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  • 英語支配に関する討論

     英語支配について意見を述べましょう。
     批判も歓迎、支持も歓迎。
     認識を深めましょう。または、認識を改めましょう。

     全人類が互いに意思疎通を行なえる状況…自由に平等に行なえる状況…これを実現しなければなりません。そのための手段を考案することは重要です。例えば、国際補助語(エスペラントその他)の創出、機械翻訳の実現など。けれども、ここではそこまで話題にしません。実現に至る第一歩を固めます。つまり、現状認識・現状評価です。めいめいの意見、知識、経験を述べてください。

     なお、「英語支配」という表現には批判的な響きがあります。中立的な表現を使いたいのですが、考えつきません。そのため、この表現にしました。同類の表現に、「英語帝国主義」があります。この表現まで行くと、批判的を通り越して挑戦的(けんか腰)になります。そのため避けました。

     話のきっかけとして、賛否それぞれの主張を対話で示します。長いので二つに分けます。

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    qwa***** 6月13日 16:10

    特に公用語というものはなく、していえば(ただし、裁判所法第74条は「裁判所では、日本語を用いる。」)とあるこの部分だけらしいですな。

  • 【「第二公用語」について】

     ひところ、英語の第二公用語化が話題となりました。その折り、「公用語」の定義を間違えている、との指摘がありました。しかし、見向きされなかったようです。その結果、英語が第二公用語になれば国民全員が英語を習得せねばならない、という間違った理解が広まりました。
     或る国において或る言語を公用語に指定する。その意味は簡単です。指定された言語を心得ていれば不自由なく暮らせる、そういう社会体制を作る、ということです。
     例え話で示します。中国においてモンゴル語を第二公用語に指定する。これは、モンゴル語を心得ていれば(モンゴル語しか知らなくても)中国国内で(言語面の)不自由がない、ということです。公的機関の利用その他において、モンゴル語だけで用が足りる、ということです。具体例で言えば、中国の紙幣は数種類の言語で金額を記します。これら言語の一つ(だけ)を心得ていれば紙幣を使える、ということです。もっとも、現実には、全てをそういう体制にするところまで至りませんが、理論上はそういうことです。
     ここから分かるとおり、モンゴル語を第二公用語に指定しても、国民全員がモンゴル語を習得する必要はありません。当然です。同じ趣旨で、ウイグル語を第三公用語に指定、チベット語を第四公用語に指定、などと拡大しても、国民はそのうち一つを使えればよいだけです。
     他方、英語第二公用語化の議論では、なぜか、「国民全員が英語を習得せねばならない」となりました。もしこの議論で行くなら、第三・第四公用語を指定すれば、それらを全て習得せねばならないことになります。何とも無茶な話です。そこを考えれば、「国民全員が英語習得」の間違いに気づくはずですが、ほとんど誰も気づきませんでした。
     英語第二公用語化の議論において、論者が言いたいことは、国民に英語を習得させよ、ということでしょう。そして、習得の義務づけ云々が、「第二公用語」と混線したのでしょう。「公用語」の定義を確認することなしに、「義務」と「公用」が頭の中でつながったのでしょう。英語習得はともかく、そこに「公用語」を出すのは筋違いでした。

  • model_of_englishes - hellog~英語史ブログ

    //user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/cat_model_of_englishes.html

    英語支配に関する討論 model_of_englishes - hellog~英語史ブログ  //user.keio.ac

  • 神とはキリスト教の神でしょうか?その意味での神の実在は信じていません。
    特定の宗教の神は、その宗教の範疇内での存在ではないかと、、、特定の宗教あるいは無宗教、無神論にかかわらず、個々人が信じる宇宙とは別に、普遍的な宇宙があるのだと信じたい。

    *キリスト教の神だけが神ではないし、仏もいれば、石ころもある。人の命は有限だが、人の心の中には、無限の広がりがりがある、、、

  • 【パラドックス】より

    …もっと概念的なパラドックスには,数量,時間空間,運動,その他の抽象的なカテゴリーに関するもの,論理的パラドックスなどがある。時間・空間に関するパラドックスで有名なのはカントの二律背反である。これは,時間を無限の過去から流れてきたものとすればその反対の有限のものとしなければならなくなり,逆に有限なものとすればかえって無限の過去から流れてきたということになるとするものである。…
    .
    ※「二律背反」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

