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    同じようなタイトルで数回やったが
    碌なコメントがなかった
    そこで、徹底的に
    論戦を仕込むため、
    あからさまに、考えをぶつけることにする。
    みなさまも、頭脳のありたっけを
    ぶつけてくれ。

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  • 360(最新)

    nas***** 5月27日 14:37

    >>354

    人と人とが話し合い、理屈でもって真理に到達しようとする。

    それが論理学ではないか。

    古代民主政治と不可分。

    言論の自由が無い処では民主主義は存在しない。

  • 明治維新はやく西欧化しなければ南蛮人、紅毛人に日本人の命が消されるという危機感で、哲学及び形而上学がまったく異なるのに、無理を承知で「社会」という概念、「論理」という概念などを日本に当てはめた。その咎めでこの体たらくな思考しかできなくなってしまった今の若者達。この日本での歪みはどうなってこれから投影されるかわからない。そのなかで幼稚な若者が増えている。

  • 論理を展開するに当たって「この世は「個」で出来上がっている」という形而上学及び哲学がなければなりません。「個」という概念はメソポタミア文明から発信されたものがアメリカ大陸にいくという拡大で現在終了しています。だから「意思疎通をしなければ」という前提は成り立たない。このように対立及び対抗構造によって人類は民族皆殺し、戦争、奴隷制度、大量虐殺の歴史を綴りました。このような歴史はいらない。「論理学が発達」など人を殺人に向かわせる哲学及び形而上学はいらない。古い考えに固執しないで、次の文明をめざさなければ第三次世界大戦は避けることは出来ない。

  • >>353

    論理学

    諸民族が入り乱れて諸言語でもって意思疎通をしなければならない地域では論理学が発達したのでしょう。
    その中でも古代ギリシャ。
    対話によって学問の深化が見られた。

    西洋からインド辺りまでは論理学が存在したか。

    日本や東南アジアでは人間同士よりも自然との結びつきが主要な位置を占めていたので殆ど不要だった。

    中国では巨大政権が強圧的な力でもって言論封鎖をしていたような社会だったので、これまた論理は不要だったのでしょう。
    それでも孔子や孟子の頃は多少その萌芽が見られる感じがする。

  • 論理学というのは、5000年か4000年前にあった文明、人類最古の文明だと言われているシュメール文明、及びその系統の文明、チグリス・ユーフラテス川のほとりにあった文明、アッシリア、ユダヤ、エジプト、ギリシア、ローマなどにはあるが、それ以外ではない。人が生きて行く故に過酷過ぎる自然環境だから、論理によって組み立てる学問が必要だったのだろう。自然などとの対立・対抗する気構えなければ、論理学などいらない。日本など自然に寄り添って生きる道を選んだ文明には論理学はない。自然を感じる感性によって生きる道を開くのである。したがって、理屈に優る者を避けるのは当然。理屈っぽい人は相手にしない。スムーズに事がはこばないからだ。ま、よくて神棚にまつりあげられる。そこからして、「理屈でこしらえた社会」の正当性などを論じるばからしさ。「人は自然の中で生きる」のだから、そのためのやりようから、理屈っぽくなるか、自然の空気、自然の風、自然を感じることが重要だとなる地域もできよう。これらに優越は無く、差別して考えることでもない。それらは公平・平等・優劣に関係なく、それぞれが人類文化の要素としている。

  • >>351

    日本には論理を軽視する言葉がある。
    「理屈っぽい」「理屈を言うな」「屁理屈」・・・など
    それが「感性を大切にし、論理を低く見る証」との見解を持つ人達がいる。
    「理屈を言うな」を英訳すると、おかしくなる。

