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他力

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  • 2018/05/23 13:29
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    tyt***** 5月23日 13:29

    >>3237

    サンネさん
    前回おつしゃっていた
    >何度も繰り返しお伝えきてることですが、これは体験なしには解らん事かもしれません。

    とありましたがそうなんですよ !
    貴方の夢で見た「ひかり」をわたしはわかりません、
    と以前から云って居る事ですし、
    わたしの影のひかりもあなたには
    理解できないことだと思います。

    けれど
    阿弥陀の意味となる
    無量のひかりと無量のいのちが
    貴方ともわたしとても無縁の事柄であるとは思えません。
    いやいきとしいけるものにかかわる
    無量のひかりと無量のいのち
    のことであろうと思います。

    たから
    今まさに生きて居るという事実が、
    それなしにはあり得ないことがらで、
    貴方もわたしも平等に
    そのひかりの恩恵をうけつづけている、
    というのにそれが理解し合えないというのは、
    それが普通に「ある」というかたちで
    あるのではないという特殊事情にあると
    思います。

    けれども共に生かされているという事実が、
    そのひかりを証しているのです。
    わたしが証するのではなく、
    また出来るものでもない。
    了解できないままに
    証されていくというのが
    他力的だと思うのですが、
    如何・・・・なむあみだぶつ

  • >>3235

    [>「証の世界」とはす「第十一顔の世界」ですぞ !

    へ~~~第十一顔の世界というと、
    ひょつとして十一面観世音のせかいですかな^^]

    「願」の変換違いですな。
    この道の人なら誰にでもわかるケアレスミスですが、
    揚げ足取りでしか返せないとはやはりまだその先の世界が今生でもあることを認めたくないようですな?

    『>我ら凡夫の分際でたわ言ぬかすな
    >と云われる事は珍しいことではないんです。

    というと随分そのように云われつづけていた
    ということですなぁ。
    でもそんなことにはいっさい受け付ける必要はなかった。
    それはあなたには確固とした信があった。
    体験があつたということですねぇ。
    でも貴方の体験第一主義で、
    他人の言葉には耳を貸すことはなかつた
    ということでしようなぁ。』

    親鸞聖人の言葉に耳を貸しきり状態でしたな!(笑)


    『たぶんそこで貴方の信体験が
    敗れ去る体験がくるとすれば、
    貴方が尊崇できる有縁の知識にめぐりあい、
    その方の厳しい諫言でしょうなあ。』

    私が自らした体験ならいざ知らず、如来より賜った体験が崩れようはずもなく!!


    [唯円の序文でいつているように
    「幸いに有縁の知識に依るーらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟
    を以て、他力の宗旨を乱ることなかれ」と。
    なむあみだぶつ]

    法然は600年も前のしかも異国の人を有縁の知識としましたね。
    さんねが750年も昔の人を善知識として仰ぐのは気に入りませんかな??(笑い)

    釈さんね

  • ◆名号が信心の地金

     さてその聞かしてくださる御法義、即ち法蔵因位の本誓を聞くというは、なにもむつかしいこと

     ではない、名号の御いわれを聞きひらくばかりぢゃ。御信心というものは、こちらに拵えるもの

     ではない、それをこちらに拵えようというのが間違いぢゃ。御開山様は至心は至徳の尊号を體と

     す、信楽というはその至心をもつて體とすとのたもうて、至心の御名号が御信心の地金なりとの

     ままう。ところが欲生は「諸有の群生海を召喚し給うの勅命なり」とのたもうてあり、又連師は

     「一流安心の體ということ、南無阿弥陀仏の六字の意なり」とのたまい、又「それ南無阿弥陀仏

     というは、即ちこれ念仏行者の安心の體なりと思うべし。されば信心というも別の意にあらず、

     みな南無阿弥陀仏の内にこもりたるものなり、近頃の人は別のことのようにおもえり」とのた

     もうて決して別のものではない。御六字がすなわち我が信體で、仏の方では御名号、それが我が

     胸にありては御信心、口にあらわれて御称名、さらに変わりたるものではない。よくよく心得る

     べきものである。                    『七里和上言行録』

  • >>3234

    >「証の世界」とはす「第十一顔の世界」ですぞ !

    へ~~~第十一顔の世界というと、
    ひょつとして十一面観世音のせかいですかな^^

    >我ら凡夫の分際でたわ言ぬかすな
    >と云われる事は珍しいことではないんです。

    というと随分そのように云われつづけていた
    ということですなぁ。
    でもそんなことにはいっさい受け付ける必要はなかった。
    それはあなたには確固とした信があった。
    体験があつたということですねぇ。
    でも貴方の体験第一主義で、
    他人の言葉には耳を貸すことはなかつた
    ということでしようなぁ。
    たぶんそこで貴方の信体験が
    敗れ去る体験がくるとすれば、
    貴方が尊崇できる有縁の知識にめぐりあい、
    その方の厳しい諫言でしょうなあ。

    唯円の序文でいつているように
    「幸いに有縁の知識に依るーらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟
    を以て、他力の宗旨を乱ることなかれ」と。
    なむあみだぶつ

  • >>3231

    「証の世界」とは「第十一顔成就の世界」ですぞ!

