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市川秀志 徹底研究

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  • 2018/05/28 10:04
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    アマチュアの立場からYahoo掲示板での書き込み及び著作等で
    相対性理論・非ユークリッド幾何学・不完全性定理・集合論・ビッグバン・エントロピー増大の法則 等
    を完全否定する、市川秀志氏について徹底研究しましょう。

    著作
    「カントールの対角線論法―ミーたんとコウちんは闇の数学講座で無限の正体を見た」(パレード)
    「カントールの区間縮小法―ミーたんとコウちんは闇の湖で地球人と出会った。」(パレード)

    掲示板での書き込み
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835555&tid=ajbpoc0a4o4v0ca4ca4fa4a4a4ka1a9&sid=1835555&mid=1&type=date&first=1

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    市川秀志 5月28日 10:04

    >定理は、すべての公理を満たさなければならな

    その考え方はおかしいわ

    >なんだって?

    定理はすべての公理を満たす必要はありません。証明するときには公理を用いる必要がありますが、すべての公理を用いる必要はありません

    >どういうことだ?

    証明に用いられなかった公理は、定理の証明を満たしてはいません

    >そうじゃないだろう。公理に反しないことが、公理を満たすということだ

    その言葉の使い方はおかしいです。公理を満たすということは、公理を用いるということです

    >いや、違う。君たちはまだ子どもだから数学のシロウトだ。だから、よくわからんだろう。公理を使っても公理を使わなくても、定理は公理を満たしている

    じゃあ、ある定理を証明するときに、平行線公理も平行線公理の否定も使わなかったとします

    >それがどうした?

    その定理は、平行線公理も平行線公理の否定も満たしていることになります

    >なに??

    だって、証明するときに平行線公理も平行線公理の否定も使っていないのだから、お互いに否定し合っている2つの命題を同時に満たしていることになるよ~

    >ゲゲゲ…

  • ある公理系の中で証明をする場合、公理系内に存在している公理を自由にいくつでも使うことができます。もちろん、証明に使わなくてもかまいません。つまり、証明する際には、「公理には使っても良いし、使わなくても良い」という自由があります。

    これより、定理を証明するときには、その証明に必要な公理と必要のない公理があります。どのような公理を必要とするかは、定理の内容によって異なっています。

    公理を追加すると公理系がより自由な証明を行なうことができるようになります。その結果、証明能力がより強くなります。これをもって、公理系が大きくなったとみなすことができます。

    当然のことですが、公理の数は少ないよりも多いほうが、証明される命題の数も多くなります。

    公理の数が増えれば証明される定理も多くなる=公理が増えれば公理系が大きくなる=公理の数を増やすと公理系が拡張する

    次のような公理系Z2,Z3,Z4,Z5を考えます。

    Z2:E1,E2
    Z3:E1,E2,E3
    Z4:E1,E2,E3,E4
    Z5:E1,E2,E3,E4,E5

    最後のZ5が公理系ならば、Z2~Z4も公理系です。でも、次なるZ6は公理系ではありません。

    Z6:E1,E2,E3,E4,E5,¬E5

    このZ6は、E5と¬E5という矛盾した命題を仮定に含んでいます。つまり、矛盾した数学理論です。

    これらの数学理論の包含関係は次のようになっています。

    E2⊂E3⊂E4⊂E5⊂E6

    つまり、矛盾した数学理論は無矛盾な公理系を含んでいます。これからも、次のような推測が成り立ちます。

    無矛盾な公理系をどんどん拡張して一般化し続けると、最後には矛盾した数学理論になる。

  • 公理系で正しい証明が行なわれると、定理が出てきます。しかし、定理を証明するのに、すべての公理を使う必要はありません。つまり、すべての公理を満たす必要はありません。

    ウィキペディアの「平行線公準」の項目には、「ユークリッド幾何学は、平行線公準を含むすべてのユークリッドの公準を満たすような幾何学を研究するものである」という記載がありますが、これは間違いです。定理は一部の公理から証明されても、十分に価値があるのです。

