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    pureheartde1001 10月2日 08:42

    ご冥福をお祈りいたします。

    >>>仏シャンソン界重鎮、94歳アズナブール氏死去

     AFP通信は1日、フランスのシャンソン界の重鎮シャルル・アズナブール氏が南仏アルピーユの自宅で死去したと報じた。94歳だった。

     1924年、アルメニア系移民の子としてパリに生まれた。幼少期から俳優や歌手を志して舞台に立ち、20歳代前半で伝説的な仏女性歌手エディット・ピアフに認められ、脚光を浴びた。

     シンガー・ソングライターとしての才能を発揮し、「ラ・ボエーム」「ラ・マンマ」「世界の果てに」などシャンソンの名曲を次々に世に送り出した。作曲数は1400以上に上り、世界で約1億8000万枚のレコード・CDを売り上げた。俳優としても活躍し、「ピアニストを撃て」「ブリキの太鼓」など60本以上の映画に出演した。

     アズナブール氏は9月に来日公演を行ったばかりで、17日の東京公演では20曲以上をドラマチックに歌い上げた。公演終盤でもステージ上を元気に歩き回り、聴衆を沸かせた。

    2018年10月02日 01時10分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

  • >>1333

    一方、マーラーはその一徹な性格から、周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時に当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。

    なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している。
    “マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”

  • >>1333

    グスタフ・マーラー

    グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。

    出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている。

    酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった。しかし本人はあまり酒に強くなかった。

    アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

    マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらにも大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき、そのことについて後年までマーラーに感謝していた。そのほか、ウィレム・メンゲルベルクやオスカー・フリートといった当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでもメンゲルベルクはマーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した。

  • >>1333

    2018-9-10

    今日も、マーラーの6番を聴いております。CDです。指揮者は、クラウディオ・アバドです。昨日と同じオーケストラは、ベルリンフィルです。昨日と違う感動があります。。。

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    クラウディオ・アバド

    クラウディオ・アバド(またはアッバード、Claudio Abbado, 1933年6月26日 - 2014年1月20日)は、イタリア、ミラノ出身の指揮者。

    楽曲解釈は知的なアプローチをとるが、実際のリハーサルではほとんど言葉を発さず、あくまでタクトと身体表現によって奏者らの意見を募る音楽を作っていくスタイルだという(エマニュエル・パユなどの証言)。比較的長めの指揮棒でもって描かれる曲線は力強くかつ繊細であり、自然なアゴーギクとともに、色彩豊かな音楽を表現するのが特徴である。

    同郷のピアニスト、ポリーニとの長きにわたる交友関係でも知られる。それぞれに現代最高の音楽家の一人として大成した両者の共演による諸作曲家のピアノ協奏曲の演奏・録音は、ひとつの音楽的方向性における頂点を描き出しているといってもよい。また、マルタ・アルゲリッチとも多くの録音がある。原典版の「禿山の一夜」や「ボリス・ゴドゥノフ」やショスタコーヴィチ版の「ホヴァーンシチナ」のレコーディングを行うなど、ムソルグスキーフリークとしても有名である。

    一時期不仲が伝えられたリッカルド・ムーティとは、音楽祭や若手オーケストラを通じて交流が始まり、お互いに尊敬の念を伝え合うなど関係は良好であった。ヴァイオリニストのクレーメルとは相性が悪かったらしく、クレーメルの自伝の中で、アバドとマゼールは無能扱いされている。オペラ監督のダニエル・アバドは息子、指揮者のロベルト・アバドは甥である。一時期ヴィクトリア・ムローヴァと不倫関係にあり、ウィーンで4年間生活を共にしていた。ムローヴァとの間に男児がいる。

    生涯プッチーニの作品は演奏しなかったが、その理由として、2003年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した際の記者会見で、「プッチーニが嫌いなわけではない。ただ、私は革新にひかれる」と答えている。

