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南洲先生

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  • 2018/08/14 21:57
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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    nan***** 8月14日 21:57

    79 天照皇大神と御同座は出来申さぬ

     翁は明治九年九お大隅の日当山温泉で湯治した。

    時に国分村の鋳物師で城川市次という者が、翁に「天照皇大神」と五字を書いて貰った後で、「どうか先生序に貴公の名を書き入れて下さい」と言うた所、翁は膝を立て直して

    「吉之助は天照皇大神と御同座は出来申さぬ、その儀はお断り申す」とキッパリ言われた。

    その幅は今も城川の家に遺って居る。何んと我名を紙の端に書くさえも神様と御同座するは、畏れ多いと考える翁の敬神即敬天の観念は、普通人の想像を許さぬものがあるではないか。


     この城川は翌年西南戦争勃発と共に薩軍に加わり、多くは翁の側に居た。

    後年城川の直話に

    「薩軍が破れて日向の長井村に退いた時、延岡に打って出た軍が破れたに拘わず、翁は構はず前進された。別府晋介どんがその袂にすがり「先生まだ決戦の時ではありません、一応お退き下され」と言うと、その時翁は両眼にはらはらと涙を出された。

    自分等は豪傑というものは如何な時に涙を出すものかと疑うて居たが、此の時先生の涙を見て、さてはと思った」と。

    この話に依ると翁は長井村で一旦は死を決したのである。

  • 78 身後の余栄
     翁が明治十年城山に悲壮の最期を遂げた後、幾年も経ぬ十六年には 明治天皇は翁の遺訓を偲ばせ給い、元田永孚(ながざね)をして内旨を吉井友實に伝えしめ、嗣子寅太郎を海外に留学せしめられた。

    二十二年二月憲法発布に際しては、西南戦争の罪を赦して、特に正三位を追贈せしめられ、後また寅太郎に侯爵を授け給うた。

  • >>3294

        77 池邊吉十郎逆意に与(くみ)せず

     西南戦役が終わった後、長崎裁判所で裁判が開かれた。裁判長は河野敏鎌(としがま)という。

    熊本隊の首将池邊吉十郎に死刑を宣告して、「西郷隆盛の逆意に与し」の文面があった。池邊は抗議して曰う、

    「西郷は逆意があったものでは無い。自分も逆意に与したものでは無い。此の宣告を受けては死後西郷先生に話し様が無い。お受けは出来ぬ」と。

    河野曰う、「御尤の次第である、然し死刑だけは受けて貰わねばななぬ」と、

    池邊曰う「死ぬことは厭い申さぬ。」と、終に断頭台の露と消えた。

  • >>3293

    琵琶歌 「城  山」

    夫れ逹人は大観す、抜山蓋世(がいせい)の勇あるも、栄枯は夢か幻か、大隅山の狩倉に、真如の月の影薄く、無念無想を観すらん、何を怒るやいかり猪の、俄かにげきする数千騎、勇みに勇むはやり雄の、騎虎の勢一徹に、留り難きぞ是非もなき、唯身一つを打ち捨てて若殿原にむくいなん。

    明治十年の秋の末、諸手の軍打ち破れ、打ちつ打たれつ軈(やが)て散る、霜の紅葉の紅の、血汐に染めど顧みぬ、薩摩武雄のおたけびに、打ち散るたまは板や打つ、霰の走る如くにて、面を向けむ方ぞなき、木たまに響く鯨波(時)の声、ももの雷一時に、落つるが如き有様を、隆盛打ち見てほほぞえみ、あな勇ましの人々や、亥(い)の年以来養いし、腕の力も試しみて、心に残ることもなし。

    いざだく諸共に仮の世を、脱れ出でんは此の時と、唯一言を名残りにて、桐野、村田を始めとし、宗ともがら諸共に、烔(けむり)と消えし丈夫(ますらお)の、心の中こそ勇ましけれ。

    官軍此を望み見て、きのうに陸軍大将と仰がれ、君の寵遇世の覚え、たぐいなかりし英雄も、げには岩崎の、山下露と消え果てて、うつれば替る世の中の、無常を深く感じつつ、無量の思い胸にみし。

    唯悄然と隊伍を整へ、目と目を見合わす計(ばかり)なり、折しもあれや吹き下す、城山松の夕嵐、谷間に結ぶ谷水の、非常の色も何となく、悲鳴するかと聞きなされ、戎服(戦闘服)の袖を濡らしそうらん。

  • >>3292

    76 海舟の先見と琵琶歌

     明治十四年に菊次郎氏が上京して、海舟に翁が武の屋敷を出るまでの顛末とかを話すと、海舟は、

    「そうであったろう。戦争の起った時、大久保(利通)などは、西郷は決して其の中に入って居ないと云っていた。そこでわしは、「否、西郷は必ず出ている」と云ってやったが、果してそうであった」と云はれた。

