ここから本文です

きるしっかぷー

  • 4,462
  • 3
  • 2018/09/18 20:38
  • rss
  • <<
  • 4462 4443
  • >>
  • 4462(最新)

    赤い実 9月18日 20:38

    >>4461

    516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、かれは自己を制した人である。

    82 ・・・・・「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」とさとった。そうしてバーラドバージャさんは聖者の一人となった。

    ・・・・・スッタニパータ

  • >>4460

    こんばんは。

    >仏教が中国に伝来した時、中国人は仏教の輪廻の思想に、
    「死が終わりではなく、また、人生が楽しめる」
    というので狂気乱舞?して喜んだといいますから。
    中国では輪廻転生が喜ばれて仏教が大いに広まったというくらいですから。

    中国では変形した輪廻思想として受け入れられたのですね。

    ・・・・・・・・
    この四向四果の説が整えられたのは、部派仏教時代のアビダルマ教学においてだと考えられる[6][どこ?]。それ以前の初期仏教においては、例えばパーリ語仏典の『大般涅槃経(大パリニッバーナ経)』では、
    一来 - 一度だけ生まれ変わる。
    預流 - 聖者の流れに入る。
    不還 - 二度と生まれ変わらない。
    の3つの順で示されることがあり、「不還」がそのまま涅槃到達を意味しているなど、四向四果とはいくらか様相が異なる説明[どこ?]が混在している。不還果は四向四果でも、文字通り生まれ変わらないという意味で説かれる。
    ・・・・・・‥Wikipediaより

    古代インドでは、もう生まれてこない、輪廻しないことが大きな意味をもっていたのです。
    輪廻はそれほど苦とされていたということです。

  • >>4459

    赤い実さん、失礼します。

    輪廻が恐怖だったという人は、あんまりいなかったと思いますよ。
    以前、ショーシャンクさんに聞いたのですが、
    仏教が中国に伝来した時、中国人は仏教の輪廻の思想に、
    「死が終わりではなく、また、人生が楽しめる」
    というので狂気乱舞?して喜んだといいますから。
    中国では輪廻転生が喜ばれて仏教が大いに広まったというくらいですから。

  • >>4456

    古代インドの人々にとって、輪廻というのは恐怖だったわけですよね。
    そして、もう生まれてきませんように、ニルバーナできますように、と、修行していたのですね。
    現代の感覚からいうと、とても涙ぐましくも(私はですが)感じます。

    輪廻したくないから解脱を目指す、のだとしたら、それは結局のところ我欲ではないか、と。
    私は思うのですよ。
    まぁ、でも、当時の人々にとってはものすごい恐怖だったのでしょうからしかたのない話ではあります。

    死後についてはわからない、でも、生きている間、できるだけより良く生きていこうとする。
    そのほうがよほど健全だと思う。

    というような感じで、初期仏教についても並行して知っていこう。(おもしろくなってきた。)

  • >>4457

    ん?  なにかがへん。。。と、思ったら・・・ for ではなく to が正しいのだった。

  • 内田裕也さん。 おもしろい人だよね。

    昨日、なにげに「内田裕也」でYouTubeで検索したら、都知事に立候補時の政見放送が出て来た。

    いきなり、「Power for the people  Power for the people」と歌いだすし、その後も英語でしゃべり続けとった。

    若い頃の内田裕也さんは、ミスチルの桜井さんにもちょっと似てるふうでなかなかかっこよかったんだね。

  • 釈尊は、輪廻からの離脱を目指すため、業のエネルギーを途絶えさせる ということを修行として弟子たちに指導した、ということですよね。
    釈尊の指導した内容はそういうものである、というのを認識しておく、ということは、釈尊の言説の基本として押さえておくべきもの。
    このようなことが言われていたのだ、というのを知る、ということ。

    ただ、現代人である私たちがそれをそのまま受け止めなければいけないか、ということになれば話は別だと思う。

    釈尊はこうこう言っていました。 ああ、そうなんですね、というのと、(私はもちろん、そこは受け入れる)

    現代人である私たちがどう思ったら納得いくか、というのは違って当然だと思う。

    釈尊がこう言っているのでそれが正しいと思うので信じます、というのは、信仰でしょう。

    釈尊は神ではないのだ。 その時代に制約された人間です。

  • 「浄土真宗とはなにか」という本を、ぽつぽつと再読している。
    その本の最初のあたりの記述から、平安末期の人々の浄土への願いがどれほどのものであったかを感じる。
    天災や病気に際して、取れる物理的な対策が乏しく、生きる上での苦しみが現代よりも多かったであろう当時の人々にとって、死後の世界というのはとても重要なものだったのだと思う。

    臨終の際、心乱さずに念仏を唱えていること、身を清浄にしていること。(そのために、鼻毛まで抜いた人もいるそう)
    それによって極楽浄土への往生がかなうと信じられていたのだ。
    看取る者は、往生が可能になるための手助け、世話をすることが、看取りの大きな仕事となったそうだ。

  • 長い人生において・・・
    それぞれが一人ひとりがそれぞれの苦労をして来た^^

    それを比較するのは愚かなことである^^

    ー風に吹かれてー

  • 良寛さんが地震の際に送った手紙の文章というのは、互いをよく知った友であったからその内容で送ったものですよ。

    その内容を、実際に被害にあった一般の人に言えるのかどうかなど、愚問です。

  • 現実に起きる悲惨とも言える出来事を受け止める気概もなくて、仏教を学んでいてもしかたないでしょう。

    地震も雷も起きる時には起きる。

    昔、私は、酔って寝ていた父の首を絞めようとした母を止めたことがある。

    起きることというのは起きるのだ。 そして、もっとすごい経験をしている人など世界中に山ほどいる。

    現実を見据えるのだ。  そこから逃げないで。

    逃げないということと、「空」は矛盾しない。 むしろ、「空」であることを知ることが、安らぎと勇気をくれると思う。

  • >>4450

    何か、勘違いしてませんか?

