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文学と文学賞。。

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  • 2018/02/21 13:11
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    新たなトピを立てました。。

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    ryuichiro 2月21日 13:11

    >>10313


     書き込みを有り難う御座います。私が書く事は、或いは全くの的外れで有ろうかと思いますが、その際には何卒御容赦下さい……

     三島由紀夫の話は、飽く迄も、戦前・戦中から戦後、そして今現在の日本と云うものを考察する上での一つの便(よすが)です。自己の美的観念・宗教的概念・強迫観念としての文学や行動(政治的活動等)に最後迄忠実な作家だった為に、引き合いに出しております……

     先ず、三島由紀夫の立ち位置ですが、三島は公家(貴族)と武家の系譜で有り、祖父は樺太庁長官を勤めたものの疑獄事件で職を退き、莫大な負債を抱えたとの事です。父親は官僚で有り、三島も東大を卒業後旧大蔵省に入ったものの、やがて退職、マーケティングリサーチの様な緻密な計算の上に《仮面の告白》で大きな成功を収めました。
     面白いのは、三島が、或いは江戸時代に迄その原型を遡れる様な官僚制を直接に見聞きし知っており、それを冷徹に見据えて分析を行っていたで有ろうと云う事です。一般的には、明治維新後の藩閥政治に日本の官僚制の端緒を見出せるとの事ですが……何れにしても、もう既に、神道・天皇制と云う日本古来の宗教システムから政治は切り離され、変質が始まっていたのでしょうね。それで、象徴的だったのは、陸奥国岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市)出身で《平民宰相》と呼ばれた、原敬が東京駅頭で暴漢に短刀で刺されて絶命した、暗殺事件でした。原敬は、爵位を拒否したりしたものの、それも計算の上で有り徹底的なリアリストで有ったそうです。そして、原敬の暗殺を予期して諫言した人物の中に、三島の祖父の平岡定太郎がいたとの事です……

     つまり、三島は日本古来の神道、皇室から政教分離で切り離された、所謂共和制民主主義の政治(政治家・官僚)が支配する時代に於いて、文学者としてスタート地点に立った訳ですね。しかし、その以前には大東亜戦争(太平洋戦争)の敗戦に至る迄の歴史的経緯が有ったのですが……三島の遺作の、長編四部作で有る《豊穣の海》(第一巻、春の雪)は、日露戦役(日露戦争)の話から始まっており、それは勿論必然的で避け難い事だったのでしょう。大日本帝国とロシア帝国との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満州南部と日本海を主戦場として勃発した日露戦争が始まったのは、二十世紀初頭の1904年(明治37年)ですが、今の国際情勢とも奇妙に符合し重なりますね……

  • >>10312

    小話

     昔々、ある「王様」が、低俗な施しを行きわたらせることばかりに努めてきたことに立腹していました。王様は、驚くべき愛の革命を予見していました。そして、宮廷の女たちでも天国沙汰や贅沢三昧に飾られたいつものへつらいよりも、増なことができるのではないかと思っていました。王様は真実が見たかったのです。本当の欲望と充足の時が知りたかったのです。それが信仰心の迷いだったのか、なかったのか、とにかく王様はそれを望んでいました。王様は、少なくとも十二分に、人としての能力を備えていました。
     王様を知った女は全て殺されました。美の庭園での恐るべき殺戮! 剣の下で女たちは王様を称えました。王様は新しい女を召し出させはしませんでした。 ― でも、女たちはまた現れました。
     王様は狩猟や酒宴の後で、付き従う者をすべて殺しました。 ― でも、みなの者は王様に付き従いました。
     王様は贅をつくした鳥獣の喉を切り裂いて気晴らしをしました。宮殿に火を放ちました。人々に飛びかかって八つ裂きにしました。 ― でも、群集も、黄金の屋根も、優美な鳥獣も無くなりませんでした。
     破壊に陶酔できるのでしょうか、残虐さで若返ることができるのでしょうか! 民は不平をつぶやきはしませんでした。王様の目的に協力を申し出る者もありませんでした。
     ある晩、王様は誇らしげに馬を駆っていました。言いようもなく、言うのも恥ずかしいほど美しい、ひとりの「魔神」が現れました。王様の容貌と物腰からは多様で複雑な愛の約束が!、筆舌に尽くしがたい耐えられないほどの幸福の約束が! 発せられていました。「王様」と「魔神」は、おそらく本質的な健康のうちに消えてしまいました。どうして死なずにいられましょう? だから一緒に死にました。
     だが、この「王様」は自分の宮殿で天寿を全うして死にました。王様は「魔神」でした。「魔神」は「王様」でした。
     私たちの欲望には巧妙な音楽が欠けています。

    ランボー著『イリュミナスィオン』より

  • >>10311


     私は、中々的確な御返事が出来ず、大変に申し訳有りません。

     三島由紀夫の問題は、一つの典型的(ティピカル)な例として、日本とは何か? 日本人とは何か? と云う、最も根源的な問い掛けだったので有ろうかとも思います。三島が自決を決意した頃、それは戦後(昭和中期)の時流に逆行するものだったのが、現在はそうではなくなった。非常に不思議と言えば、そうなのですが……

