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市川秀志 徹底研究

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  • 2018/01/21 06:55
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    アマチュアの立場からYahoo掲示板での書き込み及び著作等で
    相対性理論・非ユークリッド幾何学・不完全性定理・集合論・ビッグバン・エントロピー増大の法則 等
    を完全否定する、市川秀志氏について徹底研究しましょう。

    著作
    「カントールの対角線論法―ミーたんとコウちんは闇の数学講座で無限の正体を見た」(パレード)
    「カントールの区間縮小法―ミーたんとコウちんは闇の湖で地球人と出会った。」(パレード)

    掲示板での書き込み
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835555&tid=ajbpoc0a4o4v0ca4ca4fa4a4a4ka1a9&sid=1835555&mid=1&type=date&first=1

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    市川秀志 1月21日 06:55

    依存命題を考えた場合、背理法には「根本的な背理法」と「中途半端な背理法」があることになります。

    Aを根本的な命題とし、Bをその依存命題とします。Aという仮定のもとでBを仮定して矛盾が導かれたとします。たとえば、「実無限が正しい=A」という仮定のもとで、「自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間に1対1対応が存在する=B」と仮定します。すると、全体の背理法は次のような論理構造になります。

    A→(B→(Q∧¬Q))

    このとき、根本的な命題Aを否定するのが根本的な背理法です。それに対して、依存命題Bを否定するのが中途半端な背理法です。現代数学では、対角線論法は中途半端な背理法です。

    だから、日本の偉大な数学者であった遠山啓先生は、お酒の席で「カントールの対角線論法には納得していない」と漏らしていたのです。

    また、初めて対角線論法に接した多くの数学科の学生さんたちは、対角線論法には合点がいかないようです。何か、だまされた感じを受けるからです。

    数学科でもでもかまいませんし、心理学科でもかまいませんので、対角線論法を初めての新入生に講義する先生方は、学生たちに「対角線論法を素晴らしい証明と思うか?何かだまされた感じがするか?」というアンケートを実施してみたらどうでしょうか?何千人、何万人というビッグデータを集めれば、直観の謎に迫れると思います。やがては、これが心の解明にもつながり、カルト教団などのマインドコントロールの解明にも役立つと思います。

    対角線論法が中途半端な背理法であることを地球人全員が理解すれば、きっと人類の貴重な財産になることでしょう。

    若者たちをカルト教団から救うためにも、無限集合論と相対性理論は大変に役立つと思います。もちろん、そのときには私たちも非ユークリッド幾何学の呪縛から解放されていなければなりません。

  • 相対性理論ほど便利な理論は捨てたくはない、という気持ちは痛いほどわかります。でも、相対性理論は矛盾した物理理論であり、この真実を発見することによって数学や物理学が後退することなどあり得ません。

    では、今まで通りに相対性理論を修正して残したらどうか?ノーノーノー。それは、数学の世界ですでに起こっていました。数学では、実無限にもとづく無限集合論という大変便利な理論を残そうとして、公理的集合論を作り出しました。その結果、今では、数学は大変な事態に陥っています。正当な可能無限が数学の隅に押しやられて、実無限を中心とする矛盾した数学に取って代わられたのです。

    いつまでたっても終わらないものを無限と命名した以上、終わる無限を扱う実無限と、それを基盤とした公理的集合論は間違っています。

    数学の歴史が証明しているように、中途半端な数学革命は数学を混乱に導くだけです。数学革命も物理学革命も、やるなら問題の真因にまで踏み込んで、徹底的に改革を知るしかありません。

    そのためには、地球で使われている数学基礎論を根本から作り直さなければなりません。それと同時に、物理学の基礎も早急に立て直さなければなりません。

  •  バカにされたヒデ先生は悔しくなって、審判に申し出をしました。
    「エルデシュ審判!お願いがあります」
    「何ですか?」
    「ここで、地球数学の歴史を説明させてください」
    「なぜかね?」
    「実無限の謎を解くために、ぜひ、必要なことです」
    「わかりました。良いでしょう」
    「異議あり!」
    「異議は却下します」
    「ありがとうございます」
     ヒデ先生は、審判にお礼を述べた後、地球の数学史をわかりやすく説明し始めました。物覚えの悪いヒデ先生は、手元にあるたくさんの資料を見ています。
    「可能無限とは、本来の無限のことです。実無限は、無限と有限の合成物です」
    「んな、バカな!」
    「そして、無限大は実無限の概念です」
    「無限と無限大に違いなどない。さっきから無限も実無限も可能無限も無限大も、みんな同じだと言っているだろう」
    「違います。数学の歴史から述べさせていただくならば、数学に無限大としての記号である∞が導入されたのは17世紀です。ジョン・ウォリスが最初に使ったとされています」

