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  • 意識には、現れと機能というふたつの側面がある。バナナが見えるという知覚経験に
    はバナナが意識に現れるという側面と、バナナがあるという信念を生み出したり、バナ
    ナを手に取る行動を導いたりする機能的な側面がある。このふたつの側面を区別するこ
    とによって、意識の問題の核心が意識への現れの側面にあることを明らかにしたのが、
    哲学者デイビット・チャーマーズである。
    意識的な経験がどのような機能をもつかということについては、脳の活動を研究する
    ことによって、私たちはいくらでも詳しく知ることができる。たとえば、痛みの経験が
    脳のどの部位の活動に対応し、その部位が感覚器官や脳の他の部位、および運動器官と
    どのように相互作用するかを明らかにすることにより、痛みの経験がどんな刺激によっ
    て引き起こされ、どんな他の心の状態や、表情、身体の動きを引き起こすかが分かる。
    コウモリの知覚経験でも、その機能については、コウモリの脳の活動を調べることによ
    って、いくらでも詳しく知ることができる。
     それにたいして、意識への現れについては、脳の活動を調べることによっては、それ
    を明らかにすることはできないように思われる。少なくとも、機能を解明するのと同じ
    仕方で解明することはできないし、また、現時点では、どのようにすれば、脳の活動か
    ら意識への現れを解明できるのか、まったく見当もつかない。
     チャーマーズは、意識的経験の機能については、どうすればそれが解明できるかが原
    理的には明らかだという意味で、機能の問題を「イージー・プロブレム」とよび、それ
    にたいして、意識への現れについては、どうすれば解明できるかが原理的にすらまだ分
    かっていないという意味で、それを「ハード・プロブレム」とよぶ。ハード・プロブレム
    の解決には、脳の研究だけでなく、意識と脳の関係にかんする哲学的な考察が必要なの
    である。  信原幸弘氏著作 ~なぜ意識が問題となるのか~ より抜粋。

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  • 【自由意志についての若干の言及】その4

    このような「自由意志のない者には責任がない」という愚かな考えが、現代人の脳内に
    あたかもウィルスのように感染し急速にその症状を拡大してしまった原因は何だったの
    だろうか?
    私見ではあるが、それが次の点にあるのは明らかなように思える。


    〔自由意志〕という根本的に錯誤を孕んでいる概念を身体的外形の内に閉じ込め、
    より広大な領野において検証されねばならないはずの〝自由〟や〝責任〟という〝意識〟を、
    無反省なまま、そういう〝意識〟を想定すらしない(できない)人間存在を前提にしてしまったこと。


    これは、現代人が犯してしまった人類史の中でも類を見ない「恥辱」であり「呪い」であ
    ると言えるのではないだろうか。

  • 【自由意志についての若干の言及】その3

    〔自由意志〕についての誤解に満ちた認識が、多くの者に馴染み深いある種の奇想天外
    で矛盾だらけの唾棄すべき発想をもたらすことになる。
    それが・・・・「自由意志のない者には責任がない」という、われわれ現代人を悩まして
    いる笑うべき理論のことだ。

    このことは、本来、〝法の下の平等〟という精神に矛盾しているのである。なぜなら、
    それは、「自由意志のない者には別の責任の取り方を与える」という意味ではなく、端的
    に「責任がない」と言い切ってしまっているのだから。

    このことが、愚かな現代人にもたらした影響は結構、深刻なものがあるようだ。
    「法的に裁かれるべき者」を裁けなくしている、という意味においてである。
    神の名の下に裁く権利を有する人間などいないであろうが、人間が、人間のつくった法
    (という一定のルール)の下に自分たちを裁く(律する)ことは必要なのだからだ。

  • 【自由意志についての若干の言及】その2

    すなわち、〔自由意志〕という哲学的命題によって想定されていた(いる)事態とは、感覚
    的対象性をもって存在しているがゆえに、もはや(非対象的意識的な意味において)自由
    では有り得ない条件の下に、〝自由〟へのセンチメンタルな憧れが〝自由〟を問わせてい
    るということでしかなかったのである。