     最近、新聞の読者投稿欄で、70歳代の人などの意見で【今年は、憲法改正の論議が愈々活発化をしそうですね。殊に九条を巡っては、国会で与野党の論議が非常に白熱化をするのではないかと思います。北朝鮮の核(ICBMミサイル)開発等、日本を取り巻く諸々の環境は現憲法が出来た時とは大きく変化しています】【○×大学教授のX氏は、憲法九条について改憲を通じ解釈を明確化するのは望ましい事だ。国際法に沿った憲法解釈を固める機会に。と述べていました…国際協調主義に則り、日本も国際平和活動(PKO等)により積極的に貢献すべき時で有ると思います】と云う様なものを眼にする事が有り、得も言われずに複雑な感懐を覚えます。国際協調主義、国際平和活動。しかし、例えば南スーダンではどんな事が起こったか……

     私が、一つ素朴な疑問として抱くのは、三島由紀夫は大東亜戦争(太平洋戦争)に於いては徴兵を免れ、従って、本物の外地での戦争(戦場)は知らなかったと云う事です。例えば、近代能楽集の《弱法師》等では大東亜戦争が素材・背景(三島の言うマテリアル)として取り上げられ、酸鼻を極める戦争の情景描写が為されるのですけれども。しかし、三島文学の眼目とは、結局、観念的な人間存在の孤立(isolation)とでも呼ぶべきものなのですね。戦争体験そのものが主題(テーマ)、法律のメトーデの証拠物件ではないんです……そして、それでは、証拠以前に《犯行》(犯行に至る経緯)とは一体何か? と、考えると、性的・宗教的な衝動で有った様にも思えるのですね。更に、それが《死》の強迫観念へと結び付いてゆくのが、三島の生涯を通じた基本的な構図でした……

     興味深いのは、三島が、言葉を正す以外に道は無いと思い詰めていたと《告白》していた事で、それは、唯単に文学上の事ではなく現実の戦後の日本社会を正したいと云う事だった様にも感じます。それ程、言語に拘泥した作家だったのでしょうね……

  • >>10309

    リュウ君、返答、ありがとう。
    これは、10309への返信。書いている内に、10310が書込まれたのだが、返信を書き直すのは難しいので、そのまま書込みます。

    ぼくは、彼の著作は『仮面の告白』を文庫本で読んだだけなのだ。友人が、全集を持っていたのだが、何冊が摘み読みしたのだが、なかなか読み進められなくて、結局は知らずじまい。
    神道で、教会に当たる建物は、神社だよね。天皇を祀っているのは、神宮で、その他の神が祀られているのは、神社だ。例えば、明治神宮(明治天皇)と靖国神社(大日本帝国の英霊)。ここ、門司(門司六ケ郷)の氏神は、神功皇后を祀っている満甲宗八幡社。神功皇后は女性な訳だが、男性同様に扱い、かつては、甲宗八幡宮と呼ばれていたらしい。壇ノ浦の戦いで、海に消えた安徳天皇は、水天門で有名な赤間神宮に祀られている。
    やはり、三島由紀夫の神道は、明治以降、敗戦まで、政府の手により作られた天皇(家)崇拝から生まれた(政治的、敢えて言うなら全体主義的な)宗教なのだろう。多分に西洋のキリスト教と王権神授説の影響を受けていると思う。大東亜戦争敗戦後、主にアメリカにより民主化された訳だけど、ここで、戦前のキリスト教の見えない影響に、戦後のキリスト教の、信仰というよりは文化的な影響が加わった。三島由紀夫は、その葛藤の中で消耗して行ったようにも見える。彼が仏教に接近したことは、ぼくはよく知らないが、そこには宮澤賢治と同じ、日本に於ける仏教の、信仰的意味合いがあるのかもしれない。
    敗戦後のGHQの思想統制のなかで、歌舞伎や日本映画が弾圧された。その時、三島由紀夫は、戦前から続く日本文化の擁護に尽力した事を、日本映画の歴史を書いた本で読んだ記憶がある。
    何が三島由紀夫に、自決する思想・行動を起こさせたのか、ぼくには分らない。

  • >>10307


     言葉の厳密性・法の厳密性に於いて寧ろプロテスタント的との事ですが。私は、三島は『キリスト教が精神を発明した』と嫌っていたにも拘わらず、実はキリスト教に比較的近い立場だった様にも思います。私は、三島由紀夫は《告白》(コンフェション)の作家だった様に感じているのですけれども。それは、自己のモラルの在り方、宗教的遍歴のコンフェションの作家で有った様にも感じると云う事ですが、間違っているかも知れません。

     昨年八月に出版された、未公開インタビュー集の《告白》を読み興味深かったのは、三島は、自分はドイツ語科を出たが、法律は自分で知らない間(無意識裡)に随分影響を受けたと思う。あの頃、あれ程嫌だった法律が、小説や芝居を書いたりするのに後で随分役に立った気がする。と云う風に述べている事です。三島の友人で、法制史の教授をしていた人物が、お前(三島の)小説は法制史のメトーデ(メソッド)と同じだと言ったそうなんです。それで、三島は、法律とは不思議なものであんな面白い学問はないかも知れない。殊に、手続法と云うか訴訟法は面白く、自分の小説構成の一番基本になっている気がする。と云う様に語っている事です。法律が、小説の書式設定(フォーマット)になっていたと云う事でしょうか。つまり、推理(探偵)小説と同じで、証拠・証拠追及手続き・検挙・証明・量刑・判決、と云うプロセスが有って、のみならず死刑に処する(最終的な手続き)に迄言及しているのですが、それが総ての小説の基本構成だと云う訳です。普通なら、判決迄で終われば良いものを、刑の執行迄が三島の場合には重要な問題なので、作家としての避け得ない倫理観(モラル)、言い換えればアイデンティティーだったのかも知れず、若しもそれを喪失すれば作家生命は終わりだったのでしょう。戯曲や近代能楽集は、異なるメトーデだったのかも知れません。

