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市川秀志 徹底研究

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  • 2018/08/17 15:23
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    アマチュアの立場からYahoo掲示板での書き込み及び著作等で
    相対性理論・非ユークリッド幾何学・不完全性定理・集合論・ビッグバン・エントロピー増大の法則 等
    を完全否定する、市川秀志氏について徹底研究しましょう。

    著作
    「カントールの対角線論法―ミーたんとコウちんは闇の数学講座で無限の正体を見た」(パレード)
    「カントールの区間縮小法―ミーたんとコウちんは闇の湖で地球人と出会った。」(パレード)

    掲示板での書き込み
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835555&tid=ajbpoc0a4o4v0ca4ca4fa4a4a4ka1a9&sid=1835555&mid=1&type=date&first=1

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    市川秀志 8月17日 15:23

    「仮定には特別な制約はないので、仮定から証明される命題を仮定においてもかまいません。何しろ、ただの仮定だから、何を置こうと自由です」
    「ええ。ただし、仮定から証明されるとわかっていて、それを仮定につけ加えるのは意味ありませんがね」
    「仮定をすべて真とします。他の真の仮定から証明される仮定を、仮定からすべて取り除いたら、最後に残るのは何だと思いますか?それは『他の真の仮定から証明されない真の命題』のみです。ユークリッドは、これを公理と呼んだのです。公理は仮定の一種ですが、ただの仮定ではありません。他の真の仮定からは証明されない特別な真の命題なのです」

  • 「公理はお互いに証明不可能です。もし仮に公理がただの前提であれば、このような性質は必要ないはずです」
    「実際持ってないことも多々ある。つまり、ある公理が他の公理から証明される定理だった場合もある。人のやることには誤りがつきものだ」
    「公理と定理は違います。平行線公理が他の公理から証明されるならば、平行線公理は公理ではありません。ところで、公理と公理の否定の違いを、なぜ決めようがないと言えるのでしょうか?」
    「どちらからも矛盾が導かれないなら決めようがない」
    「あなたは直観を使わないから、それゆえに決断力を失っている状態です。つまり、優柔不断に悩んでいるだけです。公理がただの前提であれば決めることもできます」
    「それは『前提として採用する』という意味であって それを『正しいと決める』と思い込むヒデが間違っている」
    「優柔不断の数学は、やがては矛盾した理論の台頭に対応することができなくなります。つまり、矛盾した理論を抑え込むことができなくなって、大量のパラドックスに悩むようになります。現代数学と現代物理学は、まさに、この状態に陥っています。数学と物理学内に含まれているパラドックスを抑え込むために、アドホックな仮説を次から次へと作り出して、いつも、小手先のテクニックだけで、一時しのぎのパラドックス回避を繰り返しています」
    「それのどこが悪い!都合が悪かったら、とりあえず逃げるのが普通だろう。パラドックスが発生しても根本的に解決する必要などない!そんなことをすれば、数学と物理学がスッテンコロリンする。そんな転倒を招かないようには根本的な手を打たず、一時的に回避すれば充分だ」
    「パラダイムの転換を防ぐためですね?」
    「いかにも!俺たちはカントールの楽園からは絶対に抜け出したくはない、こんな快楽の地はない!カントールの楽園を壊すパラダイムの転換など、地球人は誰も望んでいない!フィールズ賞委員会もノーベル賞委員会も、パラダイムの転換は望んでいない!」
    「そりゃそうですね。何百年に1度、あるいは何千年に1度のパラダイムの転換ですから…自分たちが授与してきたフィールズ賞やノーベル賞を否定されてしまいますからね」
    「その通り!そんなパラダイムの転換を誰が望んでいる?」
    「子どもたちです」

