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《万葉集最難解歌》
莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 吾瀬子之射立為兼五可新何本 推古太上天皇(巻1・9)
【訓訳】纏まりし兄星(ゑぼし=大相七星・北斗七星・大海人皇子軍)爪弾け
吾【北極星・天帝 推古太上天皇】が背子(カシオペア座・有馬皇子)は
射立ち為しけん(反抗した)有馬皇子だった事よ!
推古太上天皇
(鳥翔成)鳥【統治者(有間 or 有馬 皇子)】となりて あり通ひつつ見らめども
人こそ知らめ松【物部系(夏)】は知るらむ 憶良(巻2・145) -
>>101
227644 gin***** 3月12日 06:07
>>227643
>>227640 素晴らしい着想ですよ~う。
が、削除されてしまったのて。どこが素晴らしい着想なのか、知る由も無い!
また、
邪馬台国は近畿?九州?どこにあったの? 実は~ とのスレも新しく出来たようだが、
邪馬台国論争が好きな人集まれ!! があるのだから、ことさら邪馬台国問題のスレを作る必要は、無い!
結論から言おう!
邪馬台国【正しい読みは、君臨者・臺与の 邪馬臺(→ やまと)國】の発祥地は、
【魏帝・曹芳に認められた、トカラ列島の宝島(君が代に謳われた、観音堂大鍾乳洞)あり】である!
そこには、「倭が君は(明治以降は、君が代は~)」である!
(倭が君は~・清少納言 作→) 君が代は(明治時代に、大山 巌 日本陸軍元帥が改作)
千代に八千代に細石の磐をとなりて苔の結まで……(倭が君は~君が代は)の君・君臨者と、
当時からの、観音堂大鍾乳洞(に擬えて、国歌・君が代)を謳っている!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BE%E4%B9%B3%E7%9F%B3 -
どうしようもない歴史音痴の▼無知アホ糞馬鹿 呂湏麻里は来なくなったようだな!(笑)
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このトピの参加者は、▼無知アホ糞馬鹿ばかりである!(笑)
万葉集の歌は、殆どが和歌(寓喩を伴った文学)である!
それに対して、短歌は、寓愉の無い単なる文芸である!(笑) -
『塵の細道』 破風
政(まつ)り事は惨代の過客にして、
行きかふ賄賂(わいろ)もまた政治屋へ、なり。
税の上に障害を浮かべ、
民は小銭失なひ、老ひを向かふる者は、
日々病ひにして病ひを栖(すみか)とす。
今し人も多く税に死せるあり。
余もいづれの年に寄りてか、塵雲の風に誘はれて、
臨終の思ひ止まず、奈落の底に流離(さすら)ひぬ。
去年(こぞ)の秋、廃屋に蜘蛛の巣をはらひて
年の暮れには宝くじ買ふも紙くずと化し、
貧乏神の憑(つ)き纏(まと)ひ、心狂はせ、取る物手に付かず、
もゝ引の破れを綴(つゞ)り、破れ笠の緒付け変へて、
三里に灸すゆるより、
住まる方は人に譲りて、すきま風が荒れ野にすさぶにつけ、
破れ戸も崩れ落つ代ぞ《塵の家 破風
E-0304 SM 妻たちの性体験
E-0011 Winny流出1 恋人編 -
賢い者は、居ないのか?
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「星は すばる」……清少納言。
「星【貴族〔達〕】は■統ばる【統治者】
↑
闕字〔一字開ける〕 -
「和歌」は、【寓意(寓喩)のある 文学】、「短歌」は、【寓意(寓喩)のない 文芸】。
この世をばわが世とぞ思ふ望月【統治者(の権勢)】の欠けたることのなしと思へば 藤原朝臣 道長
月【統治者】をこそ眺めなれしか 星【貴族達】の夜の深きあはれを今宵知りぬる 建礼門院 右京大夫 -
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>この歌も知ってはいますが、「さゐさゐ」ではありません。
そうですか。ありがとうございます。
銀河さんとは歌の受け取り方がちがっていそうなのでこの辺で失礼します♪ -
私の HN は、銀河 秋彩(または、彩星)です。
珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず来て思ひかねつも
この歌も知ってはいますが、「さゐさゐ」ではありません。
『万葉集』(巻一・一)の「雑歌・雄略(即位)歌」は、
【裏】に隠された、【大津皇子即位歌(諡号は、雄略天皇=聖徳太子)】。
【裏意(真意)訳】=和歌山の古代史家・宮本八束氏の吏読(イドゥ 或いは リト)訳。
●【国盗り歌(裏意・真意訳)】
「至急告知するぞ。知りて服し仕えよ。世の人を安堵せしめる泊瀬朝倉の
高御座(たかみくら)に至急服し仕えよ。汝、臣民よく聞け。
この大和の国に、法令によって我は王座にある。我こそは天皇なり……」 -
こんにちは。はじめまして。
ぎんがさいさいさんの、「さいさい」は
珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず来て思ひかねつも
もしかして「さゐさゐ」ですか?
