ここから本文です
  • 安倍叩き社説でNYタイムズが 姑息な訂正を掲載

    週刊文春 3月13日(木)18時1分配信



     安倍首相叩きを執拗に続けてきたニューヨーク・タイムズが3月5日、社説の訂正を出した。同紙がこの種の反日記事の訂正を出すのは初めてで、明らかに日本側からの抗議を認めた形となった。

     ニューヨーク・タイムズは3月2日の電子版の社説で「安倍氏の危険な修正主義」と題し、安倍晋三首相を「日米関係にとっての脅威となるナショナリスト」とか「歴史を否定し、改ざんする修正主義者」と決めつけた。社説は安倍首相が南京虐殺を全面否定し、安倍政権は慰安婦への謝罪をすべて撤回するようだとも述べ、河野談話の破棄をも示唆していた。

     日本側では菅義偉官房長官がすぐに同社説には重大な事実誤認があるとして、ニューヨークの日本総領事館を通じて同紙に抗議したことを明らかにした。抗議は主に「南京虐殺否定」を対象とし、訂正を申し入れたという。

     そんな経緯のなかでニューヨーク・タイムズは5日、同じ電子版に「訂正」として以下の記述を載せた。

    「当初のこの社説は『安倍政権が日本軍により性的奉仕を強制された韓国女性たちへの謝罪を撤回するだろう』と不正確に述べた」

     この訂正は2日付の社説の更新版の末尾に目立たない形で申し訳のように記されていた。そして更新された社説の慰安婦部分は「安倍政権は日本軍により性的奉仕を強制された韓国女性たちへの謝罪を見直す」とだけになっていた。つまり「安倍政権による慰安婦への謝罪の撤回」という部分だけを取り消したわけだ。

     しかも訂正は、日本側が最大の事実誤認だとする「安倍首相の南京虐殺全面否定」については言及せず、変更なし。安倍首相は南京虐殺がまったくなかったなどと主張したことはないから、同社説の誤謬は明白である。ゆえにこの訂正は体裁を取り繕っただけの、なんとも姑息な対応だった。

     しかしながら、ニューヨーク・タイムズがこの種の日本攻撃社説でミスを認め、訂正を出したことは前例がない。日本側としては非を糾(ただ)す抗議伝達がいかに重要かを示す教訓になったといえる。

     ところで、同じ慰安婦問題の誤報や捏造が頻繁に指摘される朝日新聞が米紙のように非を認めるのはいつだろうか。


    <週刊文春2014年3月20日号『THIS WEEK 国際』より>
    .
    古森 義久(在米ジャーナリスト)

  • <<
  • 9 1
  • >>
  • 南京大虐殺(南京事件)は、1937年12月、中国への侵略戦争の中で旧日本軍が当時の中国の首都・南京を攻略・占領し、中国軍兵士だけでなく、捕虜や一般市民を虐殺した事件です。女性の強(ごう)姦(かん)、略奪をはじめ数々の残虐行為が行われました。

     虐殺のとき、南京にいたジャーナリストは、それぞれが惨状を記事にしています。

     ニューヨーク・タイムズのF・T・ダーディン記者は「大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた」(37年12月17日電)、「塹壕(ざんごう)で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された」(同年12月22日電)と報じています。

     シカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者は「(われわれが)目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた」「この門(下関門)を通ったとき、五フィート(約一・五メートル―訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた」(37年12月15日電)、「私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た」(同年12月14日電)と報じます。

     イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンの中国特派員H・J・ティンパーリーは報道した内容をもとに『戦争とはなにか―中国における日本軍の暴虐』をまとめ、38年にロンドンとニューヨークで発行しています。

     事件当初から、「世界は無視をした」どころか、日本軍の残虐性を批判していました。

    http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-06/2014030601_03_1.html

  • >>7

    エピソード

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
    出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)

    アメリカ留学時代、快活でぽっちゃりとした宋美齢は、悪戯好きで、それを見咎められると巧みな話術で言い逃れるのが常だった。友達と喧嘩していつまでも責め続け、教師に厳しく叱られても、「いいえ、先生、やってみると案外楽しいものですよ」と、茶目っ気たっぷりに答えた。


    蒋介石の解放を張学良に訴えるために西安に向かった際、飛行機が着陸する寸前にハンドバッグから拳銃を取り出し「もし張学良が私のことを捕まえようとしたら、この拳銃で私を撃ってね」と言い、もし蒋介石の解放が実現せずに自分自身も監禁された場合、蒋介石と心中する覚悟であったといわれている。