  • 「仮定と公理は違います。仮定には真の命題と偽の命題がありますが、公理には真の命題しかありません」
    「それこそが公理という言葉に狂った貴様の独断。公理は仮定でしかない」
    「公理はお互いに証明不可能です。もし公理がただの仮定であれば、このような性質を持っていません。あなたは次のように思い込んでいるのではないのでしょうか?Eという仮定も立てる。¬Eという仮定も立てる。しかし、どちらが正しいかは議論しないようにしようと」
    「当然だ。決めようがないのだから。直感で決める?狂気の沙汰だ」
    「なぜ決めようがないと言えるのでしょうか?あなたが『公理はただの仮定に過ぎない』言った以上は、もう公理などという単語も不要のはずです。公理系などという言葉も無意味です。公理をすべて仮定と言い換えて、公理系をすべて数学理論と言い換えればいいのです」
    「お前は●チガイだ」
    「その結果、数学には公理も公理系も存在しないことになります。あるのは『ただの仮定』と『ただの数学理論』です」
    「当然だ。数学にはもともと公理や公理系などは存在しない」
    「公理がなくなるのであれば、当然、定理もなくなります」
    「当たり前だ。数学には公理も定理もない。これがヒルベルトの形式主義だ!」
    「もちろん、仮定同士にはお互いに証明されないという性質などありません。その結果、『仮定』と『仮定から証明される命題』の明確な区別もなくなります。仮定から証明される命題を仮定においてもかまわなくなります。何しろ、ただの仮定だから、何を置こうと自由です。このシッチャカメッチャカな状態を作り出すのが、『公理はただの仮定に過ぎない』という主張です」
    「お前、消えろ!」

  • 前提と仮定は同じであり、「仮に正しいとされた真偽不明の命題」です。だから、前提は2つに分類されます。

    (1)正しいと仮定された真の命題
    (2)正しいと仮定された偽の命題

    後者からは矛盾した理論が作られます。数学理論から公理系を作るとき、数学理論の仮定から、偽の命題と定理を取り除きます。そして、最後まで残っているごく単純な真の命題を公理とみなします。

    「公理」と「公理の否定」はとても良く似ています。それは、ともに「証明が存在しない」という酷似した性質を有しているからです。公理は定義から証明が存在せず、公理の否定は偽の命題であるがゆえに証明は存在しません。だから、公理(真の命題)かその否定(偽の命題)かを、直観で判断するしかないのです。
    平行線公理と平行線公理の否定は、実によく似た存在ですが、これらも実はどちらかの命題が偽の命題なのです。

  • 「あなたは「間違った現実は存在しない」と言い切れますか?」
    「言い切れる それが物理学の立場だ 現実を正しく認識できないことはあっても現実が誤っているということはない  それが自然科学の立場だ」
    「あなたが「現実」という言葉を使ったとき、無意識的に「事実」と同義語化しています。つまり、あなたの心の中では「現実と事実の区別」がついていないのです。現実は「目の前に現れた事実」であり、これは「五感と観測装置で事実と認定したことがら」であり、「頭の中で信じ込んでいる仮想事実」です。」

    現実と仮想現実が異なるように、事実と仮想事実は異なります。現実とは、仮想事実のことなのです。

    事実≠仮想事実=現実≠仮想現実

    事実、仮想事実、現実、仮想現実の相互関係は、上記の式のようになります。この式は、アインシュタイン方程式よりもわかりやすいでしょう

  • 「ヒデのいう矛盾は、相対論のみから示された内部矛盾ではなく  ヒデのデッチあげた前提との間の「外部矛盾」だ  ヒデ破れたり、ヒデ燃え尽きたり」
    「いいえ、正しいのは相対時間ではなく、絶対時間です。相対時間を正しいと主張するのは、古代ギリシャ時代に相対主義を主張したソフィストたちの受け売りでしょう。物理学的な同時刻は設定するものではなく、既に設定されているものです」
    「貴様が勝手にそう決めつけてるだけ。 決め付けは●違いの症状 さっさとクスリ飲んで直せ 貴様が良くても貴様の妻と子供が迷惑する」
    「なぜ、多くの先人たちが絶対時間を支持し、第5公理を支持してきたと思いますか?それは、先人たちが「良識」を重んじてきたからです。数学がどんどん進歩し、物理学がどんどん進歩し、科学がどんどん進歩してくると、私たちの祖先が大事にしてきた「良識的な直観」を次第に忘れてきました。そして、とうとう現代数学は矛盾化し、現代物理学が矛盾化したのです。」

