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南洲先生

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  • 2017/11/22 13:44
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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    nan***** 11月22日 13:44

    >>3130

    両雄の会話傍人を驚かす

    山岡先生、南洲と刎頸の交わりありしとは世人の知る所なれども、維新後久しく相会せず。

    一日宮内省に於いて相逢う。

    傍人両雄にて何事を談ずるやと聞き居りたるに、南洲突如として曰く、

    『貴君剣に於いては海内無双なり』と。

    『然らばこの南洲の首は斬れ申すか。』


    山岡先生少しく襟を開きその胸辺を指して黙笑するのみにて何の言葉もなし。


    傍人未だその意たるを解すこと能わずと云う。

  • >>3129

    鉄舟西郷南洲を評す

    門下生西郷南洲の伝を読み、その城山没落の際、破裂断四面より来りて隆盛の頭上に開くも更に動ずる気色あらざりしと云うに至りて疑問を生じ、先生に問うて曰く、

    「西郷の剛勇たるは夙(つと)に知れり、然れども破裂弾の頭上に飛散するを意とせざりしと云うに至っては、記者の虚構にあらざるや」と。

    先生喝して曰く、

    『汝ら小人の心を以て英雄を視る故にその疑問あれども、西郷は禅に於いては天地同体の理を悟了せり、また何ぞ破裂弾を恐れんや、しかしこれ等は学得したるもににあらざれば軽々には言い難し、汝らもその境味を知らんと要せば須(すべか)らく学得する所無かるべからず』云々。

  • >>3128

    両士もその時軍監にて陣営を守りながら、卒然その職務を失いたりしを遺憾に思いしと見えたり。


    斯くの如きの形勢なれば、予が輩、鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)して、以て旧主徳川慶喜が君臣の大義を重んずる心を体認し、四カ条の実効を奏し、且つ百般の難件を処置する者、これ即ち予が国家に報ゆる所以の微意なり。
     
     明治十五年三月  山岡鉄太郎誌

  • >>3127

    その時西郷氏従容として笑いつつある間に、その兵は何れかへか去る。全く脱兵と見えたり。

    斯くの如きの勢いなれば、西郷氏応接に来る毎に、余、往き返りを護送す。

    徳川家の兵士議論百端殺気云うべからざるの秋(とき)、もし西郷氏を途中に殺さんと謀るものあれば、余、前約に対し甚だこれを恥ず、万一不慮の変ある時は西郷氏と共に死せんと心に盟(ちか)って護送せり。


    後日大総督府下参謀より、急の御用これあり出頭すべしとの御達しあり、余出頭せりに、村田新八出で来たり。

    『先日官軍の陣営を足下猥(みだり)に通行す、その旨先鋒隊より報知す。我と中村半次郎と足下を跡より追いつき切り殺さんとせしが、足下早くも西郷方へ至り面会せしに依りて切り損じたり。余りに残念さに呼び出しこれを云うのみ。」

    別にご用向きは無しと云う。

    余曰く、

    「それはさもあらん、我は江戸っ児(こ)なり、足は尤も早し、貴君方は田舎者にてノロマ男ゆえ、余が速きにはとても及ぶまじ。」

    と云うて共に大笑いして別れたり。

  • >>3126

    旧主徳川慶喜の歓喜言語を以て言うべからず。直ちに江戸市中に布告をなしたり。


    その大意は斯くの如し

    「大総督府下西郷吉之助殿へ応接相済み、恭順謹慎実効相立ち候上は、寛典の御処置相成り候に付、市中一同動揺致さず、家業致すべし」

    との高札を江戸市中に立て、これに於いて市中の人民少しく安堵の色あり。


    これより後、西郷氏江戸に着し高輪薩邸に於いて西郷氏に勝安房と、余と相会し、共に前日約せし四カ条必ず実効を奏すべしと誓約す。

    故に西郷氏承諾進軍を止む。



    この時徳川家の脱兵なるか軍装をせし者同邸なる後ろの海に小舟七八艘に乗込み、およそ五十人ばかり同邸に向かい寄せ来たる。


    西郷氏に付属の兵士、事の出来るを驚き奔走す。

    安房もこれを見て如何なる事かと思いたり。

    西郷氏神色自若、余に向かい笑って曰く、

    『私が殺されると兵隊がフルイマス。』

    と云いたり。

    その言の確乎として不動なる事まことに感ずべし。



    …(今氏は国賊の汚名を受けて地下に葬られたりと雖も、余、仄(ひそか)に往時を挽回して知己の念に堪えず、この人必ず死する人にあらず、嗚呼)

