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南洲先生

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  • 2017/09/20 19:46
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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  • 3086(最新)

    nan***** 9月20日 19:46

    >>3085


    誰でも知っている事だが、南洲が参議大将で時めく頃、いつも一名の従者を従えて参内する。



    宮内省の門鑑(もんかん)や履物は退出の時まで従者に預けておくを例としていた。

    一日廟議早く終わり、定刻に先んじ退朝せんとして玄関に至って見れば、時間が来ないから無論従者はまだ来ていない。

    止むなく跣足(はだし)で坂下門に至ったが、門衛隆盛なるを知らず、且つ門鑑がないので通行を許さぬ。

    已を得ず降りしきる雨に濡れて従者の来るを待つ中、偶々岩倉右府退朝して来たり。

    西郷を見て大に驚き、その次第を聞き更に門衛に向って、

    『こは参議大将西郷隆臓君なり門鑑なくとも出門せしめて可し』

    と言ったので、門衛先生大いにその無礼を謝したという一話の如き、実に南洲の人格を善く現わして居ると思う。

  • >>3084

     越前の橋本左内初めて南洲を訪う。
    左内は容貌婦人の如く翩々(へんぺん)たる一少年である。

    西郷乃ち興(とも)に語るに足らずと思い、国家の事などは野暮だ、角力(すもう)でも取って世を送ろうと存ずると云いつつ冷笑した。

    左内毅然として

    『足下人傑の名あるが故に来れば、その言斯の如く実に望を失う、けれども試みに鄙見(ひけん)を陳ぜん』

    と云って諄々(じゅんじゅん)天下の形勢を説く、卓識偉論、南洲覚えず粛然容(かたち)を正し黙聴数時頭漸く地に抵(あた)る。

    左内陳じるや否や飄然袂を払って去った。


    時に海江田信義座にあり、南洲これに対(むか)い嘆じて曰く、

    『意わざりき天下また斯くの如き俊才あらんとは』と。

    翌朝衣を更め、左内を訪うてその不明を謝罪したという話もある。

  • >>3083

    明治二年の師走、岩倉右府勅使として薩摩に下向さるるや、南洲当時藩の参政にして藩主の供奉をして行く。

    袴の股立高く引き上げ裸足で随従し、主公の着館するや敷石に土下座して見送った。


    その後参議大将たりし時、一日閣議に列し、退出の際旧主島津邸の近隣に失火あるの報を聞き走せて自らその裏門を警護した。

    処へ島津家の家扶が壮丁を指揮して来たり見れば、既に南洲が警戒して居るので大いに驚き、且つその忠実なるに感嘆したそうだが、二つながら実に床かしい心地がする。

  • >>3082

     南洲の心の中には一点も私がないから常に光風雲月のようであった。

    明治の初年、隆盛陸軍中将の職に在った頃、偶々一人の少将を欠き、頗るその人選に悩んだ。

    公山縣当時陸軍少将たり、徐ろに西郷の意見を叩いた。


    答て曰う

    『予の眼中まだ一人の少将たる者を認めず、已むなくば弟従道か、彼れ少将以上の腕を有せずととも少将迄は買被りではあるまい』と云って弟を推薦した。


    翌日従道少将を拝命した。


    これは今も有名な美談となっているが、よく味わってみると南洲の心事の清い事が分る。

  • >>3081

      南洲は又中々味をやった男で、故海江田信義と僧月照とを扶けて薩摩に逃がれるとき、垂り籠で稲荷山まで行くと、早くも新選組の兵が三々五々旅亭に屯し警戒して居るから、殊更に籠を彼等の傍に置き、少憩さして行き、遂に虎口を脱せしめた事などは、何でもない様な事だが一寸出家ない芸だ。

    又鮫島某と藩命を負うて上京する途上、鮫島は毎日洒を被り、酔眼朦朧として常に抜刀大呼し、屡ば人を驚かすので、西郷大に閉口しこの行若し過失あらば君公に対し何んとも申し訳がない。

    欺いて彼に禁酒せしむるに如かずと考え、一夕殊更に酒肴を命じ、婢を呼んで杯盤に侍せしめ、予め婢に言いつけて、自分の膝にわざと酒を覆えさせ、南洲は衣袴を汚したるの故を以て偽って大に怒り、婢を罵しるつつ刀を抜いて起つ、鮫島大いに驚き、調停頗る力(つと)め慰めて寢に就かしめた。

    翌朝南洲にむかい

    『君が藩に在る頃は巌正自から持し居たるにも拘らず、昨夜の軽躁は何事である。思うに是れ洒の罪だ、僕も亦大いに悟る処あり、今より使命を完うして帰る迄は洒を口にせぬ』とて互いに誓った。

