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  • 『ウパニシャッド(Upanishads)』
     From Wikipedia, the free encyclopedia

    ~ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。~

    古代インド文明に於ける最古の哲学書であり宗教書である、「ヴェーダ」の一部。
    「ウパニシャッド」とは、一般には奥義書と訳される。また、漢字で書くと優婆尼沙曇となる。

    約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る。

    ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。

    後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。

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  • 古の宗教儀式には、身体に何かしらを受け入れます。
    例えば、比較的新しいモノではキリスト教は「葡萄酒」、神道では「御神酒」、と言う風に。
    アマゾンの土着民族の宗教儀式にはもっと怖い物を使うと聞きました。それはアマゾンで採れた植物で「強い薬」だそうです。宇宙を見、自分が宇宙になるそうです。まあ、ホントかどうか。
    ブラジルでもそういった「薬」に近いモノを儀式に使うので、法的議論となっているとか?
    ブラジルのマテ茶は元気が出るそうです。相当濃厚なモノを現地の人は日常的に飲むそうですが、とてもその濃さでは日本人は飲めないと聞きました。
    ブラジルでサッカー選手達は努めて「マテ茶」を飲んだとか。
    どの宗教の何派でどんな「薬?」を使うのか、教義の内容は分かったとしても、儀式に使うそう言ったモノまでは解らない場合が多いのではないでしょうか?

    ウパニシャッド等、古代インド宗教で見られる、まるで「量子論」もどきの「自己」と「宇宙」のあり方は、もしかしたら、儀式に何か「薬?」に相当する何かを使っていたのかも知れません。
    「お香」と言って良い香りと共に何かを吸っていたのかも知れません。
    分かった物ではありませんよw
    不二一元を体験できるのは「薬?」「御神酒?」がないとダメだったりして(o゜▽゜)o

  • >>203

    体験してないから、わかりませんが。


    > なるほど。
    >
    >
    > > もし、私達が(或いは世界の全てが)、実はひとつだったとしたら・・・・
    > > 誰もがソレを知り・認める所であったとしたら・・・・
    > > 自分が一番可愛い私達は全てを愛するに違いありません。
    > > 其処に「慈悲」は当然、在るようになると想うのですが・・・。
    > >
    > > 慈悲は「自分が一番可愛い」から始まるモノだと想います。

  • >>203

    不二一元を体験されたらしいイェーガー神父は、

    >私の生きる姿勢の根本は「あなたの隣人を愛しなさい」ということにあるのではなく、
    >隣人という存在は存在しないということを体得することなのである。
    > byイエーガー神父

    続けて
    >隣人という存在は存在しないということを体得することにより、地球とこの地球上に生きる一切のものに対する責任が生じる。


    となっています。オリさんが投稿なさってました。

    自分が全ての根源だ、という自覚のようなので、これは、神=わたし、と言ってるようなものですね。
    一元なんでしょうね。

    枝の喩えだと、幹と枝という違いがありましたが。

  • >>200

    オリさんの投稿から引用。

    >>>>
    イェーガー理論と神秘主義トピ

    259
    oli***** 9月24日 20:22
    >>252
    > >「妊娠中絶した場合に生まれてこなかった子供と母親の霊魂はどうなるのでしょうか」?

    > これは難しい問題である。意見を述べることは私にはできないが、分っていることといえば、「いのち」は消滅することはあり得ないということだけである。人間にならなかったこうした存在者の「いのち」も何らかの方法で生き続けるであろうということである。

    > 個々の人間の本性である存在者の有するエネルギーの流れであるこのエネルギーのかたまりは、神性なるものの無限のエネルギーとして、私には説明できない形相で、生き続けるであろう。

    > もし私が尋ねられたら、母親に勧めるだろう、この存在者をあなたの同伴者にしなさい、この存在者との結びつきが今なおあるのですから。あなたはきっと道徳的な意味で何ら非難されることはない。

    > この結びつきは個人的な結びつきとは全く違う。枝が枝に向かって、そこにも枝がある、あそこにも枝が、あそこにも枝があるというなら、言ってみればそれは個人的な関係である。枝である自分が木に繋がる存在であることを知った時、すべての他の枝との実存的繋がりを持つからである。亡くなった人々との繋がりもこのように考えられる。それは我々が一般的に考えていることよりもはるかに深い次元の内容豊かで、包括的な繋がりと考えられ、それは私が理性的に考えることをはるかに超えているのである。

