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他力

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  • 2018/01/18 13:09
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    さんね 1月18日 13:09

    >>2835

    それから「異安心」というような「排他的」な批判ではありません。

    法然源流の浄土教の一法統であることを認めています!

    さんね沙弥

  • >>2835

    すり替えなんぞではないことが分からんことから貴兄への説明がかなり困難である事がわかります。

    もともと一つの願であったという事は

    十七願で成就された「大行」を十八願で廻向されたという一連の流れを意味しています。

    まさに衆生との関係で成就されたと言うことでですよ!


    #>南無阿弥陀仏を「弥陀如来の行」として十七願とし、「選択本願の行」といただき、
    >十八願を「選択本願」と分けた理由をどうみますか?

    第十七願は「弥陀如来の行」ではない。
    「諸仏称揚の願」(諸仏称名の願)です。
    もつと正確に質問してくだされ ! !

    だからこれは諸仏がたが、
    わたしをほめたたえて名をとなえないようなら
    ほとけにならない
    と誓われた願。
    われわれ衆生は関係ない。

    そのすばらしい称名を、
    われわれ衆生に回向してくださったのが、
    第十八の「念仏往生願」
    ということを師からお聞きしたことがある。
    なむあみだぶつ#

    もっと詳しく説明して欲しければ行巻を共に読み進めますか?

    釈さんね

  • >>2829

    >ついでに
    >弥陀本願は24願なんじゃが
    >17願と18 願は一つの願であった
    >ことも念頭に置いた方がよろし !


    おいおい論点をすり替えちゃいかんね ! !

    『平等覚経』の話じゃないでしょうが。

    >南無阿弥陀仏を「弥陀如来の行」として十七願とし、「選択本願の行」としていただき、
    >十八願を「選択本願」と分けた理由をどうみますか?

    というのが貴方の質問である。
    そしてわたしは師のご領解を紹介したのだが、
    それにたいして貴方は即座に「異安心」のレッテルをはつたのです。
    それは会話のルールに反している。
    「異安心」とする根拠と
    貴方に正統とする領解を話していただかなければ
    ならない。
    わかりますよね !
    なむあみだぶつ

  • >>2833

    3 五念門を法蔵菩薩の行とする親鸞の解釈

    親鸞はそれに基づいて、『浄土論』の「菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三藐三菩提故」を菩薩は是の如き五門の行を修して自利利他して速に阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるが故に」と敬いを示す送りがなを付して、五念門を行じる行者を法蔵菩薩であるとかれの理解を示している。p166

    それについて山辺・赤沼師は次のような説明をしておられる。

    第十八願には三信十念が誓うてあるので、こと三信十念は『浄土論』の所明に当てると一心と五念にあたり、教行信證の四法の中では行信の二法である。第十一願には正定聚と滅度とが誓うてあるので、その正定聚は五功徳門の中の近門と大會衆門で、滅度は宅門と屋門である。第二十二願は還相廻向の願であるから、五功徳門中の最期の薗林遊戯地門にあたる。この十一、二十二の二つ願で、五功徳門がそなわって、これで四法中の證となるのである。一念五念五功徳門はかくの如く、永劫に誓うてあるので、この本願に依って報土に往生することも出来、穢國に還って人天を度することもできるのである。
    この解説によって、親鸞が五念門を菩薩の行と解したのか、凡夫の行と解したのかという疑問は解消される。

    親鸞は先ず「利他」の語義解釈によって曇鸞が五念門を法蔵菩薩の行と領解することを示したものと理解した。さらにその後に第十八、十一、二十二の三願が順次に説かれていることを親鸞は、曇鸞が一心五念を第十八願の三信十念に相当するものと領解したことを示したものと理解した。このように理解することによって親鸞は「法蔵菩薩は五念門の行によって阿弥陀仏となり、阿弥陀仏は自己の修習した五念門を衆生に第十八に摂めて三信十念なる凡夫の行として廻向したのだとするのが曇鸞の註解の意図であると理解したのである。

    p168~169

    また論註の

    諸仏諸菩薩には二種の法身があり、それらが広略相入することを知らなければ

    「廣略相入を知らざれば、則ち自利利他に能わず。」

    この意味どう領解しますか?

