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    san***** 10月18日 12:16

    >>3503

    >Saddahrma-pundarika-sutra サッダールマ・プリンダリーカ・スートラ=白蓮華のように最も勝れた正しい教え
    =「妙法蓮華経」

    ではないのですか??  <

    もちろん仰るとおり、 鳩摩羅什が漢語に訳したのが妙法蓮華経です。  日蓮は開目抄で南無妙法蓮華経を説明しています。

    「薩とは具足の義に名く」等云云、無依無得大乗四論玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法に六を以て具足の義と為すなり」等云云、吉蔵の疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」等云云、天台の玄義の八に云く「薩とは梵語此に妙と翻ずるなり」等云云、付法蔵の第十三真言華厳諸宗の元祖本地は法雲自在王如来迹に竜猛菩薩初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云く「薩とは六なり」等云云、妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す、善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く「曩謨三曼陀没駄南[帰命普仏陀]・[三身如来]阿阿暗悪[開示悟入]薩縛勃陀[一切仏]枳攘[知]娑乞蒭毘耶[見]・・曩三娑縛[如虚空性]羅乞叉・[離塵相也] 薩哩達磨[正法]浮陀哩迦[白蓮華]蘇駄覧[経]惹[入]吽[遍]鑁[住]発[歓喜]縛日羅[堅固]乞叉・ [擁護]吽[空無相無願]沙婆訶[決定成就]」此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり、此の真言の中に薩哩達磨と申すは正法なり薩と申すは正なり正は妙なり妙は正なり正法華妙法華是なり、又妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり、妙とは具足六とは六度万行、諸の菩薩の六度万行を具足するやうをきかんとをもう、具とは十界互具足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり、此の経 一部八巻二十八品六万九千三百八十四字一一に皆妙の一字を備えて三十二相八十種好の仏陀なり


    合掌

  • >>3502

    「妙法蓮華経」はサンスクリット語原典には無いと思います。

    釈尊が唱えた6文字ではないと思います。鳩摩羅什が漢字にしたのでは??

    Saddahrma-pundarika-sutra サッダールマ・プリンダリーカ・スートラ=白蓮華のように最も勝れた正しい教え
    =「妙法蓮華経」

    ではないのですか??

  • >>3501

    >人が笑っちゃうようなこと言って、、、、、ふざけてるんだよね?

    そのように思われるのは心外です。  名称にはそのものの実体(本質)に到達できる徳が必ず備わっている。
    「名は体を表す」という言葉がありますが、題目というタイトルにはそのものの総体、実態、本質などにそれにかかわる一切が備わっている。 
    「アメリカ」という文字を目にすると、私たちはあの国の政治、経済、大統領の顔、国際社会への影響力、軍事大国、文化、歴史、国民性、気候、風土、地図の形、代表的な都市名・・・・等アメリカに関する様々な事柄を思い浮かべる。 「アメリカ」という音声を耳にしたときも同じです。  このことは、「アメリカ」という国名の中にア、メ、リ、カの全てが備わっている事を意味する。  「石原裕次郎」という五文字の中に裕次郎の容姿、人柄、歌声、ヒット曲、映画のタイトル、演技など、裕次郎に関する様々な事柄を連想する。この場合も同じです。

    一つの御経の肝心(肝要)はその御経のタイトルである題目中に込められている。 法華経を実践できていない人は
    妙法蓮華経の五文字を単なる経典の名だと思っているけれど、とんでもない誤りです。  「妙法蓮華経」の五文字は単なる文(ことば)でなく、単なる義(教理)でもなく、法華経全体の心髄(神髄たましい)です。

    南無妙法蓮華経

  • >>3497

    人が笑っちゃうようなこと言って、、、、、ふざけてるんだよね?


