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菩薩道とアドラー

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  • 2018/07/20 19:37
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  • 大乗仏教の根幹は、縁起(関係性)の世界を直視し、社会の人間関係に根差した、
    慈悲行(他者貢献)において、世界は仲間である(自他不二)という世界観をも
    つことにより自我への執着をなくし、自他共に苦悩から解脱を成さしめんという
    ことである。

    その自他不二の菩薩と呼ばれる道の具体化が、アドラー心理学に示されていて、
    その鋭い人間分析に救われる。人間の真実と普遍の道は変わらないであろう。
    東洋と西洋、宗教と科学の枠組みを超えて、人間の真実を、菩薩道とアドラー
    から学んでみたいと思う。

    ここは掲示板である。チャットなどとは違う。
    権力争いになる論争はしない。

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    和弘 7月20日 19:37


    ●良寛と貞心尼●

    竹村牧男評釈、良寛『法華讃』は手垢に塗れている。なぜか、それは私が骨董屋で煤を被ってる
    ような抹香臭い仏教にのめり込んだ要因の一つに、良寛さまのお歌があったからである。
    そして今、『法華讃』をひも解いている。

    比丘は唯 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりけり
    僧の身は 万事はいらず 常不軽 菩薩の法ぞ 殊勝なりけり
    業はただ 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりけり

    法華経「常不軽菩薩品」を題材にしたお歌である。
    このお歌の深さも分からなかった愚か者が、技術職から飛び込みの営業職に飛び込んだのだが、
    「比丘」「僧」という出家者の行で、易行に思えたものがとんでもなく難行であった。
    あれから18年、経済活動を終えてはじめて今その行ができるようになったようである。

    そんなわけで、良寛さまを『法華経』の師の一人として仰いでいるため、貞心尼との密意のやり
    とりの歌も少しばかり味わさせていただいている。中でも気になっているのが次のお歌である。

    いざさらば、立ち帰らん、いうように、
    霊山の 釈迦の御前に 契りして 事を忘れそ 世の隔つとも
    お返し
    霊山の 釈迦の御前に 契りして 事を忘れそ 世の隔つとも

    お二人は、霊山の釈迦の御前でなんの契りをしたのか。
    ならば私は、霊山の釈迦も御前でなんの契りをしたらよいのか。

    最近、私にとって、霊山の釈迦の御前の契りが明確になってきた。
    それは、「自他共の、怖れをとりのぞく」ということである。

    すべての人が畏怖なく〈いのち〉を輝かせて幸せでありますように――南無観世音菩薩

  • ●無我(お陰様の存在)自分の思いから他者への思いへ●

    「自分って独立したもんは元々なかったんだ」――永遠に変わらない実体はない(無我)

    これは仏教の根幹ですから大変結構なことです。
    「すべてのものは無常であり、そして、すべてのものは無我である」

    その無我とは、
    「物が存在するのはただそれだけでは存在できず、必ず他のかかわりがあって存在する」
    他と無関係に存在できるものは何も無く、持ちつ持たれるの相互依存の縁起の関係に
    よって生きられている「おかげ様の自己」。

    日本人は、無我を「おかげ様」と受けて取って、自分への関心より他者への思いを重視した。
    しかし、今の日本人は「他者への思い」が希薄になってしまった。

    無我とは、「自己の思い」を「他者の思い」に振り向けることではないのでしょうか。

    私自身が反省し懺悔していかなればならないのだが、嫌われることを怖れずに投稿を繰り返
    しているのは、自分のことばかりで「他者への思い」に向わない人が余りにも多すぎて、
    仏法から外れているからです。(もちろん、私も含めて)