    「公理を使って定理を証明する」という場合、n個の公理のうちm個だけ使えばいいのであって、出てきた定理がどの公理とも矛盾していなければ良いのです。「定理を証明するとき、すべての公理を使わなければならない」という制約はありません。だから、公理の数を増やせば増やすほど、公理系の証明能力は格段に増します。

    そして、証明能力がある一定のラインを超えてしまうと、Pという命題の他に¬Pという命題まで証明してしまいます。これが矛盾です。このときは、勢い余って偽の命題を公理に加えたときに起こります。

  • 平行線公理が真の命題であれば、平行線公理の否定は偽の命題です。偽の命題を仮定とする理論は矛盾しています。よって、非ユークリッド幾何学は矛盾しています。この簡単な証明に間違いはありません。

    今までの数学では「理論が矛盾していれば、その矛盾はきっと証明されて出てくるはずである」と思われてきました。

    しかし、非常に特殊な例が存在しています。それが、公理系の公理を1個だけ否定に変えた理論です。この理論は矛盾しているにもかかわらず、その矛盾が理論の内部から証明されません。

    たとえば、ユークリッド幾何学という公理系の公理を次の5つとします。

    ユークリッド幾何学:E1,E2,E3,E4,E5

    E5は有名な第5公理(平行線公理)です。この平行線公理を否定に変えてみると、次のような非ユークリッド幾何学が得られます。

    非ユークリッド幾何学:E1,E2,E3,E4,¬E5

    この幾何学は、平行線公理の否定という偽の命題を仮定として持っているから矛盾した幾何学です。しかし、この幾何学の内部からは矛盾が証明されて出てきません。

    その理由は簡単です。もし矛盾が出てきたら、平行線公理が他の公理から証明されたことになる―――平行線公理は定理になる―――からです。この対偶を取ると、次のようになります。

    平行線公理が定理でないならば(すなわち、平行線公理が正真正銘の公理ならば)、平行線公理の否定を仮定しても矛盾は証明されない。

    つまり、平行線公理が生粋の公理である限り、非ユークリッド幾何学は矛盾しているにもかかわらず、その矛盾が理論の内部からは証明されません。

  • 公準は、その意味から真偽が容易に直観できます。つまり、小学生や中学生にも、ユークリッド幾何学の第1公準から第5公準まで正しいことがすぐに理解できます。

    第1公準:任意の点から任意の点へ1本だけ直線を引くことができる。
    第2公準:直線を連続的に延長することができる。
    第3公準:任意の点を中心とする任意の半径の円を描くことができる。
    第4公準:すべての直角は互いに等しい。
    第5公準:直線とその上にない1点が存在するならば、その点を通ってもとも直線に平行な直線をただ1本だけ引くことができる。(プレイフェアの平行線公理)

    第5公準は「ユークリッドの第5公準」から「プレイフェアの第5公準」に変形させていただいています。よって、多少不自然であり、抵抗があるかも知れません。それは、「実無限による不自然さ」です。

  • 返信をありがとうございました。

    >定義少年とはガロアスレの男である(笑  彼は無限級数とは何かの極限(極限値)だと思っているらしい(笑
    1/2+1/4+1/8+……の極限値=1/2+1/4+1/8+……
    と書いていた(笑 それをおかしいと思わないのか、と指摘してやったが、返事がなかった(笑 1/2+1/4+1/8+……には極限(極限値)がある。しかし1/2+1/4+1/8+……そのものは何かの極限(極限値)ではない。

    おっしゃる通りです。

    >0.99999……には極限(極限値)がある。

    いいえ、ありません。

    >というのは、これは9/10+9/100+9/1000……という無限級数と同じだからだ。

    同じではありません。

    >しかし0.99999……自体は何かの極限(極限値)ではない。

    おっしゃる通りです。

    > 言っておくが、極限値とは「かぎりなくその値に近づくが、決して到達しない値」 のことである。2chの人間はこんなことさえ知っていなかった(笑  市川氏も分っていないのではないか?(笑  分っているなら上のような質問はしないはずだから(笑

    いいえ、到達しても良いのです。

    1,1,1,1,…という無限数列の極限値は1です。初めから到達しています。

  • >学問の本質というのはね、学問をするという営々たる営みの中で「基礎を自分で作っていく」というところに有るんじゃないでしょうかね?―――ねえよ。バカ 怠慢な貴様に学問なんかむり。諦めろw

