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縦糸横糸日々綴り

縦糸横糸日々綴り

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  • 2018/11/17 22:22
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    oli***** 11月17日 22:22

    >>58629

    > 「サクラメントとは何か」by佐藤優 続き

    >  バルトは①を受けなくても人は救われるとバルトは解釈した。
    >  逆にいえば、カトリックでもプロテスタントでも③聖餐を受けないと人は救われない。

    前段はともかく、後段はないね(笑)。あまりにも表現と論理が杜撰。
    プロテスタントならともかく、カトリックなら洗礼のサクラメントなしに聖体のサクラメントはありえない。洗礼のサクラメントは、カトリックの本質的な信仰を受け入れないと許可されない。結局は聖書と教会の意味を理解して信仰することだ。

  • >>58628

    >  ①については、イエスが洗礼を受けた記述はあるが、イエスが授けたという記述はない。

    ●マルコによる福音書1・9ー11

    そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に下ってくるのを御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

    ↑ここは、イエスが洗礼という人間の儀式を通過して、それによって霊的に覚醒したのではない!そうではなく、この間も説明したが、ここは三位一体の開示の場面。三位一体の神イエスが、人間の儀式である洗礼に触れることで、洗礼それ自体を聖化した。この瞬間、イエスが洗礼を聖なる制度に変えてしまったということだよ。トマスアクィナスもこういう説明をしている。

    以上を踏まえれば、洗礼は三位一体の神に触れてもらうからこそ、それで初めて意味をもつことがわかる。

    実質、イエスが洗礼を授けている。

  • >>58628

    > 「サクラメントとは何か」by佐藤優

    >  カトリックには、7つの秘跡・・・・サクラメントがある
    >  ①洗礼
    >  ②堅信・・・・洗礼を受けた後に聖霊の力の恵みを授かる。
    >  ③聖餐・・・・ブドウ酒を飲み、パンを食べる。
    >  ④告解・・・・罪を告白して赦しを得る。
    >  ⑤病者の塗油・・・・病人をいたわり油を塗る。
    >  ⑥叙任・・・・聖職者を任命する。
    >  ⑦結婚
    >
    >  プロテスタントでは、このうち①と③だけがサクラメントだ。この二つだけが救済に直結していて、それ以外の5つは重視しないという立場をとっている。

    佐藤優の説明だと、平板に7つサクラメントを並べているだけだが、カトリックのサクラメントで突出して重要なのは③。もっとも聖餐でなく聖体のサクラメントだが。聖餐と聖体のサクラメントをごっちゃにして論じてはいけないね。

    それはともかく、カトリックでも本質的なサクラメントは③であって、他の6つのサクラメントは聖体のサクラメントに基礎づけられて初めてサクラメントになる。③を補強するために、③により深く入り込むために他の6つがある。洗礼も聖体のサクラメントを目的とする、志向するサクラメントであって、洗礼だけで意味をもつことはない。タイムラグはあっても、洗礼のサクラメントは必ず聖体のサクラメントとセットになる。

    カトリックでも、結局、救済は③に集約される。

    >  ところで、バルトは①はサクラメントではない、と否定してしまう。

    ①と③はもともと不可分一体。カトリックでも本質的なのは③。①は、③に入り込むための前段階。


    >③の、キリストの血肉であるパンを食べ、ブドウ酒を飲んだものだけが救われると。


    ③にあたる聖体のサクラメントは、パンを食べてブドウ酒を飲むだけのものではないよ(笑)。その程度の儀式が、全サクラメントの源泉にして頂点にあたる究極のサクラメントになるはずがない。

    聖体のサクラメントは、キリストの受難と死と復活それ自体。


    バルトにしても、プロテスタント教会でパンを食べてとブドウ酒を飲むだけで救われなんて、そんな安直な説か?