    17世紀の数学で、実無限の記号が使われ始めた。

  • 「しかし、この∞は手にした人たちがそれぞれの思惑で使用しています。この記号こそが実無限のベースにあると言っても良いでしょう。この記号は意味があいまいなため、とても便利でした」
    「あいまいなために便利?なんじゃ、その言い方は?」
    「あいまいな表現は何に対しても当てはまります。もし、あなたが占い師であって、占ってもらいたい人が来たら、『あなたは今までとても苦労されていますね』というのが良いでしょう。ほとんどの人が『当たっている』とびっくりします。人間は誰でもどこかでかなり苦労しているものです。どんな苦労かまでは具体的に言及せず、あえて抽象的な表現をすれば、誰にでも通用する一般性を有します」
    「何が言いたいのだ?」
    「具体的な意味を持たないあいまいな概念や記号は抽象数学を作り出します。このあいまいさはいろいろと解釈ができるので、数学の難問を解くときの証明にとても便利だということです」
    「抽象数学を否定するつもりか?」
    「全面否定はしません」
    「じゃあ、肯定しろ!」
    「いやです。全面肯定はいたしません。やがては、この∞は次第に数学に定着し始めました。ついには、この記号なしには、無限に関する数式を書き表すことすらできなくなりました。ここで、∞という記号にはまってしまったのです」

    地球の数学は、あいまいな記号である∞の中毒に陥った。

  • 「歴史は19世紀に入りました。この時期、人類は完全に実無限中毒に陥っていました。その中毒症状が表だって現れたのはカントールの時代です」
    「中毒とは何だ!人をバカにするな!」
    「申し訳ありません。言葉が過ぎました。実無限の虜になってしまったと言い換えさせていただきます」
    「まあ、いいだろう」
    「カントールは区間縮小法を発表し、次に対角線論法も発表して、実無限の証明を数学に初めて導入しました」

    19世紀に、実無限の証明が行なわれ始めた。

    「この対角線論法をきっかけとして、実無限の概念が怒涛のごとく数学に流れ込みます。無限集合論による数学の支配がはじまったのです」
    「地球数学が無限集合論によって植民地化されたとでもいうのか?」
    「そこまでは言いません」
    「じゃあ、いったい、何が言いたいのだ」
    「静かにしてくれませんか?その結果、抽象化が勢いを増し、今でも、それはとどまることなく進んでいきます。抽象化は一般化をもたらし、一般化は抽象化をもたらすという手と手を取り合った悪循環に陥りました。数学が、負のスパイラルに迷い込んだのです」

    20世紀の数学は、実無限による抽象化の時代である。

  • 「やがては無限大だけではなく、無限小や無限遠などの抽象的な概念がたくさん作られました。こうした実無限数学が主流となったため、大事な可能無限が隅っこに追いやられています。地球の数学は実無限に乗っ取られたのです。そして、とうとう地球数学は矛盾した学問になりました」

    21世紀の数学は、矛盾した学問になってしまった。

    「これが地球数学の全体の流れです」
    「君のバカげた妄想は、そのくらいにしたまえ。その発言は、過去数百年いや数千年にわたる地球の数学を愚弄している。今までの偉大な数学者たちが脈々と作り上げてきた現代数学は、決して矛盾などしていない。お前の意見は却下だ!」
    エルデシュ審判が割って入ります。
    「却下するかどうかは私が決めます」

  • 私は、0.99999……=1 を見て、直観的に(そんなばかなことがあるはずがない)と思った

    > バカは「文字面が違えば意味が違う」と直感する(サル並みw)
    1について、
    ・「10個に分けて9個とる」という操作が延々と続けられる
    ・残りをいくらでも小さくできる
    と認識すれば
    1=0.999・・・は別におかしくない。書かれた9の数しか意味がないと考えるのは白痴w