     更に、三島は現実の人生に迄、その構造を敷衍して行ったので、そこが他のどんな文学者とも異なる点で有った様に思います。《文武両道》と云う事を、晩年の三島は語っていましたが、それは言語(観念・概念)と行動とを完全に一致させると云う意味合いで、武士道精神の問題ではないのですね。三島のモラル・宗教性は、言語の核心・本質に忠実で裏切らないと云う事で、天皇制、天照大御神と云うのは別な心理学的な側面から検証をすべき事の様にも思えます……

  • >>10307


     書き込みを有り難う御座います。

     三島由紀夫の信仰について、私が知っている範囲内ですが書かせて戴きます。
     先ず、三島が信仰の核心を置いていたのは、神道で有り、皇室の祖神で日本の総氏神とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)との事です。これは、自決一週間前(1970年11月18日)の、文芸評論家・古林尚氏との対談(インタビュー)に依るものですが……古林氏は、元々、三島文学若しくは三島の思想には批判的で有ったらしく、現実主義的な立場からやや挑発的に対談に臨んでおり、三島は天皇制を中心とする原理主義・理想主義者の様に応じていました。平たく申しますと、左翼対右翼の構図に似ていましたけれども……三島は、古林氏との対談が相当に不快だったらしいです。これは、飽く迄も私見ですが、その頃の三島はもう自決を決心し綿密に計画していましたし、文学は棄て、一軍人の様なものに身を投じており、宗教的強迫観念(オブセッション)に取り憑かれた様な精神状態で有った様にも思えます。まあ、戦後日本の一般的な感覚としては、古林氏の言説は至極尤もで常識的(良識的?)なものですが、しかし、それ以上に三島は鬼気迫って感じられました……

     私が、その対談の内容を知ったのは、もう相当に以前の事です。その頃は、日本で今の様な憲法(九条二項等)改正問題は起きていませんでしたし、ですから、三島の保守的(今は何故、右翼とは言わないのでしょうね?)な言説は、飽く迄も世界的に有名ながら一作家の個人的な所見に過ぎなかったんです。しかし、現在の日本の潮流は御承知の通りで、憲法改正を堂々と論じる事も禁忌(タブー)でも何でもなくなりました。それが、三島の恵眼と申しますか、現代と云う時代を予見していたかの様でも有ります。ですが、私は別に思想的・宗教的に三島の肩を持つ心算はないのですが……私には、三島は矢張り結局文学者・作家として死んで行った様に思えますし、遺作で有る長編四部作の《豊穣の海》は小説として成功しているとは思えません。寧ろ、四巻の《天人五衰》で文字通りに三島は衰微し、仏教的な曖昧性・相対性の中へと自我が融け込んで仕舞った様に思えます。私は、三島は宗教的な人間で有りながら、遂にその対象が定まらなかった様にも感じます。天皇制や神道・天照大御神にしても、何処か牽強付会で不自然な無理強いの様に感じるんです……

  • >>10307

       青春時代

       II ソネ

     当たり前な体格の「男」よ、肉欲は
    果樹園に吊り下がった果実ではなかったのか、 ― おお
    幼稚な日々よ! 肉体は浪費すべき宝物ではなかったのか、 ― おお
    愛することは、プシュケの危機か力か? 大地は
    王侯と芸術家にあふれた斜面だった、
    そして、血統と種族が、罪と喪とへ
    君たちを押しやった。この世は、君たちの幸運と君たちの
    危機。だが、今となっては、あの苦労は報われ、君、君の計算と、
    ― 君、君の苛立ちは ― 固定されても、全く強いられてもいない、
    君たちの踊りと君たちの歌声にすぎない、とはいえ
    ― 姿の見えない世界中の、友愛に満ちた慎み深い
    人類には、発明と成功の二重の出来事 + ある理由だ。
    ― 権力と法律が、今、やっと評価された
    この踊りと歌声を反射している。

    (アルチュール・ランボー/『イリュミナスィオン』より)
    1874年、つまり『地獄での一季節』以降に書かれたとされている詩です。

  • >>10305

    リュウ君、こんばんは

    いろいろありがとう。人の考えは様々だから、不快とか、気にしなくても良いよ。

    それで… 三島由起夫の信仰のことは、ぼくは知らない。リュウ君は知っている? 言葉の厳密性・法の厳密性は、むしろプロテスタント的であり、少なくとも神道的ではないと考える。リュウ君も知ってるだろうが、福音に当たる神道の観念・実体は、神道の頂点が現人神(帝)と捉えれば、詔(みことのり)になると思う。それで、今、調べてみたのだけれど、帝を現人神と仰ぐ大和朝廷の詔は、天皇が下書きをして、公卿全員の承認(署名)を得て、発令されたそうだ。随分、現実的・政治的だ。仏教の場合はどうだろう。ぼくには、三島由紀夫は仏教徒には見えないが、本人の意識までは知らない。もちろん、本人の知らない内に感化されてしまった仏教的に認識はあるかもしれない。だが、言葉=実体とする観念は、少なくとも三島由紀夫が生きていた時代の(日本の一般的な)仏教には無いような気がする。宮澤賢治の仏教に関しても、ぼくは知らない。

