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市川秀志 徹底研究

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  • 2019/01/21 05:49
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    アマチュアの立場からYahoo掲示板での書き込み及び著作等で
    相対性理論・非ユークリッド幾何学・不完全性定理・集合論・ビッグバン・エントロピー増大の法則 等
    を完全否定する、市川秀志氏について徹底研究しましょう。

    著作
    「カントールの対角線論法―ミーたんとコウちんは闇の数学講座で無限の正体を見た」(パレード)
    「カントールの区間縮小法―ミーたんとコウちんは闇の湖で地球人と出会った。」(パレード)

    掲示板での書き込み
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835555&tid=ajbpoc0a4o4v0ca4ca4fa4a4a4ka1a9&sid=1835555&mid=1&type=date&first=1

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    市川秀志 1月21日 05:49

    返信をありがとうございました。

    相対性理論が正しければ、このリンゴは1個の物体でありながら、2つの時刻を持っています。

    > 時刻ではなく経過時間ねw

    1つの物体は2つの経過時間は持ちません。これは「物体の時刻は1つである」という相対性理論の仮定―――物体には、それ独自の固有の時間が1個だけある―――に反しています。

    >ヒデの読み間違いw  固有時間=時刻 ではない。リンゴの各々の分子が各々の時間を持っているのは当然である  リンゴは「1個の物体」ではないw

    リンゴは1個の物体です。相対性理論によると、1個のリンゴは無数の経過時間を持ち、それらのどれを採用するかは自由なのでしょうか?

  • 相対性理論によれば、運動している物体の長さが縮み、質量が増え、時間は遅れます。時間の経過が遅れた結果として、物体の時刻も遅れます。

    長さが縮んだり、質量が増えたり、時間の経過が遅れたりするのは運動している間だけです。そのため、物体が停止すると、「短くなった長さ」も「重くなった質量」も「遅くなった時間経過」も完全にもとに戻ります。それこそ、完全に!

    ところが、どういうわけか「遅れた時刻」だけがもとに戻りません。これらをまとめると次のようになります。

    物体が運動することによる長さの短縮…可逆現象
    物体が運動することによる質量の増加…可逆現象
    物体が運動することによる時間経過の遅れ…可逆現象
    物体が運動することによる時刻の遅れ…不可逆現象

    物体の運動が停止しても時刻の遅れだけがもとに戻らないのはどうしてでしょうか?その理由は、時刻までもが完全にもとに戻ったら、ニュートン力学となんら変わらないからです。

    >これもいれといてくれw  物体が運動することによる位置のズレ…不可逆現象  位置のズレももとには戻らないw 「物体の運動が停止しても位置のズレももとに戻らないのはどうして? ”時刻の遅れだけ”ではないね。」

    運動とは、時間が進んで位置も進むことです。速度がvで時間がtならば、時間の進みはtであり、位置の進みはvtです。これはニュートン力学の話であり、相対性理論は時間がtなのに0.9tとか0.8tとかしか進まないのです。だから、時間の遅れも生じ、時刻が元に戻りません。もちろん、相対性理論では位置も0.9tや0.8tしか進まないから、本来進むべき距離も進んでいません。これをあなたは「位置のズレももとには戻らない」と巧妙な言い方で述べています。でも、文句を言うのは私にではなく、アインシュタインに言ってくださいね。

  • アインシュタインは、最初「観測者が動くと、観測されている物体が(観測者の進行方向に)縮む」と言いました

    >それウソでしょ。縮んで見えるだね。

    すると、観測者が目を閉じていると、まったく縮んでいないのでしょうか?

    >もちろんだ。物体が運動しただけで縮むはずはないだろう。ましてや、観測者が運動するだけで見ている物体が縮むわけがない。縮むというのは物理学ではあり得ないのだよ。ただ単に、縮んで見えるだけだ

    物体が縮まないで、物体の周囲の空間が縮んでいるだけだ、という意見もあるよ

    >物体を縮めるのはエネルギーだが、空間はエネルギーを加えても縮まない。空間自体にはエネルギーをくわえられなのだ

    どうして?