    清々しく生きるとは、清々しくない自我の思いを透明にして、「おかげ様の自己」を確認し、
    他者への思いへと振り向けて生きることではないのでしょうか。

    「おかげ様で、ありがとう」と言えて時、人は清々しくなれる。
    他者に役立つ自分を感じたとき、人は幸福になれる。

    無我とは「おかげ様」であることを自覚したいものです。
    と自分に言い聞かせています。

    すべての人が畏怖なく〈いのち〉を輝かせて幸せでありますように――南無観世音菩薩


  • ●屍体埋葬置地に住む修行者●

    最初期の仏教修行者は、襤褸をまとい、粗末な庵に住み、あるいは森林、洞窟の中に住んで禅定
    を修していたという。その中には、屍体埋葬置地に住んでいる者もいたという。
    それは、諸法無常・諸法無我を修証するためのものであったに違いなく、それくらい「熱烈」で
    あったということである。

    屍体埋葬置地で朽ちゆく屍を観想し、諸行無常・諸行無我を修証しようする「熱烈な修行者」を
    不浄と見る者もいる。それは現代日本の倫理観に照らしてのことだろう。しかし、倫理道徳とい
    うものは、時代風土によって変わり普遍的なものではないのである。だからこそ普遍的宗教が生
    れた。

    ブッダ在世前後のインドのカースト制の倫理観にあっては、カースト制の低い人が、屍体埋葬置地
    に棄てられているのは一般的で常識的な風景だっただろう。今でも、道端で死ぬ人もいたので
    マザーテレサはその臨終の看取りを大切にされた。

    屍体埋葬置地に住む修行者を不浄と決めつけるのは偏見だろう。
    仏教は、そもそもそういう偏見をなくすために中道を説いた。

    私は屍体埋葬置地に住む修行者の「熱烈な菩提心」に頭を下げ、敬意を称したい。
    私には堪えられない。
    しかし、我見に汚れるどうしょうもない自分に蓋をせずに、決して目を背けないでいたい。

    猛暑に堪えられらず、書斎に籠っての「仏教についてのひとりごと」である。

  •  **ニューヨーク州立大学病院の壁に落書きされて、そのまま残されていた詩**"

    大きなことを成しとげるために
      力を与えてほしいと神に求めたのに
      謙遜を学ぶようにと
      弱さを授かった
     
      より偉大なことができるようにと
      健康を求めたのに
      よりよきことができるようにと
      病弱を与えられた

      幸せになろうとして  
      富みを求めたのに
      賢明であるようにと
      貧困を授かった
     
      世の中の人々の賞賛を得ようとして
      成功を求めたのに
      得意にならないようにと
      失敗を授かった

      人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
      あらゆることを喜べるようにと
      いのちを授かった

     求めたものは一つとして与えられなかったが
      願いはすべて聞き届けられた

      神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
      心の中で言い表せないものは
      すべて叶えられた

      私はあらゆる人の中で
      もっとも豊かに祝福されていたのだ

    ………

    「祈り求めるものは、すでに叶えらたと信じなさい」とはこういうことを言うのでしょう。
    こんな真に幸福な境涯にはなかなかなれませんが、目指したいものです。

    すべての人々が何事にも怖れなく〈いのち〉を輝かせることができますように……南無観世音菩薩。


  • ●裏表の二にして一枚(不一不異)●

    どなたかご存じないが、十牛図「返本還源」の提唱に次のようにあったので公案にしたい。

    >心の調和を図るのが修行というものです。心が調和した時
    >内外・自他というものが無に帰して、一に返ります。

    心の調和??
    我空――もともとない私の心を、“私が”調和させることはできない。
    “私が”調和させようと思えば“が(我)”が起つだけではないのか。

    牛(仏心)を見つけるとは、“私ではない無量の心”を見つけることだ。
    それは、“私の心を調和することのできない私”を深く自覚したところに現成する。
    禅の公案はそこに追い込む。
    人間の馬鹿さ加減に気づくところまで追い込む。
    もう何も考えられないところまで追い込まれる。
    人間まるごと懺悔。血の滲む懺悔である。