    という訳なのだが、三島由紀夫が自決前、ぼくは楯の会の制服?を見て、随分、欧風(ドイツ風?)と思った。彼は、作家としてのパフォーマンスをしていると、ぼくは解釈していた。実際の自決を知ったとき、驚きはしたが、やはり、理解できないという感情が強かった。物として転がり落ちた彼の頭蓋が写った写真も見たが、彼の考えは見えなかった。彼には、性的な葛藤もあったのかもしれないが、それも良く解らない。
    リュウ君が、彼の信仰、自決まで辿り着いた道程に関して、知っていることがあれば、教えて欲しい。

    現代の国際政治は、軍事だけでなく、宗教的集団性、金融覇権など、さまざまな裏面があり、残念ながら、メディアの報道では、ぼくには実体がよく見えていない。

  • >>10299


     母に纏わる《夢》は、時々見ます。夢の中のレコード店で、私は、結局どのレコードを選んで買ったのか? 最後に手に取ったのは、確かジョン=レノンのソロアルバムで、それから連絡船(フェリーボート)に乗りました。村上春樹氏の短編集《中国行きのスローボート》は、昔、愛読していましたが……

     今、感じるのは、三島由紀夫が言葉を正す以外に道は無いと固く信じていた、その作家としての覚悟は潔いものの、現実がそんな風に上手く運ぶ訳はないと云う事です。文学と現実(社会)とは、何処かで繋がっていなければならないものの、余り厳密に考えれば危険なのでしょう。又、三島はモラルの人、非常に宗教的な人間で有ったと思います……

    母が遺した、キリスト教関連の書籍を読むと疲弊させられて仕舞います。一度、母を泣かせて仕舞った事が有りました。それは、盛岡の街中を歩いていた時、急にキリスト教の聖職者に話し掛けられたのでしたが、その時、私は彼等を『偽善的だ』と言ったら、後で自宅に帰ってから母が涙を流して、『何故、偽善者と言ったの?』と、私を責めたのです……そこで、私は、『偽善者じゃなくて、偽善的だと言ったんだよ』と訂正すると、漸く、母は泣き止んでくれたのでしたが……母は、洗礼も受けたプロテスタントでしたけれども。

     私自身は、結局、絵画で表現し文章を書く事で自己を対象化し続けてゆく以外には仕方が無いのだろうと感じています……言い方を変えれば、それが謂わば運命の様なものなのかも知れないですね。夜になりました。岩手・花巻は例年に無い異常な寒波です。宮澤賢治の命を奪ったのも《羅須地人協会》での厳しい寒さで、法華経信仰も役には立たず、修羅は大地へと還りました。若しも御不快の際には、何卒お赦し下さい……

  • >>10298


     私の話は、突然に飛躍する癖が有り申し訳有りません。
     南アフリカ共和国で、若い白人女性が『南アフリカには(アパルトヘイトの)人種差別問題は存在しません』と云う様にドキュメンタリーの中で語っていたのを突然引き合いに出したのは、つまり、アメリカのキリスト教福音派(エヴァンジェリカル)の人々の80%以上が大統領選の際にトランプを支持し、その結果、トランプが選挙戦での公約を守る為にと称して歴代の大統領が先延ばしにして来たエルサレムの帰属を明らかにした為に中東問題が再燃したにも拘わらず、その事実を認めず顔を背けている様に感じるからです。
     強いて文学上の話として申しますと、以前にも書きましたが、三島由紀夫は友人の開高健に勧められ、《告白》のインタビューが行われた当時(1970頃)、ヴェトナム共和国初代大統領夫人で有り熱烈なカソリック信徒で仏教徒を迫害したゴ=ディン=ヌーの芝居を構想していたとの事ですが、残念ながら実現はしませんでした。つまり、ヌー夫人自身は篤信なカソリックで有り或る意味《聖女》の様な清らかな存在で有りながら、異教徒・仏教徒に対しては極めて残忍になり得ると云う宗教的問題ですね。最近の、現実の国際社会の問題としては、旧ビルマ・ミャンマーに於ける宗教的マイノリティー・ムスリムのロヒンギャの迫害で、アウンサン=スーチー氏は以前にノーベル平和賞を受けたにも拘わらず積極的に問題解決に当たっていないとして非難されましたけれども……

     宗教の弊害・陥穽は、ブラインド・ビリーフに陥って仕舞うと云う事で、文学は、それに対抗し得る一つの手段なのだろうと思います。外国文学では、アルベール=カミュの小説や戯曲には下敷きに《聖書》が有りオーバーラップさせていますが、それがカミュのクリティシズムなのかも知れません。しかし、例えば世界で作家に最もクリスチャンが多いのは日本だと聴いた事が有りますが、近代以降、日本人の知識層は無批判にクリスチャナイゼーション・クリスチャニティー・プロテスタンティズムを受け容れて来たのかも知れず、無自覚な欺瞞に繋がった様にも思えます。卑近な一例では、今盛んに取り上げられている或る明治維新の立役者・偉人とされる人物が密かなキリスト教信奉者で有ったとされる様な事でしょうか。岩手・花巻にも所縁で、武士道精神を説いた新渡戸稲造はクエーカー教徒だったとの事ですが……

