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宗教とは何か

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  • 2017/03/01 10:24
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    >1.現代の分業概念でもって古代世界の分業を認識する。これはいわば間違いなのだけれども、現代社会を<反映>している、とするか。

    >2.リベラルな社会の多元性が、特定宗教言説(プッタタート)を規定する。

    はい。そんなところです。
    他にも色々と思いつきそうです。例えば人々は仏教を名指して平等主義だと言う。
    しかし、この場合の「平等」とは、我々が現代社会で想定する社会的平等でしょう。ところが釈迦が社会的平等を主張した根拠はない。縁起・四諦・八正道という理論上、誰でも悟ることができると、その限りにおいて等しく人々を扱っただけです。女性差別で言えば

    【<比丘尼は差別されつつ修行した>
     ブッダは女性の出家を、比丘たちの修行の妨げになるとみて拒んでいた。しかし叔母であり育ての親でもあるゴータミーに繰り返し請われ、また弟子アーナンダのとりなしもあって、彼女の出家を許した。比丘尼教団の誕生である。女性蔑視の風潮のあった時代にこのような決断を下したことは画期的であるが、『律蔵』の伝えるところによると、ブッダは比丘尼教団が比丘教団に従属することを条件に女性の出家を認めている。
     したがって、長老尼であっても若い比丘の下位に甘んじなければならず、また比丘尼教団の決定には、同じ地域の比丘教団の承認を必要とした。戒律の数も比丘の250に対し比丘尼は348あり、教団からの永久追放となる大罪も、比丘が四戒であるのに対し、比丘尼は比丘にとって準大罪とされるものを加え、その倍の八戒となっている。さらに女性の出家者には、比丘尼となる直前に二年間の観察・準備期間が必要とされた。】山崎元一『古代インドの文明と社会』124P

    このように、社会的平等などという現実はない。おそらくは「平等」というような漠然とした概念はとりわけ、現代の私たちの信念が入り込んで宗教の方を規定してしまう。

  • 私たちは何を信じて生きているのでしょう?

    明日も陽は上ると僕は確信しています。

    人は自分は生きていると信じています。
    人は自分は在ると信じています。・・・・我思う故我は在る訳です。

    神は、もちろん存在しません。
    存在しているのは、時間と言う、刹那です。


    数学直線で言えば、刹那は点。大きさのない点となります。

    私たちは次を信じて生きているようです。

  • >>46


    > ウェーバーとシュミットの引用にあるように、宗教社会学と呼ばれるものの視線は、宗教倫理が生活様式あるいは、国家理論の諸概念を規定しているという前提に立つ。しかし、そんな現実が現代日本に存在するかというと難しい。宗教社会学は可能か?と問えば、難しいだろうと。したがって、逆の方向で何か言えないだろうかということになります。現代における生活様式、経済、政治の側が、宗教概念を規定し、その信仰構造と活動様式をも決めているという仮定です。

     なるほど。


    > うん。その和氏は、ダンマ・パダを引用し、社会的分業の記述だと解釈しました。しかし当時のカースト体制においては縦の支配的分業はあっても、平等な市民の参画による社会的協働はありません。つまり和氏は、現代の社会的分業の概念でもって、古代インドの経の内容を理解、そうして規定したことになります。

     これは上の文章と関わってくるのでしょうか。



    > テルゼ氏はプッタタートを引用しましたが、プッタタートが宗教の多様性を認めるのは、文化多元主義の観点からそうです。それで教説の違いを越えて宗教は同じ目的について協力できると主張する。宗教教説の内部から取り出された考えに従って宗教融和を説くのではなくて、リベラルな社会のもつ多元性の承認に依拠して、宗教活動の意義と範囲が決められます。

     これはやはり上の文章と何らか関わっているような。しかし話が込み入ってますね。


    > だとすると、ネット掲示板における宗教言説・議論はどのような社会状況を反映していると言えるのだろうかと。

     1.現代の分業概念でもって古代世界の分業を認識する。これはいわば間違いなのだけれども、現代社会を<反映>している、とするか。

     2.リベラルな社会の多元性が、特定宗教言説(プッタタート)を規定する。

     
     これはですね、なんだかアドルノの香りがしますね。アドルノはやたら小難しいことを言いますが、処女作の『キルケゴール』は、キルケゴールの宗教的言説が、その時代の社会の反映であることを追究したものだという点では分かりやすいです。

