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南洲先生

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  • 2018/05/23 18:23
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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    nan***** 5月23日 18:23

    >>3251

       着物が無い

    「児孫の為に美田を買はず」

    と詠じた翁は、物慾に恬淡(てんたん)というよりも、著しく物に執着がなかった。


    その私生活は清廉そのもので、実に徹底していた。

    或る時木戸孝允が自分の邸で会議を開くことになって、政府当路の要人にそれぞれ来邸を求めた。

    ところが定刻を過ぎても、来る筈になっている翁がやって来ない。木戸初め一座の人は待ちくたびれて気を揉んだ。

    已むなく使者を遣ることにして、至急翁の来邸を促すことにした。

    使者が日本橋の翁の家まで急いで飛んで行った。


    折から夏のことであったが、翁はふんどし一つの丸裸で座敷に坐って頻りに字を書いていた。

    使者は呆れたが、兎も角主人一同が先刻から閣下のお出でをお待ちしていると口上を言った。

  • >>3250

    歩哨に立つ陸軍大将

     明治六年五月、明治天皇は近衛の御親兵を御統率遊ばされて、初めて千葉県小金ケ原の古戦場に演習を行わせられた。「習志野」と命名を賜わったのはこの時である。

    颯爽(さっそう)たる馬上の御英姿、これに随従し奉る翁がのっしのっしと歩く状は眼に見えるやうな気がする(翁は体重かったので馬に乗ることが出来なかった)。

    翌日は風雨烈しく、一軍ぐしよ濡れになった。此の機、此の時、翁の姿や何処。


    翁は陸軍大将の正服を裝い、自ら歩哨として御野営所の前に雨に濡れて一夜を立ち尽した。

    陸軍大将自身が歩哨となったのは日本の陸軍始まって以来、後にも先にも翁一人。

    それにしても忠誠無二の此の翁を城山一坏(ほう)の土と化せしめしはかえすがえすも千秋の痛恨事である。

  • >>3249

    (四〇) 雨中に立往生す                I
     翁、陸軍大将たるの日、太政官より退庁せんとし履物を求めたるも、下僕在らず、やむを得ず足袋はだしのまま退出した。

    時に驟雨(しゅうう)沛然として至り、雨滴衣袂(いぺい)を絞れるも、翁は平然庁門を出かかった。

    門衛怪しみて之を咎む。

    翁は実を告ぐるも門衛は信ぜす、いよいよ翁を引止めた。

    翁も強ひては争わず雨を浴びて門頭に佇んだ。

    恰も好し岩倉右大臣馬車にて退庁し、事情を聞いて門衛に説明すらく

    「これは西郷大将なり」と。

    門衛大いに驚き無礼を陳謝した。

    翁は却ってその職務に忠実なるを賞し右大臣の馬車に同乗して退出した。

  • >>3248

     井戸代官の誠実

      翁曰く、

    「人は誠実が第一じゃ、一時逆境に立っても誠実があれば、数百年後にもその効が現われる。その一例を挙げると、昔出雲石見に跨がって幕府の代官をしていた井戸平左衛門と云う人があった。

    或る年大飢饉があって人民が非常に難儀した。

    そこで彼は一個の計で、官の倉を開いて飢えた人民に米穀を給与した。


     そして其の申譯に自分は割腹して果てたが、人民達はその恩義に感じて彼を到る処で神に祀って今日まで神として仰がれている。これなどは誠実の効として最もよき例である云々」と。

  • >>3247

    贈大山巌奥羽戦役に赴任

    漢文の原文略
    〔訓読]

    従来の素志交情燦たり。

    大儀腸を撑(ささ)え離別軽し。

    一算機に投じて百世を扶く。

    片言令をあやまれば千兵を斃す。

    必亡の危害は粗暴に生ず。

    決勝の奇謀は至誠に発す。

    往け慎めや雷火の術。

    電光声裡輸えい(かちまけ)を見ん。

  • >>3246

    戦法は誠の一字

     大山巖薩兵を率いて東京に向うや、翁は次の文を書いて贈った。誠の一字が翁の戦法戦略であったことが偲ばれる。
       
    「古人言えることあり、上策は自ら治むるに若(し)くはなし。而て浪戦を最下とす。

    戦わずして、人の不意を誅(ちゅう)するは、上乗の勝なり。これその道奇計異術あるに非ず、只誠を推すのみ。事を理(おさ)むるの難きに非ず、心を理むること実に難し。それこれを勉めよや。