    現在、数学の教育現場で「1=0.999…を理解できない子どもたちにどう接するか?」で大きな問題となっています。つまり、現代数学は「1=0.999…」が正しい等式であることをいまだに子どもたちを説得することができないでいます。

    今までは、その原因を子どもたちに帰していました。一言で述べると「賢くないから」であり、もっとはっきり言ってしまうと「頭が悪いから1=0.999…を理解できない」と決めつけていたのです。

    でも、ここでコペルニクス的な発想の転換を図ってみたらいかがでしょうか?それは、次のように考え直すことです。

    【発想の転換】
    少数の子どもたちが1=0.999…を理解できないのは、知能が低いからではない。現代数学、特に、無限集合論が間違っているからだ。

    よって、「存在している1」という自然数と、「存在しない無限小数」が等号で結ばれてはいけないのです。

  • 「では、下の2つの無限小数の違いはわかるの?」

    サイコロ小数=2.346215…
    π=3.141592…

    「なんじゃ、こりゃ?」
    「上のサイコロ小数は、サイコロを無限に振って出た目を順番に並べて作る無限小数です。これは、マユ先生の考案した無限小数です」
    「マユ先生?誰だ、それは?」
    「私の先生です。その下のπは無理数という無限小数です。両者ともに、次なるkが存在します」

    小数第k位に対応する整数f(k)を知ることができたが、小数第(k+1)位に対応する整数f(k+1)をまだ知ることができない。

    「同じような『知ることができない』という性質を持った無限小数でも、サイコロ小数とπには大きな違いがあります」
    「どのような違いか?」
    「知ることができない理由の違いです」
    「理由の違い?」
    「そうです。なぜ、整数f(k+1)を知ることができないのかというと、サイコロ小数ではまだ(k+1)回目を振っていないからです。それに対して、πではまだ小数第(k+1)位の値を計算していないからです」
    「振っていないと計算していないの違いか?」
    「そうです。f(k+1)はサイコロ小数では確率で決定し、πでは計算して決定します。確率で次の整数が決まるような無限小数は、実数とは認められません。大事な点は以下の文に集約されています」

    [0,1]という範囲の線分上にあるすべての無限小数をプロットしようとしたとき、カントールの区間縮小法を用いるとプロットできない無限小数が出てくる。しかし、その無限小数は実数ではない。

    「カントールの区間縮小法は、数学史上最高傑作の知的トリックです~」
    「そんな、バカな!」

  • 「これ見てよ」

    liman=limbn=c
    n→∞  n→∞

    「これは、可能無限による記号よ。nを無限に大きくしていくと、anやbnは限りなくcに近づくのよ。でも、an≠cでbn≠cならば、決してcには一致しないの」
    「そんなことはない。数学における等号は、一致するという意味を持った記号だ」
    「普通はそうよ。でも、無限に関する場合は、一致しなくても便宜上、昔から使っている等号を転用しているの」
    「等号の転用?」
    「そうよ。次の等式を見てごらんなさい」

    0.999999…=1
    1/2+1/4+1/8+1/16+…=1
    limn=∞
    n→∞
    「どこに問題があるのだ?」
    「これらは本質的には等式じゃないのよ」
    「なにを言っているのだぞ。イコールがあれば等式に決まっているぞ」
    「違うわ。これらも、ちょっと見たところ等式に見えるけれども、等号の転用による見かけ上の等式よ。1+1=2とこれらの式とでは、イコールの意味がまったく異なっているのよ」
    「等号には2つの使い方があったというのか…」
    「僕はずっと昔から、0.999999…=1という式に疑問を持っていたけれども、今やっとわかったよ~。このようなメカニズムだったのか~」