    さんね沙弥

  • >>2831

    上田義文、星野元豊、小谷信千代三氏の比較検討の結果は歎異抄カデの方にでも書いて行きます。

    正定聚不退転の世界開示がどの程度できていたかの比較評価になります。

    今日は小谷さんから今回教えていただけた五念門を何故親鸞は法蔵菩薩の行だと信受したかについててです。

    次に載せておきます。

    何かの参考になればいいんですが、、、

    つづく

  • >>2826

    小谷信千代さんの「真宗の往生論」ようやく読み終えました。明日にでも始めから通して確認し纏めてみたいと思いますが、江戸教学の凄さには驚かされました。
    いくつか拾ってみますので先ずはご覧くだされ。

    a五念門(第二節「起観生信」)

    香月院曰く
    『浄土論』は一心の安心が憶念相続のとき三業へあらわるる相を五念と説く。
    および
    一心の安心が等流相続する處は憶念心で、その憶念が身口意の三業を発動して往生の行を修するすがたが禮拝賛嘆作願観察廻向の五念門

    江戸教学者 香月院の師 理網院慧琳の説

    第十八願の信心称名の者は五念自から具足す。発信称名する者、豈に身業の礼拝なからんや。称名即賛嘆門なれば賛嘆門あること論ずるに及ばず。作願門は即欲生我國の心なり。観察門即聞其名号、本願の生起本末を聞て疑心あることなきはこれ観察門なり。自信教人信はこれ廻向門なり。
    信心称名の者、五念門具足することみつべし。p149~150

    理網院は、五念門に関する『論註』の注釈はそれらの行をすべて此土と彼土との両方において修せられるものと考えてなされており、廻向に関する注釈も同様に理解される、と言う。香月院は二種の廻向を五念門の廻向と五功徳門の廻向とに配して、

    因の五念門の中の第五の廻向門は娑婆にありて自信教人信常行大悲で衆生を済度するは往相の廻向、
    また果の五門の中の第五の園林遊戯地門は浄土に生じ終わりて後の衆生の衆生済度ぢやによりて還相廻向なり。

    と述べる。曇鸞がこのように因の五念門の廻向門を説くべき場所に果の五功徳門の園林遊戯地門の説明を交えて述べたことが後世に混乱をもたらした。そのことを香月院は
    古来の註家みな此処が合点ゆかぬとみえて、(中略)『さつ補鈔』などには、この中の還相は此土の還相か浄土の還相かと論じてあり。
    しかし香月院は『論註』のその注釈の仕方を、理網院も言うように作願門・観察門の下で奢摩他・毘婆舍那が此土と彼土とにおいて修せられたる行として述べられたのと同様に、

    因中説果(因を明かすところで果の相をも説く)、従果示因(果の相に従えて因の相をも知らしめる)

    の説明法を用いたものであると述べて~~~p156


    如何ですかな?

    沙弥さんね

  • >>2828

    ついでに

    無量寿経の異本である「平等覚経」では

    弥陀本願は24願なんじゃが

    17願と18願は一つの願であった

    ことも念頭に置いた方がよろし!

    沙弥さんね

  • >>2826

    そして

    曇鸞は

    18願 11願 22願の三願を以て

    「五念門・五功徳門」が法蔵菩薩の修行だったと示しまたね!

    わかりますか?

    沙弥さんね

  • >>2825

    全く「異安心」の師でしたか?

    師は行巻をどう解釈しとったのですかな?

    釈三会

  • >>2824

    >親鸞聖人は
    >11, 12, 13, 17、18、19、20、22、33、の九願に分けてその内実を開示しています。
    >今一度原点から親鸞純粋他力の浄土門を学びなおされたほうがよろし。


    そうですか。
    なむあみだぶつ

  • >>2824

    >全然わかつてないようです。
    >17願が我々と関係ないものなら
    >如来が成就した念仏という大行を
    >次の王本願で受け取ることなど不可能になってしまう。

    17願を「弥陀如来の行」なぞとのたまうところは
    願門も読んでおられぬようですなあ。

    十七諸仏称揚の願(諸仏称名の願)
    たとひ、われ仏をえたらんに、十法世界の無量諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を
    称せずば、正覚をとらじ。

    「十方世界の諸仏」と呼びかけられている。
    どこに「衆生」と言う文字がはいっとりますか?

