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天国へいらっしゃい。

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  • 2018/10/16 21:57
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    *****

    その名もBar Heaven

    ただのおしゃべりトピです。

    ちょっといかがわしいかもしれません。

    時々ぼったくられます。

    勇気のある方はどうぞ。

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  • 11646(最新)

    tub***** 10月16日 21:57

    >>11645

    こんばんは。


    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835014/a43a43a4ma4n8c0mu


    お知らせしたいと思ったのでお知らせします。


    恋は
    理性的(合理的)なことが良しと願う人に席を譲り続けた人のぎりぎりの境界線なのかもですね。

    この先「恋」がなくなるかどうかはわかりませんが。


       いのちのまたけむ人はたたみこも平群の山のくまがしが葉をうずに挿せその子


    全くの妄想ですが私には恋をせよ、と聞こえるから面白いです。

  •  70の声を聞いて   

          かたみとて なにを残さん しづのをの
                なおうとまるる  恥のあれこれ


    60代のじじと80代の老婆の恋の行く末  世間のおきてに棹差され
    ウェルテルのごと彷徨う友の物語に

             人や知る 老いたるどちの 胸の内
                わりなき別れ 月の雲居を

  • よき日
    鳥はどこかで鳴き
    水は静かな音を立てながら

    よき日
    夢の中から抜け出したあなたは
    朝の柔らかい光の中にいる

    よき日
    全ては心のままに
    何も悔やまず
    言い訳もせず

    よき日
    気がつけば
    もう何年も過ぎてしまった
    時の流れの中にいる

    時折
    雪の女王の氷の欠片が
    胸のどこかで苦しくうごめいても

    おやすみなさい

    凍った大地がやがてゆるむように
    彼らには自由が用意されている

  • >>11638

    >この本で知った芭蕉の俳句では、 
    田一枚植えて立ち去る柳かな
    が良いと思った。
    これについても、植えて立ち去るのは誰なのか? という議論があるもよう。

    すてきな句だと思います。
    立ち去ったのは田植えをしていた人たち?

    >「柿食えば」を正岡子規が作ったのが28才の時だったとあり、自分のイメージと違ってました。
    >ツバメさんには、そういうイメージありましたか? それとも知ってました?

    知っていたような気がします。なにか、どこかでそんな話を読んだような気がしています。

  • >>11636

    おはようございます♪

    この前の投稿(パニチェさんへの投稿)でも書いたのですが、あんまり心の中で「古池・・」を繰り返しすぎてもう文字しか浮かんでこない状況になってしまいました。(笑)何が起こったのかよくわからないです。そのうち治ると思うのですが。

    >そうですね。終始形で 古池や//蛙飛びこむ。//水の音  ではブツ切れになりますね。謡曲か、と。

    謡曲って知らないのですが、動きに合わせてやる場合には、ブツ切れのほうがいいのかもですね。

    >蛙が飛んだぞ。水の音がした(から分かる)。という当初の実際の流れが見える感じがします。発見! みたいな。

    わたし的にはこのキビキビした感じは好きな感じではありますが、とても明確だし。

    > もしそれを採用し続けた場合は上五の最終形は「古池や」ではなかっただろうな、と。

    う~~ん。わからなくなってしまいました。。。
    ・・・「古池に」でもいいのかもですね。・・・
    古池に 蛙飛んだり//水の音    
    「古池」で躓かない場合(→躓いた人=私です。)即物的でテンポよく分かりやすい句かな?って思います。
    何となく鳥獣戯画も思い浮かべたりして。。(なんか私、末期的かなぁ。)

    >句の意味は「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」であること。
    こう解釈することで、
    『この句はたちまち現実の世界(「蛙飛こむ水のおと」)と心の世界(「古池や」)が交錯する魅惑的な句に生まれ変わる。この現実のただ中に心の世界を開いたことこそ蕉風開眼と呼ばれるものであったこと。』
    そして、それ以降の芭蕉による様々な句が同様に現実の中に心の世界を開く句であること。
    つまり、古池の句が柔らかな鋳型あるいは母胎となっている。
    //ここまであとがきの要約

    ありがとうございます。
    確かに「古池や」と言ったとき一人一人の古池が心の中に現れると言う事あると思います。
    詩歌とはそのようなものなのかもな、と思います。
    ただ、一人一人の古池でよいのかどうか、(作者の意図に沿っているのかどうか)考えだすとキリないのかもしれないです。