  • 「「2物体の衝突は、常に同時刻で起こる」と「2回の衝突の間の経過時間は時刻の差」から「2回の衝突の間の経過時間はいかなる場合も同じ」が導ける」
    「そんなややこしいことを考える必要はありません。多分、相対性理論に毒されたから無理な考え方に慣れてしまったのでしょう。「2つの物体が衝突したとき、その2つの物体は同じ時刻でなければならない」という前提を2回使えばいいのです。2つの物体が時間差を置いて2回衝突したとします。前提より、2回とも同時刻に衝突しています。これは、n回にも拡張できます。つまり、2つの物体は何回衝突しても、いつも同じ時刻で衝突します。これから、「任意の2物体の時間経過は常に同じである」という結論が出てくるのです。これは、論理的な帰結であり、例外は認められません。つまり、どんな実験をしようと、どんな観測をしようと、それらから「時間経過が異なることがある」という結果を導くことは矛盾しているのです」
    「 し・か・し「2物体の衝突は、常に同時刻で起こる」は相対論では正しいが「2回の衝突の間の経過時間は時刻の差」は相対論では正しくない」
    「それが相対性理論の内部に巣食っている自己矛盾なのです」

  • 「ヒデは「スタートとなる1つの事象から同じ時間を経過した2つの事象は同時刻」という相対性理論以外の前提を持ち出している」
    「いいえ、「2物体の衝突は、常に同時刻で起こる」という良識に基づいています」
    「ほう、じゃ貴様がデッチあげた相対論以外の前提は「2つの事象間の経過時間は時刻の差」だな」
    「違います。私の前提はただ1つです。それは「2つの物体が衝突したとき、その2つの物体は同じ時刻でなければならない」という決まりです」

  • 「理論は永遠に仮説である」という主張もまた、仮説に過ぎません。ということは『理論は永遠に仮説である』は正しくない可能性もあるのです。では、正しくない可能性がある説をどうして堂々と「理論は永遠に仮説である」と断言するのでしょうか?その断言する理由を教えていただけないでしょうか?
    要するに、「理論は永遠に仮説である」を証明していただきたいのです。

  • 「平行線公理も仮説なのですね?」
    「そうとも。知らなかったのか?バカめw」
    「『3角形の角は3つある』という命題も仮説でしょうか?」
    「そうとも。知らなかったのか?バカめw」
    「平行線公理が仮説ならば、平行線公理の否定も仮説ですね?」
    「そうとも。知らなかったのか?バカめw」
    「『2点を結ぶ直線は1本あり、かつ、1本しかない』も仮説でしょうか?」」
    「そうとも。知らなかったのか?バカめw」
    「『1は自然数である』も仮説なのでしょうか?」
    「そうとも。知らなかったのか?バカめw」
    「でも、平行線公理が命題であれば…」
    「おまえのいう命題なんか数学にはない。 言い訳するな。バカが!」
    「『平行線公理も仮説である』と言いたいのならば、これを証明してくれませんか?」
    「仮説を証明するバカはいない」
    「仮説を真実にするためには、証明しなければならいのではないのでしょうか?」
    「それがバカのやることだ!」
    「ずいぶんと無茶な説ですね。昔は、仮説については厳しかったです。『仮説をむやみやたらと使ってはいけない』『仮説は正しいと分かってから正々堂々と使うものである』と…」
    「正しいとわかるなら仮説ではない」
    「その発言はおかしいです。あなたは、次のように言うべきでしょう」

    「正しいと分かったら仮説とは言わない」

    「ところで、相対性理論はいつになったら仮説ではなくなるのでしょうか?」
    「ニュートンは『私は仮説を用いない』といったそうだが それを文字通りの意味で考えると矛盾する。なぜなら、ニュートン力学の根本原理は明らかに仮説だからだ」
    「そうですね。彼もまた神ではありませんでした。でも、実は『仮説』という言葉があいまいな用語なのです。これは、本質的には仮定と同じです。『一時的に正しいと定めた説』です」