  • >>38

    >宗教心理学と宗教社会学と、二つの学があるということがすでに象徴的だと思います。
    つまり、個人と社会の対立がこの学の配置に反映されている。もっとも集団心理学があるから、心理と言っても個に限定されるわけではないですが。<

    そうですね。実は社会心理学についてのテキストも購入しているのですが、まだ手が付けられていません。

    >ネット空間の宗教的発話というのは、たいていは教義の優劣に終始していると思うんですけど。<

    うん。
    ウェーバーとシュミットの引用にあるように、宗教社会学と呼ばれるものの視線は、宗教倫理が生活様式あるいは、国家理論の諸概念を規定しているという前提に立つ。しかし、そんな現実が現代日本に存在するかというと難しい。宗教社会学は可能か?と問えば、難しいだろうと。したがって、逆の方向で何か言えないだろうかということになります。現代における生活様式、経済、政治の側が、宗教概念を規定し、その信仰構造と活動様式をも決めているという仮定です。

    >たとえば、ここに書いているkazuという人(和真氏)、この人は華厳を最高の真理としたがりますね。<

    うん。その和氏は、ダンマ・パダを引用し、社会的分業の記述だと解釈しました。しかし当時のカースト体制においては縦の支配的分業はあっても、平等な市民の参画による社会的協働はありません。つまり和氏は、現代の社会的分業の概念でもって、古代インドの経の内容を理解、そうして規定したことになります。

    テルゼ氏はプッタタートを引用しましたが、プッタタートが宗教の多様性を認めるのは、文化多元主義の観点からそうです。それで教説の違いを越えて宗教は同じ目的について協力できると主張する。宗教教説の内部から取り出された考えに従って宗教融和を説くのではなくて、リベラルな社会のもつ多元性の承認に依拠して、宗教活動の意義と範囲が決められます。

    だとすると、ネット掲示板における宗教言説・議論はどのような社会状況を反映していると言えるのだろうかと。

  • 私たちは何を信じて生きているのでしょう?

    明日も陽は上ると僕は確信しています。
    でも、今朝は雪。戸外は寒いので畑仕事は中止します。

  • 宗教は宗教。キリスト教。仏教。カソリック。オーム真理教。やお万の宗教結社があります。

    哲学は哲学;万物は水はタレス。われ思う故我在りはデカルト。考える葦はパスカル。神は死んだはニーチェ。
    人ひとりひとりにその人の哲学があります。

    心理学;心についての学問はフロイトが始めたことになっています。
    現在は『脳は如何にして言葉をつくるか』新潮社。言葉と身体の学問になっています。
    更に脳内ホルモンが話題となるように、人の生理の学問になっています。

    社会学とは数学、統計学です。ナイチンゲールの創出になります。

    文学は何でしょう。
    出版産業でしょう。

  • >>24

     
     申し訳ないけど、全然心に響かない。

     和真氏は、映画「あん」を観たことがありますか?

     どれほど宗教言説が鼓舞しようとも、あの映画のメッセージには及ばない。

  • >>28

    pipitさん、こんにちは(^^♪

    こちらだとトピずれかな、という気もして、私のトピ「きるしっかぷー」というのですが、そちらに移動してレスさせていただいています。
    すみません。

  •  
     梶山雄一は、神秘主義的なことを中期あるいは後期中観派に期待してますね。つまり龍樹には期待してない。

     瓜生津隆真は、超越に至る実際の方法が龍樹から読み取れないとしている。

  •  
     宗教心理学と宗教社会学と、二つの学があるということがすでに象徴的だと思います。

     つまり、個人と社会の対立がこの学の配置に反映されている。もっとも集団心理学があるから、心理と言っても個に限定されるわけではないですが。


    >むしろ、掲示板というネット空間で雑多に交わされる宗教的発話を研究の射程から除外して、宗教と社会の適切な関連付けは不可能なのではないか?とこのように、仮定してみることは不当ではあるまい。

     ネット空間の宗教的発話というのは、たいていは教義の優劣に終始していると思うんですけど。

     たとえば、ここに書いているkazuという人(和真氏)、この人は華厳を最高の真理としたがりますね。

  • >>6


    > 第二の道、心の持ちようを変えていく仕方の対応について、宗教はその方法を提供するということでしょうか。

     エソテリック(秘教的)でない場合は。


    > 苦としてもしょうがない生老病死について、あえて苦とし、その克服を主張する場合、やはり現世超越的・現実乖離・生活遊離・あるいは形而上学、まぁ表現は何であれ、非日常的宗教観念に基礎を求めなければならくなりそうです。必然的な事柄を超越するというテーマが、結局のところ神秘主義との親和性なんでしょうか。