    その後、菊次郎氏が再び海舟を訪ねると、誨舟は、「こんなものを作った」と云って何か書いたものを見せられたが、それが今残っている有名な琵琶歌「城山」の曲である。

    最初は可成り極端な事が書いてあったらしいが、海舟の話によると、「友人があまりに酷い酷いと云うから直した」と云うことであった。

  • 75 勝海舟の南洲観―悼詩

     翁と無二の心契ある幕府方の偉人勝海舟(安芳と称す)は、翁の最期を悼み次の詩を詠んだ。
        亡友南洲翁。風雲定大是。拂衣故山去。
        胸襟淡如水。悠然事躬耕。嗚呼一高士。
        只道自居正。豈意紊国紀。不図遭世変。
        甘受賊名訾。笑擲此残骸。以付数弟子。
        毀譽皆皮相。誰能察微旨。唯有精霊在。
    千載存知己。

     (訓読) 亡友南洲翁。風雲大是を定む。衣を払うて故山に去る。

    胸襟淡きこと水の如し。悠然躬耕(きゅうこう)を事とす 嗚呼一高士。

    只道(い)う自ら正に居ると。豈国紀を紊(みだ)すを意わんや。図らざりき世変に遭い。甘んじて賊名の訾(そし)りを受けんとは。笑うてこの残骸を擲(なげう)ち以て数弟子に付す。

    毀譽は皆皮相。誰か能く微旨を察せん。唯だ精霊の在るあり。千載知己存す。

    以上は句々力あり、言々同情に深いものがある。

    その中「笑うてこの残骸を擲ち、以て数弟子に付す」ここが眼目であろう。

    又「毀誉は皆皮相、誰か能く微旨を察せん」とあるが、翁の微旨はいずくに存りしか、海舟を地下に起して問わねば知る由も無い。

    翁や精霊あり千載知己存すと結んであるが、千載を待たず、海舟こそ知己であったであろう。

  • 74  桐野利秋の評
    西南戦争で実地の指揮は桐野利秋がした。翁は唯黙々と成るままに任せた。

    桐野日く。
     「自分は徹頭徹尾何事も捨て南洲翁に同意するということは出来ぬが、但し翁に別れることも出来ぬ。

    何故とならば、自分は死ぬべき場所に死ぬことの出来ぬ奴だ。自分を死ぬべき場所に死なしてくれる人は南洲翁だ、その為一生離れることは出来ぬ」と。


    嗚呼 桐野が翁を死なしたか、それとも翁が桐野を死なしたか、この間の機微は神ならぬ人には判断が出来ぬであろう。

  • 73 後藤象次郎と上原元帥元帥の南洲観

      土佐の豪傑後藤象次郎は翁を評して次の如く言うて居る。

     自分は神武天皇以来西郷南洲を第一等の英雄と信ずる。

     氏は幕末大政奉還を将軍に勧めた第一人者でその前後翁と幾多の関係があった。

    この評は実験から来たのであろう。


      日向出身で陸軍参謀総長を勤めた上原元帥(勇作)は次の如く言うている

    南洲先生が若殿原に一身を捧げたのは、その前月照上人の為に薩摩の海に身を沈めたと同じ心事だ。
      これは人々を首肯させる評であらう。

  • >>3288

     72伊藤博文の南洲観

     伊藤公曰く

    「南洲翁は、天禀(てんぴん)大度にして、人に卓越していた。そして憂国の志が深く徳望もあった。然し、政治上の識見如何と云植えてと、少し乏しいように見える。

    そこで自分も、内閣に立つ事を嫌い。肓判をするのは厭だというので、自分の部下を引き連れて北海道に行こうとした。それが途中で変って鹿児島の私学校となり、遂に西南戦争となったのである。

    兎も角、翁は大人物であったが、寧ろ創業的豪傑であって、守成的人物とは云えなかった。長州の高杉晋作なども矢張り翁と同じ型の人物と思われる。

    翁は大久保利通とは、常に相依り相佐けて、一方は軍事、一方は政治を以て兄弟もただならざる交情であった。然るに、征韓論の時から、政治上の異見の為に従来の親交が破れてしまった。

    然し双方の心中は互に信じ合って居たに相違ない。と云うのは、西南戦争の際に、大久保はその戦争に翁が入っていると聞いて非常に驚き、その時打ちかけて居た碁を止めてしまったと云う一事でもよく解ると思う」と。