    人を軽蔑することは止めましょう。

    >キツネ氏としては「カントール流が正しいのでありデデキント流は間違いだ」という流儀?―――アホかw  両者は同値w

    カントールもデデキントも、実数に対する間違った考え方を持ていました。

  • 返信をありがとうございました。

    >形而上学は正しくない。カントは現実に負けた。カントの哲学は死んだのだ。

    カントの哲学も死んではいないし、プラトンの哲学も死んではいません。

    >プラトンは死んだ。カントは死んだ。ヒデは死んだw

    いいえ、彼らの思想は今も生きています。特に、従来の固定観念に縛られない幼い子どもは最高の哲学者です。

    > 哲学者とは白痴のことだw

    いいえ、幼い子どもが素直に考えることによって、その子どもが大きくなってから数学革命や物理学革命を起こします。

    >そしてその革命の敵としてヒデは斬首されるわけだw

    よっぽど、私を殺したいみたいですね。私を殺しても、次から次へと、素直な子どもたちが哲学者の心を持って数学と物理学を健全な方向に変えて行くでしょう。

  • 命題と非命題を区別することは大切ですが、実際にはある主張をしている文が命題か非命題かを明確に区別することが困難なことも多いです。

    私たちは公理にも推論規則を使っています。このとき、論理記号の∧や→という記号を用います。実は、この推論規則は命題に対して使うものです。

    もし公理が命題でないならば、これらの推論規則を公理に使えないので、証明を始めることができず、定理は証明されなくなります。

    つまり、「公理は命題ではない」とすると、いっさいの証明ができなくなります。だから、公理は命題でなければなりません。

  • 公理は命題でなければなりません。なぜならば、もし公理が命題でなければ、公理から証明される定理も命題ではなくなるからです。

    では、公理は真の命題であるか、それとも偽の命題であるか?この問いに関する答は単純明快であり、公理は真の命題です。決して偽の命題であってはなりません。

    【公理の定義】
    真の命題であることを証明できる他のもっと単純な真の命題が存在しないような真の命題

    この定義より、公理には2つの性質があります。

    公理の性質その1:公理は真の命題である。
    公理の性質その2:公理は、他のもっと単純な真の命題からは証明されない。


  • 数学における証明は、ほとんどが真の命題から始めます。例外的に偽の命題から証明を始めるのは背理法だけです。

    命題Pを仮定すると、いつでも結論として命題Pが出てきます。これより、命題Pは命題Pから証明可能です。しかし、これだけではありません。実は、命題¬Pから命題¬Pも証明されます。つまり、任意の命題は(真の命題であろうと偽の命題であろうと関係なく)自分自身から証明されます。

    これより、証明可能な命題かどうかを議論するときには、「自分自身から証明されるから証明可能な命題である」という考え方を認めることはできません。それは、次のようなパラドックスを招くからです。

    任意の命題は自分自身から証明される。証明される命題は真の命題である。よって、任意の命題は真の命題である。

    また、「自分自身から証明可能であるから、証明可能な命題(すなわち定理)である」という考え方を認めると、任意の命題はすべて定理になってしまいます。もちろん、公理も定理になってしまいます。

    しかし、ここでは定理の絶対的な条件を忘れてはなりません。2個以上の異質な公理を組み合わせて、それらとはまったく異なった内容の命題が証明されたとき、それを定理と呼んでいます。したがって、公理と定理は本質的に異なっています。これより、次なる結論が下されます。

    公理は定理ではないし、定理は公理ではない。

  • 公理から導かれるのが定理です。しかし、この逆は成り立ちません。定理からは公理は導き出されません。これより、公理と定理は異なっています。

    定理には次のような性質があります。
    (1)定理とは、公理から証明されて出てくる真の命題である。
    (2)その際、最低2つ以上の公理を組み合わせて証明されなければならない。
    (3)定理は、その証明に用いたどの公理とも内容が異なっていなければならない。

