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植松聖とか

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  • 2016/07/31 10:39
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  • このバカのやったことは要するに、「障害者に点数をつけて生きてていいかどうかを
    決めよう」という、クソ学校教育のナレの果てみたいなことに過ぎない。
    点数をつけて人間存在を判断するということが「学校」という枠内で行われている
    かぎり、それは犯罪行為ではないのかもしれないが、「学校」のみならず「全生活圏」
    にまでその評価の適用範囲を拡張したとき、こういうクソみたいな事態が晒されるこ
    とになる。

    なお、犯罪行為ではないのかもしれない、と一応言ってみたが、ここは非常に疑惑に
    満ちたところではあると思う。 なぜなら、「学校」―「家族」―「社会」-「全生活圏」
    というわれわれを取り巻く環境は、ここまでで終わりという区切られた形式をもってい
    るわけではなく緊密に絡み合い浸透しあい連続し流動していると考えられるからである。

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  • こういうバカが出てくると決まって湧いてくるクソ議論のひとつに、「監視社会の是非」
    というのがある。
    要するに、この手のバカを徹底的に監視する社会が望ましいのか、人権?に配慮して監視
    しない(そのかわり関心をもつ)社会になるべきなのか、というアホみたいな堂々巡りの
    議論のことだ。

    このアホ議論に意味がないのは、なぜか?
    きわめて簡単に言うとこうなる。
    ①「監視する社会」の主体について何も言及されていない。なので、肯定派はその主体に
    ついて無反省なだけであり、否定派は疑心暗鬼のまま拒否反応を抱くという根源的分裂
    状態にあるということ。
    ②「監視」と「関心」の主体について何も言及されていない。なので、肯定派は理想的な
    人格を想定して「関心」をもち出すのだが、否定派は、そういう「関心」の継続が不可
    能であることを生活実感として気付いている。つまり、両者はやはり根源的分裂状態の
    ままでしかないということ。

    こういうバカに対しては、「監視社会の是非」など呑気に問うている場合ではないのだ。
    こんなバカが社会の真っ只中に徘徊しているという事実を受けとめ、緊急事態として二度
    とこんな悲劇が起きないように対処するしかないのである。

    事件は、現場で起こってるんだ!!!  by 青島 w

  • このバカのような「社会依存的人格障害」ほど醜悪でグロテスクで本当の意味で社会
    に有害な存在はない。

    なぜなら、「反社会的人格障害」として定義される行為類型には、まだ倫理性道徳性へ
    の希望が残されているが、「社会依存的人格障害」ともなると、もはや「ある社会の中
    で絶望的に歪んでしまった《欲望》」に引き摺られているだけだからだ。

    反社会性は、社会の再生に役立つ場合がある。
    しかし、このバカに代表されるような社会依存性は、社会を破滅に陥らせるだけなのだ。

  • このバカが教師になっていたら、きっと【悪の教典】という貴志裕介の小説に出てくる
    主人公「蓮実聖司」みたいになっていたはずだ。
    蓮実〝聖〟司は、植松〝聖〟の予言だったのかもしれない。

    ただし、このバカの吐き気がするばかりの所業は、小説に描かれた殺人行為ほど美しい
    ものではなかった。
    なぜ、小説の中の殺戮が美しいのか・・・・・当たり前の話だが、それが事実にはなっ
    ていない思想、哲学の表明に過ぎないからである。

    「蓮実聖司」というキャラ設定は、「反社会的人格障害」であったようだ。
    つまり、邪魔者を抹殺することに何の躊躇もない異常人格である。
    「蓮実聖司」は、おのれの倫理性、道徳性に反する存在を、すべて抹殺対象とする。
    そういう意味では、真正の「反社会的人格障害」であると言えそうだ。

    しかし、このバカの場合はどうだろう?
    このバカには、自分自身の倫理性、道徳性は存在しなかったように思えるのだ。
    もし、それがあったなら、弱者のみを抹殺対象としながら強者には手紙を書き摺り寄る
    というブザマな振る舞いなどしなかったはずだから。(まったく醜い限りではないか!)