  • 「カントールの区間縮小法において可能無限を使用するならば、等号は次の式までしか使用できないのよ」

    I1∩I2∩I3∩I4∩…∩In=In

    「だから、次なる実無限の結論は間違いよ」

    limI1∩I2∩I3∩I4∩…∩In=limIn={c}
    n→∞              n→∞

    「なぜならば、線分であるInをいくら短くしても、{c}という点には近づいていないからよ」
    「なにを言っているのだ。点とは、線分を無限に短くしたものだぞ」
    「いいえ、それは実無限によるとらえ方です。可能無限では、I1∩I2∩I3∩I4∩…という共通集合は、そもそも存在しないのよ。どうしてかというと、これは無限に存在している集合In=[an,bn]の共通集合をすべて作り終えたという完結した無限を用いているからよ」
    「いや、そうではない。お前たちの言っていることはおかしい。実無限は素晴らしい概念であって、地球では誰もこれに反対していない」
    「あら、そう?0.999999…=1に疑問を持つ地球人はいないの?」
    「疑問を持っているのはこれを始めて見た子供だけであって、この式を見慣れた大人は疑問を持っていない。だから、この式の正しさをいつも子供たちに説明してあげているのだぞ」

  • 「子供たちは、ちゃんと理解しているの?」
    「残念なことに、一部の子供は理解しないまま成人になっている。だから、どうして一部の子供だけがこの等式を受け入れることができないのかが、数学教育の大きなテーマになっているのだぞ」
    「残念なのは、これを受け入れている大人のほうじゃないの?」
    「なに?」
    「その数学教育のテーマは、子供たちが持っている素朴な疑問の芽を摘み取り、子供たちの数学的才能を開花させるチャンスまでも奪っているのよ」
    「そんなことはない。わが星の教育に誤りはない」
    「いいえ、子供たちがちょっとでも疑問を持っているならば、式に問題があるかもしれないと考えたことはないの?」
    「ないぞ。問題があるのはこの式を理解できない子供であって、この式には問題はない」
    「違うわ。正反対よ。問題があるのはこの式であって、この式に疑問を抱く子供には問題はないわ。子供は『なぜ?』『どうして?』を連発する最高の哲学者よ」
    「最高の哲学者は、わが星のリーマン博士であるぞ」
    「誰?それ」
    「今眠っているから、紹介はできないぞ」
    「なぜ、最高と言えるの?」
    「すべてを悟っているから、もはや、『なぜ?』とか『どうして?』とか、疑問を発しないのだぞ」
    「知的好奇心が失われているだけじゃないの?」
    「失礼な!」

  • >お前はほんとにアホだな(笑 お前のようなアホを相手にしているとつくづく嫌になる(笑

    私たちは同類です。同じアホ同士だと思いませんか?もし、あなたがご自分のことをアホだと考えていないならば、申し訳ありません。話の続きですが、それはトートロジーではないのでしょうか?

    >お前はアホか(笑  事実と事実の現れとは違うだろうが(笑

    どのように違うのでしょうか?事象は事実です。現象は、その事実を観測あるいは観察した結果です。頭の中で認識されたことは「ストローが曲がっている」です。

    >だからそれは間違いだと言っているのだアホ(笑  事実↔現象・事象だ。 事象↔現象ではない。

    事実↔現象・事象という論理式が間違っています。現象と事象を現象・事象と同列に扱うことはできません。

    >ストローが曲がっている、というのは目という感覚器官で認識されたことだ。それを現象・事象というのだ。

    現象・事象など、辞典に載っていないでしょう。調べるならば、「現象・事象」で調べるのではなく、現象で調べて、事象で調べるべきでしょう。

    > 人間の感覚に現れたもの、という意味だ。

    「人間の感覚に現れた」というのはどういう意味でしょうか?

    >ストローは曲がっていない、というのは人間の知性によって認識されたことだ。

    それが事実であるかどうかは、どうやって調べるおつもりでしょうか?

  • >ストローは曲がっているように見えるが、 実際は(事実は)曲がっていないと知性によって推理したのだ。

    つまり、知性は真実を見抜く力があるということですね?それって、古代ギリシャ哲学者の思想と同じでしょう。おかしな観測結果が得られたら、それが真実かどうかは知性で判断するのです。宇宙が膨張しているという観測結果が得られたら、知性によって「膨張などしていない」と考えるのです。いくらストローが曲がって見えても、「ストローは曲がっていない」と知性で判断することと、いくら宇宙が膨らんでいくように見えても、「宇宙は膨張していない」と知性で判断することは、同じレベルなのです。

    > 感覚によって認識したことと知性によって認識したことは違うのだ。

    同じく、観測結果によって認識したことと、知性によって認識したことは違います。

    >お前は「現象とは頭の中で認識されたこと」と書いているが、 頭の中で認識されたこと、とは、知性によって認識されたこと という意味になるのであって、 感覚によって認識されたこと、という意味にはならないのだ。

    では、あなたの目の前に机があったら、これは「 感覚によって認識されたこと」何でしょうか?それとも、「知性によって認識されたこと 」なのでしょうか?