    >物体にエネルギーを加える際には作用点があるが、空間にはこの作用点がない。空間は物体ではないから、手でつかむことすらできない。だから、力の加えようがないのだ

    ということは?

    >相対性理論は、『物体は縮んでもいないし、空間も縮んでもいない。つまり、縮んで見えるだけ』という錯覚を述べている物理理論なのだ

    じゃあ、これは物理学と矛盾します

    >矛盾しませんよ。物理学を作ったのはあんたじゃないよ。あんたの直観に反するというだけで間違いとか判断する権利なんかあんたにはない。いったい何様のつもりなの?

    傲慢で申し訳ありません。「観測した結果は真実である」と定義している方もいるので、「縮んでいない物体が縮んで観測される」という場合は、どのように解釈したらいいのでしょうか?

    観測した結果を信じる(=現実を信じる)ならば、「縮んで観測される以上は縮んでいる」とみなすべきでしょう?それなのに、どうして「縮んで観測されるけれども、縮んでいない」と観測結果を否定するのでしょうか?

  • あなたは「それウソでしょ。縮んで見える」と言いました。あなたは観測結果を否定したのです。あなたは現実を否定したのです。

    その理由はあなたの直観でしょう?「観測者が動くだけで、観測している物体が縮むはずはない。それは、ニュートン力学に反する」と信じているからです。ソクラテスをまねした突っ込みで失礼いたしました。次のように言い換えています。

    「観測者が動くと、観測されている物体が存在している空間が(観測者の進行方向に)縮む」

    >それこそ大ウソでしょ。だいたいすべてが縮んで見えるわけじゃない。なかには伸びて見えるものもある。それは観測者との速度の違いで決まる。

    観測者が動くと伸びて見えるものは何でしょうか?

    >「現在の空間」は誰が観測しても同じとかいうナイーブでイノセントな思い込みによればすべてが縮むしかあり得ないだろうと思ってるんだろうけど、そもそもその思い込みが成り立たないんだから無意味w

    相対性理論が正しければ、宇宙船の速度が光速の99%の場合、宇宙全体はどれくらい縮むのでしょうか?宇宙船から宇宙を観測できますが、現在、宇宙の大きさは138億光年です。これが縮むのだから、宇宙の端から端まで飛行するのに、138億年はかかりません。

    では、相対性理論の計算では宇宙の端から端まで、何年で到達できるのでしょうか?ちなみに、相対性理論が正しければ、宇宙ロケットが光速で飛ぶと、宇宙の幅はゼロになります。距離0ならば、宇宙ロケットは0秒で宇宙の端から端まで飛行できます。つまり、光速度cで進んでいる宇宙ロケットは、0秒で宇宙の端から端まで飛べるのだから、その速度は∞となります。つまり、c=∞ という矛盾した結果が得られます。

    >すごい。相対性理論が正しければ、光速のロケットは瞬間的に、宇宙の端から端まで旅できるんだね。でも、なんか味気ないなあ、0秒で終わる旅なんて…

  • >古代ギリシャの哲学者たちは、観測や実験をせずに理論を作ってきた。理性を大切にするとか言いながら、頭の中だけで直観的に理論を作ってきたのじゃ。確かに、重い石は速く落ち、軽い紙は遅く落ちる。これは経験的に事実である。だからこそ、アリストテレスは『重いものは速く落ち、軽いものは遅く落ちる』と言った。しかし、彼は実験をしなかった。それに対して、ガリレオは実験によってこれを否定した。観測や実験は、頭で考えること以上に重要なことなのじゃ

    なるほど。観測や実験の大切さが良くわかったわ

    >そうじゃろう。実験した結果も、最終的には観測することになるから、実験は観測の一種とも考えられる。よって、この大切な観測を今後は絶対に忘れることのないようにしなければならん。そのためには、理論の仮定にぜひとも『観測』という文字を大々的に入れる必要がある。このような発想の転換ができるのはわしだけじゃった。このときに悩んだのが、観測という人間の行為をどうやって理論の中に埋め込むかじゃ

    埋め込むの?

