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  • くつろいでいるとき


    夜、道を歩いていた。
    幽霊でも出そうな、さみしい一本道だった。

    すると、むこうから、人影のようなものが、だんだん、近づいて来る。
    さて、君ならどう(対応)する?

    手で幽霊の格好をして、
    「うらめしやあ」


    3人の修道士が、あるとき、まあるいテーブルを囲んで、
    「まわれ、回れ」と念じたんだ。

    xすると、テーブルが、回りだした。

    3人の修道士は、お互い顔を見合わせて、
    その部屋を出た。


    単純な、直観力だなあ

  • >>12

    押田神父について、

    押田成人神父の言葉
    http://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6/1/137865


    「神秘体験なんて直ぐに捨てなさい。人を傲慢にするだけです。
     なまじそんな体験にしがみつくと、その先の霊的高みへの道を閉ざされます」
      ・・・・・・・・・・・・
    悟とりが終われば、未だ悟らざるに同じと言うのが悟りの世界なのです。
    「アッ、さとった」
    こんなの悟りじゃない。「さとった、さとった」と宣伝する------、冗談じゃありません。そんな世界じゃありません。
    だから、ハッと開かれた経験があっても、すぐに忘れなさい。これは根本的なキリスト教の教えなのです。
    神秘体験があったらすぐ忘れろ、これはもう鉄則です。そうしないとそこに留まっちゃうから。
    また、見性体験したいとか、冗談じゃあない、そんなものじゃない。そんな狭い世界じゃあありません。
             
       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    『悟とりが終われば、未だ悟らざるに同じと言うのが悟りの世界なのです。
     「アッ、さとった」
    こんなの悟りじゃない「悟った悟った」と宣伝する-----、冗談じゃありません、そんな世界じゃありません。
    だから、たとえハッと開かれた有り難い経験があってもすぐ忘れなさい。
    見性体験したとか、冗談じゃない、そんのもんじゃない。そんなせまい世界じゃありません。』
        
    『座れば座るほど謙虚になる人と座って下さい。座れば座るほど、私は専門家だという人とは、
    絶対座ってはいけません。邪道に入ります。』



    お騒がせ「テルザ」よく聞きなさい。



    2人ないし3人が、自分のことについて
    「同じコト」を指摘するなら、自分が「それは違う」と思っていても、
    改め、従いなさい、
    これは、修道の鉄則です。(シスターをやめてきた複数の方たちに、押田神父が)

  • あまり接触したことは、ないのですが、(イストランさんと)


    西哲のチャイ、東哲の、かしこ爺、です。
    今回は、「銀やんま」でいきます。


    さて、「愚」の、体験が、本物だったのか、について、
    私は、振り返って味わってみて、
    疑問を観じています。


    お騒がせ「テルザ」については、
    本人が、洗礼をうけたことを、公言している以上、神さまからの「印」は消えませんから、
    クリスチャンなのです。
    12弟子のなかに、イスカリオテの「ユダ」がいたように
    滅びの子は、滅んでいきます。
    「ユダ」には、なりたくないものです。


    もうひとつ、「青空と雲」



    そこで、この板に、しばらく、やっかいさせて、いただきます。

  •    
     14/08/24 「仏教3.0」元年

    仏教3.0という発想は山下だけの問題ではなく、普遍性を持ったものである。(例:玄侑宗久)

     仏教3.0とは広い世界であり、キリスト教ともヨガとも齟齬がない。ゆえに面白い。そうではない世界では、キリスト教やヨガや気功を攻撃し、仏教内でも大乗仏教を攻撃したりする。そういう自己内完結世界である。それよりも、広々とした世界に出ると、みな同じことをしていたという意識になる。その方が圧倒的に面白い。 

     しかし、他を攻撃する人たちはまだ頑として存在して、仏教2.0(テーラヴァーダ)の人たちの方に多い。この人たちが間違った考え方を持っているために不幸になるというのは見過ごせない。

     日本仏教というのはお釈迦様を忘れていた仏教である(1.0)。しかしここ20年ぐらいのうちに、お釈迦様の教えをストレートに追求するテーラヴァーダが入ってきた(2.0)。それは日本の仏教を評価していなかった僧侶たちにとってはかなりの魅力だった。そして、この釈尊直伝の教えと瞑想法によって、日本仏教も再生するはずだった。が2.0には問題もあった。

     玄侑宗久はスマナサーラ師(テーラヴァーダ仏教)から、空即是色は仏教ではない、と言われたことがある。しかし果たしてそうだろうか。仏教ではないとなると、日本仏教の僧侶としては、かつての仏教を全否定されることになる。かくていろいろな反応が出てくる。テーラヴァーダに従って、日本仏教を否定する人もいれば、曖昧に誤魔化す人もいれば、ただ悶々としている人もいた。そして、この悶々としていた人たちの間で、この苦境を真っ正面から乗り越えようという人たちが出てくる。それが玄侑宗久であり山下だった。

