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きるしっかぷー

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  • 2018/02/19 08:10
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    赤い実 2月19日 08:10

    >>2830

    >>聖体拝領は、「第五図」というより「第六図」を直接に取り入れるもの、というふうに感じますが、いかがでしょう?

    >どちらもですかね。分けて考えられないのかも。

    そうなんですね。ありがとうございます。

  • >>2825

    >偶像崇拝でも、単なる儀式でも、曖昧な神秘体験でもない。対象は「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」以外のなにものでもない。小さなパンを実体化する、偶像化するという意味はゼロです!

    イエスは被造物ではないということが決定的に重要ですね。「小さなパンを実体化」というフレーズで、ついつい、カズマさん的な理解による「実体化」に引きずられてしまったようです(笑)。これはミスリーディング。ケノーシス的な無化、外化、キリストの受肉という意味での「実体化」ならこれは積極的に支持できる。
    外観としてのパンの中に生きづいている、神の創造活動そのものとしてのイエスの体です。

  • >>2829

    >聖体拝領は、「第五図」というより「第六図」を直接に取り入れるもの、というふうに感じますが、いかがでしょう?

    どちらもですかね。分けて考えられないのかも。

  • >>2821

    >>これは、言い換えれば、神の意識に目覚めることとも言えるのでしょうね。

    >山下さんによると、エックハルトトールのこの意識も「第五図」だと。山下さんの宗教の定義は、「第五図」を真理とする立場、だそうです。世界中のどの宗教も、いわゆるスピリチュアル系というのも、無神論者であろうとも、「第五図」を真理とする立場が真の宗教だといっていました。

    ええ、とても納得できます。 映画を生きている「私」には、真の救いには出会えないということですね。


    >>ああ、それが直接的なダウンロード、ということになるのかな。

    >聖体拝領はダウンロードそのものでしょう。


    聖体拝領は、「第五図」というより「第六図」を直接に取り入れるもの、というふうに感じますが、いかがでしょう?

  • >>2827

    > >「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」と完全に等価なパンが自分の体に入ってくる。まさに、「三位一体の神との交わり」という信仰の直接的なダウンロードそのもの。
    >
    > 小さなパンをわけもわからず偶像崇拝しろとか、時代がかった儀式に意味だけに見出しているのではまったくない!ポイントは、「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」がリアルな歴史的出来事であった証拠が、目の前の時空間にあることへの同意。
    > これは聖書が真であること、神が存在することの証拠であると同時に、「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」が二千年前の33年間を超えて、人間が生きる時空間に遍在していることの証拠にもなっている。そのことに同意するから、「三位一体の神との交わり」という信仰がダウンロードされる。
    >
    > 単純にいえば、イエスに働いた神の力はいまもここでリアルに働いている。




    馬鹿話

  • >>2825

    >「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」と完全に等価なパンが自分の体に入ってくる。まさに、「三位一体の神との交わり」という信仰の直接的なダウンロードそのもの。

    小さなパンをわけもわからず偶像崇拝しろとか、時代がかった儀式に意味だけに見出しているのではまったくない!ポイントは、「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」がリアルな歴史的出来事であった証拠が、目の前の時空間にあることへの同意。
    これは聖書が真であること、神が存在することの証拠であると同時に、「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」が二千年前の33年間を超えて、人間が生きる時空間に遍在していることの証拠にもなっている。そのことに同意するから、「三位一体の神との交わり」という信仰がダウンロードされる。

    単純にいえば、イエスに働いた神の力はいまもここでリアルに働いている。

  • >>2822

    >細かくいうと、キリストの復活→昇天によって、人間全体への「三位一体の神の交わり」ダウンロードが完了したので、福音書のその時点から初めてソフトウェアとして使えるのだが、「三位一体の意識」というのは時空間の限定を超越した永遠性の次元にある。なので、旧約聖書の開始の時点、さらに旧約聖書以前、最後は新約の黙示論の結末、すべての段階に遍在して「三位一体」がダウンロードされていたのと同じ。

    聖書は旧約と新約の全巻、隅々まで三位一体の神の意識が浸透しているとはそういうこと。





    馬鹿話。

  • >>2821

    >聖体拝領はダウンロードそのものでしょう。

    https://www.youtube.com/watch?v=6LgVllc3X8I

    小さな円いパンは外観はパンのままで、中味だけ二千年前のイエスの体に聖変化するというのが、カトリックのこれだけは絶対に譲らない主張です。あまりにもオカルトで、非科学的、頑迷固陋と思うのが普通ですが、知れば知るほど、考えれば考えるほど、「これしかない」という感じです。これを否定することは、他のキリスト教の宗派からいってもキリスト教の自殺行為にしかならない。

    「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」と完全に等価なパンが自分の体に入ってくる。まさに、「三位一体の神との交わり」という信仰の直接的なダウンロードそのもの。シンプルで明晰そのもの。

    偶像崇拝でも、単なる儀式でも、曖昧な神秘体験でもない。対象は「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」以外のなにものでもない。小さなパンを実体化する、偶像化するという意味はゼロです!

