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縦糸横糸日々綴り

縦糸横糸日々綴り

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  • 2018/08/17 03:15
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  • 良心で検索して最初に出て来たのはコレ↓^^

    54340
    しまとり 7月23日 18:57
    日本人は、ことさら無宗教というわけではないと思います。

    多くの方々が、悪いことをすることへの罪悪感を持っていたり、他を害することには良心の呵責を感じていて、また、目に見えない神仏、あるいは何かの恩恵によって生かされていることは感じてらっしゃるのではないでしょうか。

    その根底に、善くあろう、正しくあろうという気持ちは持っていらっしゃるので、私にはそうした心持ちもある種の信仰心と感じられています。

    日本人が無宗教というのは、そうした倫理観がありながら、ある特定の宗派の信仰と結び付き、それ以外の宗派を排除するということに向かないために、これこれの宗教の信徒である、という自覚とは結び付かない、という傾向の現れたものだと考えています。

  • >>54503


    > 俺がクチを挟んだ(横レス)は・・・

    以下↓^^


    multitude 8月14日 05:48
    >>54451
    横レス失礼^^

    「主体性の確立とか選択の自由と自己責任」と・・・
    「良心」を両立出来るのです^^

    と言うか・・・両立して完成(個の確立)となるのです^^

    「主体性の確立とか選択の自由と自己責任」は・・・
    努力(自力、アタマ)に通じるモノであり・・・
    「良心」は感謝(他力、ココロ)に通じるモノなのです^^

    アタマとココロを空っぽにしたくて人は坐禅などをしているのです^^

    でもそれを意識しているあいだは・・・空っぽには出来ないのです^^

    善悪とか正邪とかを卒業して・・・
    ひたすら心地よいことをすれば良いのです^^
    誠実に日々を過ごせば良いのです^^

    そう^^
    心地よいことこそが誠実であり、心地よいことこそが修行の結果とも言えるのです^^

    自分のためが同時に人のため^^
    人のためが同時に自分のため^^

    まあ・・・One for all, All for one ♪とか言われています^^

    そうなるためにも・・・
    傲慢ではない自信が必要になります^^
    感情を超えた理性が必要になります^^

    心の奥底は宇宙(神)に繋がっていて・・・
    心の奥底から湧き上がってくる声に忠実にならざるを得ないのです^^

    まさにそれ(声)こそ良心であり本当にしたいことなのです^^

    本当にしたいことこそ自己のためであり他者のためなのです^^

    自己中かそうでないかは一時的かそうでないかでも分かります^^

    意地かそうでないかは楽しいかそうでないかでも分かります^^

    もちろん自己中とか意地はダメですよ^^

    毀誉褒貶は他人事です^^

    心底、 真理真実と思うことをすればよろしい^^

    宗教でもそうでなくても・・・信じ切ることが大事です^^

    過去に拘らず未来に拘らず・・・
    今を刹那を大事に・・・
    良きことも悪しきこともすべてを受け入れ・・・
    (受け入れるとは生かされて生きていると言うことネ^^)

    日日是好日♪

    感謝p(^_^)q

    ー風に吹かれてー

    ///////////////

    ネ^^

    「主体性の確立とか選択の自由と自己責任」と「良心」
    についてダケです^^
    最初から・・・親鸞について一言もクチを出してはいないでしょ^^

    ー風に吹かれてー

  • >>54501

    うん?

    だ・か・ら・・・・
    親鸞のことではクチを挟んでいないでしょ(笑)

    サンネくんによる親鸞の名を出しての・・・
    サンネくんからの俺への批判内容が的外れだから・・・
    親鸞から離れなさい(卒業)と言ったまでです^^
    あと・・・テルちゃんを出して来る↓のも的外れですよ(笑)



    この辺は戦後知識人モドキの「個の自由」をベースにした「ラディカリズム」と
    神との合一、よくあらんとし続ける事に生きる意味を見出さんとするテルぜくんとの共通性があるんじゃね。

    このように少なからずこちらの側の努力に生きる意味と救いを求める「わかりやすさ」は「普遍的」でさえあるんじゃが、
    それでは収まりきれない「人間業」というものがあるというところから説き起こすのが親鸞の純粋他力であり、入口のところでつまずいてしまう現代人が多いんじゃね。