     テーラヴァーダを肯定するでもなく否定するでもない、第三の道が仏教3.0である。一体どこにその本質があるのか。

     一粒の麦もし死なずんば、というのは自己を捨てることである。自分を捨てるのだから、私は慰められることも愛されることも必要ではなく、むしろ慰め、愛することが可能になるような大きな転換が成立する。そして死ぬことによって永遠の命をくださいという祈りがある。自分を捨てて、何かの一部となる。雲として死ぬことによって青空として永遠に生きる、それも今。

     そのような次元がないと、瞑想にしても非常につらくなり、瞑想が達成する事業になり、慣れてくると、自分は深い瞑想に入っていると自慢するようになる。たとえば、自分は第何禅定に入っているとか、入ってないとかいう話に我を忘れ、お互いにレベルを競うようになる。そのような状況だと、麦はまだ死んでいない。先発ピッチャーが死なないとリリーフはマウンドに上がれない。

     『ブラザーサン、シスタームーン』にあるように、人は通常、思いに囚われ、みじめさと戯れ、自然を見ること、美を見ることなどはない。たとえば歩く瞑想をすることによって、心が静まり、世界の美を見つめることができる。それは実はこの世界とは青空が現れた世界である、ということである。それは空即是色の世界、形ないものが形あるものとして現れている世界である。我々は青空の一部である。その青空には愛、慈悲がある。それによって、我々の閉じた心が開き、シンキングマインドの牢獄を出る。このとき、神によって作られたということの意味がはっきりする。そこを踏まえると、なぜ2.0にとどまってはまずいのかということが分かるのである。

     キリスト教と仏教という違う宗教でありながら、やっていることは雲としての私を青空としての私に交替させることである。2.0に感じる違和感とは、私に関するものである。仏教2.0(テーラヴァーダ)では、私は一重構造であり、雲としての私の先に、それも遠い遠い将来に青空としての私がある。仏教2.0では瞑想の主体は条件づけられた雲としての、無常としての私である。しかし1.0(旧来の日本仏教)では、私は雲であるが、同時に青空である。だから瞑想の主体は青空としての私に交替しうるのである。大乗仏教の本義とは、この雲と青空の同時的存在としての私である。

     ところが1.0には人間の現実的な悩みに答えるすべがない。そこで2.0が意味を持ってくる。2.0には世間に役立つ教えがたくさんあるのである。

     そういうわけで、1.0も2.0もそれなりの意味があり、それらは仏教3.0において統合されるのである。


  •  http://www.onedhamma.com/?p=4901


     14/08/10 青空としての「自己ぎりの自己」


     私のところにパオメソッドを求めてくる人は来ないでほしい。でないとここで何をするのか分からなくなる。ここでは瞑想とヨガを一緒にやるが、一番難しいのは、体の微細な感覚を見るということだ。

     人は体を完全に無視して生きている。それは空中に生首が浮いている状態であり、強烈な感覚しか感知できない。それではシンキング・マインドが自爆する。世の中の教育はシンキング・マインドを強化し、自爆するように傾向づける。

     微細な感覚を見るという目的のためには、自己の体に親しみ体を感じることに慣れなくてはならない。一法庵ではそのためにヨガをやっている。

     日本の仏教界が人間を幸せにできないという反省に対して、ここ十数年の間に流行ったテーラヴァーダは実に魅力的だった。生きている人間の苦しみを救い、社会の役に立てるからだ。

     テーラヴァーダからすれば大乗仏教は後世の人間が勝手に作ったものであって、真実ではない。そこで伝統的な日本仏教を捨て去り、テーラヴァーダに行く僧侶たちがいた。しかし、日本仏教は本当に無意味なものだったのか、どうもそうは思えない。こうして、日本の寺院に生まれて、社会の役にたちたい僧侶たちは、仏教3.0に行く。

     1.日本の伝統仏教は生きた人間の役に立ってない。
     2.かといって、大乗仏教を捨てろというテーラヴァーダに唯々諾々とは従えない。
     3.そこでワンダルマを求める動きが出る。

     これは修行内容にからめていうと、

     1.すでに悟っていると言われても、そんなことは言葉にすぎない。
     2.煩悩をすべて消すまで努力することが求められるが、いつまでたっても実現しない。
     3.煩悩、思いが湧いてきても、それほどまじめに受け取らない。というのも私の本質は青空だから。


     人は自分の思いを信じ込みすぎている。怒りを感じたら怒りをなかなか手放せない。しかし、人は思いの世界から超越した次元にも生きている。それが青空だ。
     
     思いの世界はまた自己のコントロールの世界である。自分の人生をすべてコントロールしようとするが、しかしそれは原理的に不可能である。自分がコントロールできるのは少しのことであり、ほとんどの場合は眠りのようにコントロールを越えている。私という主体がシンキングマインドで全てを支配しようとするのは、おそろしく息苦しい。青空に立てば、そのすべてが見通せる。
     
     青空とは禅の用語では

     1.本来の面目
     2.尽一切自己(自己ぎりの自己)

    という。ここには他者がない。自己と他者の区別がない。

     しかし職場の同僚など、明らかに他人がいるのに、どうして自己と他者の差異のない世界と言えるのか。これは1.0の仏教だけでは処理できない。2.0の修行をやってきたからこそ、私と他人が別れた世界での気づきは低レベルの気づきであり、マインドフルネスではないと言える。微細なエネルギーに気づくというのはまったく違うことである。その違いとは何か。