    そして、そこで我の垣根が崩壊し、人間を超えた「無量の仏心」と出会う。
    いわば、本当の宗教心の現成である。

    でそこでどうなるのか?
    「おおいなる仏心」に照らされて生きている「私の心」知ることになる――後得智である。

    「内外・自他というものが無に帰して、一に返ります。」とは「三界唯一心」を言いのかも知れない。
    しかし、第二見跡を怠ったのか説明がおかしい。
    一般に、「心」といえば、「見る心」「考える心」という志向的意識を指すが、しかし、仏教には仏教
    の用語法があり、思考的意識と同時に「見られる対象」「考えられたもの」という志向対象も心と
    呼ばれる。言い換えれば、思考対象としてのモノも、私たちの「心」によって働かされて在るという
    ことになる。

    仏教では、この「見る心」と「見られる心」の枠を払い、「見る一心」の「見られる一心」が直通する
    ところを「三界唯一心」という。一心称名の一心である。

    それを面山和尚は「値段のつかぬところを三界唯一心という」といったそうな。
    仙厓和尚は「十三、七ッ」数えらないと讃嘆している。
    「一」 と値段もつけようもなく、「一」と数えられないのである。言語道断ともいわれる。

    その無分別智の証の後の「後得智」ではどうなるのか、山田無文『十牛図』には、次のようにある。

    …ちょうど前段の一円相とは裏表になるわけである。
    何もない一円相が裏であるならば、梅の花が咲き水が流れておる「返本還源」は表である。
    裏表であるが、しかもそれは一枚である。
    ……

    「一」 ではない。裏表があって〈一枚〉である。
    「一体」ではなく、一体の中に裏表がある〈一枚〉である。
    それは、龍樹の八不中道でいえば、不一不異の中道である。
    『涅槃経』が論理的にいうところ「第一義空・中道」
    そして『法華経』では阿耨多羅三藐三菩提という。
    禅もこの阿耨多羅三藐三菩提を修証するから大乗仏教なのである。

    「不一不異」を証していないというは阿耨多羅三藐三菩提を証していないことではないのか。

    「不異(一体)」ではない「不一不異」である。
    仏の世界と現実世界とが裏表一枚という「不一不異」である。
    そこを禅者がうまいことを言った。

    「無一物中無尽蔵、花有り月有り桜台有り」

    「心の調和を図るのが修行というものです」ではなく「無一物を証する修行」だろう。
    無一物――私の心もなく、私の心を私では調和することができない。
    『般若心経』で言えば、無智亦無得――私の智もなく、悟りを得ることもできにない。
    ことを修証して行くのだろう。

    猛暑の休日、書斎に潜り込んでの公案であった。


  • ●偏取見●

    >あなたが、やっと法性清浄心(清浄魂)に気がついたのは結構な事だが、禅宗は出家しないとだめだと、
    >道元が言われている。 道元の間違いでいいよね。 どうなの?

    たしかに道元は、正法を受け継ぐ「一粒の種」を出家修行において育成した。
    しかしそれは、一粒万倍の精神で、一般庶民にまで正法を広めようとしたからです。
    『法華経』の弘通の精神をしっかりと受け継いでいます。

    阿耨多羅三藐三菩提を証した者が、「出家者でなければダメ」などと、○か×かの二元対立の一方を
    偏取しません。そは「偏取見」という煩悩です。「偏取見」が強いから、神道なのでしょうね。

    「如来寿量品」に、
    「如来の如実の三界の相は、生まれること死すること、若しくは退すること若しくは出ずること有る
    ことなく、亦、世に在るもの及び滅度する者なく、実に非ず、虚に非ず、如にも非ず、異にも非ずこ
    とを知見し、三界のものの三界を見るが如くならざればなり。斯の如きの事、如来は明らかに見て、
    錯誤あることもなし」
    とあります。