    私は子供の頃から、理屈っぽく頑固で、一生この気質を引き続ける覚悟をしています。
    馬鹿と言われた事が「脳裏にこびり付いている」と憶測しています。
    つまり、人格否定されたとの思い込みですが、ようやく、その呪縛から解放されそうです。
    「社会のない日本」も同じと思えます。
    「理屈でこしらえた社会」、そのどこに正当性があるのか?
    結論に至らねば、論理破綻となる。
    だから、そこに様々な制約(条件)を設け、結論に導く。
    西洋の社会はそんな制約(条件)の下、構築されている。
    世界、世間は繋がっているか、繋がるか、であって、排他的要素(制約・条件)はない。
    この排他的でない事が、私を含め、今の日本人に欠けている。

  • 「規制を破ることが発展」?規制の内部に侵攻することで、そこに創意工夫を持ち込み歩みを進めたのが日本。いいなれば、幾何級数的発展ではなく、微分的進め方であるのが日本。その進めるにあたって、それを動かすものは気持ちの変動である。その気持ちの変動を捉えて、規制の内部に行こうやという行動を生み出す。気持ちの動向、気持ちの変動、変化、変遷によって、規制を破ることが発展だと認識する作法を生む文化もあれば、そのその規制の内実を掘り進むことを選ぶ文化もある。「我」も「欲」も気持ちの変動で現れる一つの現象でしかない。「渡世人」「旅芸人」は一つの世界を形成し、ここで持ち出すことではないと思う。最近ネットを見ていたら、ベルギーのある人が、ある人と言うが一角の人と思わざるを得ないが、ネットではそれらは省略されている。「日本人は外部に主張することはハナからなく、自分たちのやりやすいように改善を進めて出来上がっている日本、それをわれわれが眺めていいものだと感じている」。これは自分にはなるほどと納得の行く考えだと思っている。
    これら規制を中心に出来上がっている「世界」を、そこから見えるものを「世間」として認識し、それらをまとめて世の中出来上がっていると解釈。したがって、それを全体的にみれば、「分業」されているとし、その「分業」は性善説でくくられ、まとまった意思を示しているのが日本だとしている。それだけでは、他国からの侵略によって、日本人の生命が危ないので、「天皇制」をつくって、国という概念を導入、日本人という日本人を一人残らず殺される運命から逃れている。

  • >>349

    久し振りです。
    個の概念がない証が、フリーは自由だが、リバティーに当たる訳語が無い。
    個が集まり集団に成ると規制が必要となる。
    その規制を破る自由がなければ、進歩発展は望めない。
    だから、「リバティーなる言葉が必要となる」と、推察しています。
    しかし、日本は人々の集まりから思考します。
    人には「我」がある、「欲」がある。
    個性でなく共通意識から始まり、掟(規制)を作ります。
    だから、その掟(規制)は共通意識の塊です。
    それを破る発想は存在しなかった。
    しかし、別の世界も容認していた。
    それが、今日の部落であり、渡世人であり、旅芸人です。
    どの世界にも合わぬ者は、渡世人になる道が開かれています。
    「郷に入っては郷に従え」は色々な世界を容認しています。
    ところが、個人主義ならば、自己主張が必要で「リバティー」が必要となる。
    このように、日本と西洋の違いを分析しています。

  • キリスト教が日本では流行らない、1%未満しかいないという現実は、「社会がないのに社会学がなぜあるのか」という課題に関係している。さらにいえば、日本に初めてキリスト教を布教した当時から言われ、神父の仲間では、「日本は神父の墓場」と言われるようになった根本原因は、「個」の観念がないこと、概念もないということ。彼らに言わせれば一日の終わりに神との対話する時間が真実であるという認識がある。その場合「個」という観念がなければ神との対話すらできない。成立しないのだ。第二次世界大戦での日本の自分の命すらいらない、捨て身の攻撃である特攻、この攻撃にはキリスト教信者であるアメリカ兵も度肝を抜いたようだ。その観念、概念がない。
    「自分の命は父・母があってこそある、その父・母の命も祖父・祖母がいてあるのだ。祖先からの命の繋がりがあって現在の自分の命がある」、この自己否定的考え、「個」がどこにあるのか不明な考えの日本でキリスト教は不況不可能である。キリスト教信者から言わせれば、信者じゃないあなたのお母さん、お父さん、おじいさん、おばあさんは地獄行きです。と言われるとどうなんでしょう、父・母から産まれた私が天国、その父・母は地獄、あの世とやらで仲良く暮らしたいができない、こんな宗教いらんということになる。
    「個」はない、生きている状態を大切にしたいは、アメリカ及びヨーロッパ文明とは肌が合わない。さらに言えば、シュメール文明を基礎とするこれらの文明はわれわれとは赴きを事にする。

