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  • >>396

    この日、色々な色の落ち葉が流れて行くのを見ながら、秋が深まっていくのだなあ。。。と思いましたね。

    そんな思い出ですね。。。

  • >>395

    このお寺で働いている人の感じが皆さんとても良くてね、出口に靴ベラが綺麗に並べられていてね、凄くもてなそうとしている感じが感動しましたね。。。

    そんな思い出ですね。。。

  • >>390

    この写真の右側のおばあさん二人は、お互いに、自分で撮った携帯電話(スマホじゃないよ。)の写真を見せ合っていたんですよね。それが、ほのぼのとした良い感じでね。写真を撮らせて頂きました。。。

    そんな思い出ですね。。。

  • これは、永観堂(禅林寺)かな。

    永観堂は、863(貞観5)年に公家の藤原関雄(ふじわらのせきゆう)が所有する別荘を弘法大師の弟子であった真紹僧都(しんじょうそうず)に寄進したことが始まりとされています。

    その藤原関雄は「古今集」に『おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし 照る日の光 見る時なくて』という歌を載せていますが、その歌にある「岩がき紅葉」は、今も境内の奥にそびえる東山の斜面にしっかりと根を下ろし、秋になると真っ赤に色づきます。この「岩がき紅葉(もみじ)」が既に「古今集」にあるということは、永観堂は創建当時から紅葉で有名なお寺だったということです。お寺の歴史よりも古い紅葉があることも、“もみじの永観堂”と呼ばれる由縁なのでしょう。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、永観堂(禅林寺)かな。  永観堂は、863(貞観5)年に公家の藤原関雄(ふじわらのせきゆう)

  • これは、永観堂(禅林寺)かな。

    「 みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にいくしるべなりけり 」 千載集より

    と詠まれた永観律師(ようかんりっし 1033-1111)はことに高名です。律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、多くの史書にみえるところです。永観律師は幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになりましたが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選びます。18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたといわれています。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来しています。
     永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都です。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133-1212)の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依されました。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177-1247)に譲りました。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201-1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となりました。以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています。
     歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見ますが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?-1881)は社会福祉事業に貢献されました。師は京都府立病院の前身にあたる療病院を設立されました。
     永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたからです。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられています。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、永観堂(禅林寺)かな。   「 みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にいくしるべなりけり 」 千

  • これは、永観堂(禅林寺)かな。

    おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし
    照る日の光 見る時なくて   「古今集」

     この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょう 797-873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿三年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、“モミジの永観堂”として千百有余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。 真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まります。創建にあたって、真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に、「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい。」と照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げられたので、風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多く見ることとなりました。
     永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし 1033-1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代です。次は永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず 1166-1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。


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    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、永観堂(禅林寺)かな。  おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし 照る日の光 見る時なくて   「

  • これは、永観堂(禅林寺)かな。

    禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。

    禅林寺12世の僧都・静遍(1166年 - 1224年)は、当初真言宗の僧であったが、後に法然に帰依し、念仏門に入った。法然の高弟の証空(西山)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は真言宗から浄土宗西山派(小坂流)の寺院となり、揺るぎのない念仏道場とされた。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、永観堂(禅林寺)かな。  禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿

  • これは、永観堂(禅林寺)かな。

    空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

    当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(1033年 - 1111年)の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士の源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、永観堂(禅林寺)かな。  空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立

  • これは、永観堂(禅林寺)かな。

    禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、永観堂(禅林寺)かな。  禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺

  • これは、比叡山かな。

    比叡山(ひえいざん)とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る[1]。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。

    比叡山は、京都市の東北、京都・滋賀県境に位置する、標高848mの山である。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきた。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、比叡山かな。   比叡山(ひえいざん)とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山

  • これは、比叡山延暦寺かな。

    比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。

    その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。

    さらに明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えて現在に至っております。

    信長焼き討ち以後、千日回峰行や12年篭山行も復興されています。また昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、比叡山延暦寺かな。  比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えています

  • これは、比叡山延暦寺かな。

    比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。

    最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。

    最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。

    特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、比叡山延暦寺かな。  比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として