  • >>3125

    官軍先鋒既に同駅に在り、番兵余に馬を止めよと云う。聞かずして行く。

    急に三名走り来たり、一人が余が乗りたる馬の平首に銃を当て、胸間に向け放発せり。

    奇なるか哉発して弾丸発せず、益満驚いて馬より下り、その兵の持ちたる銃を打ち落とし、西郷氏に応接の云々を示すに聞かず。

    伍長体の人出で来たり(後に聞く薩藩山本某という人なり)その兵士を諭し不服ながら退く。

    もし銃弾発すれば其処にて死すべし。幸いに天の余が生命を保護する所ならんかと。

    益満と共に馬上に談じ急ぎ江戸城に帰り、即大総督府宮より御下げの五箇条、西郷氏と約せし云々を詳らかに参政大久保一翁、軍事総裁勝安房に示す。

    両氏その他の重臣等、官軍と徳川との間の事情貫徹せし事を喜べり。

  • >>3124

    西郷氏余に云う、

    『先生官軍の陣営を破り此処に来たる、縛するは勿論なれども縛せず』と。

    余答えて曰く、

    「縛に就くは余が望む処、早く縛すべし」と。

    西郷氏笑って曰く、

    『先ず酒を酌まん』と。

    数盃を傾け、暇(おいとま)を告げれば、西郷氏大総督府陣営通行の苻を与う、これを請けて去る。


    帰路急行、余、神奈川駅を過ぐる頃乗馬五六匹を牽行あり、何れの馬なるかと尋ねしに、江川太郎左衛門より出す処の官軍用馬なりと。


    「余は官軍なりその馬に二匹を借りるべし」と。

    直ちに益満と共にその馬に跨り馳せて品川駅に至る。

  • >>3123

    西郷氏曰く、

    『朝命なり』と。

    余曰く、

    「たとい朝命なりと雖も拙者に於いて決して承伏せざるなり」

    と断言す。


    西郷氏又強いて

    『朝命なり』と云う。

    余曰く、

    「然らば先生と余とその位置を易(か)えて之を論ぜん、先生の主人島津公もし誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征伐の日に当たり、その君恭順謹慎の時に及んで、先生、余が任に居り、主家の為尽力するに当たり、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生その命を奉載し速やかにその君を差し出し、安閑として傍観する事君臣の情先生の義に於いて如何ぞや、この儀に於いては、鉄太郎決して忍ぶ事能技る所なり」

    と激論せり。

    西郷氏黙然暫しありて曰く、

    『先生の説最然なり、然らば徳川慶喜殿の事に於いては、吉之助屹度引受取計らうべし、先生必ず心痛する事なかれ。』

    と誓約せり。

  • >>3122

    暫くありて西郷氏帰営し、宮より五か条の御書御下げありたり。その文に曰く、

    一 城を明渡す事

    一 城中の人数を向島へ移す事

    一 兵器を渡す事

    一 軍艦を渡す事

    一 徳川慶喜を備前へ預かる事



    西郷氏曰く、

    『右の五箇条、実効相立ち候上は、徳川家寛典の御処置も之あるべしと。』

  • >>3121

    西郷氏容易に答えざるの色あり。

    余曰く、

    「拙者主人慶喜の意を代表し、礼を執って言上するなり、然るを先生この礼を了せざれば、拙者はただ一死あるのみ、抑々(そもそも)斯の如くは麾下八万、生命を惜しまざるもの微臣鉄太郎のみにあらず、果たして然らば独り徳川氏のみならず、未来日本国家亦如何、それでも先生は猶進撃せらるるか。

