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菩薩道とアドラー

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  • 2018/09/16 14:41
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  • 大乗仏教の根幹は、縁起(関係性)の世界を直視し、社会の人間関係に根差した、
    慈悲行(他者貢献)において、世界は仲間である(自他不二)という世界観をも
    つことにより自我への執着をなくし、自他共に苦悩から解脱を成さしめんという
    ことである。

    その自他不二の菩薩と呼ばれる道の具体化が、アドラー心理学に示されていて、
    その鋭い人間分析に救われる。人間の真実と普遍の道は変わらないであろう。
    東洋と西洋、宗教と科学の枠組みを超えて、人間の真実を、菩薩道とアドラー
    から学んでみたいと思う。

    ここは掲示板である。チャットなどとは違う。
    権力争いになる論争はしない。

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    和弘 9月16日 14:41


    ●日本人の血脈に流れる儒教の精神●

    薬師寺は唯識の寺で、高田好胤はその薬師寺の住職をされていた方で、龍谷大学で深浦正文博士かから
    煩瑣な唯識学を学んでいる高僧である。今、高田好胤『観音経法話三巻』を再読すると「仁して威あり」
    とか儒教の精神が登場する。私たちは、儒教的な精神が封建的であるとして捨ててしまっていたようで
    である。日本人の寛容のアイデンティティーで受け入れられ、練られ高められた儒教の精神という忘れ物
    を探しに行きたいものである。

    神と仏と儒教――その「寛容の威厳」に日本のアイデンティティーがある。

    忘れ物は何ですか?


  • ●十地という、覚り後の修道論●

    龍樹も在家の一般大衆には“念仏”の正念相続を勧めたが、それも在家向けの“修道論”である。
    私の場合も、在家の一般大衆だから、観音菩薩の三界唯一心における“一心称名”の正念相続が修行だ。

    龍樹以前に、華厳経の煩瑣な修道論があり、龍樹も聖教量としてそれを受けている。
    その煩瑣な修道論を、瑜伽行の実践の中でまとめた唯識の修道論は、頭の悪い私にもわかりやすい。
    それは、華厳の修道論を五位にまとめたものである。簡略して示す。

    1、 資糧位(尋牛)
    自分の向上をたすけるあらゆる修行、華厳における十住・十行・十廻向で、十住の最初が“信”。
    “信心”が仏道への出発点ということ。(『十牛図』でいえば「第一・尋牛」)

    2、 加行位(見跡)
    信心により、資糧位で得た〈智慧と慈悲の思想〉を支えに、真実に向かって、その思想に生きる。
    権力闘争や知益追求でなく、智慧と慈悲の仏陀の人格を目指して生きるということである。
    しかし、ここではまだ「思想に生きる」段階で、知識が智慧に転換されていない。
    (『十牛図』でいえば「第二・見跡」)
    而して、親鸞に傾倒した三木清でさえ、次のように詠う。専念というのは念仏の正念相続である。

    真実の秋の日の照れば専念に 心をこめて歩まざらぬや

    3、 通達位(見牛)
    加行により、自分の真相が空なることを自覚する。“蒙昧な自分”が崩壊し、“真なる自己”が体証される。
    身心脱落(自我崩壊)という見性である。唯識からでは、「唯識性に住する」「真如を証す」と言う。
    大乗(龍樹)的には、我空法空を体証するということになる。
    仏教が体験として分かる(体証)段階である。(『十牛図』では「第三・見牛」)。

    4、 修習位(得牛以降)――十地の修行。
    通達位で我空法空の自己が体証されると、識が崩壊し、識が根本無分別智に転換される。
    さらに、後得智といって、末那識の一部が“平等性智”に変り、意識の一部が“妙観察智”に変わると、
    「修行と悟りの平等性」を観察できる「妙観察智」が直接経験される。

    「悟りという仏」に導かれての「仏と衆生と共に在る修行」――自他不二の修行。
    そこから大乗の修行、菩薩の修行が始まる。禅が始まる。
    唯識でいえば、阿頼耶識を大円鏡智に換え、五識を成所作智に換える「四智円明への修行」である。
    しかし、ここからは、「仏と衆生と共に在る修行」だから、その修行が苦でなくなり歓喜の行となる。
    修行することが生きる喜びとなる。

