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南洲先生

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  • 2017/06/24 18:45
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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    nan***** 6月24日 18:45

    >>3029

     上は万世一系の天皇、下は三千余万の国民、その間に介在する勢力を一掃し、七百年来妖雲に蔽塞せられ来った天日の光を、赫々たらしめた西郷隆盛は現世の五十一歳を一期として、己が子弟の作せる悲劇の祭壇に永久の安眠に入った。



     『人を相手にせず、天を相手にせよ。』といい、

     『命も入らぬ、名も入らぬ、金も入らぬ人は始末に困る。しかもこの始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大事を成し得ぬ。』


    と言った西郷隆盛は、生涯その始末に困る人として、天を相手に現世の生を了えた。

     鹿児島市の北なる淨光明寺が丘、前は桜島、後は城山、そこは西郷吉之助隆盛が永久に眠れるところ、『西郷隆盛墓』 の五字を刻んだ一基の碑には、香華の絶ゆる時日とて無い。隆盛の墓を中央にして、桐野、篠原、村田、池上、永山、別府、邉見、貴島、淵辺をを始めとして、その他の諸将士の墓石が累々として左右より取り囲んでいる。

  • >>3028

     維新前より藩を異にしながら死生を倶にし、兵馬の間に馳駆した西郷、廃藩置県の断行に、兵制の改革に終始先輩として相許せし西郷、誠実と友情とを以て不断に教示を受けつつあった西郷、嗚呼その十一歳の年長者であった隆盛の死体は今その眼前に横たわっているではないか。

     山縣は、部下に無礼の態度行動なきやう訓戒を発し、隆盛、桐野の死屍を毛布に包み、二重棺に納め、後厚く之を浄光明寺に葬ることとなった。

    ところで隆盛の誘導を受けた川村参軍、大山高島両少将等鹿児島出身の将校は、せめてその亡骸たりとも手厚く葬り、生前の恩顧に酬いたいというので、大山少将を総代として、隆盛の屍体下渡方を申請して来た。

    然るに鹿児島県庁からも、隆盛を始め各将の死体引取方の願書が出たので、いよいよ県庁に下げ渡すことになった。


    かくて憚り勝ちながらも厳粛な葬儀が旧藩の手で行はれ、隆盛以下三十九名の屍体は旧浄光明寺内に仮葬された。

    その他旧不断光寺に七十六名、草牟田に十九名、新照院に七名、城山に十八名の死体が仮葬された。

    その後すべて改葬されて、現今在る如き瑩域(えいいき)となった。

  • >>3027

     かくて丁寧に目礼して満腔の敬意を彿いつつ熟視すること少時、顧みて諸将に謂って曰く

     『嗚呼、実に立派な死に様だ。少しも平生の温和な容貌と異っていない。我輩をして二百数十日間、一日も心安からざらしめたものは西郷が在ったからである。

    今我が心は始めて落付いた。

    けれども西郷は天下の英雄である。予を知る者翁に若くはなく、翁を知る者予に若くはない。西郷をして今日あるを致さしめたのは千古の遺憾だ。』

    と泫然として涙下った。

  •  官軍の諸将士が折重った薩軍の死屍を検査し、これは桐野、これは村田、これは池上、これは別府と一々その戦死者が判明する毎に、豪壮なる鯨波は再び三度び天地に轟いた。

