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    snow 2013年6月9日 23:15

    http://youtu.be/Eak5ERhUTP0
    同好の皆さんご機嫌いかがですか。
    武術を練習する、しないの如何を問わず、今日国内外で内家拳という一つの言葉が
    知られるようになり、現在、内家拳は共通語にもなり一般に受け入れられるようになりました。
    そしてこの言葉と関連して更に不思議な名称、すなわち外家拳があります。
    中国武術を技術的な側面と特性で、一つを内家拳、もう一つを外家拳と呼ぶのです。
    更に三つ目として、不思議なことですが皆が自分は内家拳だと言っていることです。
    誰一人として外家拳と言いたがらないんです。面白いことだと思いませんか。
    実際の話、まず第一に、武術上は内家、外家と門派分類することはできません。
    一方は中国語系、もう片方は外国語系とかね。それとも、レベルの高低をあらわしている
    のでしょうか。
    カンフーは、何事を習うでも同じように初級から段々上級へ進みます。
    まず小学校で勉強をはじめ、中学、高校へ、そして大学へと進むのと同様です。
    さらにいうと、中国武術は入門のときから内外の両面から学んで行きます。
    ですから外家拳というのは存在しないのです。
    あなたが小学、中学、大学へというように習熟して行けば内面的な能力は、はた目にも賞賛をもって分かってもらえるようになります。
    多分、歴史的にいって明朝末期において一旦は内家拳の三文字ができたのだと思いますが
    清代300年においてこの言葉はポピュラーではありませんでした。
    清代の盛衰に従い、内憂外患の戦乱のさなか、考えても見てください、どうして内家拳で兵を訓練す
    ることができましょうか。
    内家拳において、清代末期、武術が近代的兵器に徹底的に敗北してから一部の武術家からの提唱により革新と復古運動が始まりました。
    そして特に、形意、八卦、太極の三つの門派を内家拳というようになり、これらは内家三拳と呼ばれ
    ます。
    こういう呼称は以前にはありませんでした。武術の近代から現代の歴史の中で新しい発明や創造が
    なされてきました。
    武術は戦いがなければ淘汰されされるべきものです。しかし中国武術は内運外動とでもいうべき技法により人を殺すどころか、その神聖なる功能で人を救うようになります。
    これは中国人として光栄なことです。人類の武術史上における偉大な成果であります。
    そこで一つ重要なことは、私たち武術を志す者は厳格な鍛錬を維持しなければならないということです。
    その武術的な技法を行うことと引き換えに身心の健康も得られるのです。
    もし私たちがいわゆる内家拳というものを誤解しており、外家拳なるものを非常に不公平に軽んじていて
    鍛錬を全て簡略化、単純化しやりやすく快適なものにしていたら真の鍛錬にはなりません。
    その見返りとして武術的な功能は身につかず、放棄することとなるのです。
    これでは身体を強くし健康になるという目的を達成することはできません。
    私たちは別に内家拳という言葉に反対ではありません。
    どのような拳であろうと拳であることに変わりないのです。
    必要なのは鍛錬において必須の眼目が具備されているかなのです。
    これを通じ、昔は家、国を守るための殺人放火の類だった武術が現在の健康長寿のための鍛錬法に
    姿を変えたのです。
    内家拳が力が抜けて簡単そうだからといって安直にやらないでください。それでは鍛錬を放棄したことになりとても健康効果など得ることはできません。

    我們必須維持武術嚴格的要求
    只有從武術的功法執行中
    才能換得我們身心的健康 徐紀

    私たち武術を志す者は厳格な鍛錬を維持しなければなりません。
    その武術的な技法を行うことと引き換えに身心の健康も得られるのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/3L8nVQaPR9c
    同好の皆さん 形意拳は武術として皆の憧れの的となっています。
    私たちも形意拳の練習をしていますが大変興味深い武術です。
    各地、各家伝の形意拳は多種多様です。
    形意拳もその他様々な流派と同様、もともと門派により伝授の仕方が違い
    練習方法も一様でないため一概に比較することは困難です。
    でも一つだけ強調されるべきことがあります。
    いわゆる「形」とは上下前後の全身を一体化させることで完全となり個別的なものではないのです。
    上下、前後の身体が繋がらなければ不十分なのです。
    形意拳の練習でもっとも避けなければならないことは、両手が身体の前面で忙しく行ったり来たり
    することです。
    上体は足の歩みとバランスがとれていなければなりません。
    しかし背面の働き無しで前面が拳を五つ、十五、五十と打っても
    後ろの身体が利いておらず協働しないため、いくら練習しても身体の後部、背面の力が
    全く作用しないのです。
    ですから、このことは形態上非常に重要な原理原則なのです。
    それは単に一つ一つの動作上のみならず、くいろいろな局面に適用されなければなりません。
    大切なことは型の上で全身が働くことで、あたかも陸海空の三軍を総動員した連合大作戦が
    行われるかどうかなのです。
    次は形意拳の「意」という字についてお話ししましょう。
    意とは好きとか可愛がるという意味ではありません。
    また、いかに熱心に鍛錬に励むということでもありません。
    品や徳の鍛錬が意ではないということをしっかり押えておいてください。
    形意拳の一挙一動は常に形と意識を連動させなければなりません。
    形意拳の練習する際、形と意識の結合的操作が一つの眼目となることを理解してください。
    意識もまた鍛錬の一部分です。身体操作において意識もまた内在し、それによって
    外に表現される動作、型が実のあるものとなるのです。
    ですから形と意識は常に連繋しているのです。いついかなるときも共存している訳です。
    形意拳の最後の一文字は「拳」です。すなわち武術なのです。
    練習方法や身体を鍛えるというものではないのです。
    ではなぜこのことが強調されるのでしょう。
    形意拳は単なる武術であるのみならず武術の厳格基準としての性格があるからなのです。
    そこには攻撃と防御があり、それが生と死が左右します。
    だから厳粛に捉えられなければならないのです。
    このような心構えで臨むなら、必ずや、全ての武術の動きに追随することが可能です。
    突き蹴りのいづれにも厳格な規範があり、厳格な鍛錬が要求されます。
    それがあってはじめて肉体的かつ精神的な健康がもたらされるのです。
    「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」の視点でなく、「心臓」「肝臓」「脾臓」「肺臓」「腎臓」
    という肉体的視点からです。
    形意拳は戦うことをやめてから健康に資する武術となりました。
    しかし重要な点は正しくあるべきなのです。時を重ね、その動作は間違った方向へ向かいました。
    この拳の真髄を理解せずにいくら練習しても健康や楽しい人生のためには徒労となるでしょう。