    もし左様なれば、王師にはあらず、謹んで惟(おもいみ)るに、天子は民の父母なり、非理を明らかにして、不逞を討ずるこそ真の王師とは申すなり、謹んで朝命に背かざると申す忠臣に対し、寛典の御処分なくんば、これより天下は大乱とならん。乞う先生、御推量あられよ」と。

    西郷氏悟る所あり、曰く、

    『先日正寛院宮、天璋院殿の使者来たり、慶喜殿恭順謹慎の事嘆願すと雖も、只恐懼狼狽して更に修理分明ならず、空しく立ち戻りたり、先生態々(わざわざ)これ迄ご出張、江戸の事情も判然し、大いに都合によろし、右の趣大総督宮へ言上致すべく、此処に御休憩あられたし』

    とて、氏は直ちに宮へ伺候す。

  • >>3120

    西郷氏曰く、

    『生死は朝廷の御沙汰に遵(したが)わんとか恭順謹慎なりとか申さるなれど、既に甲州一円戦端を開きて官軍に抗せしと注信あり、先生の言は信じ難し』と。

    余曰く、

    「我が主(あるじ)自ずから恭順謹慎の実を示し、家臣等にも激しく命令したれども、幾多の家臣中には主君の命に反し、或いは脱走して不軌を謀るものもあらん、然れども此の動き鼠族輩は、我が徳川家に縁を絶ちしものなれば、断じて我が主慶喜の関するところに非ず、今先生の申さるる甲州地方に蜂起するものは、正しくそれらの輩なるべし。

    然るが故に微臣その義を推知し、主人慶喜の赤心を朝廷に貫徹致さずば、遂に脱走鼠賊輩と混視せられん事を恐れ、虎口を忍び、当御陣営に推参致したる次第なり。願わくば大総督宮殿下へ御取なしを乞う。」

  • >>3119

    小田原駅に着したる頃、江戸の方に兵端を開けりとて、物見の人数路上に絶えず、東に向かって出張す。


    戦争は何処にて始まりしと尋ねしに、甲州勝沼の辺なりと言う。

    仄(ひそか)に聞く、近藤勇甲州へ脱走せしが、果たして是なるべしと心に思うたり。



    昼夜兼行駿府に到着し伝馬町某家を旅営とせる。

    大総督府下参謀西郷吉之助方に行て面謁を乞う。西郷氏意義なく対面す。

    余、西郷氏に問うて曰く、

    「先生この度朝敵征討の御趣旨は是非は論ぜず進撃せらるるか、御決心の程拝聴仕りたし。」

    西郷氏曰く、

    『某(それがし)の軍に参謀するはもとより人を殺し、国家を騒乱せしむるに非ず、不軌を謀るものを鎮定せんと欲するにあり。先生は何故に此の如き事を申さるるぞ。』

    余曰く、

    「御主旨御尤千万なり、然らば我が主徳川慶喜は恭順謹慎して東叡山の菩提寺に閑居して罪を待ち、生死は朝廷の御沙汰に遵(したが)わんと欲するにあり。然るを何の必要あって大軍を進発せらるるぞ。」

  • 時に薩人益満休之助来りて同行せんと乞う。依りてその儀を承諾し、直ちに駿府に向けて急行す。

    品川、大森を経て六郷河を渡れば、官軍先鋒左右銃剣を列す。

    余、その中央を通行するに止める人なし。

    隊長の宿営と見ゆる家に至り、案内を乞わずして立ち入り隊長を尋ぬるに、これなるべしと思う人あり。
    (後に聞けば篠原鉄幹なりし)

    余即ち大音にて

    「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と断りしに、『徳川慶喜、徳川慶喜』と二声小音にて言いしのみ。

