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  • >>3497

    > 末法の時代を救うために、お釈迦様は一つの仙薬をとどめ置きくだされた。 その仙薬とは「妙法蓮華経」という五文字の題目です。
    >
    > 「末法の時のために教主釈尊多宝如来十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙
    > 薬をとどめ給へり所謂妙法蓮華経の五の文字なり」(妙法曼陀羅供養事)




    出鱈目言うな。

  • >>3491

    末法の時代を救うために、お釈迦様は一つの仙薬をとどめ置きくだされた。 その仙薬とは「妙法蓮華経」という五文字の題目です。

    「末法の時のために教主釈尊多宝如来十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙
    薬をとどめ給へり所謂妙法蓮華経の五の文字なり」(妙法曼陀羅供養事)

    南無妙法蓮華経

  • >>3495

    > 〇アビダルマに神は甦らない○
    >
    > 上座仏教すなわちアビダルマは、分析された法が主体であるから、世界が彼らの分析された法
    > という狭い世界(小乗)に止まり、一神教の絶対者を認めず、キリスト教などの批判が激しい。
    >
    > アビダルマの無我は、無我にもかかわらず、法の有の執着で、無我が有我となって我で、世界を、
    > 引き抜いたり、除外したり、選択してしまうのである。
    > そういう、大乗仏教やキリスト教や神道を除外して、自分の小さな乗り物(小乗)に執着してしまう。
    >
    > ところで、「空の論理」は、因果関係を矛盾として一切を否定することによって、否定が否定の意味を
    > 失い、否定と肯定の分別が意味を失い、一切を肯定する空へと甦るのである。
    >
    > 世界をあるがままに、引き抜いたり、除外したり、選択したりすることなしに、肯定する世界が開ける
    > のである。キリスト教の神もあるがままに、多神教のあるがままに肯定できる大きな乗り物(大乗)が
    > 開けてくるのである。
    >
    > 上座部にもキリスト教の神はないが、大乗の空は、否定の果てに、論理的に神は甦るのである。




    アフォたれ。

  • 〇アビダルマに神は甦らない○

    上座仏教すなわちアビダルマは、分析された法が主体であるから、世界が彼らの分析された法
    という狭い世界(小乗)に止まり、一神教の絶対者を認めず、キリスト教などの批判が激しい。

    アビダルマの無我は、無我にもかかわらず、法の有の執着で、無我が有我となって我で、世界を、
    引き抜いたり、除外したり、選択してしまうのである。
    そういう、大乗仏教やキリスト教や神道を除外して、自分の小さな乗り物(小乗)に執着してしまう。

    ところで、「空の論理」は、因果関係を矛盾として一切を否定することによって、否定が否定の意味を
    失い、否定と肯定の分別が意味を失い、一切を肯定する空へと甦るのである。

    世界をあるがままに、引き抜いたり、除外したり、選択したりすることなしに、肯定する世界が開ける
    のである。キリスト教の神もあるがままに、多神教のあるがままに肯定できる大きな乗り物(大乗)が
    開けてくるのである。

    上座部にもキリスト教の神はないが、大乗の空は、否定の果てに、論理的に神は甦るのである。

  • 〇龍樹の反駁〇

    龍樹の時代にも、スマナサーラ長老やパオセヤドー氏のような空に対する反駁者はいた。
    それに対して、龍樹の反駁として『中論第二十四章・四つのすぐれた真理の考察』が面白い。
    中立的な立場として、中村元『龍樹』P379から引いてみたい。

    〈龍樹の反駁〉

    7、ここにわれらは答えていう。――汝は空における効用(動機)・空(そのもの)および
    空の意義を知らない。

    8、二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダの法(教え)を説いた。
    〔その二つの真理とは〕世俗を覆われた立場の真理(世俗諦)と、究極の立場からみた真理
    (第一義諦)とである。

    9、二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していない。

    10、世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しな
    いならば、ニルヴァーナを体得することはできない。