    >そうじゃ。埋め込むんじゃ。どうせなら、原理の中に直接、観測という文字を埋め込んだほうが良い

    原理の中に観測の文字を埋め込む・・・今まで誰も考えたことがなかったわね

    >頭の柔らかいわしじゃからこそ、このような大それたことができたんじゃ。ニュートンにはこんな大それたことはできなんだ。『観測すればああ見える』『観測すればこう見える』という見え方を、物理学の原理に持ってくるんじゃ

    え~?

    >とにかく、人間が観測する行為自体を物理学の原理にしてしまうんじゃ。そうすれば、今までにない画期的な理論ができ上がるじゃろう。観測こそが物理学の本質だ!観測結果こそが真実だ!とにもかくにも観測されたことがらを素直に受け入れる従順さが大切じゃ

    それはどういうこと?

    >わからんのか?観測されたことがらを一律に真実とみなすことが物理学の基本になければならん。これを観測事実と呼んでおる

    それって、観測や実験を軽視したアリストテレスの裏返しじゃないの?

    >裏返しとは何じゃ?

    観測や実験を無視することも、逆に、観測や実験を盲信することも、ともに科学的ではないということよ

    >盲信ではない

    観測結果をそのまま正しいと信じることは、理性を捨てて、ただ単に信じ込むことよ。そしたら、これは盲信でしょう?

  • >そうじゃったな。実は、これこそが自然にひざまずくという科学者のあるべき姿じゃ。自然界は人間に対しては絶対に嘘をつかん

    でも、自然界は人間に対して巧妙な嘘をつく、とヒデ先生は言っていたわ

    >ひねくれておるの~

    でも、歴史的に見た場合、新しい観測結果は古い観測結果をどんどん否定しています。したがって、今の観測結果は、将来、否定されることになるかもしれないわ。だから、観測結果をそのまま事実として受け入れることは危険です。観測事実は必ずしも事実とは限りません

    >何を言っている。観測事実は事実に決まっておる。将来、新しい観測事実が得られたら、その時点で現在の観測事実を捨てて、新しい観測事実に乗り換えたらいいじゃないか

    そしたら、現在の観測事実は事実ではないことを認めてしまいます。ひざまずいたことが無駄になります

    >何度でもひざまずくのがよい。敬虔な態度は大切じゃ。そして、古い観測事実が否定されたら、今度は新しい観測事実にひざまずけばいい。このような乗り換えはいくらでも許される。腰が軽いなどとは言うなよ

    観測結果が否定されたら、また新しい観測結果に従うなんて…観測結果を無批判に取り入れるということよね。これって、本当に科学的なのかしら?科学は疑うことから始まったはずよ。私たちは観測結果の奴隷じゃないわ。

  • >「ストローが曲がって見える」ことも「できごと」である(笑

    確かに、おっしゃる通りです。「~のように見える」も、立派なできごとです。ただ、そう見えた人が「見えたから~が真実だ」という人もいれば、「見えたからといって~が真実だとは言えない」という人もいるでしょう。

    これを観測問題にまで拡大してみます。

    「観測されたから~が真実だ」という人もいれば、「観測されたからといって~が真実だとは言えない」という人もいる。

    要するに、次なることが言えるようになります。

    「観測結果が真実だ」という人もいれば、「観測結果が必ずしも真実だとは言えない」という人もいる。

    ガリレオ以降、観測結果をすべて真実として扱う風潮が定着し、「観測結果を疑う哲学者としての素質を持った科学者」が少なくなっているように感じます。観測結果をそのまま盲信するならば、哲学は失われてしまいます。

    「宇宙が膨張していることが観測された」

    この観測結果に疑問を抱くことが、科学者としての哲学的素質でしょう。

  • 返信をありがとうございました。

    ローレンツ変換は単なる数学的な変換であり、実在する時計はまったく影響を受けません。つまり、実際に時計の表示する時刻が遅れたり、実在する時計が変形したりすることはありません。

    >ヒデは肝心なことが分かってない 実在する時計の観測結果と矛盾しないのはローレンツ変換のほう。ガリレイ変換だと矛盾しまくるw ガリレイ変換が正しい、というなら、ガリレイ変換と矛盾しない「真の時刻」とやらを示す「正しい時計」を発明してみせる必要がある 「そんな時計はつくれないが神様には分かる」とかいうのはダメ  そんなのインチキなカルト宗教w

    観測結果が正しいとは限りません。あなたは「観測結果が正しい」という証明をお持ちでしょうか?ここで、その証明を行なえないのであれば、あなたの「観測結果が正しい」という思い込みは直観によるものではなのでしょうか?

