は10度以上再発している。

    晩年はチャイドルをもじって「オイドル」(老いドル、老人のアイドル)を自称していた。

    2011年(平成23年)春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退を考え、最後の大舞台として生前葬を企画。友人らに告別式の文章を書いてもらい「清浄院殿画誉道嵩大居士」という戒名入りの位牌も準備したが、その発表直前に東日本大震災が発生し、不謹慎だからという理由で計画は白紙になった。震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング的扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話がやなせの元に届いたことから、引退するのをやめたという。その後、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり、奇跡の一本松をテーマにしたCDを自主制作するなどした。

    2013年8月に体調を崩して入院し、2013年10月13日午前3時8分、心不全のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。94歳。

  • 「やなせ たかし」は、こんな人↓


    やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年〈大正8年〉2月6日 - 2013年〈平成25年〉10月13日)は、日本の漫画家、絵本作家、詩人、元陸軍軍人。有限会社やなせスタジオ社長。高知県出身(詳細は後述)。

    『アンパンマン』の生みの親として知られる。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任。

    絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていた。

  • 「漫画家・やなせ たかし」の言葉 ↓


    ―― よく「一病息災」と言われますが。

     一病ならいいけど、僕は一三病ぐらいあるんだよ。病気だらけ。それだけの病気を持っていると、自分と向き合って暮らしていかないとね。

     生きている間はなるべく元気に、楽しく暮らしたいと思っているわけ。悩んでいてもしょうがないのでね。だけど、そのために、よく誤解をされるんだよね、「やなせさんは元気だ」って。元気じゃないんだよ、ほんとは。

     なるべく僕は、物事を前向きに考えるようにしているの。倒れるんなら、前のめりに倒れようと思っているくらいでね。同じ倒れるんでも、そういうふうに考える。

     病院へ行ったら、きれいなナースさんはいるかなあ……とまず探して、あの人ならいいなあとか、そういうふうに思えば、病院へ行くのも楽しい。まあ現実は、そういうナースさんにばかり当たるとは限らないけど。

     物事は後ろ向きに、いくら考えてもしょうがない。というか、そういうふうに思うようにしているわけ。嫌なことは、考えないようにしているの。考えたってムダですからね。やっぱり悪いほうへ悪いほうへ、考えてしまいがちでしょ。だから、無理に考えないようにするんだ。すると、なんらかの状況は変わってくるもんですよ。

    血圧が高いとか、不整脈があると、何かいろいろなことを考えちゃう。夜寝て、明日の朝、目が覚めなかったらどうしようかとか。つい悪いほうへとね。

    だからあえて、考えないようにしているの。

  • 太宰治の死について


    1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水した。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。

    この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」、「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。

    中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えない」と確信をもって答えた。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちない点もあるのです」と発言した[35]。

    『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺のひとつの理由だったとする説もあった。

    しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。

    次の写真は、山崎富榮さんです。

    自分探しの旅 太宰治の死について   1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水した。2人

  • ●太宰治、その波乱の人生(終わり)

    6月13日深夜、太宰は机に連載中の『グッド・バイ』の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを残し、山崎富栄と身体を帯で結んで自宅近くの玉川上水に入水する。現場には男女の下駄が揃えて置かれていた。6日後の19日早朝(奇しくも太宰の誕生日)に遺体が発見される。帯はすぐに切られ、太宰は人気作家として立派な棺に移され運ばれたが、富栄はムシロを被せられたまま半日間放置され、父親が変わり果てた娘の側で一人茫然と立ち尽くしていたという。
    死後、『桜桃』『家庭の幸福』『人間失格』『グッド・バイ』などが次々と刊行される。娘の津島佑子、太田治子は共に小説家となった。

    『禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。』--1944年に発表された『花吹雪』にこの一節があり、意が汲まれて太宰の墓は鴎外の斜め向かいに建立された。

    自分探しの旅 ●太宰治、その波乱の人生(終わり)   6月13日深夜、太宰は机に連載中の『グッド・バイ』の草稿、妻

  • ●太宰治、その波乱の人生(5)


