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    同じようなタイトルで数回やったが
    碌なコメントがなかった
    そこで、徹底的に
    論戦を仕込むため、
    あからさまに、考えをぶつけることにする。
    みなさまも、頭脳のありたっけを
    ぶつけてくれ。

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  • 学問というのはお飾りじゃないのだからさー。もう少し考えてコメントしろや。学問は「真理の追求」をおいてない。それをだ、おざなりのコメント、腹が立つじゃねーか。社会学の発祥地ヨーロッパは、その真実は「神との対話」する時においてほかない、人と人ではどんなに嘘をついてもへっちゃら。自分の有利となればどんなことでもする。それが社会を成り立たせているんだ。ところがここ日本では真実は自分の心にある。それを中心い規範が成り立っている。日本は生きているものの重なり合いで、世の中出来上がっていると考えている。「もの」とは人間はもちろん動植物、天地などあらゆるものをさす。これらから出来上がっているとしている。人間だけを考えると「志」の重なり合いである。志での世の中散らばレ方、「分業」が先に立つという現象をうむ。その志したものを実現するため「世界」に入ったり、それをこさえたりする。その「世界」から見たら「世間」がある。その全体像から「社会」の存在が許されない。その真理まで考えずに手軽にコメントする、本当邪魔臭い。考えろよ、役に立つ学問にしろよ、お飾りじゃないのだから。ほんと腹が立つ!!!

  • >>372

    北朝鮮は四発の原爆を落とすと言っているんだ。今は北朝鮮にだけ絞るのは我々の命を守るには当然だ。「遊んでいる」とか「差別」とか「隠す」とかが今すぐ消えてなくなってしまう原爆投下よりどちらが重要だ。問題を並べ立てて「一人世界」を浮遊する場合ではない。これが社会がない日本だというのだ。

  • 命を支える経済で遊んでいるウォールストリート、戦争であっちこっちかき乱すトランプ、差別を教える国内の義務教育、都合悪いモノを隠すメディア(労働・福利関係、輻射)、いろんな問題があるのに、「北朝鮮」しか言えない、他は思い浮かばない。テレビや新聞を完璧に復唱する羊たち。こんな操りやすい群れはどうやって。。。通勤電車の中で何か吸い込まされているか、それとも全国の水に何か。。。

  • この生き方自体日本には社会がないの証明。「人間は社会の対立物」がアメリカおよびヨーロッパなら、日本人には決して理解できない哲学である。そうなると自分の「世界」に閉じこもることは身の安全が保障されないということになり、日本人のように自分の周りだけの関心では生きていけない。当然社会という塊を常に考えて行動しなければならない。そこを研究する「社会学」が必要となるが、日本にはいらない学問である。

  • ほとんどコメントをいただけない状況です。知識へんじゅうで考える力がなくなった現実をみる。これは連合軍による日本占領の目的が日本人を考えさせないで、2度とアメリカに戦争をいどまない日本に作り変える戦略の成功した例でしょう。ウォー・ギルド・インフォーメイション・プログラム(WGI)が作動しているからに他ならない。この刺激的なテーマに多くのコメントがあって当然なのだが、あるのは単に反発意見のみ、これでは日本の使命である植民地解放後の歴史の空白を取り戻して本来の国としての歩みを歩んで欲しいという願いが達成できない。白人によって植民地させられた側の歴史に「猿と同じに動物だ」という差別によって踏みにじられ、解放されたのちも「自分は何者か」を把握できない彼らを本来の姿に戻す作業ができなくなってしまったのだ。

  • 北朝鮮によるミサイル実験は、私の命を今日・明日にも奪う状況を具現した。命が危ない。ところが日本は社会がないから自分が所属している周りの「世界」にしか関心がない。国会では「モリ・カケ」テレビでは日馬富士、自分の命がないかどうかの時に社会がないばかりに真実必要な動きを見逃して、知らぬ間に死んでいたということになる。それに気がつかない社会がくを学んでいる諸君。