    打拳踢脚
    都一定遵循著嚴格的規範
    而也唯有嚴格的鍛錬
    才能帯來給我們心身的健康 徐紀

    突き蹴りのいづれにも厳格な鍛錬が要求されます。
    それがあってはじめて肉体的かつ精神的な健康がもたらされるのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/_o3pYtN8X_0
    同好の皆さんご機嫌いかがですか。
    形意拳は中國武術の有名な門派です。
    我々だけでなく欧米各国の人たちにも伝承され修業されています。
    しかしそのように高名な門派も入門の訓練は五行拳で「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」の単純な5つの動作だけなのです。
    本当にそうなのでしょうか。
    五行拳を学ぶ者は皆「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」から始めます。単にこれらの単純な動作に過ぎないのでしょうか。そこに何が内在しているのでしょうか。
    私たちは曹連舫師匠から、昔の達人たちが一生を通じ形意拳を学び、年をとると皆また「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」の五行拳に還るのを見てきたことを聞きました。
    なぜでしょう。不思議じゃありませんか。
    形意拳はそれほど難しいのでしょうか、それとも彼らには才能がないのでしょうか。
    一体何をしようとしているのでしょう。探求して見ようではありませんか。
    武術 武術はすなわち戦闘の技術です。それは一面技術であり、一種の科学でもあるのです。
    なぜならそれによって生死が決まるからです。したがって絶対的な科学ともいえるのです。
    生きるか死ぬかにやり直しはききません。
    だから武術の修業は真剣な態度で行われるべきなのです。そして正しい練習をしさえすれば
    長らくやるうちに必ず成果を得ることでしょう。間違った練習をしない限りですよ。
    間違った練習方法は百害あって一利無しです。鍛錬方法も不正確、それではどんなに練習しても
    徒労に終わるのです。
    ですから武術の練習で最も重要なのは入門なのです。正しい方法を見つけて下さい。
    よくしたもので、昔の名人たちはあえて秘密にしたのです。いくつかの簡単な鍛錬で大きな推進力が
    得られる、それは多くの弟子たちを魅了しました。
    形意拳といえば「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」の練習ですが、十分に学習するには
    その細かい内容の探求を疎かにしてはなりません。
    このような形意拳は健身法として有効でもあります。運動は健康のためになりますから
    しかし、このことがおそらく形意拳にとって武術的な継承と発揚において問題となっているのです。
    武術を習ったことがないない人、普通の人でも格好がつくのです。
    昔の形意拳の名人たちは絶対にこのような安直なことをしなかったでしょう。
    「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」だけの五行拳のような上っ面の修練ではなく
    実のある基礎訓練のもと高度な訓練に到達するのです。
    それでは五行拳のようなものの正しい解釈はどう見つければいいのでしょう。
    答えはあくまで五行拳の中にあるのです。中に入って掘り当ててください。
    ひたすら、手抜きをせず一心不乱に、心は繊細にかつ大胆に、当然のことその上本気で辛い鍛錬に
    取り組まねばなりません。
    「裂く」「突く」「射抜く」「砲撃する」「交差する」の五行拳をばらばらに分解し形意拳を消化し
    その精髄を汲みとって下さい。
    このような練習法を海外へ伝え、次の世代へ受け渡すこと、このことが正に形意拳を振興する
    ことなのです。

    武術就是武打的技術
    它是一門技術
    它是一種科学
    因為他以決生死
    所以它更是絶對的科學 徐紀

    武術はすなわち戦闘の技術です。
    それは一面技術であり、
    一種の科学でもあるのです。
    なぜならそれによって生死が決まるからです。
    したがって絶対的な科学ともいえるのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/XlbX4J-zttY
    同好の皆さんこんにちは
    中国の伝統剣術の技法には二つのタイプがあります。
    一つは隙をつくこと、もう一つは敵と一体になる(捉えて離れない)ことです。
    武術愛好家の皆さんは剣もお上手だと思います。
    相手の動きに點き従う技法は剣のみならず中華武術の真髄であることは
    皆さんご理解いただけますね。
    剣以外にも拳法には全てこの點き従う技法が含まれています。
    そして進んだ武器だったらその他の武器にも全てこの技法が含まれているのです。
    私たちは皆、剣すなわち中国剣術の研鑽に勤しんでおりますが
    その技法は武術家達によって點き従う技法が開発されたことにより生成発展を遂げました。
    剣はただ、一つの突端と諸刃を持つ三方向に鋭利な武器というだけではありません。
    なぜなら、それに加え剣身があるからです。それも人を殺すことができないような鈍った剣身でも
    かまいません。
    それでどんなことができるのでしょう。それで充分點き従う技法の体験ができるのです。
    敵の攻撃を防御し、敵の間隙を突く、それで敵の懐に入り込み仕留めることができるのです。
    伝統剣の中に昆吾剣という有名な套路があり、沢山の分派があります。
    まず昆吾剣の単練から始めてみましょう。
    単独動作を練ってください。その中に、斬る(切り裂く)、突き出す、起こす、持ち上げるというような
    點き従う技法が入っています。
    間違った練習をしないでください。ちょうど英語の文章を中国語にするとき誤訳するみたいに
    間違えたら、昆吾剣の真随は身につきません。
    攻防の正しい観念と解釈が身につき熟達したら対練に進みます。
    接触し、小競り合い、方向転換しブロックするという點き従う技法を体験してください。