    是の故に、三軍志を合せ誠を同じくせば、則ち向う処必ず勝ち、固よりその成功を慮らず、これ之を鬼神に質(ただ)して而て疑無きものや。勉めざるべけんや、勉めざるべけんや。」

                   
     この「事を理むるの難きに非ず、心を理むること実に難し」の要諦は、王陽明の名言なる

    「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

    の心法に出づるものである。

    尚翁が当時大山に贈った七言律詩がある。前文と照らし合せて、同一主旨に出て居る

  • >>3245

    (37)  尊い情け

     翁は明治元年徳川征伐となり、官軍を師(ひき)いて京都を出発し伏見に休息した時、京都で使って居った家婢が迹を追うて来て別れを惜しんだ。

    たくさんの兵隊は物珍しく見ている。

    翁は輿(かご)の中からその家婢を手招きして背中を叩いて

    「達者で居れよ」

    と言いながら懐中より銭を幾ばくか取り出して与えた。

    これぞ天の恵みの露が草の葉末にかかると同様、誠に尊い情けである。

  • >>3244

    楠公は儒者

    翁は楠木正成公を儒者も儒者も真儒と呼んだ。その詩に

    奇策明籌不可模 正勤王事是真儒
    憶君一死七生語 抱此忠魂今有無。

    〔訓読〕 奇策明籌(めいちょう)模すべからず。正(まさ)に王事に勤む是れ真儒。憶う君が一死七生の語、此の忠魂を抱くもの今有りや無や。

     楠公を儒者と呼んだのは翁が初めである。然し正に其の通りで、道を行うて王事に勤めた点から言えば楠公は儒道の精神を実行した立派な儒である。そこに翁の儒道観と楠公崇拝の観念が知られる。

  • >>3243

    三  十  金

     翁の顕職に在るや、一士人あり翁に謁して就職を依頼した。翁問うて曰う、

    「俸給幾許(いくばく)を望むか」と。

    その人答うるに

    「三十金を欲す」と。

    翁即座に三十金を懐中より取り出してこれに贈る。

    その入恥じて辞し去った。

  • >>3242

      (34) 皆 死 せ。          冫

     明治戊辰鳥羽の戦、官軍の一隊少勢なりしかば、急を相國寺中の陣営に報じ援兵を乞うた。

    翁は手を挙げて

    「残れる人数幾許なりや」と問うた。

    答えて曰く

    「一小隊あり」と。

    翁笑うて曰う

    「皆死せ、然して後援兵を送らんん」と。

  • >>3240

       (33)弟を以て兄とす
                                                      
     翁は二十六歳父母を喪い、弟妹六人あり家計頗る困難であった。

    次弟吉次郎は性明敏にして家業に励み、翁をして内顧の憂なからしめた。

    翁は深く吉次郎を信頼し、嘗て曰う。

    「兄弟は先きに生れたるを兄として尊敬し、後に生れたるを弟として愛憐するを世の常とす。これは兄が先きに生れて世事に通ずること弟に優るためなり。

    されど今吾の身を省みるに、性質愚鈍にて、諸事却て汝に及ばず。今よりは汝を以て兄とせむ。」と。

    戊辰の役、吉次郎は監軍として北越に戦死した。翁は痛くこれを悲しんで飲食喉を通らなかった。

  • >>3239

     32 真の維新はこれからだ 高島将軍(靹之介)の南洲観

      先生(編者を指す)長らくの間御無沙汰申上げ、何とも申訳なく候、朝鮮より帰郷そうそう試驗の都合等にて、斯くは延期仕候次第、何卒御寛容下されたく候。

    私も至極大元気にて、小学時代より二十年問の書生生活も、一夏過ぐれば愈々卒業の今日、充分努力奮闘仕つるべく御安心下されたく、修養の途は一生の問題、先輩の訪問は勉強の余暇尚継続仕るべく候。

    先日は七名位、高島将軍を訪問仕り候、誠に偉大なる人格、何とも筆紙に尽くし難く、第一身体の健康を説かれ、次に現代青年の一生懸命勉強することに就き適切の御数訓あり。

    更に従来余り話されざりし南洲翁の話をせられ候。

    翁が一夏、市ヶ谷連隊に来たり、蚊帳もなく、各将校止むるも聞かず、縁先に夏の夜毛布を頭よりぐるぐる巻いて兵卒と寢を共にせしこと、獨逸大宰相のビスマルクが寸暇を得て兵隊訓練の隊伍に交り、身を練りしこと。