    11、不完全に見られた空の智慧は鈍いものを害する。あたかも不完全に捕えられた蛇あるいは
    未完成の呪術のごとくである。

    12、それ故にその法が鈍いものどもによってよく了解されえないことを考えて、聖者(ブッダ)
    が教えを説示しようとする心はやんだ。

    13、また、汝が〈空〉を非難しても、われわれには欠点の付随して起こることがない。
    〈空〉においては欠点が成立しない。

    14、空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、
    あらゆるものが適合しない。

    15、故に、汝は自分のもっているもろもろに欠点を、われわれに向かって投げつけるのである。
    汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである。

    16、もしもそれ自体(自性)にもろもろの事物の実有があることを認めるならば、もしそうで
    あるならば汝はもろもろに事物を因縁なきものとみなすのである。

    17、汝はすなわち結果、原因、行動主体、手段、作用、生起、滅亡および果報を破壊する。

    18、どんな縁起でも、それはわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、
    それはすなわち中道である。


    >>>>>>>>>>>>

    〈第一義諦〉と〈世俗諦〉の二つの真理が注目すべき点である。
    乱暴な言い方をすれは、
    第一義諦――色即是空
    世俗諦―――空即是色
    ということになる。

    14、空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、
    あらゆるものが適合しない。

    「空とは一切見の捨離である」と他でいうのだが、その一切見の捨離をすれば、「あらゆものが
    適合する」というのである。
    空は、何から何まで否定することによって、何から何まで肯定できるということである。
    絶対否定即絶対肯定ともいわれる禅的な「頓悟」でもあり、そこも修行と悟りの分別を超えて。
    「頓悟漸修」「修証一等」という、即今の道が開けてくる。

    絶対否定=色即是空―――肉の思いの捨離
    絶対否定=空即是色―――神の叡智の顕現

    とも言えよう。
    人間の思いのいっさいを手離してみることである。

  • 〇「認める×認めない」の分別を超える○

    >スマナサーラ長老もパオセヤドーも、きっぱりと「空即是色」を否定するし、認めない。

    彼らは、龍樹(大乗)の空そのものを受け入れていない。
    しかし、
    空とは、「認める×認めない」の概念的分別を超えたところ、言語発生以前の世界で、空の否定
    には肯定が含まれる――それが釈尊の不二中道。

    で、彼らは空を否定の意味しかとっていないから、世界の半分しか見ることができない。
    世界をあるがままに肯定できないから、人生の半分しか生きることができない。
    小さな世界にしか生きられないから小乗という。

    色即是空とは、世間虚仮として一切を否定することであり。
    空即是色とは、ありままのご縁の世界をありのままに肯定し受け入れることである。
    それぞれの人の、あがままの姿をあるがままに受け入れる。
    何から何まで受け入れる――そこに慈悲がはたらく。
    色即是空だけでは慈悲がはたらかない。

    空即是色とは、
    キリスト教的に言えば
    何から何まで、神のはたらき
    何から何まで、神の無償の愛

    空即是色=何から何まで、縁起のはたらき

  • >>3491

    >これが理解できないカズマは自我に陥り真我が理解できないから行為という事を重んじない外道宗教。



    目くそ鼻くそが

  • >>3488

    >インド社会の善因楽果、悪因苦果という「過去の業による輪廻転生説」に毒され
    てしまった仏弟子たちが、無我なのに何が輪廻転生するのか、などという虚妄なる命題に
    取り組み、とんでもない修行論を作り出し、誰も成仏できないことになってしまった。
    それを差別と平等にまとめれば。

    釈尊―――差別と平等の対立の超越(不二中道)
    仏弟子――過去の業による人の差別

    ということになってしまった。
    これを、釈尊の釈尊の「対立の超越」に戻したのが龍樹であったが、唯識などの輪廻転生を
    引きずる大乗にあっては「業のよる差別」を残してしまった。この振れを再び釈尊の「対立
    の超越」に戻したのが、華厳や法華経・涅槃経の「一仏乗」である。<