    よって、意識の謎を解明する立場から、この〔自由意志〕という問題を整理するならば、
    この言語自体が、非常に矛盾した構成をもってしまっていると結論付けなければならない。
    〝自由〟という〝意識〟において語り得ることと、《意志》という《欲望》の変形に過ぎぬ
    作用とがそこで混在し錯誤を生じさせ、人間の「知の遺伝子」を歪ませている元凶なのだ、
    それは・・・・。

  • 【自由意志についての若干の言及】

    この問題に関しては、古典的な決定論的立場はもとより、量子論的な非決定論的立場をも
    あえて取らないことにする。 というのは、どちらの立場で考えようが、それは「井の中
    の蛙」的発想でしかないからだ。 行為のすべてがあらかじめ決定されているから自由意
    志など無いというのは、あたかも井戸の中に閉じ込められているから自分には自由なんか
    ないんだと嘆く蛙のようであり、すべての現象や行為は偶然的であるから自由意志は有る
    のだとするのは、まるで井戸の中に居ることも知らない蛙が自分はなんて自由なんだと浮
    かれているようなものでしかないのである。
    それらの思惟に限界を生じさせているのは、まぎれもなく「意識のハードプロブレム」が
    解明しなければならない脳器官的「神経反応」と意識的「覚醒反応」の未分化的発想に他
    ならない。 つまり、ここで言うところの「井戸」とは、脳器官を閉じ込めている身体的
    外形のことであるのは明白であろう。

  • 【なぜ人は自分探しをしようとするのか】その3


    ところで、脳器官から因果的に付随するだけの感覚的に発生するクオリアは、広大な世界
    の中へ泳ぎ出し、そこで世界意識という別のクオリアと結ばれるのであるが、
    では、それを探してどうなるのかという話になるだろう。
    ↓こうなるのだ。

    親の関心を十分に受け、それがために具体的現実的な志向性を刷り込まれた身体的脳器官
    的「神経反応」的クオリアは、自らの一次的生存領域において、まず力による支配を目論
    むのである。
    それは、「志向性」という具体的現実的特性からの必然なのであり、その「志向性」が強け
    れば強いほど志向される外部は益々巨大で絶対的な地位を占め、自己の存在を失わせてし
    まうほどになる。 
    この支配性を賭けた争いは、あまりに現実的であり、まるで飢えた者同士が一個のパンを
    奪い合って殺しあうような血みどろの凄惨な事態でしかないのだ。
    もちろん、福音書の中でイエスが語ったとされる「剣を投げ込む争い」などでは、けして
    ない。「志向性」の衝突からもたらされる争いは徹底的に愚劣であり反吐が出るほど醜悪
    だ。 しかし、そこに<覚醒>した者の「意識」が降臨すると事態は別の様相を呈するこ
    ととなる。 
    あたかも、視力(この視力を感覚器官のそれと同義に解釈してはならない)を奪われた者
    が自分以外の他者を手当たり次第に撃ち殺していた悲惨な状況から、視界が戻り少なくと
    も敵と味方の区別がついたかのように。 <覚醒>した者の「意識」は、その「意識」の
    作用によって自己が他者なしには存在しえぬことに気付くのである。 
    ちなみに、「意識」のごく微細な波形が、将来、物理学的な何らかの装置で検出されたとし
    ても、そのことで「意識のハードプロブレム」が解明されたことにはならないだろう。
    なぜなら、物理的な具体性をもってしまった「意識」は、その時点で「志向性」として認
    識されるにすぎないからだ。 依然として「意識」は、それよりもさらに捉え難い何かと
    して存在し続けるからである。

  • 【なぜ人は自分探しをしようとするのか】その2


    「身体的脳器官によって発生した感覚が何らかの仕方で関わりをもってしまった世界から
    意識されているであろう自己自身という存在」

    「自分探し」を感覚対象を追い求める物理学的手法を通して認識するゲス野郎に限って、
    その主体に自己責任を持たせようとする。そこにおのれのエゴしか感じることができない
    からだ。 ところが、「自分探し」において探されるものとは、感覚対象ではなく意識対象
    なのである。