    その次にくる「王法願」がいかに尊い願であるかを、
    衆生にわからせるための方便として、
    17願が添えられたとみるのが
    師の見方であつたというまでで、
    参考になればよし、
    ならなくてもまたよし、
    ということでしよう。
    なむあみだぶつ

  • >>2821

    全然わかってないようです。

    17願が我々と関係ないものなら

    如来が成就した念仏という大行を
    次の王本願で受け取ることなど不可能になってしまう。

    貴兄は行巻を表題からしっかりと読み直す必要があります。

    法然によって18願一つに収斂された念仏行を

    親鸞聖人は

    11、12、13、17、18、19、20、22、33の九願に分けてその内実を開示しています。

    今一度原点から親鸞純粋他力の浄土門を学びなおされた方がよろし。

    親鸞聖人の名においてお念仏を語るのならです。

    貴兄のような念仏行を以て入っていくお念仏もたしかにありますし、

    そういう意味で

    貴兄のお念仏を否定するつもりは全くありませんからそこは誤解なきよう。

    たしかに法然浄土門には貴兄のお念仏の潮流はありますし、今も生きております。

    釈さんね

  • >>2820

    あぁこれでは

    禅や真言と同じように方便法身なしに直接(法性)法身に相見える自力聖道のアプローチで、ある日突然だけに当たる石の音に悟りを開く体験とかわりませんな。

    それはれっきとした覚りの念仏ですが、親鸞の入り方とは違う門からのものです。

    沙弥さんね

  • >>2819

    やはり、
    弥陀本願の生起本末が何かわからずに
    ただ念仏して念仏行の中で自然に信心の念仏に入っていたということですな?

    #おそらく
    否定的対立のまま、
    同一平等というように
    矛盾的契機をふくまない論理は、
    他力浄土教にらはなじまないのでは
    なかろうか?
    なむあみだぶつ#

    これも理性分別の世界での解釈ですな。

    機と法の関係は否定的矛盾的関係と捉えてる間は真実信心をいただけない

    19、20願のお念仏ですな。

    釈三会

  • >>2818

    >南無阿弥陀仏を「弥陀如来の行」として十七願とし、「選択本願の行」といただき、
    >十八願を「選択本願」と分けた理由をどうみますか?

    第十七願は「弥陀如来の行」ではない。
    「諸仏称揚の願」(諸仏称名の願)です。
    もつと正確に質問してくだされ ! !

    だからこれは諸仏がたが、
    わたしをほめたたえて名をとなえないようなら
    ほとけにならない
    と誓われた願。
    われわれ衆生は関係ない。

    そのすばらしい称名を、
    われわれ衆生に回向してくださったのが、
    第十八の「念仏往生願」
    ということを師からお聞きしたことがある。
    なむあみだぶつ

  • >>2818

    >ゲンショウさんはさんねの「勝縁勝境」をたかが何十年も前も「夢」で片付けしまう。
    >どうしてそんなことができるんだろうか?

    サンネさんわたしは何時までも
    おんなじところにはいませんよ !

    貴方は夢の中で「ひかり」を観た。
    わたしはかたちのないひかりを
    一瞬気付いたこした。
    その「違い」です。
    それがお互いの信心だとしている。

    わたしは貴方の「夢のひかり」を知ることはできないし、
    貴方はわたしの「かたちのないひかり」を
    知ることはできない。
    かたちあるものだと必ず違いがある。
    個体の性質で不可避的につきまとう。
    世の中二つとして同じものはない。