    1945年(36歳)、空襲下で執筆し始めたパロディ『お伽草紙』を疎開先の甲府で完成。敗戦を津軽の生家で迎える。翌年、坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。1947年(38歳)、2月に神奈川まで太田静子(太宰に文章の指導を受けていた愛人)を訪ね5日間滞在。太田をモデルに没落貴族の虚無を描いた『斜陽』を書き始め6月に脱稿する。11月には太田との間に娘が誕生し、「太田治子(はるこ、“治の子”)、この子は私の可愛い子で父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている」との認知証を書く。同年、三鷹駅前のうどん屋台で山崎富栄(当時28歳、戦争未亡人)と出会う。『ヴィヨンの妻』『おさん』を発表。『斜陽』は大反響となり太宰は名声と栄光に包まれた。
    1948年、過労と乱酒で結核が悪化し、1月上旬喀血。富栄の懇親的な看病のもと、栄養剤を注射しつつ5月にかけて、人生の破綻を描いた『人間失格』を執筆。また『如是我聞』で志賀直哉ら文壇批判を展開する。太宰は文壇の頂点にいた老大家・志賀を「成功者がつくる世界の象徴」と敵視し、「も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。(中略)君は代議士にでもなればよかつた。その厚顔、自己肯定」「芥川の苦悩がまるで解つていない。日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。」「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」と噛み付いたのだ。

    ~続く~

  • ●太宰治、その波乱の人生(4)

    同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に“結核を療養しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく(この体験は8年後『人間失格』に結実する)。太宰が退院すると、妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。

    1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する(4回目の未遂)。一年ほど杉並のアパートで下宿生活し、10ヶ月近く筆を絶つ。井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していく。翌年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い、婚約。1939年(30歳)、井伏家で結婚式をあげ、東京・三鷹に転居、以後死ぬまでここに住む。 太宰の作品は明るく健康的な作風となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞される。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執筆。1941年(32歳)、太平洋戦争開戦。翌年発表した『花火』(後に「日の出前」と改題)が、当局の検閲によって“時局に添わない”と全文削除を命ぜられる。1944年(35歳)、故郷への郷愁を綴った『津軽』を脱稿。

    自分探しの旅 ●太宰治、その波乱の人生(4)   同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者

  • ●太宰治、その波乱の人生(3)


    1935年(26歳)、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて縊死を企てたが失敗(3回目の自殺未遂)。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発、入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけに薬物中毒になる。同年、芥川賞が創設され、太宰は『逆行』により第一回芥川賞の5人の候補者に入った。結果は、石川達三が受賞し太宰は次席。選考委員の一人、川端康成は太宰について「目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる恨みあった」と評した。これを読んで逆上した太宰は『川端康成へ』との一文を記し、文中で「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い(川端の小説“禽獣”への皮肉)、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と怒りをぶちまけた。この頃から佐藤春夫に師事する。
    ※川端の返事は「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。(中略)“生活に厭な雲云々”も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」と大人の対応。

    翌年(27歳)、太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ本を郵送する。次の手紙をつけて--『何卒(芥川賞を)私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。(中略)私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。(中略)「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます』。
    ド真ん中直球ストレートの、泣きつくような懇願文だ。上京以後、心中事件で相手を死なせてしまったり、芸伎と結婚したり、非合法活動に係わったり、大学も卒業出来ず就職に失敗するなど、故郷の生家に数々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名誉挽回を果たそうとしたのだ。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にも賞金が必要だった。だが、選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され深く打ちのめされる。

  • ●太宰治、その波乱の人生(2)

