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愚者の語り

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  • 2017/08/27 07:33
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  • 愚者には愚者の言い分がある。
    これはどうかな?と思う、そんな事に棹さそうと思う。(押す、留める、2つの意味)

    今回は昨年、2015/11/1に発足した「放送法遵守を求める視聴者の会」について。
    要諦は「知る権利を守る為」と解釈した。

    あるキャスターの言い分。
     かつて欧米にも似たような規定があり、今は廃止されているとの事。
     偏向報道を糺すのでなく、左右の偏向を容認して公平性を保つ。
     なぜなら、人其々の意見があり、それを容認する社会だから。
    と、言っていた。

    どうも知識人は自分の意見の正当性を欧米文化の例えで表現する。
    敗戦後、正当性を欧米に求める思考が根付きつつある。(憲法と輸出に頼る国だからか)
    そのような状況にあるが、どうも、しっくりこない。

    しっくりこない理由を思考する。
    日本には「お陰様」の思想が根底にある。
    しかし、この言葉をあまり聞けなくなった。
    科学の信奉と個人主義の蔓延がその要因と思える。
    現実は過去を背に未来へと続く道程の通過点でしかない。
    無限にある過去の現実や、無限にある未来の現実。
    比べれば、10年・100年の時は一瞬の現実でしかない。
    しかし、「過去の憶測、未来の予測、結果の出る現実」である。
    生きる事は現実を一歩一歩進めるしかない。
    過去に捉われ、未来を恐れては歩むことができない。
    しかし、方向性は意思で決定できる。
    どの方向へと向かうか、個人の判断である。
    その時、頼るのが世間である。
    「人の振り見て我が振り直せ」とのことわざがある。
    公正さを保つに役立つのだが、欧米化により失われつつある。
    個人を尊重する名目で偏りを容認する。
    そこにしっくりこない理由ありそうだ。
    偏向を容認する社会は、公正さを探求する手立て失う。
    「知る権利(偏向報道で失っている)」は当然だが、権利は争いの素。
    「公正さに向かう社会の構築」そこを目指すべきと愚考する。
    欧米と日本の公正さの違いを明確にすべきと愚考する。
    もしかしたら、欧米と日本も同じ公正さが存在するとの思っているのかも。
    公正さは時代により、社会の環境により異なる。
    多くの民衆の意識が公正さに繋がる。
    よって、敗戦後にできた憲法は民衆の意識を捻じ曲げて作られたので、公正さがない。
    憲法には公正が記されている。
    が、公正さの意味を哲学的に考察していない。
    混乱した時代を言い訳に、国民投票のない憲法は公正さがない。

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    地球人 8月27日 07:33

    永六輔の追悼の場で、娘さんが「人は2度死ぬと、父に聞かされた」と言っていた。
    その訳は1度目は心臓が止まった時、2度目はその人の記憶が生きている人の記憶に無くなった時。
    ある、聞いている人が「流石、永さんだ」と、言った。
    私も成程、その発想もあるか、しかし、ならば、「人は3度死ぬ」と言って欲しかった。
    3度目の死は「遺伝情報の消失」、つまり、その人の痕跡が完全抹消された時。
    日本人ならそう語って欲しく思う。

  • 【忌避すべき事】
    久し振りに己の足りなさに気付いた。
    愚か者が愚かな自分に気付いた。
    私はそれなりに好奇心も向上心ある。
    しかし、身に付けた知識を誰かに伝える事を拒否してきた。
    自分が分かれば良く、其々、各々が知りたい事を学べば良い。
    そんな考え方である己に気付いた。
    忌避すべき事を気付かずにいた。
    今更もう遅い、記憶力が確かなうちに備えておくべき心得だ。