    仮定=仮に正しいと定めた命題
    仮説=仮に正しいと定めた学説

    数学理論や物理理論などの仮説は、その前提として仮定から成り立っています。

    仮説は、仮定から成り立っている。

  • ネットで次のような質問がありました

    (問)仮説の反対語を教えて下さい。 補足 すみません。定説が正解…なんだか定説がしっくりこなくて。ずばり反対語って感じがしません。もう少し別のはないでしょうか?

    (答)【仮説】の反対語 【実証】です。「仮説の実証」という表現があるように、2つはセットなった言葉です。

    この答えには何となくしっくり行くものがありません。仮説は仮に立てられた説です。しかし、実証は実際の行動を通して確かめることであり、説ではありません。

    一方、「仮説は実証されて初めて真実となる」という湯川博士の言葉があります。これによると「仮説」の反対語は「真実」となります。

    どなたか、この辺の国語に詳しい方がおりましたら、ぜひ、教えていただけないでしょうか?結局、物理学もまた、その基本は国語に帰するということです。

  • 「正しい理論?現代物理学にはそんな理論は存在しない。なにしろ、すべての物理理論は仮説だからな。仮説とは、間違っていることがわかるまで使うことが許される理論のことだ」
    「逆でしょう。本来は、仮説というのは正しいことがわかるまで使ってはいけない理論です」
    「ハハハ、それが今では逆転したのだ」

    【昔の仮説】
    正しいことがわかるまでは、使ってはいけない理論

    【今の仮説】
    間違っていることがわかるまで、使い続けることが許される理論

    「これが物理学の自由というものだ」
    「では、正しいとか間違っているという判断は、どうやって下すのですか」
    「検証に決まっている」
    「検証って?」
    「観測や実験によって実際に確かめることだ。つまり、実証される必要がある。仮説は実証されて初めて真実となる」
    「必ずしもそうとは言えません」
    「なぜだ?」
    「仮説は実証されて初めて真実となるという発想自体に、後件肯定式が使われているからです。後件肯定式は恒真命題(トートロジー)ではありません。つまり、『仮説は実証されて初めて真実となる』という考え方は、論理的には間違いです」

  • 「すべての理論は永遠に仮説である」
    「それをあなたは証明できますか?」
    「できない」
    「もしそれが証明できないのであれば、『理論はすべて仮説である』という考え方もまた、ただの仮説にすぎないことになります」

  • 物理学では、問題となっている疑問に対する仮の答えを仮説といいます。仮説が正しいであろうことを実際に証明することを実証といいます。

    実証の中身は後件肯定式です。具体的に言うと、仮説によって推論を行ない、結果を導き出します。これが、いわゆる仮説による予測です。そして、実際に観測や実験を行ない、観測結果や実験結果を出します。予測と結果を比較して、ほぼ、同じと判断されれば、実証されたとみなします。これを端的に表現したのが次の文句です。

     「仮説は実証されて初めて真実となる」

    実証という行為が後件肯定式に基づく以上、論理的には正しい行為とは言えないからです。ただ、何度も実証された仮説は、「真実」というよりも「便利」と言い直すべきでしょう。
    真実かどうかは永久にわかりません。しかし、仮説から出てくる結果が、観測結果や実験結果である現象といつも一致していれば、これほど便利な仮説はありません。人々は、この仮説を手放さなくなります。
    それが数学では無限集合論であり、物理学では相対性理論です。両者ともに矛盾した理論であり、矛盾した理論内では矛盾した推論が使い放題だから、さまざまな問題にうまく対処できるようになります。

     なお、実証されても真実かどうかわからないなら、真実はいったい、いつになったらわかるのでしょうか?これは、もはや哲学の領域です。
    物理学では、いつまでも答えを保留しておく習慣はありません。真実である可能性の一番高い答えを、その時代の真実として決めて、さらに学問を進めて行くことが重要です。でも、必ず、どんでん返しが起こることを覚悟して、パラダイムの転換の余地も残して行くことも必要です。

