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    このトピでは「花の生涯」から続いている大河ドラマの中で基本的に過去に放送された作品を回顧し、書き連ねていこうというトピです。
    以前に同趣旨のトピがありましたが消えてしまったので復活させました。
    この作品は面白かった、印象に残った、あるいはつまらなかった等どのような意見でも構いません。

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    クナシリ 12月10日 09:30

    抜刀隊に斎藤一が所属してたと言われてるがどうもはっきりしない。
    抜刀隊成るものは微かに聞き覚えが有るけどどんな性質の物が良く知らなかった。
    様は田原坂の地形要害で戦況思わしく無く、刀で相手を怯ませた方が効果があるとの判断の様。
    構成員はドラマでも有った様に薩摩が大半で一部会津とかが加わっていたらしいとウイキにも載ってる。
    その程度だから藤田五郎つまり斎藤一がこの田原坂で抜刀隊として活躍した記録は無いらしい。
    何でこんな無謀な隊に応募したのか?
    どうもそこには芋郷士と蔑まれた最底辺の薩摩武士達だからこその恨みに有るらしい。
    土佐の差別が有名だけど、薩摩も同じ差別偏見の世界。
    最下級身分の者は何をやっても評価が低い。
    その憤りが抜刀隊の勇奮に繋がった感じ。
    誉れじゃなく憤りがエネルギーって凄く分かりやすい。

    後日日清戦争の折
    >今ごろこんな事を考えているのか。馬鹿な奴らだ、日本に軍制が布かれてから、もう20年以上も経っているではないか。日本の軍隊は、そんな幼稚なもんじゃない。抜刀隊なんていりやせん。帰って園田にそう言え

    抜刀隊の意思は怒りなんだが、それを態と曲解し誉れとか名誉とかで無理やり戦場に送り込んだ先の戦争。
    差別への怒りも利用される最下層は哀れとしか言いようがない。

  • 西郷どん 第45回「西郷立つ」

    兵を率いて東京に行き政府に物申すというのは、かつて島津の斉彬が薩兵を率いて上洛、さらに江戸に行き 時の幕府に圧力をかけることを画策したのを思わせる。この構想は、ドラマでは吉之助が斉彬に具申したことになっていた。のちに この構想は、国父様と言われた島津久光によって実現した。

    大久保、あるいは川路利良が放った密偵が西郷の私学校で露見し、それが旧士族たちを暴発させたということだが、この密偵のことがなくても、薩摩にある士族たちは暴発しただろう。西郷は、士族たちの反乱の流れにただ乗るしかなかったと見る。

    西南戦争では、本来ならば村田蔵六が政府軍を指揮していたはず。蔵六は明治二年に死亡。
    政府は、というよりも日本は貴重な人材を失った。
    蔵六は、維新後 軍事施設を次々に大阪に設置している。
    司馬遼太郎の「花神」では、 これは西郷の乱を予見して、それに対する布石を打っていたということになる。

  • 何故か中途投稿されてしまいました。
    確か編集で変える事が出来たと思うけどまいい
    このままつづけます。
    その熊本城を遂に攻略出来ず、ずるするしてしまったのが大きな失敗ですね。
    攻囲軍に殆どの戦力を割き
    南下してくる官軍に劣勢を強いられる。
    その不味さが不幸を拡大しなくて結果よしですけどね。
    籠城2か月救出軍に開放される。
    籠城組は後に出世街道へ
    この間は玉東町へ銀杏を見に行きました。
    官軍墓地が何か所かあり、砲台跡も改めて見まわし、感慨にふける
    なんてこともやってみたりしました。