    「証の世界」というと

    貴兄のように同行の人たちの多くも自力聖道門の「悟りの世界」と同一視して、

    我ら凡夫の分際で たわ言 ぬかすな

    と言われる事は珍しいことではないんです。

    しかし

    信心の行者の十一願成就世界は

    宿業の過去が諦められ、成仏の未来が明らかにされている永遠の今。一如世界!!

    去来現が同時・同処に成就している不可思議・不可称・不可説の「会得体験」!!!

    何度も何度も繰り返しお伝えきてることですが、これは体験なしには解らん事かもしれません。


    きっと貴兄の場合は「念佛三昧」の中で会得されて行くことでしょう!!!!

    沙弥さんね

  •  如来清浄の真心をもって、円融無碍不可議不可称不可説の至徳を成就す」と仰せられて、衆生に

     は本来清浄真実の心がないゆえに、兆歳永劫の御修行に衆生に代わって清浄ならずということ

     なく、真実ならずということなしと、大悲の御真から、兆歳永劫に積み重ねた善根功徳を、

     ただ一句の南無阿弥陀仏の徳号に封じ込めて御成就なされた。その徳号が円融無碍不可称不可

     説不可思議の至徳と仰せられたのである。            『七里和上言行録』

  • ◆阿弥陀如来の御修行

     そこで誓いは必ず修行を起こす。西国一番の金持ちになりたいと願うばかりでは金は貯まらぬ。

     商法なり工業なり何なり事業を起こさねばならぬ。阿弥陀如来様も、御願いばかりで御修行なさ

     らねば衆生を仏にできぬ。そこで兆戴永劫の御骨折りをなされた。

      『御本典』のなかには「一切の郡生海、無始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪

     汚染にして清浄の心なし。虚仮テン偽にして、真実の心なし。是をもって如来、一切苦悩の

     衆生海を悲閔し、不可思議、兆載永劫において、菩薩の行を行じ給う時、三業の所修一念一刹那

     も清浄ならざることなく、真心ならざることなし。

  • >>3230

    >ただ最後に転入した証の世界、
    >十八願成就の世界ではただただ感謝しかありませんでした ! ! !

    そうですか、そうですか。
    わたしは生きてあるうちは
    証の世界転入するなぞは思いもおよびませんので、
    そう信じておられる方にたいしては、
    何一つ反論するものはありません ! !
    なむあみだぶつ

  • >>3227

    #そうですよ。
    だから信心正因としたら念仏は報恩とならざるを得ないと
    云っております。
    しかし信心なくともお念仏からはじまり、
    お念仏が真であると知らされる、
    信智されていくという道もあってもよいのでは・・・

    ご本願は凡愚の者のためにたてられたのであり、
    信心を得るというひとにぎりの者のための
    念仏ではありますまい。
    お念仏はこういうものであると、
    人間の方から限定してしまうことは、
    広大無辺で不可称不可説不可思議を
    小さく限定してしまうことになる。#

    親鸞聖人は

    「三願転入」の告白で
    ここで貴兄が言っている「念仏の軌跡」をこちら側から「限定」しておられる!

    当方にも貴兄の言われていることに何一つ反論するものはありません!!

    ただ最後に転入した証の世界、
    十八願成就文の世界ではただただ感謝しかありませんでした!!!

    さんね沙弥

  •  唯知作悪のいたずらものが、大涅槃の妙果をうるという一大事。を換えていえば、地獄をのがれて

     極楽に参るという一段、大小聖人のお歴々でさえ御心配ぢゃに極悪最下の我々が、つくり固めた

     妄情でかれこれ計りょうはずがない。ただ如来の誓願に任せ奉るべし。我が身は地獄行と確定

     したものゆえ、間違いなく助けるぞよの大誓願に往生一つは御任せ申すよりほかはない。

      よって只今の『御和讃』には「弥陀大悲の誓願を、深く信ぜん人はみな・・」と仰せられた。

                                    『七里和上言行録』

  • ◆妄情をかためたものではない

     「わたしは彼尊の御本願一つで御助けと聞かせて頂いて安心できたで、往生はまちがいない」と

     安心するのではない。

      それは言葉の上では「彼尊の誓願一つで御助け」といいながら、安心決定は自分の領解を掴ま

     えているのぢゃ。よって若存若亡、つねに落ち着きがならぬ。御当流の御信心は「往生ほどの

    一大事凡夫の計らうべきにあらず、唯如来の誓願に任せ奉るべし」と。

  • >>3226

    >信心為本のお念仏の実相ですね。

    そうですよ。
    だから信心正因としたら念仏は報恩とならざるを得ないと
    云っております。
    しかし信心なくともお念仏からはじまり、
    お念仏が真であると知らされる、
    信智されていくという道もあってもよいのでは・・・

    ご本願は凡愚の者のためにたてられたのであり、
    信心を得るというひとにぎりの者のための
    念仏ではありますまい。
    お念仏はこういうものであると、
    人間の方から限定してしまうことは、
    広大無辺で不可称不可説不可思議を
    小さく限定してしまうことになる。