  • 公理は直観で作ります

    >それがそもそも間違いw

    定理が真の命題であるためには、2つの条件がクリアされなければなりません。

    第1条件:公理が真の命題であること
    第2条件:公理から定理を導き出す証明が正しいこと

    一方、公理は単なる真の命題ではありません。公理を証明できるより単純な証明が存在していてはなりません。この「より単純な命題」を数学で定義することは難しいので、どうしても循環論法にならざるを得ません。

    命題Aとそれに関連している命題Bを比較したとき、AからBが証明されるがBからAが証明されないときに、AをBよりも単純な命題とて意義します。公理はもっとも単純な命題だから、他のより単純な命題からは証明されません。つまり、公理よりも単純な命題は存在しないということです。これより、公理は証明不可能な命題です。ということは、公理を設定するときには証明が使えないのだから、直観で公理を選択いなければならないのです。

    公理を選択し、それを公理系の公理として採用するためには、直観が用いられる。

  • カントールのパラドックスはどうして発生したのか?それをまず認識しましょう。カントールのパラドックスの真因は実無限にあります

    >君が無限集合を理解できず、排除する理由にカントールのパラドックスを持ち出しただけだ

    無限集合は数学には存在していません。カントールが実無限を数学に導入したことによって、数学は矛盾した学問と化したのです。恐ろしいことですが、これが真実です

    >君が無限集合を理解できないだけ。君にとってはオソロシイことだろうが、これが真実だw

    無限集合は、どうやっても作れない代物です

    >カントールのパラドックスについては内包公理を分出公理もしくは置換公理に置き換えることで発生を防いだ。つまり対策を施した

    それを姑息な手段と言います

    >君が自分の理解できないことを姑息といってるだけ。自分がとれないブドウを酸っぱいと罵るイソップのキツネと同じw

    パラドックスが生じたら、その真因を探して排除すべきでしょう。それをせずに、姑息な手段に訴えて、一時的にパラドックスを回避することは得策ではありません。

    あなたは、集合論の本で『パラドックスを解決した』と書かれた文章を目にしたことがありますか?すべての集合論の本では、『パラドックスを回避した』と書かれています。解決ではなく回避なのです。

    公理的集合論は、素朴集合論のパラドックスをまったく解決しておらず、表面的に回避しただけなのです。素朴集合論にも公理的集合論にも、パラドックスを生み出した張本人である実無限が、まだまだ、大きな顔をしてのさばっています

    >顔が大きいのはお前のほうだ!もっと、小顔になれ!

  • 数学は、ある命題Pに関して「Pと¬Pのうち、どちらが真であって、どちらが偽であるか?」を証明で決めるか、あるいは直観で決めるかの決断力のある学問です。ここでのルールは簡単です。

    (1)公理は直観で決める。
    (2)定理は公理と証明で決める。

    もし、公理が単なる前提に過ぎなければ、公理から証明された定理も前提に過ぎません。つまり、公理は真理値を持たず、定理も真理値を持ちません。これは、公理は命題ではなく、定理も命題ではないという結論が出てきます。

    つまり、数学にも物理学にも、真偽を持った命題など1つも存在しなくなるのです。「何が正しくて、何が正しくないのか?」そんな議論をまったくしなくなる学問になってしまうのです。だからこそ、「公理は単なる前提に過ぎない」という発想を捨てることが必要です。

  • Pを公理とする場合は、Pを100%正しいことと決めます。

    それに対して、Pを仮定とする場合は、Pの正しさは50%です。なぜならば、真の命題である確率と偽の命題である確率は半々だからです。

    つまり、公理と仮定はまったく異なったものであり、「公理は単なる仮定である」という考え方は間違いです。

  • 仮定(仮に定める命題、すなわち、一時的に正しいと置かれた命題)は真の命題でも偽の命題でもかまいません。しかし、公理は偽の命題であることは許されません。したがって、公理は単なる仮定ではありません。

    もちろん、公理は仮定の一種なので「公理は仮定である」は正しい命題です。しかし、公理と仮定は完全に一致するのではなく、仮定の特殊なケースが公理です。それゆえに、「公理は単なる仮定に過ぎない」という表現を用いると、「公理と仮定に違いはない=公理と仮定は同じである」ということになって、真理から遠ざかってしまいます。