少し驚いてしまいましたが、今のところ私には同一人物には思われません。
太泊瀬雅武天皇
籠もよ み籠持ち、掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒 家聞かな 告らさね そらみつ大和の国は おしなべてわれこそ居れ しきなべてわれこそ座せ われにこそは告らめ 家をも名をも
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
家にあらば妹が手纒かむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ
近江の荒れたる都を過く時、柿本朝臣人麿がよめる歌
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひしりの御代よ
生れましし 神のことごと 樛の木の いや継ぎ嗣ぎに
天の下 知ろしめししを そらみつ 大和を置きて
青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしけめか
天離る 夷にはあらねど* 石走る 淡海の国の
楽浪の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ
天皇(すめろぎ)の 神の命の 大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども 霞立つ 春日か霧れる
夏草か 繁くなりぬる ももしきの 大宮処 見れば悲しも
反歌
楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大曲淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
大津皇子
あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに
大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね -
『(同一人物)人麻呂公・雄略天皇(聖徳太子 )&行基・聖武太上天皇(大津皇子)の一代記』
① 西暦660(斉明六)年生誕「厩戸皇子(聖徳太子)」=「(御所ケ浦島で生まれた)浦島子」
=【父・天智系弘文天皇は、「壬申の乱」で天武側の物部麻呂に殺される。母方の家に預けられる】
=【母・推古太上天皇の葬儀の際に、出家した大津皇子(鳥仏師・大臣仏師・元興寺の僧)】
=【天武(崇峻)を弑逆し、摂政太政大臣雄略天皇(最初の即位・上宮法皇)】
=【天文遁行に優れていた(天武条下巻は、雄略天皇条)、久米(仙人)禅師、役行者、】
=【家持の言う「山柿の門」の人麻呂&赤人&憶良・時代別の同一人物】
=【(雄略&人麻呂)の恋人桜児(鵜野讃良皇女)、藤原不比等へ走る】
=【大伴宿禰旅人に借名の聖武太上天皇。
~ 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 行幸の宮 (巻三・三一八)】
=【西暦702年渡唐。遣唐大使より格上の節刀使・粟田真人(弁正=行基)】
=【また、法師≪弁基≫=還俗して≪春日蔵≫首老として渡唐、弁正(小弁)として、玄宗と囲碁を打つ】
② 渡唐時に、天竺(インド)まで行って還って来ている。
南天竺より東大寺供養にあひに、菩提が渚に来着きたりける時、【聖武太上天皇が】詠める
霊山の釈迦の御前に契りてし真如朽ちせずあひ見つるかな 1348『拾遺和歌集』
返し 婆羅門僧正【菩提僊那=大仏殿に向かって右入り口横の、びんつる長者】
迦毘羅衛(かぴらゑ)に共に契りしかひありて文殊の御顔あひ見つるかな 1349
③ 【唐から帰国後、持統(桜児)挽歌の、泣血哀慟歌(巻二・二○七~一九)を読む】
=【長屋親王を自頚させた囲碁相手・中臣宮処東人(藤原南家武智麻呂)を斬殺した、大伴小虫】
=【西暦740年、中臣朝臣宅守として佐渡流罪。】
天の川安の川原に定まりて神し競へば麻呂待たなくに 人麻呂歌集(巻10・2057)
この歌一首は、庚辰の年(西暦740年)に作る。
それを知っていた芭蕉は、
「荒海【安羅の海人】や佐渡に横たふ【佐渡流罪】天の川【泉郎の大津皇子】」と詠む -
『(同一人物)人麻呂公・雄略天皇(聖徳太子 )&行基・聖武太上天皇(大津皇子)の一代記』
④ 【元正太上天皇から譲位(二度目の即位)三年間の税免除・聖武太上天皇(行基・沙弥勝満)大仏殿建立】
=【西暦755年、藤原(南家=物部氏)仲麻呂謀反に依り、隠岐島(終焉地)流罪の麻績王(人麻呂)】
=【西暦759(天平宝字三)年、人麻呂や最終歌の家持(に借名の、聖武)終焉地隠岐島にて、死没】
=【西暦759(天平宝字三)年、家持として、『万葉集』最終歌かを謳い、『万葉集』を閉じる】 -
原文: 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓み:山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも
長田王(人麻呂公・聖武太上天皇)
当時の(孝徳天皇を祀った)伊勢神宮は、鹿児島県にあったと思われる。 -
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つばめさん、こんばんは
本当にお久しぶりですね♪
お声をかけていただきありがとうございます。
たいそう懐かしく、とても嬉しく思っています。
トピ主さんが戻られる日の早からんことを
祈っております。 -
【巻1-81】
原文: 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓み:山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも
長田王
山の辺の御井をみたたついでに伊勢の巫女さん??、神殿に使える乙女と出会いました・・かな?
結句の「かも」がどういう感情を表しているのか今一つ推測できない。
神聖さに動かされているのか、それとも特定の娘子に焦点が絞られているのか。
なんとも難しく考え込んだりしています。
「山辺の御井」には諸説があるが長田王が和同5年(712)に、奈良から伊勢斎宮へ行く途中に立ち寄ったと言われている。
昨年、伊勢神宮に行ってきました♪
旅路さんの書き方を踏襲してみようとしましたが、難しいものですね♪ -
旅路さん。こんばんは。
お久しぶりです。
懐かしい感じがしてついお声をかけてしまいました♪
トピ主さんが来られるといいですね♪ -
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【巻1-075】
原作:宇治間山朝風寒之旅尒師手衣應借妹毛有勿久尒
訓み:宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
長屋王
作者が旅の途中に宇治間山で朝風に吹かれて、寒さに堪えかねて詠んだ歌。
重ね着をしたいのだが衣を貸してくれる女性もいないと嘆いている。
宇治間山がどこにある山なのか判然としないが、この歌の前(巻1-074)に
文武天皇が吉野に行幸された時に從駕の人が詠んだと言われている
「み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我がひとり寝む」という
1首があるので、吉野の近傍にある山なのかも知れない。 -
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萬葉集の短歌について感じたことを記述します。
歌の批評をするのではなく、読んで感じたことを
気ままに述べるだけです。
呂須麻里