    善因楽果、悪因苦果は、善悪の行為を重んじる仏教においては、大乗も小乗もない同じだよ。 だれもが成仏できないとするような教えは大乗にだってないよ。今度は、唯識も完全否定かよ(笑う  無我だろうが、目に見えない執着した善悪の行為が心意識に焼き付き輪廻する。 カズマのは生前に善業する者も悪業をするものも誰もが同じそのような教えは仏法にはないのよ。   今を無心に生きるときれいごとを並べてもだめよ。 無心なんて、寝ているときとか、ボケーと景色を見ているときとか、題目を唱えているときとか座禅しているときぐらいだろうね。 
    過去の業による人の差別ではないのよ、自ら周囲の者に、真実を知らせる為に自らハンデの体を背負って生じてくる菩薩もいるのよ。あるいは、仏の使いとして生じてくる菩薩もいる。 どのような世界にどのような形で生まれようとそこから、善の行為を心掛ける、これなくして仏法はない。

    これが理解できないカズマは自我に陥り真我が理解できないから行為という事を重んじない外道宗教。

    南無妙法蓮華経」

  • 〇無時間の岸辺〇

    世俗の世界と、紙の裏表よりも親密に即して在る第一義諦の世界は、言語以前の世界である
    からもちろん前後という時間の概念もない。

    此岸=有時間
    彼岸=無時間

    と言ってもいいものが、お互いさまに親密に相即している。という世界観を岸見一郎『よく生
    きるということ・「死」から「生」を考える』210頁に垣間見させてくれる。

    ●無時間の岸辺

    病気になって始めて学べることがあるとすれば、時間についての見方がすっかり変わるという
    ことである。患者本人ではなく、患者や家族にも同じことが起こりうる。先に見たベルグは
    こんなふうにいっている。

    「あらゆることは時間ともに動いてゆくが、患者は無時間の岸辺に打ち上げられるのだ」
    (ヴァン・デン・ベルグ『病床の心理学』)

    病気になると、明日は今日の延長ではなくなる。予定もすべてキャンセルするしかない。

    …後略…


    三世は妄想で、仮のものだろう。

  • >>3485

    >禅でいう「善い行い」とは、「今を無心に生きる」ということなのである。
    道元的に言うならば「有時の而今」を生きるということである。

    そして、私たちは三時業の輪廻からこの世に生まれてきたのであり、三時業も「有時の而今」
    に含まれているということである。過去の三時業を背負って生きるが、その輪廻の生存も
    この世限りである。「生死の命」まっとうしたら「仏の御いのち」に帰って行く。<

    三時業の輪廻からこの世に生まれてきたのだろ。いくら禅宗の坊さんが、今を無心に生きるといっても、それを全うした人は誰かいるのかよ。 人だよ、まして末法に出でた僧侶、煩悩を滅した人はいるの?
    善悪の心は有る。 善悪の行為もある。とうぜん善悪の行為による因が後生の果となって生じる。 

    南無妙法蓮華経

  • 〇仏乗の菩薩は二乗を差別しない○

    だいたいにおいて、差別と平等の二元対立も縁起のお互いさまと見定めて、和合させる
    のが仏の智慧と慈悲であり、釈尊はその不二中道を説いた。

    なのに、インド社会の善因楽果、悪因苦果という「過去の業による輪廻転生説」に毒され
    てしまった仏弟子たちが、無我なのに何が輪廻転生するのか、などという虚妄なる命題に
    取り組み、とんでもない修行論を作り出し、誰も成仏できないことになってしまった。
    それを差別と平等にまとめれば。

    釈尊―――差別と平等の対立の超越(不二中道)
    仏弟子――過去の業による人の差別

    ということになってしまった。
    これを、釈尊の釈尊の「対立の超越」に戻したのが龍樹であったが、唯識などの輪廻転生を
    引きずる大乗にあっては「業のよる差別」を残してしまった。この振れを再び釈尊の「対立
    の超越」に戻したのが、華厳や法華経・涅槃経の「一仏乗」である。