    それにしても西郷は何処に行ったかと探がし廻ったが、どうも先刻我見した首の無い死体が骨格といい縞の衣服の着流しといい隆盛らしい。

    そこで幼年時代から隆盛に私淑した坂元少佐(純凞に検めさせたが、腕の傷痕と睾丸の大きさとで、一目にそれが隆盛と知られた。

    腕の傷痕は隆盛が少年時代に決闘した記念であった。


     その中、遊撃第二大隊第二中隊の前田恒光という一兵卒が、折田疋助邸前の小溝から砂だらけになった隆盛の首を発見して来た。


    髪を短く刈った鬢髪(びんぱつ)の聊か薄い、丸々肥った隆盛の首級は山縣参軍の前に齎(もた)らされた。


    折よく、そこに飲料水があったので、山縣は参謀長に命じて慇懃に首を浄め泥土を洗い落とさせてから両手を指しのべて之を受け取った。

  • >>3025

    年少の戦死者としては池田彦次郎の十四歳、児玉彦吉、伊地知伝次の十六歳、郷田吉之助.桂兵吉の十七歳等があった。


     降る者二百余名、野村忍介、別府九郎、神宮司助左衛門は熊本鎮台に降り、坂田諸潔は第四師団に降った。

    新納軍八、汾陽五郎右衛門、仁礼新左衛門、長崎金兵衛は一旦縛に就いたが、官軍の為に銃殺せられ、市来宗助、伊東権平も亦縛に就いて、降伏を勧められたが聴かなかったので殺害せられた。


     戦闘は午前四時より九時に至る五時間に亘った。戦収まった時、一陣の風雨驟(にわ)かに起り。雷鳴天地を震撼し城山の戦血を洗い流した。

  • >>3024

    重なる人々は次の如くである。

     西郷隆盛   (五十一)  桐野利秋 (四十)
     村田新八   (四十二)  池上四郎 (三十六)
     別府普介   (三十)   邊見十郎太 (二十九)
     桂 四郎   (四十八)  小倉壮九郎 (三十五)
     中島健彦   (三十)   山野田一輔 (三十四)
     堀 新次郎  (三十四)  蒲生彦四郎 (二十八)
     石塚長左衛門 (三十三)  佐藤 三 二(三十二)
     岩元平八郎  (三十一)  藤井直次郎 (三十三)
     国分壽介   (三十三)  高城七之丞 (三十一)
     嶺崎半左衛門 (三十八)  島津啓次郎 (二十一)
     岩切喜次郎  (三十五)  讃良清蔵  (三十三)
     河野四郎左衛門(四十一)  平野正介  (三十三)
     奧  良之丞 (二十九)  東 胤正  (四十四)
     橋口吉左衛門 (三十一)