     思いが湧いて、それがストンと落ちたところにしか本当の気づきはない。思いの世界とは私と他人、私と世界が別れていない世界である。そこに同僚やパートナーがいても、そこで本当のマインドフルネスが働いたときに、自己ぎりの自己を生きることができる。



     質疑応答

     1.尽一切自己=青空の立場にたてば、生と死はなくなる。

     2.一切の煩悩を消すというZ-Z’という方向線については、その方向は生き物ではないものになること、自殺を目指すことである。これは自分に対する憎しみを抱いていることである。憎しみを抱いて修行をすると非常にまずいことになる。

     3.私の自己ぎりの自己、あなたの自己ぎりの自己は同じなのか。という問いについては次にまわす。


  •  http://www.onedhamma.com/?p=4893


     14/08/06  第三回 「アップデートする仏教を体感しよう」

     即効性があるのは仏教2.0(テーラヴァーダ)ではない。テーラヴァーダの世界観は修行によって欲をなくすというものだが、坐禅は座った途端に解脱する。3.0(新たな仏教)は坐禅をリアルにする。この坐禅を日常化し、坐禅に生きるのが3.0。

     テーラヴァーダのメソッドは使った方がストンと落ちやすい。
     が、その世界観には同意できない。

     藤田一照との違いはテーラヴァーダメソッドを使うか使わないか。
     
     藤田一照によると、哲学や思惟は、思いではない。仏教でもそういう思惟は否定されていない。ただその思惟の先がどうなっているのか。内山氏もそういう人だった。勉強もちゃんとしなくてはならない。

  •  
     14/08/03 誰でも出来る「思いの手放し」

     体の微細な感覚を見るとは、体の中に入って、躍動しているエネルギーを見ることであり、それを邪魔するのがシンキング・マインドである。これが体の外へ注意力をそらす。

     シンキング・マインドを手放すことで我々はある世界に入っていき、そこで体の中で働いている微細な感覚を見る。ところが、シンキング・マインドのままだと、体の表面の感覚だけしか見えない。その状態で一生懸命瞑想していると、体の表面で起こっているいろいろなことが虫のはいずりとして知覚されることがある。

     シンキング・マインドの脱落によって、体の中の感覚は自然と表れる。しかしこの脱落がないと、非常に無理をした瞑想になり、感覚は拡大される。

     しかも、この虫のはいずり感覚に変な解釈を与えることがある。たとえば、カルマによって、体の内側から悪いものが出てきているだけで、浄化の過程であるというふうな。しかしこれは現状認識が間違っている。

     2.0(テーラヴァーダ)の中では主体の交替ということが言われない。だから、同じ主体が瞑想し続ける。しかし、本来は、思いの手放しとは主体が交替すること、いわば先発ピッチャーがマウンドを降りることである。それがないと、間違った瞑想になってしまう。
     
     思いが生まれ、そして滅する、これをはっきり見る。

  •  
     2014/7/27

     「思いの手放し」に新しい光をあてる

     体の微細な感覚を見ると、シンキング・マインドが止まる。
     するとその世界では慈悲がある。そして、
     止まって、主体(ピッチャー)が交替する。
     この主体交替を曹洞宗の坐禅は分かってない。
     曹洞宗の坐禅はシンキング・マインドを止めることができない。

    *********************************************
     という命題に至るまでに、ぐだぐだと曖昧な話が続く。どうもこの人は、考えをまとめてからしゃべるのではなくて、しゃべりながら考えをまとめているようだ。「あ、わかった」なんて途中で言うぐらいだから。

     ところで、「シンキング・マインド」なんてふうに言ってほしくないんだが。思考は、それ自体は人間にとってはかなり重要なファクターであって、数学から思考を取ったら不可能になる。

     クリシュナムルティはこの辺り、「心理的」という形容をつけて、思考といっても心理的思考が邪魔なだけだよと言う。

     がどっちにせよ、思考を止めるというふうに簡単に言ってほしくない。

  •  
     2014/7/20

     エゴは現実が苦しいので映画に逃げ込んでいるかのようだ。

     それでも苦しいので映画から脱出しようとする。

     この話の微妙な点は、

     微細な感覚を受け取る、というヴィパッサナーの命題だが、それには

     微細なエネルギーを感じ取るという命題が添えられている。しかもそれは「気」とも言い換えられている。

     だが説明は例によってない。

     これは大枠で見ると、

     青空-アドヴァイタ

     微細感覚-タントラ

     ということになってしまうだろう。感覚とエネルギーというカテゴリーがどう結びつくのか、本論はこれだろうに。

  • >>1


     心のケア

     http://www.onedhamma.com/?p=4872

     瞑想に来るまえに、ちゃんと社会人として生きられるようになれ、という話。

     だが、こういうところに来る人間は、おそらく社会を敵ないし障害にして、仏教を<社会に対する楯>にしようとしているのだろう。

     それなのに、普通の社会人として生きられるようになってから来い、というのではあまりにすげないのではなかろうか。

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