    ↑の「木」は、イエーガー神父の他の喩えでは、「いまここに鳴り響いている交響曲のような存在」のことであり、それが「神」にあたる。

    人間は交響曲の一音符であり、↑ではそれは「枝」のこと。

    宇宙で唯一真に実在しているものを「交響曲」になぞえるあたり、カトリックらしいセンスだとはいえる。マーラーもブルックナーもカトリックだった。
    <<<<

  • >>202

    なるほど。


    > もし、私達が(或いは世界の全てが)、実はひとつだったとしたら・・・・
    > 誰もがソレを知り・認める所であったとしたら・・・・
    > 自分が一番可愛い私達は全てを愛するに違いありません。
    > 其処に「慈悲」は当然、在るようになると想うのですが・・・。
    >
    > 慈悲は「自分が一番可愛い」から始まるモノだと想います。

  • >>147

    愚さんの言っている、全体意識・基底というようなことも、それが、慈悲の根源だ、ということにもなり、ある意識が時空を超えてあり、それは、慈悲でもある、というなら、まさに、神性・神意識となるでしょう。

    それは、一元論とも言えるけれど、個人の自分というものとは、明らかに違うのだから、私=神というのは違うと思う。
    最近は、愚さんも、そんな単純なことは言われてませんけどね。

  • 【カイヴァルヤ・ウパニシャッド】
    [弟子]
    師よ、ブラフマンの知識を私にお教えください。私はそれが、隠された、聖なる、賢者に、よって尋ねら求められる最高の知識であるということを、またソレを求める者は不浄から離れ、至高の存在に到達する者であるということを聞いております。
    [師]経典の言葉とグルへの信頼を得ることによって、ブラフマンを知るよう努めよ。ブラフマンに帰依せよ。絶えずそれを瞑想せよ。祭式によらず、子孫によらず、財産にもよらず、ただそれに帰依することにより、また、世俗に対して無関心であることにより、人は不死に達するのである。
    最高の天界は、心臓の蓮華の内に輝く。懸命に努力し、切望する者は、そこに入る。聖典の教えの神髄を理解して、彼らは世俗を放棄する。・・・・・続く

    このウパニシャッドの趣旨は、信仰と帰依と瞑想とによってアートマンを覚り、そしてブラフマンと一体になった賢者は、有為転変の輪廻から解き放たれ、再生と悲しみと死から逃れる。と言う事らしいのですが・・・・。

    詳しくは、お手持ちのウパニシャッドをご覧下さい。

    ちょっと、このカイヴァルヤの言う事から、量子哲学を思い出したのです。
    カイヴァルヤは「最高の天界は、心臓の蓮華の内に輝く」と言います。
    「アートマン=ブラフマン」と言っているだけではなく「アートマンこそブラフマンである」と、即ち「アートマンがブラフマンを造っている」と言っているのだと、私は解釈しました。
    その解釈の裏付けとしてカイヴァルヤはこう言っています―――

    『私から全てのモノは現れ、私の内に全てのモノは存在し、私へと全てのモノは帰る。私はブラフマン―――唯一して、第二のものを持たぬモノである。・・・続く』

    この古代インド哲学と現代西洋哲学とは同じなのでは!?

    と、私は人間の思想の歴史にも輪廻を見るような気がします。

  • >>168

    芸術っていいですよね。

    これ、アーティストに憧れる、ということもありますが、その音楽なり、美術なり、物語の作り方を味わえる自分たち受け手の力量も必要ですよね。

    だから、出会いとか、感動というのは、こちら側にそれを受け止める力があることへの喜びでもあり……。

    こんな素晴らしい作品を、こんな素晴らしい作品と感じられる「わたし」のいることが嬉しい。………となることもあります。手前味噌ですが。(笑)

    釈尊も、人は自分が一番愛おしいのだ、と言われました。
    しかし、皆がそうなのだから、他の人もそういうものとして尊重しなければならない、という意味合いのことを言われてますね。
    ちょっと、話はズレましたが。(笑)