    >ただ…全体的に著者の独断的な傾向は気になり、賛否両論ありそう。

    ・・・独断的な傾向を逃れることの方が逆に難しいのかもですね。
    「物語り」のはじめというのは独断的なモノであるかもしれず。。

  • >>11632

    おはようございます♪

    >ここは私の場合は共感覚っみたいな感じですね。
    音に色が見えたり、色に音が聞こえたりする、視覚や聴覚が分化する以前の感覚で、そこには音と情景の区別がないような世界が想起されます。

    あ~~納得です。わたし、自分の感覚しか知らないからつい自分の感覚をもとに解釈をしてしまう。
    私の先生が音を聞くと色が見える人でした。その話を聞いたときピアノの音が色に見える?世界はどんな世界だろうと想像はしても知りえない世界だったなぁと。

    ・・・・・「そこには音と情景の区別がない」・・・・もともと「音と情景の区別」はないのかも知れないです。(今思いました。)てか、「区別がない」ことを具現化しちゃった作品(古池や)なのかもです。
    (個人的な事情ですがあまり心の中で古池や・・・・を言いすぎちゃったせいかもうなにも出てこない(浮かんでこない)ような状態になっています。(笑)出てくるのは言葉の帯というか言葉の羅列というか、テロップみたいな感じです。)

    >「山吹や宇治の焙炉の匂ふ時」でしょうか?
    もしこの句なら風と匂いと季節が一体化しているように私には感じられます。

    「山吹」というのは全く伝統的な言葉だなと思います。力のある言葉とでも言うのかな、名詞の力とでも言うのかな、「山吹や」と言ったとき自動的に引き込まれてくるイメージを感じます。
    それは匂いとでもいうのかなぁ、言葉の持つ匂いのようなもの?
    「山吹」って古来から日本人が好む花で万葉集にも数多く歌われており、ある種の乙女(清楚で可憐な乙女)を形容するときなど山吹に例えられたりしています。

    「山吹や宇治の焙炉の匂ふ時」

    「この句なら風と匂いと季節が一体化」・・一体化しているように思います。同意です♪

    これは私の独断的な解釈ですが「宇治」(地名、名詞)の力がしっかり働いていて全体をまとめ上げている感じがしますが、もしかしたら芭蕉さんのご挨拶の歌かな、なんて思います。あ。歌じゃないですよね。句ですよね。

    >めちゃめちゃ強引にニーチェと仏教を合体させてますけど。^^

    そですか。はい♪

    「そこに自己と対立するものなんてないじゃん!」みたいな話です。^^」・・・というのが少し引っかかっていてへえ~ニーチェって自己と対立するもの、なんて言ってたんだぁと不思議というか少し(何となく)違和感感じていたんです。

  • ふと失くしたものが心をよぎり
    本当にもういないのだと確かめながら
    ゆっくりと朝の気配を感じ始める
    なにか透明で
    明るく
    そして寂しい目覚めを感じながら
    もう秋なのだと
    心のどこかで思う

    彼らは心弾む昼の出来事や
    楽しい夜の語らいの後に
    静かにやってくるのかな

    一緒に笑いたいのは私
    一緒にご馳走を食べたいのは私
    一緒に楽しい時を過ごしたいのは私

    私なのだけれど

    目覚める時に少し寂しい朝は

    そうね。

    窓に置いた椅子の上で手のひらに落ちる秋の光と影を見ていたりする。

  • >>11617

    > 特に観測問題の多世界(解釈)はありえないと、これは確信しています。理由は〈私〉が唯一無二だし、分岐してないからです。

    (多宇宙の方になりますが)検索して興味が湧いたので関連する本を読んでいるのですが、宇宙論て現在凄いことになってるんですね。全部理解するのは自分には無理ですが、理論から導かれる多宇宙ながらも、種類によっては観測の可能性ありと研究している学者もいるとのようで。当初強い反発を受けた人間原理ながら受け入れる学者も増えてきているように読めます(著者が受け入れている側だからかもしれませんが)。一方で人間原理を用いない説明を追求すべきだと強く主張する学者もいるとのこと。
    多世界宇宙の探検(アレックス・ビレンケン)
    隠れていた宇宙 (ブライアン・グリーン)