  • これは、比叡山延暦寺かな。

    百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。

    それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。

    また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。

    比叡山へは、ケーブルやドライブウェイも完備し、諸堂拝観はもとより、自然散策や史蹟探訪にと気軽に親しんでいただくことができます。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、比叡山延暦寺かな。  百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山

  • これは、比叡山延暦寺かな。

    延暦寺と言えば最澄が建てた一乗止観院(根本中堂)に始まり東塔(阿弥陀堂、文殊楼、萬拝堂、明王堂)、西塔(転法輪堂、浄土院、にない堂)、横川(よかわ)(横川中堂、元三大師堂)を合わせて延暦寺と言います。854年円仁和尚が第3世座主になりました。円仁は12年間も唐で学んだ高僧でしたが864年10年間座主を勤めた後入滅しました。866年には最澄に伝教大師、円仁には慈覚大師の号が贈られています。歴遊会第88回例会で行った赤山禅寺も慈覚大師円仁の遺命によって創建した寺なのです。

    延暦寺では忘れてならない2つの事件ありました。 一つは智証大師円珍と慈覚大師円仁の門徒の争いです。もう一つは織田信長による焼打事件です。

    貞観年間(859~877)に智証大師円珍が園城寺を天台別院として中興しました。そして円珍の入滅後の事なのですが延暦寺座主良源と園城寺座主の余慶の間だが怪しくなってきたのです。993年(正暦四)年、智証大師円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、ついに円珍門下は比叡山を下り一斉に園城寺に入りました。そして延暦寺の衆徒が園城寺の千手院に火を掛けるまでになってしまたのです。この時から延暦寺を山門(さんもん)、三井寺を寺門(じもん)と称しそれぞれ僧兵を増やし天台宗は二分されてしまったのです。この後の延暦寺は園城寺のみならず南都の寺院とも争いが始まり、また、日枝神社の御輿を担いで朝廷にも強訴を繰り返しました。奈良の興福寺の僧兵も平安京で大暴れ。白川上皇の有名な、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という言葉はこの頃のことなのです。こういう荒れた世の中で園城寺も延暦寺も焼失していくのです。1100年代後半になると治外法権、無法地帯と言ってもいいでしょう。清少納言・紫式部の時代から平清盛の時代に入ってしまったのです。
    そして慧眼を持った僧達は延暦寺から去っていったのでした。 法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍これら宗祖が排出されたのはこの時代の特徴だったのでしょう。

    鎌倉、南北朝、室町と時代は過ぎ、戦国の世の中になってきます。延暦寺は織田信長と対立し朝倉義景と手を結んでいた。そのため、1571(元亀2)年信長により比叡山焼打に合い堂塔伽藍は焼け落ちてしまったのです。延暦寺の再興は豊臣秀吉、徳川家康の経済的補助により進められたのである。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、比叡山延暦寺かな。   延暦寺と言えば最澄が建てた一乗止観院(根本中堂)に始まり東塔(阿弥陀

  • これは、比叡山延暦寺かな。

    比叡山では鑑真が唐からもたらした「天台止観法門」、「法華玄義」、「法華文句」、「小止観」、「金光明経」等天台関係の書物を学んだのです。 時は光仁天皇の時代から桓武天皇の時代に移っていきます。都が平城京から長岡京、平安京へと移っていったときです。当時、井上内親王、他戸親王、早良親王と何か事あるごとに祟りが信じられていた頃です。遷都が行われた平安京は藤原小黒麻呂の調査で風水と方位を司る四神相応の都であるとされ、東の青龍(鴨川)、西の白虎(山陽道・山陰道)、南の朱雀(巨椋池)、北の玄武(北山)が自然に配備されていたのです。ここで神門は愛宕山、鬼門は比叡山だったのですが、この鬼門に当たる比叡山に一乗止観院を建てていたのが最澄だったのです。

    昔、昔、旅行をしました。そんな思い出ですよ。 これは、比叡山延暦寺かな。   比叡山では鑑真が唐からもたらした「天台止観法門」、「法華玄義」、「法

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