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  • 個体の感覚的神経反応を「主観」といい、感覚的対象の一般化された記述を「客観」と
    呼んでいる。
    この「主観」と「客観」という認識構造は、つねに感覚をベースとしており、それとは
    異なる仕方で存在する〝意識〟に対し別のありようでしかない。

    もし仮に、独自性をもつはずの感覚的神経反応が一般化された記述に置き換えられたり
    公正であるべき一般化された記述が特定の神経反応によって歪められるような事態が発
    生するならば、それは、ある一点の共通した問題に重大な瑕疵を孕んでいるからだ、と
    われわれは気付くべきなのである。

    それが、すなわち 〝意識〟の瑕疵 ということなのだ。

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  • 余談になるが、ゾンビ映画に出てくる「ゾンビ」は、あたかも無際限に増殖しマトモな
    人間を一人残らず殺しつくす(非常に強大な)者であるかのように描かれている。
    不思議なことに、けして、ほっておけば(時間が来れば)勝手に死滅してしまうであろ
    う(脆弱この上ない)対象のようには捉えられていないのだ。
    それは何故だろうか?

    端的に言えば、そうでなければ映画(エンターテインメント)にならないからだ。
    人間が、よせばいいのに「ゾンビ」と戦い、「ゾンビ」の相手をして、「ゾンビ」に感染
    し、「ゾンビ」状態を継続させなければ、お話がそこで終わってしまうからである。

    面白いのは、現実の世界が、映画みたいになっていることだ。

    殺し合う世界が現実だと誤認する一部の愚かな人間にとって、平和な世界は、死ぬほど
    退屈で仕方ないところなのである。
    だから、映画みたいに「ゾンビ」が暴れまわる世界こそ現実なのだと思い込み、他人に
    もそう思い込ませる。 そうしなければ死ぬほど退屈な世界に逝って、この現実を彼岸
    から指をくわえて見ているしかなくなるのだ、と・・・・。

    しかし、実際は、どうなのか?
    見ているのは現実ではなく、「ゾンビ」の跋扈する映画に過ぎないのだとしたら、映画の
    ように殺し合う愚かな者たちは、いずれ(脆弱この上ない)対象として、われわれの記憶
    から消えてしまうだけのものなのかもしれないのである。

  • 主観性が死んだ人間のことを、〝意識〟を研究する(脳科学、哲学等)の分野において、
    こう呼ばれている。
    【ゾンビ】あるいは【哲学的ゾンビ】であると。

    この存在は、個体の物理的神経反応を有しながら、なおかつ〝意識〟に瑕疵がありそれが
    はたらいていない者であると想定されているようだ。
    つまり、主観的な一定の満足感(名誉のために他者を殺害することが夢であるというよう
    な)は有しながら、それは物理的神経反応に遺伝した(死んだ機能)に過ぎず、生き生き
    とした〝意識〟においてその「死んだ主観性」を捉え直すことができない、ということで
    あると解される。

    「死んだ主観性」は、身体的機能的には生者とまったく変わらずに存在している。
    なぜなら、〝意識〟に瑕疵のない生者にも、不断に死んでいく身体的機能性は備わってい
    るからだ。
    ちなみに、この問題の物理主義的解釈は、「死んだ主観性」の機能だけをもって人間存在を
    定義しようとすることにおいて著しく不当であると言わねばならない。

    話を戻せば、現代日本の教育制度において、この生き生きとした〝意識〟が、個性に溢れた
    生徒ひとりひとりを照らし出せていないことは明白なのである。
    それは、罪深い「教育者というゾンビの製造者たち」が、「死んだ主観性」の機能だけをも
    って社会的一般化を担うエリートとともにランク付けすることで、独自の個性を発揮して
    社会に貢献できるはずの非エリートたちを、みすみす死なせて(〝意識〟に瑕疵をもたせ
    て)しまっているという事実を指しているのだ。

  • 現代の日本において最も深刻な様相を呈しながら現象している問題が、教育制度に他なら
    ない。
    現代日本の教育制度全体には、明らかな〝意識〟の瑕疵がある。

    この瑕疵によってもたらされ今もなお数多くの教育関係者によって平然と継続されている
    ことを端的に言うならば、こういうことだ。


    ≪社会的一般化によって目的付けられる才能以外の、多数の独自の輝きをもっているはず
    の個性が、おのれが満足しているのか不満足なのかも定かならぬ地平に導かれてしまった
    結果、一般化の才能たちとともに自滅している≫


    本来、おのれの神経反応に忠実に独自の個性を深化することによって社会に貢献できるは
    ずであった個性たちは、一般化のエリート教育とまったく同じ手法をしか持ち合わせてい
    ない愚劣な制度によって「一般的個性」というわけのわからぬものに変質されてしまって
    いるのだ。
    その結果が、「新しい錬金術」の顕著な弊害である「主観性の死」なのである。

  • 現在のマスコミには、〝意識〟の瑕疵がある。

    これは、すべての個人が危機管理上想定しておかねばならない確実な事実だ。

  • 社会的に一般化された(されるべき)装置であるマスコミという社会機能が、あたかも独
    自性を備えた神経反応によって個性を主張しているかのような「擬態」をとることがある。
    たとえば、個性的なキャラクター、個性的な出演者、個性的な芸能人、個性的なタレント
    個性的な文化人といったものがマスコミでやたら目立つとき、われわれは次のことを警戒
    する必要があるのだ。

    「公正であるべき一般化された記述が特定の神経反応によって歪められるような事態」が
    そこで発生しているのではないかということ。
    つまり、科学者のデータ偽装のようなことが、マスコミ内部で行われている可能性につい
    てである。
    そういう意味でいうと、記憶に新しい「STAP現象データ偽装問題」は、もしかすると、
    科学者の偽装だったのではなく、それを大々的に報じた「マスコミの偽装」だったのかも
    しれない、と思うのは勘ぐり過ぎだろうか?

