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日本の古代史

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  • 2017/05/13 02:11
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  • 日本の古代史につき考古学情報、男性遺伝子系統、文化等の面から考えてみましょう。
    ●前方後円墳、四隅突出型墳丘墓、前方後方墳、石室墓、地下式横穴墓等墓制面から
    ●神道、修験道、真言仏教等宗教面から
    ●YDMA mtDNA等遺伝子系統から
    ●三王朝交代説、騎馬民族征服王朝説等歴史面から
    ちなみに、私は日本王朝は黒竜江省嫩江上流嗄仙洞から出た鮮卑拓跋部によって開かれ、トルケスタン悦般・夕月国から入ってくる北匈奴系東胡の遺民、党項、青海羌である秦氏、蘇我氏等によって固められ、同族の隋唐の文化を吸収同期化することによって成長するものと考えています。
    鮮卑拓跋の祖は大地、土の神、黄帝を崇拝する仰韶文化の出自で商代に夏家店上層文化圏を通過しブリャート地域に三足土器とともに入り、石板墓文化を築いたもので、三韓に入るころには松花江上流・遼東小珠山文化地帯から入ってくる穢貊要素を含む積石塚文化を伴っていたとみられます。

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  • >>121

    「地球上に残っている文明」は、【神の仕業(たとえば、パルテノン神殿)】。
    「文化」は、【(神に依って造られた)人間の仕業】。

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  • 昨年11月8日(日)21:00から放送された「縄文 奇跡の大集落」を
    見返しましたが、三内丸山遺跡が一万年も続いたとすれば、人類
    (ホモ=サピエンス)の集落としては、やや疑問が残ります。
    例えば、なぜ権力が生まれなかったのでしょうか。
    そして、もっとも大きな疑問は、なぜ、文字を発明しなかったのかです。
    文明と文化の痕跡からは、知能の高さを感じます。しかし、言語の痕跡が
    見られません。
    生物学的には高度な言語を操ることができるのはホモ=サピエンスだけと
    されています。
    逆に、ホモ=サピエンスでなければ、言語を操ることができず、従って、
    文字の概念も生まれないのではないかと考えます。
    三内丸山は人類の遺跡ではないのではないでしょうか。

  • >>119

    ② 渡唐時に、天竺(インド)まで行って還って来ている。
      南天竺より東大寺供養にあひに、菩提が渚に来着きたりける時、【聖武太上天皇が】詠める
    霊山の釈迦の御前に契りてし真如朽ちせずあひ見つるかな 1348『拾遺和歌集』
      返し  婆羅門僧正【菩提僊那=大仏殿に向かって右入り口横の、びんつる長者】
    迦毘羅衛(かぴらゑ)に共に契りしかひありて文殊の御顔あひ見つるかな 1349
    ③ 【唐から帰国後、持統(桜児)挽歌の、泣血哀慟歌(巻二・二○七~一九)を読む】
    =【長屋親王を自頚させた囲碁相手・中臣宮処東人(藤原南家武智麻呂)を斬殺した、大伴小虫】
    =【西暦740年、中臣朝臣宅守として佐渡流罪。】
    天の川安の川原に定まりて神し競へば麻呂待たなくに  人麻呂歌集(巻10・2057)
      この歌一首は、庚辰の年(西暦740年)に作る。
      それを知っていた芭蕉は、
      「荒海【安羅の海人】や佐渡に横たふ【佐渡流罪】天の川【泉郎の大津皇子】」と詠む
    ④ 【元正太上天皇から譲位(二度目の即位)三年間の税免除・聖武太上天皇(行基・沙弥勝満)大仏殿建立】
    =【西暦755年、藤原(南家=物部氏)仲麻呂謀反に依り、隠岐島(終焉地)流罪の麻績王(人麻呂)】
    =【西暦759(天平宝字三)年、人麻呂や最終歌の家持(に借名の、聖武)終焉地隠岐島にて、死没】
    =【西暦759(天平宝字三)年、家持として、『万葉集』最終歌かを謳い、『万葉集』を閉じる】