  • 西南戦争の始めですね。
    西南戦争期間で見ると1月終〜9月終り
    官舎襲撃から西郷自刃迄11月。
    思った以上に長い。
    他の萩の乱とか1週間程度。
    だから西郷の乱とかじゃなく戦争になるのでしょうね。
    戦闘のあった場所が家からそう遠く無い。
    熊本城迄車で1時間ですから、地震崩壊の痕も見に行きました。
    なので戦闘の地名が出ると知ってるので便利。
    直接戦闘開始が川尻。
    熊本に近い者しかピンときませんが、パン屋の有名な処がって態々出かけて知ってる。
    古い町並みが残る熊本市の南。
    西郷の戦略として熊本城を本拠にs

  • 西郷どん 第44回「士族たちの動乱」

    川路利良がフランスの警察組織を視察し、帰国して大久保と面談するシーン。
    川路は 今の立場に 西郷によって引き上げられた恩があり、西郷を慕って薩摩に帰っていく者たちに敵することにはためらいがある。しかし、それを吹っ切って新政府に尽くすことを誓うと、大久保が 「腹をくくれ」と覚悟を促した。つまりは、死ぬつもりでやれということだが、「つもり」ではなく、文字通り命をかけろということだ。
    警察の長として不満分子を取り締まるための指揮を執る。となれば、反発を一身に浴びる。いつでも危険が身に及ぶ可能性がある。それを覚悟せよということだ。

    wikiには、「川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた」とある。

    江藤新平の首を晒した大久保。 こういうことをやるからには、状況の変化によっては、自分もこうされる可能性があることは覚悟の上だ。新政府のまだぐらついている。転覆される可能性は十分にある。このときの日本の政治家たちは、まさに命をかけて政治をやっていたということだ。

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    真田丸 第22回「裁定」

    秀吉により沼田裁定が下される。これで一件落着したようにみえたが、しかし火種がくすぶっていた。

  • 西南戦争の経緯が今まで何となく思ってた事と違ってる。
    単に知らないと言うか興味が無かった所為ですけどね。
    西郷にしても桐野にしても積極的反政府論じゃ無かった様ですね
    むしろ「これから大久保の作る社会は楽しみ」のセリフ。
    実録じゃないですけど、歴史研究家の見解なんでしょうね。
    大いに流される人との評が有ったけど、こんな事なんですね。
    板挟み状態。
    天下取りの野望が無いのに、天下取りを目指した。
    戦国英雄は秀吉とか実にはっきり、邪魔する者は敵。
    家康を死ぬ迄排除できなかったけど、諸情勢からそれが限界だった様で。
    しかし自分の欲は最後迄貫いて一貫性はある。
    西郷は土地を耕し、実りを喜ぶ生活がしたかったらしいけど
    鹿児島で無理なら徳之島に隠棲出来なかったのかと思いますが。
    こんな欲の無い大将を担いでも勝算は望めない。
    勝ったとしても自責の念から自殺なのかも。

  • 西郷どん 第43回「さらば東京」

    朝鮮国に関する 西郷と大久保の激論は なかなか聞きごたえがあった。
    西郷は最後の方で 武士の身分をはく奪された士族たちの不満のはけ口として 日本の外に目を向けるということを漏らした。そのために朝鮮国に行きたいという理屈だが、これは図らずも 西郷が戦争の可能性を否定しない本音をさらけ出すことにもなった。朝鮮国への派遣について西郷がなにを意図していたかについては、いまだに議論のあるところだが、そのひとつに西郷は戦争を望んでいたというのがある。自分が殺されれば 確実に戦争になるという読みだ。
    西郷は自分の死に場所を求めていたのかもしれない、といとう話もある。

    今はその時ではない、むしろ国力をつけるときだ、という大久保の方が極めて正しい。
    戦になれば 膨大な戦費がいる。いまは、そんなことに財政を使うべき時ではない。
    鉄道をひき、製鉄所、生糸工場、造船所、あらゆる工場を建設し、近代化にまい進する。
    日本は、このとき 大久保の正論に紙一重で救われたというべきかもしれない。

    大久保の このときの信念ともいえる持論は、西欧以外で 日本が初めて近代化に成功した国となり、その優位性は長く続き、とりあえず今でも 日本が有力国としての地位を保持することにつながっている。