    その家に居合わす人およそ百人ばかりと思えども、何れも声出さず、ただ余が方を見たるばかりなり。

    依ってその家を出で直ちに横浜の方に急行す。その時益満も後に添いて来たれり。

    横浜を出で神奈川駅に至れば長州の隊となれり。

    これは兵士入駅の前後に番兵を出せり。

    ここにては益満を先となし、余は後に随い薩州藩と名乗れば無印鑑なれども礼を厚うして通行させたり。

  • >>3117

    大総督府本営に至る迄、もし余が命を絶つ者あらば、曲は彼にあり、余は国家百万の生霊に代わりて生命を捨つるはもとより欲するところなり。」と。

    心中青天白日の如く、一点の曇りなき赤心を一二の重臣に謀れども、その事決して成り難しととて肯(がえん)せず。

    当時、軍事総裁勝安房は 余もとより知己ならずと雖も、嘗てその胆略あるを聞く。

    故に往ってこれを安房に謀る。



    安房は余が粗暴の聞こえあるを以て、少しく不信の色あり。安房余に問うて曰く、

    『足下如何なる手立てを以て官軍の営中に往くや』と。


    余の曰く、

    「官軍の営中に至れば、彼ら必ず余を斬るか、はた又縛るかの外無かるべし、然る時は、余は双刀を解きて彼らに渡し、縛るならば尋常に縛に就き、斬るとならば斬らすべし。

    何事も先方に任して処置を受くべし。

    去りながら何程敵人とて、是非曲直を問わず、ただ空しく人を殺すの理(ことわり)なし、何の難き事かこれあらん」と。

    安房、余が精神不動の色を見て断然同意し余が望むに任す。事すでに決して去る。

  • >>3116

    余、旧主に述ぶるに、

    「何を弱きツマラヌ事を仰せらるるや、謹慎とあるは詐(いつわ)りにてもあらんか、何か外にたくまれし事にてもあらざるか。」

    旧主曰く、

    『予は別心なし、如何なることにても朝命に背かざる無二赤心なり』と。

    余曰く、

    「真の誠意を以て謹慎の事なれば、臣、これを朝廷に貫徹し、御疑念氷解は勿論なり、鉄太郎に於いてその辺は屹度引き受け、必ず赤心徹底致すべき様尽力仕るべく、鉄太郎眼の黒き内は、決して御配慮これ有るまじく断言す。

    爾後自ら天地に誓い、死を決し、只一人官軍の営へ至り、大総督官へこの衷情を言上し、国家の無事を謀らんと欲す。

  • 山岡鉄舟西郷氏と応接之記

    戊辰の年、官軍我が主徳川慶喜御討伐の節、官軍と徳川の間は隔絶え、旧主家の者如何とも尽力の途(みち)を失い、論議紛紜(ふんうん)し、廟堂上一人として慶喜の恭順を大総督宮へ相訴える者なく、日夜焦心苦慮するのみなり。

    その内譜代の家士数万人、論議しても一定致さず、或いは官軍に抗せんとする者あり、又は脱走して事を計らんとする者あり、その勢い言語に尽くすこと能わざるなり。

    旧主慶喜は恭順謹慎の旨を厳守すべきを以てす。

    『もし不軏(ふげつ)の事を計る者あらば、予に刃(やいば)するが如し。』と達したり。

    故に余、旧主に述ぶるに、

    「今日切迫の時世、恭順の趣旨は如何なる考えに出で候や」と問う。

    旧主示すに、

    『予は朝廷に対し、公正無二の赤心を以て謹慎すと雖も、朝敵の命下りし上は、とても予が生命を全うする事はなるまじ、屹度(きっと)衆人に悪(にく)まれ、遂にその志を果たさずと思えば、返す返すも嘆かわしき事。』

    と落涙せられたリ。

    (鉄舟言行録より)

  • >>3113

     兎に角西郷先生の偉大なる人格は、幾百里を隔つる我か荘内一藩を感化し、数年前までは仇敵ただならざりし幾戦の人士をして慈父の如く景慕せしむるに至った、徳望到底所謂英雄豪傑の企て及び難いところである。