  • >>117

    幻の邪馬臺国(やまとのくに)を見つけたり トカラ列島宝島とは  銀河 彩星
    「現存する倭人伝」は、陳寿 作ではなく、
    【平安時代の日本国大和朝廷(梨壺)馬内侍(清少納言)の、加筆・改竄文】である。
    その倭人伝に、伊都国(当時は港・佐賀県小城市牛津町)から、有明海を二十日南下の、
    投馬国(とまや ←さかしま語)が、【(発祥地)邪馬臺(→ やまと)国】である。
    処が、これに気づく人が、居ないのである。
    しかれども、『古今和歌集』に、次の歌(国歌)・観音堂大鍾乳洞が謳われている。
    わが君は(→君が代は) 千代に八千代に細石の巌となりて苔の結すまで  詠み人知らず
    国歌(君が代)の謳われたトカラ列島の宝島が、日本国の(発祥地)邪馬臺国なのである。
    つまり宮嵜 康平ではなく、「ワシ(銀河 彩星)」が、【邪馬臺国の発見者】なのである!

    ★君が代の歌になった、トカラ列島の宝島・観音堂大鍾乳洞
    http://4travel.jp/traveler/kodeyan/album/10507363/ 
      鍾乳洞
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BE%E4%B9%B3%E7%9F%B3

    ① 西暦660(斉明六)年生誕「厩戸皇子(聖徳太子)」=「(御所ケ浦島で生まれた)浦島子」
    =【父・天智系弘文天皇は、「壬申の乱」で天武側の物部麻呂に殺される。母方の家に預けられる】
    =【母・推古太上天皇の葬儀の際に、出家した大津皇子(鳥仏師・大臣仏師・元興寺の僧)】
    =【天武(崇峻)を弑逆し、摂政太政大臣雄略天皇(最初の即位・上宮法皇)】
    =【天文遁行に優れていた(天武条下巻は、雄略天皇条)、久米(仙人)禅師、役行者、】
    =【家持の言う「山柿の門」の人麻呂&赤人&憶良・時代別の同一人物】
    =【(雄略&人麻呂)の恋人桜児(鵜野讃良皇女)、藤原不比等へ走る】
    =【大伴宿禰旅人に借名の聖武太上天皇。~ 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 行幸の宮 (巻三・三一八)】
    =【西暦702年渡唐。遣唐大使より格上の節刀使・粟田真人】
    =【また、法師≪弁基≫=還俗して≪春日蔵≫首老として渡唐、弁正(小弁)として、玄宗と囲碁を打つ】

  • 訂正:日本文化形勢の前段→日本文化形成の前段
    しかし、晩年の秦始皇帝に雲南テン王国や東南沿海丘陵の百越の有力者子女、百工を仙薬探索に投入するというアイディアがあっただろうか。おそらくは当時のこの地の征服者王翦その子王賁のアイディアであったのであろう。王賁は始皇帝に随行し琅邪に至っている。後に琅邪王となったという話まである。日本誕生は彼のアイディアの結果ではなかろうか。

  • 訂正:周溝付前方後方墳等の江浙土敦墓文化→周溝付前方後円墳等の江浙土敦墓文化
    さて、日本文化形勢の前段は弥生前中期の松菊里型環濠集落を打破する大規模墳丘墓・古墳の誕生によるが、これは時系列的にこうなる。次のようにO3/O1a系の文化となる:
    ●弥生墳丘墓 二次平面的で見ると長方形板石楯築型、四辺内湾型、庭付き型という東バイカル石板墓を踏襲し、墳丘と言う三次元空間、竪穴では江浙土敦墓を踏襲しているので、東胡と江浙呉越の折衷。
    ●前方後円墳 天を表す後円部、大地・密洛陀(三穂津)女王スカートを表す前方部、水を表す周溝は
     江浙土敦墓と東南沿海丘陵/畭瑶文化の折衷。
    ●横穴石室墓 川西南安寧河凉山大石墓群文化(現彝族<古羌)。
    これらの分布域は長江南部のヒマラヤ南麓から太平洋岸にかけての地域であり、弥生後期から古墳中期、つまり、後漢から東晋にかけて中国のこの部分、戦国楚の領域、から日本に向けての民族移動の形跡は皆無である。しかし、秦始皇帝の晩年、雲南テン王国には呉越を含む楚人、古羌が楚の将軍庄喬のテン王国樹立の結果として集結するという異常な事態が成立していた。もし、このテン王国関連の民族が日本に向けて移動することがあれば、日本の男性遺伝子における大量のO3系が起こりうる。この謎は徐福のダウーリア(東バイカル-黒竜江/アムール州)、朝鮮半島経由の移住があったとすることで基本的に解決できる。