    そういう意味で、このバカをキャラ設定するとすれば、ニセの「反社会的人格障害」
    あるいは、「社会依存的人格障害」と呼ぶのが妥当であろう。
    さらに言うならば、この手の「社会依存的人格障害」というのは、現役の教師および
    教師を志望する多数の人間に珍しくない特性であると断言していいと思う。

  • このバカが教師を目指していたという事実に戦慄を覚える。
    と同時に、これが現代のクソ教(凶)育の実像なんだろうと妙に納得するところもあった
    りする。

    〝人間の尊厳〟を教科書の山の中に埋めつくして平然と教壇に立つこの手のイカレタ教師
    は、五万といるだろう。
    いい点数を取った者だけが(社会の中で)(幸せに)生きる資格があるんだと、鏡の前で
    不気味な笑みを浮かべるクサレ外道の教育者は、山ほどいるだろう。

    障がい者=0点   健常者=50点   いい点数を取れる健常者=100点

    このルールが、このバカがおのれの小汚い脳内にデッチ上げた架空の《生活圏》では通用
    していたらしい。

    ところで、生まれながらのものに点数をつけるのと、アポステリオリな要素に点数をつけ
    るのとは意味が違うのだろうか?
    生まれながらのものにつけられる点数は、《生活圏》に及ぶからダメで、アポステリオリな
    要素につけられる点数は、限定的な《圏内》にしか及ばないからセーフなのだろうか?

    限定的な《圏内》?    たとえば《学校圏》とか?
    だから、アポステリオリな要素に点数をつける現代の教育は間違っているわけじゃないと
    このバカに似た多くの愚か者どもは思っているのだろうか。

    そうではないのだ・・・・・。

    すべての限定的な《圏内》は、《生活圏》に通底し、浸透し、流動しているのだ!!

    われわれは、どんな《場所》においても、どんな場合であっても、どんなルールがそこに
    あろうとも、点数で人間を評価してはならないのである。

  • この手の(独学で身につけた)アホ思想、クズ哲学にかぶれるバカを心の底から後悔させる方法は、優れた思想家
    哲学者の指導を懇切丁寧に受けてもらうことからはじまる。
    何にでもかぶれやすいバカなので、優れた思想哲学にもすぐに感化され、涙を流して自分のしたことを後悔するよ
    うになるはずだ。(どう考えても、その程度のバカにしか見えない) 
    そして、ここからが重要なのだが、後悔し精神的にはマトモになったこの元バカに「極めて残虐な方法による刑罰」
    で死んでもらうのだ。
    そうすることで、はじめて、このバカが他人に与えた苦しみと「同じ苦しみ」を、自ら味わうことになるだろう。

    こうでなければ、完全な罰とは言えない。

  • こういうキ○ガイが出てくると、いつも思うんだが
    「極めて残虐な方法による刑罰」って、あっていいよな?
    適用条件を、こういうキチ○イに限定すれば、残虐な刑罰も「妥当な刑罰」になるだろうし。

  • このままでは、マズイ・・・・・・・・・・

    「弱者」に危害が、これ以上及ぶ前に  

    このバカの同類どもを、殲滅しなければ、マズイぞ・・・・・・・・・・・・・・

  • ○○予備校の××、見てるか?  テメーのことだ、ヴォケが・・・・

    「弱者」=落ちこぼれに死んでほしいんだろ?  そう言ってたよな?

    □□高校の××、テメーもだ!!!

    「弱者」=落ちこぼれが、この世界から居なくなってくれればいいって言ってたよな!!!!!

    テメーら全員、このバカの同類じゃねーか!!!!!!!!!

  • このバカに似たクソ教育者なんて、掃いて捨てるほどいるぞ。

    「弱者」=落ちこぼれ生徒なんざ、死んでしまえ!! と暴言を吐くクソ教育者なんて
    いくらでもいるぞwwwwwwwwwwwwwww

  • クソ教育の論理では「弱者」を守れないことが、こういう事件に遭遇すると非常によくわかる。

    「弱者」=落ちこぼれが見殺し状態にある現在のクソ教育制度のあり方と、このバカの存在の仕方とは
    たいした違いがあるわけじゃないのだ。

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