    これは「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出」という、阿耨多羅三藐三菩提の世界で
    ある「八不中道」の戯論寂滅の世界で、二元対立の両極の一方に偏らない智慧、仏知見です。
    その偏らない智慧を知らずに、中道という仏道を歩めないと、仏道以前の神道ということになります。

    道元禅師に偏取見はありません。
    『法華経』にも偏取見はありません。

    他宗を認めて、仲良くしたいですね。


  • ●無我は「信頼関係」の基礎●

    すべてのものは移り変り、常に一つの主宰(常一主宰)の我はなく(無我)、
    無我なる「諸行無常の主体」の関係だけの世界がある(諸法無我)。

    諸法無常と諸法無我も、互いの関わりにおいて実存する。

    人間関係には「信用関係」と「信頼関係」がある。
    信用関係――取引関係――関係において見返りを求める――信用取引。
    信頼関係――無償の関係――自我の枠を外し、見返りを求めない信――慈悲(無償の愛)

    私たちは今日、あまりにも「信用関係」に世俗の真理に偏り過ぎてしまい、
    「信頼関係」という〈仏の真理〉を忘れてしまっている。

    今こそ、自我の枠を外した「信頼関係」の社会をめざすべきだと思う。

  • >>1466


    ●永遠の菩薩道――幸福な生き方●

    >入鄽垂手のあと、また第一に戻るということを仰っているように思っていたので疑問があったのですが、
    >入鄽垂手の道のりの始まりということですね。

    全くその通りです。
    阿耨多羅三藐三菩提の一部を得ると、
    十地の菩薩道の門に入ります。
    そこは無分別智において、始めと終りの分別が和合され「直線的な時間概念」が破砕され、時間意識の
    生れる以前、分別の兆す以前にですが、妙観察智によって、かえってそれが透明な主体であるという
    ことが自覚されます。

    誤解を恐れず、科学的は比喩を使いますと、テレビのアナログ放送とデジタル放送の違いです。
    デジタル放送で時間が流れているように思われますが、ご承知のように、一分間に60コマに時間が
    切断されて送られてきます。

    刹那生滅に切断された時間が真実で、それが直線的に流れていると見えるのは錯覚ということになります。

    といっても、どちらも真実なのです。
    「切断された時間」とは「第一義諦」の真実(仏)―――「神の思い」…叱られそうですが、
    「流れる時間」というのは「世俗諦」の真実(凡夫)――「肉の思い」

    ですから「戻り続ける」「初心に帰る」というのは、「仏の自己」が「世俗の自己」を照らしているという
    ことを確認する作業というようなことになります。そこに「幸福な生き方」がある。

    私が、禅とアドヴァダの融合に反対するのは、アドヴァダが自我を滅し梵我一如でそれで終わり、
    になってしまう恐れがあるからです。アドヴァダを自認する方の臨終時の生への執着は悲惨です。

    その点、曽野綾子さんなどは、想起としてであれ「天国行きは決定」していますから、
    現在を「神の御心のまま」、不条理の世を自在に生きられるようですね。

    私ですか――不生の仏心に帰ります。

  • >>1465


    ●弱き人間の自覚(弱き者こそが神を直に経験する)●

    >沈黙っていうより、神様に「どうしてこんな苦しみを与えるのか」と苦情を言われたそうですがね。
    >それほどの苦しみを味合われたということなんでしょう。
    >私たちの罪の償いのために。

    「沈黙」は、裁判の時で、論争を控え、「人間の愚かさ」を自覚したのではないでしょうか。
    凡夫の独断ですが、そんな気がします。

    「どうしてこんな苦しみを与えるのか」といったそうですね。
    あの震災、今回の豪雨被害そうですが、人生においては絶体絶命の外的事件遭遇することがあります。
    法華経的人間の長渕剛が、あの震災のときに「津波が憎い!」と歌ったのは「同苦の真実」です。