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    同好の皆さん カンフー映画はお好きですか。私も見るのが好きです。
    徒手空拳で戦う映画もありますが同じく刀剣で戦うのも沢山あります。
    これらの映画の中では例えば剣で戦う時のアクションはこんなふうです。
    一、(ブロック) 二、(ブロック) 三、(ブロック) 四、(ブロック)
    これご覧になってどうでしょう。実際の話これらの動作は全て間違っています。
    ピカピカの剣や刀にキャン・キャン・キャン・キャンという音が加わり
    アクション効果を出しているのです。
    でも本当の剣技はこうではありません。
    同じ動作のところで、もし誰かが私に打ち込んで来るとします。
    打ち込んで来るところ どうやってくるでしょう。
    はい! 一、(カウンター)二、(カウンター)は同じ
    三で私の心臓を突いて来ます。(カウンター)
    四でまた心臓を突いて来ます。(カウンター)
    はい もう一度ゆっくりやって見ましょう。
    私の頭を斬りに来る動作から始めます。
    こんなふうにブロックしては駄目です。
    しかし敵の剣に沿って剣身を滑り込ませ手や体を斬るのです。
    もし心臓を突いてきたらこんなふうに、(ブロック)こんなふうに(ブロック)するのではなく
    敵の剣身に沿って滑り走らせるのです。(二度カウンター攻撃) 狙ったところに届くように
    これが中国剣術の技法なのです。

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    ですから昆吾剣が教え導いてくれるのです。
    點き従う原理原則に従い、手にした剣からの反応を感じてください。
    その反応が剣から手に伝わってきて、ランダムな攻撃に対し剣を操ることで
    身を守り敵を死に至らしめるのです。
    知っておいてください。中国武術では、目で敵の上中下、左右を見て攻めの判断を
    するのではありません。ではどうするのでしょう。
    中国武術の戦法は敵に接触し手や剣で纏わりつき、敵の動きを感じとり
    最も適確で有利な反応をすることにより敵を死に至らしめ勝利するのです。

    中國武術的戰門法則是敵人接觸以後
    憑著我們的手我們的劒
    去感知敵人的變動方向企圖用心
    根據我們的知覺
    然後做出最適當最有利的反應
    來殺敵致果來取得勝利 徐紀

    中国武術の戦法は敵に接触し手や剣で纏わりつき、敵の動きを感じとり
    最も適確で有利な反応をすることにより敵を死に至らしめ勝利するのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/KiHtAMaFXws
    昔の中国の剣術は木の伐採と大差がないものでした。
    剣は両刃の故に扱いやすくできています。
    幾多の武術家の手により研究、開発されて来た剣術には独特な攻防原則があります。
    つまり「攻防一体」と言われるもので極めて精巧な原則であります。
    この攻防一体の技法を研究してみると二つに分類されます。
    一つは隙を突くということです。もう一つは敵と一体になる(捉えて離れない)ということです。
    三才剣という有名な伝統剣技は隙を突くはじめのタイプです。
    三才剣の動作をつぶさに練習した後に二人で対練をしなければなりません。
    この練習の眼目は隙を突くことにあります。

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    同好の皆さん
    私は剣術を学ぶときこの套路に慣れ親しんで来ました。
    ではどんな技法がその中にあるのでしょうか。
    ご覧下さい。まず単練です。これが最初の3動作です。
    一、 二、 三 
    原則に照らして考るとこの3動作は敵に対する攻撃と防御に他なりません。
    対戦するとどうなるのでしょう。こうなりますので見てください。
    敵が心臓を狙って突いてきたら、自分自身を防御しなくてはなりません。
    観念的には多分このようにするでしょう。
    はい。(ブロック)敵が頭を打ってきました。(ブロック)脚を打ってきました。(ブロック)
    今の動作は正しいでしょうか。全て間違っています。
    では正しい方法はどうするのでしょう。
    同様に私の心臓目がけて突いてきます。(カウンター)
    私は彼の剣ではなく手首を切ります。それから私の頭を打ってくると(カウンター)
    また敵の手首を断ちます。脚を打ってくると(カウンター)
    これらが正しい剣の使い方なのです。
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    敵が攻撃してきたらその剣ではなく腕へ反撃すべしということが三才剣で理解できます。
    ですから三才剣で基本原則を学ぶことが出来ます。
    剣を防御するのではなく敵の血肉を反撃することが金属で出来た剣の用法であることを、
    なぜなら敵は先制攻撃をかけて来るからです。

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    今まで学んだ剣の套路の中で、このような動作(構え) 一、 二、 三
    普通の人はこんなふうに想像するでしょう。
    敵が私の上中段と下段にかけ攻撃してきます。 
    さあ突いて来なさい。 一、(ブロック) 二、(ブロック) 三、(ブロック)
    攻撃と防御、これは普通の人でも分かります。
    でもそれらは正しい剣の用法ではないのです。
    もう一回見てください。 一、(カウンター) 二、(カウンター) 三、(カウンター)
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    結論をまとめて見ましょう。
    隙を突くとは敵の間隙を突くことです。そして間隙とは剣ではなく敵の血肉です。
    隙を突くことは自分の隙を埋めることになり、隙はすなわち弱点です。
    剣でなく剣を持つ敵の腕を攻撃することにより自分の弱点を防御するのです。