    > 末法の時代を救うために、お釈迦様は一つの仙薬をとどめ置きくだされた。 その仙薬とは「妙法蓮華経」という五文字の題目です。
    >
    > 「末法の時のために教主釈尊多宝如来十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙
    > 薬をとどめ給へり所謂妙法蓮華経の五の文字なり」(妙法曼陀羅供養事)
    >
    > 南無妙法蓮華経

  • >>3499

    >私は法華経を信仰する会に入っています。

    大慈会教団といます。

    以前会長先生だった方にはお世話になりました。

    その方は、持病のある者に対し、お経上げれば治ちゃうよ、とおしゃいました。  <

    病気も気の病ですから心の持ち方で、ある程度の効果はあるでしょうが、持病が何でも治ってしまうのなら医者はいらないですね。 こういうことをいう教祖は、信じる値しないでしょう。

    南無妙法蓮華経

  • はじめまして。

    私は法華経を信仰する会に入っています。

    大慈会教団といます。

    以前会長先生だった方にはお世話になりました。

    その方は、持病のある者に対し、お経上げれば治ちゃうよ、とおしゃいました。

    「こうすればこうなるよ」「だからこうしろ」

    と言うのを飲み込むのは難しいです。

    これはお釈迦様の教えではないと思うのです。

    むしろ、お釈迦様はソレをお嫌いになると思います。

    こう言った教えを拡める為に、日夜「お導き」に励むよう言われています。

    宗教はお呪いではない。

    また、無責任に人にコレを布教するのも罪悪感を覚えるのでは無いでしょうか?

    法華経の白い花を白くするのはどうすればいいでしょう?

    一生涯の疑問に成りそうです。

  • >>3497

    > 末法の時代を救うために、お釈迦様は一つの仙薬をとどめ置きくだされた。 その仙薬とは「妙法蓮華経」という五文字の題目です。
    >
    > 「末法の時のために教主釈尊多宝如来十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙
    > 薬をとどめ給へり所謂妙法蓮華経の五の文字なり」(妙法曼陀羅供養事)




    出鱈目言うな。

  • >>3491

    末法の時代を救うために、お釈迦様は一つの仙薬をとどめ置きくだされた。 その仙薬とは「妙法蓮華経」という五文字の題目です。

    「末法の時のために教主釈尊多宝如来十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙
    薬をとどめ給へり所謂妙法蓮華経の五の文字なり」(妙法曼陀羅供養事)

    南無妙法蓮華経

  • >>3495

    > 〇アビダルマに神は甦らない○
    >
    > 上座仏教すなわちアビダルマは、分析された法が主体であるから、世界が彼らの分析された法
    > という狭い世界(小乗)に止まり、一神教の絶対者を認めず、キリスト教などの批判が激しい。
    >
    > アビダルマの無我は、無我にもかかわらず、法の有の執着で、無我が有我となって我で、世界を、
    > 引き抜いたり、除外したり、選択してしまうのである。
    > そういう、大乗仏教やキリスト教や神道を除外して、自分の小さな乗り物(小乗)に執着してしまう。
    >
    > ところで、「空の論理」は、因果関係を矛盾として一切を否定することによって、否定が否定の意味を
    > 失い、否定と肯定の分別が意味を失い、一切を肯定する空へと甦るのである。
    >
    > 世界をあるがままに、引き抜いたり、除外したり、選択したりすることなしに、肯定する世界が開ける
    > のである。キリスト教の神もあるがままに、多神教のあるがままに肯定できる大きな乗り物(大乗)が
    > 開けてくるのである。
    >
    > 上座部にもキリスト教の神はないが、大乗の空は、否定の果てに、論理的に神は甦るのである。




    アフォたれ。

  • 〇アビダルマに神は甦らない○

    上座仏教すなわちアビダルマは、分析された法が主体であるから、世界が彼らの分析された法
    という狭い世界(小乗)に止まり、一神教の絶対者を認めず、キリスト教などの批判が激しい。

    アビダルマの無我は、無我にもかかわらず、法の有の執着で、無我が有我となって我で、世界を、
    引き抜いたり、除外したり、選択してしまうのである。
    そういう、大乗仏教やキリスト教や神道を除外して、自分の小さな乗り物(小乗)に執着してしまう。