  • 佐藤優は現役の聖書学者でも神学者でもなんでもないね。現代日本を代表するジャーナリスティックな論客が神学部出身であることから、キリスト教関連の発言や著作が多いというだけだ。

    この「サクラメント」についての発言も、突っこみどころが多い。

  • 「サクラメントとは何か」by佐藤優 続き

    他方、プロテスタントは⑦にサクラメントとしての地位を与えていない。離婚は奨励していないが、禁止もしていない。それはプロテスタンティズムが⑦結婚を人間的な事柄と捉えているからだ。

     バルトはプロテスタント神学の立場から、⑦が人間的な事柄であると徹底的に掘り下げた。同様に①洗礼も人間が行うことだから、とサクラメント性を否定した。裏を返せば、①を受けなくても人は救われるとバルトは解釈した。
     逆にいえば、カトリックでもプロテスタントでも③聖餐を受けないと人は救われない。

     バルトは、サクラメントをイエス・キリストのシンボルだとした。そのシンボルは唯一③だけだ、と考えた。
     新約聖書によれば、イエスはパンとブドウ酒をとって「私を思い出せ」と弟子たち語った。イエスの言葉が③にサクラメント性を与えているわけだ。

     イエス・キリストがいない現状で、彼の存在を何によって想起するのか。③はイエス・キリストを思い描く役割を担っている。キリスト教徒にとって、③が行われる場に特別な力が働くと考える。それが聖霊の力だ。

     キリスト教には、神とイエス・キリストと聖霊がいる。この三位一体論はキリスト教徒にとって当たり前のことだが、そこが日本人にはわからない。だから、なぜパンとブドウ酒を授かる③が特別な意味を持つのかもわからない。
     キリスト教徒にとって聖霊の働きは呼吸するのと同じくらい自明だが、キリスト教徒以外の人にとってわからない。

     多くの人は次のような疑問を持つだろう。パウロの手紙を書いたパウロは人間だ。なぜ人間の手紙を通してキリストの言葉を述べる福音書を解釈できるのか、と。
     キリスト教徒はたぶん「パウロに聖霊が働いていたから」と答えるだろう。マリアは処女のままイエスを懐妊したとされる。ここにも聖霊が働いているわけだ。しかし、聖霊が働いていたことは、どのように弁証されるのか、キリスト教徒以外の人を納得させるのは難しいことは確かだ。


  • 「サクラメントとは何か」by佐藤優


    現代における神学の流れに大きな影響を与えたのは、「現代神学の父」カール・バルトのサクラメント論だ。
     カトリックには、7つの秘跡・・・・サクラメントがある。神の恩恵を信徒に授ける儀式で、救済を保証するためにキリスト教徒が行う大切な儀式だ。

     ①洗礼
     ②堅信・・・・洗礼を受けた後に聖霊の力の恵みを授かる。
     ③聖餐・・・・ブドウ酒を飲み、パンを食べる。
     ④告解・・・・罪を告白して赦しを得る。
     ⑤病者の塗油・・・・病人をいたわり油を塗る。
     ⑥叙任・・・・聖職者を任命する。
     ⑦結婚

     プロテスタントでは、このうち①と③だけがサクラメントだ。この二つだけが救済に直結していて、それ以外の5つは重視しないという立場をとっている。

     ところで、バルトは①はサクラメントではない、と否定してしまう。③の、キリストの血肉であるパンを食べ、ブドウ酒を飲んだものだけが救われると。

     バルトは晩年にそれまでの考え方を変え、①洗礼という制度と結びついた形でのキリスト教を否定すると主張している。①も人間が行う業だというわけだ。

     ③については、福音書にイエスがパンとブドウ酒を弟子たちに与えたと書いてある。①については、イエスが洗礼を受けた記述はあるが、イエスが授けたという記述はない。

     バルトは①洗礼という行為自体は否定していない。カトリックの7つのサクラメントのうち⑦と比較するとわかりやすいかもしれない。⑦をサクラメントとするカトリックは、原則として離婚を禁止している。