    第一、西郷が強く迫っていた、海外にある居留民を保護するというのは、侵略するための口実として ナチスドイツが近隣に攻め入るのに使った歴史があり、実は 満州にある日本軍も用いた。最近では、ロシアがクリミア半島を圧迫するのに用いた。つまりは、侵略の口実としてよく使われるのが居留民の保護だ。
    その意味で、西郷は戦争志向があったと感じられるが、これが昭和初期であれば、軍が動いて 大久保や岩倉らを君側の奸として拘束していたとしてもおかしくはない。クーデターを起こさなかったことは西郷という人物の誠実さであり、不思議さでもある。
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    真田丸 第21回「戦端」

    「沼田、沼田、まるで喉にささった小骨じゃのう。」と徳川家康。
    上洛の条件として、沼田の引き渡しを求める北条。
    真田と直に討論することになった。それを殿下秀吉の目の前でおこなうという。

    板部岡江雪斎、ドラマまでは北条の側近として活動しているが、徳川の世には 子孫が旗本として生き延びている。

  • 何時までも友達の西郷と干乾びた童子時代と、委細構わない大久保
    違うかもしれませんが頼朝と義経の関係に似てる様に感じました。
    後世作られた物語りと一笑にされるかもしれませんが
    パターンとしてはそれですよね。
    遂に実権は大久保の手に集約された。
    それにしても300諸侯と言われる殿が誰もこの政権に対して立ち上がらない。
    武家政権言い換えれば軍事政権なんですけど。
    大砲係り、兵糧係り、何とか係りとか軍事政権そのままの役職が250年、世襲により引き継がれ、
    完全に形骸化してしまって機能性は無くなったしまった所為ですけどね。
    大砲係りの小説で、大砲を神の様に扱う有る武士一家の話を思い出します。
    戊辰戦争だったかな、神の大砲が最新兵器の前にただの鉄屑の様だと皮肉った物語りでしたけど。
    権力とはお金に似てますね。
    何となく信用でなりたつ。
    信長時代の永楽銭は誰が価値を担保してる訳でなく、実は中国からの輸入品。
    鋳造技術が無かった所為で、価値を持ってしまった。
    今の経済も何となく信用で成り立ってる。
    世界の金持ち国と言われてる物の実態は途方もない借金。
    日本は1000兆アメリカは3京といわれてる。
    実にあやふやで実態はつかめない。
    この政権も何となく成り立った物。
    後の選挙で選ばれた物じゃない。
    選挙での政権も正当性がある様だけど、皆の意識が頼り。
    その意識は多分にインチキな情報操作で作られた物。
    考えれば人間の社会なんて実にいい加減なんですよね。

  • 西郷どん 第42回「両雄激突」

    「見たもんじゃないとわからん!」 帰国した大久保が西郷に語る。
    イギリスで見た工業地帯の光景のことだ。
    もしも西郷が 欧米に視察に行っていたら 日本の歴史は変わっていただろうか。
    大久保が、「今度はあんたが行けばいい」と西郷に提案し、もしも西郷がそれを受けていらたと想像する。
    半年程度でもいいから、アメリカやイギリスなどを見ていたら 西郷の考えになんらかの変化をもたらしただろうか。

    大久保と江藤新平は よほど 相性が合わないと見える。
    この後、乱を起こして捕らえられた江藤新平は、さらし首にされた。

  • 大久保との対立が決定的に成りました。
    もう友でなか、と互いに憎しみをつのらせる。
    思想云々より自分の立場を大きくしたいからでしょうかね?
    権力の甘い香りの前に友情は簡単に壊れる。
    生命とは基本自分をどう膨張させるかでしょう。
    利己主義ともいう。
    皆の為の政策とは言う物の結局自分を拡大したい。
    滅私奉公とは言う物の、それもまた「そんな」自分を売り出したい。
    西郷は農本主義、大久保は工業主義なんですね
    それも相手がそうだからの面があるのかと。
    貧しい時代は友よと肩を寄せ合うけど
    栄華を手にすると互いにそねみ合う。