    找漏補缺
    所謂找漏就是找敵人的漏洞
    而漏洞不是指他敵劍
    而是找他那個人
    所謂補缺就是補我的缺
    缺也就是漏洞
    我來把它彌補起來 徐紀

    隙を突くとは敵の間隙を突くことです。そして間隙とは剣ではなく敵の血肉です。
    隙を突くことは自分の隙を埋めることになり、隙はすなわち弱点です。
    自分の弱点を防御するのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/NAm68yeGWzo
    武術同好の皆さん
    誰もがいろいろな舞踏大会や表演の場所で剣舞をご覧になり、
    その動きに目を奪われたことでしょう。
    しかし剣舞は剣術とは違います。
    剣舞は一種の舞踊で決して武術ではありません。
    その他沢山のクンフー映画の様々な戦いの中で剣で戦っているところを目にされますね。
    でもお分かりでしょうか。それらは真正な中華剣術ではないのです。
    そして、おもしろいことに中国のクンフー映画で剣で戦う場面がギリシャ、ローマの
    剣の戦いと酷似しているのです。その戦い方が本当に似ているのです。
    それで一つ興味深い話があるのです。中国の周や秦の時代をギリシャ、ローマ時代と比較して
    みると剣技はほとんど同じなのです。
    しかし中華剣術は進歩を遂げました。生成発展することでその剣技は軍事的なものから
    脱皮するに至ったのです。
    武術家たちの掌中で練成、昇華されてきたのです。
    軍隊での短期間の訓練では戦場で敵を殺すにいたる剣技をマスターすることは不可能でした。
    それで、武術家たちの理解と共通認識は、剣はその形状や構造のためでなく、その技法がゆえに
    高性能な武器の一つであるということです。
    武術からはなれて、中国文学について言うと、非常に発展し繁栄していることは衆目の認める
    ところです。
    詩文以外のもう一つの主要なカテゴリーは小説で、武術小説はその中でも大変人気があり
    広く世の中に流布しています。これら武術小説の作家の殆どが面白い側面をもっていることです。
    かれらは自分では武術をやっていないのです。
    世に普及している古の言い伝えがゆえに武術は小説の内容に大きな影響を及ぼしているのです。
    作家たちも剣術には非常に洗練された戦闘技法があることを認識しています。
    だから分かるでしょ。武術小説の中では勇猛な達人や好漢そして最高に洗練された武術家は皆
    剣を使いますよね。でも剣を使うところの記述は私たちの真正武術と比べ、その認識と鍛え方が
    全然違うのです。
    剣が極めて崇高なものとして多大な愛着をもって世の人々から迎えられるまでにしてくれた
    これらの小説やクンフー映画の宣伝に、実際感謝しなければなりません。
    しかし、剣技伝承を希求する真の武術愛好家である我々としては厳格な尺度をもって臨みたい
    のです。
    その基準は次の言葉通り簡単明瞭です。「攻防合一」すなわち「攻撃と防御の結合」です。
    いいですか。もう少し説明するなら、二つの言葉以外にはありません。
    それは「就是攻即是防」=「攻撃は防御」、「防即是攻」=「防御は攻撃」です。
    真正な剣の技法における攻防の技術はこの最も基本的な原則を遵守しなければならないのです。
    今から剣を練功するときの点検項目としてこの原則を是非採り入れて下さい。
    座右の言葉としていただければ、きっと剣技に開眼できるはずです。
    本当に真の剣技を身につけたいのかそうでないのか、鏡に照らすように自問して下さい。

    你到底
    是跟武侠小説、功夫電影學武術呢?
    還是跟劍術老師學劍術 徐紀

    あなたは剣をクンフー映画から学びたいのですか、
    それともクンフーの師匠から学びたいのですか。 アダム・スー

  • http://youtu.be/wE4-TgwXWC0
    武術同好の皆さん
    武術修練に勤しむ中で、拳や蹴りを打ったりする以外に武器の稽古がしたくありませんか。
    中華武術の武器は実に様々な種類のものがあります。
    長いもの、短いもの、片手で扱うもの、両手で扱うものというように
    フォークのようなものやリングがついたものなど様々な形があり18種類以上の武器があります。
    数多くの武器の中でもっとも人気があり世間で好まれるもの、それは剣です。
    実際私も剣の稽古が好きです。あなたはどうですか。
    あなたも中国の剣術が好きですか。
    好きだからこそこの武器に真摯に接するのも無理からぬことではないでしょうか。
    その辺のところを少し検証してみましょう。
    今日世の人に最も人気がある武器が剣です。
    そして最も誤解されている武器が剣でもあるのです。
    剣は広く普及しており知らない人が無いだけに丁寧に話題として取り上げる必要があります。
    武術が本当に好きならば、剣の道に走って当然です。
    何はさて置き、指摘しておかなければならないことが一つあります。さあどういう事でしょう。
    あなたは剣で技を練っているのですか、それとも実際は剣で舞を舞っているのですか。
    剣で技を練れば剣の修練となり、武術の世界の一般的な教程です。
    剣の修練は剣で技を練るといわれ、また剣で劈を打つともいわれます。
    槍の修練は槍でもって突き刺すといわれます。
    剣も槍も一般的な武術の教程でその原理原則は同じです。
    剣の修練は剣で技を練るのです。
    しかし剣をもって舞を舞うのは異なった観念なのです。
    それは一種の舞踊で、単独もしくは団体で剣をもって踊れば剣の舞と呼ばれます。
    箸をもって踊れば箸の舞と呼ばれ、牡丹をもって踊ればすなわち牡丹の舞、
    蓮の花をもてば蓮花の舞と呼ばれます。
    よって剣の舞は一種の舞踊なのです。それは実に観賞に値するものではあります。
    しかし、もしあなたが素晴しい演技力をもった舞踊家で、武器の一つである剣を持ったとしても
    本質的には舞踊に過ぎないのです。
    剣の道を往く者として第一にその点を明確にしておかなくてはなりません。
    ですから剣の修練である「舞剣」と舞踊である「剣舞」は異質なものなのです。
    同じ二つの漢字でありながら順序が逆のため意味が違ってくるわけで、
    それが全く違った動作表現となって表れてくるのです。
    剣の舞は舞踏の基本と動作の正確さという観点から評価され、正確に踊れば
    上手いといわれるのです。
    したがって剣の舞は舞踏の基本と動作の正確さで評価されますが、
    剣の修練は武術的見地から点検され、全ての動作が正確な攻撃と防御の動きに適っているか
    検証されるのです。
    正しいものと間違っているものを混同してはいけませんよ。黒を白と言う様に
    武術同好の皆さん、剣技を磨くことに余念がないと思いますが、
    自信をもって稽古に励み、今一度、真に伝統的で有名な剣の套路で気に入ったものを掘り起こし
    検証して見ようではありませんか。
    そして剣技なのか剣舞なのかを確かめつつ毎日稽古に励んでください。