  • >>3023

    桐野は敗軍に臨んで意気昂然、毫も屈するの色なく奮闘した。

    岩崎谷に逹するや、自ら銃を執って前面の敵を狙撃し、一変毎に 『ソラ中った。』 『今度は中らなかった。』と叫んだ。

    この時左側の官軍塁上に来り、銃剣を以て桐野を刺さんとした。

    桐野刀を揮って之を払い、更に狙撃を続けたが、忽ち敵丸桐野の右額に中り、鮮血淋漓たるも顧みず、尚も敵中に突入せんとして終に斃れた。

    村田、別府、池上、邊見、蒲生等も亦身に数創を蒙り、従容戈を枕にし相前後して一塁の中に斃れた。

    山野田は白布で鉢巻をしつつ奮闘したが、亦流丸に中り割腹して死んだ。

    かくて一塁三十九人盡く斃れ去ったのは午前七時を過ぐる頃であった。

    この日薩軍の戦死者は隆盛を始めとし、百五十七名であった。

  •  別府晋介、邊見十郎太の二人は隆盛の前後に隨うていたが、『ここらで如何でしょうう。』と聞いた。

    隆盛が 『まだまだ、本道に出てから立派に斃れよう。』と答えた。


    行くこと一丁余りにして四面より集注せる弾丸は倍々加った。邊見がまた迫った。

    隆盛曰く『まだまだ』 

    終に進んで島津應吉邸の門前に来た。


    この時山上の流弾忽ち隆盛の股と腹とを傷つけた。隆盛は別府を顧みて言った。

     『晋どん、もう此処がよかろう。』

    と、徐ろに地上に端坐し、遙かに東方に向って禁闕を拜した。

    この言を聞いて別府は、『左様で御座るか。』

    と直ちに輿から下り『然らば御兔。』

    と一刀を執って隆盛の首を斬り、隆盛の従撲吉左衛門をしてその首を折田正助の門前に埋めしめ、進んで岩崎口の堡塁に逹し、 

      『先生はもう死(な)くなった。先生と死を共にする者は皆来たれ。』

    と呼ばわりながら奮戦して敵弾雨集の中に陣歿した。

  • >>3021

    薩軍の士、当千の猛勇を振ったとはいえ、こう官軍から四面を包囲されては抗し難い。二時間足らずの中に薩軍の堡塁尽く破れて、ただ独り岩崎口の一を余すのみとなった。

    官軍は岩崎谷の山上を占めて三面より谷中に砲火を集中した。


     隆盛を初め、桐野、村田、池上、別府、邊見、桂等四十余名の将士は洞前に整列し、岩崎口に向って進行した。

    国分壽介は事既に已むと見、自ら剣に伏して死んだ。桐野曰く『何と気の早い男だ』
    と。

    一行の進むに従って四方の弾丸急霰の如く、桂四郎は忽ち流丸に中って斃れた。その他の将士も相踵で斃れた。

  • >>3018

    城山陥落 大英雄隆盛の最後

     いよく最後の日が来た。九月二十四日が来た。

    碧落(へきらく)を圧して魔の如く聳立(しょうりつ)する城山の孤峰には、夜が明けるに未だ若干の時間があった。

    午前三時五十五分となるや、突如として轟く銃砲三発、これ官軍総攻撃の合図であった。

    別働第二旅団は内瀬山方面より夏陰の塁を、第二旅団は城ヶ谷冷水方面より後廻り及び城ケ谷口の塁を、第四旅団は淨光明寺坂下より岩崎谷及び城ヶ谷口岩崎山の塁を、第三旅団は南面より二の丸及び照国神社の塁を、別働第一旅団と熊本鎮台とは草牟田方面より新照院越の塁を、新撰旅団は東南より私学校及び旧城稲荷堂方面の塁を、第一旅団は大手口及び廣谷二本松の塁を一斉に攻めにかかった。

  • >>3017

    別府は 『明日のこと愉快極まりない。』と喜んだ。

    邊見は猛獅の如き風姿堂々として辺りを払うた。

    佐藤三二、河野四郎左衛門、野村忍介、別府九郎、神宮司助左衛門、伊藤直二等は夜に入って大小荷駄本部に会し、

    『我等悉く駢死(へんし)せば義挙の趣旨は堙滅(いんめつ)し終り、誰一人として大義名分を明かにする者がなくなってしまう。それ故暫く耻を忍び法廷に立ち、従容として義挙のある趣旨を明かにしてから俎上(そじょう)の肉となろう。佐賀の乱や萩の乱に徴(ちょう)すれば、どうせ我等は一様に同じ運命であるから、ただ死が少時前後するのみである。』

    と議決し、明日再びここに会合することを約して散会した。

    又平野正介はこの夜白布に病院の二字を書し、旗を造って各病院に掲げた。

    その他の諸士も皆思い思いに会合して明日散り去るべき御互の名残りを惜しんだ。中にも狙撃隊長蒲生彦四郎の陣営では、深更に至るまで薩摩琵琶の歌を謳い、切々嘈々の音は城山の樹々にひびき亘った。

    中島健彦は

     『君か為、おもい立田のうすもみじ、時雨れぬ先にちるぞうれしき』 

    と詠じ、橋口春岑は 

    『露ならば草の葉末もあるものを今はわか身のおきところなし』 と賦した。


     秋雨蕭條(しょうじょう)たりし九月二十三日も夕方からはからりと晴れて、軍営に満つる皎々たる月色は明日知れぬ勇士の上に照り輝いた。

  • >>3016

    君幸いに少しく有朋が情懐の苦を察せよ。涙を揮ふて之を草す。書、意を尽くさず。

    頓首再拜。

     川村参軍の命によって河野は留まり、山野田は帰城することとなった。


    かくて山野田が本営に帰って川村との会見顛末を報会したとき、隆盛は決然として 

    『回答の要はない。』と叫んだ。

    桐野を始め、諸将はかねての覚悟ながら、この一言に皆決死の議に賛成した。

    そこで各隊より二三名宛の代表を本営に召集して以上のことを申し渡したが、一同決死して奮闘せんと約した。

  • >>3015

    而して君が麾下の将校にして、善く戦う者は概ね死傷し、薩軍の復た為す可らざるや明かなり。

    将た何の望む所ありてか、徒に守戦の健闘を事とするや。

    説者必ず曰わん。

    西郷は事の成らざるを知ると雖も、その余生を永くせんが為めに千百の死傷を両軍の間に致すを愍あわれ)まざるなりと。有朋固よりその然らざるを知るを以て、君が為めに之を痛惜せざるを得ず。