  • 日本人はなぜか社会の真っ只中にいるのに、「社会化」という作業が必要となっている。欧米ではその作業は聞いたことがない。

  • 社会学を勉強する者にとって、気にならないのが「日米の絆の世界」である。そこ「世界」はグローバルか。そうじゃないだろう。それでは一体なんだ。この「世界」と社会はどう違うのだ。日本の場合その本質として、社会がない代わりに「世界」が中心として働いている。その「世界」から外界を見るその場所は「世間」だと言えないか。

  • あなたの家族が集まって成人の祝い、就職したことの祝いをしたことがないのですか。これは「単なる言葉の問題」ではない。形で、習慣で表しているのが言葉の問題とは言わない。行動の中に閉じ込められた思想の問題です。もう少し考えよう。人と動物を分ける唯一のものは「考える」である。

  • >>363

    >社会の中で生まれたにもかかわらず生まれた時は社会人ではない。<

    そりゃ言葉の問題でしょう。
    日本語での社会人は勤労者と言う意味ですかな。
    経済的自立者ということでしょうね。
    もちろん、高齢者や、専業主婦も含まれる。

  • > だからさー。論理学の存在のありよう、古代民主政治のありようは「世の中個で出来上がっている」という哲学がない日本で成立するかを説いているのだ。その「個」が日本にあるのかないのかあなたは何も説明していない。<

    いや、お久しぶり。
    社会が個で出来上がっているか否か。
    日本では殆どないでしょうね。

    古代ギリシャ、ローマにはあったでしょう。
    もっとも、それは奴隷や女子には無かったかな。
    そうなった背景には市民が武器を持って兵役に就いていたことがあげられるかも。

    日本のサムライは西洋中世の騎士に通ずるような精神があっただろう。
    ただ日本では究極的には天皇に仕えるという前提が有った。
    この点でも個の論理は弱いか。

    明治になって福沢先生が独立自尊と言ったが、それは日本に存在しなかったことを意味している。

  • ヨーロッパではよく「人間は社会の対立物」という言葉を使う。
    日本人の私にはわからない言葉である。社会を認識するところから始まる。だから、社会の中で生まれる赤ん坊は一人前とは扱われず、就職した時親が「社会人になったね」と祝う時一人前として扱われる。社会の中で生まれたにもかかわらず生まれた時は社会人ではない。社会を認識できる年齢になって初めて社会人たるものとなる。認識が先にあって社会人となる。社会という晴れの舞台に立てるのは大人になってからである。ところが欧米では生まれた時そこから社会人である。

  • 「個」が世の中の基礎とするアメリカ及びヨーロッパ文明、日本は「機能」がその基礎。それを知らない人が日本には差別があるという。「個」と「個」の関係は対立関係しか生まれない。対立関係は対立しうる一線上の上でしか存在しない。その対立に決着がついた時、対立し得ない関係として生まれる。敗れた方は人間ではないという新たな認識のもと、対立し得ない関係に移る。つまり敗れた方は「奴隷」となる。その「奴隷」があるから差別が概念として成立する。奴隷制度があるところ差別は発生する。今でいう、家事労働をするフィリピンからの出稼ぎ、それは家内奴隷として扱うことができるから雇える。ところが日本は「奴隷」概念がないから、家内労働をする人を家族として扱う。その労働者の親親戚などを日本に招待して気持ちを通じ合う仲間としてしまう。その現実的問題がある。そして奴隷は街中で金で売り返される。貨幣制度が日本に根付いたのは、室町時代ごろからである。それだから、銅銭を中国の明から輸入していたではないか。使うものだったら日本国内で製造する。街、貨幣制度から判断すると「社会」がないことがわかるだろう。考えなさい、思考は人間だけができることなんだから考えることを大切に。

  • >>360

    だからさー。論理学の存在のありよう、古代民主政治のありようは「世の中個で出来上がっている」という哲学がない日本で成立するかを説いているのだ。その「個」が日本にあるのかないのかあなたは何も説明していない。「社会」という文字を明治の文豪たちが中国の古典から引き出さなければならない苦労は、「社会」という概念が日本にも中国にもないことから発生しているのだと主張しているのに、ただ表面的なものに終始、何もならないではないか。駄文、時間の無駄でしょう。社会哲学及び形而上学に置いてどうなのか、その根本から説明すべきでしょう。今アメリカ及びヨーロッパ文明が淵に差し掛かっている今その認識の上で答えるべきでしょう。