     その通りと思います。逃れられない必然性に文句を言っているのですから、まともに受け取れば神秘主義的にならざるをえません。一方、ほとんど倫理と化した宗教では、ただ<心の安定化>のみに絞って、なんらか精神安定剤のようなハタラキに終始するししかないでしょう。


    > コミュニティーは何であれ、宗教の強圧下、ひとつの世界像の中で定位された特定の幸福観念を共有していたに違いない。まさにそのような社会的背景状況の中で、宗教は、あらかじめ特定し受け入れられた幸福像に対しての最善の処方箋を提供できると主張し得た。しかし現代では、コミュニティーが共有しているだろう特定の幸福像などというものは存在しないか、極めて不安定にしか共有できそうにない。

     それがなんでそうなってしまったのか。現代でもついこの前までは、東南アジアの人たちの仏教は社会に根付いたものだったと思うのです。しかし、そういう社会が、都市化とともに、消えて行ったのではないか。都市の持つ人口の多さ、建物の圧迫感、時間の配分、そのような状況を背景として、ある程度必然的に、幸福な共同体が消失していったと考えます。もっとも決定的な因子がなんなのか、分かりませんが。

  • >>4

    >  宮沢賢治の辞世の句もこの田中のメッセージと本質的には変わらないと彼は言う。それは、日本人が本能的に持っている郷土ないし身の回りの人間との一体感である。そして、サンデルが驚いているのも、この共同体への同化志向だという。

     サンデルというのは読んだことがないのですが、マッキンタイアの系譜に連なる人ですかね。

     この投稿と、ミカエル氏の共同体の話を比べてみると、単に対立していることが分かります。
     
     つまり、サンデルは、震災の状況を見て、幸福な共同体が日本に存在しているとみなして、驚いた。ミカエル氏は、共同体が喪失されているので、現代の日本人は不幸になっているという。さて、どっちが実相に近いのか。

  • 宗教は宗教。

    宗教と哲学はまるで異なるものです。

    宗教は宗教。

    心理は心理で心理学がフロイトにより学問づけられました。

    宗教と心理学はまるで異なるものです。

    社会学。経済学。政治学。すべて宗教とは異なるものです。

  • >>23

    >〇分業の底にあるもの――信頼の構築〇
    そう、世界は分業によって成立していて、釈尊も『ダンマパダ』80番で次のように
    述べている。(中村元訳『真理のことば・感興のことば』21ページ)

    80、水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、
      賢者は自己をととのえる。<


    分かってないね。
    当時の分業とは何?
    すなわち、カーストで規定された職業義務によって、縦に階層化された社会的分業なの。

    相応部とスッタ・ニパータに「耕田」という経がある。
    或る人が釈迦にこう問うた。
    「私は自分の食料を耕して得ている。お前は何をしているのか?」と。
    これに釈迦は、私もまた自己を耕しているのだと答える。

    実はこの経は、ジャイナ教にも婆羅門教にもある。
    つまり、生産階級の非難に対して、思想階級である非生産者が一致して弁明しているわけだ。
    すると、あなたの引用したダンマパダの一句は、まったく違って見えてこないか?
    その経は、分業体制など示してはいない。カーストにおける非生産階級が、まさに生産における社会的分業に関わらないことの宣言だ。宗教階級には宗教階級の勤めがあるのだとね。

  • >>24

    >義務は義務として残るが、その義務の逆風を揚力として、鳥のように空に舞う。
    その義務を喜びに変える「価値転換」が宗教だと思う。<

    これもぜんぜん駄目。
    カントの義務論を理解していない。
    何か「いやいや義務に従う」という意味を込めているらしいが、義務論の義務はそんな意味じゃない。
    条件法に依らぬ道徳的命令の指令性を義務と形容するの。

    というか、いつもながら、あなたのポエムは何が言いたいのか分からんな。
    自己にしか分からぬ自慰に溺れてばかりいるから、他人とのエッチをまともにできなくなっているんじゃないか?

