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日経平均株価【998407】の掲示板 2018/12/11

>>3242

むむむ~そうなのですか?その死にはおかしな点がいくつもあるそうです。死後ニューヨークで見かけたという話も。山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰掛け、軍刀を握り締めた儘であったとされているが、其の死には深い謎が付き纒う。
 大本営海軍発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)に依れば死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として著名捺印がある。
 ところが墜落現場を最初に発見した砂浜陸軍少尉は次の様に証言している。
 「長官は宛も遂先(さっき)迄生きていたかの様な風貌で、機外に抛出
 された座席上に端然として死亡していた・・・其の顔面には創は無かっ
 たし、出血の痕も無かった。其の発見は墜落後実に30時間前後も経っ
 たあである」
同様の証言は陸軍軍医蜷川親博中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。此の為、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行っている。
 にも係わらず山本長官の秘あっ子と言われた渡辺中佐参謀は事故の後19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検視して大本営(海軍)と全く同一内容の証言している。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、0740機上での戦死は間違いない」と云う物である。
 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「蛆の侵蝕とは考えられぬ」とし、更に重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらも其の可能性を強く示唆している。。