  • この当時、李氏朝鮮は400年間の鎖国中で、清(中共)とは同盟関係にあり ・・

    日本政府が出した徳川幕府から天皇制への政権交代を伝える数度の書簡に対し

    徹底的に無視を貫きました。(なんか現在の政情にも似てますネw)

    西郷隆盛が帰国した大久保らとそこまで意見対立をしたのは・・

    この、李氏朝鮮の北側には既に朝鮮の植民地化を企てる大国「ロシア」が

    迫っていた時期でした。そこで西郷は単身でも朝鮮に乗り込みたとえ殺されても

    周辺情勢を説いて開国を迫ることを提案した様ですね・・西郷どんらしい

    これが、優先事項との関係で却下されたいきさつはよく知りませんが・・

  • 西郷どん 第41回「新しき国へ」

    岩倉使節団、権力中枢がこぞって海外視察に出かけるというのは、世界史的にも かなり特異なことだったかもしれない。
    第一の目的が不平等条約の改定にあったが、その時期が熟していないことを悟って、欧米文明の視察に切り替えた。
    二年弱ものあいだ 政権の実力者のかなりの部分が日本を留守にした。いうまでもなく、リスクは小さくなく、その負担が西郷の肩にかかったでしょう。 それはともかく、当時の日本人の意気込みを この大胆な行動に感じとれるような気がする。

    大久保は、ドイツの宰相ビスマルクに謁見している。 
    wikiによれば、「1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。」とある。ビスマルクがドイツ統一を実現したのが1871年だから、その二年後にあたる。いわば日本の統一を果たした大久保と、ドイツの統一を果たしたビスマルクが会したわけだが、ビスマルクにとっては 未開の国からの若きリーダー以上の印象はなかったかもしれない。

    アメリカの ヘンリーキッシンジャーによれば、自著の外交史において、ビスマルクの築いた土台が その後のドイツを 二度の敗戦にもかかわらず、一流国として生き延びらせたということになる。おそらく、これと同じことが大久保にも言えるのではないか。大久保のひいたレールが、敗戦を通過したにもかかわらず、世界のなかでの日本の地位の維持に貢献していると思う。ドラマの中で 大久保が、100年後の日本を考えて行動しているというようなことを言っていたが、それはあながち外れてはいない。
    その政治家がどのくらい優れているかどうかは、自ら築いたシステム、もしくは体制がどのくらい長期にわたってその国に貢献するかによって測られるというのは、キッシンジャーのことばだ。

  • やたら天子様がでて耳障りでしたが、
    御本人は朕と言ってた。
    >朕とはー天子の自称。中国で、古くは一般に用いられたが、秦の始皇帝から天子のみの自称となった
    古代中国人は自分とか私をチンと言ってたみたいな事ですね。
    中国の言葉。
    言葉のニュアンスが日本語じゃない。
    擬音語で茶碗を叩く時チンとは言うけど、やはり外国の言葉ですよね。
    遣唐使が持ち帰った言葉だったのでしょうね。
    輝ける文明世界の王は自分の事をチンというらしい、じゃあおれもそうするみたいな事でしょうね。
    そのチンが西洋服を着て登場し、久光は涙が流れてしまう。
    自分の家来が東京かぶれし、すっかり西洋化してるのを見てお前はサルかと散々けなし、日本人の心を捨て去って
    情けないと罵倒した直後ですが、あの涙はなんだったんでしょうか?
    自分のアイデンテティが崩れ去った喪失感でしょうか?
    和式が絶対日本だと思って処、日本の総本家が西洋化してしまい、精神崩壊の涙なんでしょうか?
    西洋使節団の岩倉だけが髷を残してる写真が有りますが、あれもなぞですね。