    公理は仮定を超えた存在です。それは、ある神聖な条件を備えた仮定です。その神聖な条件とは…

    (1)公理は、真の命題である。
    (2)公理は、他のもっと単純な真の命題からは証明できない。

    この2つの条件より、公理は特殊な仮定です。つまり、公理は確かに仮定ですが、単なる仮定ではありません。

  • 公理はすべて真の命題です。真の命題からは絶対に偽の命題が結論されることはありません。よって、公理系からは偽の命題は証明されて出てきません。偽の命題が証明されて出てくることを「矛盾が証明される」と呼んでいます。よって、公理系からは矛盾が証明されて出てくることは絶対にありません。

    そして、E1,E2,E3,…,Enというn個の公理を持つ公理系において、その中の任意の公理Ekは、他の公理からは証明されません。なぜならば、Ekを証明できる命題をすべて排除して、残った命題を公理として置いているからです。

  • 公理がただの前提であれば、あなたは『他の命題から証明されない究極的な真の命題』を否定したことになります。あなたは、このような命題は存在しないと断言したのです

    >ええ。『究極的な真』というものはない。それが私の主張です

    それは『公理は存在しない』という発言です。『すべては前提である』という発言です。究極的な真の命題が存在しないならば、当然、その命題を証明する義務を負います。つまり、すべての前提を証明する義務が生じます

    >嫌だね

    あなたが『公理はただの前提に過ぎない』と言った以上は、もう公理などという単語も不要です。定理という単語も不要です。公理系などという言葉も無意味です。公理をすべて前提と言い換えて、定理をすべて結論と言い換えて、公理系をすべて数学理論と言い換えればいいのです

    >ええ。その通りです。公理も定理も公理系も必要ありませんよ。私は公理や定理や公理系という言葉に貴方のような思い入れはありません。そもそも『究極的な真の命題』なんてウソは信じていませんから

    平行線公理が究極的な真の命題でなければ、この命題を証明できる命題が存在するはずですよね?『究極的な真の命題』は、証明からの解放をもたらします。

    でも、これを否定すれば、証明の根拠をどんどん証明しなければならなくなります。では、早速、平行線公理を証明してください。『平行線公理は究極的な真の命題ではない』と言い放った以上、あなたには証明義務が課されたのです

    >勝手に課すな!

    あなたは、こう言いたいのですよね?数学には『公理(証明できない真の命題)』も『定理(公理から証明される命題)』も『公理系(証明できない真の命題からなる数学理論)』も存在しない。あるのは『ただの前提』と『ただの結論』と『ただの数学理論』である

    >ええ。そもそも現実に存在しているのはそういうものですよ

    では、今後はいっさい『公理』『定理』『公理系』という単語を使用することを禁じます

    >当然だ!数学辞典から、この3語を締め出せ!それがヒルベルトの形式主義だ!

  • 公理系を作るとき、公理として設定する命題は「直観ですぐに真であることがわかる簡単な命題」です。これより、公理の否定も偽であることが直観でわかります。ところが、この2つは論理的には証明できません。

    (1)公理が真の命題であることは証明できない。
    (2)公理の否定が偽の命題であることは証明できない。

    (1)と(2)は、公理が命題である以上は同じ内容です。

    (2)の性質から、公理の否定を真と仮定しても、矛盾が証明されません。つまり、公理系の公理を1つだけ否定命題に変えても、矛盾を証明することができません。これこそが、平行線公理の否定を仮定として有する非ユークリッド幾何学から矛盾が証明されない本当の理由です。

    平行線公理に挑戦した歴代の天才数学者たちは、誰も非ユークリッド幾何学から矛盾が出てくることを証明できませんでした。19世紀の天才数学者ガウスにもできませんでした。

    そこで彼らは何をしたかというと、「矛盾が証明できないから、無矛盾である」という間違った思い込みをしたのです。この思い込みによって、ガウス、ボヤイ、ロバチェフスキー、リーマンなどが非ユークリッド幾何学を作り上げました。

    この矛盾した幾何学が一般相対性理論を数学的に支えているというのが、相対性理論の本質です。

    矛盾した数学理論が矛盾した物理理論を支えるという現象は、現代科学には散見されます。

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