  • >>10298


     訂正です。三島由紀夫のインタビュー集は《告白》でした。大変に申し訳有りません。

     私が、今韓国で平昌(ピョンチャン)オリンピックが催されており、融和(?)ムードが漂っている時にヴィクトール=E=フランクルの《夜と霧》を唐突に取り上げるのは、一つには酷い身体の病気で何処かにそうしたシンパシーを求めている為ですが、余りにも唐突で大袈裟で有り、無関係と言えばそうですね。ですが、別な言い方を致しますと、フランクルの《夜と霧》には現代の日本社会には完全に欠落している真実・美しさを感じるからです。つまりアンチテーゼなのですけれども……

     一例で申しますと、今は、日本や国際社会はオリンピック処ではないのでは? と、私的には感じています。2020年の東京オリンピック開催が決定した際に、『ワーッ!』と大勢の人々が喜んでいた時、私は理解し得ませんでした。例えば、《東日本大震災》に於ける被災三県の一つの岩手では、未だに震災・津波の被害者の遺骨が発見され、DNA鑑定が行われてから遺族の許へ還されたりしているのですね。ですから今、日本は復興に力を注ぐなど足元を見るべきで、政治・行政が現実性を欠いたら極めて危険で有り取り返しが付かない結果を招き兼ねないのでは、と危惧しております……
     今、最もそれが顕著なのは、国際社会では言う迄も無く北朝鮮ですが。それと、実戦的な小型核兵器を含めた戦略を発表したアメリカ、トランプ大統領の支持層などの事ですね。一つには、キリスト教原理主義的な福音派(エヴァンジェリカル)ですが。私は、第三者的に冷静に検証すべき問題で、宗教と云うよりは社会現象の様にも感じています。文学(哲学)では、例えば、今アメリカではハンナ=アーレントの《全体主義の起原》〔反ユダヤ主義/帝国主義/全体主義〕が、イタリアやドイツのファシズムが台頭した第二次世界大戦後の様に再び読まれているのだそうですけれども。ですから、アウシュヴィッツに纏わるフランクルの《夜と霧》が読まれても良いだろうとは思うのですが、今の日本では全く一般的では有りませんし、私の強迫観念に過ぎないのかも知れません。
     しかし、リアルな戦争と云う事は一先ず置くとしても、今の日本でも文学上の追体験としてでも《夜と霧》の様な本物の作品が読まれて然るべきとも思うのですが、難しいのでしょうね。個人的に残念ですが仕方が有りません……

  • >>10298


     書き込みを有り難う御座います。
     私は、書き方が独り善がりで支離滅裂になって仕舞い、大変に申し訳有りません。
     先ず、三島由紀夫の未公開インタビュー集で有る《仮面》を取り上げたのは、憲法改正(特に九条第二項)に触れており、それが、三島を遂に死に至らしめたのみならず、今正に日本の国民総てが直面している非常に大きな問題だからです。

     私個人は、三島が言わんとしている事は、自分なりに良く解かります。三島は、戦後の日本人は彼自身を含め総て憲法に於いてジャスティファイされておらず駄目だと否定している訳ですが。所謂善良と呼ばれる様な、どの様な人間でも駄目だと云う事なのでしょうね。
     しかし、憲法の字義の厳密な解釈に依り人間の生存を否定すると云うのは、不可解と言えばそうですね。例えば、三島は、軍隊にだけ比較的純粋な人間がいる。娑婆にいる人間、そこらを歩いている人間は殆ど皆嫌いで、人間として何か本質的なものが欠落している、と云う風に述べたのだそうです……
     それで、その根拠を敗戦後の所謂平和憲法の欺瞞性に置いていた訳ですが、それは、戦前・戦時中を知らない人間には中々理解が難しいのだと思います。暫く前に、新聞に掲載されていた、或る80歳代の一般人男性の投稿記事を読んだのですが、憲法改正の問題について、『憲法改正が順調に進んでゆくに連れ、明るい気持ちになる』と云う様に書かれていましたが、高度経済成長期生まれの私には一寸心情的に理解が出来ませんでした……

     三島は、飽く迄も言語に異常に拘泥をし続けた作家で有り、作家の言葉で語っていたので、一般の言葉とは異なりますね。本当は、自己の美的観念を語っていたので、現実の政治上の問題として考えると危険ですし、違うのではないかと思います。謂わば、三島は自己の言語に殺された様にも感じております。普通は、そこ迄言語に忠実ではなく、何処かで誤魔化さざるを得ない訳ですが……
     興味深いのは、三島は、ポール=ヴァレリーを引き合いに出して、一つのものを表現するのは一つの言葉しかない、それが文学者の最後の確信で有る筈なのに、戦後日本では言葉が多義的に用いられる様になって仕舞った。偽善と云うのは言葉についても言える。言語に厳格なのはクリティシズムで有り、今の(当時の)日本では言葉を正すと云う事以外に道はないと思い詰めている。と云う様に語っている事です……

