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太平洋戦争

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  • 2017/03/26 21:28
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戦時中にアイドル 97歳の回想
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6232014
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    sty 3月26日 21:28

    >>14365

     昭和十九年十二月二十一日、転進命令により小隊はカナンガの近くで各自の車両をハンマーで破壊して、ただちにリモン峠に集結した。

     途中、戦友の石井とミルク缶に穴を開けて棒を入れては舐めながら空腹を満たし、明け方所定の陣地に到着した。

     その途中でも何度も米軍の機関銃や迫撃砲を受け、何人かの戦友を亡くした。

     昭和十九年十二月二十二日、昼はは米軍の大砲に悩まされた(後に知った事だが、米軍の大砲は15分間の間に4000発撃てた。日本軍の大砲は1日に15発ぐらいだった)

     夕方、リモン峠の戦闘司令部の方から縦隊を組んだ歩兵が西海岸に向けて続々と進んでいった。西海岸に転進の命令が下されたのであった。

     だが転進とはていのいい言葉で、事実は撤退であったのだ。

     私たちの中隊は反対に、戦闘司令部の方向に進み負傷者の輸送にあたった。

     歩行困難な重傷者をなだめ、励ましながら革製の担架に乗せて、西海岸への暗く、背の高さまであるジャングルの中の道なき道を転進(退却)して行った。

     先に行った友軍に追い着くには、駆け足をしても追い着け無い状態だった。

     小一時間もすると、後方より米軍の小銃(私たちは「カラバリン」と呼んでいた連発銃)の音が「パン!!パン!!」と近くまで聞えてきた。

     一人で逃げるのも容易では無い状況なのに、重い担架を運びながら湿地帯を歩くのはとても困難だった。

     土田中隊長はこの状態で数日間かけて西海岸まで逃げ、たどり着く前に全滅すると思われたのか、各担架を草むらに散開にして降ろす命令を下された。

     担架に乗せられた重傷者はほとんど身動きもしてない。

     私たちはそれぞれ合掌をして、逃げるようにその場を離れたのであった。
     
     やっと前に進んでいる隊に追い着き、草むらに腰を下ろす間もなく小休止が終わり、また前進するのであった。

     後方からは、追い掛けてくる米軍の機関銃の音が聞えてくるので、休むどころではなかった。

     敵の砲撃は止まず、銃器の音もしだいに間近に聞えてくる。

     「敵が近寄ったようだから、敵の動きに注意しろ!」と、バグガイ・北マタコブ方面に向かって前進していると、またもや激しい砲撃。

     退避する間もなく重軽傷者が十数名出た。

     「おくれると命が無いぞ!しっかり歩け!」

     うねうねと続く山道は泥沼となり、平地に出たと思うとそこはまたズブズブとひざまで浸かるような、赤サビの浮いた湿地帯の連続で前進するのが困難であった。

     途中、米軍の迫撃砲で水牛がやられる事もあり、米軍の飛行機が飛び去ると、ヤシ林の密林から我れ先にと飛び出して、その水牛をナイフや軍刀で肉を削り取り、一頭の水牛は5分もすればあばら骨だけになった。

     その肉を鉄兜の中に入れ、土瓶(どがめ・現地人の鍋)で水煮にして、茹で上がるそばからほおばるのであった。これは私たちの栄養源であった。

     また、ある時は夜行軍の時に、ニワトリが木の枝から枝に飛んでおり、その近くのやぶの中に、玉子が山盛りになっている事もあり、それも栄養源になった。

     湿地帯の中を毎日毎日歩きつづけ、カンギポット山の付近に残っていた第一師団の戦友たちも到着し、やっとの事で西海岸のビリヤバに集結した。

     このようにして、兵団主力の去ったリモン戦場は、しょうじょうと吹く風の中に、 白骨化した死体が散乱し、鬼気せまるものであった。

     そして、その戦場に取り残された日本軍兵士たちのうえにも、 転進部隊が受けた以上の悲風が、兵団転進日の二十一日を境にして、 無情な嵐となって吹きまくっていた。



     『私は、もうこれ以上なにもできない。

     われわれの食糧も、撃つ弾も、なにもかもなくなった。

     五百メートル前方には敵がいる。

     母よ、妻よ、そして子供たちよ。

     私はいま、この手記をうす暗いローソクの光のもとで書いている。

     われわれの最後はもう近い。

     この島が敵手におちたなら、日本の将来はどうなるんだろう。

     山下将軍は、ついにレイテに来なかった。

     青白い顔色をしたわれわれは、ただ日本の勝利を祈るのみだ。』



     この手記は、リモン戦場で米軍の手にひろわれた、一無名兵士の書き残したものであるが、このような悲痛な叫びを残して死んでいった兵隊たちは、このほかにも数限りなく多い。

     そして、なお生き残った兵隊達は、とうてい生き延びられないと思いながらも、 三々五々、小さな群れをつくっては、西に向かって星の光をたよりに兵団のあとを追ったのであった。◆