  • (1)は中期弥生文化を含む縄文人と考えて差し支えない。
    (2)は周溝付前方後方墳等の江浙土敦墓文化、箱式石棺墓、羨道式横穴石室墓等藏彝走廊文化から考えて江南及び四川・雲南のO3系と考えられる。
    (3)につきO2b1の頻度は縄文D2に次ぐ大規模なものであり、縄文D2共々、遠賀川式土器の拡大に伴った列島最大の拡大と考えられる。O2bは遼東突帯文土器人/貊人の早期弥生突帯文土器拡大並びに後世の半島人移民によるものであろう。
    (4)主要なものは弥生後期中葉の四隅突出型墳丘墓、前方後方墳、方形周溝墓(O1a越族を含む)の東胡C3であり、ダウーリア(東バイカル-黒竜江/アムール州)から三次盆地、出雲、尾張を経由、最終的には日立に入植したものと考えられる。

  • (1)日本にしかない遺伝子であって、中国、朝鮮、満蒙にはなく、日本で大きな割合を占めているもの。これは縄文人及び早期に弥生化した縄文人と考えて差し支えないもの。C1/D2
    (2)中国にしかないもの。乃至は朝鮮・中国東北部/大モンゴリアに本来ないものであって、中国起源と考えられているもの。O3等。
    (3)朝鮮、朝鮮西部、朝鮮東北部に隣接する中国東北部と日本にあるもの。O2b/O2b1等。
    (4)大モンゴリア及びその周辺にあるもの。C3/C3c等。

  • 日本文化を分析すると様々な地理的、歴史的要因に遭遇する。それらの要因を世界各地の歴史と照合し、日本人のルーツを見極めたいと言う思いは全ての日本人の願望であろう。私はこの問題の解決策の一つとして日本人の遺伝子を分類することで一つの篩にかけることができるのではないかと考える。この為に国際的に最も系統学的分類が進んでいる男性遺伝子をもって日本人の遺伝子プールを見た場合、まず次のような大分類が可能である。

  • ■ 第27回愛知サマーセミナー2015
     教科書が書かない!日本古代史の真実とは。
    講師:古賀達也氏
    (1) 日 時
      平成27年7月19日(日)13:10~16:10 3・4限目
    (2) 場 所
      愛知淑徳中学校(高校と同じ建物)
       4階 3年5組の教室(収容人数40)
        注.3階の職員室の上階にあたります。
    (3) 参加料 不要
    (4) 交通機関
      地下鉄東山線「星ヶ丘」駅、3番出口から 北東徒歩5分。駐車場は用意なし。

    日本の古代史 ■ 第27回愛知サマーセミナー2015  教科書が書かない!日本古代史の真実とは。

  • >>111

    「罪(咎)なくて死す」は、人麻呂公・聖武太上天皇の終焉地
    「隠岐島・島後・西郷町・加茂(鴨山の、かも)」の事である。


    鴨山(加茂山・歌木の里)の
    岩根し枕ける【倭根子(やまとねこ)を枕の】我をかも
    知らにと妹【(桜児)持統太上天皇太上天皇】が待ちつつあるらむ
      人麻呂(巻2・223)

  • >>110

    「★厩戸皇子(聖徳太子)」は、「イヱス・キリストの生誕話」を取り入れている。
     「いろは歌」七段書き【清少納言 作】
    、、、、、、、↓(行の末尾を縦に読むと、「罪(咎)なくて死す」)
    イろはにほへ と
    ちりぬるをわ か
    よたれそつね な
    らむうゐのお く
    やまけふこえ て
    あさきゆめみ し
      ヱひもせ ス