  •  科学、新興貴族だ! 進歩。世界は進む! なぜ回らないんだ?
     これは数字のまやかしだ。おれたちは、例の「精霊」に赴くのだ。おれの言っていることは、とても確かなのだ、神託なのだ。なるほど、今のおれは、異教徒の言葉でしか説明できないんだから、黙っているのだ。

     異教徒の血が戻ってきた! 例の「精霊」は近づいた、なぜキリストは、おれの魂に気高さと自由とを与えて、このおれを救わないのだ。ああ! 福音は去ったのだ! 福音よ! 福音。
     おれは、飢えたように「神」を待っている。おれは太古からの劣等種族の血だ。
     やっとアルモリアの浜辺に着いた。夕暮れに、ああ、なんと多くの灯りが、町々に灯るんだ。今日は終りだ。おれはヨーロッパを去る。潮風がおれの肺を焼く、僻地の気候がおれを褐色になめす。泳ぐんだ、草を踏みつぶすんだ、狩をするんだ、とりわけタバコを吸うんだ、煮えたぎる金属のように強い酒を飲むんだ、 ― ご先祖様が火の回りでしていたように。

    (ランボー/『地獄での一季節』/「悪い血筋」)

  • >>10296

    三島由紀夫の話は、興味深いけど、ぼくはあまり彼を知らない。ただ、言葉(法)のために死ぬというのは、日本的ではないと考えるし、彼の思想の源はどこにあるのか、見えていない。ただ、リュウ君の書くフランクルよりも、身近な問題と感じている。
    さて、本来の福音に戻ろう。キリスト以前から福音という観念(idée)はあったとされている。キリストが生まれ、彼の言葉は、神からの言葉(=福音)として捉えられ、そして聖書が福音の源泉となった。キッドロックのPVにも、それが現れているね。
    このことは、新約聖書に依存するプロテスタントにとくに強く、日本では、大東亜戦争敗戦後、広まった、つまり、リュウ君が書いているとおりだと思う。

    話をカトリックに戻すと、マリアがキリスト(と神)の冷酷さの緩衝としての役割を持っている。マリアは、処女とされている。本来は違うという学説もあるが、ここでは省略する。日本では、聖母教会と訳されるノートルダム教会。もちろん、パリだけでなく、各地にその名の教会があり、その後には、各地の地名が続いている。ノートルは「我らの」、ダム(dame)は、貴婦人・奥方・女領主・既婚女性・丁寧語としての女性という意味で、母という意味はない。あの訳は、日本的な作り事だろう。マリア様には、他に処女マリア La Vierge Marie という呼び方もある、聖処女マリア様と直訳しよう。ランボーは、こちらの呼名をより多く使っている。
    ぼくの実際に知り得た範囲では、オーストリア・フランスなどカトリック国では、男尊女卑が様々な形で残っている。それと、諸権利の平等は、必ずしも当てはまる訳ではない。プロテスタントの場合、特にアメリカでは、マリア信仰の変わりに、レディーファースト的な感覚が一般化し、それが、日本の母性信仰・男女平等・女性賛美などの、一般的感覚に影響を与えたと考えている。

    と、昨日、考えて消えたことを大体復元してみた。
    リュウ君はリュウ君独自に、急がずに考え・取組むことを望むよ。三島由紀夫の分析も。

  • >>10296

    面白い夢だね。夢のお告げという奴かな。レコードは買ったのかな? それで、冥府への船ではなく、フェリーなのだね。「私の所には、まだ来なくて良いよ、あっちに行きなさい。」
    ポール・サイモンは、最近、引退したよ。ビョンチャンオリンピックの時には、イマジンが歌われたそうだね。イマジンではなく、リアライズ、パワートゥーザピーポーではなく、パワーオブザピーポーだよ、と言ってる奴もいる。
    キッドロックの最近のPVでも、聖書が出てきたね。そして、ラストシーンは、マリアと天使(子供)の絵画を思わせる映像だった。

    信仰というものは、何も、教会・モスク・寺などで祈ることだけではない。日常生活の無意識の価値観・判断にまで浸透している。日本人の場合はどうなっているのか、良く分らないが。ただ、例えば、「いただきます」という言葉にも、神道・仏教的な、かつ多神教的な趣がある。
    そうだ、リュウ君が買おうとしたアルバムは、やはりプロテスタント的福音思想が絡んでいるように感じる。
    ノーベル文学賞が、ボブ・ディランに与えられたのは、彼が、福音主義的思想ではなかったからもあるとぼくは考えている。

  • >>10297

    リュウ君、こんばんは
    書いていたものが、不手際?で消えてしまって、今、復元中です。少々お待ちください。
    ところで、三島由紀夫のこととか、このトピに対応したテーマだと思えるけど、すこし、話が省略され過ぎて、想起の羅列となって、リュウ君の考えの轍が見えない。フランクルの文も、なぜ、それを引用しなければならないのか、分らない。
    ま、他人に、解りやすく書くのが、文学とは言えないけどね。