    一方の太宰は、この結納の翌25日に銀座のカフェの女給・田部あつみ(19歳、理知的で明るい美貌の人妻。夫は無名の画家)と出会い、そのまま浅草見物など3日間を共に過ごした後、11月28日夜、神奈川県小動崎(こゆるがさき)の畳岩の上でカルモチン心中を図る。翌朝地元の漁師に発見され、田部は間もなく絶命、太宰は現場近くの恵風園療養所に収容される。驚いたのは長兄。すぐさま津島家の番頭を鎌倉へ送った。番頭は田部の夫に示談金を渡したり、太宰の下宿にあった左翼運動に関する大量の秘密書類を、警察の調査前に焼却したりと走り回った(実際、翌日に警察が踏み込んでいる)。亡くなった田部を見た番頭曰く“大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました”。事件後、太宰は自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となる。
    翌12月、一命を取り留めた太宰は青森碇ヶ関温泉で小山初代と仮祝言をあげた。

    22歳、長兄は初代を芸妓の境遇から解放して上京させ、太宰との新所帯を応援。太宰は屈折した罪悪感から左翼運動に没頭し、反帝国主義学生同盟に加わった。大学にはほとんど行かず、転々と居を移しながらアジトを提供し、ビラ撒き、運動へのカンパなどを行なった。太宰が用意したアジトで機関紙の印刷や中央委員会が開かれた。ビルの上からビラを撒くことを太宰は「星を振らせる」といい、後年「チラチラチラチラ、いいもんだ」と回想している。23歳、青森の実家に警察が訪れ、太宰の行動について問いただしたことから左翼活動のことがバレ、激怒した長兄(県議をしていた)から「青森警察署に出頭し左翼運動からの離脱を誓約しない限り、(仕送りを停止し)一切の縁を絶つ」という手紙が届く。こうして足掛け3年間の太宰の左翼運動は終わった…組織の友人たちを裏切ったという深い後ろめたさと共に。
    以後、井伏の指導で文学に精進し、檀一雄や中原中也らと同人雑誌を創刊、『思い出』を始めとして、堰を切ったように執筆活動を開始する。

    ~続く~

    自分探しの旅 ●太宰治、その波乱の人生(2)   一方の太宰は、この結納の翌25日に銀座のカフェの女給・田部あつみ



  • ●太宰治、その波乱の人生 (1)

    本名、津島修治。青森県津軽の大地主の家に生まれる。父親は貴族院議員も務め、邸宅には30人の使用人がいた。小学校を首席で卒業。14歳の時に父親が病没し、長兄が家督を継ぐ(太宰は六男)。16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めた。高校では芥川、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は200篇にも及ぶという。18歳の時に敬愛する芥川が自殺。猛烈に衝撃を受けた太宰は学業を放棄、義太夫を習い花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓(げいぎ)・小山初代と知り合い深い仲になる。1929年(20歳)、秋頃から急激に左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に最初の自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級に悩み、下宿で睡眠薬(カルモチン)による自殺を図り昏睡状態に陥ったのだ。

    翌年、東大仏文科に入学。かねてから『山椒魚』等で井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後すぐ井伏のもとを訪れ弟子入り。治安維持法によって非合法化されていた左翼活動にも、具体的に係わっていく。秋頃、愛人関係にあった小山初代に、地元有力者からの身請け話が持ち上がり、動揺した太宰は彼女を上京させる。名家の息子が芸妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり「全ての肉親を仰天させ、母に地獄の苦しみをなめさせた」(東京八景)という。2人が同棲し始めると、生家から長兄が上京し、“(初代が芸妓でも)結婚は認めるが本家からは除籍する”と言い渡される。これを受けて兄と初代は落籍の為にいったん帰郷、11月19日に分家を届出、除籍された。11月24日、長兄が太宰の名で小山家と結納を交す。

    ~続く~

  • 私は、少年時代(中学3年生)に、
    太宰治の「人間失格」という小説を読みました。
    人間である太宰治について語れば、沢山の評価があります。
    簡単に言えば、ウイキペディアでは、次のように叙述してあります。

    太宰 治(だざい おさむ、1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は、日本の小説家である。本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。

    自分探しの旅 私は、少年時代(中学3年生)に、 太宰治の「人間失格」という小説を読みました。 人間である太宰治につ

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