    俺を批判するのに・・・
    テルちゃんや親鸞を持ち出したのは・・・
    サンネくんキミ自身だと言うことを忘れてはいけませんよ^^

    俺がクチを挟んだ(横レス)は・・・


    「主体性の確立とか選択の自由と自己責任」と・・・
    「良心」を両立出来るのです^^


    そう^^

    「主体性の確立とか選択の自由と自己責任」と「良心」
    についてダケです^^
    最初から親鸞の名を出していませんよ(笑)


    ー風に吹かれてー

    > 関心もなく無知な世界には口を挟まぬことです!
    >
    > さんね

  • >>54494

    華厳の教えの極みが阿弥陀如来ですな!

    弥陀如来は

    ありてあるもの!!

    なきてなきもの!!!

    沙弥さんね

  • >>54487

    ここが純粋他力とキリスト教の違いですね!

    親鸞的にはキリスト教は自他力混在の信心ということになります!!

    今ここで働き続けてる根源との出会いでは全く同じように思えますが!!!

    さんね沙弥

  • >>54486

    仏とは、仏性とは

    久遠劫より此の方

    生きとしいけるものに真実に目覚めさ、救いとるために働き続けている

    存在であり、あり様です。

    この仏、仏性の極みを阿弥陀仏と言い表してきたのが日本浄土教です。

    さんね沙弥

  • マージャン用語の基礎辞典

    「卒業する」 = 「関心がない」

    口から出まかせ。

  • >>54496

    好きでも嫌いでもないから・・・
    残念ながら・・・
    入り口にも・・・特に・・・関心がない^^

  • >>54481

    君は親鸞の入り口にも達してないよ。

    だから卒業を人に勧めることは傲慢の極み。

    ただ

    もし君の触れている宇宙が
    真実のものであればおそらく同じものにふれてるように思う!

    宗教も哲学・思想も科学も感性・直観もなく真実は一如!!

    その真実に生かされて生きていけばヨロシ!!!

    さんね

  • ●神道は生から死を見て、仏教は死から生をみる●

    お盆も去った。父が亡くなったのは私が4歳になったばかりの時である。珪肺に病んで半年間
    の闘病生活を余儀なくされた。父は死後も、生前の父を知る人から「お人好しで、人のいい人」
    と言われた。そんな父がどんな「死に方」をしたのか、三つ子の魂に帰りそれを思い起こすと、
    私は毎日というように母に呼ばれて、当時は高級だった生菓子をおやつに食べた。私のためでは
    なく、ただ父が好きだからと言っていたがそれは違うだろう。私利私欲を離れて、ただ子供の喜
    ぶことをしてやりたかったのだと思う。「お人好し」とはそういうものである。「そんなの独りよ
    がりだよ」と言われそうだが、それでいいではないか。「楽観主義のお人好し」でいい。

    臨終が近づいた頃、父は病院を抜け出して、私にオモチャを買ってきた。廻る電車の上で飛行機
    が飛んでいるというオモチャだ。父は、「弟が来て置いて行った」と言ったそうだが、そんな嘘は
    すぐばれる。そんな親の思いもどこ吹く風、幼き私は、オモチャの夢の世界に戯れていた。

    戯れていると廻る飛行機が金具から外れてポロリと落ちた。すると母が「寿命を縮めて買って来た
    のだから壊しちゃダメ」と、オモチャを取り上げた。そして、オモチャを見つめ、泣きながら、
    「こんなことばかりしているから寿命を縮めてしまんだ。死んじゃうよ~」
    というようなことを言っていた。先の見えない絶望的な介護に疲れて半狂乱状態だったに違いない。
    母を「お人好しは寿命を縮めるからダメだ!」と経験していながら、その半面、お人好しの父が大
    好きで、こよなく愛していた。それは、父の話をする母の姿を見てよく分かった。

    オモチャ事件の後、間もなく父は死んだ。誰かが私に尋ねた。
    「お父さんどうしたのか分かる?」
    と聞かれても、死の意味さえしらない幼き私は、両手を胸に当てて、
    「こうしてネンネしている」
    と言っていた。