    左上、左下、右下の三文字は、
    「イヱス」=【イエス(キリスト)】になぞらえられている
    聖徳太子(厩戸皇子)は、

    「母・(君臨者)穴穂部間人王」
    =【君臨者・推古天皇(額田王)・太田(十市)皇女】と

    「父・(統治者)景行天皇」
    =【(統治者)天智系(春)弘文天皇(大友=大伴皇子)】とに、
    生まれている。

    即ち、「雄略天皇」
    =【大津皇子・聖徳太子⇒ 人麻呂公(行基)聖武太上天皇】である。
    「厩戸皇子(聖徳太子)」は、いずれも「キリスト生誕話」を、
    取り入れた「(馬内侍)清少納言」=【聖書 納言】の命名である。

  • >>108

    わが君は千代に八千代に細石の巌となりて苔の結すまで・『古今和歌集』
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3

    「君が代は千代に八千代に~(国歌)は、わが君は」を、
    「君が代は」に変えただけである。

  • >>89

    (発祥地)投馬国(とまや←逆さまから読む倒語)
    ⇒【臺与の邪馬臺(やまと)国・トカラ列島の宝島(会稽東冶の東)】

    君が代は千代に八千代に細石の巌と成りて苔の結すまで・「君が代」の、
    《トカラ列島の宝島・会稽東冶之東》には、「観音堂大鍾乳洞」がある。

    見渡せば花【君臨者】も紅葉【統治者】もなかりけり
    浦の苫屋(★邪馬臺の倒語)の秋の夕暮れ
      藤原定家

  • >>1

    記録に残る我が国の古代史は、ノアの洪水で、縄文人が激減して、
    ノアの洪水以降の、弥生人に拠る物である。
    それも、【◆銅鐸圏】(燕)公孫氏が、卑弥呼の裏切りにより、
    韓半島で、司馬懿により、公孫氏が滅亡してからが、
    倭人伝や『記、紀、万葉』に記載されている。

  • >>97


    「巨大な畿内の土敦墓(前方後円墳)」は、
    【平安時代の日本国・大和朝廷の捏造】。

     「倭人里」巨大メジャー」・「55m/倭人里」の、代表的な実例
       《加治木義博説》

    (大阪府の)堺市にある仁徳天皇陵と、羽曳野市にある応神天皇陵との距離は11キロメートル。
    その同じ直線上にある崇神天皇陵と応神天皇陵との距離はちょうどその二倍の22キロメートル。
    さらにその直線をはるかに東に伸ばした線上にある伊勢神宮の古社地まで、
    仁徳陵から110キロメートルある。
    お気づきのとおり、すべての遺跡間の間隔が全部55メートルの倍数になっている。

      11km ÷ 55 =  200倭人里
      22km ÷ 55 =  400倭人里
     110km ÷ 55 = 2000倭人里
     
    の地点に建設されたということであって、
    お分かりのようにすべてが倭人里を使った測量遺跡だったのである。

  • 【▲矛圏】卑弥呼▲物部氏(難升米)の墓・吉野ヶ里の「1002号墳・径百歩」

    『魏志倭人伝(通称)』に記載は、
    明帝と司馬懿【→晋・中国南朝】が支持した、  
    周の古公亶父=太公望の(傍流)太伯後の、
    【▲矛圏(兵用矛)】卑弥呼(物部氏。難升米・壹与)の、
    「邪馬壹国・筑紫平野」
    邪馬壹国の北に位置する「不彌国(吉野ヶ里)」が、
    【卑弥呼の居城(王宮★宮室樓觀)】。「邪馬惟」は、「邪馬壹」。
    「★兵用矛、楯、木弓」・「居處★宮室樓觀、★城柵嚴設、常有人持兵守衞」。

    ★西暦247年、卑弥呼が、男王・不仲の卑弥弓呼に殺される。
    これは、【後の卑弥弓呼・大海人皇子】と重ねられている。。
    ⇒「邪馬壹(やまい)国(30国体制)」崩壊。
    【西暦247年3月24日の日の入り時の日蝕(卑弥呼=壹与の死を揶揄)】
    ガラス管と剣が副葬された「1002号墳」が、
    「径百歩」の【卑弥呼(難升米)の墓】。
    周りの多数の甕棺は、卑弥呼の従者の殉葬(大いに冢を作る)。

      卑弥呼(難升米)の墓・吉野ヶ里の「1002号墳・径百歩」
    http://asobo-saga.jp/mt/archives/2008/02/post_334.html
    http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=12
    http://www.yado.co.jp/kankou/saga/sagasi/yosino/yosino.htm

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