  • 「個」と「人物」とはいっしょではない。「個」は100万人1000万人1億人、10億人と集めた中から、個性部分を削ぎ取り、その残ったものを「個」とする、「人物」は産まれてからいままでの人生の歩みからつくられた総体を見たもののなかから見出されるもの。以上の違いがある。

  • >>344

    女性との縁はまったくというほどありません。一ヶ月くらいは結婚したのですが、離婚しました。だから偉そうなことは言えませんが、女性は「無政府主義」だが、いまの考えです。とにかく男性の考えをこわします。

  • >>343

    男と女の間には深い闇があると、思います。
    男は、女が孕み、命を宿す感覚は永遠に分かりません。(男の世界)
    女は、痴漢、強姦までする、性欲の働きは分からぬと思います。(女の世界)
    卵子は留まり、精子を待つ存在です。
    静と動の関係が、女と男の関係かと思います。
    そこに、男と女の間(ま)が存在します。
    この間(ま)が永続に繋がる正体かと思えます。

    科学は証明が必要で、それ故、有限にしか対応できず、解明されぬ無限が残ります。
    それ故、実在しない間(ま)は、法を構成する要素にないと思えます。
    個人という概念を創造しても、個々にある間(ま)の重要性に及ばない。
    渋谷のスクランブル交差点は見事に間合いを計って、歩いている。
    日本は西洋のように、抱きついかず、握手せずに、間合いに意思を込めています。

  • >>341

    ちなみに演劇などで言われている「間」は日本でしかない考えである。
    それが使われ出している。「間」は「空白」、いまでは「ダークマター」に似ている。
    宇宙の98%が解明されていないもの「ダークマター」で占められている。
    これ「空白」と言えよう。

  • >>341

    >「わびさび」
    感じなければ解らない事象
    感じるという領域は「個」でしか発生しない
    その面からいえば確かに「個」という概念は日本にあるという認識はできる。
    しかし、その認識は一義的ではない、二義的だ。別の要素でいつでも「個」を取り払うことが出来る。
    「プライバシー」という観念が一般化していなかった日本では、風水害で、体育館などに避難したとき
    他人の目が気になる、のぞかれているようで、着替えもおちおちできないなどもクレームは聞いたことがない。
    いつでも「個」は消せる、「歳をとるとまるくなる」は善く言ったもので、志しをもって生きて行く年齢が過ぎたとき
    「個」は消えてしまう。なにか日本人の心の中にスィッチがあって、都合良く、現れたり、消滅したりする。
    「世界」がいい例で、一瞬に現れる「世界」がある、それは一瞬で消える。
    相撲などの観賞においてそうである。一瞬のうちに相撲観賞という「世界」が出来上がって、そのようにそのい「世界」の一員は振舞う。
    「個」が現れたり、消えたりすることの悲劇は、外地での戦犯に寄る死刑である。
    国内では死ななくて良いものを、だまって状況に従う日本人は外地では戦犯として死刑にされたとものの本には書かれていた、その本を読んだのは十代のときである。
    「機能」のため都合良く現れたり、消滅したりする日本の考える素材である。

  • 0(ゼロ)の概念はインドからです。
    こじつけかも知れませんが、1から始まる概念に固まっているようです。
    虚実の「虚の概念」が不足しているのかも知れません。
    絵画も同じで、空白を生かす認識は、日本からです。
    また、「わびさび」の美学も同様です。
    それ故、個からの概念しか育たぬのではないかと、
    同時に、今の日本人もそうなっています。
    ある時、「経験しない事も経験だ」と子供に教えたら、納得できなかった。
    有無の有ばかりに拘っている。
    絵画や庭のように、空白が見えれば少しは分かるのだろうけれど。