  • 無矛盾な理論は、矛盾していることを証明できません。矛盾している理論は、矛盾していることを証明できない場合と、証明できる場合があります。これより、矛盾が証明できない理論には、無矛盾な理論と矛盾した理論があります。

  • 円周率πを数字で表してみましょう。

    3.14

    これはπの近似値であり、まだπを数字で完璧に表していません。

    3.141492

    これもπの近似値であり、まだπを数字で完璧に表していません。では、次はどうでしょうか?

    3.141492…

    現代数学では、これを「πを数字で完璧に表している=これはπの近似値ではない」とみなしています。つまり、…という記号でπの小数点以下の整数配列が完成した、と考えています。このような…という記号を使った無限小数でπを完璧に表現できるという発想は、実無限と呼ばれています。要するに、終わることのない無限の操作を終わらせることです。もちろん「終わることのない無限の操作を終わらせる」という考え自体が矛盾を含んでいます。

  • πという円周率は数字で表すことができません。3.14も正確なπの値ではなく、3.141592も正確なπの値ではありません。3.141592…と無限に書き表し続けても、いつまでたってもπの正確な値にたどり着きません。これによって、「πは数字で表すことができない」とわかります。

    つまり、円周率はπという記号でしか表せないのです。もちろん、記号であればπでなくてもよく、3.141592…という記号を用いても構いません。このときは、π=3.141592…という等式が成り立ちますが、右辺の3.141592…は単なる一塊の記号(完全に固定した記号)であって、…は記号の一部です。つまり、…は数字を省略した記号ではないので、ここに数字を入れてはいけません。

    πを3.141592…という別記号で書き表したならば、3.141592…という記号は決して変えてはなりません。これは数学における常識です。
    具体的なことを申し上げます。3.141592という有限小数はπの近似値ですが、次なる分解が許されます。

    3.141592=3+0.141592

    では、πを次のように分解できるのでしょうか?

    π=一+ル

    できないでしょう。理由は同じです。πを3.141592…という別記号で書いた場合、何の承諾もなしに

    3.141592…=3+0.141592…

    と勝手に分解してはならないのです。このやってはならないことをしたのが、次なる式です。

    10×0.999…=9.999…

    数学におけるもっとも基本的な知識に欠けると、このような間違いを犯してしまいます。

  • 「πは実数だ」
    「それは、どうやって値を求めるの?」
    「値を求める?すでに値は求まっている」
    「その値は何?」
    「πさ」
    「それっておかしくはない?」
    「そんなことないさ。半径1の円の面積を求めよという問題を出されたとき、πというのがその値になる」
    「なるほどね。それを無限小数で書いていったら、試験中では時間切れになってしまうわ。そして、正確な値を書けなかったとして減点される。努力したわりに報われないわね」
    「そうさ。πという正確な値を書けば、減点されることは絶対にない」
    「では、半径1の円の面積を計算せよという問題を出されたときはどうなるの?」
    「まったく同じだ。πというのが、その計算された値だ」
    「では、値を求めるとか計算するということは、無限小数に直すことではないのね」
    「もちろんだ。実数を無限小数に書き直していたら、どんどん減点されてしまうだけだ」
    「入学試験の場合は合格を逃すこともあるわね。では、無限小数に直すということは、いったいどういうことなのかしら?」
    「結局、実数の近似値を求め続けることさ。たとえば、πという値を持った実数が存在する。これを次のように、いくらでもπに近づく近似値を書き続けることができる」

    3.14
    3.141
    3.1415
    3.14159
    3.141592


    「無限の作業は決して終わることがない。だから、書き終わることもない。つまり、次なる無限小数には永久に到達しないのさ」

    3.141592…

    「この場合の最後についている…の記号は、無限に存在する数字の配列をすべて書き終わったという実無限の意味ね。πを無限小数展開したとき、小数点以下のすべての桁の値が決定するわけではない。だから、より正確な近似値を求めていくだけなのね」
    「じゃあ、可能無限では決定していない桁があるの?πの小数第何位の桁より先が決定していないの?」
    「決定しない桁を指摘するとしたら、それは決定することができた桁よりも先の桁さ」