  • 【死】
    刻々と時が過ぎる。
    刻々と死が訪れ、生が産れる。
    留まる事の無い時の流れ。
    生死流転の果てを私は知らぬ。

    先程(2016.10.4)、壇蜜が「エロスと死」のタイトルでネパールを紹介していた。
    私は40年程前、旅の途中で亡くなった日本女性を見送ったことがある。
    蒔きの上に遺体を置き、完全に焼き終わるまで、傍で見つめて見送った。
    遺体を焼く煙が身に纏わりつき、匂いがした時など、「未練があるのか」との想像が湧いた。
    もしそうならば、未練を棄て、成仏するように願った。
    旅の途中で病にかかり、亡くなったのは無念であろうと思う。
    私自身も死にかけた時、「今はまだ死ねぬ」との強い想いが湧いた。
    この時、私は2度目のネパール滞在であったが、前回は友人がボンベイで亡くなっている。
    ネパールからお釈迦さんの生誕地ルンビニまで旅をしただけの友人だが、
    彼を苛立たせた事は何度もある。
    お互いの持つ常識の違い、大切な事への違い、配慮する事へ違い、解釈の違い・・・様々あった。
    学業で学ぶような知識は彼が優れており、現実対応への解釈は私の方が優れていた。
    彼は学業で知識を付け、私は現実から学ぶ。
    権威を信じる者、信じない者との違いであったように思う。
    彼にとって、「私は不用心な者」と思えたらしい。
    その頃のインド・ネパールでは、近寄って来る者のほぼ全てに用心する必要があった。
    騙されるのは日常茶飯事であった。
    しかし、騙される限界を設けていれば気にする程ではない。
    正義感を持ち、不正を憎み、民度の低さを嘆いていた。
    その気持ちは分かるが、日本社会の感覚を現地に持ち込んではいけない。
    そんな事を議論した覚えが今もある。
    40数年前のたった1週間の出来事を覚えている。
    優れた才能を持ち、24歳で逝った一週間だけの友人。

  • 【ボケの前兆】
    昨日、荷造り紐と布テープを買った。
    最近買ったような気がして、以前置いてあった所を探したが見つからなく、
    昨日買ったのだが、買ってきた物を仕舞おうとした時、
    「もしかしてこの袋に入っているのでは?」と中を見たら、有った。
    三日前も、辻堂魁の新作小説と思って買ったら、既に読んでいた。
    一応、これまでのように、タイトルだけでなく、パラパラと読んで確認したが、
    家に帰って、数行読み、「この設定はもしかして、と思ったら」、案の定既読であった。
    記憶が斑に残るようになった。
    何となく、警戒のサインは出ていて、確かめたのに、気付けなかった。
    回復力もそうで、湯気で火傷を負った時も、以前なら赤く色づく程度が、水膨れになった。
    そして、完治するまで、2週間も掛かり、痣が残っている。
    如実に老いを自覚する出来事が続いている。
    肉体からの警告を精神が追い付かなく成っている。
    これが、【ボケの前兆】かと思う。
    ならば、進行を防ぐ手立てはあるか?・・・手強い相手だ。

  • 信じる感覚
    恐らく、この感覚が生命維持に繋がるのであろうと思う。
    その代表的な例が、鳥達にある。
    卵から孵った雛が最初の遭遇を親と慕う特徴に、その証を観る。

    安心を求める事と信じる事は同義のように思える。
    簡単な事だが、現代日本、及び、近代文明はそこを置き去りにしている。
    保育について乳幼児の立場より、社会環境に向き過ぎている。
    乳幼児が安心を抱く順位は、母親・父親・兄弟・・・となる。
    つまり、最も身近かな存在から順位づけられる。
    ところが、現代は保育の上手・下手で順位付けられている。
    だから、保育園に預けようと奔走する。
    乳幼児の頃、既に親離れさせられる。
    その結果、疎外感を持つ若者が増えているように思える。
    満たされぬ安心感・足らぬ愛情、保育の上手い下手と愛情は違う事に気付かねば。

    原因の大本は個人主義や自由の履き違えの弊害と私は断定している。

    金儲け優先社会に、経済優先社会となっている。
    「経済が戦いを制する最大の武器である」と公然と謳う。
    間違っていないと思うが、秩序維持には繋がらない。
    まず、会社が公益の為にある存在との定義が足らない。
    その根拠は株の売買益を求める組織も会社として存在している。
    架空の存在を実態化させ利益を得る。
    生産・流通とは別の消費するだけの組織が存在している。
    バブル経済を作り、
    リーマンショックのような馬鹿げた混乱を作る社会になっている。
    あまりに作為的な社会環境が構築されている。
    人はもっと謙虚に自然と向き合うべきだ。