  • 観測結果は、必ずしも真実とは言い切れません。だから、批判的精神を持っている科学者は、「観測結果は絶対である」という思い込みに縛られたりはしません。つまり、「観測結果は真実である」という命題を物理学の根本的なルールとはみなしていません。

    観測結果と現実は同じだから、「物理学は現実を真実とみなす」という思い込みは間違いです。

    しかし、観測結果をそのまま鵜呑みにしたい人は、このような批判的な考え方を放棄して、「観測結果は絶対である」という勝手な思い込みを持つ続け、それを他人に強要したりします。このような非科学的な態度が、相対性理論を擁護する背景にあります。

    「観測結果は絶対である」「現実は絶対である」「観測結果を否定するな」「現実を否定するな」という思い込みは、科学を正しく進めて行く際の現代科学における最大の障害になっています。

  • >残念ながら、非ユークリッド幾何学ではユークリッド幾何学は取り込めないしユークリッド幾何学は曲率ゼロの非ユークリッド幾何学です。――― 「ユークリッド幾何は曲率ゼロのリーマン幾何の一種」というなら正しいが リーマン幾何=非ユークリッド幾何、ではない。ついでにいえば、曲率ゼロならユークリッド幾何になる、とすらいえない。トーラスは曲率ゼロの曲面として実現できるが、2点間を結ぶ測地線は無数にあるw

    測地線の定義は何でしょうか?まさか、直線ではないでしょうね?

    >(ローレンツ変換に基づく)特殊相対性理論は(ガリレイ変換に基づく)ニュートン力学を取り込めない。特殊相対性理論は重力を扱えませんから、ニュートン力学よりもずっと能力の劣っている理論ですから、それはある意味、当然のことかもしれません。――― 重力は関係ない。しかも重力に関してもニュートン力学は間違ってるから無意味w

    「間違っている」の根拠は何でしょうか?まさか、「観測結果との相違」ではないでしょうね?理論を否定するときには、どちらの否定の仕方が正しいと思いますか?

    ・観測結果と矛盾する理論は否定されるべき。→ニュートン力学は否定されるべき。
    ・理論内に矛盾が存在する理論は否定されるべき。→相対性理論は否定されるべき。

  • 時速200kmの新幹線を観測する場合、相対性理論では観測者の速度(速さと方向)によって、観測者の観測する新幹線の速度は変化します。つまり、観測結果は一意ではなく、信頼性に欠けます。

    このような信頼性のない観測結果を生み出す相対性理論には、問題があります。そもそも、科学においては観測結果や実験結果には客観性が求められます。

    ニュートン力学では、相対速度と観測速度を明確に分けています。運動物体Aと運動物体Bの相対速度は、運動の向きと速さによって千差万別です。しかし、観測速度(観測された速度)は、ある1つの基準点を設けて行なうので、誰が観測しても同じ観測値を得ます。このようなたった1個の基準点を宇宙内に設定することを絶対空間と呼んでいます。

    また、ニュートン力学では観測者全員が同じ観測結果を得られるように、時間の基準点も1個に絞ります。これによって、宇宙内の時間経過は誰にとっても共通した値となり、これを絶対時間と呼んでいます。

    要するに、絶対空間や絶対時間は「相対速度を絶対速度に移し替える変換」です。

    相対性理論によれば、新幹線に備え付けられている壁時計の時刻も無数にあります。時速200kmで走っている新幹線の時計は、その時刻が別の運動をしている観測者によって異なる時刻を示します。

    たとえば、新幹線に乗っている観測者と、その後ろから時速100kmで車に乗って追いかけている観測者とでは、新幹線の壁に掛かっている時計の時刻が違います。

    新幹線に乗っている観測者が観測する時刻が3:00とすると、車で追っかけている観測者は2:58のように読み取れます。これって、アナログの時計でもデジタルの時計でも同じです。私にはとても信じられません。