  • >>354

    人と人とが話し合い、理屈でもって真理に到達しようとする。

    それが論理学ではないか。

    古代民主政治と不可分。

    言論の自由が無い処では民主主義は存在しない。

  • 明治維新はやく西欧化しなければ南蛮人、紅毛人に日本人の命が消されるという危機感で、哲学及び形而上学がまったく異なるのに、無理を承知で「社会」という概念、「論理」という概念などを日本に当てはめた。その咎めでこの体たらくな思考しかできなくなってしまった今の若者達。この日本での歪みはどうなってこれから投影されるかわからない。そのなかで幼稚な若者が増えている。

  • 論理を展開するに当たって「この世は「個」で出来上がっている」という形而上学及び哲学がなければなりません。「個」という概念はメソポタミア文明から発信されたものがアメリカ大陸にいくという拡大で現在終了しています。だから「意思疎通をしなければ」という前提は成り立たない。このように対立及び対抗構造によって人類は民族皆殺し、戦争、奴隷制度、大量虐殺の歴史を綴りました。このような歴史はいらない。「論理学が発達」など人を殺人に向かわせる哲学及び形而上学はいらない。古い考えに固執しないで、次の文明をめざさなければ第三次世界大戦は避けることは出来ない。

  • >>353

    論理学

    諸民族が入り乱れて諸言語でもって意思疎通をしなければならない地域では論理学が発達したのでしょう。
    その中でも古代ギリシャ。
    対話によって学問の深化が見られた。

    西洋からインド辺りまでは論理学が存在したか。

    日本や東南アジアでは人間同士よりも自然との結びつきが主要な位置を占めていたので殆ど不要だった。

    中国では巨大政権が強圧的な力でもって言論封鎖をしていたような社会だったので、これまた論理は不要だったのでしょう。
    それでも孔子や孟子の頃は多少その萌芽が見られる感じがする。

  • 論理学というのは、5000年か4000年前にあった文明、人類最古の文明だと言われているシュメール文明、及びその系統の文明、チグリス・ユーフラテス川のほとりにあった文明、アッシリア、ユダヤ、エジプト、ギリシア、ローマなどにはあるが、それ以外ではない。人が生きて行く故に過酷過ぎる自然環境だから、論理によって組み立てる学問が必要だったのだろう。自然などとの対立・対抗する気構えなければ、論理学などいらない。日本など自然に寄り添って生きる道を選んだ文明には論理学はない。自然を感じる感性によって生きる道を開くのである。したがって、理屈に優る者を避けるのは当然。理屈っぽい人は相手にしない。スムーズに事がはこばないからだ。ま、よくて神棚にまつりあげられる。そこからして、「理屈でこしらえた社会」の正当性などを論じるばからしさ。「人は自然の中で生きる」のだから、そのためのやりようから、理屈っぽくなるか、自然の空気、自然の風、自然を感じることが重要だとなる地域もできよう。これらに優越は無く、差別して考えることでもない。それらは公平・平等・優劣に関係なく、それぞれが人類文化の要素としている。

  • >>351

    日本には論理を軽視する言葉がある。
    「理屈っぽい」「理屈を言うな」「屁理屈」・・・など
    それが「感性を大切にし、論理を低く見る証」との見解を持つ人達がいる。
    「理屈を言うな」を英訳すると、おかしくなる。

    私は子供の頃から、理屈っぽく頑固で、一生この気質を引き続ける覚悟をしています。
    馬鹿と言われた事が「脳裏にこびり付いている」と憶測しています。
    つまり、人格否定されたとの思い込みですが、ようやく、その呪縛から解放されそうです。
    「社会のない日本」も同じと思えます。
    「理屈でこしらえた社会」、そのどこに正当性があるのか?
    結論に至らねば、論理破綻となる。
    だから、そこに様々な制約(条件)を設け、結論に導く。
    西洋の社会はそんな制約(条件)の下、構築されている。
    世界、世間は繋がっているか、繋がるか、であって、排他的要素(制約・条件)はない。
    この排他的でない事が、私を含め、今の日本人に欠けている。

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