  • 「私は何者だ?」
    60数年自分に問い続けている。

    40年程前、インドにてお釈迦さんの教えに出会った。
    未発達な科学、偏見・差別・迷信・・・等の社会中で、
     透徹した哲学的思考の末に至った結論に驚いた。
    悟りの意味を間近に感じた時であった。
    自分は社会に惑い、自分にも迷って、行着いた先がインドであった。
    同様な人達が居て、「インドに呼ばれた」と不可思議な状況を言葉にした人が居た。
    非科学的でも、何となく頷ける。
    インドは迷信の坩堝(るつぼ)で、しかし、知性の高い人達が暮らしている。
    高学歴の者達がオーム真理教に入信して騒がれた、その理由を理解できる者は少ない。
    簡単に表現すると、科学の胡散臭さを実感している人達が入信の根底にある。
    キリスト教の伝道師が「信じる者は救われる、ただ信じて居よう」と布教活動をしていた。
    洗脳する言葉として名言だと思う。
    日本でも、「南無阿弥陀仏、ナンマイダ」は有名だ。
    それで救われる者も居るだろう。
    残念だが、私はその中に入れてもらえないし、入ろうとの意識が働かない。

    有る時、明日が来るのを信じている自分に驚いた事がある。
    無意識にそう思っていた。
    今、気付いたが、無意識は信じている事の集まりだ。
    成程、信じる感覚の大本が無意識にあったのだ。
    もしかしたら、「分裂症はこの信じる感覚が鈍ったのかも」と、推察する。
    多くの精神異常の根本が「信じる感覚」にあるかもしれない。

  • ③:愚か者の悟り

    脳は見事な整合性を保つ仕組みを持って居る。
    自己都合に合わぬ事を拒否する。
    それを、分からないとの発想で代弁する。
    誤魔化す自分を迷路に誘い、分からなくする。
    嘘つきは多弁な傾向がある。
    中国には「嘘も百回言えば本当に思える」との言い伝えがる。
    同種の事を無意識の中で組立てる。
    「真面目に生きる」、「正直に生きる」、我を通す手段に使う。
    実に巧妙な働きをする。
    本人すら自覚できない所へ誘い込む。
    「真面目に生きる」、「正直に生きる」が、最善の処世術と思いこまされた。
    「真面目に生きる」、「正直に生きる」のは、辛くても恥を感じない。
    そして、時々、喜びがある。
    「真面目に生きる」、「正直に生きる」で、良かった事が訪れる。
    幼き頃、「おてんとさま」が見ていると言われ、悪事を避けた。
    そして、良心を作ったように思う。
    しかし、そこに大きな穴があった。
    全ては、反抗心の強い心が育てた、お膳立てであった。
    反抗心が強くても、世間との摩擦を軽減させる方法であった。

    「三つ子の魂百まで」と言う。
    私の反抗心の強さは一生続くのであろう。
    それを、私は業と呼ぶ。
    愚か者である事から抜出られぬ運命を背負っている。
    本当の悟りに至らぬ道を歩む自分が居る。

  • ②:愚か者の悟り

    自分が愚か者と悟って、嬉しい反面悲しく思っている。
    嬉しいのは一つ賢くなった事。
    悲しいのは取返しのつかぬ数々の出来事。
    そして、これからも愚か者の道を辿る事。
    今思い出したが、40年近く前も「己は愚か者だ」と思った事がある。
    最近悟ったように思っていたが、忘れていただけだ。
    しかし、40年前と少し違う。
    40年前は反省し、自己変革しようと思った。
    しかし、修正すべき所の根本、その正体を掴んでいなかった。

    私が最初に憧れを抱いたのは特攻隊で亡くなった叔父であった。
    カッコいいと思い、死ぬならそんな死に方をしたいと思った。
    それが、小学生になる前であった。
    60年近く過ぎた今も、その気持ちが残っている。
    だから、命を懸けるに値する仕事を探した。
    それが愚か者の具体的な始まりと思う。
    「赤子の気持ちが分かる大人になろう」と決意したのもこの頃だ。
    思い返せば、様々な事を決意しながら青年になり、大人になった。
    「青臭い考え」と幾人の人に言われたか。
    自己中心的・傲慢・生真面目・・・思い出せぬ位多くの助言があった。
    しかし、理解できぬ私は、その時々心に傷を負った。
    平気な顔をして、心を隠してきた。
    恐らくみんな、そんな傷を負い成長するのだと思う。
    ところが、私はそんな評価を全て却下した。
    だから、自分勝手であり、傲慢であった。
    救いは他者を傷つける事を恐れて居た事だ。
    だから、自分勝手では無く、傲慢でもないと、思っていたのだが。
    「己の間違いは気付かぬ」と思う。
    長所の裏に欠点が控えている。
    その欠点に気付かず今日まで生きて来た。
    情けなく思うが、これからも、同じであろう。