    観測問題の多世界(解釈)の方も読んでおきたいと思っているのですが、次の候補は他にあるので先になりそうです。なんか異常に読書欲が湧いていて。


    > 地下猫がなんでツイッターなのかピンときませんね

    ネット掲示板というものを知った初っぱなに出くわしたのが地下猫やurban女子(分かりますか?)で、とんでもない世界やなと思ったものでした・・

    > ktsurutはファン多かったですもんね。^^

    その関連ではリトさんという人が、今どうしているのか一番知りたい感じです。学者になったのかな、とか。

  • >>11636

    蝉の声の句は同形で、「閑さ」と「古池」が対応する(句の中の地位が)という指摘あり。
    どこが良いのか分からない→「古池」とは何か? →魅力的な句
    という変化がこの著者にもあったと書いてあり面白い。自分のは根拠の無いたまたまですが。
    自分が古池を心と対応させたのは何故だったのか分かりませんが、ツバメさんが-心の中を覗き込んで- というように書いてたからかなあ。

    この本で知った芭蕉の俳句では、 
    田一枚植えて立ち去る柳かな
    が良いと思った。
    これについても、植えて立ち去るのは誰なのか? という議論があるもよう。

    全然別な話ですが、
    同時に借りた同じ著者の本で
    「柿食えば」を正岡子規が作ったのが28才の時だったとあり、自分のイメージと違ってました。
    ツバメさんには、そういうイメージありましたか? それとも知ってました?

  • >>11625

    > >あと最初は「蛙飛んだり水の音」だったとも。そうすると「飛び込む」は連体形ではない可能性もあるのかな…。
    >
    > 連体形ではないかと。

    そうですね。終始形で 古池や//蛙飛びこむ。//水の音  ではブツ切れになりますね。謡曲か、と。

    > 蛙飛んだり//水の音」だと、個人的にはテンポがよく好きな感じですが

    蛙が飛んだぞ。水の音がした(から分かる)。という当初の実際の流れが見える感じがします。発見! みたいな。 もしそれを採用し続けた場合は上五の最終形は「古池や」ではなかっただろうな、と。

    > 「古池や蛙飛びこむ水の音」・・・初句で切って蛙飛び込む水の音と続いていきます。しかも作り(変な言い方かもですね。句の形?)が静か。(蛙飛んだり水の音・・のようなテンポの良さがない。)
    > ちょっと思ったのですが「飛び込む」という言い方、面白いかなと。言葉自体にちょっとした緊張をはらむようで、私は「蛙飛び込む」のところで少し緊張し「水の音」で水の音を聞くような気がします。

    「蛙飛んだり」は、それ以前に芭蕉が傾倒していた談林派的表現(軽み?)で、そして最終的な「古池や蛙飛び込む水の音」によってそれらを脱した蕉風俳諧が確立されたということのようです。

    > 面白そうですね。

    本の主題があとがきに端的にまとめられているので、それをさらに要約しますと、

    句の意味は「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」であること。
    こう解釈することで、
    『この句はたちまち現実の世界(「蛙飛こむ水のおと」)と心の世界(「古池や」)が交錯する魅惑的な句に生まれ変わる。この現実のただ中に心の世界を開いたことこそ蕉風開眼と呼ばれるものであったこと。』
    そして、それ以降の芭蕉による様々な句が同様に現実の中に心の世界を開く句であること。
    つまり、古池の句が柔らかな鋳型あるいは母胎となっている。
    //ここまであとがきの要約

    ただ…全体的に著者の独断的な傾向は気になり、賛否両論ありそう。

  • >>11631

    おはようございます♪

    > あると思います。自分の中からその情景を引っ張ってくると思います。その人の蛙、その人の池、その人の緑が関連付られ情景を作っていく。
    > (ただ、妄想かもですが、この俳句の場合)
    > その人の持つ情景をぼんやりした背景として退かせることをしないと音は響いてこないんじゃないかと思ったりします。
    > 音を想起させる作業が心の中で起こる時、同時に背景、景色は退いていく(ぼんやりとしていく)
    > 逆に言えば、音をはっきりと想起するように作られている?と考えてみたりします。だから逆に「古池」で問題ないというかすんなり入っていってしまうのかもしれないかなと思ったりします。