    毎天在演練的 它究竟是舞剣呢 還是剣舞 徐紀

    剣技なのか剣舞なのかを確かめつつ毎日稽古に励んでください。 アダム・スー

  • http://youtu.be/8v00IX0AD48
    武術愛好家の皆さん
    あなたが武術を学ぶときや弟子を指導するときそれから武術競技に参加しているとき、
    沢山の武術お宅と出遭ったでことでしょう。
    でも彼らがやっていることはまったく武術ではないのです。
    一所懸命ですがとても武術といえるものではないのです。
    しかし彼らは武術のことをよく知っています。
    武術を語る時あたかも全てを知っているかの如くです。
    その膨大な見解の数々はあなたたちや私をはるかに凌駕します。
    このお宅たちは武術のことなら何でも知っているとばかりに自惚れていますが、
    彼らの武術に関する説や理論はいったいどこから来ているのでしょう。
    私は何度となく真剣に調べたり尋ねたことがあります。
    その結果面白いことがわかりました。
    彼らは例外なく武術小説を愛読していて、その中で述べられていることや
    描かれていることを信じ込んでいるということが
    いいじゃないですか、彼らはやっているのは武術ではないのですから。
    ですから、何がいいたいか、何が一番大切かというと、武術をやっている人たちこそ本物なのです。
    武術お宅たちはまた、武術小説にでてくる知識、ストーリーそして理論を信じ込んでいます。
    秘伝なるもの、これが彼流武術の追求と開発に駆り立て、その武術全体に影響しているのです。
    私は実際に多くの武術小説家を知っていますが、誰一人として武術を学んだ人はおりません。
    ですから、一つ忠告をさせていただきますと、武術小説は武術ではありません。
    別の言葉を借りれば、ホットドッグは犬ではないということです。

    武侠小説不是武術 就像熱狗不是狗一様 徐紀

    武術小説は武術ではありません。ちょうどホットドッグが犬ではない様に アダム・スー

  • http://youtu.be/ABEWrSC0xFw
    ご同好の皆さん
    中華武術には数多くの伝統があり広範かつ深遠であることは皆さんご存知のことと思います。
    そこには様々な門派や師系統が存在し、そして沢山の套路があります。
    また練功法も非常に多彩です。
    本当に目覚しい進歩を遂げたわけですが、私は幾度か教えられたことがあります。
    それは、現実に武術が好きとしても、門派があまりにも多過ぎてどう選び、
    どう始めたらいいのか?ということなのです。
    実際非常に沢山の門派があります。
    しかしそれらはすべて中華武術だということを、どうか覚えておいてほしいのです。
    何千もの流派にいたりましたがそれらは全て同じ源流に端を発しているのです。
    私が手にしている小枝を見てみましょう。
    この小枝は木の幹から派生しています。
    次に小枝の葉を見ると、それらは大きさも、長さも、葉と葉の配置も違います。
    ですから南拳、北腿を問わず内面的、外面的な様式において、独自の特色をもっているのです。
    それでもそれらは全て中華伝統武術なのです。
    私たちが門派を選ぶとき、自分の体型、身体能力、関心それに性格を知っている範囲で
    あなたが一番好きなものを選んでください。そうすればそれが一番正しい選択となるのです。
    門派を選んだ後は一所懸命練習して下さい。
    どうか忘れないで下さい。この地球上で圧倒的に世界一の門派などありえないという事を。
    あるのは只一つ、これ以上ないくらい一所懸命練習すること、世界で一番の武術修行者に
    なることです。

    没有更好的門派 只有更好的功夫 徐紀

    より以上の門派を求めるより、より以上の修行に励みなさい。 アダム・スー

  • http://youtu.be/BsUNz61Lyik
    武術に励んでおられる皆さん
    私、実は内功の古典を読んでいるんです。金剛経の古典ではありませんよ。
    私達は武術を修練してますが、武術は奇跡を起こすようなものではありません。
    言うなれば、その本源的な目的は殺傷と自己防衛なのです。
    考えても見てください、馬鹿げた話です。何が神話、奇跡ですか。
    そう、それは科学なのです。科学そのものなのです。
    今日武術が退潮していることは事実です。
    武術の試合で死ぬか生きるかの戦いをすることはあってはなりません。
    ですから、このことが、かえってある武術家達をして奇跡を起こすかのような
    神秘的な行動に駆り立てるのです。
    何が奇跡ですか。例えば、独特な奥義の型、彼はただ単に武術のまがい物を演じているだけなのです。
    彼が奇跡を装っている限り、武術を究めることは有り得ません。
    共に上達し、技を磨くため、我々武術の学徒はそんな迷信に囚われないようにし、
    科学的思考に替える、そんな仲間になることが大切です。
    たとえ武術が停滞することになったり、またあなた自身の修練が足踏みすることになっても