  • 西郷どん 第40回「波乱の新政府」

    この回、大変おもしろかった。
    ただ、西郷に大物感を漂わせているのに対して、大久保の扱われ方がすこししょぼい。まあ、西郷が主人公だから仕方がないということかもしれないが。

    新政府の分裂の危機を西郷が救うというシーンがあった。
    かなり前の方の回で、薩摩の若者たちが暴発するのを止められない大久保正助、それができるの西郷吉之助しかいないというのがあった。
    今から嫌な予感がしているのは、不満のあるものたちを西郷が引き受けて、反乱の果てに自分ともども滅亡し、その後の大久保利通の仕事をしやすくする意図を西郷が抱いていたという筋書きだ。
    そうなるかわからないが、いかにも流行作家や脚本家が好みそうなシナリオだ。

    この前の回で、横山安武というのが出てきた。薩摩の侍だ。明治新政府の腐敗を糾弾して諌死した。
    諌死(かんし)とは、死んで目上の人をいさめること、と辞書にある。
    wikiによれば、横山は 陽明学者だ。
    おそらく、作家の司馬遼太郎がもっとも嫌らう部類の人間だ。

    それはそうとして、
    日本の歴史上これほど明るく楽観に満ちた時代はなかったというのが、作家 司馬遼太郎が 明治初期の数十年について述べた感想になるのだろう。 というと、必然的に反対意見が出てくる。 明治にはこんなに悲惨なことがあったではないかと。こんなに暗い出来事があったではないかと。むろん、そういうことを踏まえた上での司馬の感想だ。

    日本人は その歴史においてはじめて国家というものを持った。それは、おもちゃを初めて与えられた子供のようであったかもしれない。明治の日本人は 国家というものに夢中になった。現代のわれわれは、その時の日本人、つまり150年前の祖先の心情は もはや想像しにくくなっている。

    ただ、このドラマのシーンにおいてすら、明治という新しい時代を迎えた人々のうきうきした感じが出でいるような感じがする。

  • フランス革命は王族を処刑した後、共和制になったけどナポレオン自身が皇帝になり帝政に戻す。
    西郷がその気ならそうなり得たのかもしれないですけどね。
    最大のライバルは木戸率いる長州でしょう?
    しかし西郷は栄耀栄華を嫌ってたらしい。
    質素倹約は父の教育の所為でしょうか。
    それに対し意地汚い公家、特に鶴瓶の岩倉は地が見えるかのような
    勿論演技でしょうが。
    そんなのは薩摩にもやはり居て、特に長州閥の方に栄耀栄華を欲する輩が多い。
    対し、私利私欲の極端に少ない人が稀にいますが、大体悲劇的な最期。
    ゲバラとかそうでしょうね。
    御本人はそう言う最後で満足なんでしょうが。
    俺に贅沢は似合わない。
    死して名を残す。

  • 西郷どん 第39回「父、西郷隆盛」

    1871年 西郷隆盛、新政府に復帰
        2月13日 8000人からなる親兵の創設
        8月29日 廃藩置県の詔書が出される
        12月 岩倉使節団出発

    この時系列を見ると、廃藩置県の実行は、その前に創設された親兵の武威と切り離せない。

    ---- 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)  という言葉が、ここでも西郷をよく語っているように思える。

    旧体制の既得権をはく奪するような改革は、普通はかなりの流血を見る事態が常に起こりえるが、それが比較的少なくて済んだのは、倒幕で示された西郷らの新政府の武力が 潜在的不満分子にもひろく認識されたからだ。島津がどのような不平を鳴らそうが、新政府の力には逆らえないという空気が流れていただろう。島津の殿さまが西郷をいかに罵倒しようが、西郷の背後に武力の影がちらついただろう。もはや島流しには出来ない。
    それともうひとつ、明治新政府による最初の10年での一連の改革の成否は、それを担うリーダーたちがどの程度 公の利益を私的利益に優先できるかにかかっていただろう。権力を握った者たちが自分たちの私的利益に走っても不思議ではなかっただろうが、日本にとって幸いだったのは、この時の リーダーたちは、公(おおやけ)のことをより優先的に考えたということだ。
    大きな改革を成し遂げるには、武力による強制力とリーダーたちの公共心が必要だ。そのどちらかが欠けても、うまくいかない。公共心なき武力に支えられた権力は腐敗に至るし、公共心があっても、武力がなければ、改革に反発する古い勢力を抑えることができず、情勢は不安定のまま推移し、日本の国家建設は思うように進まなかっただろう。