    「 おれは、おれの理性(raison)の囚人ではない。「神」の話は、これでお仕舞終だ。おれは、救われても自由でいたい。だが、どうやってそれを求めるんだ? 軽薄な好みはおれから去った。献身も神の愛も、もう要らない。おれは感じやすい心の世紀を懐かしんでもいない。侮蔑だろうが慈愛だろうか、だれにでもそれなりの訳(raison)があるのだ。それならば、おれは良識という天使の梯子の頂上に席を取ろう。」(アルチュール・ランボー『地獄での一季節』「悪い血筋」より)
    これは、ここ単独で、永続的な真理・概念(idée)を書いているのではなく、この世という「地獄」の中で、救いと自由を同時に掴もうとして、あれこれ書き散らしている、そういう想定で書いたものだろう。
    フランクルの『夜と霧』は、ぼくもかなり前に読んだのだが、もう、覚えていない。

    では、また。


  •  つまり、三島由紀夫は作家として言語に極めて厳格な人間で有り、日本の平和憲法(九条第二項)は欺瞞で有り、戦後の人間(日本人)総ての生存をジャスティファイしないものだと訴えていたのだろう。但し、それは矢張り作家の言葉・概念で語られているので、現実とは齟齬が生じ誤解を招く様にも思える。人間は、誰もが憲法に生存の根拠を置いている訳では無いのだ。先日、新聞で世論調査の結果について読んだのだが、憲法改正問題で九条第二項は維持すべきだとする人々と、改めるべきだとする人々とはほぼ拮抗していた。今も、ニュースで憲法改正の問題が報じられているけれど……韓国・平昌(ピョンチャン)オリンピックが開催されているが、私は、個人的には殆ど興味が無い。気になるのは、金正恩氏の妹・金与正氏の存在だが。それと、アメリカが(実際的な)小型核兵器を含む危険性の高い戦略を発表した事と、トランプ大統領を支持するキリスト教原理主義的な福音派(エヴァンジェリカル)の事……
     大昔に、南アフリカ共和国のアパルトヘイトに纏わるドキュメンタリーを見たのだが、白人の20代の若い女性は、『南アフリカに差別問題は存在しません』と自分自身を信じ込ませるかの様に語っていた……何か、非常に気鬱で堪らない……福音派は、《聖書》を字義通りに解釈し、『自分達は、(神に選ばれた民の)アブラハムの末裔で有り、(イスラエルの)カナンの地を約束されており、最後の審判の時にエルサレムにイエス・キリストが再臨する』と云う風に、一般的な信者達も考えているのだろうか? 良くは解からないが……

     ヴィクトール=E=フランクル著《夜と霧》……
    【我々は人間の生命維持及びそれに関連するものに直接には役立たない総てのものの価値が低下する事に関して、既に述べた…この価値低下は人間自身についても、自己の人格についても言える事で有った。人間自身も、あらゆる価値が懐疑の深淵に堕ちてゆく際の精神的旋風に、巻き込まれるので有った】訳文は適宜に変換……

     アウシュビッツに到着した人々は、『ああ、あの立て札は多分間違いだよ。とんだ誤解と云うものだ』との中年婦人の意見に乗っかり、今度は、微笑の仮面を付けて停車場(プラットフォーム)に降りると、ダンスの様に小躍りを始めたが、それは矢張り十七世紀初頭にピーテル=ブリューゲル二世が描いた《野外での婚礼の踊り》に似ていた……


  •  平成30年2月14日、水曜日。バレンタインデー。元々は、三世紀にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日として、主として西方教会の地域に於いて伝承されて来たとの通説らしい。花巻は流石に寒く雪……朝方に不思議な《夢》。私は、母の誕生日の贈り物にレコード店で物色している。サイモン&ガーファンクル・ザ=ビートルズ・ジョン=レノンのソロアルバム等。それから連絡船(フェリーボート)に乗る。《夢》から目覚めた途端に又耐え難い激痛……

     昨夜、三島由紀夫の《告白》を少し読んだ。《放送禁止扱い》とされて来た(インタヴュー)音源の中から発見され、凡そ半世紀の歳月を経て甦った肉声との事だが……巻末に《発見のこと―燦爛へ》として、発見者で有る人物の〔あとがき〕が掲載されている。それに依れば、音源のテープには[1970年 自決半年前の三島由紀夫の思想 三島由紀夫とジョン=ベスターの対談]と記されていたとの事……興味深いのは、《戦後日本の偽善》として日本の所謂平和憲法に三島が言及している事。先ず、日本の近代化、モダナイゼーション、クリスチャナイゼーション、それの裏側に存するクリスチャニティー、更にプロテスタンティズムが戦後日本に於いてアメリカの影響を受けた一つの基調になっており、偽善で有ると三島は語っている。日本のインテリ、特に政治関係ではその偽善に完全に侵されていたとの事だが……それから憲法の問題。法に従うか死ぬかと云う事は、人間社会の一番本質的な問題で有り、日本の憲法を本当に文字通りに理解すれば、日本人は絶対に死ぬ他はない。つまり、今(当時)日本で行われている事は総て憲法違反で有り、それを皆が現実として認めているものの、政府だけではなく、誰がやっている事も憲法違反で有る……理想は理想で立派で、憲法九条全部が悪くはなく、人類が戦争をせず平和を守るのは立派な事だが、しかし(憲法九条の)第二項が良くない。第二項がアメリカ占領軍が念押しの規定をしている。そうやって、人間が誤魔化して生きてゆくのには耐えられない。それは、モラルの根源的な部分で何処かで誤魔化す、人間はそう云う事をやっている。憲法は日本人に死ねと言っているのにも拘わらず、生きているのはジャスティファイされておらず、皆が人生を愉しんでいるのは嫌いで耐え難い(耐え難かった)との事……