    その辺りのところを、植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳・法華経』でまとめている

    声聞乗――声聞のための乗り物――出家の男子が乗る――――――――――目的地は阿羅漢
    独覚乗――独覚果に到る乗り物――独覚果を求める出家の男子――――――目的地は独覚乗
    菩薩乗――菩薩のための乗り物――二乗は除く、在家と出家の男女――――目的地は仏陀
    仏乗―――仏陀に到る乗り物―――三乗などの一切衆生―――――――――目的地は仏陀

    『法華経』『涅槃経』を深く味わう限りにおいて、この「大乗の菩薩」と「仏乗の菩薩」の
    区分けは正しいと思う。

    大乗の菩薩は二乗を差別するが、仏乗の菩薩は二乗を差別せず、一切衆生が乗る。

    ここにおいて、釈尊の何から何まで縁起の仏知見に帰った。

  • >>3485

    >禅天魔と、禅を排除しようとする狭い心の小さな乗り物の方々も、



    アフォたれ。

  • 〇三時業は有時の而今に在り〇

    禅天魔と、禅を排除しようとする狭い心の小さな乗り物の方々も、観音菩薩の広大智慧観と
    いう大きな乗り物の心をもって、道元禅師の『正法眼蔵』を学んでほしいものある。

    さて、道元禅師が晩年になって書いたとされる『正法眼蔵』の「三時業」であるが、曹洞宗
    の一部のバカ坊主は、その中の仏道を歩むものは「善い行いしかできない」を逆手にとって
    「仏教徒は善い行いばかりをする」と、人を有頂天にしてしまう。

    しかし、禅でいう「善い行い」とは、「今を無心に生きる」ということなのである。
    道元的に言うならば「有時の而今」を生きるということである。

    そして、私たちは三時業の輪廻からこの世に生まれてきたのであり、三時業も「有時の而今」
    に含まれているということである。過去の三時業を背負って生きるが、その輪廻の生存も
    この世限りである。「生死の命」まっとうしたら「仏の御いのち」に帰って行く。

    「仏の御いのち」の光明に呼び覚まされ、三時の業の「生死の命」をそのまま生きて、
    そして「仏の御いのち」に帰る。

    禅的な善き生き方とは、
    「仏の御いのち」という「本来的な自己」の呼び覚ましに、自己を整えてつつ
    「非本来的な自己」を生きるということである。

    それには「本来的な自己」を知見しなければ始まらない。

  • >>3483

    >我々の人智をもって計り知ることができない、また転ずることのできない定業も、南無妙法蓮華経のお題目に縁すれば心の病は滅し母が瀕死の危篤状態に陥った時に法華経で祈ったら元気になりさらに四年間母の寿命が延びた。
    これは信仰しているものだけが頂ける喜び。




    たまたまだ、アフォたれ。
    それは、何に祈ろうと同じ事だわ。

  • >>3481

    「過去の因を見んと欲せば、現在の果を見よ。未来の果を見んと欲せば、現在の因を見よ。」(心地観経)
    持って生じてきたのが善業ならばよいが、悪業の罪障消滅を図らないまま、さらに現世で重ねて罪を造る、当然苦しみの世界に生じる。仏法は道理。


    ※ 涅槃経に、転重軽受という法門あり。先業の重き、今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば、地獄の苦しみぱっときへて  余の種種の人間の苦報、現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力に由る故なり  

    受けなくてはならない業苦も軽くすむ。 お題目に縁をし懺悔罪障消滅により、業苦が薄くなり大難が少難、少難は無難に変わってきて、自分の思いどおりに事が運ぶことが多くなる。 


    ※ 夫れ病に二あり一には軽病二には重病・重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す何に況や軽病をや、業に二あり一には定業二には不定業・定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、法華経第七に云く「此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり」等云々、(略)仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命知命にありと申して五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を信じて定業をのべ給いき(略)されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり


    我々の人智をもって計り知ることができない、また転ずることのできない定業も、南無妙法蓮華経のお題目に縁すれば心の病は滅し母が瀕死の危篤状態に陥った時に法華経で祈ったら元気になりさらに四年間母の寿命が延びた。
    これは信仰しているものだけが頂ける喜び。
    南無妙法蓮華経

  • >>3481

    >定業、不定業は阿含経や涅槃経、原子仏典にたくさん出てくる。 ゴンスケはこのままだと間違いなく阿鼻地獄かもよ。 南無妙法蓮華経



    ぷっ、何も理解できないアフォ基地が。

  • >>3480

    >誰がその立派な想定したんだ?
    お前か?