    > 言葉を大切にしましょうというなら、お前がもっと言葉を大切にしろ。いいかげんな、独りよがりな、勝手なことを書くな。

    言葉を大切にするならば、「現象・事象」という新語を作り出すことも、控えたらいかがでしょうか?ⅿ(__)m 現象なのか事象なのか、はっきりさせましょう。

  • 公理という神聖な言葉を無視できません。

    > 学問に神聖なものなどないよw 所詮人の為すことだw

    私は、数学は神聖な学問であると思っています。「公理は単なる仮定に過ぎない」と言ったのならば、もはや、公理という言葉と公理系という言葉を使わないでください。

    >なんなら定理という言葉も使わないでくれ、といったらどうかね?
    公理=前提
    公理からなる公理系=前提からなる数学理論
    定理=結論
    別に言葉を変えたからといって中身が変わるわけでもない。言霊なんて存在せんのだからw

    あなたは人間の知性そのものを否定しているのですね?もちろんそうします。あなたが公理の存在を否定したら、定理という言葉も使わないでいただきたいと思います。ⅿ(__)m

  • 正しい直観に反することは間違っています。では、正しい直観はどうやって正しいと判断するのか?そこで、いくつかの問題を提起します。

    問題その1:そもそも、正しい直観は存在するか?
    問題その2:その直観は、本当に「正しい直観」か?

    この整理の仕方は、公理にも当てはまります。

    問題その1:そもそも、証明できない真の命題としての公理は本当に存在するのか?
    問題その2:その命題は、正真正銘の公理か?

    問題その1と問題その2をゴチャマゼに論じると、結局はわけのわからない議論になります。まずは問題その1を論じます。そして、お互いに「本当の直観は存在する」「本当の公理は存在する」という共通の結論が出たら、今度は問題その2を論じるというのが正しい進め方です。

  • 相対性理論では、「被観測物(測定されるもの)が含まれている空間が歪む」と主張しています。でも、その歪む空間の直径を明らかにしていません。

    もし、ゆがんでいる空間の直径が無限大ならば、観測者も含んでしまいます。つまり、観測者も観測装置もすべて歪んでいることになります。

    また、運動している物体が運動方向という一方向のみ短縮する場合、その短縮の基準点はどこでしょうか?物体の中心点を基準として、前後に縮むのでしょうか?物体の先端を中心として後端が前方に縮むのでしょうか?物体の後端を中心として、先端が後方に縮むのでしょうか?相対性理論では、その基準点もはっきり示していません。

  • 相対性理論では、運動している物体はどういうわけだか、運動方向だけ縮んでいます。運動方向と直角方向はまったく縮んでいません。これって、とても不自然な変形であり、物理学的にはあり得ません。

    でも、アインシュタインの相対性理論がパラダイムと化した現在では、「相対性理論が正しければそうならざるを得ない」と受け入れ、おかしいと感じながらも全員が相対性理論を正しいと感じています。

    運動物体が縮むという不可思議な現象(これは一種の超常現象です)が起こった場合、私たちは良識で「相対性理論は間違っている」という結論を下すべきでした。でも、この結論を下す時期を逸してしまいました。そこで、間違いを間違いと認めないまま突き進んで、今日に至っています。

    では、運動物体が縮むことが実際に観測されたらどうでしょうか?「相対性理論は正しい」と言ってよいのでしょうか?いえいえ、その場合は「観測結果は正しいとは限らない」という結論で落ち着くことでしょう。

  • 1,2,3,…と自然数が次第に大きくなっていくと、この自然数は何に近づくかな?

    >無限大だよね~?

    では、1よりも2のほうが無限大に近いと言えるかな?