  • 「非ユークリッド幾何学では、『円弧は直線である』という主張に直感を用いているでしょう?」
    「いいえ、用いていません」
    「では、『円弧は直線である』を証明してください」
    「…」
    「モデルを作るときに導入された『円弧は直線である』という考え方は直感を取り入れています」
    「直感ではなく定義です」
    「では、直線の定義と円弧の定義を示して、『だから、円弧は直線である』という結論を証明して導き出してください」
    「…」
    「直線と円弧の定義は違います。だから、円弧は直線ではありません」
    「直線の定義は最短距離である」
    「それは直線の定義ではありません。直線の持っている性質の1つです」
    「いや、直線は平面上の最短距離である」
    「じゃあ、円弧は何の最短距離ですか?」
    「決まっているじゃないか。円弧も最短距離だ。何の最短距離かというと…それはだな…ありゃりゃ??何だっけ?」
    「私は知りません」
    「まあ、そんな小さなことにはこだわるな。とにかく、最短距離は直線を一般化したものだ。だから、最短距離は直線も大円も円弧もすべてを含んでいる」
    「まるで、図形を一般化した多様体のようですね」
    「その通り。多様体がまったく理解できない落ちこぼれにしては優等生的な回答だな。少し、褒めてやるぞ」

    「まっすぐな線」と「最短距離」は言葉からして異なります。球面上の最短距離は大円の短いほうであり、それは直線ではなく曲線です。これは基本的な知識であって、誰でも持っていなければならない必要最低限の知識とも断言できます。しかし、非ユークリッド幾何学では、まっすぐな線―――直線―――の定義を最短距離にしてしまうという暴挙を行なっています。

  •  円に内接する正n角形を考えます。正3角形、正4角形、正5角形、…と辺の数をどんどん大きくしていくと、それは次第に肉眼的に円に近づいてきます。しかし、nをどんなに大きくしても、それは相変わらず正多角形です。決して円には一致しません。正n角形がスムーズに円に移行することは、数学的にはあり得ないことです。
    このあり得ないことをやってのけるのが実無限です。実無限とは、終わることのない無限のプロセスを終わらせた状態です。たとえば、円を正無限多角形とみなす考え方です。この場合は、正n角形のnに∞を代入しただけです。
    しかし、正n角形のnには自然数以外を代入することは許されません。つまり、正∞多角形というのは、代入してはいけないものをnに代入してしまった初歩的な誤りです。

    結論「円は存在するが、正∞角形は存在しない」

    一方、円に内接する正n角形の各辺の長さの合計(周長)を考えます。

    次に、これらを使って、次なる無限数列が考えられます。

    正3角形の周長,正4角形の周長,正5角形の周長,…,正n角形の周長,…

     このとき、正n角形の周長よりも正n+1角形の周長ほうが円周に近いです。そして、正n角形のnを限りなく大きくしていくと、内接する正n角形の周長は限りなく円周に近づいて行きます。それに対して、次なる図形列はどうでしょうか?

    正3角形,正4角形,正5角形,…,正n角形,…

    図形列とは、図形を並べたもの(有限図形列)あるいは図形を無限に並べ続けるもの(無限図形列)であり、このとき、正n角形よりも正n+1角形のほうが円に近いとは言えません。

    数列と図形列は根本的に異なった考え方であり、正n角形のnを限りなく大きくしていくと、その図形は肉眼的には限りなく円に近づきます。でも、これは「見た目が近づく」だけであり、実際に近づいているかどうかの数学的な判定方法はありません。数列と図形列は混同しやすいから、特に、注意を払う必要があります。
    数列には極限値という概念が存在しますが、図形列には極限図形という概念は存在しません。つまり、円を正n角形の極限=正∞角形と同一視することは間違いです。

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