    けれどそれだけではないので、
    そのばらばらなものを結びつけているものも、
    また同時にあると思うのです。

    それが
    「かたちのないひかり」
    かたちがないので、
    「これ」と指すこともできない。
    ここからは私のものと区分することも
    出来ない。
    かたちのない「其れ」を考えることも、
    教えることもできない。
    なむあみだぶつ
    と称えるばかり・・・

  • >>2816

    >だだ念仏
    >と答えているのとおなじです。
    >親鸞聖人はただこの信行を明かさんがために何万御もついやし
    >生起本末
    >お説かれたのです。

    そうですよ !
    でも真実報土にはかたちがない
    かたちのないものを説き様がない。
    「だから不可称不可説不可思議のゆへに」 
    といわれる。

    説いたらわかるというような、
    次元のことがらではないということを、
    了承のうえに、
    それゆえに百万語のご苦労わなされた、
    とわたしは解釈している。

    おそらく
    否定的対立のまま、
    同一平等というように
    矛盾的契機をふくまない論理は、
    他力浄土教にらはなじまないのでは
    なかろうか?
    なむあみだぶつ

  • >>2815

    一念をひがごととおもふまじき事。

    「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前 といふは、
    「恒」 はつねにといふ、 「願」 はねがふといふなり。 いまつねにといふは、 たえぬこころなり、 をりにしたがうて、 ときどきもねがへといふなり。 いまつねにといふは、 常の義にはあらず。 常といふは、 つねなること、 ひまなかれといふこころなり。 ときとしてたえず、 ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。
    「一切臨終時」 といふは、 極楽ごくらくをねがふよろづの衆生 いのちをはらんときまでといふことばなり。

    「勝縁勝境」といふは、 仏をもみたてまつり、 ひかりをもみ、 異香をもかぎ、 善知識のすすめにもあはんとおもへとなり。

    (一念多念文意)

    善知識は「勝縁勝境」の一つであり最後にふれらてます。

    はじめに仏をもみたてまつる

    次に「ひかり」をもみたてまつる、

    また異香をも嗅ぐ。

    私は二番目の「ひかり」をも見たてまつる「勝縁勝境」に恵まれました。

    親鸞聖人も法然という「善知識」に恵まれて、仏をもひかりをも見たてまった人です。

    ゲンショウさんはさんねの「勝縁勝境」をたかが何十年も前も「夢」で片付けてしまう。

    どうしてそんなことができるんだろうか?


    上田さんは親鸞浄土教を「真宗学」という特異な仏教として説いてきた教団に

    親鸞の教えはオーソドックスな一般大乗仏教の流れに則って説かれている

    大乗の極致ともいうべきものだと言いたいんですね。

    教・行・証を敬信して描かれた弥陀本願海の光景です、教行信証は。

    仏にもあい、ひかりにもあってその直々の説教や見せられたひかりの姿や光景が

    描かれていることに気付きませんか 大経を信受して?

    南無阿弥陀仏を「弥陀如来の行」として十七願とし、「選択本願の行」といただき、

    十八願を「選択本願」と分けた理由をどうみますか?

    法然においてはただ十八願だけを「選択本願」と言っただけなのににです。

    ゲンショウさんの領解を聞かせてくだされ!

    釈 三会

  • >>2814

    化身土巻の「三願転入」

    これをどう信受しとりますかな?

    弥陀本願の生起本末をどう聞き得たのですか?

    聞かれたことに

    不一不異

    では

    ただ念仏

    と答えてるのと同じです。

    親鸞聖人はただこの信行を明かさんがために何万語もついやし

    生起本末

    を説かれたのです。

    それをどう聞き得たかは大事な質問ですぞ!

    沙弥さんね

  • >>2812

    >先人の顕されたものを糧にして信心をいただき深めさせていただく。

    それはそうです。
    親鸞その他の祖師がたや、
    師の教えによって導かれたというのも事実です。
    そしてお念仏を勧められ
    称えることによって、
    念仏が疑いえない真実であると知らされた。
    信じることは念仏すること。
    教・行・信・証
    ではなくて上田氏も言っておられた、
    教・行信・証という・構造である。
    おそらく貴方は
    教・行・信・証派だと思うので、
    いささかの違いがあります。
    なむあみだぶつ

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