    もっと言うならば「自分(の感覚対象を)探し」ているわけではなくて、「自分(を含めた
    世界の意識対象と自分自身の意識を)探し」ているのだ。

    つまり、この行為を厳密に解釈しようとすれば「自分探し」では決定的に言葉足らずに陥
    るのは明白だったのである。なぜ、これを「自分探し」と、あえて表現したのか・・・・。
    この、〝心の産声〟ともいうべき崇高な行為に対する身も蓋もない悪意は、いったいどこ
    から現れたものなのか。 おそらく、その理由は―――

    「自分たちがしてこなかったことをしている者に対する嫌悪」があったからだろう。

    先入見に反する物事に対する嫌悪や嫉妬が、「自分探し」ではなく〝意識探し〟をする若者
    の命を見捨てたのである。 国家が保護すべきであった若者の命を・・・・・。

  • 【なぜ人は自分探しをしようとするのか】その1

    この行為を、意識の問題に絡めて本格的に探求しようとした形跡は、あらゆる人文科学の
    分野において今のところ皆無であるといっていい。
    なぜそうなのか、その理由は簡単である。
    これを「知」に毒された学者どもは、ただ「志向的作用の迷走」としてしか評価してこな
    かったからだ。
    この行為の本来の意味を知ったとき、異国の地で「自分探し」をしていた若者を見殺しに
    した日本政府の胸が悪くなるような非人道的処置の真実が暴露されるだろう。
    「人質になったのは自己責任だ」という痛ましい発言で知られた、あの事件である。
    なぜなら、「自分探し」とは「自分の具体的現実的志向性のための行為」であるというより
    も意識的「覚醒反応」に導かれながら「非志向的に世界のありのままを捉えようとしてい
    る」こととして理解されるべき現象なのだから。
    それを「自己責任」と切って捨てるのは、まるで猛獣の前に這い出した赤ん坊に向かって
    「自己責任」を言及しているようなものである。
    その「覚醒反応」に導かれた純粋な魂の保護者は、まぎれもなく「国家」だったのだ!!

    そもそも、「自分探し」という言い方にも問題がある。
    この言葉をつくったやつは、「意識」についてまるで無知な、「神経反応」だけが人間の世
    界内的存在のすべてだと錯覚している無能な学者だったのではないかと思えてならない。
    「意識の旅」に出ようとする者は、なにも自分の現実的具体的志向性を探したいわけでは
    ないのだ。 だから、この場合「試行錯誤」というのも間違っていることになる。
    「彼は今、人生の中で「試行錯誤」の途中なんだよ」と、分別顔で言うやつに限って、具
    体的な成果を上げられない人間をけして認めようとはしないものだ。

    「試行錯誤」を繰り返して意味があるのは、科学の実験のように辿り着く地点が仮説的に
    見えている場合に限られる。しかし、「意識の旅」に目的地など無いのは明らかだ。
    ゆえに、そこで「試行錯誤」などおこなわれるはずもなく、ただ「脳器官が紡ぎ出す有限
    の志向的意志を世界意識の中で検証してみようとする無限の覚醒的意識だけが」そこで働
    いていると推定されるのである。
    そうであれば、「意識の旅」に出る者が「探している」のは、いったい何なのだろう?
    それは端的に言えば、こういうことだ・・・・

  • 【あらためて論点の整理】

    「意識のハードプロブレム」という空前絶後の巨大な認識の壁は、「神のハードプロブレム」
    を「知」によって克服してきた人類に、さらに乗り越えるべき困難な命題として与えられ
    ているのだった。
    しかし、このアポリアは、やがて解かれるであろう。
    いや、解かれなければならないのである。
    我らの「知」のみならず全能を尽くしてこのことに真剣に取り組めば、人間の「意識」と
    は何か、なぜ自分はここに居るのか、さらに「意識」は物質的身体のように滅びるのかと
    いう究極の疑問に至るまで、いつの日か明確な回答が出るにちがいないのだ。
    この問題の解明のために、脳器官的「神経反応」に根拠をもつ「志向的作用」と意識的
    「覚醒反応」に導かれる「非志向的作用」との関わりと、それぞれの現象的実態を記述し
    なければならない。 なぜ、そうするのかというと、その両者が未分化であることこそ、
    自己自身への過剰な意味付けと、この世界をあるがままに認識する節度ある作法への障害
    になっているように思えるからである。
    そのために用意した論題として、
    ≪なぜ人は自分探しをしようとするのか≫ を語ってみることにしよう。
    そこに意識への手掛かりがあることを期待して・・・。