    >言えると思うよ~ 1よりも2のほうが無限大に近いよね~?

    1が2になると、どれくらい無限大に近づくの?

    >1

    では、無限大と1との差は?

    >∞-1=∞だから、無限大~

    じゃあ、無限大と2の差は?

    >∞-2=∞だから、無限大~

    それじゃあ、差が同じじゃないの。差が同じなら、1が2になったからといって無限大に1だけ近づいたとは言えないわ

    >違うよ、∞-1と∞-2は、違う無限大だよ~

    そんな屁理屈は述べないの!

    >屁理屈じゃないよ~!

    じゃあ、無限大にもいろいろ種類があるというの?

    >そうだよ、大きな無限大と小さな無限大など…

    それから?

    >それから…中くらいの無限大もあるよ~

    じゃあ、一番小さな無限大はどうやって作るの?

    >1,2,3,…と数えていくと、いずれは無限大にたどりつくのでしょ?これが、もっとも小さな無限大だよ

    無限大にはいろいろな大きさがあるというのが定説になっているが、それはコウちんの言った意味とは少し違うぞ。ところで、自然数が最後にたどりつくところに無限大があるわけではない。どうして、そんなおかしなことが起こったかわかるかな?

    式をよく見てごらんなさい。∞-1=∞という式の左側は何?

    >無限大引く1だよ~

    無限大は数ではないのよ

    >わかった。数ではないものから数を引いたから、おかしくなったんだ~

    その通りよ

    >じゃあ、∞-1という式は使っちゃいけないの~?

    >自然数をいくら大きくしても∞になることはないし、∞に近づくこともないんだよね~。そしたら∞の正体はいったい何なの~?

    >>何でもかまわない。その正体など求める必要もない。便利な存在ならば、便宜上でも正しいと認めていいだろう

    >じゃあ、無限から無限大に移行するときに自己矛盾が出るのならば、大の代わりに小をつけたらどうなるの~?

    無限大に対応するのは無限小であり、ゼロにいくらでも近い数だ。無限小も自然数ではないし、実数でもないし、ある1つの確定した値も持っていない

  • >じゃあ、無限小の正体は何~?

    正体不明だな。では、もう一度繰り返そう。nを無限大に近づけると、1/nは何に近づくかな?

    >nを無限大に近づけることはできません

    よく、わかったな。では、nを無限大にすると1/nはどうなる?

    >nを無限大に近づけることができないのならば、nを無限大にすることはもっとできないわ

    >>無限大にするとか無限大に近づけるという表現が不適切であることはわかった。そしたら、ただ単に表現を「nを無限に大きくする」とかに変えればいいんじゃない?

    その通りだ、そのほうが数学の本質により近づくだろう。でも、それは実無限とは言えない。もはや、可能無限の話になっている。

  • >命題は論理式だ

    厳密な数学を築きたかったら、命題と論理式を別個に定義しましょう。

    >厳密とは、論理式として記述できない命題を扱わないということだw

    では、「数学は無矛盾である」を論理式で表してくださいませんか?命題は意味がはっきりしているので、真か偽のどちらかです。

    >真か偽かのどちらかとは、トートロジーかアンチトートロジーかのどちらか、ということ

    「真の命題=恒真命題」とお考えのようですが、「真の命題」と「恒真命題」は国語的には意味が異なります。もちろん、数学的な意味も異なります。よって、両者はイコールではありません。

    >トートロジーでもアンチトートロジーでもないものを、妄想で「真」とか「偽」とか決めつけるのは精神病の症状である

    命題Pと言った場合、これは単独な命題であり、真か偽かが決定しています。でも、Pは合成命題ではないので、恒真命題でも恒偽命題でもありません。論理式は内容が空虚だから意味がはっきりしていません。

    >空虚なのはヒデの脳味噌。ヒデのアタマが空っぽなのは勉強しないからw

    論理式と命題の違いを知ることは大事です。2つの単語を同一視しないで、その違いをしっかり勉強することでしょう。あなたには「仮定と公理の違い」「命題と論理式の違い」「可能無限と実無限の違い」「正しい証明と間違った証明の違い」「正しい直観と間違った直観の違い」「事実と現実の違い」「事象と現象の違い」などが判らないようですね。m(__)m

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