  • 1個の時計の表示している数字が、ある人は3:00と読めて、別の人は2:58と読めるなんて…サイコロを振って出た目が、ある人は「3が出た」と言い、別の人は「いや、出た目は6である」と言い争うようなものです。賭場は修羅場と化すでしょう。

    出た目が1~6のうちのどれかであることは良識的に明白であり、この目が観測者によって異なるようでは困ります。本当のサイコロの目があるように、時計の表示している実際の時刻があるはずです。その実際の時刻は観測者にとって一定でなければなりません。これが、観測結果の一意性=客観性となります。

    「観測速度は1人1人異なる」と「相対速度は1人1人異なる」には、日本語として月とスッポンの差があります。アインシュタインは、この観測速度と相対速度をゴチャマゼ(カオスの状態)として扱い、観測速度は1人1人異なる(すなわち、真実は観測者にとって1人1人異なる)と説きました。

    これは、真実は無数に存在している、観測者が異なれば、真実も異なってくるという古代ギリシャのソフィストの考え方そのものです。真実は1人1人異なっていると説いて回った人間中心のプロタゴラスのようなソフィストと同じです。物理学は詭弁でもないし、芸術でもないのだから、人間の感性を中心に構成する学問ではありません。物理学的な真実は、観測結果から独立しています。

  • 「観測した結果が事実である」という主張が、常に正しいとは限りません。なぜならば、観測装置の進歩によって、観測した結果は次々に塗り替えられていくからです。いくら観測結果が塗り替えられようと、「事実が塗り替えられる」などあり得ないからです

    >その認識は間違いです。

    事実が塗り替えられることは、「本当は事実ではなかった」という認識が必要です。誤差の大きな定規Xがあったとします。このとき、「定規Xで長さを測って、結果が4.3cmだった」というのは事実ですが、「長さは4.3cmだった」というのは事実ではありません。結果と事実は、厳密に議論するならば乖離しているのです。「観測結果」と呼ばれるのは、前者のほうです。観測結果は「観測した行為が事実であった」という意味ではありません。観測した結果が事実である(つまり、観測の内容が事実である)ということです。

    (1)観測したという行為が事実である。
    (2)観測した結果の内容が事実である。

    (1)と(2)をしっかり区別することが大事であり、そのためには国語のセンスが求められます。

    結局、物理学に強く求められているのは国語力です。数学も同じです。「いかに複雑怪奇な記号を駆使できるか?」ではありません。誰にも理解できないような難解な記号をこれでもかと取り入れるような証明は証明にあらずでしょう。

    拡張に拡張を重ねて出てきた抽象的な記号を用いて宇宙を記述しても、それは正しい物理学とは言えないでしょう。「国語を軽視した数学」「国語を軽視した物理学」は「哲学を軽視した数学」「哲学を軽視した物理学」となって、暴走に暴走を繰り返すことがあります。失礼なことを申し上げてすみません。ⅿ(__)m

  • 私は観測結果をすべて否定しているのではありません。観測結果には、真実を得ることができた観測結果と、真実を得ることができなかった観測結果があります。だから、主体性を失って「すべての観測結果に従う」という従順な態度はかえって危険です。それに対して「すべての観測結果を疑う」というのは立派な科学的態度だと思います。もちろん「すべての観測結果を否定する」ではありません。

    >そもそも観測結果を否定するのは間違っている

    どうしてでしょうか?観測技術の進化によって、新しい観測結果は古い観測結果をどんどん否定しています。あなたは、観測結果を否定することは間違っていると信じているようですが、それでは「今までの観測結果を否定することは間違っている。新しい観測結果を認めてはならない」ということになります

    >もちろん、観測結果同士が矛盾する場合は別である

    そうですね。新しい観測結果が古い観測結果と矛盾することはよくあることです。この場合、新しい観測結果が正しくて、古い観測結果が間違っているとは言いきれません。逆のケースも考えられます。つまり、新しい観測結果のほうが勇み足で間違っていることもあるでしょう。

    そもそも観測結果というのは、ある理論が正しいという前提で行なわれます。たとえば、相対性理論が正しいかどうかという観測結果は、極めて精巧な原子時計を用いて行なわれますが、この原子時計がすでに相対性理論で補正されている場合は論外です。

    距離もまた、1秒間に光が進む距離を基準にしていますから、相対性理論で補正されています。相対性理論で補正された時間と、相対性理論で補正された距離を用いて、相対性理論が正しいかどうかの観測や実験を行なうことに、いったいどれだけの信頼性が置けるのでしょうか?