    出典|株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版

    *私論:自分にとっての宇宙、時間は有限であり二律背反ではない。それゆえに、普遍的真理として、宇宙も時間も無限であると考える。

  • 二律背反
    にりつはいはん
    Antinomie


    論理的にも事実的にも同等の根拠をもって成り立ちながら,両立することのできない矛盾する二つの命題間の関係をいう,論理学の用語。たとえば「世界は時間的にも初めがあり,空間的にもかぎられたものである」「世界は時間的にも空間的にも無限である」というイマヌエル・カントにより立てられた二律背反は有名である。なお,今日ではパラドックスがこの意味に使われることもある。

    出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/


    にりつ‐はいはん【二律背反】

    哲学で、相互に矛盾する二つの命題(定立と反定立)が同等の妥当性をもって主張されること。アンチノミー。

    出典 小学館/デジタル大辞泉


    にりつはいはん【二律背反 antinomy】


    アンチノミーの訳語。あることがらについてたがいに矛盾する命題が,同じように有効な基礎づけをもって主張されること。カントは,人間の理性が経験の限界をこえて無制約者を求めるとき,時空の限界の有無,世界の基本的構成単位の有無,自由と必然,絶対者の存在と非在などをめぐる二律背反に行きつかざるをえぬゆえんを示し,理性の限界への洞察によってそれを解決すべき一つの方向を提示した。パラドックス【坂部 恵】

    出典 株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版


    二律背反
    にりつはいはん
    antinomy英語
    Antinomieドイツ語
    antinomieフランス語


    ギリシア語で法律の条文につじつまのあわないところがあるのをさすのに用いられたことばに由来する。一般に、それぞれ正しいことが明らかであるような二つの文が、論理的に両立しないことが発見されたときに、「二律背反に陥った」という。哲学的な議論は、二律背反とみえる状況を指摘し、ついで、それが見かけ上のものにすぎず、本当の論理的矛盾は存在しないことを示す方向に話をもっていく形で進行することが多い。しかし、カントは、「時間に始めがあるか否か」を問うようなときには逃れることのできない二律背反に陥るとし、これは、そのような問いに答えることが人間の知的能力の限界を超えているからであるとした。[吉田夏彦]

    出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

  • English is no longer the language of the web

    Conventional wisdom suggests that English is becoming “the world’s second language,” a lingua franca that many forward—looking organizations are adopting it as a working language. Optimists about the spread of English as a global second language suggest it will enable collaboration and ease problem solving without threatening the survival of mother tongues. Pointing to hundreds of thousands of Chinese children who learn English by shouting phrases back at teachers, the American entrepreneur Jay Walker offers the idea that English will be a language of economic opportunity for most speakers: they’ll work and think in their mother tongue, but English will allow them to communicate, share, and transact.

    //qz.com/96054/english-is-no-longer-the-language-of-the-web/

  • The question about the extent of the domination of the English language on the Internet has been historically, and is still, a controversial matter, and in any case the relative representation of languages in the network is a fast changing data, although it is considered that amongst the more than 7,000 existing languages less than 500 (only 8.33% of total) have a digital existence as of today.

    //en.wikipedia.org/wiki/Languages_used_on_the_Internet

  • インターネット上で最も多く利用されている言語は英語である。英語を母語とする話者は3億2200万人、外国語とする話者は2億人である。

    中国語は世界で最も多く話されている言語であり、インターネット上では 2番目に多く使用されている。中国のオンライン人口は急速に増えている一方、世界で2番目に人口が多いインドの公用語であるヒンディー語は、インターネット上では利用者が少ない。これは、インドにおいてインターネットへ接続が可能な人々は人口に対して少数であり、インターネットに接続可能な人々は英語を好んで使用する傾向にあるためである。

    //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%BD%BF%E7%94%A8

  • 【英EU離脱の関連話題】…その8(最終)