    1938年1月5日付でアメリカの友人宛に手紙を書き送っている。その中に、当時、南京から脱出していた宋美齢によって書かれた、「上海-南京間」での大日本帝国軍の行状に関する記述が在る。 「最初に殺戮が始まった時は、それはたまたま行われたものと思われていました。しかし、時が経つにつれて、それは可能なかぎり中国人を殺すという、計画的意図に基づいたものであることが判明したのです。日本は中国に手を出し横領しようと決意してから、まず中国北部に殺到し、そこをアヘンと麻薬を使って支配いたしました。それは、人民の戦意を挫き、民衆から抵抗の力を抜き取ってしまうためでした」
    「彼らは上海と南京の間で五体満足な男性すべてを一人ずつ、あるいは束にまとめて射殺しているのです。わずかに生き残った五体満足な男は、日本軍の使役を強制されています。南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました」と、友人に訴えている。

    同上の、1938年1月5日付アメリカの友人宛の手紙では、更に、アメリカに対する宋美齢の要求も述べられている。 「中国において私たちは、補給が得られる間は戦えます。しかし、もし補給が得られなくなれば私たちは敗北することになりますが、それはアメリカとイギリスおよび他の諸国が日本を助けたがゆえに中国は敗れて亡びるのであって、日本自体に負けるのではありません」

  • >>5

    反共運動

    1950年には「中華婦女反共抗ソ聯合会」を設立し自ら会長に就任し、中華人民共和国の国際連合加盟反対のための活動を国内外で行うなど、冷戦下において中国共産党政府との対立を続け、中国大陸への反攻を通じて国家再統一を図った蒋介石を、かねてからの盟友であるアメリカや西側諸国との連携のもとに支援した。

    また、これらの政治活動に併せて、キリスト教徒として国際赤十字運動の活動に対しての支援を国内外において積極的に行うほか、国内外の各種保守派団体の要職を務めるなど、大戦時に引き続き欧米において積極的に蒋介石、そして中華民国のスポークスマン兼ロビイスト的役割を果たし続け、その結果1950年代から1960年代にかけて世界各国のマスメディアでその動向が大きく取り上げ続けられた。

  • >>5

    国共内戦

    蒋介石とともに台湾を訪問する宋美齢(1946年)

    第二次世界大戦の期間を通じて蒋介石と宋と親しい関係を保ち、協力を惜しまなかったルーズベルト大統領は、第二次世界大戦末期の1945年4月に死去し、後任にはハリー・S・トルーマンが就任する。

    同年8月の日本のポツダム宣言受諾により、中華民国内にいた日本軍も中華民国軍に降伏し順次同国内より撤退したが、日本軍の撤退という力の空白が生まれた中で、その後間もなくソ連からの援助を受けて勢力を増した毛沢東率いる中国共産党との間に国共内戦が勃発した。

    これに対して、蒋介石は軍事援助の増強をトルーマン大統領に申し出るが、ルーズベルト時代よりソ連のスパイが国務省や政権内部に深く浸透していた上に、ルーズベルトのように蒋介石や宋美齢とのとの個人的関係も、中国に対しての親近感も持たないトルーマン政権は蒋介石と距離を取り、蒋介石の希望とは逆にアメリカからの軍事援助が削減された。

    国境を接するソ連からの潤沢な軍事支援を受けた共産党軍に押されて東北地区を失った後、国民党軍は敗走を続け、その後沿岸地域の拠点も失い、1949年に蒋介石や宋美齢が多くの国民党幹部らと共に台湾へ撤退し、台北を臨時首都とした。中国大陸には北京を首都とした共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立した。

  • >>4

    蒋介石のスポークスマン

    宋美齢は親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻エレノアと親密な関係を構築し、日中戦争から第二次世界大戦に至るアメリカの対日政策に大きな影響を与えたといわれる。

    第二次世界大戦中の1942年11月から1943年5月には、ルーズベルト大統領直々の招聘でアメリカを訪問し、アメリカ政府の全面的なバックアップを受けてアメリカ全土を巡回し自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。特に1943年2月18日には、ワシントンD.C.のアメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦へのさらなる協力を求める演説を行い、並み入る連邦議員のみならず全米から称賛を浴びその支持を増やした。

    同時期に抗日戦へのアメリカ市民からの義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、メアリー・ピックフォード、ハンフリー・ボガートやキャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンなどの多数のハリウッドスターから大きな称賛と金銭的なものを含む支援を受けた。

    また、アメリカをはじめとする連合国における抗日戦のシンボル的存在として蒋介石とともに『タイム』誌の表紙を飾るなど、第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、そして夫で英語を話せない蒋介石のスポークスマン兼中華民国のロビイスト的役割を果たし、アメリカをはじめとする連合国における中華民国、そして日本に対する世論に大きく影響を与えた。

    また1943年11月には、蒋介石とルーズベルト、イギリスのウィンストン・チャーチルがエジプトのカイロに集まって戦後の対日処理を決めたカイロ会談にも蒋介石とともに同席し、蒋介石の通訳を務めた。