    十地の第一極喜地から第十法雲地までは永い。56億7千万年という永遠である。
    それを、「俺は四智円明の仏だ」という膨張した自我の妄想をいだく似非禅坊主は害になる。
    というわけで、自己を阿修羅に貶めた闡提菩薩が登場しているというわけである。

    因果一如――修行が証りである(修証一等)

    仏にも実体ない。凡夫との此縁性によって生起する――身心脱落・見性しなければ自覚されないが…。
    身心脱落・見性が先決だ。


  • ●「再生力」と「八百万(寛容)」のアイデンティティー●

    店の道の向うに神社があって、二つに出入り口から見える高木に時折、「払いたまえ、浄めたまえ」
    と一礼しておりますと、それが「再生の儀式」だということに気づき、眼から鱗でした。
    生きている限り“自我の煩悩”は無くならないので、一度それを、払って、浄めて、生れ変わって、
    “清浄な自己”に再生する。その再生の儀式が本来の「祭り」と気づいたのですよ。
    気づくと、仕事で心が疲れて来ると、時折、出入り口の外に出て、家並みの上に少し見える神社の
    森の高木に「払いたまえ、浄めたまえ」と一礼すると、自我に疲れた心が“払われ”そして“浄め”
    られる。仏教的に深めれば「自我に死し、自己の蘇る」ということになる。

    天照大神が岩宿にお隠れになり、再び出てきたという神話があるように、夏至も冬至も「太陽再生」
    の儀式。季節の節目、人生の節目の儀式や祭りの心底には「再生」への思いがある。

    モンスーン気候の中で見せる季節・自然・命の再生。その自然の再生力に礼拝したきた遺伝子。
    その「再生の信仰」が、仏教の諸行無常との習合融会への下地があったのでしょうね。

    日本人のアイデンティティーは「再生力」である。と自覚しています。

    そして、モンスーン気候の中の豊かな自然の中に生きていますと、砂漠的な一神教とはちがって、
    自然のあちらこちらに、人間の力を超えた力を見出すという八百万神という“多神教”になるのは
    必然です。それが、「縁によって生かされている自己」という「諸法無我」の仏教的な真理と習合
    融会できる下地となった。「八百万」と「諸法無我」の習合融会の歴史が日本人の血脈に流れている。

    日本人のアイデンティティーは、八百万という「寛容力」である。と自覚しています。

    日本神話で、この世界と創ったのは、「ご夫婦二人の神様」で、世界の始まりは二の習合融会。
    日本人のアイデンティティーは、「再生力」と「寛容力」の二ということなります。

    今フランスで「日本展」というものをしていますが、フランス人のアイデンティティーと、
    日本人のアイデンティティーは対極にあるが、「美意識」において共通するというようなことを
    言っていました。二つの“対極”が美意識という「太極」によって習合融会されているのが、
    日本とフランスの関係ではないのでしょうか。

    対極があっての習合融合ですから、日本人も、日本人のアイデンティティーをしっかりと自覚しな
    ければならないのだと思います。中国にいた頃、それをつくづくと感じています。

    日本人の“八百万”と“再生”のアイデンティティーは、キリスト教的な西欧の一神教的な自我と
    とは対極にある。対極にあるからこそ、そこに新たな生成力がはたらき、人類の進化もあるという
    ものです。

    一神教や西洋近代の自我に飲み込まれないで、日本人の「再生力」「寛容力」のアイデンティティー
    をしっかり自覚したいですね。

    日本人のアイデンティティーのまとめるためご縁に感謝です。

    入力ミスはお許しを。


  • ●始覚――始めに覚りありき――目的を明確にする●

    禅の見性(本性の覚)というと、煩悩のすべてが無くなった境地と、お気楽な貪欲を旺盛にする
    人も多いが、そうではない。それは、菩提という目標、ゴールを明確にすることである。

    人生はマラソンのようなものである。
    マラソンのゴールがなければマラソンにならない。
    そのゴールを明確にして、マラソンという旅の途中を、深刻にならず真剣に生きる。

    ゴールが菩提であり、そのゴールを明確にして目指す志をもつということを菩提心という。
    人生は、この菩提心に尽きるではないか。


  • ●『信心銘』モノサシを当てない志●

    『信心銘』の要は至道無難 唯嫌揀擇
    道に至るに難しいことはない、ただえり好みすることを嫌うのである――これに尽きる。
    澤木興道老師はこれを「モノサシを当てないことだ」と端的に言った。
    親鸞的には「計るな」である。