    ところで、「空の論理」は、因果関係を矛盾として一切を否定することによって、否定が否定の意味を
    失い、否定と肯定の分別が意味を失い、一切を肯定する空へと甦るのである。

    世界をあるがままに、引き抜いたり、除外したり、選択したりすることなしに、肯定する世界が開ける
    のである。キリスト教の神もあるがままに、多神教のあるがままに肯定できる大きな乗り物(大乗)が
    開けてくるのである。

    上座部にもキリスト教の神はないが、大乗の空は、否定の果てに、論理的に神は甦るのである。

  • 〇龍樹の反駁〇

    龍樹の時代にも、スマナサーラ長老やパオセヤドー氏のような空に対する反駁者はいた。
    それに対して、龍樹の反駁として『中論第二十四章・四つのすぐれた真理の考察』が面白い。
    中立的な立場として、中村元『龍樹』P379から引いてみたい。

    〈龍樹の反駁〉

    7、ここにわれらは答えていう。――汝は空における効用(動機)・空(そのもの)および
    空の意義を知らない。

    8、二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダの法(教え)を説いた。
    〔その二つの真理とは〕世俗を覆われた立場の真理(世俗諦)と、究極の立場からみた真理
    (第一義諦)とである。

    9、二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していない。

    10、世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しな
    いならば、ニルヴァーナを体得することはできない。

    11、不完全に見られた空の智慧は鈍いものを害する。あたかも不完全に捕えられた蛇あるいは
    未完成の呪術のごとくである。

    12、それ故にその法が鈍いものどもによってよく了解されえないことを考えて、聖者(ブッダ)
    が教えを説示しようとする心はやんだ。

    13、また、汝が〈空〉を非難しても、われわれには欠点の付随して起こることがない。
    〈空〉においては欠点が成立しない。

    14、空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、
    あらゆるものが適合しない。

    15、故に、汝は自分のもっているもろもろに欠点を、われわれに向かって投げつけるのである。
    汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである。

    16、もしもそれ自体(自性)にもろもろの事物の実有があることを認めるならば、もしそうで
    あるならば汝はもろもろに事物を因縁なきものとみなすのである。

    17、汝はすなわち結果、原因、行動主体、手段、作用、生起、滅亡および果報を破壊する。

    18、どんな縁起でも、それはわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、
    それはすなわち中道である。


    >>>>>>>>>>>>

    〈第一義諦〉と〈世俗諦〉の二つの真理が注目すべき点である。
    乱暴な言い方をすれは、
    第一義諦――色即是空
    世俗諦―――空即是色
    ということになる。

    14、空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、
    あらゆるものが適合しない。

    「空とは一切見の捨離である」と他でいうのだが、その一切見の捨離をすれば、「あらゆものが
    適合する」というのである。
    空は、何から何まで否定することによって、何から何まで肯定できるということである。
    絶対否定即絶対肯定ともいわれる禅的な「頓悟」でもあり、そこも修行と悟りの分別を超えて。
    「頓悟漸修」「修証一等」という、即今の道が開けてくる。

    絶対否定=色即是空―――肉の思いの捨離
    絶対否定=空即是色―――神の叡智の顕現

    とも言えよう。
    人間の思いのいっさいを手離してみることである。

  • 〇「認める×認めない」の分別を超える○

    >スマナサーラ長老もパオセヤドーも、きっぱりと「空即是色」を否定するし、認めない。

    彼らは、龍樹(大乗)の空そのものを受け入れていない。
    しかし、
    空とは、「認める×認めない」の概念的分別を超えたところ、言語発生以前の世界で、空の否定
    には肯定が含まれる――それが釈尊の不二中道。

    で、彼らは空を否定の意味しかとっていないから、世界の半分しか見ることができない。
    世界をあるがままに肯定できないから、人生の半分しか生きることができない。
    小さな世界にしか生きられないから小乗という。