  •  平成30年2月12日、月曜日。症状は矢張り酷い。早朝に除雪車が通って行ったらしく、家の前に固い雪の堆積が出来ていた……《苦界浄土》の石牟礼道子さんが亡くなられたとの事。母の誕生日、2月10日、作家の石牟礼道子さん死去、享年九十歳。人間の極限的惨苦を描破した《苦界浄土》〔くがいじょうど〕で水俣病を告発し、一見豊穣な前近代に取って代わった近代(日本)社会の矛盾を問い、大自然と共生する人間の在り方を小説や詩歌の主題(テーマ)に据えた女性作家・石牟礼道子さんが、パーキンソン病に因る急性憎悪の為に熊本市の介護施設で死去。何か、象徴的に感じる……日本や国際社会は、今、明らかに大きな転換期を迎えているけれど。今年、平成30年は一種の猶予期間の様に感じる……朝方、不吉な《夢》。平成十五年に他界した、母の遺影を10日の誕生日に居間に飾って置いたのだが、その遺影の花が何故かひとりでに動いていたとの事。勿論、唯単に、一寸した衝撃で偶然に動いたのかも知れない……

     今の日本で、嘗てのナチス・ドイツに依るアウシュヴィッツ強制収容所での一心理学者の体験談で有る《夜と霧》を取り上げても、一般的ではないし、寧ろ水を差す様なものだとは勿論充分に解かってはいるのだが……
     ヴィクトール=E=フランクル著《夜と霧》……
    【精神医学は所謂恩赦妄想と云う病像を知っている。即ち死刑を宣告された者が、その最後の瞬間、絞首刑の正しく直前に、恩赦されるだろうと空想をし始める事で有る。斯くして我々も希望に絡み付き、最後の瞬間迄それ程事態は悪くないのだろうと信じたので有った】【アウシュヴィッツは当時疑いも無く、戦後後期のヨーロッパに於いて金や銀、プラチナや宝石が最も多く存在した中心で有った。即ちそれらは巨大な倉庫の中だけではなく、又、親衛隊の手にも、又、我々を迎える囚人達の群れの手中にさえ有ったのだった】 訳文は、適宜に変換をさせて頂いております……

       ***

     アウシュヴィッツに到着した憐れな人々は、情け容赦も無いごく単純な事実を突き付けられて知るや否や、各々の顔に奇怪な表情の仮面を貼り付け隠し事の様にひそひそと声を潜めながら話し始めた。一人の中年女がいて、彼女はヴェール様の布で顔を覆い隠していたが、如何にも不快げに『あの立て看板は間違っているのでしょう。恐らく別な物を指しているんだわ』と語った……


  •  平成30年2月11日、日曜日。症状が余りにも酷く、形容に絶する。昨日、2月10日は亡くなった母の誕生日だった。《夢》に母が現れて、この得体の知れない症状への対処の仕方を教えてくれないだろうか? と思っていたが、駄目だった……韓国・平昌(ピョンチャン)オリンピックが開幕。先日の夜、開会式の様子を床で横になった儘で聴いていた。身を起こして見る気力はなかった。韓国の歌手達がジョン=レノンの《イマジン》を歌っていた。北朝鮮問題も有り、政治色が強過ぎて興醒めだが。会場の外では、オリンピック開催反対のデモも行われたとの事。北朝鮮と韓国との融和など凡そナンセンスだろう。幾ら、制裁強化等を続けた処で、北朝鮮が核兵器の開発・保有を諦める筈がない。アメリカ、トランプ大統領は小型核兵器の使用を含めた戦略を発表。それが、若しも実際に使用されれば極めて危険ではないか。金正恩氏の、実の妹の存在は何なのだろう? 私には詳しくは分からないが。別に、オリンピックそのものが悪いと云う訳ではないのだけれど。北朝鮮は、ミサイル開発を誇示。オリンピック閉幕後は果たしてどうなるのか? 兎に角、楽観的な気持ちにはなれない……

     ヴィクトール=E=フランクル著《夜と霧》……
    【四 非情な世界に抗して―長時間収容所内にいた囚人達のこの非感傷性は、生命維持と云う最も原始的な関心には役に立たぬ総てのものの価値が喪失した、と云う事の感情的な表現に他ならない―一般的に収容所に於いては謂わば文化的な冬眠が支配していたが、尚、二つの関心が有った。一つは、当然の事乍ら政治的関心で有り、他は、注目すべき事には宗教的な関心で有った】 訳文は適宜に変換……

      ***

     鉛で出来た棺桶に似た列車が、相当に大きな停車場(プラットホーム)へと愈々滑り込み始め、貨車の中で不安と恐怖に打ちひしがれながら待っている無力な羊の群れの様な人々の中から、突然一つの叫び声が上がった。『見ろ! ここに立て札がある。アウシュビッツだ!』『アウシュビッツだって!』『アウシュビッツ! おお!』 その言葉は、忽ち、呪文の様に人々の間に素早く伝播をして行き、彼等は、十六世紀ブラバント公国の画家・ピーテル=ブリューゲル〔Pieter Bruegel〕が描いた絵画の様に顔を顰めてひそひそ話を始めたが、それは、まるで様々な表情の仮面を付けている様だった……

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