    ここは私の場合は共感覚っみたいな感じですね。
    音に色が見えたり、色に音が聞こえたりする、視覚や聴覚が分化する以前の感覚で、そこには音と情景の区別がないような世界が想起されます。

    > (関係がないのですが、私の場合は「山吹や」とやられると何となく花札の絵柄的情緒がわいてきてしまい、清楚な山吹と優雅にジャンプする蛙、美しい水辺や水がイメージされて水の音なんて次の次の次ぐらいです。

    「山吹や宇治の焙炉の匂ふ時」でしょうか?
    もしこの句なら風と匂いと季節が一体化しているように私には感じられます。

    > 「この俳句によって想起された私の世界」は「私そものである」ということ同意です。
    >・・・ なんというのかな、・・ない足が痛む人もベッドの上で野原で歌を歌っている(変な言い方ですが。)人もそれを想起して考えている私も私の世界、私そのものという気がします。

    脳科学的にはヒラリー・パトナムの「桶の中の脳(水槽の脳)」ですね。

    > >ニーチェ的な言い方をすれば「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。そこに自己と対立するものなんてないじゃん!」みたいな話です。^^
    > あ。そですか。それなら納得です。
    > 「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。」というのは全くその通りだと思います。

    めちゃめちゃ強引にニーチェと仏教を合体させてますけど。^^

  • >>11628

    こんにちは♪

    >音が聞こえた人は、蛙と池と水しぶき、ひょっとしたら池を囲む緑などが同時に見えるように、蛙や池や水しぶきを想起した人は同じく同時にそれ以外の音や情景を見るというような感覚がありますが、どうでしょうか。・・・(1)

    あると思います。自分の中からその情景を引っ張ってくると思います。その人の蛙、その人の池、その人の緑が関連付られ情景を作っていく。

    (ただ、妄想かもですが、この俳句の場合)
    その人の持つ情景をぼんやりした背景として退かせることをしないと音は響いてこないんじゃないかと思ったりします。
    音を想起させる作業が心の中で起こる時、同時に背景、景色は退いていく(ぼんやりとしていく)
    逆に言えば、音をはっきりと想起するように作られている?と考えてみたりします。だから逆に「古池」で問題ないというかすんなり入っていってしまうのかもしれないかなと思ったりします。

    (関係がないのですが、私の場合は「山吹や」とやられると何となく花札の絵柄的情緒がわいてきてしまい、清楚な山吹と優雅にジャンプする蛙、美しい水辺や水がイメージされて水の音なんて次の次の次ぐらいです。

    >ひょっとしたら私たちが現実と思っている世界もこの俳句によって想起された私の世界というか、私そものであるあるかもしれないということです。

    「この俳句によって想起された私の世界」は「私そものである」ということ同意です。
    そしてリンクしてきたのが「失ったはずの足が痛む」という話や脳のどこかの部位を刺激された患者が(記憶が薄れていてざっくりですみません。)微笑みながら歌を歌いだしたので話しを聞いてみると実際(物理的)にはベッド(あるいは手術台)の上にいる患者が実際(患者自身の感覚?世界?)では記憶の中のどこかの時間にいて誰かと楽しく歌を歌っているところであったという話です。
    なんというのかな、・・ない足が痛む人もベッドの上で野原で歌を歌っている(変な言い方ですが。)人もそれを想起して考えている私も私の世界、私そのものという気がします。

    >ニーチェ的な言い方をすれば「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。そこに自己と対立するものなんてないじゃん!」みたいな話です。^^

    あ。そですか。それなら納得です。
    「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。」というのは全くその通りだと思います。

  • >>11623

    おはようございます。

    >句を読んだ人は、実際にはしない水の音を自分の中で聞く。
    >蛙を見る(感じる)人、景色を(感じる)見る人もいるかもしれないです。
    >自分が自分の中で句のイメージ(姿)を作り上げている。
    >その時に観るものと観られるものは一緒に活動してしまうので区別がない状態になるのではないかと思ったりしました。
    > (「観るものと観られるもの」を意識とその意識を観察するもの、というように解釈しましたが違っていたらすみません。)