     背表紙に違いがあるほか、目次の位置も異なります。日本の書籍は目次が最初にあります。英語の書籍も目次が最初。しかし、大陸式では最後にあります。もっとも、最近は、背表紙と同じく、大陸式の目次にも「変化」があります。
     このような体裁面での違いのほか、表記面での違いもあります。小数点をピリオドで書くかコンマで書くか。また、和文のカギ括弧に当たる引用符号など。“○○○”は英語式です。大陸式はドイツ語とフランス語でも異なります。云々。
     ちなみに、エスペラント書籍の体裁は、どのような経過・事情で(=何を元に)決まったのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。
       *  *  *
     ところで、本来の話題に戻ります。全人類がエスペラントを(補助語として)使う。これに私は(今のところ)賛成しません。しない理由は過去に(当掲示板でクドクドと)述べました(古いため今は消滅か)。もっとも、海外の古書の入手のためエスペラントを割合に利用していた私には、そう述べる資格はないのですが…。
     ただ、全人類でなく欧州人の補助語であれば賛成します。同じ(欧州)文化基盤の延長上に(エスペラントが)あるからです。もっとも、この見方(=全欧州は同一基盤上)にも荒っぽいところはありますが。例えば、ドストエフスキーが、「西欧にとってロシアは日本より異質だ」という趣旨のことを述べていますから。「中国の首都は東京か」と発言する西洋人の荒っぽさに等しいかもしれません。「こんな発言をする西洋人はいくらでもいる」と芹沢光治良氏が述べていました(割りと昔の話です)。
     それはともかく、共通の基盤があれば補助語も有用です。けれども、ない場合はどうでしょうか。私の過去の「クドクド」も要するにこのことです。これについて、いろいろな考えを聞きたく思います。
     なお、私は、エスペラント運動は有用と理解します。欧州補助語になる可能性があるからです。この運動にEU共通語を目指す働きかけはあるのでしょうか。あれば、その実現を望みます。

    *** 以上、スレッド「エスペラント語とは」の2016年の投稿から転載しました。 ***

  • 【英EU離脱の関連話題】…その7〔前段からの続き〕

     日本国内に居ても分かる違いがあります。いわゆる洋書です。書籍の体裁がイギリスと大陸とで異なります。洋書を利用する人はご存じでしょう。
     まず背表紙です。英語の書籍では上から下へ書きます。これを英語式と呼びましょう。これに対して、フランス語では下から上です。これを大陸式と呼びましょう。ちなみに、フランス革命200年記念の式典で、エッフェル塔に、下から上へ、「200an」とありました。背表紙に限らず、縦書きの際の流儀でしょう。
     ドイツ語書籍の背表紙も大陸式ですが、レクラム文庫だけが何故か昔から英語式です。また、最近になって、英語式の書籍が目に付くようです。「アメリカ化」でしょうか。
     イタリア語は昔から両者半々の混合です。以前、昭和の時代のこと、東京のイタリア文化会館の図書室を訪れた時のことです。書棚の前で、館職員(日本語の達者なイタリア人)に背表紙について尋ねました。「上から下と、下から上と、どちらが多いか」と。「考えたことがない」という返事でした。ただ、「書店で背表紙を眺める時はややこしい」とのことでした。30年ほど前はこのようでしたが、最近の出版物は英語式ばかりに思えます。これまた「アメリカ化」でしょうか。東京・神田のイタリア書房の書棚からはそう感じます。
     ロシア語は大陸式です。ただ、2年前に見かけた医学用語辞典は英語式でした。前半が英露、後半が露英の対訳辞典です。英語を含むので英語式なのでしょうか。手元にある仏露露仏辞典は大陸式です。
     現代ギリシャ語の書籍は、古書店で1冊見たことがあります。大陸式でした。
     欧州語ではありませんが、トルコ語は、知る限りでは大陸式です。また、右横書きのアラビア語、ペルシャ語は、知る限りでは、上から下です。
    [次へ続く]

  • 【英EU離脱の関連話題】…その6〔前段からの続き〕

    ○毎日新聞、1990年7月31日夕刊6面「進む東欧の教育革命」から。
    「昨年から始まった東欧の変革は誰もが予想できなかった急激な展開をみせている。〔中略〕ロシア語が必須から選択に変わり、マルクス・レーニン哲学の時間が廃止され、〔中略〕高校のコレナ校長は、ロシア語が選択になったことでロシア語の先生があまって困っているという」

     以上、EUその他を含めた、ヨーロッパの言語の話題でした。
     近年、EUが東欧へ拡大しました。それ以来、英語の重みが増えた、と聞きます。
     現在、東欧の外国語学習はどのようでしょうか。もっとも、スラブ系、ラテン系(ルーマニア、モルドバ)、アジア系(ハンガリー)が併存するので、一口に「東欧」と呼ぶのは荒っぽいでしょうけれど。状況をご存じの方から伝えていただければ、と思います。
       *  *  *
     話を戻します。イギリスのEU離脱に関連した話です。
     もともとイギリスは大陸(=イギリス以外の欧州)と異なるところがあります。昔からの宿命でしょうか。この宿命がEU離脱を導いたのでしょうか。
     イギリスと大陸とが異なる。よく知られた事例に、車の通行があります。道路の右側を走るか左側を走るか。日本はイギリス式です。更に、笑い話みたいですが、イギリス製のヘリコプターとフランス製のヘリコプターでは、回転翼の回る向きが異なるそうです。
    [次へ続く]

