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    同じようなタイトルで数回やったが
    碌なコメントがなかった
    そこで、徹底的に
    論戦を仕込むため、
    あからさまに、考えをぶつけることにする。
    みなさまも、頭脳のありたっけを
    ぶつけてくれ。

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  • 368(最新)

    hjy***** 11月8日 13:36

    日本人はなぜか社会の真っ只中にいるのに、「社会化」という作業が必要となっている。欧米ではその作業は聞いたことがない。

  • 社会学を勉強する者にとって、気にならないのが「日米の絆の世界」である。そこ「世界」はグローバルか。そうじゃないだろう。それでは一体なんだ。この「世界」と社会はどう違うのだ。日本の場合その本質として、社会がない代わりに「世界」が中心として働いている。その「世界」から外界を見るその場所は「世間」だと言えないか。

  • あなたの家族が集まって成人の祝い、就職したことの祝いをしたことがないのですか。これは「単なる言葉の問題」ではない。形で、習慣で表しているのが言葉の問題とは言わない。行動の中に閉じ込められた思想の問題です。もう少し考えよう。人と動物を分ける唯一のものは「考える」である。

  • >>363

    >社会の中で生まれたにもかかわらず生まれた時は社会人ではない。<

    そりゃ言葉の問題でしょう。
    日本語での社会人は勤労者と言う意味ですかな。
    経済的自立者ということでしょうね。
    もちろん、高齢者や、専業主婦も含まれる。

  • > だからさー。論理学の存在のありよう、古代民主政治のありようは「世の中個で出来上がっている」という哲学がない日本で成立するかを説いているのだ。その「個」が日本にあるのかないのかあなたは何も説明していない。<

    いや、お久しぶり。
    社会が個で出来上がっているか否か。
    日本では殆どないでしょうね。

    古代ギリシャ、ローマにはあったでしょう。
    もっとも、それは奴隷や女子には無かったかな。
    そうなった背景には市民が武器を持って兵役に就いていたことがあげられるかも。

    日本のサムライは西洋中世の騎士に通ずるような精神があっただろう。
    ただ日本では究極的には天皇に仕えるという前提が有った。
    この点でも個の論理は弱いか。

    明治になって福沢先生が独立自尊と言ったが、それは日本に存在しなかったことを意味している。

  • ヨーロッパではよく「人間は社会の対立物」という言葉を使う。
    日本人の私にはわからない言葉である。社会を認識するところから始まる。だから、社会の中で生まれる赤ん坊は一人前とは扱われず、就職した時親が「社会人になったね」と祝う時一人前として扱われる。社会の中で生まれたにもかかわらず生まれた時は社会人ではない。社会を認識できる年齢になって初めて社会人たるものとなる。認識が先にあって社会人となる。社会という晴れの舞台に立てるのは大人になってからである。ところが欧米では生まれた時そこから社会人である。

  • 「個」が世の中の基礎とするアメリカ及びヨーロッパ文明、日本は「機能」がその基礎。それを知らない人が日本には差別があるという。「個」と「個」の関係は対立関係しか生まれない。対立関係は対立しうる一線上の上でしか存在しない。その対立に決着がついた時、対立し得ない関係として生まれる。敗れた方は人間ではないという新たな認識のもと、対立し得ない関係に移る。つまり敗れた方は「奴隷」となる。その「奴隷」があるから差別が概念として成立する。奴隷制度があるところ差別は発生する。今でいう、家事労働をするフィリピンからの出稼ぎ、それは家内奴隷として扱うことができるから雇える。ところが日本は「奴隷」概念がないから、家内労働をする人を家族として扱う。その労働者の親親戚などを日本に招待して気持ちを通じ合う仲間としてしまう。その現実的問題がある。そして奴隷は街中で金で売り返される。貨幣制度が日本に根付いたのは、室町時代ごろからである。それだから、銅銭を中国の明から輸入していたではないか。使うものだったら日本国内で製造する。街、貨幣制度から判断すると「社会」がないことがわかるだろう。考えなさい、思考は人間だけができることなんだから考えることを大切に。

