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  • >自分の主観で物事を定義し過ぎるぞ

    そう思えるのは、主観の何たるかを知らんからだよ。
    というより、本当の意味で主観(クオリア)をはたらかせたこともないんだろう?
    出鱈目な客観的(感覚的)観察を列挙するだけで、世界を構成する客観と主観について
    説明しようとするから可笑しなことになるんだよ。

    水が雨に変わっても、それは同じ(客観的な)物質じゃないか。
    【死】は主観の中でしか経験できないのさ。
    それなのに、きみは【死】を客観的な現象として説明しようとする。
    滑稽としか思えないね。(笑(憐憫

    「危険だ」という感想に過ぎない文意が、正論だ!と叫ぶあたり、哲学知がある人物でも
    なさそうだな。 返信はもうやめておくよ。 無駄だから。

  • >水と同じで汚れても最後は浄化され再び母なる大地に降り注ぐ

    喩えがイマイチよくわからない。
    水が浄化されるシステムなんか自然界にあるのか?
    汚れた水は雨になっても汚れてるだろ、ふつう(笑

    五感がクリア(リセット)されたら、じゃあ何が残るんだ?
    「無」を信じればいいのか?
    それとも、そこには、なおも何かが有るのか?

    【死】を生の現象のコロラリーとして認識しようとし過ぎじゃないのかい?
    だから、【死】が、まったく実感できないんだよ・・・・。

  • >ただ、良いこと、悪いことの定義によっては悪い方向へ移行するよね

    仏教には、その悪い方向へ移行することを止める手立てが何も無いんだよ。
    これは、偏見でもなんでもなくて「事実」なんだからしょうがない。
    俺が、ある宗派の印可を受けたという坊さんを試して導き出せた苦い「事実」なのさ・・・・。

    「原発はいつ暴走するかも知れないので危険だ」というのは偏見だが、
    「原発がフクシマを廃墟にした」というのは偏見ではなく「事実」だ。

    偏見だ、偏見だと騒ぐ被差別者にかぎって、被差別者が実際にやらかしている「事実」を
    棚に上げているもんだ。
    「事実」と偏見を混同してはいかんね。
    どんな「事実」だったのかは、その坊さんのプライバシーもあるだろうから、ここでは言えんが(笑

  • あいにく、仏教にはまったく興味がない。
    というより、仏教を信じるやつの神経を疑うところがある。

    むかし、ある宗派の印可を受けたという男をネット上で試したことがあった。
    そいつの言説、態度を仔細に分析し検証してみた結果、仏教的なものの見方考え方の
    根本的欠陥を明らかにすることができた。

    端的に言うなら、「仏教とは彼岸を此岸の現象でデッチ上げる技術である」ということ。
    これに尽きる。(冷笑)
    だから、やつらは、いつもこう思っている・・・・・
    「現世で悪いことをした者は、あの世で報いを受ける」
    「現世で良い行いをした者は、あの世で天国に入れる」

    仏教のこの感覚至上主義的発想は、イスラム過激派の流れに絶望的な形となって引き継
    がれていくことになる。
    やつらは、こう信じているそうだ。
    「現世で良い行い(過激派の信念に従い敵を出来るだけ多く殺害すること)が出来た者は
    あの世で天国に入り幸福に暮らせるのだ」と。

    このような仏教の悪しき流れを断つ哲学を、人類史の中でたった一人、考え出した男が
    いたそうだ。
    その男が言うのは、こういうことさ。

    「彼岸と此岸は連続した世界ではない」
    「現世で悪いことをした者も(悔い改めれば)あの世で報いを受けない」
    「現世で良い行いをした者も(悔い改めなければ)あの世で天国に入れない」

    もちろん、良い行いの中には「修行」だとか「呪文のような題目を唱えること」も含ま
    れるわけでwww

  • 「わかっていないことがわかっている」というのは悔し紛れの洒落にしか聞こえないね。

    「わからないのはわかろうとする気がないから」
    というのが、学生時代落ちこぼれていた筆者の持論だよ。(笑)

    前者の言説は、偏差値主義のクソ教育者がホザきそうなことだ。(嘲笑)
    出来の悪いきみが「わかっていないことがわかっている」という意味でね。

    後者の芸術的哲学的直観こそ、《五感中心主義》とも言い得るソクラテス以来の「おバカ
    認識」を飛躍的に進化させる〝意識〟をつかむ手掛かりとなるだろう。

    きみが理解できないからといって、わかろうとする気がある俺まで巻き込まないでほしい。

  • 五感を、「死ぬと確実になくなる」と断定することはできない。
    なぜなら、五感とはそもそも確定的対象へしか向わない機能だからだ。
    確定的対象へ向う機能が、不確定的世界(死後の世界)で、どういう機能的変容に至る
    のかなんて証明不可能であり不確実であるとしか言えないだろう。

    なのに、五感から発生する事実にすぎない「苦しみ」なんかが、死んだら「なくなる」
    んだと考えてしまうのは、なぜなのか?

    それは、人間の『感情』の二面性に気付いていないからだ。

    不確定的世界(死後の世界)を想像して〝悲しむ〟ということと、なにかの感覚的対象を
    失ったときに出る「悲しむ」という反応とは別種の作用であるということ。
    まず、この二つを理解したまえ。
    ちなみに、
    前者の〝悲しみ〟は、〝哀しみ〟と書くこともある。

    たとえば、(死後の世界にいるであろう)死者の魂におもいを寄せるときの〝悲しみ〟は
    〝哀しみ〟だが、
    お金を失って「悲しむ」ことを〝哀しむ〟とは言い表さない。

    前者の〝悲しみ〟は、不確定的世界(死後の世界)へ逝っちまえば当然、確定的世界では
    確実になくなっている。 
    それは、別世界へ旅立つときの不安のようなものにすぎないからだ。

    しかし、後者の「悲しみ」は、同一の(確定的)世界内でのことに言及しているだけなの
    で、その言及の仕方を引き継ぐならば不確定的世界(死後の世界)へ逝っちまったからと
    いって今度、同一の(不確定的)世界内で「悲しみ」が確実になくなると断定することは
    できないということになるだろう。

    余談になるが、
    ここに、「なくなってほしいものほど、なくならない」というパラドックスが出来上がる。
    これは、これからますます激化するであろう国家間紛争を調停し解決する契機ともなり得
    る重要な概念である(のかもしれない)笑)

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