  • 【志向的連関希求性とはなにか】その3

    では、いったい、忍耐心を本来的に導く「自分ひとりの思いを超えた何か」とは、たとえ
    ばどのようなことなのだろうか?
    ここは、「意識のハードプロブレム」を解明するための非常に重要な概念が含まれる部分な
    ので詳しく語らなければならない。
    おそらくは、意識の壁の前で立ち止まっている「知」の罪人たちは、こう思うに違いない
    のだ。 「その自分以外の思いとは要するに、(お父さん)(お母さん)(先生)がそう言っ
    たから我慢しなきゃいけなんだよ、ということにすぎない」と。
    つまり、それは何か高尚な「意識」がもたらしているというよりも、所詮は脳器官に刷り
    込まれた具体的現実的な「記憶」を志向しているだけなのだということなのである。

    しかし、われわれは、人間の心には「意識」が作用するのではなくあくまで「記憶」が
    自動的に機能するだけだという感覚的志向に根ざす愚鈍な発想によって、次のことが忘れ
    去られていることに注意しなければならないのだ。

    「いかなる具体的現実的な志向性を喚起する命令であっても、そこに意識に伝わる何かが
    欠けているならば主体の覚醒した意識は志向性を拒否するであろう」 ということに!

    つまり、たとえ(お父さん)(お母さん)(先生)が、いかなる志向的記憶を刷り込もうと
    しても、なにものにも屈しない強い本来の「意識」をもつ者は、そういう(お父さん)(お
    母さん)(先生)の背後に「べつの何か」を捉えているはずなのである。
    その「べつの何か」こそ、「自分ひとりの思いを超えた何か」であることは言うまでもない。
    これが、脳器官にかかわる志向的な「神経反応」にすぎない現象を超えて作用する、「意識
    のハードプロブレム」の謎を解く鍵のひとつである〝覚醒反応〟というものなのだ。

  • 【志向的連関希求性とはなにか】その2

    無責任な教育者ほど、この志向的連関希求性という「心の癌」とも言うべき事態に恐ろし
    く無頓着であり、むしろそれを憐れな生徒達に植えつけているのだ。
    そういう教育者のことを「発癌性教育者」と呼んではいけないだろうか?
    まあ、軽い冗談だと思っていただきたいw(半分マジだがww)

    それにしても、「覚醒的意識作用」を促すのではなく、具体的現実的な志向的意識作用を煽
    り、そうすることが忍耐心を育てるのだとまで言い一人残らず志向性の泥沼へ引き摺り込
    もうとする教育者には気を付けるべきだろう。
    なぜなら、具体的現実的局面において志向的意識作用が有効であるのは、あくまで(志向
    主体ではなく)志向対象に応じた客観的対症的処置を行なう場合に限られるからである。
    そこに志向主体についての忍耐がどうとかいう問題は起こるべくもない(はずなのだ)。
    もし、志向主体が「志向的意識作用」をおのれの意のままに(忍耐をもって)行使しよう
    としたら、この社会は、どうなるだろう?

    獲物(生きた人間)を求めてさ迷うゾンビが溢れかえることになるのは目に見えている。

    そのために〝倫理〟があるのだと言うかもしれない。 しかし、その〝倫理〟自体がすで
    に感覚(科学、理性、客観)至上主義的な「志向的意識作用」に毒されてしまっているこ
    とに気付かねばならないのだ。
    ただし、
    「覚醒的意識作用」をもちながら現実の志向対象を回避する(発見できない)者は、
    自分の世界に引き籠り、やがて滅びに至るであろうことは想像に難くないのだが・・・・。

  • 【志向的連関希求性とはなにか】その1

    たとえば、学生時代に「はっきりと特定できる出来事に対して忍耐した記憶がある」とす
    る。 その場合、その忍耐心は、「はっきりと特定できる出来事」についての「志向的連関
    希求性」をもったのだ。
    ここで問題になるのは、
    その事態が、本来的な〝忍耐心〟を歪める結果しかもたらさず、それ以後に現れる「はっ
    きりと特定できる出来事への過剰な関わり(いわゆる執着)」を誘発することになってしま
    うということである。
    なぜなら、〝忍耐心〟とは本来、はっきりと特定できる対象へ向かうのではなく、むしろ
    そういった物事には関係しないところで「自分ひとりの思いを超えた何かのために」作用
    するものと考えられるからである。