    いわば『信心銘』というのは「モノサシを当てない」ことを信解して心に銘記。
    すなわち、「モノサシを当てない志」を持つことである。これが菩提という目標となる。

    そのための坐禅だろうが、生活人としたら時間のかかる坐禅ばかりやっていられない。
    ならば生活人はどうするか?
    そこに「モノサシを当てない念仏」「モノサシを当てない観音信心」がある。

    澤木老師は「天地一杯観世音菩薩」という。
    これは、道元禅師の「悉有は仏性なり」である。
    何から何まで観世音菩薩(仏性)――これを信解し志して一心称名して生きる。
    これが「モノサシを当てない」修行となる。
    モノサシとは人が煩悩で心に描いた虚構の絵である。
    その「モノサシを当てない」とは「坐禅の尽界」である。

    「モノサシを当てない」という目標を明確にし、「モノサシを当てる自己」をしっかり見つめ、
    煩悩の整理整頓をしつつ生きたい。


  • ●随喜善、随喜功徳●

    始点の帰ったというか、12年ぶりに薬師寺の高田好胤に帰り、原点でのある『観音経法話』を読んでいると、
    12年前には心に触れなかったことが、やたらに脱落身心してくる部分がある。それは「随喜善、随喜功徳」
    でやたらに泣けて心が洗われた。今頃になって、ブッダの慈悲の深さに随喜の涙を流した。

    高田好胤『観音経法話』155頁~

    …その人の中には布施をしたい気持ちがあっても、布施をしたい気持はあっても、布施する物をもたない
    人々もおりました。実際世の中、ましてその当時のインドのことです。富者よりも物質に恵まれぬ人の方
    がはるかにたくさんです。その人々を見やれたお釈迦さまは、その人々のために、

    「よく布施する財宝をもたずとも、布施する人を見て、その善い行いを心からほめたたえ、共に心から
    それを自分のことにように喜ぶならば、その報いは、布施をした人と同じだけの功徳を身につけ、あや
    かることができるのである」

    とお説きになりました。この布施する人を見てそれを心から讃嘆し、それを我がことのように喜ぶ、
    これを随喜善、または随喜功徳と申すのです。

    お釈迦さまのこのお話を聞いた人々は、どんなにこれを喜んだことでしょうか。慈悲を以て念とされた
    お釈迦さまの何とあたたかい、また行き届いたお心づかいでありましょうか。この全ての人々へのお心
    くばり、お気づかい、これはまさしくその人の身、その人の心になりきって衆生済度に励んで下さる
    観音さまの慈悲とまたっく一如でございます。

    この随喜善といわれ、随喜功徳と説かれれる教えの、さて実行するとなると、人のしている善いこと
    を見て、僻んだり、嫉んだりすることのみ多いのが私どもの常です。嫉妬することが人さまを幸福に
    する道でないどころか、自分を苦しめる、不幸にする以外のなにものでもないことが理屈でわかって
    いても、どうすることのできない、いやらしい根性に巣食われている私どもの心中です。

    人の善い行いをしておられるを見て、聞いて、それを心から讃めたたえられる人になりましょう。
    心からそれをわがことの如く喜べる気持の人になりあいましょう。
    随喜善です。随喜功徳です。
    この言葉を、この文字を、この後訓化をよく胸におさめておいてください。

    ……

    これに気づなかったとは、なんと観音信心の足りなかったことか。
    懺悔の涙と共に、更なる菩提心を欲する歓喜を得た。

  • ●「此縁性の縁起」は悟り後の智慧(後得智)●

    ものには順番がある。釈尊は、無上正等正覚を悟り、その後に、バラモン教的は直線的因果論を離れ、
    「此縁性の縁起」を発見された。お悟りの後の「此縁性の縁起」である。

    それを大乗の修道論でいえば、
    法空我空を覚り→無分別智が現成し→平等性智と妙観察智が現成し→十地の境界に入る…である。
    法空我空を覚ってそれでお終いではない。

    この無分別智(平等性智・妙観察智)の普遍的な論理化が「此縁性の縁起」である。
    覚りという直接経験は、観念的自己満足の恐れがあるが、それが、実践として、普遍的な論理となってこそ
    真実が現成する。

