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南洲先生

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  • 2017/03/16 19:35
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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    nan***** 3月16日 19:35

    >>2975

    すでに熊本城が未だ救われなかった時でも、三月二十七日には福岡に、同三十一日には中津に党薩の暴発があった程であるから、若しこの時官軍に海上権無く、熊本城陷落したということになったならば、それこそ九州一円薩軍に加擔するの一大事を生み出したかも測り知られないのである。

    官軍は幸にして海上権の力により陸兵の行動を敏活ならしめ、熊本城を九死の中に救い出したことは、熊本城との連絡が先ず衝背軍より開けた点に見るも明瞭である。

    熊本城との連絡は即ち薩軍滅亡の第二段落で、全局の勝敗はこの時既に定まったのである。

  • >>2974

    時に薩軍では邊見十郎太、別府新介等鹿児島に帰って新に兵員を募集し、田原坂救援の赴かんとして、官軍の八代上陸を聞き、その背を衝いて熊本の薩軍と夾撃し以て敵を鏖(みなごろし)にする計画であった。

    官軍ここに於て急に兵力を一に集め、八代口に兵を残して進み、海軍は沿岸より之に応援して、遂に背後の敵を人吉に退けた。

    そして官軍の策たる海権利用の結果として熊本に屯集せる薩軍は前面より正面軍に攻撃せられ、背面よりは衝背軍から攻撃せられ、一方には鹿児島との連絡を絶たれたため孤立の姿となった。

    のみならず衝背覃は上陸以来、毎に海路より遙に正面軍と戦略を協議して夾撃したものであって、之には到底薩軍の勝利を得る途が無かった。


    この時若し薩軍にも海軍の準備があり、官軍をして海上権を自由にせしめ能はなかったならば、官軍は決してかくの如き敏活の動作をすることが出来なかったに相違ない。

  • >>2973

    この機に乗じて陸軍は日奈久より上陸し、その内一中隊と警視隊二百名は海路より直ちに八代附近に上陸することとなった。

    これは薩軍の側面を衝かんためである。

    然るに日奈久より上陸した兵は海軍の応援を得て賊勢を挫き、本道より賊を逐(お)うて一気に八代を占領し、海路を進んだ一隊は難なく八代に上陸し、之を根拠地としたが故に、宇土に上陸の予定であった黒田参軍の兵は、その議を一変して同じく日奈久より上陸し、引続き他の軍も上陸して遂に三旅団四千人の衝背軍を組織し、三隊に別れて並び進むことが出来た。

  • >>2972

    然かし兵力不足のため、遂に鹿児島屯在の兵をも衝背軍に加えることになり、先ず別働第一旅団(二千五百人)が編成せられ、玄武、扶桑、神奈川の三運送船に分乗して、春日、鳳翔、孟春の三艦之を
    護送し、陸兵の上陸を掩護しようとした。

    黒田参軍は歩兵一大隊及び警視隊五百人を率い、別に宇土より上陸し八代に至り、同地の薩軍を日奈久よりの上陸兵と挟撃する計を定め、先づ八代を占領して官軍の根拠地とする考であった。

    別働第一旅団即ち三月十九日未明日奈久の近海に至り、偵察したところ同地の西方に薩軍の屯集せるを認め、鳳翔艦をして砲撃せしめた。

  • >>2971

    その大略に曰く。

     衝背の策固(もと)より其当を得る者、速に行わざる可らず。

    聞く鹿児島の兵を転じてその事に当らしめんとす。是或は不可なるものあらん。抑々(そもそも)此回鹿児島の措置の如きは所謂兵に衂(にくか)らずしてその巣窟を得たるものなり。

    祐麿首として砲台を破毀し、砲銃弾薬を収め、船舶を我有に帰し、而して造船所の器械を解脱し、復た用を為さざらしむる等の如き、力の及ぶ所は既に、その巣窟を掃蕩(そうとう)すと雖も、砲銃弾薬楢他に隠匿しあるも亦未だ知るべからず。且つ士の留りて郷に在る者陰に両端を懐き反覆常ならず、況や賊潜(ひそか)に帰りて老幼を煽動し、力を徴募に竭(つく)せり。


      然り而して卒然守を撤す、是幸に巣窟を得て徒に失うに似たり、もし夫れ依然兵を置きその勢を制すれば、賊の援路を断って又賊をして退いてよる所なからしむるの道なり。云々。