  • >>1333

    2002年、クラウディオ・アバドの後任として、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任した。ラトルはベルリン・フィルの若年層の聴衆および音楽人開拓のための活動である「Zukunft@BPhil」に取り組み、その一環として映画『ベルリン・フィルと子どもたち』を制作した。こうした青少年育成活動は高く評価され、2005年にドイツの教育分野で権威ある賞であるシラー賞を受賞し、2007年にテレビ雑誌 "Hörze" から「ゴールデン・カメラ」を授与されている。一方でラトルは、古典音楽に対するオーセンティックな演奏に対しても活動の幅を拡げ、古楽の演奏団体であるエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団に客演している。2004年のBBCプロムスでは、同団と共にワーグナーの『ラインの黄金』を演奏会形式で上演し、その後『ニーベルングの指輪』にも取り組んでいる。2012年7月にはロンドン五輪の開会式でロンドン交響楽団を指揮し、映画『炎のランナー』のテーマ曲を演奏、ローワン・アトキンソン演じるMr.ビーンと共演した。

    2013年1月11日(日本標準時)、バイエルン放送が、ベルリン・フィルの首席指揮者を2018年をもって退任すると報じた。ベルリン・フィルも1月10日の日付で2018年での任期終了を発表している。同年9月7日、イギリス高級紙『タイムズ』は、2018年にラトルがロンドン交響楽団の首席指揮者に就任するだろうという見通しを記事にした。2015年3月3日、ロンドン交響楽団はラトルが2017年9月に同団の音楽監督に就任する予定と発表した。

    2017年9月にロンドン交響楽団音楽監督に就任し、2018年7月現在に至る。

    妻はメゾ・ソプラノ歌手のマグダレーナ・コジェナー。

  • >>1333

    サイモン・ラトル

    リヴァプール生まれ。幼い頃からピアノと打楽器を学び、イングリッシュ・ナショナル・ユース管弦楽団では打楽器奏者を務めた。1971年にロンドンの王立音楽アカデミーに入学し、指揮を学んだ。1974年、ジョン・プレイヤー国際指揮者コンクールに優勝し、ボーンマス交響楽団およびボーンマス・シンフォニエッタの副指揮者に就任した。以後イギリスの主要なオーケストラを指揮し、1977年には、ヤナーチェクの『利口な牝狐の物語』を指揮し、グラインドボーン音楽祭に最年少でデビューした。

    20代前半から既にヨーロッパ各地のオーケストラに客演し、様々なオーケストラからの主要ポストの申し出を受けたが、1980年に自国のバーミンガム市交響楽団の首席指揮者に就任した。ラトルの就任当時には決して国内的・国際的知名度が高いとは言えなかったこのオーケストラを、徐々に世界的なオーケストラに育て上げた。1990年には同オーケストラの音楽監督に就任した[1]。同団との来日も数度果たしている。一方、1979年にロサンジェルス・フィルハーモニックを指揮してアメリカ・デビューを果たし、1981年から1994年まで同楽団の首席客演指揮者となっていた。1984年に大英帝国勲章コマンダー(CBE)に叙された。1994年、30代の若さでナイトに叙され、サーの称号を得た。1996年に放送されたテレビ番組『故郷を離れて』では、最も優れた芸術番組に与えられる BAFTA賞を受賞している。また、1999年にはバーミンガム市交響楽団との長年にわたる活動に対して "South Bank Show Awards" の "Outstanding Achievement" が贈られた。

  • 2018-9-9

    昨日の夜、テレビを見ていたら、サイモン・ラトルが出ていて、その後にマーラーの6番が演奏された。オーケストラは、ベルリンフィルでした。凄く感動しましたね。。。

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    サイモン・ラトル

    サー・サイモン・デニス・ラトル(Sir Simon Denis Rattle OM CBE, 1955年1月19日 - )は、イギリスの指揮者。2002年9月から2018年6月までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を務めた。2017年9月からロンドン交響楽団の音楽監督を務める。

  • ご冥福をお祈りいたします。

    >>>「ソウルの女王」アレサ・フランクリンさん死去

     AP通信によると、米音楽界を代表する黒人女性歌手で「ソウルの女王」と称されたアレサ・フランクリンさんが16日、ミシガン州デトロイトの自宅で死去した。76歳だった。膵臓すいぞうがんを患っていたという。

     米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を何度も受賞。2008年に米音楽雑誌「ローリングストーン」が選んだ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で1位に選ばれた。

     テネシー州メンフィス生まれ。父が牧師を務める教会で、子どもの頃からゴスペルを歌っていた。1961年にデビュー。圧倒的な歌唱力を誇り、オーティス・レディングの名曲「リスペクト」のカバーで、67年に全米1位を記録し、「ソウルの女王」としての地位を不動のものにした。

    2018年08月17日 01時02分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

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