  • スノボの平野歩夢くんが銀メダル。 おめでとうございます。
    数年前に競技中の事故で、肝臓破裂という大きな怪我を負って、その恐怖と戦いながらの期間だったそうです。

    技がどんどんと進化するにつれ、危険度も高くなるのでしょう。
    今大会中も、たんかで運ばれる選手がいました。
    一つ間違えば、命に係わる事故になることと、技を極めるということ。
    この二つの兼ね合いは難しいものですね。

    それにしても、スノボは見ていて楽しい。 解説者が「うん、おしゃれですね。」と、技について言ったりするのですが、その言葉がぴったり。 スタイリッシュで素敵なのです。

  • >>2820

    この方は、口調は軽い感じですが、言っていることはなかなかなのですよ。


     キリスト教についての投稿。 全部にレスすることはできませんが、拝読しています。

  • >>2809

    > なぜキリストの体の復活が重要か、それも人間の体としての復活かというと、
    > このことによって、人間という種全体への「三位一体の神の交わり」ダウンロードが成功したからだね。

    細かくいうと、キリストの復活→昇天によって、人間全体への「三位一体の神の交わり」ダウンロードが完了したので、福音書のその時点から初めてソフトウェアとして使えるのだが、「三位一体の意識」というのは時空間の限定を超越した永遠性の次元にある。なので、旧約聖書の開始の時点、さらに旧約聖書以前、最後は新約の黙示論の結末、すべての段階に遍在して「三位一体」がダウンロードされていたのと同じ。

    聖書は旧約と新約の全巻、隅々まで三位一体の神の意識が浸透しているとはそういうこと。

  • >>2813

    >先ほど、私が載せたエックハルトトールの文章。 それは、人間についてなのですが。
    『自分自身を、万象万物が発生する源である意識であると知ることによって、出来事に依存することをやめ、状況、環境の中に自己を見つけようとする習性から解放されます。』

    >これは、言い換えれば、神の意識に目覚めることとも言えるのでしょうね。

    山下さんによると、エックハルトトールのこの意識も「第五図」だと。山下さんの宗教の定義は、「第五図」を真理とする立場、だそうです。世界中のどの宗教も、いわゆるスピリチュアル系というのも、無神論者であろうとも、「第五図」を真理とする立場が真の宗教だといっていました。

    >ああ、それが直接的なダウンロード、ということになるのかな。

    聖体拝領はダウンロードそのものでしょう。

    >もちろん、教会で説教を聴いたり、祈る、ということもダウンロードになるのでしょうね。

    そもそも「聖書」は「三位一体の神」の信仰がダウンロードされた書物ですね。これがわかると、「聖書」の魅力にとらえられて、あとには戻れなくなります。

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  • >>2817

    ただ、あらゆる思考が起こるということ。
    思考の中身じゃなくてね。思考が起こるっていうことは、
    これまた、イノチの表現そのものなわけです。
    どこまで行ってもあるのはこの「イノチ」だけなんです。
    それが、まさに全てです。
    そして、その「全て」はどんな意味にも縛られることはありません。
    だから、意味はないですし、意味なんて必要あらへんのです。

  • >>2816

    そうやなくて、最初っから「私」って無いんです。
    無いもんは消えたりしません。
    単に最初っから無かったことに気づいただけなんです。
    それを自分目線で表現すると、私から私が消えた。
    心身脱落が起こった!
    とかいった表現になるわけです。
    ホンマのところは
    最初っからあらへんがな!っちゅう話なんです。
    で、あなたもすでに「それ」なんです。
    今、座っていたとすると、その感触がありますよね?
    それ、めっちゃ生き生きしてません?
    その感触は、まさに、生きてますよね。
    誰が?とかは置いておいて。
    音が聞こえる。
    これって、めっちゃ「イノチ」じゃありません?
    何かの香りがする。
    くはーっ!まさに香りだって生命の表現ですよね!
    僕らが、見て、聞いて、感じているモノ。
    そのありのままの生の感覚。
    この全ての感覚には生命感がありますよね。
    そして、それ以外にはなんも無いですよねー。
    あるのはこの生命感だけですね。
    どこに行っても。
    どっかに隠れても。
    観念には生命感はありません。
    だって、観念には実体が無いですからね。
    実際には無いもんです。
    実際に無いものをあると見なすこと。
    それが幻想やというわけなんです。