  • >>2970


      勅使に随行した黒田陸軍中将が任を了えて長崎に帰るや、衝背(しょうはい)の策を立て、同じ随行員たりし高島大佐亦同様の事を建言した。

     そこでぃよく衝背策は採用せられ、黒田中将を参軍に任じ、之が指揮を命ぜられた。

    然るに当時陸軍は全力を田原坂方面に注いでいたから、勅使護送の兵及び海軍兵を以て衝背軍の一部に加えることとなり、川村参軍より伊東指揮官にその旨伝逹したが、伊東指揮官は之に対して意見書を呈出した。

  • >>2969

    当時船艦の出征に従ったもの十一隻、或は熊本の近海を扼し、或は佐賀の関、細島辺を遊戈(ゆうよく)し、或は鹿児島、博多、下ノ関に向う等、九州の咽喉ことごとく官軍の掌中に帰したので、薩軍海上の交通は全く杜絶するに至り、勢い迂路によって往来せねばならぬようになった。

    その上一層の困難を薩軍に与えたのは、三月八日伊東指揮官が勅使を護衛せる陸兵一大隊半及び警官七百人を海路鹿児島に護送するに当って、春日、龍驤、清輝、筑波四艦の兵員を上陸させ、砂揚、大門口、弁天、砥園、多賀、山東.福ヶ城、新茶場等の諸砲台を破壊せしめたことである。

    それがため薩軍はその根拠地に大打撃を蒙り、兵気を挫いたこと甚大であった。

    是れ要するに海軍力でなければ決して出来ないことであって、薩軍滅亡の第一段落を成している。

  • >>2968

     この戦役中、艦隊勢力を用いたのは大体三方面に分れている。

    一は九州の西岸即ち肥後地方に於てし、一は九州の南岸即ち鹿児島地方に於てし、尚一は九州の東岸即ち豊後地方に於てしたのであるが、最初は九州西岸に主力を用いていた。

    初め鹿児島不穏の報に接したとき、海軍は直ちに出航準備を諸艦に命じ、伊東祐麿が艦隊指揮官となり、清輝、春日の二艦を率いて先ず鹿児島に赴き、孟春、鳳翔、丁卯、東、筑波の諸艦前後して東京湾を出発し、或は九州所々の要害を扼して人心を控制し、或は海上を巡邏して大小となく薩軍の運送船を捕獲し、以て海上交通を遮断した。

    伊東指揮官は種々偵察の上、鹿児島の空虚なる事を知り、陸軍を分遣して薩軍の内援を絶つべく建言したが、その中熊本城が包まれて危機に陷ったので、川村参軍は諸艦を熊本の南方川尻及び八代海に遣し、薩軍の背面より声援を張って陸軍の応援をさせ、二月二十五日には臨時海軍事務局を神戸に置き、以て東西の声息を通じ、諸艦の需要を弁じ、軍の進退を敏活にさせた。

  • >>2967

    第二種船隊
     高雄丸   486  1400   ―  少佐 杉 盛道
     テーボル船 489    85   ―  大尉 黒岡帯刀
     玄 武 丸 400   100   ―  少佐 児玉利國
     肇 敏 丸 494    ―   ―  雇  植田吉蔵
     合  計 1869   1589

    第三種艦船
      東   1282 1200   8  中佐 澤野種鐡
      雷 電  370   128   5  大尉 増田廣豊
      静岡丸  334   192   4  大尉 三浦 功
      通計丸  57 95   2  大尉 山澄直清
      回天丸  76    30   2  中尉 和田義政
      高龍丸  ―    ―   ―  
     合  計 2219 1645  21

     表中のテーポル船は工部省より、玄武丸は開拓使より海軍に付属し、静岡、通計、回天、萬龍の四艘は民有を傭使したのである。

  • >>2966

    第一種艦隊
    艦 名   屯 数 実馬力  砲数  艦 長
     龍  驤 2301  800   14   中佐 福島敬典
     筑  波 1978  500   12   大佐 松村淳蔵
     浅  間 1421  ―    11   少佐 緒方惟勝
     春  日 1296  1200   7   少佐 礒邊包義
     日  進 1382   710   12   中佐 伊東祐亨
     清  輝  884   720    8   中佐 井上良馨
     孟  春  357 191    5   少佐 笠間廣盾
     鳳  翔  316   213    5   少佐 山崎景則
     丁  卯  125   ―    5   少佐 青木住眞
     合  計10,034 4,334  79

  • >>2965

    十一 海 軍 の 活 勧


     十年戦争に於いて、世人は陸軍が苦戦以て偉功を奏したことをよく記憶している。然るに海軍の功力に就ては余り知らぬ人が多い。

    けれどもその実際に就て見るに、陸軍の行動を敏活ならしめ、薩軍をしてその武力を恣(ほしいまま)にせしめなかったのみならず、遂に彼が如き最後に陷らしめたものは、海軍の活動與って力あらねばならぬ。


