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日経平均株価【998407】の掲示板 2018/02/23

>>573


>豊臣秀吉(あの福沢諭吉が過去に遡るなら)は英雄
>
>度の朝鮮出兵
>秀吉は、天下を統一した後、大陸への進出を考えます。
>そこで、まず大陸への足掛かりとして、最初に出兵したのが朝鮮だったわけです。
>朝鮮出兵は、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の2度行われましたが、朝鮮軍の強い抵抗と明の援軍によって失敗に終わります。戦国時代では、戦で活躍した武将に恩賞が与えられますが、その恩賞の基準となるのが敵の武将の首級(しるし)でした。朝鮮出兵の際にも、活躍した武将には恩賞が与えられるため、出兵した武将は敵の首級を日本に持ち帰ろうとします。しかし、首級を日本に持ち帰るのは手間がかかったため、代わりに朝鮮人の耳や鼻を日本に持ち帰り、それを基準に恩賞を与えることにしました。その耳や鼻を埋めたのが、豊国神社の近くにある耳塚だったのです。

他人の家に入り込み、鼻と耳をそぎ落としたという
お話です。 リアルガチな怖い話

  • >>592

    豊臣秀吉軍(以下、倭軍という)の侵攻の始まった1592年は朝鮮(李朝)が李成桂によって創始(1392年)されてからちょうど200年目にあたっており、高度な文明を維持していたが、儒教(朱子学)の大義名分観によって政治は形式化し、支配階層である両班は東人派と西人派に分かれて党争を繰り返していた。朝鮮の宗主国を以て自認する明は万暦帝の時代にあたり、国力は衰退期に入っていて東北方面からの女真(後の清)の侵攻に苦しんでいた。しかし明は、豊臣政権をかつて永楽帝が日本国王に冊封した足利義満の幕府を倒したものであり、その正統性を認めていなかった。明は豊臣政権の朝鮮への派兵は、自国領への侵攻と捉え、軍の派遣を行った。朝鮮も明軍の支援を要請したが、その兵糧を負担しなければならず、大きな負担でもあった。
     そのころ西欧では、1580年にはスペインがポルトガルを併合して全盛期を迎えたが、1588年に無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、海外進出の主役がスペインからイギリス・オランダへと変化する転換期を迎えていた。
    豊臣秀吉の朝鮮侵略 文禄・慶長の役
    出兵の理由  豊臣秀吉は朝鮮への出兵にあたり、朝鮮国王に示した国書で、自分は母が身籠もったとき日輪が懐中に入った入った夢を見て生まれた「日輪の子」である、と述べ、この奇瑞によって百戦百勝し天下を治めている。しかし、これで満足しておらず、大明国に入り、日本の風俗を中国の四百余州に及ぼしたい。自分が明へ兵を出すときは、士卒をひきいて軍営に臨むように、と求めた。自らを「日輪の子」と称した秀吉は、国書を「予の願は他に無し、ただ佳名を三国(日本、中国、天竺=インド)に顕(あらわ)さんのみ」と結んだ。このように秀吉の朝鮮出兵は、まったく個人的な野心から発したことであったが、その背景には天下統一によって部将たちが新たな恩賞を得ることができず、不満が生じることを恐れた事が考えられる。豊臣政権は戦争を継続して新たな恩賞を与えることで成り立っていた。