  • 【志向的意識作用とそれ以外の意識作用についての若干の言及あるいはロボットが
    人間らしい意識をもてないことの証明】

    志向的意識作用とは具体的現実的な外部への、はっきりとそれと特定可能な対象への関心
    なのであり、抽象的想像的であるがゆえに特定することができない概念的対象への想いを
    含んでいない。
    つまり、こういうことができる。

    志向的意識作用以外の意識作用のことを「覚醒的意識作用」と呼ぶ。

    この覚醒的意識作用は、その終点を自身の内面(への想い)に帰着させるがゆえに人間的
    であると同時に非科学的非有用的である。
    それに対して志向的意識作用は、外的対象(への関心)を目的地とするがゆえに、非人間
    的であると同時に科学的有用的なのである。

    われわれは、ロボットが科学的有用的に進歩するならば、それが人間的なものを身につけ
    るのではないかという幻想に囚われることがある。
    しかし、それは意識作用の根本的誤解に起因する愚かな妄想に過ぎない。
    ロボットの科学的有用性は、どこまで行っても非人間的なままなのだ。なぜなら、ロボッ
    トは所詮ロボットであり物質レベルにおいても、ただの機械でしかないのだから。

  • 【意識のハードプロブレムにおける最難関(志向性の問題)】その3


    ところで、ここで論じなければならないのは「意識のハードプロブレム」についてである。
    この問題に無知な者にとっては、もし仮にそういうことがあったとしても、それが何だと
    いうのだ?という印象だろうというのは想像に難くない。
    なぜなら、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」を脳器官の中に一定以上の強
    度で与えられなかったとしても、それは「関心の対象となる事物に対する知的好奇心をも
    つことで補完できるじゃないか」と考えてしまうからだ。
    タチの悪い教育者が、「生徒にやる気を起こさせる勉強」という場合、たいがいがそういう
    愚かな思考にもとづいているのである。
    ・・・・だが、はたしてそうなのか?

    本当にそれで、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」をもつのと同じ効果が、
    その人にもたらされると言えるのか?
    これこそ・・・この問題こそ、まさに「意識」と「脳器官」の作用についてあまりにも鈍
    感で無知で愚かな人間が長年にわたり繰り返し犯し続けてきた人間を含むすべての世界内
    存在への許し難い冒涜行為だったのである!!
    結論だけを先に言っておこう。 反吐が出るような内容なのだが・・・・

    血の通った人間である親の「関心」を受けてつくりあげられた「物事に対する関心の持ち
    方(すなわち志向性)」と、
    ただの無機質な紙片とインクと、読み手によって何とでも変えられる情報にすぎない対象
    的事物から出来上がる『物事に対する関心の持ち方』とに、
    いったいどれだけの共通点、類似点があるというのだろうか?
    おそらく、その両者は「言語上形式上同一に見えても中身(意味)は似ても似つかぬ」も
    のであるはずなのだ!!

    つまり、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」とは、それをもつ当事者にとっ
    ては、外部に(から)付加される「医療用の補助器具」のようなものではないのであり、
    おのれ自身の中に(から)存在していなければ意味のない何かなのだ。
    次子に対して、長子よりも大量の本を与えて志向性獲得の機会を与えたのだから、それで
    意識的には(次子も長子も)平等のはずだ、などというのはナンセンスに過ぎる話だろう。

    人類の「知」は、まだこんなことも理解できない地点にあるということか・・・・・
    なんと、暗澹たる話ではないか(苦笑)