    定業、不定業は阿含経や涅槃経、原子仏典にたくさん出てくる。 ゴンスケはこのままだと間違いなく阿鼻地獄かもよ。 南無妙法蓮華経

  • >>3479

    >今生で報が現れない業。 次生・未来世に報が現れる業。 いつ報が現れるか不定の業
    この三種の業の現れ方を想定しないと、因果の理法が厳然として働くという事が云えなくなります。故に後生有ることを想定して初めて因果の道理がある。 

    業報論は、言葉を換えれば因果の法(縁起の法)を説くものです。生前中だけ見ると、善行が生前中に報われない人もいれば、その反対に悪行の人でも財力や健康に恵まれて此の世を終わる人もいる。だからすべてが死後に消滅し無になるだけとすると、因果の道理など有るはずがないと言う結論になり、仏法から外れた外道になる。




    和真もだが、お前もいい加減なことを言うな。
    アフォ基地。
    自分で、(想定しないと)って言ってるじゃないか。
    誰がその立派な想定したんだ?
    お前か?

  • >>3478

    >私は、現世を求めず、来世を求めず、善業も悪業も、一切の宿業を仏の慈悲と引き受けて、
    仏の慈悲性に輝く今ここに生きる覚悟です。<

    そうした、きれいごとばかり並べて、カズマが大乗は三世を説かないなんて、仏教から逸脱している嘘をいうから指摘した。 因果を顧みない、どこでも何でもよい宗教で仏法を語る行為は阿鼻地獄だぜ。宗教の自由だからどうでもよいが仏法というからには、因果から外れた教えは恥ずかしいからしないでね。 カズマの道徳教は認めてあげるよ。(笑う

    無我だから、仏法を知らない間抜けな学者にカズマは染まってしまったのだろうね。 諸行無常。すべては変滅していて、恒常不変なるものはどこにも見つけることはできないから、我々の存在を構成しているもの(色・受・想・行・識)はすべては非我である、ぞくにいう不変のアートマン的霊魂を否定した。 これは正しい事だが間抜けな学者が陥ってしまうのは、観察とか認識できることは無我だとし、認識できない、証明もできないことに関しては無記とし釈尊は沈黙した、そして行為による三世の業を説いたのが理解できない。

    今生で報が現れない業。 次生・未来世に報が現れる業。 いつ報が現れるか不定の業
    この三種の業の現れ方を想定しないと、因果の理法が厳然として働くという事が云えなくなります。故に後生有ることを想定して初めて因果の道理がある。 

    業報論は、言葉を換えれば因果の法(縁起の法)を説くものです。生前中だけ見ると、善行が生前中に報われない人もいれば、その反対に悪行の人でも財力や健康に恵まれて此の世を終わる人もいる。だからすべてが死後に消滅し無になるだけとすると、因果の道理など有るはずがないと言う結論になり、仏法から外れた外道になる。

    南無妙法蓮華経

  • >>3476

    〇一切の宿業を引き受けて、今を生きる〇

    倶舎論と、唯識の種子生種子、種子生現行、現行薫種子、三法展転、因果同時がごちゃ混ぜに
    なっているようですが、三時業を信じている方は信じて善行に励めばいいでしょう。

    私は、現世を求めず、来世を求めず、善業も悪業も、一切の宿業を仏の慈悲と引き受けて、
    仏の慈悲性に輝く今ここに生きる覚悟です。
    何から何まで、久遠の仏(縁起)の慈悲性の顕われと信じて。

    渓の色 峰の響きも 皆ながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と (道元)

    あなた様は、三時の業を信じて善行に励んでくださいね。

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