  • >>3287

    71 死を畏れず死を求めず・・・犬養木堂評

     翁の死に就て、犬養木堂(毅)は次の如く評して居る。   
     
       畏死、固害返。求死亦害道。南洲之於城山不畏死。
       不決死。坦々平夷。是修練之極矣。

    (訓読) 死を畏るるは固より道を害す。死を求むるも亦道を害す。南洲の城山に於ける、死を畏れず、死を求めず、担々平夷、是れ修練の極なり。

     翁の死はいかにも木堂の評の通りであったろう。道の行者として、天を相手にした翁の最期は永久に天地の荘厳そのものであった。


    木堂は非常な南洲崇拝者でめった。また常に人に語って、

    「乃木大將は真似られるが、南洲翁は真似られぬ。それも薩摩潟入水前の翁は具似られるが、入水後の翁は決して真似られぬ」と云ったそうである。

    つまり海の底に一旦命を捨てて来た翁としては、全く世の中の利害得失から超脱して、その行動が人間離れした事になる。

    これが翁の人格を一層大ならしめた所以である。入水後の翁の一挙一動は一段と神々しい気持ちがする。

  • >>3286

      70 城山籠城の閑日月

     城山寵城後、官兵日にその数と勢とを増し、城中はさながら四面楚歌の窮状であったが、翁は優遊として現状を知らざるものの如くであった。

    時々守備の兵士の処に来て、四方山(よもやま)の話の末、戦争当初よりの官軍戦術を批評して、

    「某所の戦法は川村(純義)の策戦なるべし、某所の戦術は山縣(有朋)の計画に相違なし」などと語り聞かせて打興じておった。

  • >>3285

    69 善か品を呈(あ)げんなら
     城山籠城の際、諸物窮乏の中にも喫煙者は煙草の欠乏を苦しみ、草木の葉を乾してこれを吸用した。

    一日、根古潔(桐野の甥)というもの思うには、今時煙草を所持するは西郷先生の外ある可らずと。因って先生の居所大手囗(照国社裏手上り口)の上なる児玉邸(今、鉄砲台あり)を訪うて、「先生煙草が無かことなりもしたから、少し給はんか」と懇請したれば、翁は、「そうや、そいなら、善かかをあげんなら」と言つつ、やをら身を起して、背の袋戸棚より上等刻煙草の袋を取り出し、封を切り、大部分をわし掴みにしで与えた。

    根占は、翁が座右常用の煙草にても与えらるるかと思ひの外、とっておきの優艮品を惜しげもなく惠まるるに会うて、感激のあまり、おし戴いて還り、それを吸はばこそ「こんとは先生がくいやったとじゃっで死ぬまで御神符にすっとぢやらい」と朋輩に語って大切にした。

  • >>3284

    68 一日接すれば一日の愛生ず
    十年の役、豊前中津の藩士六十三人を率いて薩軍に加わった増田宋太郎は、最後の城山籠城まで參加して九月四日貴島隊の米倉進撃に加わり戦死した。