    父の面影といえば、病院のベッドで、生菓子を食べる私を嬉しそうに見つめる姿だけだ。そんな
    父と言われる人が、病院のベッドの上で、両手を胸に当てて静かに眠っている。悲しくも寂しく
    もなく、考えることもできない、得体の知れない、みんなが死と呼んでいる出来事。
    「この死という、計り知れない不気味ものは何なのか?」 
    この時、潜在的に、私の人生の命題が決まったように思う。

    帰神行とやらに遭遇したとき、神様と呼ばれる霊能力の高い人が言っていた。
    「仏教は、死から生をみるが、神道は生から死をみる。生から死を見た方が良いでしょう」
    それは間違っていない。神道においては死は汚れだが、仏教においては、死に地獄があれば、
    死に浄土という救いもある。

    よく考えてみれば、死を意識するからこそ生が充実する。終わりを見つめるからこそ、始まりから
    終わりまでの、旅の途中の大切さを知る。仏教が、死を生を見て、死という終わりから始まるとい
    うのなら、三つ子の魂の人生の命題は、はなはだ仏教的であった。私は、その三つ子の魂が作った
    「目的」によって生きているようだ。私の人生は、計り知れない父の死という終わりから始まった。


  • ●親は子供のために姿を消す「事事無礙法界」●

    『華厳経』は、仏の自内証の経典といわれ、その後の多くの仏教の展開の大きな影響を与える。
    「三界唯一心」は、瑜伽行唯識派の聖教量としての根拠であった。「初発心時便成正覚」は空海の
    密教や禅にも大きな影響を与える。また「信満成仏」が、親鸞に影響を与えたことは間違いない。

    親鸞は「浄土和讃」で次のように詠うという。

    信心よろこぶそのひとを
     如来とひとしきとときたまふ
     大信心は仏性なり
     仏性すなわち如来なり

    「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしきとときたまふ」は『華厳経』からの引用。
    「大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」は『涅槃経』からの引用。
    『華厳経』は「信満成仏」も説くが、それが親鸞の「信心為本」(ただ信じるのみ)の聖教量の根拠
    とも言われる。

    さて、その言語を超えた釈尊の自内証だといわれる『華厳経』の、言語化の限界に挑戦しようとする
    哲人たちが中国に現れた。法蔵等の〈華厳宗〉であり、それは「華厳哲学」である。空海の真言密教
    も「華厳哲学そのもの」かと思われるほどに、その影響は強い。また、華厳哲学の「事事無礙法界」
    を直接経験するという現量が「禅」に向いしめたとも言われる。

    華厳哲学も、仏教であるからには「実体論否定」という「空」に貫かれるのはもちろんである。
    その徹底化が、我の否定はもちろんのこと、「理事無礙法界」の「理」の実体化が否定され、「理」が
    消えて、「事」という、無我なる“はらたき”だけの世界という「事事無礙法界」にまで行き着く。

    仏もまた空性であり、実体化された仏が無我を証して姿を消すのである。
    絶対なる者が姿を消す(無我・空性)。
    仏が姿を消し、神も姿を消す。
    無(空性)なる仏。無(空性)なる神である。
    そこまで徹して、無我なる関係性の世界が現成する。
    法空我空という根本無分別智の現成である。

    西田幾多郎は、この事事無礙法界を、キリスト教側の視点からすると「神の自己否定」と言った。
    観音菩薩という物語自体が「無我のはたらき」という「事」なのだが、『法華経』普門品に生きる私の
    視点からしたら、「如来寿量品」の、父の死は、子供を自立させるための方便であって、姿は見ない
    けれど、今此処で説法しているという、「親は子供のために姿を消す」という物語である。

    実体が無いからこそ、今此処に、無量の無我のはたらきがあるのだろう。
    無量の無我のはたらきという、事の無限の関係性の世界が、この我のはたらきのこの世と、表裏一体
    の関係のあるということだ。