    或は翁が単身荘内に乗り込み、恰も太閤秀吉、上杉景勝の会見の如き、英雄の行動の一致せること、豪傑ならでは不可能の事と深く賞讃せられ、

    更に進んで明治維新の際、鳥羽伏見の乱平らぎ、陛下京都におわします際、世の中なお物騒にて京都平靜ならざるに、翁が京都に立ち寄りもせず直接帰鹿セルに対し、京都内の世評甚だ悪しく、非難の声旺んなるに、

    高島将軍も動かされ、帰鹿後一夜翁を訪うて、最後に京都の世評を陳述し、余も亦翁の意を解せずと述べられしに、

    今までの翁の態度直様一変し、整然端坐し満面怒気を吹く美、大音にて

    「君は何という、明治の維新はこれで済んだと思うか。明治の維新はこれからだ」

    の一言に流石の高島将軍も殆んど顔色なく、只一言もなく感服して引きさがり、帰宅後終夜何の意なるか熟考せしもさっぱり解せず。

    その後翁の為す所を見るに、迅雷城下の兵隊訓練所に五万の兵を挙げ得るに達し、進んで廃藩置県、官制改革等実に考も及ばず、三年後に至りて初めて翁の一言を了解するに至った。

    今更追想して吾ながら情けない。

    彼の一言が了解出来なかった高島の大馬鹿、愚の愚と云ったら汗が流れると。

    その他種々のお話あり。

    昼は御馳走になり、非常に喜ばれて先輩を訪ねて修養の熱心があるなら、夜でも何時でも叩いて何が遠慮が要るものかと喜ばれ候。

          (薩人木尾良清氏の編者に贈れる書簡)

  • >>3238

    榎本武揚を救う

     愈々函舘の戦争が済んで椏本武揚の処分と云うことになった時、長州の人は死刑を、鹿児島の黒田清隆は減刑を主張したが、どうも鹿児島の言い分が通りそうもないので、この事を翁に相談すると、翁は

    「榎本等は他日国家の為になる人物故殺してはならぬ、併し長州は私怨も手伝って恐らく死刑を主張するだらう、この上は非常手段に出るより仕方がない、鹿児島の士官以上の者は悉く死んで榎本を助けると主張せよ」

    と云われた。

    そこで黒田は帰郷してこれを主張すると、長州も鹿児島を恐れて終に助命することになった。

  • >>3237

     江戸城兵火を免れる

    官軍入城の際、江戸城は危くも兵火を免れた。大村兵部卿(益次郎)は最初より市街戦を避ける方針であったが、翁も同じ精紳で、翁は木梨参謀に次の如く告げたといわれる。

     「何卒市内を燒き払わぬようにして貰はなければならぬ。

    第一人民の苦は申すまでもないけれ共、熟々思えばこの江戸城というものは、前途我が帝都にしなくてはなるまいと思う。

    之は嘗て大久保市蔵もその事を色々私に相談したことがあった。是非民家は燒かぬようにしてくれ。」

     今日に至ってますく益々大村、西郷、大久保諸公の先見を感謝するのである。

  • >>3236

      翁の東湖及び海舟評

     嘗て翁が云われるには、

    「海舟は刀をまるで(全部)抜いたような人物だ、東湖先生は刀を五分ばかり拔いたような人物だ」と。

      言葉は短いが噛めば噛む程味のある面白い評である。

  • >>3235

     大膽識と大誠意

    勝海舟の氷川清話に曰う。

     『西郷に及ぶことの出来ないのは、その大膽識と大誠意とにあるのだ。

    おれの一言を信じて、たった一人で江戸城に乗り込む。

    俺だって事を処して多少の権謀を用いないことはないが、ただこの西郷の至誠は、俺をして相欺くに忍びざらしめた。

    この時に際して小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく)を事とするのは、却てこの人の為に腸(はらわた)を見すかされるばかりだと思って、俺も至誠を以てこれに応じたから、江戸城受渡しもあの通り立談(たちばなし)の間に済んだのさ。


     海舟は翁の末路を悼(いた)んで、千載知己存せんと詠んだが、千載を待つまでもなく翁は斯の如き知巳があった。

  • >>3233

    佩刀を抱いて入城す

     翁が勅使の随員として江戸城に臨んだ時、当時の作法として、既に式台を上れば勿論佩刀を脱しなければならない。

    そして国主、大名の格ある者でなければ、その脱した佩刀を手に提げて奥に入ることが出来ない。

    翁は佩刀を手に提げるのは穏当でないと思ったが、さりとて之を人手に渡し、丸腰で殿中に愕入するも
    また危険であると感じ、当惑の末刀を抱いて書院に通った。

    既に王師を率いて江戸に入り、城池明け渡しの場合であるから、普通の人ならば手に佩刀を提げて書院に通るが如きは寧ろその得意とする所であろうが、翁は当惑して佩刀を抱くに至った。

