ここから本文です
  • 〝意識〟と「脳機能の反応」とは、いったいどう違うのか?
    どのようなことが〝意識〟の範疇で起こり、また、どのようなことが「脳機能の反応」
    として発生しているのだろうか?

    次のような事実が、その謎を解明する切っ掛けをもたらしてくれるのかもしれない。
    われわれは、感覚的対象としてこの世界に結実した瞬間から、その対象性を維持存続さ
    せるための「欲望」をもつことになる。この「欲望」から演繹されることが「脳機能の
    反応」として発生していると思われるのである。

    だから〝意識〟とは、「欲望」以前の存在、そういった対象性に結実することのない
    非対象的世界で起こる何かだ、ということになるだろう。

  • <<
  • 10 1
  • >>
  • >意識が先にあって、それを脳機能の反応で受け止めるのだろうと思う。 

    意識のはたらきを脳機能の反応が受け止めるなんてことができるのでしょうか?

    たとえば、ある海難事故に遭遇した者が〝すべての人が助かればいい〟という〝意識〟
    をもったとしても、その〝意識〟は必ずしも「助けたい」「助けるにはどうすればいい」
    という「脳機能の反応」には連続しないのではないでしょうか?
    では、きわめて少数の「特殊な訓練を積んだ」人間だけが、そうすることができるので
    しょうか?
    それも違うと思います。
    「特殊な訓練を積む」という作業自体は、きわめて客観的対象的な行為でしかなく、そこ
    に〝意識〟が介入する余地はありません。
    なぜなら、それはあくまで「訓練」であって、語り得ぬ〝意識〟のはたらきによって左右
    されるファジーな作用ではないからです。

    つまり、ある海難事故に遭遇した「特殊な訓練を積んだ」者は、〝すべての人が助かれば
    いい〟という〝意識〟を受け止めて「助けたい」「助けるにはどうすればいい」という
    「脳機能の反応」をはたらかせたというよりも、そのような客観的状況に反応する脳機能
    を、あらかじめ「訓練」されていて、それに反応したというだけなのかもしれません。

    要するに、なにが言いたいのかというと、そこには、〝意識〟の絶対的成立条件である
    ところの〝主観性〟が無いということです。

    理系の人間にとって、この〝主観性〟というはたらきを把握するのは至難の業でしょう。
    それは、文系の人間が、理論物理学や高等数学の解法を前にして呆然とすることに似てい
    ますね。(笑)

  • >>1

    意識が先にあって、それを脳機能の反応で受け止めるのだろうと思う。多分普通に脳細胞が活性化して自意識を生じるという考え方は、人間の勘違いだと思う。意識は人の外にあるのだと思う。今は昔と違って、文科系の人間のほうがそういった概念を否定しますが、それは間違い。

  • 【ヨブ記において語られていた「脳機能の反応」および〝意識〟に現れる神の存在証明】その4

    では、〝それ自体が目的である〟という思いを、われわれはどのような場合にもつことが
    あるのだろうか?
    人間の脳機能が、可視的物質化の宿命ともいうべき《欲望》を媒介とし、ゆえに《欲望》
    を目的とせぬ思いなどもてるはずがないとほぼ通説化されている中で、
    人は、どうすれば〝それ自体が目的である〟という思いに辿り着くのであろうか?

    ごく簡単な例を挙げてみよう。

    目の前に「異国人」がいるとする。
    あなたは、その「異国人」に敵意をもっている。
    その敵意をもったまま「異国人」が殺される状況を見たとする。
    あなたは、敵意という《欲望》の一種に媒介された思いしかもてないので、その殺される
    「異国人」を嘲笑うかもしれない。
    これが、「脳機能の反応」としての(素直ではあるが)(唾棄すべき)思いなのだ。

    もうひとつ次のようなアプローチが考えられるだろう。
    目の前に「異国人」がいるとする。
    あなたは、その「異国人」に敵意をもっている。
    ここまでは変わらない。
    しかし、あなたは、その敵意をなぜか忘れてしまう。 忘れたまま、その「異国人」が殺
    される状況に遭遇する。「異国人」は泣き叫んでいる。あなたの心の中に、その「異国人」
    を助けたいという、どうしようもない(抵抗できない)思いが湧き起こってくる。
    それは、敵意のかわりに〝憐れみ〟という《欲望》が生じただけなのだろうか?
    《欲望》であれば、なぜ自らの危険も顧みず「異国人」を助けたいと思うのだろうか?
    自らの感覚的存在よりも他者の感覚的存在を優先することは《欲望》の原理には無いので
    はないだろうか?