    >  米軍が進攻して来たオルモックとリモンの間に挟まれ、身動きが取れなくなってしまい軍事物資の輸送も絶たれた。
    >  その為、私たちは車を草薮の中に遮へいして、各自の行動で過ごさねばならなかった。
    >
    >  道路の右側の小坂を登っていくと小高い丘に、二本のヤシの木の葉が繁っていた。幹のまわりは、昼間、米軍機には発見されにくい格好の場所だったので、たまに助手の栗原と一緒にそこで昼寝をしていた。
    >
    >   時折、オルモックの方で、大砲や自動小銃の音や、また、後ろの方から大砲の音が聞えてきたが、横になって眺める青空は高く、故郷の空を思い浮かべながら眠りに入った。
    >
    >  午後三時ごろだったか、夢の中で突然「パッ!!パッ!!」という米軍の自動小銃の音が至近距離で聞え、「ハッ!」っと飛び起きた。その音はリボンガオの方から米軍が進攻して来る音だった。
    >
    >  いつの間にか、側で寝ていた筈の栗原の姿はなかった。きっと丘を降りて、草むらに隠してある車の所に行ったのだろうと思い、私も急いで丘を降りて道路に行くと、中隊の者は誰一人もいなかった。「これはおかしい」と思い、草むらにある車の所へ行くと栗原もいなかった。
    >
    >  私は急いでカブランの方へ車を走らせ、途中、シナ人が現地人に品物を売る為に建てた、二階建ての建物に行った。
    >
    >  そこは我が軍の野戦病院として使っていて、死期が近い重症の負傷兵(約十数人)を収容している建物だった。建物は迫撃砲で無残な姿になっていた。
    >
    >  中に入ってみると、土間には、すでに亡くなっている負傷兵や、腹から臓器が出てしまい、もがき苦しみながら土間を手でかきむしってる者がいたが、ほとんど皆死亡している状態で、土間にはおびただしい血が流れていた。皆、迫撃砲でやられていたのであった。
    >
    > 「これは大変だ!」と思い車にとってかえし、夢中でエンジンをかけカブランへ向かったが、その時にはもう後方300メートルの所まで米軍が迫って来ていて「パンパン!!」と小銃や機関銃を撃って来た。
    >
    >  弾は至近距離をかすめ、必死でアクセルをふかしハンドルを握りしめて敵の弾をかいくぐりながら40分ほど走ると、カブランの手前に中隊の連中が「今や遅し・・」と、各自が機関銃や小銃で陣地を造り待機していた。
    >  
    >  もし、あの丘で寝過ごしていたら・・・と思うと「ゾッ!」っとした。
    > あの栗原は他の者の車で先に来ていて、私が後から車で来たので安心した、と、先に逃げた本人はすましたものであった。

  • >>14364

     米軍が進攻して来たオルモックとリモンの間に挟まれ、身動きが取れなくなってしまい軍事物資の輸送も絶たれた。
     その為、私たちは車を草薮の中に遮へいして、各自の行動で過ごさねばならなかった。

     道路の右側の小坂を登っていくと小高い丘に、二本のヤシの木の葉が繁っていた。幹のまわりは、昼間、米軍機には発見されにくい格好の場所だったので、たまに助手の栗原と一緒にそこで昼寝をしていた。

      時折、オルモックの方で、大砲や自動小銃の音や、また、後ろの方から大砲の音が聞えてきたが、横になって眺める青空は高く、故郷の空を思い浮かべながら眠りに入った。

     午後三時ごろだったか、夢の中で突然「パッ!!パッ!!」という米軍の自動小銃の音が至近距離で聞え、「ハッ!」っと飛び起きた。その音はリボンガオの方から米軍が進攻して来る音だった。

     いつの間にか、側で寝ていた筈の栗原の姿はなかった。きっと丘を降りて、草むらに隠してある車の所に行ったのだろうと思い、私も急いで丘を降りて道路に行くと、中隊の者は誰一人もいなかった。「これはおかしい」と思い、草むらにある車の所へ行くと栗原もいなかった。

     私は急いでカブランの方へ車を走らせ、途中、シナ人が現地人に品物を売る為に建てた、二階建ての建物に行った。

     そこは我が軍の野戦病院として使っていて、死期が近い重症の負傷兵(約十数人)を収容している建物だった。建物は迫撃砲で無残な姿になっていた。

     中に入ってみると、土間には、すでに亡くなっている負傷兵や、腹から臓器が出てしまい、もがき苦しみながら土間を手でかきむしってる者がいたが、ほとんど皆死亡している状態で、土間にはおびただしい血が流れていた。皆、迫撃砲でやられていたのであった。

    「これは大変だ!」と思い車にとってかえし、夢中でエンジンをかけカブランへ向かったが、その時にはもう後方300メートルの所まで米軍が迫って来ていて「パンパン!!」と小銃や機関銃を撃って来た。