    南洲私かに吾計の成れるを喜んだと云う事だが、実に乙な芝居を演って居るではないか。

  • 隆盛累進して参議陸軍大将となった時、人に語って、我れをして今日あらしめたのは実に大野奉行のお蔭であると感嘆したのも道理である。

    是れより先き毎歳年始の節、いの一番に大野の宅へ年賀に行く者は当年の同輩属吏であった上床某で無くば、必ず西郷であったそうだ。

    以て彼が壮年時代から如何に道を守る事が堅かったかという事が分明する。


     維新前各藩の士多く京師に集り時事を会談する際、南洲必ず会場に至るも常にその席につかず、躯幹肥満のため長座に耐えずとて、別室に横臥するのみであったとか、岩倉右府の洋行中一切の事は伯大隈に託し、内閣の別室で伯板垣と龍陽分桃の事のみを断じていた等という話はどうかと思う。

  • >>3079

    南洲の齡(よわい)二十歳の頃、郡奉行大野五右衛門の書役と為り、或時地方の巡視に随行した。

    大野は非常な耽読(たんどく)家で、一時も書物を手放さない。

    一日西郷にむかい

    『お前は是れ迄に何を読んだ』と尋ねた。

    答ていう「四書五経」と、

    夫れも宜しい。
    しかしながら国家を経綸しようと思うには歴史が一番大切である、先ず之れを読めと云いつつ手にして居た書物を渡した。

    南洲開き見れば史記であったが、悲しい哉、当時学力猶足らずして読むことが出来なかった。

    大野懇(ねんごろ)ろに教え、更に草茅危言(そうぼうきげん)などをも読ましめたそうだ。

  • >>3078

     南洲に最も敬服する点は、至誠天地に耻じずと云う彼の精神である。

    如何なる場合でも道義を基礎として裁断し、苟くも私を挟まない。

    南洲が大島で非常に世話になった土持某を終生官へ取り上げなかったので、一面からは恩を知らぬ冷酷な人物だと論ずる者もあるが、それが常人の及ばない処で、この点に於て大久保などは稍々(やや)似て居るように思う。

      
     道の爲めには、如何に惜しい人物でも棄てなくては名分が立たぬと云うのが南洲平常の主義で、長州の三家老の首を取ったのも朝権に汚点を付けない為、元治甲子の際、平野次郎國臣の死を私情に依り救わなかったのも夫れが為である。

  • >>3077


    又江戸へ来て、南洲が酒井侯の邸内に寓居して居た時、書生が毎日玄関先きで西郷にむかい、

    『先生今日は何れへお越ですか』

    とやるので、南洲微笑しながら

    『そう毎日追窮されては困る。おいどんだって男だもの、時には遊びもするさ』

    と云ったそうだ。


    こんな処から南洲上下(裃)を着して青樓に上るなどと云う、さきの逸話が生れ出たかと思われる。

  • >>3076

    無論南洲は武骨一点張りの人物ではなかった。

    現に島流しに遭って大島に居た時の如くも妾を持ち、今の京都市長西郷菊次郎氏を初め、二人の娘を設けて居るのでも、情の人であった事が分る。

    のみならず、まだ京都にいた頃、大久保の妾宅で一日国事談の後、南洲頗る真面目でその妾にむかい、

    『一力の阿虎が、おいどんに何とか云っとるが、真実じゃろうか』と云って大いに吹き出さしたことがあるそうだ。

    お虎は祇園万亭の女中で大兵肥満、人が能く「西郷と夫婦になったら良か」と揶揄した女だそうな。

     矢張京都に居た頃、大久保の浪宅へ日に幾人とも知らざる来訪の浪士中、暴論の末激怒、刀を按じで詰め寄る者多く、利通弱り果て西郷に計った処が、南洲曰く

    『暴論家を御する易々たるのみ、今後我れ代って応接せん。しかしながら婦人の来訪者も亦我れ引き受けん』とて大久保を閉口さした話がある。

  • >>3075

     南洲京師に在りし頃、食客数人を養い家に在るや極めて謹厳、外出するや必ず裃を着用する。

    食客その謹厳に過ぐるを怪しみ一日尾行した。

    南洲かくとも知らず悠然闊歩して四条橋を渡り、遂に祇園の青楼に上がった。

    食客初めて悟り、家に帰りその帰宅を待つ。

    深更に及んで南洲は帰ったが、例によって謹厳である。食客笑いを忍んで、その往く処を尋ねた。

    曰く、本日重大の要件在り大久保の寓を叩いたのだと。

    食客すかさず、何時大久保さんは祇園新地へ御移転になりましたかと皮肉る。

    流石の西郷も頭を掻き

    『汝りやそれを知っちょるかい(わいやそいをしっちょっとか)』

    と云いつつ大笑いしたと云う逸話は名高いものだが、これは事実でないらしい。

  • >>3074

    自分は子供の頃から南洲の顔を見る度に恐い男だと思った。

    そんな関係からでもあろう、今尚彼を追念する毎に故人の顔容が目の前にちらつくような心地して、その逸事逸話を見聞きし談ずるにも一入(ひとしお)興が湧いて来る。

    これまで耳にした逸話の中には随分疑わしいものも沢山ある。

    由来洋の東西を問わず、偉人をして更に大偉人たらしめたがるのが後人の癖で、有りもしない色々な事を作って云いはやし、遂に何れか真、何れが偽りなるを判明するに難からしめる。