  • >>360

    だからさー。論理学の存在のありよう、古代民主政治のありようは「世の中個で出来上がっている」という哲学がない日本で成立するかを説いているのだ。その「個」が日本にあるのかないのかあなたは何も説明していない。「社会」という文字を明治の文豪たちが中国の古典から引き出さなければならない苦労は、「社会」という概念が日本にも中国にもないことから発生しているのだと主張しているのに、ただ表面的なものに終始、何もならないではないか。駄文、時間の無駄でしょう。社会哲学及び形而上学に置いてどうなのか、その根本から説明すべきでしょう。今アメリカ及びヨーロッパ文明が淵に差し掛かっている今その認識の上で答えるべきでしょう。

  • >>354

    人と人とが話し合い、理屈でもって真理に到達しようとする。

    それが論理学ではないか。

    古代民主政治と不可分。

    言論の自由が無い処では民主主義は存在しない。

  • 明治維新はやく西欧化しなければ南蛮人、紅毛人に日本人の命が消されるという危機感で、哲学及び形而上学がまったく異なるのに、無理を承知で「社会」という概念、「論理」という概念などを日本に当てはめた。その咎めでこの体たらくな思考しかできなくなってしまった今の若者達。この日本での歪みはどうなってこれから投影されるかわからない。そのなかで幼稚な若者が増えている。

  • 論理を展開するに当たって「この世は「個」で出来上がっている」という形而上学及び哲学がなければなりません。「個」という概念はメソポタミア文明から発信されたものがアメリカ大陸にいくという拡大で現在終了しています。だから「意思疎通をしなければ」という前提は成り立たない。このように対立及び対抗構造によって人類は民族皆殺し、戦争、奴隷制度、大量虐殺の歴史を綴りました。このような歴史はいらない。「論理学が発達」など人を殺人に向かわせる哲学及び形而上学はいらない。古い考えに固執しないで、次の文明をめざさなければ第三次世界大戦は避けることは出来ない。

  • >>353

    論理学

    諸民族が入り乱れて諸言語でもって意思疎通をしなければならない地域では論理学が発達したのでしょう。
    その中でも古代ギリシャ。
    対話によって学問の深化が見られた。

    西洋からインド辺りまでは論理学が存在したか。

    日本や東南アジアでは人間同士よりも自然との結びつきが主要な位置を占めていたので殆ど不要だった。

    中国では巨大政権が強圧的な力でもって言論封鎖をしていたような社会だったので、これまた論理は不要だったのでしょう。
    それでも孔子や孟子の頃は多少その萌芽が見られる感じがする。

  • 論理学というのは、5000年か4000年前にあった文明、人類最古の文明だと言われているシュメール文明、及びその系統の文明、チグリス・ユーフラテス川のほとりにあった文明、アッシリア、ユダヤ、エジプト、ギリシア、ローマなどにはあるが、それ以外ではない。人が生きて行く故に過酷過ぎる自然環境だから、論理によって組み立てる学問が必要だったのだろう。自然などとの対立・対抗する気構えなければ、論理学などいらない。日本など自然に寄り添って生きる道を選んだ文明には論理学はない。自然を感じる感性によって生きる道を開くのである。したがって、理屈に優る者を避けるのは当然。理屈っぽい人は相手にしない。スムーズに事がはこばないからだ。ま、よくて神棚にまつりあげられる。そこからして、「理屈でこしらえた社会」の正当性などを論じるばからしさ。「人は自然の中で生きる」のだから、そのためのやりようから、理屈っぽくなるか、自然の空気、自然の風、自然を感じることが重要だとなる地域もできよう。これらに優越は無く、差別して考えることでもない。それらは公平・平等・優劣に関係なく、それぞれが人類文化の要素としている。

  • >>351

    日本には論理を軽視する言葉がある。
    「理屈っぽい」「理屈を言うな」「屁理屈」・・・など
    それが「感性を大切にし、論理を低く見る証」との見解を持つ人達がいる。
    「理屈を言うな」を英訳すると、おかしくなる。

    私は子供の頃から、理屈っぽく頑固で、一生この気質を引き続ける覚悟をしています。
    馬鹿と言われた事が「脳裏にこびり付いている」と憶測しています。
    つまり、人格否定されたとの思い込みですが、ようやく、その呪縛から解放されそうです。
    「社会のない日本」も同じと思えます。
    「理屈でこしらえた社会」、そのどこに正当性があるのか?
    結論に至らねば、論理破綻となる。
    だから、そこに様々な制約(条件)を設け、結論に導く。
    西洋の社会はそんな制約(条件)の下、構築されている。
    世界、世間は繋がっているか、繋がるか、であって、排他的要素(制約・条件)はない。
    この排他的でない事が、私を含め、今の日本人に欠けている。