    色即是空とは、世間虚仮として一切を否定することであり。
    空即是色とは、ありままのご縁の世界をありのままに肯定し受け入れることである。
    それぞれの人の、あがままの姿をあるがままに受け入れる。
    何から何まで受け入れる――そこに慈悲がはたらく。
    色即是空だけでは慈悲がはたらかない。

    空即是色とは、
    キリスト教的に言えば
    何から何まで、神のはたらき
    何から何まで、神の無償の愛

    空即是色=何から何まで、縁起のはたらき

  • >>3491

    >これが理解できないカズマは自我に陥り真我が理解できないから行為という事を重んじない外道宗教。



    目くそ鼻くそが

  • >>3488

    >インド社会の善因楽果、悪因苦果という「過去の業による輪廻転生説」に毒され
    てしまった仏弟子たちが、無我なのに何が輪廻転生するのか、などという虚妄なる命題に
    取り組み、とんでもない修行論を作り出し、誰も成仏できないことになってしまった。
    それを差別と平等にまとめれば。

    釈尊―――差別と平等の対立の超越(不二中道)
    仏弟子――過去の業による人の差別

    ということになってしまった。
    これを、釈尊の釈尊の「対立の超越」に戻したのが龍樹であったが、唯識などの輪廻転生を
    引きずる大乗にあっては「業のよる差別」を残してしまった。この振れを再び釈尊の「対立
    の超越」に戻したのが、華厳や法華経・涅槃経の「一仏乗」である。<

    善因楽果、悪因苦果は、善悪の行為を重んじる仏教においては、大乗も小乗もない同じだよ。 だれもが成仏できないとするような教えは大乗にだってないよ。今度は、唯識も完全否定かよ(笑う  無我だろうが、目に見えない執着した善悪の行為が心意識に焼き付き輪廻する。 カズマのは生前に善業する者も悪業をするものも誰もが同じそのような教えは仏法にはないのよ。   今を無心に生きるときれいごとを並べてもだめよ。 無心なんて、寝ているときとか、ボケーと景色を見ているときとか、題目を唱えているときとか座禅しているときぐらいだろうね。 
    過去の業による人の差別ではないのよ、自ら周囲の者に、真実を知らせる為に自らハンデの体を背負って生じてくる菩薩もいるのよ。あるいは、仏の使いとして生じてくる菩薩もいる。 どのような世界にどのような形で生まれようとそこから、善の行為を心掛ける、これなくして仏法はない。

    これが理解できないカズマは自我に陥り真我が理解できないから行為という事を重んじない外道宗教。

    南無妙法蓮華経」

  • 〇無時間の岸辺〇

    世俗の世界と、紙の裏表よりも親密に即して在る第一義諦の世界は、言語以前の世界である
    からもちろん前後という時間の概念もない。

    此岸=有時間
    彼岸=無時間

    と言ってもいいものが、お互いさまに親密に相即している。という世界観を岸見一郎『よく生
    きるということ・「死」から「生」を考える』210頁に垣間見させてくれる。

    ●無時間の岸辺

    病気になって始めて学べることがあるとすれば、時間についての見方がすっかり変わるという
    ことである。患者本人ではなく、患者や家族にも同じことが起こりうる。先に見たベルグは
    こんなふうにいっている。

    「あらゆることは時間ともに動いてゆくが、患者は無時間の岸辺に打ち上げられるのだ」
    (ヴァン・デン・ベルグ『病床の心理学』)

    病気になると、明日は今日の延長ではなくなる。予定もすべてキャンセルするしかない。

    …後略…


    三世は妄想で、仮のものだろう。

  • >>3485

    >禅でいう「善い行い」とは、「今を無心に生きる」ということなのである。
    道元的に言うならば「有時の而今」を生きるということである。

    そして、私たちは三時業の輪廻からこの世に生まれてきたのであり、三時業も「有時の而今」
    に含まれているということである。過去の三時業を背負って生きるが、その輪廻の生存も
    この世限りである。「生死の命」まっとうしたら「仏の御いのち」に帰って行く。<