     弾は至近距離をかすめ、必死でアクセルをふかしハンドルを握りしめて敵の弾をかいくぐりながら40分ほど走ると、カブランの手前に中隊の連中が「今や遅し・・」と、各自が機関銃や小銃で陣地を造り待機していた。
     
     もし、あの丘で寝過ごしていたら・・・と思うと「ゾッ!」っとした。
    あの栗原は他の者の車で先に来ていて、私が後から車で来たので安心した、と、先に逃げた本人はすましたものであった。

  • >>14362

     私たち四中隊は日没と同時に第一線のバレンシアの部落付近で交戦している歩兵部隊に武器、弾薬を輸送していた。

     日中は米軍の偵察機に発見されぬよう車をヤシ林に隠し、私たちはヤブの中に隠れて過ごしていた。自動車で移動する私たちの隊は米軍の飛行機が最大の敵であった。
     
     その頃、一週間ほど前に米軍がオルモック湾に逆上陸し、オルモックのヤシ林に散開していた多量の弾薬や物資の輸送が出来なくなっていた。
      夜になるとオルモックの空は迫撃砲により真っ赤に染まっていた。
     
     或る夕方、バレンシアの飛行場の上空に、上陸以来初めて日の丸をつけた輸送機が二機空中を旋回しているのを見た。見る間に落下傘部隊が舞い降りて来た。

     よく見ると落下傘ひとつひとつに重機関銃や兵隊がつき、夜空に花火の玉が散ったように見えた。

     二機の飛行機は、三十分ほど何回も飛行場の上空を旋回し北の方向へ飛んで行った。

     車をバレンシアの通り道に待機させていると、先ほどの落下傘部隊が隊列を組み、それぞれが重機関銃や弾薬箱、狙撃砲の重火器を持ち、私たちの所に到着した。

     落下傘部隊の隊長命令で、一同は各自の水筒から水を出し「靖国神社で会おう!」と、最後の別れの水盃をして、一台の車の荷台に約三十人づつ立ち姿で乗った。

     台湾の選りすぐり部隊で、最後の落下傘部隊の四百名だった。 頭には日の丸を染め抜いた鉢巻きをした雄々しい姿であった。

     車はオルモックの手前まで行き、私は心の中で「がんばって下さい・・・」と思いながら落下傘部隊を降ろした。

     翌日、落下傘部隊の中の数名だけが帰って来られたようであった。

     米軍はすでにオルモックからバレンシアの方向に進軍しているようで、上陸して来た時に水陸両用戦車を数多く持って来たのであった。

  • >>14358

    全くお前はドアホだな。
    この記事自体は至極もっともなことを言っている。お前のおつむがそれを理解してだけだ。

    >太平洋戦争の最も反省すべき点は、
    世界で孤立し、負けるに決まっている戦争に踏み切った事だ。
    実は、政府の首脳も軍の幹部も誰一人、
    この戦争に勝てると思っていた人間はいなかった。
    無責任に煽っていたのは、マスメディアだった。
    戦後、アメリカが「日本は侵略国で連合軍は正しい」と主張し続け、
    僕を含め多くの日本人がその押し付けに洗脳されていた。
    だから、僕は再びこんな馬鹿げた戦争を繰り返さない為に、
    戦争に至る歴史を正確に伝えたいのである。

    馬鹿げた戦争が起きる可能性はこれからもある。
    そうなるとマスメディアは戦争礼賛になる。
    だから戦争を知らない若い人達に、常に考え、
    話し合って欲しいと願っている。

  • >>14361

     私が菊地班長のもとで、十九年補充兵(二十一名)の教育班にいた時のある夜の事だった。

     五中隊の夜の点呼で週番司令の代永少尉が、廊下の床を「コツコツ」と靴音けたたましく入って来た。

     毎晩、廊下に各班一列横隊に並び、消燈前の点呼を一人一人受けるのであった。補充兵は皆、不動の姿勢で週番司令が上から下までを眺めて、身体に異常がないか、服装が整っているかを検査するのであった。

     補充兵班の列の前に来たとき、営内靴(革のスリッパ)を履いていない補充兵がいた。補充兵が入隊する時に新しい物に全て墨で名前を書いて支給されるのであるが、本人は裸足のままだった。

     週番司令の代永少尉は営内靴はどうしたのかと聞いたが、本人はしどろもどろで答えられなかった。

     教育班の私もそこまでは気がつかなかった。(古年兵が支給されている物は、不足すれば他の中隊からまた補充されるが、初年兵や補充兵はそれが出来なかった)

     代永少尉が、廊下に並んでいる古年兵の方に振り返って「補充兵の営内靴を誰か履いてないか!」と怒鳴ったが、誰一人として声があがらなかった。

     古年兵の営内靴は年数が経つごとに革が古くなってくるので、古年兵が真新しい靴を履いていればすぐに分かるる。

     代永少尉が古年兵の列に行き、一人一人の足元を調べ始めた。すると、名前を書き替えた新しい営内靴を履いている者の前に立ち止まった。・・・三年兵の鮎沢上等兵の前だった。