  • >>3

    日中戦争

    1937年に日本との間に勃発した日中戦争では、当時中国や満州国で日本との利益対立を深めていたアメリカからの軍事援助の獲得を目指し、「国民党航空委員会秘書長」の肩書で、蒋介石の「通訳」として、駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルやアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート大佐との交渉に同席し、アメリカからの有形無形の軍事援助を引き出し、日中戦争中から第二次世界大戦の初頭にかけて日本軍と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や、日本軍に比べて比べ物にならないほど遅れていた中華民国空軍の近代化に大きく貢献した。

    姉妹がウェルズリー大学の卒業生で、『タイム』や『ライフ』の発行者であるヘンリー・ルースは、日中戦争の間を通じて反日キャンペーンとともに対中支援キャンペーンを行い、『タイム』の1937年度「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に日中戦争を戦う蒋介石を選び、誌上でアメリカ市民に対中支援を訴えるなど、宋に協力を惜しまなかった。

  • >>2

    蒋介石への影響

     アメリカ連邦議会で演説を行う宋美齢(1943年)
     カイロ会談で蒋介石、ルーズベルト、チャーチルとともに(1943年)

    蒋介石は、結婚翌年の1928年に国民党軍総司令の地位を回復し、続いて国民党中央執行委員会の主席、国民政府主席となり、宋美齢も1930年から1932年までの間は、蒋介石の支援の下に、中華民国立法院の立法委員として、また国民党中央執行委員会の委員として国民党内にも多大な影響力を持った。

    また、1936年12月に起きた西安事件においては、張学良軍に捕らえられ、その後西安市内の高桂滋公館に監禁されていた蒋介石の解放に向けて自ら西安に飛び、張学良や楊虎城との会談を行い蒋介石の解放へ向けた折衝を行うとともに、蒋介石に対しては、敵対する張学良軍や中国共産党軍との「統一戦線」の構築(国共合作)による抗日を訴えるなど、生涯を通じて蒋介石の政治的決定に強い影響力を有した。

  • ウィキペディアより

    9歳のときに姉・慶齢と共にアメリカに留学し、中学校、高等学校時代を留学先のジョージア州メイコン郊外の高級住宅街で過ごした。この時に身につけた流暢な英語が、後の政治活動に大きな影響を与えることとなる。なお、あまり勉学に熱心なタイプではなく、学内行事では学生を代表して旗手を務めたり、チアリーダーとしても活躍した。

    ジョージア州の高校を卒業した後に、メイコンの女子大学・ウェスレイアン大学に一年間在学してからマサチューセッツ州にある名門女子大学であるウェルズリー大学に入学し、1917年に同校を首席で卒業した。

    なお、この頃よりアメリカ系フリーメイソンリーと関係の深い「イースタン・スター」フラタニティの会員であったといわれ、中華民国に帰国した後は、布教活動に熱心であった父の意を受けて同国内においてキリスト教の布教活動を行う。

    蒋介石との結婚

    その後1920年に、後に中国国民党党首で中華民国の指導者となった蒋介石と上海市内の孫文の旧居で出会い、約7年の交際を経て1927年9月にプロポーズし、11月には日本に滞在していた宋美齢の母親に結婚の承諾を経て12月1日に結婚した。

    孫文を継ぎ、中華民国の若き指導者となった蒋介石と、同国の名家の出身で、アメリカへ留学し大学を含む高等教育を受け洗練された立ち振る舞いと流暢な英語で欧米でもよく知られた宋美齢の結婚は、中華民国内のみならずアメリカや日本、イギリスなど世界各国で大きく報じられた。2人の結婚のニュースはニューヨーク・タイムズの1面を飾ったほどであったが、一部には「政略結婚」と揶揄する向きもあった。しかし実際は普通の恋愛結婚であった。

    12月1日に行われた結婚式は、宋家の客間においてキリスト教形式で行われたが、蒋が離婚経験者であることから牧師は立てず、中華キリスト教青年会全国協会総幹事がその代理役を務め、蔡元培が立会人を務めた。なお、蒋介石は亡命先の日本で結婚式を挙げた孫文に倣って、結婚式を日本で挙げたいと考えていたことが明らかになっている。しかしながらこの意向は、日中関係の悪化を懸念していた母親の反対で実現しなかった。

    披露宴は、上海の共同租界にあり、上海でも有数の規模を持つ高級ホテルであった大華飯店(マジェスティック・ホテル)内の最大の宴会場で行われ、宴会場には孫文の遺影と中華民国の国旗、党旗が掲げられた。参列者は日本やドイツ、アメリカやベルギーをはじめとする各国の総領事や中華民国の政財界の有力者など1300人を超え、その後2人は浙江省への新婚旅行に向かった。

    なお蒋介石は、宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻や複数いた愛人と別れ、宋美齢とその両親と同じキリスト教に改宗することを宋美齢に約束しなくてはならなかった。蒋介石は実際に結婚後の1929年に上海のメソジスト教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。

並べ替え:
古い順
新しい順
アプリでサクサク「掲示板」を見る Yahoo!ファイナンス公式アプリ
Yahoo! JAPANからの口座開設限定!最大32,000円キャッシュバックキャンペーン