    これが・・・これこそが、〝それ自体が目的である〟という思いに他ならないのである。

  • 【ヨブ記において語られていた「脳機能の反応」および〝意識〟に現れる神の存在証明】その3

    〝意識〟が指示する 神 を史上初めて表現し得た人物は、イエスという男だった。
    後にも先にも彼以外に、そのように 神 を語った者はいなかった。

    多くの宗教者、哲学者、思想家、庶民、偽善な教育者、愚かな為政者、そして危険な物理
    学者!などが信じてきた神という存在は、ヨブ記において端的に象徴されている「人間の
    脳機能の反応」を目的とした神でしかなかったのである。

    人間のための神、信じる理由を感覚的に裏付けられる神、感覚の世界を支配しているとさ
    れる神、感覚的人間的世界を保守している有り難い神様・・・・・・・・
    実は、そこに〝意識〟が指示する 神 は存在できなかったのである。

    なぜなら、
    神 とは、それ自体が目的であればこそ 神 と呼び得るからだ。

  • 【ヨブ記において語られていた「脳機能の反応」および〝意識〟に現れる神の存在証明】その2


    ヨブの「脳機能の反応」を萎縮させた神とは、端的に言えば「DV神」のようなものだ。
    「ごちゃごちゃ文句ぬかすな、黙っとけカス!!」と神様に一喝されたヨブは、しぶしぶ
    神批判の論調を取り下げた、ということにおいて、彼の思考はその段階で停止を余儀なく
    されてしまったのである。

    結局のところ、
    受難したヨブが延々と繰り広げてきた「神はこうあるべき」という思いは、そんな「神」
    を信じればこその不平不満なのであり、おのれの信じる「神」への根源的な懐疑に繋がる
    ものではなかったのだ。
    ヨブ記は、「神への懐疑を論証しようとする」稀有な宗教書であると実存主義の方面から
    取り上げられたりもするのだが、実際はそこまでの内容を汲み取れる文脈は存在していな
    いのではないか、と筆者は考えている。

    もし仮に、ヨブが、その受難によって抱いた自らの〝思い〟を切々と語り、それゆえ自分
    が信じてきた(周りも信じている)神的存在(つまり、脳機能の反応を満たし給う神)な
    どというものが存在しないのだという懐疑に到達していたとしたら、人類の精神史は大き
    く変わっていたのかもしれない。
    なぜなら、その〝思い〟は、〝意識〟へと連続しながら、特定の欲望を超越した新たな神
    的存在に辿り着き、欲望の相克から必然化する「暴虐な神」の猛威を防ぎ止めたはずだか
    らである。

  • 【ヨブ記において語られていた「脳機能の反応」および〝意識〟に現れる神の存在証明】

    ヨブ記に記述された神と悪魔と人間のドラマは、きわめて象徴的に「脳機能の反応」が
    垣間見せる「偽りの神」を、われわれに啓示している。
    しかし、そこで証明された本物(のような)神は、実は、これを記述した作者の意図に
    反し真正のものではなかったのだ。
    筆者は個人的に、このヨブ記に登場したキャラクターの中で唯一、真実を語っていた
    勇気ある者は、悪魔(サタン)だけだったのではないかと考えているのである。

    ヨブ記は、悪魔(サタン)の次のような問いから幕を開ける。

    「ヨブがあなた(神)を信仰するのは、あなたがヨブに多くのものを与えたからにすぎ
    ないのではないでしょうか」

    つまりサタンは(今風に表現するなら)こう言ったのだ。

    「あなた(神)がヨブに多くのものを与え、その欲望を満たしてやったから彼の「脳機
    能の反応」が神を指示するようになっているだけではないでしょうか」と・・・・。

    そのような神への信仰が「偽りの神」を生むことは自明であった。なぜなら、欲望を満
    たすものだけが神なのであれば、おのれの欲望を満たさぬものは「非神」的なのであり、
    それは排除してよいという(憎悪に等しい)道理を導き出すからである。

    さすがに、その当時の(作者が考えていた)神も、それはマズイと思ったようだ。
    神は、サタンに、あることを許したのである。
    それが、「ヨブからすべてのものを取り上げること」であった。
    要するに、ヨブの「脳機能の反応」に逆らうことをして、神への忠誠を試したのだ。

    その結果が、どうなったのか・・・・
    結論を先に言ってしまうと、神は人間の支配者であり続けることに成功し、人間はその
    「脳機能の反応」を萎縮させてしまう。 そして、悪魔(サタン)は、いつの間にか、
    その事態に飽きたかのように消え去ってしまったのである。
    〝意識〟に指示される神を求めて、ふたたび地を行き巡る長い旅に出るかのように・・・・。

  • 〝意識〟とは、すなわち≪神≫を指示している。 
    ところが、
    人類は、その過誤の精神史において、≪神≫を「脳機能の反応」の極限として証明しよう
    としてきたのだ。
    そのため、非常に先鋭化した「欲望」の開放は、神的な恍惚とともに虐殺の暗黒史を綴っ
    てきたのである。

    ≪神≫を証明する手段は、〝意識〟でなければならない。

    ≪神≫は断じて、「脳機能の反応」で語られるべきではないのだ!!

    このことを『聖書』の記述を題材に取り、以下の文脈において暫し論証してみようと思う。

  • >>1

    > 〝意識〟と「脳機能の反応」とは、いったいどう違うのか?
    > どのようなことが〝意識〟の範疇で起こり、また、どのようなことが「脳機能の反応」
    > として発生しているのだろうか?
    >
    > 次のような事実が、その謎を解明する切っ掛けをもたらしてくれるのかもしれない。
    > われわれは、感覚的対象としてこの世界に結実した瞬間から、その対象性を維持存続さ
    > せるための「欲望」をもつことになる。この「欲望」から演繹されることが「脳機能の
    > 反応」として発生していると思われるのである。
    >
    > だから〝意識〟とは、「欲望」以前の存在、そういった対象性に結実することのない
    > 非対象的世界で起こる何かだ、ということになるだろう。

    はい。これで自己完結したわけだな?
    ここはこれで終了。

並べ替え:
古い順
新しい順