  • 【英EU離脱の関連話題】…その5〔前段からの続き〕

    ○『言語戦争』(大修館書店、1978)、228~229頁。
    「私ははじめて東欧を旅行したとき、各国いずれもドイツ語が極めて広い範囲で通用し、こうした歴史をあらためて思い知らされた。通常のホテルなら英仏語が通じなくてもドイツ語なら用は足せる。戦後の若い世代はロシア語を必須科目として教えられ、ドイツ語を知らない者も多いが、戦中・戦前派の中・高年層の中にはドイツ語をこなせる人がかなりいる。しかもスターリン時代がすぎて東欧各国ともロシア語を必須科目からはずしたため、ドイツ語は再び優勢となりつつある。何といっても、東欧と接して存在するのはドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語民族であり、政治体制は異なるといっても、経済・学術・文化の交流や旅行など、実際の接触はやはり、これらの国々との間でひんぱんに行われるからである」

     けれども、時代は移ります。ドイツ語の凋落です。

    ○朝日新聞、1990年1月4日朝刊1面「ボーダーレスの時代」から。
    「エコロジー図書室に備えられている本や新聞のなかに、一つの薄いガリ版刷り雑誌がある。「グリーンウエー」(緑の道)という。1985年にハンガリーで生まれた情報誌で、東欧各国での環境問題への取り組みを互いに伝え合う唯一の手段といってよかった。東欧圏の雑誌なのに英語で書かれている。「ロシア語はみんな学校で習うけどきらいだ。北のほうでは通じるドイツ語も、南の国では分からない。英語なら、下手でもみんな何とか使える」と、編集長のガボール・フラスコさんは説明する。彼の本職はブダペストのコンピュータ技師だ」

     このように、ロシア語も凋落します。次の記事がそうです。
    [次へ続く]

  • 【英EU離脱の関連話題】…その4〔前段からの続き〕

    ○朝日新聞、1992年1月11日朝刊6面。
    「年明け早々、コール独首相は欧州共同体(EC)のドロール委員長に書簡を送り、EC内ではドイツ語を英語やフランス語と同等に扱うよう改めて強く要請した。コール首相はその理由として、ドイツが統一によって大きくなったこと、政治的にも重要な立場を占めるようになったことをあげた。同首相は昨年秋にも同じ趣旨の最初の書簡を送っていた」

    ○朝日新聞、1993年5月15日朝刊9面。
    「欧州会議の公用語は英語とフランス語だが、コール独首相は今年二月、同会議を訪問した際に、ドイツ語の公用語化を正式に要請した。〔中略〕仏ストラスブールの欧州会議で十一日に行われた投票では、二百二人の議員の過半数がドイツ語の公用語化に反対して、ドイツ語派はあっさり敗れてしまった」

    ○朝日新聞、1999年7月3日朝刊9面。
    「欧州連合(EU)の新議長国フィンランドが会議でのドイツ語使用を認めず、シュレーダー独首相が抗議していた問題でドイツ政府は2日、フィンランドのオウルでこの日から始まった非公式産業相会議をボイコットした。AP通信によると、同じドイツ語圏のオーストリアも、独政府に同調して閣僚の出席を見合わせた」

     こういう現況ですが、昔はそうでもなく、ドイツ語は東欧に広まっていたようです。次にその事例を引用します。
    [次へ続く]

  • 【英EU離脱の関連話題】…その3〔前段からの続き〕

    ○朝日新聞、1987年3月8日朝刊7面、「欧州の十字路で」から。
    「月曜から金曜までの毎日、正午からEC委員会の定例記者ブリーフィングが始まる。〔中略〕経済摩擦から東西交流まで、この雑多なブリーフィングに、ただひとつ共通点がある。すべてフランス語で行われるということだ。〔中略〕せめて英語をフランス語と併用してはどうかという声が、記者の間で日ましに強まっている。ECもそうした空気は理解し、最近も英語併用を原則として受け入れようとしたことがある。しかし、それをつぶしたのはフランス語系の記者グループだった。ECは何といってもフランスのリーダーシップの下に生まれ、育ってきた。それがなお長い影響を引き、フランス語主流の背景をなしている」