    >>そうそう、今日も一日、凡夫の生活を全うするが良し。
    >いつものように「凡夫隨縁」「煩悩隨縁」、「煩悩の凡夫のまんま」にたどり着きますね。
    この世に物質的浄土を作った日本においては、世界の苦の自覚がありませんから仕方のない
    ことですかね。
    >「苦の自覚」ない人には苦集滅道の仏教は必要ありませんね。
    余計なお世話をしてしまったようです。

    煩悩は苦です。世俗に生きる凡夫は煩悩苦を避けることはできません。自覚ありますよ。
    世界の政治から日本を分別することはできません。
    第2次世界大戦の最大の悲劇である被爆体験は避けたいものです。

    >真理を探究されていると思ったのですが。煩悩の凡夫のままで、「お気楽に生きる」人に仏教
    は必要ありせんでしたね。お話することもないようで……。

    世俗をお気楽に生きることを希求してますが、社会は諸法無我、自他不二でそうさせてくれません。
    お気楽に生きる方法があれば、伝授して頂ければありがたい。笑

  • >>4449

    ●煩悩隨縁お気楽主義●

    >そうそう、今日も一日、凡夫の生活を全うするが良し。

    いつものように「凡夫隨縁」「煩悩隨縁」、「煩悩の凡夫のまんま」にたどり着きますね。
    この世に物質的浄土を作った日本においては、世界の苦の自覚がありませんから仕方のない
    ことですかね。

    「苦の自覚」ない人には苦集滅道の仏教は必要ありませんね。
    余計なお世話をしてしまったようです。

    ただ仏教は、苦を自覚し、真理の光明に照らされて、今を深めて生きるところに真の幸福が
    あるということです。

    煩悩のままで、だらだら生きるのではなく、諸行無常というもったいない命」の今ここを、
    深刻にならず真剣に生きる。ということです。

    真理を探究されていると思ったのですが。煩悩の凡夫のままで、「お気楽に生きる」人に仏教
    は必要ありせんでしたね。お話することもないようで……。

    お気楽に、つつがなくお過ごし下さい。

  • さてさて~。 家事、実家の手伝いを済ませたら、録画した「グッドドクター」を観る。

    それと、時間があったら、Amazonで「陸王」の続きも観る。

  • >>4446

    >>もし、「考えは我ではない」が実感となっているならば、執着心はもっと弱くなっているのではないかと。

    >「参考になれば」と言っているのに、なぜそのような「個人攻撃」になるのでしょうか?
    私は個人攻撃をしていません。

    勘違いされているようですね。 私は、あなたが私に執着している と、いう指摘をしたのではありません。
    「坐禅」トピに執着している、ということを書きました。 で、それはどう考えても事実ですよね?

    >その癖はそれとして、トピ主には執着していませんし、”トピ主という大我”には関係のないことです。
    「禅の本義」という、「私の考えではないもの」「仏心への執着」です。
    仏心を現成させ、自己自身がまとめるためです。

    ですから。 「坐禅」トピという賑わっているトピで、「仏心のまとめの行」というものを披露することに執着されていますよね?   どう考えても。
    違う、というならですよ、自分のトピ「菩薩道とアドラー」に直接に投稿したらいいわけです。
    あなたの投稿は、「坐禅」トピでは、まったく受け入れられていないのですから。

    >お陰様で、創作活動の目途がつきましたので、ジャガイモの皮むき(切磋琢磨)も減ると思います。

    ほ~。 それは本当ですか。 

    >「私の考えでないもの」を発見されんことを祈念いたします。

    その祈念は不必要ですよ。 

    思考感情、身体への同一化からは、離れております。
    そして、大いなる命に生かされてあるのが、個人名をつけられた私である、ということが実感となっていますので。

  • >>4437


    ●仏心への執着●

    >もし、「考えは我ではない」が実感となっているならば、執着心はもっと弱くなっているのではないかと。

    「参考になれば」と言っているのに、なぜそのような「個人攻撃」になるのでしょうか?
    私は個人攻撃をしていません。

    その癖はそれとして、トピ主には執着していませんし、”トピ主という大我”には関係のないことです。
    「禅の本義」という、「私の考えではないもの」「仏心への執着」です。
    仏心を現成させ、自己自身がまとめるためです。

    仏心のまとめの行です。

    お陰様で、創作活動の目途がつきましたので、ジャガイモの皮むき(切磋琢磨)も減ると思います。

    「私の考えでないもの」を発見されんことを祈念いたします。

  • >>4444

    諸法無我の「我」を現代で解釈するなら、「大衆」と認識するのが適当です。

  • >>4443

    諸法無我の仏教時代は個人の「自我」は確立してなかったのです。

  • >>4442

    >あなたは。 諸法非我、諸法非我と・・
    >「考え」というのは、非我でしょ。 

    多分、そんな意味で「考え」と言ってると推測したが、、

    一口に「考え」と言われてもね。^^

  • <<
  • 4462 4443
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順