    これ即ち翁の翁たる所以である。これは山縣有朋の話しである。

  • >>3232

         江戸城の授受と鼾睡(いびき)

     明治元年官軍の先鋒は進んで池上に陣し、三月十五日を期して江戸城を三面より挟撃せんとした。

    幕府掉尾(ちょうび・とうび)の偉材を勝安房(義邦)というた。

    前将軍慶喜に恭順を勧め、十三日、翁に会見を申し込み、慶喜の衷情と府下の情勢とを説き、熟考を求めた。

    翁これを諒し、十五日駿府に至りて総督宮に具陳し、二十日京都に入り内閣会議を開いて極力廣澤、木戸等の硬論を排し、徳川処分の勅裁を奉じて江戸に還り、四月四日橋本、柳原両勅使と共に江戸城に入り勅命を伝えた。


     この時勅使随行の諸士は競々として安んせず、翁は独り平然として人無き如くにあった。

    式おわって勅使以下退出すると、翁は鼾声を挙げて華胥(かしょ)の夢まさに濃(こまやか)であった。


    幕臣大久保一翁往いてその肩を揺動(うご)かし、告ぐるに一行既に退城せるを以てした。

    翁遽々然(きょきょぜん)巨眼を開き悠然闊歩して退出した。
    膽斗(たんと)の如しとは、相模太郎(北条時宗)以後翁ありと謂うべきであろう。
    (南洲百話 山田準著 昭和19年発刊)その26

  • >>3231

    御前会議と短刀一本
      慶応三年二月九日、王政復古の大号令煥発(かんぱつ)になって、その夜は御所に於て御前会議が開かれた。

    この時土州の山内容堂は徳川慶喜をも会議へ列せしむべきことを主張した。これには尾州越前両侯も同意し、後藤象次郎が専らその説を賛成した。


    これに反して大原卿は、慶喜は大政返上をしても有名無実であるから、今日この席へ列せしむ可からずと大いに反対して議論が沸騰した。

    そこで中山忠能卿は聖旨を奉じて、少時の休憩を命じた。

    この時参議の岩下佐治右衛門は急に翁を呼びにやった所が、直ぐに翁は平服のままにて袴も穿かずに来た。

    そこで岩下は、土佐越前二侯始め後藤等の佐幕論が甚だ盛んで、議論沸騰容易にまとまらぬが如何にしたら良いかと言った。

    翁は一向平気なもので、

    「何も六ケ敷いことはない、短刀一本あれば事が決定するではないか」

    と云って帰って仕舞った。

    岩下はその事を岩倉卿に告げると卿も大いに決心したので、次の会議では容堂を初め一人の抗議者も無く議事はスラすら進行した。

  • >>3230

     幾らでも持って行っきゃい

     慶応二年の春のことである。

    翁の居た京都の旅宿に弟の信吾(從道)が訪ねて来ていた。その折、薩軍の隊長柴山龍五郎も弟の陶臓を連れて同じく翁の許へやって来た。

    信吾は柴山を見ると、

    「やあ、龍五郎どん好く来やった。」と云って迎へた。

    龍五郎は信吾に、

    「信吾どん、今日連れて来た此奴はね、俺が四番目の弟じゃが、どうか汝から兄さんに願って何何処ぞへの隊へ入れるごとなるめえか。」

    こう挨拶して、陶蔵の就職を依頼した。

    「よか若者だね」

    信吾は柴山の背後にかしこまって居る陶臓を見てさう言ったが、翁に向って、

    「兄さん、相国寺の大迫喜左衛門の壮者隊へ入れたらどうじゃらう」と口添へした。

    翁は即座に、

    「そいがよか」と答えた。

    陶蔵は翁が快諾してくれたので嬉しくなったが、何しろ大先輩の前のこととて、すっかり固くなって囗の中でぼそぼそお礼を云った。

    すると翁は何んと思ったのか棚に手を伸ばして、そこにあった財布を取ると、大きな手を突込み、銭を勘定せず無造作に掴み出して、

    「手を出しやい、汝くらいな時にや、銭が要るものでごわんそ」

    と云って、陶蔵の掌へ与えた。

    そして、

    「さあ何程でも持って行っきゃい。」

    そう云いながら幾らでも掴み出してはやろうとするので、陶藏はすっかり面喰つてしまって、

    「もう沢山ごわんす、もう澤山ごわんす」

    と辞退したが、辞退する掌からバラバラ銭が畳に落ちた。

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