      彼は山梨出身で、自動車の修理か運転をしていた人で、非常に運転が上手だと中隊内では有名だった。

     ただ、酒飲みであるという事が欠点だったが、普段は非常に大人しく、酒を飲んでみんなに迷惑をかけるという事はなかった。

     きっと、魔が差したのだろう。即、彼は皆のいる前で営倉入りになってしまった。

     当時、関東軍司令官の命令で私的制裁が禁止されていた時だったので、非常に厳しい制裁だった。

     彼の二日間の営倉入りは、本人にとっても古年兵にとっても、皆、気持ちが引き締まった事は言うまでも無かった。

     だが当時の軍隊内は、古年兵の班から、教育班の私が「たるんでいる!」と責任転嫁されるのが必至だった。

     翌日、酒保(売店)が開店と同時に森永のキャラメルを二箱買い、箱からキャラメルを出し、ズボンのポケットに入れて夕食の時間に営兵所内の営倉に行き、営兵司令だと誤魔化し中に入った。

     営倉は二部屋あり、俗に言う「豚小屋」だった。真冬の時期など寒くて室内を歩き回っていないと大変だったようだ。

     鮎沢上等兵の部屋の前に行き、ズボンからキャラメルを全部つかみ出して柵の中の鮎沢上等兵の手のひらに乗せて帰ってきた。

     二日後、鮎沢上等兵は無事中隊に戻ったので、古年兵の班からなにか仕返しがあるかと思っていたが、動員準備でお互いに忘れていた。

     その後も鮎沢上等兵は何事も無かったようにしてたので私は少なからず安心したのであった。

     程度の悪い古年兵だったら「何時かはきっと・・仕返し・」という事になるのが軍隊だった。・・・


    ・・・満州の南京にいた時の話

     鮎沢上等兵がチャン酒(チュウ)のビンを何本もかかえて中隊に帰ってきた。

     我が軍の煙草とシナ人のチャン酒を交換して来たのであった。

     陰では文句を言う者もいたが、鮎沢上等兵では致し方ないと思って誰も何も言わなかった。砂糖を沢山入れないと飲めないような強い酒なのに、鮎沢上等兵はうまそうにチビリチビリと飲んでいた。・・・


    ・・・レイテ島にて

     昭和十九年十一月中旬、バレンシアとファトンの中間で米軍の兵隊約20名ほどが我々には気づかずに、平地の方からカラバリン(自動小銃)を腰だめにし、一列縦隊で我々の約30メートルほど前まで向かって来た。

     我々、代永分隊は各自草むらの中に伏せの姿勢で小銃を構え「撃て!」の命令で一斉に撃ったが、相手は自動小銃なので弾を連発で撃ってくる。

     最後に米軍の兵隊が逃げて行く時に撃った弾が鮎沢上等兵に当ってしまい、私の横で倒れた。

     その時息絶え絶えに「おかあ・・さ・・ん・・・」と山梨にいるお袋の名前を呼びながら息を引き取った。その時は時間がなく遺体を埋めることも出来なかった。

     人間的に立派で良い奴だった。

    人馬一体とは
     
     或る日、日没を期して自動車でファトンの近くまで来ると、道路が砂利道ではないのに「ガタンガタン」と異常な感覚なので車を止め、月明かりで見えたのは砂利ではなく、沢山の馬の骨や人骨が交じり合ったものだった。

     車が何回も通ったところは、それらが砂利のように砕けていた。

     其の場所は一緒に上陸した野砲の一個中隊(千九百名)が、米軍の戦闘機に銃撃されてた場所であった。
     
     どうしてこんな所で銃撃されたのか、道路の両側はヤシも植わってなく、遠くから一望出来てしまう場所だった。

     まして日中通れば米軍機の格好の餌食になる道路だった。引率の小隊長は血気盛んな人だったようで、そのため一日で何十人の戦死者が出たのだった。(戦後、復員した野砲兵はわずか数名であった。)

    人や馬の死体は一週間ほどで白骨になった。

     私たちは輸送の合間を見ては、その道路に敷き詰められた人骨と馬の骨をスコップで道路端にかき上げた。それは数日続いた。

    「人馬一体」とは、人間と馬が一体になって何かを成し遂げるという意味だと思うが、人間の骨と馬の骨が交じり合うとは、あまりにも惨い出来事だった。

     米軍に大砲を一発撃てば、米軍から何百発とお返しが来るのを、我が軍は判っておったのか。

    兵隊は犬死してよいものなのか・・・。

  • >>14360

     リモン戦闘司令部の近くで物資を渡した後、歩兵部隊の負傷兵二、三人を荷台に寝かせ、後方にある「タンブゴ」の近くのヤシ林の中にある野戦病院に運んだ。

     病院とは名ばかりで、衛生兵、衛兵将校はいるが、薬や包帯も無く、屋根もなく、ヤシ林のジメジメした草むらの上にそのまま一人づつ負傷兵を寝かせていた。重傷者は自然に死んでゆくしかなかったのであった。