  • >>2815

    「それ」が分かってはるひとってそんな感じの人が多いなー。
    みたいな印象があったりするかも知れません。
    見た目的には、
    ストーリー上の「個人」としての表れにそういった変化があるように見えるかも知れませんけど、
    これってねー。
    あんまり気にする必要は無いと思うんですよ。
    ラマナさんが一切のモノを持たないのは、単にそういう人なんや。
    それがあの人の趣味なんや!
    くらいに思ってたら良いとおもうんです。
    キラキラリーン♪ふわふわー。って感じの人がいたら、
    ちょっと変わってはる人なんや。
    くらいに思ってたら良いんですよね。
    確かに「私のなさ」が明らかになることによる副作用なかんじでねー、
    そういう感じになるパターンっはあると思うんですけどね。
    それもまた、ある種の個性ですので。
    ま、そういう人なんやなー。
    知らんけど。。。。
    くらいな感じでスルーしてたら良いと思うんですよねん。
    そうやって、誰かに特別感を感じてれば感じてるほど、
    「私」と「誰か」という分離をしっかりと握りしめとる。
    っちゅうことになりますのでねー。
    「私、キティーちゃんが大好きなのー。ウフフ、リンゴ三個分♪」
    ってゆーてはる人がいたら、
    変わっとるなー。くらいに思うかも知れませんけど。
    まあ、それはそれで良いやないですか。
    それと同じ感じで、
    聖者さんや先生を特別視せずに、そういう個性なんやな。
    くらいに思ってたら良いと思います。
    「私が消えたんです」っていう話もね。
    単なる表現ですのでね。
    誰かから「私」が消えて無くなる。
    っていうことはないんです。

  • よくねー。
    あ、これ、誤解があるなー。
    なんて思うことの1つとしてね。
    「私が消えるんですか?」
    「私はまだ、私が残ってます。消えてません。」
    みたいなことを言われたりするんですけどね。
    うーん。
    残ってようが、消えてようが、私はおりませんよ。
    って思うんですよねん。
    そうするとね。
    なんか、
    「私はまだ、私が消えてないからまだ「それ」じゃ無いんだ。」
    「いつ私から「私が消える」事が起こるんだろう。。。」
    なんてねー。
    思ったりするかも知れないんですけど、
    なんていうか、それやといつまでたっても、
    私という観念を掴み続けとりますから、多分ずっと待つことになるかも知れまへんで。
    なーんて思ったりするわけです。
    「私」から「私が消える」のを待つってねー。
    なんていうか、大前提に「私」がおりますからねー。
    今、もう「私」を掴んではりますやん!
    ってことなんです。
    じゃあ、その掴んでるものよーく見てみ!
    ほら、なんもあらへんで!!!
    ってことなんですよねー。
    あなたがすでに「それ」であって、
    それが明らかになれば、もうそこに、「私」も「あなた」もおらんかったことも
    明らかになるんです。
    大事なのは、
    あなたがすでに「それ」やということなんです。
    よく、先生や聖者なんかで、
    一切のモノに執着してないような人とか、
    いつも笑顔で軽〜くて、ニコニコしてるような人とか、
    キラキラリーン♪ってな感じで、ふわふわーってなってる感じの人とか、
    微笑みを浮かべて静か〜な人とかね。
    なんか、「それ」に至ることで?目覚めることで??
    そんな感じの人に変わっちゃった。
    何かしら、世間離れしてるようなねー。

  • >>2812

    >>2791
    ↑これが「三位一体の神との交わり」という「信仰」のダウンロードです。
    ・・・・・・・・・・・・

    『その三位一体の神が、人間が五感領域で遭遇できるように、人間そのものの領域に降りてこられた。この秘義以外のものは、』

    この部分ですね。 なので、神であり人である ということが必要だということですね。

  • >>2808

    > >>「わたしはある」「神の意識」「三位一体の神の交わり」、これらは同じものですが、これが宇宙のすべてを創造した。

    > >その「創造した」の部分を、具体的にお願いします。

    >小さいものとしては、目の前に広がる風景、もっといえば138億年の宇宙におけるすべての現象。こういったものが存在性をもっている。そのことの源泉という意味。

    なるほど。 それで「意識」としての要素が神にはある、ということになるのですね。
    要素じゃなく、別の表現だったと思うのですが、今、思い出せないので。

    先ほど、私が載せたエックハルトトールの文章。 それは、人間についてなのですが。
    『自分自身を、万象万物が発生する源である意識であると知ることによって、出来事に依存することをやめ、状況、環境の中に自己を見つけようとする習性から解放されます。』

    これは、言い換えれば、神の意識に目覚めることとも言えるのでしょうね。

     
    >同意は準備作業で、「三位一体の交わり」が「信仰」です。

    その確認作業というか実感するための聖体拝領、ということにもなるのですね?

    ああ、それが直接的なダウンロード、ということになるのかな。

    もちろん、教会で説教を聴いたり、祈る、ということもダウンロードになるのでしょうね。

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