    武術是絶對的化學 絶不是神話和迷信 徐紀

    武術は科学そのものです。 決して神話や奇跡を起こすものではありません。 アダム・スー

  • http://youtu.be/8uFJ9S7HPmY
    ご同好の皆さん
    武術を練習するとき、私たちは「一つに統合された人」として練習しなくてはなりません。
    でも、多分このような表現では、あまり意味がはっきり理解できないのではないでしょうか。
    私が言いたいのは、練習のときは、全身を一体として使いなさいと言うことなのです。
    完全な身体を使いなさいと言うことなのです。
    さあ、あなたは言うかも知れません。不完全な身体の人はどう練習すればいいのですかと。
    私はそのような人でも出来ますと答えるでしょう。
    時として、皆さんは上半身と下半身がバラバラで練習をしています。
    これらを称して二人の他人とでも申しましょう。
    「ジョンとジェーン・ドゥー」という映画のストーリーをイメージしてみますと、
    彼らは直ぐそばにいて一緒に暮らしています。
    彼らの結婚には非の打ちどころがありません。
    しかし,未だに二人の他人なのです。
    たとえば、下半身をジェーンとし、弓歩の姿勢を目いっぱいとり、そして上半身はジョンとします。
    彼は帰宅し晩ご飯を食べるばかりの状態です。
    見てください。これはまさに二人の他人じゃないですか。
    もう一つの例を挙げましょう。
    私たちが練習するとき全身で動作をすることは出来ます。
    しかし全身で動作しても、それは四人の他人にすぎないのです。
    いかにジョンとジェーン・ドゥーが二人の他人であるかということが分かったこの例に付け加えて、
    正面と背面も分けて考えなければなりません。
    それらを称して「メリーとジョー」とでも申しましょう。
    さて私がこの動作をするところを見てください。
    これは全身でなされなければなりませんが、もし私がこのようにしたらどうでしょう。
    正面のメリーは忙しくても背面のジョーは助けてくれません。
    それでこの様な功夫は四分割にされた人とでも言えるのではないでしょうか。
    どれだけ一所懸命練習しても、たとえ細心の注意を払いそれらを連動させたとしても
    とても真の功夫といえるものではないのです。

    拳要一個人練、不是両個人練、更不可以四個人一起練 !! 徐紀

    武術は一つに統合された人として練習されなければなりません。
    二人の他人、ましてや四人の他人が一緒に練習しているのではだめなのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/WgAN7aKsTVA
    ご同好の皆さん
    自分で武術を練習したり他の人の練習を見ているとき私たちは何をすればいいのでしょう。
    型通りにやって、ただそれだけに終わってしまっていいのでしょうか。
    武術修行について伝統的に語られていることは、「拳、法、功」の合一で、
    それがあってこそ完全な技芸とみなされるのです。
    ですから、「拳、法、功」は、三角形の3つの角のようなものと考えることができます。
    「拳」は拳で闘うときの型です。「法」は適用法で、武術であるからには攻めと守りの
    2つの適用動作があります。
    「功」または「働」は正確性を発揮する力です。
    これらの三要素が融合されたとき初めて完全な修行が成ったと言えるのです。
    この三角形を見てください。「拳」がこの頂辺です。それは型です。
    もう一つの角は「法」です。それは適用法です。武術であるからには攻めと守りの適用法があります。
    そして別の角は「働」または「功」です。「功」は正確に力を発揮できるようにする鍛錬で、
    練習をバックアップしてくれます。
    武術修行の過程においては「拳、法、功」の合一が必要なのです。
    つまりそれらのうち一つとして欠くことができないのです。
    想像してみて下さい。美しい型になっていても、その用法を知らない場合を、
    それを真の武術と呼べるでしょうか。
    美しい動作には攻守の作用が備わっていなければなりません。
    「法」であるこの角を欠くことができますか。
    いいでしょう、仮にあなたが攻守の適用法を理解できたとしても、
    果たしてそれで実際の攻めと守りに十分でしょうか。
    もし背後に正確に作用する力を持ち合わせてなかったとしたら
    あなたの攻めも守りも有効であるはずがないのです。
    型が最も目を引く部分として雲のはるか彼方の頂辺にあっても
    堅牢な構造となって支えられているからこそ武術と呼べるのです。
    その構造が「法」と「功」なのです。
    すなわち適用法と正確な力の発揮法です。
    それ無くして型は空虚なものになってしまうのです。

    拳、法、功、三合一 !! 缺一不可、何況是缺二 !! 徐紀
    型、適用法、正確性の三要素を融合しなさい。
    どれ一つとして欠くことはかないません、いわんや二つをや アダム・スー