    いえいえ、俳句の感想は人それぞれですから間違った解釈なんてないと思いますし、つばさんの解釈は同意です。
    音だけ聞こえる人、蛙だけを見る人、池だけ見る人がいるというよりも、どこにフォーカスするかはともかく、音が聞こえた人は、蛙と池と水しぶき、ひょっとしたら池を囲む緑などが同時に見えるように、蛙や池や水しぶきを想起した人は同じく同時にそれ以外の音や情景を見るというような感覚がありますが、どうでしょうか。・・・(1)
    で、さらに私なりの妄想を披露しますと、ひょっとしたら私たちが現実と思っている世界もこの俳句によって想起された私の世界というか、私そものであるあるかもしれないということです。

    >それから、共通の土壌を持つ人の個人の主観(イメージ)が沢山の人の(全体の主観・共同主観)と重なりあっている、だから句が鳴り響くのではないかと。

    なるほど、それは言い得ていますね。

    > (「観るものと観られるもの」の解釈について全く不安になってきましたが。)
    >私の今のところの感覚としては、観られる者が「古池や」と声掛けすると(合図すると、大まかな図柄を示すと)観る者がたちまちその声に合わせて風景を作る、句に読まれた世界を作る、という感じです。

    はい、同じです。私は(1)のように考えています。

    >なので「観る者も古池、蛙、水の音と一体化している」に共感します・・・が、悟りの世界、事事無礙法界と言う事については全く分かりません。(知識がなさ過ぎて。)

    ニーチェ的な言い方をすれば「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。そこに自己と対立するものなんてないじゃん!」みたいな話です。^^

  • >>11624

    > 愚さんの発言の、世界は一つ、自業自得についてはパニチェさんは完璧に理解していて愚さんと意見が一致しているようだったのを思い出しました。もし詳しく知りたい興味が持てましたらパニチェさんに聞いてみられるといいと思います。さっき忘れてました、すいません。

    そんなことありましたね。
    長い間、もめてましたね。犯罪被害者の話と絡められて「それでも自業自得か?」なんてけしかけられて、愚さんも意地悪というか触発的(挑発的)に理由や説明をすっ飛ばして「自業自得です」なんて言うから、余計にもめたりして、そうなることも愚さんの計算づくというか意図だった可能性もありますが。。。^^

  • >>11624

    は~い。ありがとうございます。

    ただ、難しそうで説明の労を取っていただいたとしても理解できる自信がありません。

    >ホーリズムとかゲシュタルト的なものに重なる感じ

    というのは共感します。

  • >>11622

    >一般に言う、自分が悪いことをしたから報いを受ける、とか、前世の因縁で、とかではなかったと思います。

    それは全然念頭にありませんでした。
    何というか心をよぎったのは、「もし私が豚だったらある日殺されて誰かに食べられるのは仕方がないことだ。私は豚として生き豚として死んでいく。それが自然なことなのだろう。私が豚という存在ならばそれが私の在り方なのだろう。。。」というようなことでした。
    だからもし誰かに自業自得と言われたら、「そうです。」というしかないんだろうな・・・みたいな。

    >↑ こういうところは、たぶんツバメさんはもっと楽観的ですよね。

    私、楽観的というより野蛮なんじゃないかと。野蛮だから楽観的で居られるとか。(笑)

  • >>11621

    こんにちは。

    >あと最初は「蛙飛んだり水の音」だったとも。そうすると「飛び込む」は連体形ではない可能性もあるのかな…。

    連体形ではないかと。

    例えば「古池に蛙飛んだり//水の音」だと、個人的にはテンポがよく好きな感じですが、「水の音」と強調している割に水の音がぼやけていたり遅れて聞こえるような気がする。
    (〇〇〇〇〇・・・〇。ぼちゃん♪・・みたいな。)
    二句で切れるとこの場合水の音の連想が遅れる・・・のかなと。しかも、「蛙飛んだり」が生き生きと独立してイメージされてしまうのでその姿が水の音と競合してしまうような気にもなる。

    「古池や蛙飛びこむ水の音」・・・初句で切って蛙飛び込む水の音と続いていきます。しかも作り(変な言い方かもですね。句の形?)が静か。(蛙飛んだり水の音・・のようなテンポの良さがない。)
    ちょっと思ったのですが「飛び込む」という言い方、面白いかなと。言葉自体にちょっとした緊張をはらむようで、私は「蛙飛び込む」のところで少し緊張し「水の音」で水の音を聞くような気がします。