    願くば君早く自ら図り、一はこの挙の君の素志に非ざるを證し、一は彼我の死傷を明日に救うの計を為せよ。

    君にしてその図る所を得ば、兵も亦尋(つい)で止まんのみ。

    嗚呼天下の君を今日に毀譽するや極まれり。

    国憲の存ずる所は自ら然らざるを兔れずと雖も、惟うに君の心事を知る者も亦独り有朋のみに非ず。

    何ぞ公論の多年に定まる所を慮(おもんばか)らざるか。故旧の情に於て有朋切に之を君に冀望(きぼう)せざるを得ず。

  • >>3014

    然らば則ち今日の事たる、君は初めより一死以て壮士に与えんと期せしに外ならざるが故に、人生の毀譽を度外に措き、また天下後世の議論を顧みざる而己(のみ)。

    噫、君の心事たる寔(まこと)に悲しからずや。有朋が君を知るの深きを以て、君の為め悲しむや亦太(はなは)だ切なり。


    然りと雖も、事既に今日に至る、之を言うも益なし。君何ぞ自ら図らざるや。

    交戦以来已に数月を過ぐ、両軍の死傷日に数百。骨肉相殺し、朋友相食む。人情の忍ぶべからざる所を忍ぶ、未だ此戦より甚だしきはあらず。

    而して戦士の心を問へば、敢て寸毫の怨あるに非ず。

    王帥は兵隊の武職により、薩軍は西郷の為にすと云うに外ならず。

    夫れ数国の壮士を率いて天下の大軍に抗し、劇戦数旬、挫折して猶尾未だ撓(たわ)まず、以て君が威名の実あるを示すに足れり。

  • 顧うに、君が数年に育成せし壮士輩は、初めより時勢の翼相を確知して、人理の大道を履践するの才識を欠き、或いは不良の教唆に慷慨し、或は一身の轗軻(かんか)に悒鬱し、不平の怨嗟(えんさ)は一変して悲憤の殺気となり、再変して砲烟の妖気となる。

    君の名望を以てするも尚之を制馭すべからざるに至る。

    而してその名を問えば則ち曰く西郷の為にするなり。

    その議を聴けば則ち曰く西郷の為にするなりと。

    情勢已に迫る、此の如くそれ然り。


    君が平生故旧に篤きの情空しく、この壮士輩をして、徒(いたずら)に方向を誤りて死地に就かしめ、独り余生を全うするに忍びず、是に於いてかその事の非なるを知りつつも、遂に壮士に奉戴せられたるに非ずや。

  • 而して今日薩軍の公布する所を見るに、罪を二三の官吏に問わんと欲するに過ぎず。是れ果して名義に適せりとせんや。

    佐賀の賊、先に誅せられ。熊本、山口の叛、後に敗れ、天下の士民は漸く自省の志を立んとす。是れ果して掲旗の好機を得たりとせんや。君の老練明識豈之を知るに難からんや。

    而して今日あり、君の与り知る所に非ざるを見るに足るなり。

    説者曰く、天下不良の徒は、密に西郷が山林に鞱晦(とうかい)せしを奇貨とし、功名を萬一に僥倖するの念を懐き、その時勢に阻隔(そかく)するの機に乗じ、百方その辞を巧にして、朝廷の政務を讒誣(ざんぶ)し、人心離散して黎民(れいみん)その生を聊(りょう)せざるが如き妄説を虚構し、西郷出でずんば蒼生(そうせい・人民)を奈何せん。

    西郷にして義兵を鹿児島に挙げ、人民の塗炭に墜つるを救わんと欲せば、天下靡然(びぜん)之に応すべしと慫慂(しょうよう)せしもの、蓋し一にして足らざるなり。

    西郷の卓識を以てその虚構たり、讒誣(ざんぶ)たるを洞察するに難からずと雖も、奈何(いかん)せんや浸潤の致す所は、衆口以て金を鑠(とか)し、遂に西郷をして今日あるに至らしめたりと。