     当時、その所轄艦船に乗込んだ者一千九百八十一人、海軍付属及び傭船に乗組んだ者二十八人、各地に派遣した者二百七十一人、合計二千二百八十人がこの戦争に従軍した。

    又艦船の数は十九隻で之を三種に分ち、第一種は肥後或は鹿児島附近にあって所々に転戦し、第二種は重に運送を司り、陸兵を所々に護送して上陸させる任に当り、第三種は伊予、土佐の辺海を警備して居った。


    今各艦の勢力及び艦長の氏名を挙げると次の如くである。

       征討参軍 海軍中将兼大輔 川  村  純  義

            大   佐   仁  礼  景  範

            中   佐   有 地  品 之 尢

            中 秘 史   有  馬  純  行

            主計中監    谷  元  道  之

       艦船乗員 少  将    伊  東  祐  麿

  • >>2964

     山口には町田梅之進、田中圓(円)亮、大多和道輔等二百余人、前原一誠の遺志を継いで、五月下旬兵を萩に挙げたが、山口警察隊の激撃するところとなって潰散し、或は戦死し、或は縛に就いて斬に処せられた。

     その他、土佐には林有造、大江卓等があり、紀州には陸奥宗光の部下があり、伊予の大洲宇和島には武田豊城、飯淵貞幹等があり、阿波徳島には井上高格があった。

    彼等は何れも政府顚覆の志を同じうし、西南の風雲を観望して未だ発せざるに先ち、或は政府の為に捕へられ或は計画を中止し、放抛して大事に至らなかった。

  • >>2963

    都城隊長東胤正も亦、十年の役都城隊を組織してより各地に転戦し、九月二十四日岩崎谷に戦死している。

    福島県の坂田諸潔の最後も亦悲壮であった。

    彼は他の同志と同じく城山籠城にまで始終したが、同朋相争うて国力を疲憊(ひはい)するに忍びずとなし、終に野村忍介、伊東祐隆、神宮司助左衛門、別府九郎等に説いて降伏の議を立てた。