     或るとき、リモンからオルモックの野戦病院まで、年のころは三十過ぎの重症の歩兵部隊の負傷兵を乗せた。迫撃砲で左足の大腿部の肉をごっそりえぐられていた。
     
     道路は毎日の米軍の迫撃砲でえぐれた穴ばかりで、回り道の道路もなく、ゆっくりと走っていれば銃撃に合うのだが、負傷兵の事を考えてゆっくりと走っているつもりでも、ガタゴト、ガタゴトと揺れるので、荷台にいる栗原が、負傷兵が蚊のなくような声で「運転手さん、もう少し・・ゆっくり走って・・下さい・・・」と云っているよと、私に伝えた。

     約ニ時間の道程だったが、そこも名ばかりの野戦病院で、ヤシ林の空いている場所に置いて来るだけだった。多分、あの負傷兵はあと数日の命かと思うと悲しい限りであった。

     同じ中隊の大沢上等兵はバレンシア付近で迫撃砲の破片で、左手首をスッポリもぎとられたので野戦病院に入院(?)する為に送っていったが、大沢上等兵は二、三日して「僅かに包帯で処置してもらったが、とてもじゃないが居られない」と中隊に戻って来た。

     野戦病院での負傷者の食糧は一日ににぎりめし二個だった。

     足が丈夫であれば、その辺のヤシ林で食物になるようなものを自分で探すしかなかった。ヤシ林の中は米軍機から発見されにくいが、いつかは米軍機に発見されてしまうのでは、と憂慮していたがとうとうその時が来てしまった。

     いつものように負傷兵を降ろして帰途についた途端、突然、米軍陣地から太鼓を叩くような音がした。野戦病院に雨、嵐のように迫撃砲の集中攻撃だった。

     炸裂音は耳をろうするばかり、その破片はうなりをあげ、あたり一面に散弾し、ヤシ林をなぎ倒し始めた。

     夢中で車を後退させ、思いっ切りエンジンをふかし、三段跳びでもするかのように、横たわっているヤシの木に左前輪を乗せ、再びエンジンをふかし一気に右前輪も乗せ、倒れたヤシの木々を乗り越えながら砲撃から逃れた。

     後にその野戦病院があったところの脇を通ったが、ヤシ林は跡形もなくすっかり状況が変わっていた。寝かされていた数百人はいたであろう負傷兵は誰ひとり姿がなかった。

     砲撃される前に、寝かされていた重症の負傷兵のひとりが私に「近いうちに内地から特殊潜航艇が来て、マニラの方へ連れて行ってもらえるんだ。」と期待をしていたが・・・私は本当に特殊潜航艇が来るとは思わなかった。

     それにしても、動けない負傷兵にも攻撃をするのが戦争だった。 悲惨の一言である。

  • >>14359

     上海より、約一万トン級の輸送船【香椎丸、高津丸、金華丸、能登丸】の四隻、数機の飛行機、数隻の駆逐艦でオルモック湾に向かった。

     途中、米軍ロッキードP-38の攻撃があったが無事に到着。

     昭和十九年十一月一日、第一師団がレイテ島オルモック湾に上陸。
    (満州の孫呉→南京→上海→マニラで一泊→レイテのオルモック)

     我が第一師団が上陸する前に、第十六師団など他の軍団が米軍と激戦していた。

     夜明けと共に、オルモック湾を防衛していた船舶工兵隊の大発動艇により、各輸送船から百メートルほどの距離があった海岸まで物資の輸送が始まった。

     行ったり来たり、まるで蟻が物を運ぶようだった。

     私も無事上陸したが、突然、南方より「ゴウゴウ」と爆音が響いてきた。
    小さく細かい隊列をなした機影が段々と近づいてきたのであった。

     我が方の駆逐艦が湾内に煙幕を撒いたが、天高く小さい機影の米軍機は隊列を組み、私たちの上空に爆弾を投下し南の方に去っていった。

     米軍は事前に第一師団がオルモック湾に上陸する事を察知していたようだった。

     米軍の爆撃をかいくぐりながら、最後の陸揚げをしていた能登丸が爆撃を受け、兵員、騎馬中隊の軍馬、野砲連隊の轢馬など、約六十パーセントほどの積荷を積んだままの能登丸が、一時間ほどでぶくぶくと沈んでいくのが海岸から見えた。

     各部隊が四隻の船に分乗していたので、私と同じ中隊の兵員が数人、船と共に沈んでしまったのである。この状況を目の当たりにして、戦場に来たのだと改めて思った。

     すでに上陸していた高射砲が米軍機に向かって「パーン!パーン!」と砲撃したが、弾は米軍機のずっと下方で炸裂し、高射砲の威力は全然効かなかった。

     野砲兵第一連隊(玉五九ニ〇)の一個中隊がすぐさま十五糧砲を騎馬六頭に引かせ、第一線の陣地リモン峠に出動した。

     我が土田中隊は、三日後より夜間の輸送に従事した。

     日中は米軍の戦闘機に銃撃や砲撃されるため、日没から朝方までが自動車での行動時間だった。

     毎夜、土田中隊はリモン戦闘司令部の付近まで食料、弾薬輸送に従事した。

     私が使っていた自動車は孫呉より貨車に積み込み、南京で軍旗輸送の行動し、上海から輸送船に積み、途中上海を経てオルモック湾で大発艇に積み替え、オルモック海岸のヤシ林の密林に隠していた新車の「シボレー」であった。