     このようなフランス語の勢いは十数年後に変わり始めます。

    ○朝日新聞、2002年4月3日朝刊6面、「特派員メモ」から。
    「『英語が尊重されすぎている。フランス語と平等に扱うべきだ』。ジュネーブの国連欧州本部で、仏語圏の記者48人が先月、連名で国連広報担当に申し入れをした。国連記者会の『公用語』は英語または仏語だが、最近は記者発表資料で英語の情報が優先され、仏語訳が遅れるケースが多いことに仏語圏ジャーナリストが反発したのだ。〔中略〕実は、英語圏出身の記者は仏語を理解できることが多いが、仏語圏組には英語が苦手な記者が多い」

     フランス語後退の表われです。欧州共同体EC時代のドイツ語も冴えません。
    [次へ続く]

  • 【英EU離脱の関連話題】…その2〔前段からの続き〕

    ○朝日新聞、1986年7月25日朝刊7面。
    「モロッコ政府は、二十四日午前、同国のハッサン国王とイスラエルのペレス首相との間で行われた首脳会談に関する共同声明を発表した。声明の正文はフランス語で、イスラエルでも同時刻に発表された」

    ○シドニー・ベイリー『国際連合』(庄司克宏ほか訳、国際書院、1990)35頁。
    「ペルーのビクトール・アンドレス・ベラウンデという外交官は、そのときの気分次第で、好む言語を選んで演説した。すなわち、正確を期する場合にはフランス語で、控え目に話したい場合には英語で、誇張したい場合にはスペイン語で演説したのである」

    ○朝日新聞、1986年6月11日朝刊6面、「欧州の本家意識」から。
    「ジュネーブはフランス語圏だが、国連の専門機関では、どこでも第一の国際語は英語である。現地採用職員との会話を入れてもまず六〇%、機関によっては八〇%が英語といわれる。ところが国連の本体の事務局だけは圧倒的にフランス語なのだ。日常会話、記者会見はむろん、掲示板や記者用の発表文書もフランス語優勢。「本家」を守ろうとする事務局の意思の表れである。これを側面から支えているのが記者会だ。かつてデクエヤル国連事務総長との会見で、「ニューヨークの資料は、まずフランス語で配布を」という要求が出たことがある」
    [次へ続く]

  •  言語勢力の盛衰に関連して、スレッド「エスペラント語とは」の2016年の投稿から転載します。
     * * * * *
    【英EU離脱の関連話題】…その1(8分割の1)

     欧州連合(EU)の件。イギリスの離脱(なぜか脱退と言わない)について、早速esperplenaさんが言及されました。今後の動向について、私も注目します。言語面でどう変わるか、という点です。もっとも、あまり変わらないようにも思えますが。
     まず、EUの公用語は減らないでしょう。加盟国アイルランドが英語国ですから(厳密には、そもそもケルト語の国ですが)。では英語の「比重」は減るでしょうか。つまり、esperplenaさんの言う「言語格差」の縮小です。今後、私はここに注目します。
     以前、EUではフランス語優勢の時期が続いた、と聞きます。また、戦後においても、国際連合や外交の面でフランス語の「比重」が大きいようです。これについて、単行本や新聞などから話題を拾います。

    ○『法と日本語』(有斐閣新書、1981)から、小田滋「外国語の悩み」203頁。
    「過日、私はルクセンブルグにあるヨーロッパ共同体裁判所を訪れたが、そこでは実に七カ国語が公用語として用いられており、すべて判決なども七カ国語で公刊されるが、他方、裁判官合議はフランス語のみで、一切の通訳なしであるという。フランスがもっとも強力であった初期のヨーロッパ共同体の伝統を受けついだものであるが、従って、事実上は、フランス語の素養がその裁判所の裁判官の要件といえよう」

    ○吉田康彦『国連広報官』(中公新書、1991)201頁。
    「私がWHOに着任したのは、そんな状況下だった。広報部長は、オーストラリア厚生省の大臣秘書官だったというアン・カーン女史。〔中略〕どうも部長の威厳がない。しかし、そうした外見よりも、彼女はオーストラリアなまりの英語一本槍で、フランス語を一言も解さない(これはジュネーブでは致命的)。」
    [次へ続く]