    その前、郷友某々等に告げて謂う

    「君等は生を全うして故山に還り、我党の赤心を郷人に明かせ」と。

    某々等これを咎めて謂う、

    「生還果して当を得ば、子(そなた)亦何んぞ倶(とも)に去らざるか」と。

    増田慨然として謂う、

    「吾ここに来たり始て親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」と。

    某々等志に感動し、相共にごうぜん時を移した。

  • >>3283

    67 武  村  吉

     翁の故山に帰臥するや、武村の私邸に入り、毎日耕耘(こううん)に従事し、自ら武村吉と称した。

    一日糞桶を荷い行く。

    士人某途上にて下駄の鼻緒をきり、翁を呼び止めてこれを結ばしむ。翁唯々として命を奉じた。

    後幾年翁これを士人に語りたれば、士人驚いて謝す。

    翁は、「益なきことを言い出せり恕(ゆる)して呉れよ」と詫びた。

  • >>3282

        66 跡を棄てて心を学べ             
     翁は維新の大功臣でありながら、最後に賊名を負うて死んだのは如何にも残念であった。

    しかもあらゆる物から超越して、人間離れして居た翁の心事は我々凡情では容易に判断出来ぬ。

    要するに人には跡と心との二方面がある。翁の跡は不幸にも賊名を取ったが、その心は公明正大にして、念々皇運の発展と国民の福利との上に在った。

    さればこそ 明治天皇は後々御贈位もなされ、その子孫を華族にも御取立てになった。

    つまり人間として跡もよく心もよきは幸である。

    その点からいえば翁は不幸に相違ない。

    されば城山の最期に、官軍の弾丸に中って死んだのも、其処に言ひ知れぬ心遣りがあったように思う。

    然し心に活き精紳に活きる人はその光は千秋に輝く。

    後の人は翁の跡を棄てて、その心をこそ学ぶべきである。

  • >>3281

      65 父子の至情
    翁の庶長子菊次郎氏の話に、

    「薩軍が不利で日向に引揚げ、父が宮崎に居た頃、自分は熊本で負傷して宮崎病院に入院しようとしたが満員の為、高岡の病院で養生した。

    当時用事ある度毎に専属の看護卒彌太郎を宮崎の父の許へ遣わした。

    或る時父はその護衛隊長小倉壮九郎に向って、

    「君だけ聞いていて呉れ、自分は彌太郎を連れて高岡の菊次郎の所へ微行したい」

    と云うと、小倉は心配して、

    「それは不用心故、兵隊を四五人連れて行って下さい」と云った。

    父は、

    「兵隊を連れて行く位なら君に相談などしない、それでは止めよう」と、

    そのまま沙汰止みになった。


    その時、父の左右に始終居たのは市来宗介で、彼は一度父子の対面を図ろうと色々便宜を計ったが、父は、

    「それはゆかぬ、沢山の人が難儀して居るのに、自分が息子に会いに行く事は出来ぬ。」

    と云ったそうである。



    その後、自分が再び彌太郎を使いにやると、父は

    「これを倅にやってくれ。」

    とて、刀二本と金子一封を渡した。


    こんなわけで自分はこの時一度も父に会う事が出来なかった。

    これより以前に私が熊本に着陣した時、父の本陣に行くと、父はちょうど午睡の最中だったので、村田新八氏が父を起こそうと云ったが、それを制して、再び夜行ってみると、今度は多勢集まって会議中であったが、私を見て、

    「おお来たか」

    と一言云った。

    これが父との最後の顔合わせであった」と。

  • >>3280

    この時小倉壮九郎(東郷元帥の兄)が、早くも切腹したとの報があった。

    桐野が「何という性急の男じゃなー」と云うた。

    官軍は翁の一隊を見て、好き敵来たれと、つるべ撃ちに銃の囗を向けた。

    逸見が「先生もう此処らで如何ですか」という、翁は微笑して「まだまだ」と言いながら、半町程逞んだ。折しも雨霰の様に降り来たる弾丸は、翁の股ヘブスリと中った。

    翁はもう好しと静かに別府を呼んで介錯を命じ、やがて地上に跪いて容を正し目をつむり、双手を胸の辺で合せ、遙に東の空を拜した。

    これが畢(おわ)って別府晋介の方に振り向き、「晋どんもう好かろう」と言いながら、首を差し伸べた。

    別府は決然横に回り、二尺五寸の太刀を振りかざし、「先生御免」と切り下したが二の太刀で、翁の首は前に落ちた。

    時に年五十三。

    これが二十有八貫五尺七寸の大偉人南洲翁の最後であった。如何にも悲壮な最期であった。

  • >>3279

    64 悲壮の城山
     薩軍は明治十年二月十四日に、二手に分れて北進したが、熊本城下にて壮図成らず、日向の北部に追詰められ、可愛嶽の重囲を突破して、九月一日思い出深き故郷の城山に立ち籠った。

    官軍も段々集り、小競り合いは度々あったが、二十四日に官軍装攻撃と定まった。

    前夜月は皎々と冴へ渡った。

    薩軍では明朝決死との伝令が飛び訣別の杯も取り交わされた。


    暁方(あけがた)四時というに、三発の砲声が響き、官軍は三方より勢鋭く攻め寄せる。薩軍岩崎谷の大砲台は、最も官軍を悩ましたが、一時間の後衆寡敵せず、薩軍の各方面は皆崩れた。

    折しも名残の朝霧は淡く谷間に漂うて居る。

    谷奥に本営を構えた翁は、今はこれ迄と身拵へをなし、新しい縞の単衣に無造作に兵児帯を捲き、草鞋履きに一刀を腰に落し差し、桐野、逸見等の猛将数十人前後を擁して真一文字に谷間を馳せ下った。

    別府晋介だけは脚に負傷して歩行不自由なる為山籠でお供をした。

  • >>3278


       63 西南戦争の軍律、
     昔から何事をするにも規則が大切であるには相違ないが、西南戦争程の大事に何一つ規則規定がなかった。

    そこで出陣前、幹部の人が集って規則を作る相談をしたが、その時の申し合わせに、

    「我々は規則も規定も要らない。西郷先生の言一句を最高の規則規定と決めよう。先生の一言一句には絶卦に反かぬようにしよう」

    「宜しかろう」

    と云うことで、愈々出陣となったが、これで翁の徳望と衆人の一致とがよく解ろう。

  • >>3277

    六二 私学校に於ての挨拶

     翁は武村の住邸を背(あと)に、いよいよ私学校に乗込んだ。

    多勢の人々は待ちかねて迎へた。翁は正面の席に着くと、

    「さて皆さん誠に御苦労でございました、私は後れて甚だ相済みませなんだ。」と挨拶した。

    その時の翁は、武村の翁とは打って変わって、淡々水の如きものがあった。

    「後れて相済みませなんだ」とは何処から来た声であろうか。

    この間に於ける翁の心境の動きは、先生を偲ぶものに何物かを提供するであろう。

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