     リモン峠までの途中には幾つかの河があり、カナンガの橋は木製でこの橋を渡る直前には必ず右手方向より迫撃弾が飛んできた。

     最初はどうして弾が飛んで来るのか分からなかったが、後で分かった事だが、現地人のゲリラが米軍の手伝いをしていて、橋の近くに探知機を埋めてあり、そこから後方の陣地にいる米軍に無線で知らせていたのであった。

     上陸して数日後、中隊では最初の戦死者が出てしまった。

     同年兵の香取君がファトンで敵の迫撃砲にやられたのであった。我々は道路の右側のヤシ林の中に穴を掘り彼を埋めた。東京出身で入隊前は自動車関係の仕事をしていたらしい。

     今夜はオルモックから食料輸送だとなると、積み込むのは煙草、乾パン、黒いゴム袋に入った飲料水、溶かして食べる餅のような物であったが皆、心「さわさわ」で落ち着かなかった。

     各車ニ百メートルほどの間隔をとり、リモン戦闘司令部へ運ぶのだが、
    出発して間もなく、助手の栗原(ヒモでくくってある眼鏡をしているので、大久保彦左衛門のようだった)が荷台に乗り、煙草の梱包の中から数箱取り出したりしていた。

     或るときは乾パンの箱からこんぺい糖の袋だけを取ったり、米も二人が充分に食べられる分だけを抜き取り、運転席の座席の下の僅かな隙間に保管したり、石油缶の中に入れて外部に吊るしたりして保管していた。

     また、或る時は、野砲隊への弾薬輸送で十センチ砲や十五センチ砲の弾薬を積載して、日中、米軍機の飛来する合間を見ては、ヤシ林の中にいる野砲の陣地に人力で大砲を輸送していた。(日本軍の大砲は旧式の木車で運搬が難儀であったが、米軍の大砲はゴムタイヤであった)

     野砲の兵士が「明日から大砲を撃つので、どんどん持ってきてくれ」と言うので、 「よしきた!」とばかりに翌日の夜に持って行くと、攻撃を受け、昨日とはあたりがすっかり変わっている状況で、その隊は誰もいず、積んできた大砲をその辺の草むらに降ろして来るような事が多々あった。日中、米軍の偵察機に発見されたのであろうか。

     とにかく、米軍との兵器装備の差が歴然である事は明瞭であったが、日本軍が負けるとはまだ夢にも思っていなかった頃だった。

  • 「レイテの決戦」

      松山 平治さん

    ◆『第一師団は第三十五軍司令官鈴木中将の指揮に属し、レイテ決戦に参加せよ』
     レイテへの決戦参加、まさに陸兵の本領である。築城材料はいらない。
    弾薬、糧秣だけの身軽になって前進するのだ。任務は確定した。

     しかも、急ぐ。積み換えに三日間もかかってようやく十月三十日夜、船団はマニラ出港、直路全速力で突破、昭和十九年十一月一日、名前も位置も知らなかったレイテ島西南岸オルモックに無事到着、直ちに上陸を開始した。

     思えば上海出港以来十九日、よくも無傷で、敵潜水艦跳梁の魔の海を乗り切れたものである。

     ひとえに海軍護衛艦隊(松山少尉)の慎重、適切、苦心誘導のお陰と言わねばならぬ。

     レイテ島は、第十六師団が主力をもってその東海岸に堅固な陣地を構築して守備していた。

     フィリピン本土のルソン島に進攻するかに思えたマッカーサー元師の率いる米軍(七師団)の大輸送船団は、セブ島の目前にあるレイテ島の守備手薄とみると、 昭和十九年十月十七日突如レイテ島に進入し,海軍の猛撃をもって第十六師団の陣地を粉砕して上陸を開始した。

     米軍の戦闘態勢は、ハルゼー艦隊に護られたマッカーサー軍十五万人の兵士と、百五十万トンの装備、二十三万トンの戦闘車両、さらに二十万トンの弾薬を満載した、実に六百五十隻の艦船軍であった。

     その時、レイテ島を守備していた日本軍は、第三十五軍鈴木中将指揮下の牧野中将の率いる 垣兵団とよばれていた京都の第十六師団、兵力八千人の一個師団だけであった。

     かくして第一師団がレイテ島主力兵団として、オルモック湾に上陸することとなった。 時まさに、昭和十九年十一月一日。

     そして、その年の十二月半ばを迎えた時には、相次ぐ米軍の猛反撃を受け,ずぶ濡れの雨の中、 五十余日間にわたる血と鉄のるつぼの中で、第一師団総員一万三千人の将兵は、 文字通り勇戦果敢、ついに全滅に近い悲運を招いたのである。