    あの津波を見て「どうしてこんな苦しみを与えるのか」と思えない人間は人間の弱さ(罪)に蓋を
    しているのだと思います。

    外的事件でなくても、内的自分を振り返って自分自身にことごとく愛想が尽きてしまう場合があります。
    最近も、かの方に深入りし過ぎた自分に、ことのほか愛想がつきてしまいましたが、その懺悔のお蔭と
    いいましょうか。「すべての人々から怖れがなくなりますように」という、揺るがぬ「自己の誓願」に
    が明確になりました。

    弱くて罪深い自分に愛想がつき、「弱い凡夫の自覚」「悪人の自覚」に遭遇したときに、仏(真実)の
    前に跪き、自分を超えた大いなるもの(神・如来)を直に経験する。そして『法華経』で「如来使」
    というように、「如来の勅命」を観じて、自分を超えた大いなるもの(神・如来)の光を浴びて、
    生きることができる。

    それには「どうしてこんな苦しみを与えるのか」という「人間の限界」の自覚が必要なようです。
    私も、この世界に入ったのは、「どうしてこんな苦しみを与えるのか」と人間の限界を感じたから
    です。ですから「南無観世音菩薩」という叫びは、私自身の究極の叫びです。

    >私たちの罪の償いのために。

    そこがキリスト教的な見方と、すべてを自己として受け止める仏教的な見方の相違でしょうが、
    それぞれに応じた働きがあり、互いの個性は認めたいです。
    イエスが十字架にかけられるとき「どうしてこんな苦しみを与えるのか」と言われた後に次の
    ように祈ったといいますね。

    「もし得べくばこの苦杯を弱い我れより過ぎ去らせ給え、されど我が意のままとはあらず、
    御意のままになし給え」

    絶体絶命のときの「究極的な祈り」だと思います。私からすれば「一心称名」。
    「この苦杯を弱い我れより過ぎ去らせ給え」――根本苦悩の断滅への祈り。
    「されど我が意のままとはあらず―――――――人間の限界の自覚――無我の自覚。
    御意のままになし給え――――――――――――真実の宗教心の目覚め。

    この、人間の絶望感から、真の宗教に目覚めるではないでしょうか。
    自我を滅した「イエスのいのち」は復活して蘇った。
    肉の思い(世俗諦)に死して、神の想い(第一義諦)に蘇る。
    禅では、「大死一番絶後に蘇る」といいますが、そこで初めて「仏心信心」という宗教になる
    のだと経験に思います。

    見性とは、「仏心信心」という、宗教心の目覚めだと思います。
    そこから「菩薩の十地」という、「幸福な生き方」が始まる。

    掻き始めると止まらない悪い癖がありますので、この辺で失礼します。
    自己を振り返る機会を与えていただき、ありがとうございます。

  • 十牛図の解釈のところ、

    >第十・入鄽垂手=後得智(妙観察智)の修証……十地の初地……菩薩道が始まる

    と書いておられたこと、納得いきました。

    入鄽垂手のあと、また第一に戻るということを仰っているように思っていたので疑問があったのですが、入鄽垂手の道のりの始まりということですね。

  • >>1464

    沈黙っていうより、神様に「どうしてこんな苦しみを与えるのか」と苦情を言われたそうですがね。

    それほどの苦しみを味合われたということなんでしょう。

    私たちの罪の償いのために。

  • >>1463

    >イエスも論争を控え、沈黙のうちに処刑に臨んだ。

    イエスの場合は、処刑されるのが神の計画通りですからね。

  • >>1457


    ●イエスの沈黙と釈尊の無記●

    >パウロ教と開き直るところが潔い。
    >そうなんですね。

    アタマの硬い仏教学たち(テルゼさんを含んで)に「曽野綾子はキリスト教ではない」
    と叩かれていましたので、「私はパウロ教です」と論争を控えたのでしょうね。

    イエスも論争を控え、沈黙のうちに処刑に臨んだ。
    釈尊の「無記」と重なり、禅やアドラーの「嫌われることを怖れない」とも重なる。
    いわゆる、空の智慧によって、思想を仲良く習い合わせる(習合の智慧)ことができる。