    絶対無という計り知れないものの光明によって、この相対の娑婆世界が在る。
    無に照らされて在る。

    この矛盾を、西田幾多郎は「絶対矛盾の自己同一」とか言ったが、私は物語的に「親は子供のために
    姿を消す」と言いたい。


  • ●スタンダードに成れなくていい●

    スタンダード(standard)――[名・形動]標準。規準。また、標準的であるさま。

    スタンダードは、時代・風土社会によって違う。宗教によっても違う。
    そのスタンダードは無数であり、無いに等しい(空性)だ。
    と心得ておいて、仮に仏教のスタンダードと言えば、いわずと知れた〈四諦〉という聖なる道だ。

    しかし、その四諦を、社会で生きることに忙殺される在家の凡夫にできるといえば“できない”。
    分かっちゃいるけれど“できない”。分かっちゃいるけれど煩悩を“やめられない”。

    『歎異抄』の次の部分の矛盾が気になる。(意訳する)

    唯円が親鸞に向って尋ねる。
    「私は、どんなに念仏を唱えても、勇躍歓喜して極楽浄土に一刻もはやく行きたい、という気持ちが
    いっこうに起こりません、いったいこれはどうしたことでしょうか」
    親鸞が答える。
    「実は私もそうなのだ。だが、考えてみれば、それこそが煩悩ではないか。死ぬのはいやだ、
    少し病気にでもなれば、死ぬのが怖くなる。この現世に恋々として、恋しいはずの極楽浄土へ行こう
    という気にならない。しかし、この煩悩から逃れられないからこそ、仏はわれわれ凡夫を救ってくれ
    るのではないか」
    と答える。

    生死が苦であり、“死”が極楽浄土への往生という“救い”であるならば、さっさと死ねばよい。
    ということにもなる。願生の浄土は、苦である死が、“救いの死”となるはずだが「死にとうない」。
    どんなに極楽浄土を思い浮かべても、死は怖いし、死にたくない。という感覚は生物としての本能
    で消し去ることはできない。

    親鸞はそれでよい、という。人は、最後までこの世に名残惜しい心を残しながら、徐々に力が尽き
    て死んでゆくものだという。そんな煩悩具足の凡夫だからこそ、阿弥陀仏の大悲大願に委ねるほか
    ない、という。そこに仏教の革新性がある。

    仏教の「スタンダードになれない凡夫」。
    社会風土の倫理道徳の「スタンダードになれない凡夫」。

    そうした、スタンダードになれない「凡夫の自覚」をもてば、阿弥陀仏の大悲大願にすべてを委ねる
    以外にはなくなる。阿弥陀仏は、スタンダードになれない「凡夫の自覚」をもった者こそ救うと思え
    るのだが……。

    ということで、“凡夫の私”の考えることなんて“当てにならない”。
    ということがわかったところで、さて、凡夫の私に死してみようか。
    無我において、弥陀の本願を直接経験するとは、なんという矛盾なのだろうか。
    人間の考えが矛盾しているということが知れる。

    スタンダードになれなくていいのだよ。
    生きてるだけでいいのだよ。

    と仏の無量の大悲の光明が呼びかけている。

    死もまた仏の大悲。苦もまた仏の大悲。
    臨終の苦にのた打ち回りながら、その苦まるごと、仏の大悲に委ねればいい。
    生きながらに死んで、死にながらに生きればいいではないか。

    ……と思う。

  • >>54432

    > > 話題は、日々の小さな出来事。本、音楽、映画なども。
    >
    > 話題は・・・株式^^
    >
    > 株は安い時に買って高い時に売る^^

    安いから・・・とりあえず買っておいた^^

    大林組
    1802 東証 特定
    保証金代用 現物

    成行
    08/16 09:10・・・・・注文日時
    当日
    約定済
    1,009円・・・・・・・約定価格
    08/16 09:10・・・・・約定日時


    買い下がり(買い増し)スタートになるかしら?

    実に・・・楽しみε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

    ー風に吹かれてー

  • >>54480

    > スタンダードを満たせない人こそを救う教えが親鸞浄土教の阿弥陀仏です!