  • 【意識のハードプロブレムにおける最難関(志向性の問題)】その2

    そもそも長子と次子では、なにが違うのか?
    外部環境に違いがあるとすれば、それは「長子出生から次子出生の間」であろうと思われ
    る。 つまり、長子出生から次子が生まれるまでの間、親の関心は長子のみに注がれると
    いうこと。 これは長子のみの特権である。
    次子は常に、その出生のときから長子が得ていた関心の2分の1しか与えられることはな
    いのだ。 この親から受け取る「関心の濃度の違い」が、「物事に対する関心の持ち方(す
    なわち志向性)」の滋養と成立に影響をもたらしているのではないか。
    0歳~2、3歳までの間に「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」の素地という
    か核のようなものが脳器官の中に形成されるのかどうかは定かではない。 それを物理的
    に実験することは対象の年齢条件等を考えても人道的常識的に無理であろう。
    だから、親の関心をより強く受けて育てられた長子だけに、「物事に対する関心の持ち方(す
    なわち志向性)」という途方もなく貴重なアイテムが付与されているのだとしても、それを
    直接に証明する手立ては今のところ無いのである。

  • 【意識のハードプロブレムにおける最難関(志向性の問題)】その1

    現在の教育制度において、身体的脳器官には機能的に特別な差異が認められないにも関わ
    らず、圧倒的に「長子」が有利であるのは何故なのか?
    教育に金がかかる、せめて「長子」ぐらいはいい学校へ行かせようとする親の思惑が働い
    ているからそうなるのだ、というのは単なる環境的物理的解釈にすぎない。
    問題は、それだけなのだろうか?
    自分(次子)の経験では、学業をすべきと定められた期間の中で、自分と長子とを比較し
    てみた結果、ある決定的な違いが両者の間にあることに気付かされたのである。
    それは、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」を長子は確実に持っている(持
    たされている)が、自分には今だにそれが実感として無いということだった。
    つまり、長子は小学生のときから「自分がやるべきことをすでにわかっている」かのよう
    に学業に励み学生生活を過ごしていたのだが、一方、次子である自分は、「学業を何のため
    にしなければならないのか」すら明確になってはいなかったのである。
    これは、決められた時期に教育を受けなければならない現在の教育プログラムの中では、
    凄まじいばかりのハンデキャップなのではないだろうか?
    おまえがバカだったからだと言われればそれまでなのだが(苦笑)

  • 【意識とは脳過程にすぎないのではない】

    意識が脳過程(具体的には神経反応)にすぎないというとき、観察されたものと観察する
    ものとの単純な混同によって意識を観察されたもののほうへ締め出そうとする立場(唯物
    論)と、観察する主体の中に意識を閉じ込めてしまおうとする立場(唯心論?)がある。
    しかし、意識とは、そもそも脳過程にすぎないものではないのであり、それは正確にいう
    と「世界内的な物質過程そのもの」なのである。

    もし、意識が脳過程にすぎないのだとしたら恐ろしい不都合が生じるだろう。
    たとえば、脳の過剰な機能性がもたらす神経症などの病(やまい)に一度囚われてしまう
    と、そこから脱出することが(脳自体の物質的改造でもしない限り)不可能になってしま
    うのだ。
    その場合、症状の放置は身体的な【死】を意味する。
    われわれは、脳過程の中で唯物論にも観念論(唯心論)にも陥らずに、意識において、こ
    の危機から自らを救う方法があることを知らねばならない。

    それこそが、脳過程を超越したところに存在している<意識>本来のはたらきなのだ。

  • 【状態学において危惧されるある問題点について】


    「記憶のバイアス」ということがある。 これが問題となるのは、
    たとえば、「犯罪状態学」において、ある犯罪者から想像される場面(シチュエーション)
    を意識が拾う場合、それが、おのれの「神経反応」の蓄積された記憶を志向してしまうこ
    とが十分に考えられるからだ。
    それは、犯罪者の記憶(いわれなき迫害や世間の冷たい視線など)に同調する自分の記憶
    が社会の中にありえない幻想をもたらしてしまうようなこととして。
    しかし、そのようにして学的に表現される場面(シチュエーション)は、必ず「一般性の
    欠如」「過剰な否定判断」という性質を伴っているはずなのだ。
    なので、客観的にそれを見究めることは十分可能であると思われる。
    本来、状態学的に意識が拾わなければならないのは、「自己の脳器官内に蓄積されている記
    憶」なのではなくて、記憶に同調するしないに関わらず存在する犯罪者と社会(世界)と
    の関係性(状態)に見えてくる何かなのである。
    だから、状態学の「判定者」は、つねにこのことに気をつけておかねばならない。
    そうでなければ、慈悲心と寛容さをもたらすはずの<想い>が、記憶の怪物を呼び覚ます
    ことにもなりかねないだろう。