    「此縁性の縁起」は、後得智という、悟り後の智慧である。そしてそれが慈悲へと連なる。


  • ●人は主観で生きている(華厳唯心偈から唯識へ)●

    瑜伽行唯識派は、もちろん瑜伽行による直接経験(現量)によって、普遍的な論(比量)を繰り広
    げていくが、その根拠という聖経量は「華厳唯心偈」である。唯識学は「華厳唯心偈」から始まる
    といっても過言ではい。

    この「華厳唯心偈」は、なんといっても、心如工画師(心はたくみなる画師の如く)という詩的な
    名句である。現代的にいえば、人は主観で絵を描くように世界を見ていて「あるがままの真実」の
    世界を見ていないということである。虚妄なる主観の世界――世間虚仮である。

    絶望的は世界と思われるがそうではなく、〈主観は変えられる〉というのが救いであり希望である。

    それには、どうするか。主観の生まれる以前に帰り、主観と客観がぶっ続きという「此縁性」を
    知見するということである。主観による虚仮なる世界を認識して、その主観を変えていく。

    『信心銘』の如く、憎愛楝択もその人の主観という人間のモノサシによるが、その虚仮なる主観を
    仏の主観を、仏のモノサシに変えたところに目標を語るのが『信心銘』である。

    主観は変えられるという希望に生きたいものである。


  • ●「重々無尽のおかげさま」の「透明な主体」●

    釈尊は、無上正等覚後に「此縁性の縁起」を発見され、それが普遍的にあると確信され布教の旅に出られた。
    仏教の普遍性の核心としては「此縁性の縁起」であり、釈尊の自内証の深みの探究が「重々無尽の事事無礙法界」
    に至った。それは、「此縁性の縁起」の無限の深化展開である。

    その「重々無尽の事事無礙法界」に命を与え、空海は「重々帝網を即身となずく」と『即身成仏義』において
    詠じているが、まさに、無限の四方八方、無限の過去・現在・未来、それぞれの「無限のいのち」の照らし合
    いによって実存している、「ダイヤモンドのような透明で壊れない無我の主体」が、もう一人の自己である。

    釈尊の「此縁性の縁起」を展開深化させば、それはゼロと無限の此縁性へと広がる。

    「ダイヤモンドのような透明で壊れない無我の主体」も「虚構の自己」との此縁性であるからして、
    その「仏そのもの」にはなれないが、その仏心を信じて菩提心を発したところが即身成仏だ。
    それには、「ダイヤモンドのような透明で壊れない無我の主体」を知見することが必要で、
    この、ただ「おかげさま」で実存している「無我の主体」を知見することを「即身成仏」「即心成仏」
    「即得往生」「見性」という。「此縁性の自己」の知見といっても過言ではない。
    そしてそれは「おかげさまの私」である。

    真の主体(仏)も、無我との此縁性だ。


  • ●『信心銘』も「此縁性の縁起」の信心獲得●

    『信心銘』はラジニーシまで提唱していて神秘化の傾向もあるが、私は、内山興正老師の師である
    澤木興道老師の『禅の境涯・信心銘提唱』から学んでいた。道元禅師の本流の提唱である。

    今『信心銘』を拝読すると、澤木老師の「モノサシを当てるな」に収束されるが、その源流といえば
    釈尊の無上正等覚であり、その論の核心としての「此縁性の縁起」である。観音信心も、比量(論)
    的からすれば、「此縁性の縁起」の信心獲得と脱落身心した。

    何はともあれ、『信心銘』は信心獲得の書であることは間違いないだろう。
    禅も「信」から始まる。

  • >>1713

    > キリスト教にも実体はなく、

    実体はあります。

    >仏教にも実体はなく「此縁性」の存在。

    ダルマに実体はないのですか?

  • >>1706


    ●キリスト教と仏教も不一不異――同じでないけれど対等●

    >そういうことだが、実体否定とはまったく関係ない。キリストの実在は前提しているわけだから。

    そうでしょうね。
    そこが、仏教とは違う個性でしょう。
    唯一実体として神が消えれば、神も消えますから……。

    しかし、諸行無常・諸法無我の仏教は「常一主宰」という実体否定です。
    実体のないところに「此縁性」の縁起が展開される。
    釈尊の仏教の普遍性は「此縁性」です。

    それは「おかげさまの実存」ということです。

    「おかげさまの実存」は「隣人愛」と重なりませんか?
    神だとか信仰だとか一切言わないで、
    ただ「すぶるは愛」を言い続けた愛の校長を私は敬愛しています。