    そこはわかるような気がします。

    キリスト教では、スタンダードを満たせなくてもいいんだといいますが、スタンダードの充足は絶対必要なんです。スタンダードを完璧に満たさなければ、神の国はありえない。ただ、それを満たせるのは神だけということです。

  • >>54479

    > 華厳的には「帝網の網」の相即相入せる平等世界の宇宙の生態系になります。
    >
    > キリスト教の神は自性を持ちながら自性を守らず常に活動し続けてる存在ならば
    >
    > それは華厳の毘盧遮那仏とも大日如来、そこから本地垂迹した天照大神とも同じ根源的存在のようにも見えますが、、、
    >
    > さんね沙弥

    日本語聖書として、プロテスタントとカトリックを問わず、現在もっとも普及している新共同訳に下記の解説があります。現時点では相対的には一番正確な日本語訳でしょう。

    ーー

    「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(列王記上17:1)エリヤ物語の初めに見られるこの言葉は、聖書の全内容を表している。


    ーー

    キリスト教の神とは、いまこの瞬間も地球生態系の中で常に活動し続けている存在でもあるんですね。この意味での根源的存在ということでなら、大日如来などと変わらないかもしれません。

  • >>54460

    横レス失礼^^

    >「死にながらに生き、生きらながらに死ぬ」

    この発想はとても大事です^^

    これは・・・生死を超越するに通じます^^

    俺の言葉で話すと・・・
    「この世の人でもなく、もちろんあの世の人でもない^^」

    このような心境になると・・・
    死も恐れことはなく生も恐れることも無くなります^^

    生を恐れる?
    生き続けることを嫌がる(恐れる)人は自殺を選択します^^

    誤解してはいけませんよ^^
    自殺をする人がすべて生を恐れているのではないのですよ^^

    (よく理解できない人は・・・
    高校で習う論証(必要条件十分条件)を復習して下さい^^)

    ★生死を超越して生きるってとても大事です^^

    「死にながらに生き、生きらながらに死ぬ」をどう理解するかは・・・
    その人の力量?その人の生き様?その人次第でしょう^^

    ー風に吹かれてー

  • >>1

    > 話題は、日々の小さな出来事。本、音楽、映画なども。

    話題は資産保全^^

    チャーリーくん、緑くんも真面目に聞きなさいよ^^

    54472
    ちゃありー 8月14日 20:57
    >>54467
    どうでもいいから消えろやw

    54469
    みどり 8月14日 19:48
    こいつ、難平買い現物を一年以上持ってやんの。どんだけ単位が小さいんだ。

    ていうか、こんなバカなかなかいない。
    ///////////////

    て言うか・・・君たちに触発されたカモ(笑)

    みなさん、コツコツ働きコツコツ預金されて来たと思います^^
    個人金融資産は1800兆円を遥かに超えています^^

    (1.個人金融資産(18年3月末): 17年12月末比では26兆円減

    2018年3月末の個人金融資産残高は、前年比44兆円増(2.5%増)の1829兆円となった1。残高は過去最高であった昨年12月末を下回ったものの、過去2番目の高水準に。年度末としては過去最高を更新した。年間で資金の純流入が22兆円あったうえ、大幅な株価上昇によって、時価変動2の影響がプラス23兆円(うち株式等がプラス24兆円、投資信託がプラス1兆円)発生し、資産残高が押し上げられた。)


    ★日本は今はデフレ脱却に悪戦苦闘していますが、、、
    ★日銀が円を擦りまくっていますから・・・

    (日銀バランスシート
    2002年5月20日現在126.2兆円
    2007年5月20日現在104.1兆円 2007年高値18261(7月)
    2008年5月20日現在109.1兆円 2008年 リーマンショック
    2012年5月20日現在142.4兆円
    2013年5月20日現在177.1兆円 ★3月20日黒田日銀総裁就任
    2018年5月20日現在537.9兆円 )

    ★いずれインフレにならないとも限りません^^

    ★今後はインフレに備えることが大事よ^^

    毎月払っている年金は将来は一番に安定した資産ですよネ^^
    真面目に働くのが基本ネ^^

    次に大事なことは・・・
    コツコツと働きコツコツと貯えた資産の保全を考えることネ^^
    毎度言うように欲を出すと失敗するわよ^^

    不動産同様に安定した毎月の収入になるのは・・・
    海外リートなの^^

    もちろん、安い時に買うのは・・・
    株、不動産、リートに共通することなの^^

    続く

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