  • 【意識の還元可能性への若干の言及】その2

    意識を語る上で問題となる「主観主義」の立場と「客観主義」の立場。
    そのどちらもが意識を語る上での資格を(少なくとも現状の意識をめぐる様々な議論においては)有してい
    ないことに注意しなければならない。

    その「主観」というものの捉え方が、まず間違っている。それをデカルト的な理性を可能とする〝思い〟に
    限定するなら、その〝思い〟は、やがて意識と和解するであろう〝思い〟ではなく意識の中の異物としての
    〝思い〟だ。

    また、そのような〝思い〟が増殖して総量を増しただけの「客観」とは、意識を破壊し食い破ろうとするの
    であって、けして〝思い〟を包み込み叶えようとする「客観」的作用ではないのである。

  • 【意識の還元可能性への若干の言及】

    意識は因果的に「神経反応」へ還元できるという説がある。 これは、まったくの思い違
    いだろう。 意識を、もしそのような物質性へ還元しようとするなら、それは特定の「神
    経反応」に帰されるべき何かということになる。
    しかし、そのようには到底思えない。
    神経反応によって不可避的に生じる現象に過ぎないことが意識とは別の出来事であるとい
    うのは明らかなのである。 
    なぜなら、われわれは誰もが、その不可避性を可避的可能性において意識しているからだ。

    また、意識は存在論的に三人称の客観的事物には還元しえないというのも同様に錯誤を含
    んでいる。 なぜなら、一人称の主観的実体は存在しないのである(それは意識が見せる
    幻にすぎないものだった)から、意識それ自体は、いわゆる主観以外の形式すなわち客観
    的に認識されうる出来事であると看做されるからである。 
    その客観的なるものが(現時点において)物理的に観察可能なものかどうかは別にしても。
    われわれは紛れもなく、その痕跡を上記に説明した不可避性の可避的可能性によって意識
    し発見しているのだ。

  • 【状態学のすすめ】

    「状態学」という学問分野の成立を強く望む。
    それは、旧来のひたすら「知」を追求する学問の体系からは外れたものとして、しかし、
    あたかも断崖絶壁に追い詰められた者がそこから翼を広げて跳躍するような新たな「方法
    論」として、それを学問に取り入れる必要が迫っているように思えてならないからだ。
    状態学の「状態」は、シチュエーションという意味に近い。
    あらゆる学問には、それが現実の場面に適用される「状態」があるはずであり、法的状態
    学、数的状態学、物理的状態学、言語的状態学はいうに及ばず、哲学的状態学、宗教的状
    態学というのもありえるだろう。
    その学問的方法は、当然<想像力>によって担保されなければならない。
    たとえば、「物理的状態学」でいえば、物理学の所産が「経済学」や「政治学」や「倫理学」
    の見地から何をもたらすのかだけを問うのではなく、「状態学」では、こういう命題を立て
    るのである。
    「この物理学が生んだものから想像される事とは何か」と・・・。
    そこで想像された事態は、人間の身体的「神経反応」ではなく「意識」そのものを直撃す
    るだろう。
    そして、様々な想像を積み重ねた「意識」は現実に対して「より寛容になる」はずなのだ。
    「知」だけを突き合わせた学的体系の中では、そのような意識の豊饒性とも呼ぶべきこと
    は起こりようがないのである。

    これに関して最も期待される分野が、「犯罪状態学」である。
    つまり、こういう命題が提起されるのだ。
    「この犯罪者から想像される事とは何か」
    我々は、とくに凶悪犯罪を認識したような場合、「法学」や「倫理学」や「教育学」や「社
    会学」それにお決まりの「心理学」まで総動員して「知的解決」を図ろうとする。
    しかし、そのような「知」はすべて「意識のハードプロブレム」を乗り越えられない身体
    的「神経反応」をベースとした「人間存在という実体の錯覚」から生じている「裁きしか
    もたらさない憐れむべき知」に過ぎないのである。
    そもそも、犯罪は「知」に対する復讐として発生するのだから、社会全体が<想い>に満
    ちた状態になれば、そのような悲しむべき事態もなくなっていくのかもしれないのだ。
    あくまで希望的観測ではあるが・・・・。

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