    つまり南洲もそのご多分に漏れて居ないのである。

    今その証拠を一つ挙げてみようと思う。

  • >>3073

    嗚呼老西郷  史談会幹事 寺師宗徳 (明治43年南洲号)




    老西郷と私とは、共に同藩で居ても、何しろ時代が違うから、所謂掻ゆい処へ手の届くようなお話は出来なかろうと思う。


    安政年間以前に於ける南洲の事績を直接に知っている人は、最早世を去ってしまい、現今では黒田清綱翁が一番能く知って居られる訳だが、それすら安政以後の事より外は知らない筈である。

    大山、樺山、山本、柴山、高島、上村諸将軍や高崎正風男爵等も一面の事情は無論知って居られようが、真に南洲翁を解せんと欲せば、先ずは故人と最も関係の深い山下房親翁、函館の役薩軍の総大将であった池田貞賢翁、藩使として大島の配所へ迎いに行き、南洲にダダをこねられて閉口した渋谷直武翁、それから南洲をして偉人足らしめた恩師大野五右衛門は既に世を去ったが、その息吉方氏等は逸すべからざるものであろう。

  •  それから豪(えら)いのは村田新八じゃったな。

    見上げる様な巨漢で容貌も堂々たるもの、才幹も勝れ思慮もある立派な人間じゃった。

    何でも肥後の池邊吉十郎とは余程親密な友情であったらしく、若し村田が出れば池邊も行くだろうと云われたが、果して池邊も出た。

    それから貴島壮太郎、あれも若かったけれど、却々(なかなか)豪かったじゃな。


    兎に角先生が豪いだけ、一廉以上に優れた人間が、その門下に集まって居た訳で、こりゃまあ自然の理屈じゃろう。

  • >>3071

    それから彼の時分には、朝廷を禁闕と云い習わして居ったのだが、桐野は始終、禁關(関)々々と平気で話して居った。

    例の兵法で闕と関の区別を無視したのじゃナ。
    ほんに痛快な男じゃったよ。

    それでも北海道の屯田兵策などは、桐野の立案じゃったのじゃ。

  • >>3070


     何時かなども、北海道から帰って来た、その体験談を聞こうじゃないかと押しかけると、桐野が例の調子で、

    「北海道て処はな、見渡す限り一面の高低じゃっで、牧畜や耕耘(こううん)には持ってこいの国じゃ」

    などと手真似で話し出す。


    高低と云うのは高い処もあり低い処もあると云うことだ、百姓などには余り適する訳が無い、そりゃ高低じゃ無い、一面の平原じゃろうと云うと、

    「あゝ夫れぢや、その平原じゃ」と云い乍ら、又「その一面の高低が」と話し出す調子であった。

  • >>3069

     桐野は何でも使い番か何か、諸藩の名士と応対する役じゃったが、一向学問の嫌いな男で、話なども随分トンチンカンな事が多かったが、それでも平気で何とも思わぬ。

    諸藩の士にも薩摩に桐野ありと認められて居た。


    その利かぬ気で無学を何とも思わず、不気で話す。

    それに其の構わぬ話振りが面白いので、又桐野に話をさせようじゃないかと、我等は能く桐野の宅へ押掛けたものじゃ。

  • >>3068

    万事こうした男らしい潔白で豪放じゃ、だから一度桐野と交際すると、面自くて復た付合わずに居られん。

    何とも云えぬさっぱりした快活な男で、ああ云うのが本当の武人風と云うのじゃろうな、今じゃあ一寸あんな男らしい男は見当らんよ。

     明治になってからも東京に来た我等初め、後に居る者でも大抵家を借りるか、下宿して居る位じゃのに、桐野許りは例の濶逹な流儀で、今の湯島の岩崎の家だナ、彼の辺へ、それはそれは大きな家を借込んで済ましていた。

    その家がまた馬鹿に広くて、馬場が有ったので、我等は能く馬を馴らしに遊びに往ったものじゃ。

  • >>3067

    戦争で斃れた門下生?

    篠原は極めて老実な、少しも派手な処のない人なので、あまり人の目に立つ様なことは無かったが、痛快なのは桐野よ。

     この桐野という男は、まるで竹を割ったような正直な剥き出しな性質じゃった。そして非常な豪奢な気風じゃった。

    それも今風のハイカラな、表ばかりをピカピカして、裏はどうでもと云う様なものじゃ無い。

    たとえば軍刀の欛(つか)などでも、大抵の人は金鍍(メッキ)であったのに、桐野ばかりは金無垢で飾ってあった。

  • >>3066

    そんなに太って居られるので、着物を着ても身幅が合わんので能く不格好な奴(タマ)を出すので大笑いじゃった。

    全く天真爛漫、子供のような方で、誰でも西郷さん西郷さんと慕って来る。


    底の知ることの出来ぬ大偉人であったなあ。

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