    聴者皆之を然りとす。

    有朋独り之を然りとせず。

    蓋し君にしてこの志あらば、単旗にして輦下(れんか)に来たり従容利害の在る所を言上するに何の妨げあらんや。君亦固より之を知らざるに非ざるべし。

    是有朋が説者の言を聴いて君の心を獲たりとせざる所以なり。

  • >>3010

    曰く、

    辱知生山縣有朋、頓首再拜、謹んで西郷隆盛君の幕下に啓す。

    有朋が君と相識(し)るや茲に年あり。

    君の心事を知るや蓋し又深し。

    曩(さき)に君の故山に帰臥してより已に数年。その間馨咳(けいがい)に接するを得ざりしと雖も、旧朋の感は豈一日も有朋が懐に往来せざらんや。

    図らざりき、一旦滄桑(そうそう)の変に遭際し、反て君と旗鼓(きこ)の間に相見るに至らんとは。


    君が帰郷せしより以来、世論の鹿児鳥懸士に於けるその異情を云々する者、概(おおむ)ね皆曰く、西郷某謀主たりと。曰く西郷はその巨魁たりと。

    有朋独り之を排斥して然らずとせしに、今にして乖離(かいり)す。鳴呼復た何をか言はんや。

    然りと雖も竊(ひそか)に有朋が見る所を以てすれば、今日の事たる勢の不得已(やむをえず)に由るなり。君の素志に非るなり。有朋能く之を知る。

    夫れ君の徳望を以て、鹿児島縣壮士の泰斗(たいと)たり、寔(まこと)に君にして初より異図を懷かば何ぞその名なきを憂いんや。何ぞその機なきを苦まんや。

  • 『征討の御趣旨は解った。けれども西郷隆盛の如き曠世の英雄を、我等と共にムザムザと殺して仕舞うことは国家の為に惜しむべきである。何とか之を救うべき良策は無いであろうか。」

    と、今度は二人が相談を持ちかけた。


    『今となっては致し方もない。官軍は明曉総攻撃をすることになっている。城山に帰ったならば西郷に告げるがよい。若し何か余に言い度いことがあれば、官軍の陣に来たれと。けれども戦期既に迫っているから、必ず本日午後五時を過ぎてはならない』   
      
    と川村の語るところは沈痛である。

    川村は更に言い足した。

    『オオ、西郷に会つたなら、川村純義が居るから小供の始末は引受けたと伝えて欲しい。』
    と。

    この時坂本少佐が来て、山縣参軍の書を山野田に托した。この書はどこまでも隆盛の衷心に同情を表した熟誠の籠ったものであった。

  • >>3008

     隆盛の胸中何の降服があろう。ただ飽くまでも大義名分を明かにし、挙兵の趣意を法廷に於て争わしめること以外には無かったのである。

    一方河野、山野田の二人は別働第一放団の守線に至り、使節の旨を以てしたが、官軍では二人を投降者或は罪人同様に取扱い、一日中彼方此処を引廻した後、翌日漸く川村参軍に面会させた。

    川村は従容として来意を問うた。

     「我等今回の挙たるや、国家の忠良たる西郷隆盛を暗殺せんとする奸臣の罪を問うに在る。

    然かも籠城既に久しく弾薬糧食共に尽きんとしている。我等賊名を受けて一死あるのみ。

    の機会に政府征討の御趣意を承りたいものである。』

     と二人が質ねた。


     『刺客のことが事実であったならば、内務卿であらうが大警視であらうが告訴糺問する道がある。その道に由らずして妄りに中原等の口供を信じ、兵を挙げて自らその罪を間わんとするが如きことは根本に於てその道を誤っている。

    西郷が陸軍大将であらうとも、擅(ほしいまま)に兵馬を募り凶器を弄するは国憲を犯すものでなくて何であろう。

    最初 聖上陛下には深く御軫念(しんねん)あらせられ、特に余を鹿児島に遺わして西郷を説得せしめんと遊ばされたのである。

    然るに余が高雄丸に搭じて行くと、私学校徒が憤激して本艦を奪おうとしたので、余は遺憾ながら聖旨を逹することが出来なかった。征討令の下ったのは之がためである。」

    と厳かに川村が答えた。

  • >>3007

     今般河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣わし候義、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法廷に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵し、此城を枕にして決戦致すべく候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要に之有るべく候也。

     九月二十二日            西 郷 吉 之 助
         各 隊 御 中

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