  • 反抗期、ほぼ全ての人に訪れるらしい。
    私自身は反抗期の自覚が無い。
    しかし、今も反抗心が旺盛だ。
    流される事を極端に嫌う。
    幼き時より、親兄弟、先生に至るまで反抗してきた。
    だから、嫌われ、鬱陶しがられた。
    しかし、初対面の者や、付合いの浅い者は真面目で正直そうだと言った。
    長じて、働けるようになった時、面接は好評価であった。
    今になって、自分自身が反抗的な者と自認している。
    善悪・良し悪しをハッキリさせる事こそ素直な者と思っていた。
    挙句の果て、法律も、自己判断で守るかどうかを決める。
    振返るとそんな者であった、自分を愚か者だと思う。
    少年期の私に向かって、兄の口癖は「馬鹿は死ななきゃ治らない」であった。
    今になって、愚か者の定義が自分にピッタリ当て嵌まると分かる。

    「愚か者とは、個人主義者である。」と現在は考えている。
    また、「傲慢は個人主義者の辿る道端にある」とも思う。

    振返って自分を眺めれば、愚かな事は自己判断を優先させた事だ。
    世間に任す事を浅い知識で判定を下し生きて来た。
    真面目で、正直だから生まれる世間との軋轢。
    「正直者は馬鹿を見る」・・いいじゃないか、誤魔化して心を恥じるのは辛い。
    それが、良心であろう。
    世間がなにを言っても恥ずかしい事をしなければ良い。
    公明正大であれば良い。
    本当に恥ずかしい限りだ。
    傲慢な者の言い様と思う。

  • 今回は「保育園落ちた、日本死ね」にまつわる話。

    そんなものを、山尾志桜里氏が国会質問の種にした。
    安倍首相は匿名を理由に問題外としたが、マスコミが騒いだ。
    そして、保育中の母親達が国会前でデモをした。
    節度のない「表現の自由」と思う。
    環境が変われば、ISの首晒しとなる。

    保育園以前に節度ある社会環境が必要であろう。
    環境汚染を問題にするが、モラル低下を招く事を支持するのも環境汚染だ。
    しかし、保育問題にばかり焦点を当てる。
    検察庁に居た者が告発者である。
    検察のモラル低下の証明であろう。
    権力の監視が役目だと豪語するマスコミは擁護している。

    国会における野党のモラル低下が酷くなっている。
    反権力を掲げるマスコミは、何も言わない。
    だから、最近、反日勢力と揶揄される。
    私は、民進・共産・社民・マスコミを無責任連盟と名付ける。

  • 大阪の校長が中学卒業生の女子に向かって、
    「子供を二人以上産むのは仕事より大切だ」との話をした。
    その事を生徒の親が聞いて、教育委員会に抗議している。
    そこで、校長に聞取り調査し、注意を与えたと聞く。

    近頃、こんな当然な事が分からないらしい。
    命は独立した存在ではない。
    引継がれなければ、消滅する。
    生物と鉱物の違いは、子孫を残す行為があるかないかである。
    つまり、命を引き継いでいるかどうかである。

    では、なぜ、多くの者が間違いに気付かぬのか?
    色々な原因があるであろう。
    愚者は、個人主義にあると考察している。

    個人主義の致命的欠陥は、命を独立した存在と捉えている事である。
    背景に「我思う故に我あり」の哲学が潜んでいる。
    西洋には宿命・運命・使命の言葉がない。
    また、日本でも誤解を招くような説明しかない。
    広辞苑では以下の説明がある。
     宿命:前世から定まっている運命とある。
     運命:人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。
     使命:使いとして命ぜられた用向き。
    これでは現代風説明でなく、神の存在が背景にあると、誤解する。

    愚者の説明は以下である。
     宿命:遺伝情報(DNA)による働き。
     運命:遺伝情報(DNA)による働きが環境により変化する事。
     使命:遺伝情報(DNA)による働きによる用向き。
    以上。

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