     あの緑色に輝いていたレイテ島は、やがて、全島悲劇の島となった。

  • >>14341

    >要は当時の新聞やラジオが軍人どもがおっぱじめようとする
    >対米戦に対して本当に納得して対米戦やむなしとしたか?だなあ。

    納得も何も、国民が開戦を望んでいたのだよ↓

    「戦争を礼賛すればするほど、よく売れるのである。」(田原総一郎)
    http://taharasoichiro.com/cms/2011/03/02/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E7%86%B1%E7%8B%82%E3%81%97%E3%81%9F%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA/

  • >>14356

    (ニ)「ニューギニア」地区の作戦遂行に方り「マラリア」浸淫は作戦部隊の能力を低下せしむること著しきものありしを以て部隊定員外者の増加勤務労力の増強防疫指導班の派遣等の措置を講じ戦力の維持増強に努めたり

    (ホ)南東方面戦局時日の経過と共に非なる形勢に基づき西部「ニューギニア」「モルッツカ」方面(所謂壕北地区)の戦備増強の要認め既に南方軍に対し「ハルマヘラ」島付近に基地の設定を指導しありたるも大本営に於いても逐次これが研究を促進する所ありたり

    太平洋戦争 (ニ)「ニューギニア」地区の作戦遂行に方り「マラリア」浸淫は作戦部隊の能力を低下せしむること著しきも

  • 南方方面
    (イ)南東方面に於いては作戦突端地区に於ける彼我航空海上勢力の懸隔は作戦補給の実施を愈々困難ならしめ之が為「ガダルカナル」「ブナ」地区「ムンダ」地区等逐次撤収作戦の余儀なき至った
       右の状況に處し之等突端地区に於ける補給確保の為陸路設定(例「ラエー」-「マダン」道、「ニューブリテン」縦貫道等)補給用船艇自衛措置(対魚雷艇火器装備修理力増強)等促進の為諸材料部品軽火器等の追送に関し大なる努力を傾注せり

    (ロ)又「ラバウル」は南東方面唯一の戦略拠点たるの特質に基づき特に之が敵中孤立の場合に於いても尚自給自足戦力を保持せしむるの緊要なるを認め作戦資材の緊急集積増加を決定し(少なくも当時集積せられありし作戦資材の倍量の集積を目途とし○二輸送と称せり)八月末より之が実行に着手し十一月中旬に亙これが完成を見たり
       本作戦資材の増加集積は現地自給の根幹と共に爾後に於ける「ラバウル」自給の根幹となり終戦に及ぶ迄敵中孤立の戦略拠点としての任務を果たし得たり

    (ハ)自給施策の一環として「ラバウル」兵額整理の件研究せられたるも一面防禦兵力増加の要求もあり実質的に大なる進展を見ずして終われり
       唯「ガダルカナル」撤収部隊中第三十八師団の現地再建の外は左の如く他方面転進又は復員を実施せられたり
       第二師団 直ちに比島転進再建の上南西方面へ
       第三十五旅団 直路「ビルマ」へ
       南海支隊   在「ビルマ」長隷下へ
       一木支隊   内地帰還復員
       昭和十八年三月に於ける南太平洋平坦配置図の大要別表の如し

  • ノツクス、アツツ島戦況を語る UP=ワシントン十四日発 米海軍長官フランク・ノツクスは十四日記者団会見に於てアツツ島上陸作戦に言及、記者団との間に左の如キ一問一答を行つた。 記者 アツツ島の戦況はどうか。 ノツクス アツツ島に於ける米軍の攻撃は非常にうまく進渉している。同島攻撃は重要な戦略的意義を有するもので、ガダルカナル島上陸作戦の場合と同様上陸作戦には米マリン部隊が使用された。 記者 一週間前アツツ島東方二百三十三哩の地点に在るアムチトカ島の占領は太平洋に於ける米軍の広範なる攻勢計画の一部をなすものであるか? ノツクス 敵領土を占領することは即ち攻勢作戦・・・

  • ガダルカナルノ勇士大モテ (ヒートレーキ@三月十三日二十一時) @ 前世界軽量挙党手バーネー・@@@ニ対スル 受付式デ紐育ノマジソン・スコヤ・ガーデンハ大入満員ヲ呈シタガバーネー・ロスハグワダルカナルノ勇士デアリ又赤十字社ノタメニ国内行脚ヲヤツテ赤十字社カラモ表彰サレタコトモアル