  • ……〔前から続く〕
    【映画の中での言語の扱い】 …2分割の内2つ目
     映画により、言語(外国語)の扱いが粗雑な作品と、厳密な作品とがあります。古いものが粗雑で最近のものが厳密というわけでもありません。テレビドラマで挙げると、米国のドラマ『タイムトンネル』(1967年に放映。タイムマシン物)では、古代ギリシャ人も中世モンゴル人も現代アメリカ人と英語で話していました。他方、同じく米ドラマ『コンバット』(1962~67に放映。第二次世界大戦末期、ノルマンディ上陸後のフランス戦線が舞台)では、ドイツ人はドイツ語を、フランス人はフランス語を話します。米部隊にはフランス語の通訳兵がいました。日本での放映では英語の部分だけを日本語に吹き替え、他は独・仏語のままでした。
     「リアリティ」を徹底する映画もあります。メル・ギブソン監督の作品がそれで、『パッション』(2004)では、ユダヤ人はヘブライ語を、ローマ人はラテン語を話します。『アポカリプト』(2006)の台詞はマヤ語です。恐れ入った徹底ぶりです。
     ただ、一般的には、映画(やドラマ)における言語の扱いには、或る程度の不自然さは残ります。新旧の事例を引用します。
     古いところでは、日仏合作『忘れえぬ慕情』(1956)があります。ヒロイン(岸恵子)がフランス語を話すのは、その役割設定から自然ですが、造船所の技師長(山村聡)までが滑らかに話すのは不自然でしょう。
     最近では、『海難1890』(2015)があります。日本人(明治時代の医師)はトルコ軍人と英語で話します。日本語やトルコ語での会話はどう見ても不自然ですから英語にしたのでしょう。しかし、現実はどうなのでしょう。当時の日本人医師はドイツ語に通じていたでしょう。また、当時のトルコ人はフランス語がいちばん身近だったでしょう。
     ところで、『テルマエ・ロマエ』(正続編)の日本語とラテン語の使い分けは効いています。不自然な感じはありません。肩ひじ張らない喜劇映画だからうまく出来たのでしょうか。〔了〕

  • 【映画の中での言語の扱い】 …2分割のうち1つ目
     外国人が邦画に登場し外国語を使う場面があります。英米人なら英語を使う、中国人なら中国語を使う、などとなるはずのところ、なかなかそうでもない映画があります。
     溝口健二『楊貴妃』(1955)の設定は、場所が中国で人物が中国人ですから、台詞も中国語のはずですが、全て日本語です。これはかまいません。邦画であるから使用言語は日本語、ただし中国語であるという設定だ、というわけです。『十戒』や『クレオパトラ』の台詞が英語であるのと同じです。いわば特殊な「吹替え」です。ここに不自然さはありません。ところが、2言語が使われると、ややこしくなります。
     最近の米映画『沈黙…サイレンス』(2017)は英語と日本語です。この場合の英語部分はポルトガル語だ、という設定です。米映画だからこれでいいわけです。邦画『楊貴妃』の日本語と同じ趣旨(=特殊な「吹替え」)です。
     ところが、邦画『鉄砲伝来記』(1968)となると趣旨が違います。日本人はむろん日本語ですが、ポルトガル人は英語です。これはおかしい。米映画『沈黙…サイレンス』の英語はポルトガル語である、という設定は米映画だから自然なので、邦画では不自然です。特殊な「吹替え」とならないからです。いかにも手抜きというか、外国人だから日本語でなければそれでいいのだ(外国語は全部英語で行け)、という印象です。
     平成の時代になっても、この手の映画があります。邦画『スパイ・ゾルゲ』(2003)がそれです。外国語の部分は全て英語です。いまだこういう状況かと思いました。同じ思いの人は結構いるらしく、雑誌で指摘されています。『言語』2003年10月号、116頁、「映画『スパイ・ゾルゲ』の言語的リアリティーのなさ」という記事です。一部を引用します。
     「東京のドイツ大使館の中で、大使と秘書など、ドイツ人同士が英語を話しているのは困る。また、モスクワのシーンで、ゾルゲとロシア人の恋人をはじめ、出演者全員が英語で話しているのも大いに困る。そんなことはあり得ないことだからだ。〔中略〕ここはドイツ語とロシア語もできる役者を探して(あるいは部分的に吹き替えてでも)、大使館の中ではドイツ語、モスクワではロシア語で通すべきだったのではないだろうか。」
     同感です。   ……〔次へ続く〕

  • アメリカは国際舞台では歴史が浅いかもしれませんが、第二次大戦以降、圧倒的な軍事力と経済力で世界をリードしていますね。数世紀を経て、その影響力の大きさは世界の言語にも表れて残るのではないでしょうか、、、

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