  • >>339

    当時日本共産党の下部組織「民主青年同盟」が「世間」は封建時代からの悪い考えだと風潮していました。いまでもネット検索すると神奈川大学では同じ様な見方で「世間」ついての論陣を張っています。ところが、何かびっくりびっくり若者が、20代ぐらいの若者がラジオで「世間」と発言したのです。そこから「世間」が再び市民権を得たようです。日本共産党のプロパカンダにより「世間」が消えたが、若者の感覚で再び蘇った。「世間」は封建社会の異物ではなく、日本の本質から出ている土着イデオロギーだったと考えています。日本共産党はウソもウソ、宣伝した「世間は封建主義から出たもの」として使ったのです。党勢拡大目的の手段としてウソ・宣伝をしたのです。その共産主義を産んだアメリカ及びヨーロッパ文明も最早使い物にならないと判断しました。その大もとの形而上学は、「この世は個から出来上がっている」です。「この世は生きている様の重なり合いで出来上がっている」へ転換することが私の使命だと悟りました。それが私が45代から60代までかかりました。氷河時代を脱して、いままで気付いて来たもろもろをこの「この世は生きている様の重なり合いで出来上がっている」へ収斂するという事業は、よのなかひっくり返るものだと思います。「個」が世の中の基礎だと、形而上学しているところは、対立関係を自ずと所望します。それを認識関係にもっていきたい。

  • >>338

    そうですね、
    戦後教育を受けて、会社勤めに慣れ始めた頃です。
    そして、間もなく、「JPAN AS NO1」と騒がれました。
    また、アメリカで、ジャパンバッシングが始まる前です。
    ジャパンバッシングが起こり、政治家の目が覚めるかと思ったら、
    その後揶揄される、「弱腰外交」でしか対処できない国に成っていました。
    慰安婦問題をまともに解決できない国に成っています。
    また、沖縄の知事は世界中に恥を撒き散らして、それを阻止できない国です。
    恥の概念に国家が存在しないようです。

  • 個人的には昭和50年代がいまの日本になるためのモメントだったと思う。
    1、省エネ生産での日本経済の第二次世界デビュー
    それによって、円高が進み、今の為替の基礎となる。
    2、乳幼児の育て方で、母乳から人工ミルクへ。そこからアレルギー体質が生まれ、切れやすい子どもが生まれた。
    3、団塊の世代の連合赤軍によるリンチ殺人事件。
    これにより、2年後しかがわ君が葬式ごっこで自殺。そこからいじめ問題が世間でさわがれるようになった。「連合赤軍によるリンチ殺人事件」により、明治・大正・昭和の親達は、おっかない社会とわが家を分離し、マイホーム主義に徹するようになった。家庭の社会からの遮断は、閉じ込められた空間での人間の教育がいかに歪められるかである。社会の風が人間の成長を促すのであって、閉じ込められた空間ではそれは期待できない。考えてみれば、終戦後歌謡曲に「星の流れに」とかいう歌がはやった。「こんな私に誰がした」。戦争が始まる前は、父・母・妹などがいて幸せな家庭で育ったのに、いまじゃアメリカ軍相手の売春婦、こんな私にだれがしたの。いいなれば、「世間」だけが私の周りにあると思ったが、「社会」という存在をなぜ教えてくださらなかったの。そこが戦争を起こし、私をアメリカ軍相手の医売春婦にしたのよ。母はいまどこにいるの?生きていてくださっているだろうか。一目母に会いたい、妹は飢えて街中をうろうろしてないだろうか?この日本人に寄る社会の発見の逆をわれわれ団塊の世代はやらかしてしまった。
    ことほどさように、昭和50年代は戦後日本のモメントを形成した時代だと言わざるを得ない。

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