  • >>21

    >医師は、肉体的生命を救う。
    宗教は、心を救う。

    世界は、信頼関係による分業で成立している。
    捕手と投手を同時にはできません。<


    ぜんぜん駄目。答えになってないよ。
    あなたは次のように言ったの。↓

    >宗教と倫理を対立させるところに問題があるのだと思います――宗教即倫理
    倫理を義務感からではなく、進んで喜んでできるようになるための宗教だと思います。<

    倫理に適う行為ができるんでしょ?
    だったら誰を救うのが倫理に適うのかと質問しています。

    重傷者を優先するなら老人を救わねばならないが、どちらにしても余命は少ない。
    妊婦を救えば二人救うことになるが、軽症だから放置しても生存できるかもしれないが堕胎の可能性がある。
    少年はしばらくもちそうだが、放置すれば危うい。現に生きる意思と未来を持っているから、優先すべきか。

    倫理に適い優先されるのは、生命の数か、緊急必要度合いか、生きる意思と未来か。
    で、このように倫理が対立しているときに、倫理ができると言ってそれでどうするの?具体的には?
    現実の難しさを無視して、倫理を進んでできると口走って満足している程度の脳味噌なのでは?

    トリアージと同様の構造を持つ次の事例でもいい。同様の構造とは、資源(人・モノ・カネ)は限られるという現実。

    予算が1兆円あったとしよう。
    倫理に適う配分は何?
    母子世帯に給付したり、保育環境の改善にあてることか?
    産業の育成に資金を注いで経済を刺激し、全体として誰もが恩恵を受けることか?
    薬害・アスベスト・原爆後遺症・ハンセン病・など、国の過失によって被害を受けた人々への十分な救済に回すことか?
    高度医療が受けられないばかりに生存を断念する人々の救済に基金を設けることか?
    震災被害者の支援と、復興の国庫負担を続けることか?


    で、倫理を進んでできるならどうなの?
    複数の倫理的見解が対立するから予算編成はもめるんだよ。
    宗教即倫理、すすんで倫理ができるなどと口走って満足する人間は、本当は現実について考えてはいない。
    自分が何か倫理的であることのイメージに浸ることだけが目的だからだ。

  • >>27

    赤い実さん、こんばんは(*^o^*)

    >ええと、それは、「今」からはずれてしまう、ということで精進ができないという意味合いですか?

    すぐ、考え事に閉じこもってしまって、しかも、考え事をしていることに自覚的でない状態がほとんど、という意味で、私には全然サティできてない、と、感じているという意味合いで先の文章を書きました。

    上の空で、行動してるということです。

    例えば、私は、メガネをしてるのですが、メガネを上の空で何処かへ置き、「あれ〜?メガネ、どこ〜」と探すことが、しょっちゅうあります。

    一つ一つの行為を自覚的に気づきながら行ってれば、自分でメガネを置いた場所なんて覚えてるはずですよね💦

    >ティクナットハンさんが提唱された瞑想法ですね。

    ティクナットハン師お一人の提唱とまでは言い切れないかもしれません。
    ティクナットハン師の瞑想の元になっていると思われる経典があります。
    『サティパッターナ・スッタ』という経典です。
    ティクナットハン師がこの経典の解説本を出されています。
    邦題は『ブッダの〈気づき〉の瞑想』です。野草社というとこから日本でも出版されています。

    もう一つ、呼吸を大切に扱われていますが、その瞑想の元の一つになっていると思われるのが、『アーナパーナサティ・スッタ』です。
    邦題は『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』で同じく野草社から出版されています。

    私は、気づきの瞑想の方は購入したのですが、まだパラパラと読んだだけで、全部きちんと読んでいません(^^;;
    好みがスマナサーラ長老系なものでσ(^_^;)

    呼吸の瞑想の方も読んではみたいかな、という気持ちはあります。

    『息を吸う、全身に気づく。息を吐く、身体の働きを静める』とかいう文章とか紹介されてて、いいなぁと思いました。

  • >>25

    >赤い実さんは、ヴィパッサナーの話題に使われる『サティ』というパーリ語をご存知でしょうか?

    はい。 サティを入れる、という表現で使用されますよね。
    「今」に気づいている、という意味でいいのでしたよね。

    >英語では、『 mindfulness 』などと訳されてるのが、パーリ語の『サティ』です。

    ティクナットハンさんが提唱された瞑想法ですね。

    >そして、八正道の中の『正念』は、『 サンマー ・ サティ 』というパーリ語が原語です。

    念というと、念じるみたいに誤解されやすいけれど、気づくということなのですよね。

    >だから、私は、もし本当にヴィパッサナー瞑想が出来てる時は、八正道の一つ(サンマーサティ・正念)を精進してる時だと思っています。ちなみに私は、全然精進できてません(^^;;