    けれども首謀者の故を以て十月二十日長崎臨時裁判所にて死刑の宜告を受け、大山綱良、池辺吉十郎、後藤純平等と共に斬に処せられた。

    もとより降伏は法廷に於てその心事を、天下後世に留め置かんとするの趣旨であったのである。



    筑前には越智武部党があった。

    越智彦四郎、武部小四郎等同志一大隊を組織して薩軍と相応じ、三月二十八日福岡城を攻撃したが成功しなかった。

    その後各地に転戦して四月一日旧秋月城に入ったが、翌日官軍に襲撃せられて衆寡敵せず潰敗して縛に就き、二人共斬に処せられている。

  • >>2962

    今一人の出色せる人物としては、恐らくは佐土原隊総裁島津啓二郎であろう。

    彼は佐土原藩主鳥津忠寛の第三子、幼少降て家臣町田宗七郎の家に養われ一時町田姓を名乗ったが、後島津氏に復した。

    明治二年上京して勝海舟の門に入り、翌年米国に遊学して留まる事七年に及んだ。

    十年の役起るや同士を糾合して砂土原隊を編成し、自らその総裁として薩軍を援け、各地に転戦して遂に城山に入り、九月二十四日城山不落と共に岩崎谷に戦死した。

    この時年二十一歳であったといえばその颯爽(さっそう)たる若殿振りや察すべしである。




    旧高鍋藩主秋月種任の第三子、秋月種事も亦見逃す事の出来ぬ人物であろう。

    風采雄偉、豪傑の資を有し、用兵の術に長じた。

    十年の役高鍋隊を組織して、肥・日・隅の間に転戦し、遂に九月二十四日城山に戦死するまでのその行動は一貫している。

  • >>2961

     如上の中、最も群を抜いた人物は飫肥隊の中心人物小倉処平であった。

    彼は維新の初め上京して大学南校に入り、明治四年英国に留学した。夙に意を経世の学に留め、平生慷慨政府の欧化主義を難じた。

    その志西郷隆盛と同じであったので、郷人は彼を『飫肥西郷』と呼んでいた。

    七年江藤新平が佐賀の乱破れ、鹿児島から潜行した時、厚く之を遇して土佐に逃れしめたのは彼であった。

    後上京して大蔵省七等出仕であったが、十年の役起るや、名を郷里の鎮撫に托して帰り、同志と相謀って飫肥隊を組織し、薩軍に投じて奮戦した。

    八月十七日長井の役に傷を負い、事の遂に或らざるを知り、従容屠腹して死んだ。年三十二。

    後の大外交家たりし侯爵小村壽太郎の如きは彼の推挙を受けて世に出た人である。

  • >>2960

     日向は旧島津氏諸県郡を領し、その余の数郡に佐土原(島津淡路の所領)飫肥(伊東氏)延岡(内藤氏)高鍋(秋月氏)の四藩があった。

    廃藩の時宮崎県を置き、間もなく廃して鹿児島県に合し、十年の役に及んだ。

    薩軍大挙東上するを聞き、日向の有志は先きを争うて之に加担した。

    曰く島津啓二郎、鮫島元の率ゆる佐土原七小隊。

    曰く伊東直記。

    川崎新五郎、小倉處平(おぐらしょへい)の率ゆる飫肥三小隊。

    曰く大島景保、藁谷英孝等の率ゆる延岡隊。曰く秋月種事、泥谷直養、柿原宗敬、石井習吉等の高鍋隊。

    曰く坂田諸潔等の福島隊、曰く東胤正等の都城隊。

    総じて六箇団体を算せられた。此等の諸隊も大抵日向各地の戦闘までは従軍して苦戦している。中には最後まで薩軍に従い、城山で壮烈なる最後を遂げた者もある。

  • >>2959

    【報国隊は一名竹田隊である。 …】
     報国隊は一名竹田隊である。

    五月十三日薩軍の竹田に入るや、堀田政一、田島武馬、井上恰等の同志一千余人を糾合して報国隊を組織し、八月十七日長井の戦に至るまで薩軍に党して健闘した。

    堀田政一が長井で官軍に降った時には部下僅に四十三名となっていた。堀田は大分に送られた後、十月六日斬に処せられた。

     人吉では旧相良藩士那須拙速、犬童治成、神瀬鹿三等の同志が、人吉隊二小隊を組織して薩軍に応じた。

    熊本敗北の後、六月四日人吉亦陥るに及び、別働第二旅団に降った。

  • >>2958

     大分縣からは、中津、報国の両隊が参加した。

    中津隊は増田宋太郎、後藤純乎、梅谷安良等百五十人の組織せしもの、三月三十一日中津支庁を襲撃し、四月五日二重嶺の薩軍に合した。

    後四方に転戦し、生残りせし増田、梅谷等は可愛嶽を突破して鹿児島に入り、九月三日夜貴島清の決死隊に属して米倉襲撃の挙に加わり、奮戦終に戦死した。

    その前日増田は中津隊の同志を招き

     『形勢今日に窮迫しては最早如何ともなし難い、諸君は皆春秋に富み、前途有爲の士であるから、幸に生命を完うして故郷に帰り、我党の心事を天下後世に伝えて貰いたい。』と述べた。


     『今になって我々は皆郷国に帰り、足下一人丈けが義を行おうというのか。我々にして。国に帰るが利であるならば、何故足下独り帰らないか。』と皆の同志が言った。

    増田は之に答へて

     『予は城山に入って初めて西郷先生に会い、景慕の情に堪えない。一日先生に接すれば一日の愛がある。十日接すれば十日の愛が生じて来る。予は先生と生死を共にする決心である。』

    と語り活然として涙下った。


    衆皆之を聞き貰い泣きして一言も無かった。

    増田の死する年二十八、識見気節嶄然(ざんぜん)として群を抜いていた。後藤純平は城山陥落の時官軍に降り、十月二十日長崎で斬に処せられた。

  • >>2957

    熊本から薩軍に応じたものは、熊本、協同二隊の外に、中津大四郎の率いた一小隊龍口隊がある。

    中津は平生国粹主義を奉じ、政府の欧化政策に反対した。

    八月長井の戦に於て万事休し、部下に解散を諭したる後従容として自殺した。


    今、可愛嶽の登り口には苔蒸したる中津の墓石があり、

    『武夫(ますらお)の身はこの山にすておきて、名を後の世に残す嬉しさ。』

    の辞世が刻まれてある。

  • >>2956

     池辺は城山陷るに及び、鹿児島を距る約三里の郡山郷花尾にて屠腹せんと決心している時、遂に官軍の手に捕えられ、長崎に送られ斬に処せられた。


     池辺等の学校党と平生相合わなかった民権党も亦、専制政府を打破する目的を同じうして起った。
    崎村常雄、宮崎八郎、平川惟一、有馬源内等の組織した協同隊がそれである。

    総員三百余名、彼等も亦八月長井の戦に至るまで半歳の間、官軍と戦うて奮闘した。

    而して同志中その名天下に著はれた平川は、三月三日鍋田に、宮崎は四月一六日萩原堤に、何れも早くも戦死している。

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