  • >>58625

    小さい2島返還は、ロシアにとっても最重要ではない。

    大きい2島を押さえておけば、重要な海路確保は維持出来る。

    それと前にも書きましたが、ロシアは10年ほど前から国営企業がおかしくなった。

    そこに目をつけた中国企業が、北方のこの大きい2島にも入り込み、今ではインフラも担当している。

    この状態で、返還など不可能。

  • >>58619

    2島「引き渡し」これは以前に合意済だったのでしょう。

    時間がかかったのは、主権がどちらに帰属するかの問題が原因でしょう。メンツの問題だから。

    これに答えが出て、今は細かい取り決めを次官レベルで詰めている。

    ロシアの国営企業は今、瀕死の状態。だからこそ強引に、豊かなクリミア半島をぶんどった。

    もちろん海路確保のためでもある。

    経済協力を餌に、なるべく有利に決着させるチャンスです。

  • ●エフェソの信徒への手紙1・1ー3

    神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。

    ーー

    ↑この箇所、イエス・キリストについては、次の三通りの解釈がありうる。この三つ以外にはありえない。

    ①神として信仰される。

    ②神ではなくただの人間であるが、信仰される。

    ③神でもなく人間でもないが、特殊な存在として信仰される。

    ②と③を取り得ないことは明らか。①②③以外にないのであれば、①しかない。

    ①を取るとして、イエスと父なる神は二神であるという解釈も、旧約聖書の神は唯一という前提から不可。

    ここだけの情報からも、三位一体は強力に暗示されている。

  • >>58621

    > 旧約の位置づけ、新契約、仕上げまでの意図を7~14ですべて説明している。

    聖書の全体を知るほどに、この箇所の密度の濃さもわかる。

  • >>58620

    旧約の位置づけ、新契約、仕上げまでの意図を7~14ですべて説明している。

  • >>58610

    > こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソの信徒への手紙1章10節)

    ↑これが「教会」というものだね。「教会」は一つであって、何千もの分派があるわけがない。地上にいまここにある「教会」は、宇宙の最後のゴールに真に誕生する「教会」の先取り、リハーサルのわけだ。
    喩えていえば、宝籤に当選しているのだが給付、振り込みは世の終わりの完成の時、それまでは当選の喜びを分かち合う。

  • >>58612

    話はプーチン・安倍会談

    日米安保条約がある限り北方領土は返すはずはないですよね。

    安倍は早くもレガシー作りに入ったのだろうか、憲法改定は無理だと知って!?

  • >>58615

    憎しみ満ちたナショナリストの闊歩する次の世にだけはしてはいけないですな!

    さんね

  • 福音派は、聖書に対して史的イエスとケリュグマのイエスという二つの主題を並列させることはない。福音派は、聖書はすべて神のことばであるという姿勢を徹底させる立場。史的イエスなどいう懐疑的でなまぬるいアプローチは認めない。イエスは神に決まっているというスタンス。

    滝沢克己神学も、史的イエスとケリュグマのイエスという主題の変奏からなっている。

  • >>58615

    .

      【声闘(ソント)】について

    朝鮮には声闘という愚文化が昔からあるそうですが、朝鮮らしい文化だと思いませんか?

    例えば、2人の間(A・B)で何かトラブルが発生した場合、Aが被害者でBが加害者であってもBがAを大声で罵倒すればその事柄の真理に関係なくBが勝利宣言をすれば勝ちとなるようです。

    私は思わず笑ってしまいました(笑)

    つまり、何があろうと大嘘であろうと大声で叫んで罵倒し、相手が怯んで何も言わなくなれば勝利が確定する訳です。
    本当にスゴイですよね。
    コレが長年、清(中国)の属国で辱められた賜物ですか?

    ソレが現代の朝鮮塵にも息づいているようです。
    歴史も技術も捏造して大嘘を並べていますが、まさに【声闘】ですね。


    >>58609
    いや、あそこには、私も思うところがあります。酷い場所ですから。

    期間終了間際になったら書きたいことを書きます。byみどり


    > そうですか。
    >
    > やはりあまりの酷さを知ってる人がここにもいたんですね。
    >
    > 最後まで見届けるつもりですから、是非来てください!

    .

  • >>58612

    そうですか。

    やはりあまりの酷さを知ってる人がここにもいたんですね。

    最後まで見届けるつもりですから、是非来てください!

  • >>58611

    そうですか。

    あれだけ一時はテルぜの「偽キリスト教」を糾弾していたのに

    「代弁者」みたいなゆりさんが出てきて、テルぜのキリスト教を擁護してるのに

    捨て置けるということですな。

    了解しました。

  • >>58608

    > 「新共同訳」6.23~24.
    >
    > 「平和と、信仰を伴う愛が、父である神とイエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
    > 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに
    > あるように」
    >
    > ……
    >
    > イエスを愛する人々だけは「忠義」。
    > すべての人と共にあるようにというのが「仁義」。

    はっきりいって、ありえない解釈です。

    > 平等の「無償の愛」こそのが神の愛だと味わわされていただきました。

    それは当然でしょう(笑)。ただ、「無償の愛」がそんなに容易なものであれば、イエスの生涯や十字架と復活がどうして必要だったのか。

  • >>58609

    いや、あそこには、私も思うところがあります。酷い場所ですから。

    期間終了間際になったら書きたいことを書きます。

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