  • 今までは、「相対性理論を否定するためには、相対性理論で説明できない現象を見つける必要がある」と漠然と信じ込まれていました。そのため、相対性理論に疑問を持っている人々は、相対性理論を否定するための観測や実験を盛んに繰り返してきました。

    ところが、相対性理論を検証する実験も反証する実験も非常にお金がかかるため、一般の人にはできません。つまり、専門家に任せるしかないことになり、その結果、専門家の下した結論を鵜呑みにすることにならざるを得ませんでした。つまり、素人も含む万人によるチェック機構が働かなくなりました。

    しかし、観測や実験をいくら繰り返しても、相対性理論の間違いを暴くことはできません。実は、物理理論を否定できるのは観測や実験ではありません。物理理論を本当に否定できるのは、その理論内部から出てくるパラドックスだけです。物理理論の正しい否定方法は「パラドックスを含むから間違いである」というやり方です。

    私たちは、物理学に対して、発想を根本から変えていかなければなりません。現象をもとにして物理理論を否定する方法を採用しようとすると、自己矛盾に陥ります。たとえば、…

    (1)ニュートン力学が現象と合わないならば、ニュートン力学は間違っている。
    (2)ニュートン力学が現象と合うならば、ニュートン力学は正しい。

    このような場合分けを行なうとします。ニュートン力学は地上の物体の動きも天体の動きも計算できます。だから、ニュートン力学は正しいことになります。しかし、水星の近日点問題を説明できません。したがって、ニュートン力学は間違っていることになります。つまり、次なる結論が出てきます。

    ニュートン力学は正しいと同時に間違っている。つまり、ニュートン力学は矛盾している。

    相対性理論も同じ結論が出てきます。このようなパラドックスは、理論と現象との一致・不一致だけで物理理論の正しさを判定しようとするから出てきたのでしょう。結局は、ある理論が正しいかどうかは、(現象ももちろん大事ですが)良識で判定しなければなりません。この人間としての良識は、哲学でも数学でも物理学でも化学でもどんな学問でも極めて重要であり、すべての学問の基礎を形成しています。

  • 公理とは自明の理のことです。自明の理とは、明らかに真であることを良識的な直観で知ることができるけれども、それが正しいことを論理的に説明する(いわゆる証明する)ことができない命題です。

    【公理】
    真の命題としてもっとも単純であり、それゆえに他の真の命題からも証明されない命題(よって、正しい直観でしか真と判明することがない命題)

    この定義より、公理は真の命題です。また、この定義より、他のいかなる真の命題からも証明されません。したがって、公理には次の2つの性質があります。

    【公理の2つの性質】
    (1)真の命題である。
    (2)他のもっと単純な真の命題から証明されない。

    しかし、公理は他の偽の命題からは証明されるでしょう。なぜならば、偽の命題を仮定すると、自分に都合の良い結論を引き出すことができるようになるからです。したがって、(2)の「他の真の命題から証明されることがない」をただ単に「他の命題から証明されることがない」に変えると間違った定義になります。

  • 返信をありがとうございました。

    記号だけでは数学の真理を読み取ることはできません。

    > 直感は数学の真理の基礎でもなんでもないw

    もしかしたら、あなたは「数学の真理は証明だけである」と思っていませんか?

    でも、実際、あなたはユークリッド原論の5個の公準を証明できませんよね?第5公準だけではなく、第1~第4公準すら証明できません。あなたが公準を証明できない理由は、あなたに数学的な才能がないからではありません。公準の証明が存在しないからでしょう。では、なぜ公準の証明が存在しないのでしょうか?それは「公準の内容があまりにも簡単すぎて、それを証明できるようなさらなる単純な命題が存在しないから」ではないのでしょうか?