    キリスト教にも実体はなく、仏教にも実体はなく「此縁性」の存在。
    仏教の不一不異――同じでないけれど対等です。

    互いに個性があるのですよ。

    貴方とは、永遠に平行線をたどるようですので、議論は避けていたのですが、
    最後の止めとして所見を述べさせていただきました。

    つつがない生活をお祈りいたします。


  • ●「重々無尽のおかげさま」の「透明な主体」●

    釈尊は、無上正等覚後に「此縁性の縁起」を発見され、それが普遍的にあると確信され布教の旅に出られた。
    仏教の普遍性の核心としては「此縁性の縁起」であり、釈尊の自内証の深みの探究が「重々無尽の事事無礙法界」
    に至った。それは、「此縁性の縁起」の無限の深化展開である。

    その「重々無尽の事事無礙法界」に命を与え、空海は「重々帝網を即身となずく」と『即身成仏義』において
    詠じているが、まさに、無限の四方八方、無限の過去・現在・未来、それぞれの「無限のいのち」の照らし合
    いによって実存している、「ダイヤモンドのような透明で壊れない無我の主体」が、もう一人の自己である。

    釈尊の「此縁性の縁起」を展開深化させば、それはゼロと無限の此縁性へと広がる。

    「ダイヤモンドのような透明で壊れない無我の主体」も「虚構の自己」との此縁性であるからして、
    その「仏そのもの」にはなれないが、その仏心を信じて菩提心を発したところが即身成仏だ。
    それには、「ダイヤモンドのような透明で壊れない無我の主体」を知見することが必要で、
    この、ただ「おかげさま」で実存している「無我の主体」を知見することを「即身成仏」「即心成仏」
    「即得往生」「見性」という。「此縁性の自己」の知見といっても過言ではない。
    そしてそれは「おかげさまの私」である。

    真の主体(仏)も、無我との此縁性だ。


  • ●『信心銘』も「此縁性の縁起」の信心獲得●

    『信心銘』はラジニーシまで提唱していて神秘化の傾向もあるが、私は、内山興正老師の師である
    澤木興道老師の『禅の境涯・信心銘提唱』から学んでいた。道元禅師の本流の提唱である。

    今『信心銘』を拝読すると、澤木老師の「モノサシを当てるな」に収束されるが、その源流といえば
    釈尊の無上正等覚であり、その論の核心としての「此縁性の縁起」である。観音信心も、比量(論)
    的からすれば、「此縁性の縁起」の信心獲得と脱落身心した。

    何はともあれ、『信心銘』は信心獲得の書であることは間違いないだろう。
    禅も「信」から始まる。


  • ●甘え=自己承認の欲求●

    土井健朗『甘えの構造』――戦前の日本的価値観と戦後の西洋近代の価値観が喘いでいた頃の
    本である。私も、日本的価値観と西洋近代の価値観の狭間で喘いでいたから当然読んでいる。
    慚愧の慚という「恥の文化」の影響もあったのだろう。仏教というよりは儒教の家制度の精神
    構造が大きくかかわっているようで、当時私は儒教を遠のけていたようである。

    その「甘え」の定義だが、英語には「甘え」という言葉がないようである。
    そして「甘え」は「許し合い」という愛でもあるからして善でも悪でもなく、
    「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、仏教的にいえば貪欲になるな、甘えも「小欲知足」である。

    さて土井健朗『甘えの構造』では、「甘え」を「周囲の人に好意を持ってもらいたいという他者依存」
    すなわち、心理学用語を使えば「自己承認の欲求」である。他者に自己を認めたもらいたい欲求だ。

    「人に褒められたい」「人から尊敬されたい」「軽蔑されたくない」「私を見てほしい」…ということ。

    これは「他者の由る」こと、他者の拘束されることで、そこに、「自らの由る」という「自由」はない。
    甘え(自己承認の欲求)という他者依存は、自由の放棄ということになる。

    その、自らの由る「自由」に生きることを求めるのが「禅」であり、人に頼るな法に頼れという
    釈尊の仏教でもあった。そのため禅は、自己の外の権威をすべて剥ぎ取る。仏も仏教の剥ぎ取り、
    そこに真の自由な主体を見いだそうとする。

    「自己承認の欲求の捨離」である。土井流甘えの定義の捨離である。

    そして、原因論による因果を「見かけの因果律」として、「自己承認の欲求の捨離」を提示する
    心理学がある。心理学を超えた個人心理学「アドラー心理学」である。それが、唯識や禅に通じ
    るので参究に至っている。