  • http://youtu.be/yszQ2345vU4
    ご同好の皆さん
    私たちは毎日自分なりに武術の練習をいています。
    でも、練習していて何に特別な注意を払うべきでしょうか。
    何が私たちのゴールなのでしょう。
    若いころから武術の練習をしてきて、そして弟子たちに教えて
    私は幾度となく想うところがありました。
    次の動きは、次は何が来るのか。
    それで小さな子犬ことを思い出しました。
    子犬が鳴いているのを聞いたことがありますか。
    どのように鳴くのでしょう。
    ワンワンワンと鳴くのです。
    それで私はこれを英単語の「What(ホヮット)」に置き換えてみました。
    どういう風に使われるのでしょう。
    「次は何ですか。」 次の動きは何ですか。次の技は何ですか。
    これです。練習し始めの私たちはまだ成長前の小さな子犬みたいなものなのです。
    はじめ得たいと想っていたものは後には変容するのです。
    沢山のことを学び、そして教える弟子も僅かな人数から次第に増えて行くようになり
    私は弟子たちに、子犬が一人前の犬になるように成長してほしいと思うようになりました。
    大きな犬はどう鳴くのでしょう。
    大きな犬はウォウウォウウォウとかハゥル、ですよね。
    非常に強靭で恐そうですね。
    「私は強いんだ。」と言っているようです。
    これをもう一つの英語に置き換えてみたいと想います。
    それは「How(ハウ)」です。
    この英単語エイチ、オウ、ダブリュの意味するところはハウ、トゥ、ドゥー、イット
    つまり、次の動きをどのように正確に遂行するかということなのです。
    どうしたら上手くできるのでしょう。考えてみて下さい。
    もしも、武術を練習するとき、初期の習慣を変えれるとしたら、
    どんな動きが次にくるのかを考える代わりに、どうしたら次の動きを遂行するかを
    考えられるようになってほしいのです。
    小さな子犬がワンワンワンワンと鳴くということではなく、それよりも、次の動きをどのように
    遂行するかを考えることに専心して下さい。
    どのようにしたらベストにできるかを、最大限に頭を働かせて
    ですから、武術を練習するときあなたはずっと初心者のままでいたいですか。
    つまり次にどんな動きと技が来るかということばかりに気をとられたままでいいのですかということです。
    それとも着実に上達し動きにも磨きがかかってくるような方法を徐々にでも習得したいと思いませんか。
    もう分かりましたね。自分自身に「How(ハウ)」と問いかけることを忘れてはいけませんよ。

    小狗叫:What What What !? 大狗叫:How How How !? 徐紀
    子犬はワンワンワン(何、何、何)と鳴き 
    大犬はウォウウォウウォウ(如何、如何、如何)と鳴く アダム・スー

  • http://youtu.be/_fs7h2VO0j8
    ご同好の皆さん
    武術を練習するときには身体と意志を鍛えるよう言い続けています。
    もちろん武術によって身体すなわち四肢と脊柱をを鍛えねばなりません。
    このことは誰にでも容易に理解できることです。
    でも意志を鍛えるにはどうしたいいのでしょうか。
    意志とはすなわち意念なのです。
    今日はその意念を鍛える一つの方法をお話しましょう。
    それは大変基礎的かつ重要なことです。
    しかしそれは修行者からしばしば忘れられていたりおろそかにされていることなのです。
    それを理解することは非常に簡単です。
    武術を練習していて、新しい技を習得し終えたとき、その技を身につけたのは身体なのです。
    しかし私たちの意念はその動きに集中され、そしてそれは外に向け更に更にと広がり続けて
    いかねばなりません。
    それは仮にこのようなものではないでしょうか。
    たとえばこれは拳と脚によって完成された1つの技で「青龍出水」と呼ばれています。
    あなたの身体は動きませんが意念はどうでしょうか。
    継続的に技を伸展し脹らませていくことには意念が不可欠なのです。
    そして、次に別の動作へと移行します。
    さあ「白鶴亮翅」が完成しました。
    あなたは動きません。しかし意念は動いています。
    このように広がっているのです。
    武術の型、その中にいかに多くの技が含まれていたとしても、あらゆる姿勢を分解し
    このように身体と意念を結合させ考究する必要があります。
    真の中華武術を修練するためには身体と意念の両面を鍛えなければなりません。

    動作完成彳文風不動 心在裡面大動特動 徐紀
    技を成し終えたらそのままの姿勢を保ち動かないように。
    意念は内部で動き続けているのです。 アダム・スー

  • http://youtu.be/r5A_F4TM6xw
    武術に勤しむ皆さん
    練習は楽しいですね。
    拳を打つとき忘れてならないのが「陰」と「陽」の考え方です。
    「陰」「陽」は極めて深淵な原理で、それは広範囲なところで適用されます。
    今日は一つだけ具体的な例を挙げお話しましょう。
    拳を打つときには常に決まった形ががありますが、何によってその動きはつくられているのでしょう。
    それこそが「陰」と「陽」の合体によるものなのです。
    しかしながら「陰」「陽」とは何なのでしょうか。
    この場合、「陰」は「体勢」なのです。それは、静止した「姿勢」なのです。それが「陰」です。
    それはすなわち予め固定されたものなのです。
    そうしたとき「陽」とは何でしょう。この場合「陽」は「動作」なのです。
    拳を打つにしても掌をを放つにしても、何れもが「陽」なのです。
    「陰」と「陽」の連動が、さまざまに違った動きを結果的に生みだし、武術を構成しているのです。
    もう少し詳しく説明しましょう。
    個々の動きの中にも「陰」と「陽」もしくは「姿勢」と「動作」があるのです。
    では、どちらが重要なのでしょうか。
    つまり、練習のとき、どちらに力を注ぐべきかということなのです。
    「姿勢」に焦点を当てるのか「動作」に当てるか
    例えて申し上げましょう。
    動きには「陰」そしてまた「陽」が必要です。
    ちょうど私たち人間に肉体があり手足があり、そして、それらが精神、意思というものと連結しているように
    ですから、姿勢、美しい姿勢と堅固な肉体、どちらも重要でないことはありませんが
    私たち人間が物事を成し遂げるために何が必要かと言えば、肉体だけではなく意思が必要なのです。
    拳を打つとき「動」が要求されるように、攻撃と守備においてそれがなければ効力を発揮させることが
    できないのです。
    これから武術の練習に励むとき、美しい姿勢に注力しますか、それとも動作に注力しますか。
    正しい選択のためには沢山の知識が求められますよ。