    勘違いしたバカの集団と化したマスコミは、それを構成する個々の人間がゲスな満足感
    の中で、電波利用という社会的一般化の公的作用を濫用している。
    これが、「古い錬金術」において現象した真摯な客観的科学的探究心を妨げる悪しき方向
    性をトレースしている事態と同一であることは明らかなのだ。

    「STAP現象データ偽装問題」で報じられるべきは、データの純粋な客観性に関してで
    あって、科学者の人格についてではなかった。
    われわれは、マスコミの取る正義気取りの「擬態」が、純粋な客観性を失い最悪な部類の
    主観性= 「妄想」 を楽しんでいるだけであることに細心の注意を払わねばならないの
    である。

  • ここで次のような疑問をもつ者がいるかもしれない。

    「実現」しもしない「夢」をもつことに、いったい何の意味があるのか?・・・・という
    中途半端な「夢」で満足している者が必ずといっていいほど囚われてしまう懐疑である。

    およそ中途半端な「夢」ほど、やっかいなものはない。
    たとえば、ある時代には「名誉のために他者を殺害すること」が「夢」であることもあっ
    たのである。
    その中途半端な「夢」は、ある種の満足感に裏付けられているのだが、その中途半端な満
    足感を主観に定位させてしまうものこそ「社会的一般化」の作用なのだ。

    人間はなぜか完成度(クオリティ)の低い一般化された社会的事実に同調することで満足
    感を得ようとする〝意識〟の瑕疵をもっている。
    この〝意識〟の瑕疵は、「名誉のためでも他者を殺害しない」という「夢」をけして信じ
    ようとせず、「名誉のために他者を殺害すること」が一般化社会化されない「夢」なども
    つ意味は無いのだとすら断じてしまうのである。

    つまり、「夢」が「実現」しもしないわけではなく、「夢」ならば「実現」させないとい
    うことも「夢」のあり方としては正当であるということが、中途半端な夢で満足している
    者にはわからないのだ。

  • われわれは、「実現する」という社会的一般化を前提として「夢」をもつのではない。
    「夢」は、それ自身が深化し、自己自身を開示するための手段なのである。
    社会的一般化を目的とした「夢」をもつということは、そのこと自体が恐ろしくも忌まわ
    しい人間性の喪失(ロボット化)を意味するのだ。

  • そもそも「夢」とは、主観的独自性の中で、神経反応がおのれの身体構造の特殊性によっ
    て外部を再構成せんとするときに垣間見る幻影なのである。
    その幻影が「実現する」とは、どういうことなのか?
    それは、先に説明した二つの事態のうちのひとつに該当するものと考えられるだろう。
    すなわち、
    「独自性をもつはずの感覚的神経反応が一般化された記述に置き換えられる」という
    精神医療の分野で行われている「薬漬け」のような事態である。

  • 『学校は、生徒たちが「夢」を「実現する」ところである』
    という愚かなテーゼを信じている者は、いったい何人いるだろうか?

    この言葉を信じている人間には間違いなく、その〝意識〟に瑕疵があるのだ。
    ところで、〝意識〟の瑕疵ということを直接に説明することは困難である。
    おそらく、そのような言葉は非常に特殊な言語記号となり、誰にでも理解できるものには
    ならないのではないだろうか。
    そこで、具体的なケースにおいて、〝意識〟の瑕疵が「ある」か「ない」かを判定するこ
    とによって、その全体像を直観的に把握してもらう試みに挑んでみることにしよう。

  • つまり、社会のあらゆる局面ですでに現在進行形で継続している「客観」の進化にとって
    も、また、これから個の内面で深化していくであろう「主観」にとっても、それらは、た
    だ完全な〝意識〟とともに捉えられるのでなければ無意味だ、ということである。

    では、われわれは、この〝意識〟という摑みどころのない曖昧模糊とした実体を、どう捉
    えればいいのだろうか?
    〝意識〟のハードプロブレム(難問)において解明しなければならない命題とは、実は、
    これなのである。

  • 次に「独自性をもつはずの感覚的神経反応が一般化された記述に置き換えられる」という
    事態について説明する。
    これはたとえば、精神医療の分野で行われている「薬漬け」などが上げられる。
    個体の異常な神経反応を、薬物という一般化された効果だけが期待されるものによって
    コントロールしようとする試みは、個体への救済と言うよりは死の宣告に等しいのである。
    このことは、人間の主観と〝意識〟に対する知が黎明期にある現代において、少なからぬ
    学者、研究者にさえ誤解されている「新しい錬金術」を指しているものと考えられる。

  • まず「公正であるべき一般化された記述が特定の神経反応によって歪められるような事態」
    について説明する。
    これはたとえば、科学者のデータ偽装のようなことが上げられるだろう。
    そのことによって、本来ならば適正な形で発明され産出されたであろう有用な科学的成果
    が、「流産」することになるのだ。
    このことは、かつて科学的知が黎明期にあった頃に蔓延っていた「古い錬金術」を指す事
    態とも言えるであろう。

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