    岸見一郎の『嫌われ勇気』がまさに、甘えの捨離、自己承認の欲求の捨離である。

    宮沢賢治の「デクノボウと呼ばれ」でもあり、夏目漱石の「消極性の極」である。
    「消極性の極」において、絶対肯定という「積極性の極」が現成する。
    中途半端だからロクデナシとなるようだ。


  • ●「真如随然」と「真如凝然」●

    唯識研究者でもある上田義文の『親鸞の思想構造』は10年以上前に購入したが、書棚を
    みると見当たらない。西田幾多郎等の京都学派批判が強く、学派の論争に嵌りそうなの
    で御隠れいただいた。

    上田氏は、鈴木大拙・西田幾多郎等の非一非異の「即」に「非異の偏り」を見るようだが、
    鈴木・西田の「即」は、「非一」の立場もしっかりととらえた「非一」即「非異」である。
    釈尊の「此縁性の縁起」の深みだろう。

    上田氏も唯識研究者だから、〈迷悟依〉――「事」と「理」は不即不離、非一非異であるが、
    「非一」という、一体不可分ではない、「事」と「理」は別だという点を大切にする立場なの
    のだろう。「非一」という面を見落とすな――という立場だったと記憶している。

    禅も、天台・華厳・真言のような一乗仏教の教相判釈の影響で、現実即真理・真理即現実の
    立場、真理の内在性こそが真実であるという前提に立ち、その超越性を主張する唯識を低次
    元の仏教だとする見方がある。

    しかし、唯識~起信論~華厳は三位一体である。
    唯識は、「非一」を強調し、起信論は「非異」を強調し、その統合的な和合が華厳である。

    起信論と唯識では、真如をとらえる角度が違う。
    縁に随って転変する現実の中に〈真如〉があるという――起信論の「真如隨然」。
    〈真如〉は永遠不変の真理で、有為転変の現実とは異なるという――唯識の「真如凝然」。

    たしかに現実と真理の一体感を強調し過ぎると、誤った安易な現実肯定を生み出す危険が
    ある。いわゆる「本覚思想」「一発さとり」「本願誇り」である。

    有限で汚れた現実がそのまま永遠化されてしまって、汚れたままでそれでよいというよう
    な「勝手な論理」がまかり通り、そういう方はかなり多く「黙照禅」もそうである。

    現実即真理、染汚即清浄、有限即永遠、煩悩即菩提、生死即涅槃は法空我空を修した者が
    知り、深い意味があるだが、その「同じでないけれど対等(非一非異)」の深い意味を失って、
    ゴチャゴチャにして、悟ったつもりで迷っている自称覚者の如何に多いことか。

    「即の仏道」は、坐禅や正念相続による“直接経験”によって自覚するものだが、上田義文氏
    は、その“直接経験”を信じていなかったようである。

    この書斎に、高田好胤の「真如凝然」という印刷物が貼ってある。
    即の仏道を安易にとらえて、「このままで仏」と逆上せ上がらないためである。
    真如の超越性も忘れずに、真如に頭を垂れて礼拝するためである。

    それにしても、「有限の自己」という「凡夫」を強調しながら、「煩悩の凡夫のまま」で救われる
    とする方のいるのだから、「煩悩隨然」とでも言おうか。

    鈴木・西田に派閥意識はないが、上田義文氏の、京都学派との対立意識に汚されないために、
    『親鸞の思想構造』を手離した。そして今は「かたよらず、こだわらず、とらわれず、ひろくひろく
    もっとひろく」の高田好胤に戻っている。

    「真如凝然」を忘れずに。


  • ●『父母恩重経』から「三時業」が解けた●

    諸法無我・諸行無常という真実おいて自我の三時業は認めらないはずなのに、それを道元禅師が
    『正法眼蔵』において「三時業」を説いているという矛盾が解けず、誰からの納得のゆく答えを
    聞けないでいた。それが何としたことか、今になって『父母恩重経』を味わうことによって、
    懺悔の水で、邪見の汚れが落ちて、智慧の眼が開いた。

    道元禅師の「三時業」は、尽一切自己の三時業だった。
    「人間の妄想分別」の話ではなくて、「坐の尽界の無分別智」の話だった。
    それが、父母への懺悔の水によって解けた。