    陰是姿勢有如肉體 陽是動作好比霊魂 徐紀
    陰は体勢であり、陽は動作であり意思を伴うべきものである。 アダム・スー

  • http://youtu.be/eSM6dTE1BCE
    武術に励んでおられる皆さん
    世界中の名武術家の方々
    私が名武術家なんておこがましいですが、長年の間武術の修行は続けてきました。
    でも現在に至って、私はまだ生徒のような気分でいます。
    若いころから先生たちに師事してきましたが、今は教え子たちから学んでいます。
    止戈武塾と功夫龍はこの言葉、すなわち「名武術家」という表現を使っていますが、
    まず以って私の友人と私自身、実際の話、名武術家などではないということを申し上げておきます。
    さて、リングとは何でしょうか。
    私たちは決して戦っているわけではないのです。
    むしろ、私たちが言うところのリングとは議論の場所なのです。
    「名武術家リングに上がる」の私たちが意味するものは、多くの方々に参加していただき
    学びあうことの振興、それこそが私たちの意図するところなのです。
    そこかしこの名武術家の方々に意見や自ら会得した知識を披瀝していただきたいのです。
    私たちはこの公開討論会を武術を愛する全ての方々のため盛り上げて行くつもりです。
    そこで誰もが何かを共感できるはずです。
    最後にあたり、あなたの手助けを是非お願いします。そしてあなたの知識から学ばせてください。
    なぜなら、私たちは皆、中国伝統武術を愛することにおいて結びついているからです。

  • http://youtu.be/chpZMMeH3w8
    皆さんこんにちは。
    武術の練習に励んでいらっしゃることと思います。
    私も同様です。
    一つ質問させてください。
    あなたは練習のときいくつの腕を使いますか。
    「え、それが質問ですか」とおっしゃるでしょう。
    生まれながら誰にも二つの腕がありますね。
    でも私は、腕は一つしかないと言うつもりです。
    私は一つの腕に二つの拳がつぃた右側と左側を使っているのです。
    何が言いたいかというと、これら二つの拳は、別々なものと考えるよりは
    一つの腕の両端にくっついているものだということなのです。
    ちょっと見てください。一条のロープがこの考えを理解する手助けをしてくれます。
    たとえば、もし拳を打とうとして拳を打ったとします。そのとき私の二つの腕は一体です。
    中国武術には「背中を通じなさい」とか「通背」という概念があります。
    背中が通じていることを「通臂」ともいいます。
    すなわち二つの腕は一体ということなのです。
    このように、または、このように。
    片方が前ならもう片方は後ろと、お互いを引き合い一体なのです。
    「背に這わしたロープ」の教えにより背中を連動させなければいけないことがわかりますね。
    ですから、これから拳を打つときは、ただ単に腕を片方ずつ使わないということを覚えておいてください。
    それぞれ肩の下から始まる二つの腕は、むしろ、一体なものなのです。
    さあこの考えが理解できたとき、もう一回質問させてください。
    これから練習をするとき、一つの腕を使うのですか、それとも二つの腕を使うのですか。

    「我有一條手臂 而有両個拳頭」 徐紀
    私には腕が一つある。そして、その両端には二つの拳がついている。 アダム・スー

  • http://youtu.be/xZ6PDTxg42g
    同好の皆さんご機嫌いかがですか。
    私は幼い頃からずっとナタク神の性格に魅かれてきました。
    ナタクの性格については民話からよくご存知の通りです。
    彼は生まれたときから狂暴な子でいつも両親と諍いを起こしていました。
    一たび怒ったら、自分の骨を折って父親に返し、肉を引き裂いて母親に返し、
    言うことが「お前たちに俺の身体全部返してやる」とそれくらい凄まじいものでした。
    これが皆が知っているナタク神話の一節で、そう言う過程をへて蓮の花から化身してゆくのです。
    花で例えれば茎、葉、花弁にわたり、彼は蓮の花の力を借り新しい人間として生まれ変わったのです。
    では、なぜこの話をするかといえば、実際、武術修行の過程とよく似ているからなのです。
    これは大変重要なことで、基本原則を丁度10文字で表しました。「打拳如投胎 重新学做人」
    簡単にお話すると、武術修行はすなわち、生まれ変わるということなのです。
    修行を始めた時から、人間とは本来どうあるべきかということを学んで行くのです。
    でも、決して誤解しないでください。あなたがまだ人間じゃない、人間としてのあり方が分かってない、
    そういうことを言っている訳ではないのです。
    人間としてこの世に生まれてから、私たちは少しずつ成長し日常ありきたりの動作を身につけてきました。
    そして、大人になり色々な職に就き、様々な仕事をするようになります。
    このように私たちはごく自然に普通に沢山の動作習慣を身につけるわけです。
    これらはすべて大切なことで別に悪いことでは無いのです。
    でも、これらの動作は武術のものとは違うのです。だから、武術を学ぶときは虚心坦懐、
    練習のときは、新しい動作方法を学んでいるのだということを、本当に認識してほしいのです。
    いわば、武術修行は人間として生まれ変わることなのです。
    修行を成就させるため、練習の時必ずいつもこの言葉を念頭においてやってほしいのです。
    こうすれば良い結果が生まれること間違いありません。
    いいですか、武術修行をしているということは人間として生まれ変わっていることなのです。
    修行を始めたときから、人間はどうあるべきかを学んで行くのです。

    「打拳如投胎 重新学做人」徐紀
    武術は人間として生まれ変わること。
    修行を始めたときから人間はどうあるべきかを学んで行く。

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