    空を探求する者として、イエスから学ぶものは、
    〈沈黙において、一切を肯定するほかない〉
    沈黙において解答するということが、無償の愛へとつながるのではないのでしょうか。
    曽野綾子は「パウロ教です」という一言で沈黙をした。

    「不条理だから人生は面白い」という曽野綾子の言葉は「空」につながり杖言葉にしています。

    >あと、三浦朱門さんが亡くなられてからの本も少し買いました。
    >夫との最期の生活や死への準備について参考にしたいと思います。

    私も買いました。
    モノ的には捨てていく生活ですが、心的には「老人よ甘えるな、大志を抱け」と
    勝手に読んでいます。

    不条理だから人生は面白い!

  • >>1456


    ●花は散り散り常住(無常と常住が手をつなぐ)●

    >諸行は去り行くけれども、法は去り行かないということです。

    「去り行くものは行かない」という八不中道――不二中道ですね。

    諸行無常(三法印の一つ)という〈法〉は去り行かない(常住)だということですね。

    昔の人はそんな空(二諦)の真理と共に在りました――花は散り散り常住。

    空の偏見が多くて困っているのですが、『中論』にもありますように、
    それは、二つの空(真理)を知らないことによるようです。
    言説以前の阿耨多羅三藐三菩提の世界ですから無理もない話で、私などはそれを信じ、
    続けてきて、薄っすら自覚できるようになりました。

    〈第一義諦〉の真理と〈世俗諦〉の真理。
    第一義諦の法は常住だが、諸行無常という世俗諦は無常。

    常住と無常が、仲良く手をつなぎ合う――空は和合の論理ですね。

  • >>1455

    >パウロ教と開き直るところが潔い。

    そうなんですね。

    最近、「心に迫るパウロの言葉」という本を買いました。

    まだちゃんと読んでいませんが。

    あと、三浦朱門さんが亡くなられてからの本も少し買いました。

    夫との最期の生活や死への準備について参考にしたいと思います。

  • >>1451

    >曽野綾子さんのファン同士、気が合うところはありますね。

    そうだったのですか。
    曽野綾子がお嫌いだったのはテレゼさんでしたね。

    20歳から、相当読んでいます。
    パウロ教と開き直るところが潔い。
    キリスト教の師の一人です。

    海外に共済活動を「趣味です」とポロいうところが
    私にとっては観世音菩薩です。

    今は、ちと飽きましたが…。

    折をみて、ボチボチと。

  • >>1452

    >法は「真理」であり、過行くものではないと思います。

    諸行無常という法をいっているのでしょう。
    説生滅の去り行く法は真理です。
    真の主体は、その先端にあります。
    油断すると逃げますから、怠りなくつかまえておけと。

    去り行く法の「今・ここ」をつかまれるのは大変です。
    だから、怠ることなく精進せよ。
    今を深めていく以外に道はありません。

    論語的は、「明日に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

    明日死ぬかも知れないが、今を真剣に生きるということでしょう。
    今を深める以外にありません。

  • >>1451



    >ただ、他人のトピを自分の投稿で埋め尽くしてしまうような状況にするのは問題があると思います

    かも知れませんね。
    ゲバラにあこがれたこともあり、阿修羅の気がありまして。
    大乗批判や、かの、アドヴァイダと禅の融合思想に対して戦ってしまう癖が
    ありまして困りものです。

    まあ、書くことが好きで、
    そういうのを利用して学問と公案に励むのですから悪人なのでしょう。
    少し控えましょう。

    ご忠告ありがとうございました。

  • >>1437

    NHKの「こころの時代」でも、「怠りなく精進せよ」と訳されていました。

    法は「真理」であり、過行くものではないと思います。

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