  • 「規制を破ることが発展」?規制の内部に侵攻することで、そこに創意工夫を持ち込み歩みを進めたのが日本。いいなれば、幾何級数的発展ではなく、微分的進め方であるのが日本。その進めるにあたって、それを動かすものは気持ちの変動である。その気持ちの変動を捉えて、規制の内部に行こうやという行動を生み出す。気持ちの動向、気持ちの変動、変化、変遷によって、規制を破ることが発展だと認識する作法を生む文化もあれば、そのその規制の内実を掘り進むことを選ぶ文化もある。「我」も「欲」も気持ちの変動で現れる一つの現象でしかない。「渡世人」「旅芸人」は一つの世界を形成し、ここで持ち出すことではないと思う。最近ネットを見ていたら、ベルギーのある人が、ある人と言うが一角の人と思わざるを得ないが、ネットではそれらは省略されている。「日本人は外部に主張することはハナからなく、自分たちのやりやすいように改善を進めて出来上がっている日本、それをわれわれが眺めていいものだと感じている」。これは自分にはなるほどと納得の行く考えだと思っている。
    これら規制を中心に出来上がっている「世界」を、そこから見えるものを「世間」として認識し、それらをまとめて世の中出来上がっていると解釈。したがって、それを全体的にみれば、「分業」されているとし、その「分業」は性善説でくくられ、まとまった意思を示しているのが日本だとしている。それだけでは、他国からの侵略によって、日本人の生命が危ないので、「天皇制」をつくって、国という概念を導入、日本人という日本人を一人残らず殺される運命から逃れている。

  • >>349

    久し振りです。
    個の概念がない証が、フリーは自由だが、リバティーに当たる訳語が無い。
    個が集まり集団に成ると規制が必要となる。
    その規制を破る自由がなければ、進歩発展は望めない。
    だから、「リバティーなる言葉が必要となる」と、推察しています。
    しかし、日本は人々の集まりから思考します。
    人には「我」がある、「欲」がある。
    個性でなく共通意識から始まり、掟(規制)を作ります。
    だから、その掟(規制)は共通意識の塊です。
    それを破る発想は存在しなかった。
    しかし、別の世界も容認していた。
    それが、今日の部落であり、渡世人であり、旅芸人です。
    どの世界にも合わぬ者は、渡世人になる道が開かれています。
    「郷に入っては郷に従え」は色々な世界を容認しています。
    ところが、個人主義ならば、自己主張が必要で「リバティー」が必要となる。
    このように、日本と西洋の違いを分析しています。

  • キリスト教が日本では流行らない、1%未満しかいないという現実は、「社会がないのに社会学がなぜあるのか」という課題に関係している。さらにいえば、日本に初めてキリスト教を布教した当時から言われ、神父の仲間では、「日本は神父の墓場」と言われるようになった根本原因は、「個」の観念がないこと、概念もないということ。彼らに言わせれば一日の終わりに神との対話する時間が真実であるという認識がある。その場合「個」という観念がなければ神との対話すらできない。成立しないのだ。第二次世界大戦での日本の自分の命すらいらない、捨て身の攻撃である特攻、この攻撃にはキリスト教信者であるアメリカ兵も度肝を抜いたようだ。その観念、概念がない。
    「自分の命は父・母があってこそある、その父・母の命も祖父・祖母がいてあるのだ。祖先からの命の繋がりがあって現在の自分の命がある」、この自己否定的考え、「個」がどこにあるのか不明な考えの日本でキリスト教は不況不可能である。キリスト教信者から言わせれば、信者じゃないあなたのお母さん、お父さん、おじいさん、おばあさんは地獄行きです。と言われるとどうなんでしょう、父・母から産まれた私が天国、その父・母は地獄、あの世とやらで仲良く暮らしたいができない、こんな宗教いらんということになる。
    「個」はない、生きている状態を大切にしたいは、アメリカ及びヨーロッパ文明とは肌が合わない。さらに言えば、シュメール文明を基礎とするこれらの文明はわれわれとは赴きを事にする。

  • 「個」と「人物」とはいっしょではない。「個」は100万人1000万人1億人、10億人と集めた中から、個性部分を削ぎ取り、その残ったものを「個」とする、「人物」は産まれてからいままでの人生の歩みからつくられた総体を見たもののなかから見出されるもの。以上の違いがある。

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