    親鸞聖人も関東での布教で
    念仏道場を建てられたということは、
    念仏を申すことから始められたと
    思えてならないのです。
    なむあみだぶつ

  • >>3225

    信心と念仏は一対一体ですが

    親鸞聖人の南無阿弥陀仏においては

    同時・同所の出来事ですが先と後があります。

    まずは信の一念があり直後に行の一念があり念仏は臨終の時まで延びていきます。

    「延即」とはそういうことですね。

    相続の念仏とは
    信の一念の時すでに去来現の全てを一瞬のうちに知らされいただけているので
    行の一念から臨終の一念まで相続の念仏となり感謝以外のなにものでもなくなります!

    信心為本のお念仏の実相ですね。

    沙弥さんね

  •  『高僧和讃』には「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」とある。『御文章』には「此の如く決定し 
     ての上には、寝てもさめても命のあらん限りは、称名念仏すべきものなり」といづれも厳しい

     教化はいくらもある。そこで高祖善知識方のお勧めばかりかというとそうでない。その御行状

     をいえば、法然様の御伝記をうかがい申せば、一日八万遍御称えなされ、御臨終間近には十万

     遍になされた。もはや明日は御臨終という前の晩に御枕元で御弟子方と御念仏なされて、御弟子

     方の中には声がつかれてが止められた人もあるのに、法然様は八十有余の御老体しかも御病気

     ぢゃに、声もつかれ給わず御相続なされたとある。       『七里和上言行録』

  • ◆そんならなにゆえ御相続をお勧めなさる。さてこれからお話いたそう。
     
     あんた達は人を手本に取りたがるが、あの信者はコウぢゃ、あのお寺様がコウおっしゃったと、

     人を手本にするよりは御開山様、蓮如様を手本にさっしゃるがよろしい。其処で何故その称名

     相続せねばなりませぬかいな。第一に御教化がその様ぢゃ。ただ今の『御和讃』には「ねても

     さめても隔てなくね南無阿弥陀仏を称うべし」とある。

  • >>3221

    >同じで違ってみんないい ! ! !

    そうですなぁ。
    衆生に「わが名を称えよ!」というのが
    阿弥陀様の願いで、
    称えることが広まること。
    広まることは阿弥陀様のお慶び。
    なむあみだぶつ

  • >>3219

    >はいはい!
    >すがれる他力が大好きだ !
    >何からなにまで他力 (本願力) の賜物だから
    >何から何までありがとう !
    >ありがとうだから、すがる心を手離して、
    >大好きだ!

    >親から産み付けていただいた、貴方の仏心、大好きです。


    「親から産み付けていたたいた、貴方の仏心」
    という言葉から禅宗的視点からの
    他力 (本願力)理解と思います。
    桜井鎔俊という念仏者の本願力解釈を
    参考までにご紹介します。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    真宗というものはどういうものかというと、親鸞聖人はピシャリというてある。それは『教行
    信証』というお書物の終わりのほうにかいてある。

     横超は本願を憶念して自力の心をはにるる、専修というはただ仏名を称念して自力の心をはなる。

    ナムアミダブツ ナムアミダブツとただお念仏もうすばっかりで、それではからいの心を離れる。
    こういうことが書いてある。そのつぎに、

     これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。

    頓の中の頓――このくらいてっとり早い教はない。真の中の真――真々園というのはここから出た
    んだ。乗の中の一乗なり――迷いから悟りの世界へ運んでもらう乗り物の中で最高の乗り物なんだ
    と。これすなわち真宗なり。これをまとめていうと念仏ばかり称えて、阿弥陀様にお任せして、
    自分のはからいをやめて、そうしてナムアミダブツ、ナムアミダブツというのが真宗なんだ。
    わかりましたかネ。                    (教団誌のコラムより)

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    わたしは「すがる」とかきましたが「お任せ」とするほうがよいようですね。
    なむあみだぶつ

  • >>3215

    念仏為本は十八願文

    ただただお念仏を称えるのみ!

    信心為本は十八願成就文

    ただただ感謝のお念仏!!

    同じで違ってみんないい!!!

    さんね沙弥

  • >>3218


    ●弱い私も大好きだ●

    >医者が三ケ月の命ですと宣言されたら、
    >ウロがきてなにを仕出かすが見当もつかない
    >というのが本音です。

    ハイハイ!
    そういう我執・煩悩も本願他力の賜物。
    そんな煩悩も大好きだ!
    そんな弱い私も大好きだ。

    煩悩を断ぜずして涅槃を得る――龍樹・親鸞。

  • >>3218

    >だからこそです、
    >他力にすがるという可能性が
    >与えられているのです。

    ハイハイ!
    すがれる他力が、大好きだ!
    何からなにまで他力(本願力)の賜物だから
    何からに何まで、ありがとう!
    ありがとうだから、すがる心を手離して、
    大好きだ!

    親から産み付けていただいた、貴方の仏心、大好きです。

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