    > 確かに生きていれば「苦」です。ただ、この世にはソレをちょっと和らげてくれる麻薬(芸術)が、在ることで人間は救われています。
    > 私はソレを日常に取り入れ、なんとか自分を癒やし・慰め、やっと生きています。

  • >>166

    まずは、覚醒という道を示したい、それを体験してこその人生だ、ということになると、この世の甘露に浮かれていることも、無駄な寄り道………。

    ということで、私たちは、危機的状況にあるのに気付いてない、と、それを警告するような言葉もありますね。法華経で言えば、火宅の譬えですね。

    つまり、自我を喜ばせるようなことが世の中はあふれているけれども、それは幻にうつつを抜かしているようなことで、自我の作り出す虚偽に気づいて、真我という本質にたどり着くべきだ、と。

    釈尊が、一切皆苦と言われたとすれば、そういう現象世界(本質ではない→苦)ではなく、本質に目を向けなさい、という意味ならわかります。

    ウパニシャッドなんて読むのは、そういうものを求めているからでしょうね。

    私も、日常は、お肌のお手入れして自己満足したり、美味しいコーヒーに満足したり、料理に工夫してみたり、映画みたり、絵を見たり、あれこれ暇つぶししています。(笑)


    > 笑ってしまいます。
    > 私などは、宇宙の法則をエンジョイすることも有り、決して煩悩に振り回され「苦」ばかりでもないです。
    > 「宇宙の法則を(真理)をエンジョイする」その例として、恋愛での人間関係・ポケモンGO・絵画・音楽・etc.

  • >>163

    一切皆苦を信じる、って、なんだろ?

    自分のまわりの事象は、すべて苦だ、とみなすわけですか。

    そりゃ、苦しくてたまらんですね。皆苦で、地獄なら、それも楽しい???

  • >>163

    一切皆苦というのは、仏教というよりは、この世を穢土として嫌い、輪廻からの解脱を目指したバラモン教などの系譜に通じる教えだと感じます。

    法華経になると、解脱したはずの仏様が、わざわざこの穢土に衆生を説法教化するために生まれてらっしゃいますから、衆生を救うという誓願に生きる慈悲の道が見えてきます。

    抜苦与楽の教えとなりますし、一切皆苦ではなくなってくるわけですね。

  • >>157

    苦を感じないなんて、一度も言ってません。

    一切皆苦、というのは、言い過ぎとは思います。だって、楽あれば苦あり。苦あれば楽あり。だから。

    心情的には、苦しいなかにも、楽しみを見つけて、明るく生きていく方が好きですね。

  • >>149

    絶対と言うのは、相対を絶つということで、対立しなくなることですが、元ある、というのは、対立概念のないところです。

    言葉の生まれる前かもしれません。

    そこは、考えてもわかりませんが、大元という感じかな。根源意識でいいと思ってるのですが、名のつけられないところなのでしょう。

  • >>152

    安らぐからではなく、そこに真理があるからですね。

    あなたは、あなたの仏教でやすらいで下さい。レスはいりませんよ。

  • >>140

    在りてある。でいいですよ。(笑)

    しかし、この生滅する世界を創り出した因縁も、そこの、元々在るところから展開したものだろう、ということ。

    無から生じたのではなく、始まりもなく、生じも滅しもしない「在る」ところから、因ははじまっているのですね。因縁生起です。

  • >>137

    そうですね。仏教も、識に行き着いているのでしょう。識と言っても、私たちの、自意識というようなものではなく、もっと深いもの………。


    > 唯識論は仏教ですよね?
    > あれに、「阿頼耶識」とか言うのがありましたが・・・・

  • >>132

    真実は一つなので、釈尊が真理に気づかれ、悟られた方であるなら、無始、不生という根源意識にも気づかれたはずだと推測しています。

    私は、お寺にお詣りするのも好きなので、自分では仏教徒でもあると思っています。
    依経は、法華経ですね。

  • >>128

    無始でもおなじことですよ。

    そこから、因縁、業が生じてきた、ということです。因縁や業は、天変する様相ですが、無始や不生は、変わらないものですね。

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