  • 西田ナレーターが登場人物に成るのは新しい。
    目先を変える、みたいな事なんでしょうね。
    ハットしました。
    翁風な人物として過去を振り返る形式にはぴったり。
    彼の話じゃなく、あくまで父隆盛の回顧として進むのでしょう?
    時々現在(大正?)があるのかな?
    不平な者の反乱が主軸なんでしょうね。
    次々に起こる反乱に如何対処していくのかが後の彼の非業の死に結びつく。
    一番不満が強くて当然なのは久光公。
    ドラマではいじりが少ないけど、あのキャラクターはもっと見たいですけどね。
    政変の後同志の粛清が必ずある。
    もっといい事が有ると思ったのに、差別しやがって見たいな事ですね。
    新政府最大の功労者奇兵隊も2000人再雇用3000人解雇。
    これも木戸と他の重責者の策略なんでしょうが、反乱を起こさせすり潰すような非道を行う。
    明治維新は美化される傾向ですけど、隆盛はその装飾を剥ぐ事になるんでしょうね。

  • 西郷どん 第38回「傷だらけの維新」

    西郷の弟で有名なのは縦道で、1974年(明治7年)に軍を率いて台湾へ遠征した。
    まあ、台湾出兵というと 物々しい感じがするが、実際は武士としての身分を失い 食い扶持に困った男たちを掻き集めて 軍隊に仕立て上げたというようなことが、司馬の小説に書かれていたと思う。現地では、伝染病で500名以上が命を失ない 戦死者は12名ほどであった。
    この解決のために、大久保利通が北京に趣き 清の李鴻章と交渉し、一定の外交成果を得た。
    李鴻章は、欧米の列強に立ち向かうのに日本と協力し合えるかもしれないと期待していた向きもあったようだが、大久保の強硬の姿勢に面するうちに 日本に対する考え方を変化させていった。

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    真田丸 第20回「前兆」
    1587年   聚楽第完成
    1588年   聚楽第行幸
    1589年 聚楽第の落書き事件
    7月 秀吉、淀殿との間に第一子誕生

  • 西郷が最後多くの人が死んでしまったみたいに言ったけど
    調べたら9000人弱ですね。
    新政府幕府ほぼ同数若干幕府側が多い。
    過去の内乱で最大なのは4万人近くの島原の乱らしい。
    日本は大規模と言ってもそんな物なんですね。
    同時期のアメリカ南北戦争じゃ60万人も死んでる。
    当時の全人口は日本の方が多かったのを考えると、肉食系はやはり怖さが桁違いの様ですね。
    多民族国家だからかな?
    吉二郎の心情をこまやかに描いた回でしたが、
    男の子はきっとそうだよねみたいな、憶測でのドラマで、実際は無理やり戦場に出る事になったのかもしれない。
    殿に援軍を具申するのに、我が家の男は全て戦場に赴きます故なにとぞご配慮を見たいな事だったのかもしれない。
    考えると西郷家は好んで時代を変革したい衝動で動いたと言うより、流された方ですね。
    吉田松陰の様な高杉の様な、熱き物が今一。
    もちろん異論有りでしょうけど。


  • ★ 2018年10月14日 平成最後の自衛隊観閲式

    陸自の行進曲は 西南戦争田原坂での警察官部隊の抜刀隊

    海自は行進曲軍艦に旭日旗

    https://www.youtube.com/watch?v=lq9XwviEJRk

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