    私を生かしている百千万のご先祖の「過去世」
    私が百千万のご先祖の元に帰った後の子孫が「来世」
    過去世と来世の接合点で、百千万のご先祖と共に、
    百千万の子孫の善き来世のために生きている今此処が「現世」

    百千万のご先祖と子孫と共に在る「三時業」だった。
    尽一切自己の三時業だった。

    百千万のご先祖と、百千万の子孫と、「今・ここ」を共に生きていた。


  • ●始原としての母●

    共産化された中国でも、儒教の歴史に培われた「親孝行」の精神が生きている。
    イタリヤの男性もマリア様としての母を大切にするという「親孝行」の精神が生きている。
    若い頃、カトリック教徒の“愛の校長”に、「親に手紙を書きなさい」と言われたものだ。

    かつての日本も、儒教の影響で「親孝行」の精神が生きていた。
    それが戦後、自由とエゴを履き違えて「親孝行」の精神が薄れてしまった。
    私自身がそうであったので、母が他界した今になって、つくづく「孝行」のなかったこと
    を懺悔している。

    すると、中国で作られ、寛容の仏教知らずの心狭き仏教学者が「偽経」する『父母恩重経』
    が、今になって胸に落ち仏前で唱えることもある。また『父母恩重経』で、生老病死と
    という仏教の基本である「四苦」の「生苦」が解った。それは「母の陣痛の苦」であった。

    母は、骨が砕けるような陣痛の苦しみに死して、生まれた子供の泣き声で蘇る。

    その母の骨が砕けるような陣痛の苦しみよって私は生まれたと知れば、母への恩を感じな
    いわけにはいかない。キリスト教においても、母はイエスを生んだ尊い方なのだろう。
    マリア信仰にも意味があったようだ。

    その、始原としての父母への恩を知ると、父母の父母、そのまた父母の父母という数知れ
    ない先祖に生かされていたことが知れる。辿れば百千万という無量の午前で、日本中の
    あらゆる人、世界中のあらゆる人につながっている。みんな百千万のご先祖に生かされて
    生きている。それでこそ自他不二という「無限大の共同体感覚」への道が開けるではないか。

    私たちは、西洋近代的自我の毒に侵されはいないだろうか。
    多神教的な「八百万の神」の寛容性が忘れさられて、日本の宗教が一神教的になっている。
    聖徳太子が神仏需習合を提唱したように、互いに習い合わせ、照らし合わせてこそ真実が
    見えてくる。釈尊の発見した「此縁性の縁起」こそ「習い合わせ」「照らし合わせ」だろう。

    『論語』を学びながら遠ざけていたが、儒教も学び直してみたいと思う。

    始原は母であり、父母であり、百千万のご先祖である。

  • >>1705

    > 龍樹とキリストは結びつかないと思う人もいるかもしれないが、実はそういうわけでもない。
    >
    > 福音書の全章句が真理であることは、そこにキリストについて「八不」的な世界が成立することと同じともいえる。以下、ちょっとこじつけめいているが(笑)
    >
    > 不生不滅 → 神が人間として「生」まれることはありえない。人間として生まれていないのだから「滅」びることもありえない。
    >
    > 不常不断 → 人間としてのキリストは十字架で死んだので「常」ではないが、復活したので「断」でもない。
    >
    > 不一不異 → キリストは人間であり神であるのでどちらか「一」ではない、しかし一つのペルソナに統合されているので、「異」でもない。
    >
    > 不来不去 → キリストの再臨はまだ「来」ていない、しかし我々と共におられるキリスト「去」っていない。

    そういうことだが、実体否定とはまったく関係ない。キリストの実在は前提しているわけだから。

  • 龍樹とキリストは結びつかないと思う人もいるかもしれないが、実はそういうわけでもない。

    福音書の全章句が真理であることは、そこにキリストについて「八不」的な世界が成立することと同じともいえる。以下、ちょっとこじつけめいているが(笑)

    不生不滅 → 神が人間として「生」まれることはありえない。人間として生まれていないのだから「滅」びることもありえない。

    不常不断 → 人間としてのキリストは十字架で死んだので「常」ではないが、復活したので「断」でもない。

    不一不異 → キリストは人間であり神であるのでどちらか「一」ではない、しかし一つのペルソナに統合されているので、「異」でもない。

    不来不去 → キリストの再臨はまだ「来」ていない、しかし我々と共におられるキリスト「去」っていない。

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