    >其角はそこに和歌の定番の山吹を配して、定番(因襲)破りを強調して俳諧の面白みを出そうとした。

    其角さんのことはあまりよく知らない(他の人のことも)のですが、それにしても其角さんがなぜ「山吹」を持ってきたのか不思議でした。
    「和歌の定番の山吹を配して、定番(因襲)破りを強調」・・・なるほどです~という感じです。

    芭蕉先生はそういう「面白味」の方にはいかない、という感じかな。

    >未だp28なんで続き読みます。

    面白そうですね。

  • >>11622

    愚さんの発言の、世界は一つ、自業自得についてはパニチェさんは完璧に理解していて愚さんと意見が一致しているようだったのを思い出しました。もし詳しく知りたい興味が持てましたらパニチェさんに聞いてみられるといいと思います。さっき忘れてました、すいません。

  • >>11619

    こんにちは。

    >「古池や」の俳句が素晴らしいと思えるのは、そこに観るものと観られるものの区別がないように思えるところです。

    はい。
    句を読んだ人は、実際にはしない水の音を自分の中で聞く。
    蛙を見る(感じる)人、景色を(感じる)見る人もいるかもしれないです。
    自分が自分の中で句のイメージ(姿)を作り上げている。
    その時に観るものと観られるものは一緒に活動してしまうので区別がない状態になるのではないかと思ったりしました。

    (「観るものと観られるもの」を意識とその意識を観察するもの、というように解釈しましたが違っていたらすみません。)

    それから、共通の土壌を持つ人の個人の主観(イメージ)が沢山の人の(全体の主観・共同主観)と重なりあっている、だから句が鳴り響くのではないかと。


    >古池、蛙、水の音が渾然一体で、そこに観るものはいない。

    (「観るものと観られるもの」の解釈について全く不安になってきましたが。)

    私の今のところの感覚としては、観られる者が「古池や」と声掛けすると(合図すると、大まかな図柄を示すと)観る者がたちまちその声に合わせて風景を作る、句に読まれた世界を作る、という感じです。


    >観る者も古池、蛙、水の音と一体化している悟りの世界。
    >事事無礙法界かな。


    なので「観る者も古池、蛙、水の音と一体化している」に共感します・・・が、悟りの世界、事事無礙法界と言う事については全く分かりません。(知識がなさ過ぎて。)

  • >>11612

    > 「縁起」については全く分かりません。「縁あって起こる。」とでも読むのかなぁ。

    自分も知らないんですが、すべてが全体の中の関係性で出来上がっているという感じ
    wikiに
    『全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく』
    自分はこのところホーリズムとかゲシュタルト的なものに重なる感じがしていましたが、
    縁起の方は原因 -結果という時間性が重要なのかな? 一般的に使われる「縁起」もそうですね。
    自分は時間のことは念頭にありませんでした。良いように言えば時空の中での関係性として一本化していた感じ(良いように言えば良いように言えば)。

    > そう言われるとそのようにも思います。
    > 確かにそうなのかもしれないなと反論はできない。
    > 悲しいですね。

    念のために(自分の記憶の限りでの)説明をしますと。世界と自分は同じである。自分は世界であり、世界は自分である。よって世界で生じるすべての現象は自分が起こしたものである。彼の言った「自業自得」は、そういう図式から出てくるものと思われ、一般に言う、自分が悪いことをしたから報いを受ける、とか、前世の因縁で、とかではなかったと思います。
    上記の考え方を本当に体得できれば少なくとも不毛な争いは激減するだろうし、もしかしたら、先日書いたような難しいケースを癒す方法になるのかもしれないと。
    (自分はもちろん体得していません)

    還元主義や個人主義が実は人の苦しみを増しているという可能性も感じるし。
    先ほどの「縁起」の『全ての現象は独立自存のものではなく』ですが、
    「自分」を独立自存の実態と考えると、肉体的にも社会的にも時間的にもはかなく脆く、精神や「意識」が何であるかも未だに分かっていないような存在である人間にとって苦しみの連続になるのが当たり前という気も。
    ↑ こういうところは、たぶんツバメさんはもっと楽観的ですよね。



    またもや妄想100%に入ってきました。仏教に関し体得はもちろん知識面でも乏しい人間の戯言と読み流してください。

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