  • 日本軍ノガ島撤退ハ濠州攻撃ノ準備ナリトテ只管国土防衛ニ専念シアリト(ソートレーキ・二月十日二十一時) @濠州ハ日本軍ガダルカナル島撤退ノ快報ヲ外目ニ只管国土防衛ニ専念シテイル、数時間前陸相フオードハ「日本軍ハ何処カニ復々兵力ヲ集注シテ居リ、恐ラク我々ノ全ク思ヒモ寄ラヌ所ヘ攻メテ来ルノデナイカト思ハレル」ト述ベタ、ガダルカナルトニユーギニアデハ日本軍ハ敗退シ去ツタトハ言フモノノ東條ハ此ノガダルカナルトニユーギニアノ作戦ハ第二義的ノモノデアルト言ツテイル、処デ日本ガ新ニ出テントスル作戦ハ連合軍ニハ厄介ダラウ、併シ連合軍ハ此レニ対シテハ周到ナル準備ヲシテイル、ガダルカナルノ米海兵隊ハ守勢ト言フ優位ニアツタカラ日本軍ヲ旨ク撃退出来タノデアル、東條ノ所謂日本ハ今ヤ守勢ニアルト言フノガ事実ダトセバ米軍ニハ厄介ダロウ

  • 日本軍ノガ島ニ対スル攻撃次第ニ熾烈化ス(ソートレーキ・二月五日夜) @米海、空軍ハ日本軍施設ニ対スル攻撃ヲ続行シテイルガガダルカナル島米軍陣地ニ対シ日本軍ノ攻撃ハ次第ニ激化シテ来テ居リ、日本軍ハ恐ラク増強サレテ同島カラ米空軍勢力ヲ駆逐シヤウト企@シテイルモノト看ラレル

  • >>14349

    アッツ島(英: Attu Island)はアラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島。

    ↑アッツ島やキスカ島というアメリカ領土を日本軍は占領した。

    アメリカ領土を占領したのは、日本国のみ。

  • 「ガダルカナル撤退援護作戦始まる」

       堀 泰明さん

     我々が宿舎作りをしている間も作戦は進行していた。

     陸軍の1式戦闘機(隼)は74機の大集団でガダルカナル島への出撃を繰り返していたが、敵の反撃も激しく6機が未帰還となり、我が戦隊の 佐藤軍曹もこの日ついに帰らなかった一人であった。

     彼は敵機グラマン戦闘機を海面すれすれ迄追いかけていたのだが、その直後、彼も海面へ突っ込んだのを見たとの報告を聞いた。

     彼は少年飛行兵出身で23歳になっていた。満州孫山の原隊での外出では、ハルピン市街のキリイスカヤ通り横丁にあるおでん屋(千里十里)へ連れて行ってくれた。

     福岡県浮羽郡出身の彼は(千里十里)の女将に郷愁を感じていた。

     私も九州を懐かしみながら楽しんだものだ。

     彼は我々の上官として威張ることはなかった。福岡の話などを友達と しての立場で付き合ってくれ、飛行服飛行帽の良く似合う美少年であ った。

     そんな彼が1942昭和17年8月期、バレンバンでの機種改変の頃から、頭の毛が抜け始めた。

     その後どんどん進行してラバウルへ着いた時はすっかり、丸坊主頭になっていた。

     彼はこの事を気にして飛行帽を脱がなくなっていた。 多少やけ気味になる程悩んでいた。

     グラマン戦闘機への深追いはこんな気持ちのなせる技としか思えなかっ た。

     彼はノモンハン事件以来の戦闘経験豊富なパイロットで、戦隊でも一番の戦闘機乗りであった。

     敵を追って海へ突っ込む程未熟ではないのである。

     1943昭和18年1月27日佐藤軍曹は戦死したが、私の25歳の誕生日であったので忘れる事はない。

     佐藤軍曹の故郷は、浮羽郡とだけで詳細の場所は分からないが、柿の実る 頃になると、美少年の彼がにっこり笑う姿を思い出す。

     ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)は、2月1日駆逐艦20隻の海上 援護と陸海合同の防空によって第一次引き揚げに成功した。

     続いて2月4日、第二次撤収が始まり巡洋艦1隻、駆逐艦20隻の援護で夜間の収容に成功したが、基地からの夜間出撃も活発であった。

     2月7日第三次撤収作戦が行われ、一万三千名の陸軍将兵がラバウルへ 集まった。

  • >>14348

    >当時米国では大騒動になって、終戦迄国民には知らされなかった。

    確かにそうだねえ。でその効果はNYの高層ビルディングを破壊するより、
    はるかに物凄いものだったんだろうねえ。ニャンコ君にかかっては、
    旧日本軍の風船爆弾も広島長崎に投下された原爆以上の効果を米本土で
    上げて、米国民はパニックとなった。と言いそうだなあ。^^;

  • >>14345

    >米本土の攻撃したのは、世界広と雖も日本軍だけ。

    そうかそうか、イ号潜水艦搭載の小型機による米本土爆撃を指しているんだね。偉いぞ、ニャンコ君。
    しっかし相変わらず無知丸出しだなあ。イスラム過激派による米同時多発テロ。これがチミのおちゅむ
    には存在しないようだなあ。で、どちらの方が現実に米本土攻撃に多大な影響を与えたかね。^^;

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