    先生死後我が荘内では、直接先生の教えを受けた連中が、各々その記憶をたどり手記を調べて、一人齋戒沐浴(さいかいもくよく)の上これを清書し、南洲遺訓と題して副島伯の序文を乞い、印刷に付して有志にわかち、皆これを万古の金言として珍蔵し、永く子孫に伝える事になっている。

  • >>3112

    その頃三島は病気で東京で養生して居り、船越衛が代理をして薄井龍之と云う人が大書記官をして居たが、この人々の狼狽はなかった由で、頻りと荘内に探偵を放ち、場合に依っては藩老菅善太右衛門、松平権十郎などを捕縛しなければならなどという考を持って居ったらしい。

    もしそんな事をしていたらばあの爆裂弾の如く殺気の漲(みなぎ)って居る連中、立ちどころに暴発したに相違ない。

    この様子を東京の病床で聞いた三島は、

    「こりゃ一大事」

    と病を押して帰任し、その方針を一変し、温言を以て菅と松平の出県を求めた。

    菅は出なかったが、松平は五六の藩士と出県すると、松平には何も云わずに、上ノ山という温泉場に誘い美酒佳肴(かこう)を供えて歓待到らざるなしで、藩士等に向いては、

    『諸君の心中彌太郎(三島通庸(みちつね))重々察し入る。併し僕も鹿見島人である以上、西郷先生を思はぬ事はない。

    愈々やる時が来れば彌太郎進んで諸君と行動を共にする。大山(綱良)の例もある話だから、この彌太郎の心中を察して暫らく時機を待ちたまへ、彌太郎不肖と雖とも決して諸君の後へに落ちん。』

    などと甘まく云われたものだから、朴訥なる荘内武士は信じ切って了いしまい、藩に帰って、

    「県令も一味だから、も少し待て」

    などと他の者を慰めるようになったような始末。


    一方松平をば直ちに東京に連れて来ると云う調子で、そのうち西南の役も鎮定したから万事休すとなったのである。

  • >>3111

    又、世間でもきっと荘内はやると云う考えで、政府でも必ずそうとと認めていたものらしかった。

    薩摩が事を起こしたという時に、藩士が黒田清隆を尋ねた時、黒田は

    『西郷先生もいよいよやりだしたが、貴藩もきっと御やりになりましょう、どうも致し方のない事だから、再たび兵馬の間に見(まみ)えましょう』

    と断乎として告別の辞を述べたという事である。


    また先年日清戦争後、曽我子爵と会談の末、談この時の事に及ぶと、

    『子爵はどうもあの時は心配しました、私は仙台に居たが、いざと云えば山形に出で、貴藩に向う準備をして

    居ました。

    又、小松宮様が総督となって、越後口より向う事に予定されて居ました、その為に私は鹿児島の方に往ったのはもうお終いの頃でした云々』

    と懐旧談をやられた事があった。

    つまり藩老の意見が動かなかった為に事なく済んだようなもの、あの時の県令が若し三島通庸(みちつね)でなかったなら、屹度爆発した事と考える。

  • >>3110

    薩南の一隅にいよいよ烽烟が揚ったと聞くと、荘内藩の我々壮年の者共は、そりゃ来たやるべしと云う勢いで刀を砥ぎ銃を磨いて今度こそはと骨鳴り肉動くの概に堪えなかったが、藩の死命を握って居る菅は如何に迫っても、決して動かなかった。


     その云い分は、

    『西郷先生と何か御約束でもして居た事なら、固より成敗を顧みる迄もなく事も挙ぐべきだが、あれ程親密な変際をして居ながら、未だ一言半句も斯様の事に及んだことは無い。

    加えるに今藩公は御二方共御洋行中であり、殆んど定った天下の大勢に抗して再び一藩を挙げて窮地に陷るに忍びない』

    と云うのであっった。



    藩老の意見がこういう風で致し方なくも無かったが、血気の連中は切歯扼腕(せっしやくわん)して天の一方をにらむという有様で、殺気紛々たるものがあった。

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