  • 【ユークリッド原論の公準】
    第1公準:任意の点から任意の点へ1本だけ線を引くことができる。
    第2公準:有限な線を連続的に延長することができる。
    第3公準:任意の点を中心とする任意の半径の円を描くことができる。
    第4公準:すべての直角は互いに等しい。
    第5公準:線分が2本の線分と交わるとき,同じ側の内角の和が2直角より小さいなら,この2線分が限りなく延長されたとき,内角の和が2直角より小さい側において交わる。

    これらは例外なく、直観で書かれたものです。あなたが「直観は存在しない」というのであれば、これらすべての公準も否定なさるのでしょうか?

    > 否定しても構わない

    答えが明確ではありませんね。「否定しても構わない」ということは、「肯定しても良いし、否定しても良い」ということで、結局は「どっちでもかまわない」ということなのでしょうか?

    あなたは数学の命題すべてに関して「真でも偽でも、どっちでもかまわない」と拡大解釈して考えていませんか?これって、「私は数学の真理に関して興味がない。真偽を追究することなど、実にくだらない」と数学を蔑んでいることになりませんか?失礼な表現がありましたら、大変申し訳なく思います。ⅿ(__)m

    >(第1公準の否定)トーラス上では任意の2点間の測地線は無数に存在する

    これのどこが「任意の点から任意の点へ1本だけ線を引くことができる」の否定なのでしょうか?第1公準にはトーラスなど出てきていません。ましてや、測地線など一言も触れていません。

    >(第2公準の否定)球面上では任意の測地線は大円となるから、無限に延長できない

    これのどこが「有限な線を連続的に延長することができる」の否定なのでしょうか?第2公準には球面も測地線も大円も出てきていません。

  • >(第3公準の否定)球面上ではある半径以上の円は描けない

    あなたは「球面は平面である」と思い込んでいませんか?これのどこが「任意の点を中心とする任意の半径の円を描くことができる」の否定なのでしょうか?先入観を排してユークリッド幾何学を眺めた方がよろしいかと思います。m(_ _)m

    >(第4公準の否定)合同変換を制限すれば、直角同士が互いに変換し合えないようにできる

    これのどこが「すべての直角は互いに等しい」の否定なのでしょうか?直角はすべて90度であり、どの90もお互いに等しくなっています。あなたは「10進法の90度と、2進法の90度はお互いに等しくない」というような反論をしているのではないのでしょうか?m(_ _)m

    >(第5公準の否定)非ユークリッド幾何学の合同変換では、直線外の一点を通り元の直線と交わらないような直線の平行移動が無数に存在する

    それは、矛盾した非ユークリッド幾何学の世界で通用する話に過ぎません。m(_ _)m 私は「本当に正しいこと」を追求したいのです。現代数学と現代物理学は、その精神を放棄したのでしょうか?失礼な表現をして申し訳ありません。m(_ _)m

  • あなたは、AからBが証明された場合、論理式A→Bを真だと言いました。でも、『Aも真理ではない、Bも真理ではない。唯一の真理はA→Bである』と…。

    この考え方がヒルベルトの形式主義です。

    ここで、大きな問題を提起します。ヒルベルトもあなたも『A→Bが真である』ということを証明していないのです。肝心のこの部分は、あなたもヒルベルトもご自分の直観だけで述べているのです。

    AからBが証明されたら、どうしてA→Bが真の命題になるのでしょうか?

    直観を否定したあなたにとっては、もはや、直観を使うことは許されません。つまり、あなたは『AからBが証明されたら、A→Bは真の命題になる』を証明する義務を負っているのです

    >その証明は必要ない

    ということは、あなたの論理は次のようになりませんか?

    【あなたの言い訳】
    私は「AからBが証明されたら、A→Bは真の命題になる」と言っているが、この主張を証明する必要はない。なぜならば、これは私の直観だからである。

    あなたは「人類に直観があることを認めない」と断言しました。でも、あなたは論理に行き詰ると、自分独自の直観をこっそりと引き出してきて、「必要ない」とか「定義である」とかいって、発言の根拠を隠し通します。

    結局は「必要ない」という言い訳も「定義である」という言い訳も、その正体は「自分だけの直観」なのです。失礼なことを申し上げてすみません。ⅿ(__)m

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