    三時業の輪廻からこの世に生まれてきたのだろ。いくら禅宗の坊さんが、今を無心に生きるといっても、それを全うした人は誰かいるのかよ。 人だよ、まして末法に出でた僧侶、煩悩を滅した人はいるの?
    善悪の心は有る。 善悪の行為もある。とうぜん善悪の行為による因が後生の果となって生じる。 

    南無妙法蓮華経

  • 〇仏乗の菩薩は二乗を差別しない○

    だいたいにおいて、差別と平等の二元対立も縁起のお互いさまと見定めて、和合させる
    のが仏の智慧と慈悲であり、釈尊はその不二中道を説いた。

    なのに、インド社会の善因楽果、悪因苦果という「過去の業による輪廻転生説」に毒され
    てしまった仏弟子たちが、無我なのに何が輪廻転生するのか、などという虚妄なる命題に
    取り組み、とんでもない修行論を作り出し、誰も成仏できないことになってしまった。
    それを差別と平等にまとめれば。

    釈尊―――差別と平等の対立の超越(不二中道)
    仏弟子――過去の業による人の差別

    ということになってしまった。
    これを、釈尊の釈尊の「対立の超越」に戻したのが龍樹であったが、唯識などの輪廻転生を
    引きずる大乗にあっては「業のよる差別」を残してしまった。この振れを再び釈尊の「対立
    の超越」に戻したのが、華厳や法華経・涅槃経の「一仏乗」である。

    その辺りのところを、植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳・法華経』でまとめている

    声聞乗――声聞のための乗り物――出家の男子が乗る――――――――――目的地は阿羅漢
    独覚乗――独覚果に到る乗り物――独覚果を求める出家の男子――――――目的地は独覚乗
    菩薩乗――菩薩のための乗り物――二乗は除く、在家と出家の男女――――目的地は仏陀
    仏乗―――仏陀に到る乗り物―――三乗などの一切衆生―――――――――目的地は仏陀

    『法華経』『涅槃経』を深く味わう限りにおいて、この「大乗の菩薩」と「仏乗の菩薩」の
    区分けは正しいと思う。

    大乗の菩薩は二乗を差別するが、仏乗の菩薩は二乗を差別せず、一切衆生が乗る。

    ここにおいて、釈尊の何から何まで縁起の仏知見に帰った。

  • >>3485

    >禅天魔と、禅を排除しようとする狭い心の小さな乗り物の方々も、



    アフォたれ。

  • 〇三時業は有時の而今に在り〇

    禅天魔と、禅を排除しようとする狭い心の小さな乗り物の方々も、観音菩薩の広大智慧観と
    いう大きな乗り物の心をもって、道元禅師の『正法眼蔵』を学んでほしいものある。

    さて、道元禅師が晩年になって書いたとされる『正法眼蔵』の「三時業」であるが、曹洞宗
    の一部のバカ坊主は、その中の仏道を歩むものは「善い行いしかできない」を逆手にとって
    「仏教徒は善い行いばかりをする」と、人を有頂天にしてしまう。

    しかし、禅でいう「善い行い」とは、「今を無心に生きる」ということなのである。
    道元的に言うならば「有時の而今」を生きるということである。

    そして、私たちは三時業の輪廻からこの世に生まれてきたのであり、三時業も「有時の而今」
    に含まれているということである。過去の三時業を背負って生きるが、その輪廻の生存も
    この世限りである。「生死の命」まっとうしたら「仏の御いのち」に帰って行く。

    「仏の御いのち」の光明に呼び覚まされ、三時の業の「生死の命」をそのまま生きて、
    そして「仏の御いのち」に帰る。

    禅的な善き生き方とは、
    「仏の御いのち」という「本来的な自己」の呼び覚ましに、自己を整えてつつ
    「非本来的な自己」を生きるということである。

    それには「本来的な自己」を知見しなければ始まらない。

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