    ええと、それは、「今」からはずれてしまう、ということで精進ができないという意味合いですか?
    なにか立ち入ったことをお聞きするようで、すみません。
    よかったらということで、教えていただければ嬉しいです。


    >個は存在しないと認識した人には、個の苦しみも存在しないという認識になる、かもしれない、というのが私の今の時点での感想です。

    個人としての感覚が消えてしまっている人にとっては、自我から発する苦はないのだと思います。
    自我は、個人としての私という意識ですから、それが薄くなればそこから出る苦も減る、ということで。

    > 個が存在すると認識する人にとっては、個の苦しみも、実感として湧いてくる。

    > そのように思いました。

    そうですよね。 自我が強く働いていれば、私という個を強く意識していれば、苦もまた個にとってのもの(でしかない)となりますから。


    >個が本当にないのか、個の苦しみもないものなのか、
    未熟すぎる私には今の段階ではわかりません、すみません😞


    いえいえ、そんな・・ テーラワーダにお詳しいpipitさんにそんなふうに言われてしまうと、適当にしか学んでない私は困ってしまいます。

    個というのはあくまで、現象として現れているものという考え方からすれば、個としてのさまざまなものは、
    実はその個以外のものである、とも言える。
    そうなると自我からの苦は意味をなさないものだ、ということですね。
    そしてそこから新たに個をみる時、固定ではない個としての認識が生まれる。

  • >>20

    > 〇一切皆苦の自覚から宗教が始まる○
    >
    > 横から失礼、
    >
    > >生老病死はそのままあるかもしれないけど、
    > >執着が、それほどない人にとっては、生老病死もそれほど苦しみではないのかもしれない、と、思いました。
    >
    > そういう方に宗教は必要ないと思います。
    > 人生まるごと苦悩
    > という一切皆苦の自覚から宗教は始まる。
    > 釈尊の説いた「一切皆苦」は真実だと思う。

    kazuさん、こんにちは

    ダンマパダ278ですね😊
    『すべての現象は苦だと
    智慧によって見る時
    苦を厭い離れる
    これは清浄への道である』

    全ての苦から離れた人には、もはやその人自身のためには宗教は不要かもしれないですね。
    でも、慈悲が溢れ出てるので、まだ苦しんでる人のために、苦しみから離れる道を説き、それが宗教とよばれるようになることもあるかもしれないな、と、思いました。


    ちなみに、一切皆苦は、原語は、
    サッベー サンカーラ ドゥッカ

    原語の直訳としては、
    一切のサンカーラ(行)は苦。で、

    テーラワーダさんのホームページには、『 諸行とは、sankhârâのことです。因縁によって現れる、因縁によって合成される、また因縁によって壊れる、現象のことはsankhârâと言うのです。本来のものではない、一時的である、現象でありまた幻想である、ということはsankhârâという語の意味なのです。』

    サンカーラ(現象)でないものがあるのかどうかわかりませんが、
    とりあえず、無明が滅すればサンカーラ(行)も滅す、と、あるので、
    サンカーラでないものは、苦ではないのかも⁈

    それは、体験なき未熟者の、私には、わからないことですけど😂

    それでは失礼します🌸

  • >>18


    こんにちは😊
    ついつい書き込んでしまいました💦

    >そう、たしかに、執着が苦のもとですね。
    >そして、八正道の実践は苦を緩和するし、人間としての深みも増していくのだと思います。

    赤い実さんは、ヴィパッサナーの話題に使われる『サティ』というパーリ語をご存知でしょうか?

    英語では、『 mindfulness 』などと訳されてるのが、パーリ語の『サティ』です。

    そして、八正道の中の『正念』は、『 サンマー ・ サティ 』というパーリ語が原語です。


    だから、私は、もし本当にヴィパッサナー瞑想が出来てる時は、八正道の一つ(サンマーサティ・正念)を精進してる時だと思っています。ちなみに私は、全然精進できてません(^^;;

    >アドヴァイタ、禅の視点からだと・・・、個は存在しない、というところから苦そのものも個別には存在しない、となっていく、と思います。
    >そういう見方についてはどう思われますか?

    個は存在しないと認識した人には、個の苦しみも存在しないという認識になる、かもしれない、というのが私の今の時点での感想です。

    個が存在すると認識する人にとっては、個の苦しみも、実感として湧いてくる。

    そのように思いました。

    個が本当にないのか、個の苦しみもないものなのか、
    未熟すぎる私には今の段階ではわかりません、すみません😞

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