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せっちゃん

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  • 2017/03/01 16:12
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  •   自分の立場を守らない         せっちゃん


     自分の立場を守らないとはどういうことだと思いますか、時所位、あるとき是あるとき不是という、自分という氷ではなく方円の器に従う水である、自分という架空事、そういう思い込みのないことです。するとただの子供赤ん坊の舌頭たたわわなんです、ついに物を得ずです。
     どうですか、そうやって一生を生きること本当に面白いんです、100%200%するんです。
     そうして間違わないんです。禅に批判的だろうが反仏教もでたらめも心理学もどうしようもないのも、まっさらな目には一目瞭然なんです。
     自分がないんです。
     どう対応したらいいかといって、対応以前に答えが出ている、こりゃどうしようもなくはっきりしてるんです。
    だからそれを是とする人には道があり、不是わからない、云うこと聞かぬ人には、そりゃこっち引き下がるよりないです。またの機会ということです。
    「人は大悟したほうがいい」ではなく「迷妄を住処とするな」です。
     悟り=目覚めて下さいということです、はた迷惑禍殃累生に及ぶとむかしから云われている所以です。
     あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜明けにけるかな
     目覚めて下さい。

  •   仏陀
                        せっちゃん

     仏陀は各種行なわれていた修行他一切にけりを付けています。乃至難行苦行にもけりをつける、
    「たしかにあなたの云われるようにやってみた、しかしわたしの疑問を解決するものではない。」
    ということです、すべての書は読まれたり、肉は悲しとは西欧詩人の言い種ですが、一切事において役立たずを知る大力量=真っ正直だったです。
     ついに刀折れ矢尽きて、ガンジス河のほとり菩提樹下に坐す。そうして明星一見の事、我と有情と同時成道を知るんです。
    「何を求める必要もなかった、もとあるがまんま=すべてが解決済み。」
    を知るんです。如来来たる如しの道です。他の一切宗教と違います、仏陀の目には他の如何なる宗教も、こうすればこうなるという邪教です、迷いの上の迷いにしか見えなかったです。
     現在の仏教といって、ほとんど100%どうも、わたしも曹洞宗門としてまことに申し訳ないんですが、いろんな仏教というもなく、仏教とは云われんのです。
     まっすぐに、真っ正直に見て下さい、自分にとって何が必要かということです。古来仏教が欲しいか自分自身が欲しいのかという問題だったです。他所っことじゃないんです。この事一切事において役立たずの、仏陀の道をたった今も同じに通る他ないです。便法はありません。たとい座禅もあ-だこ-だいってるうちはなんにもならんです。修行途中で逃げ出したろうが、そんなこと一向にかまわんです、でも自分から逃げ出したらだめです。
     人の噂に惑わされんで下さい、知っている人はこれと云い、知らぬ人はあれと云います、よく聞いているとわかります。一応の目安になります。
     ねはんと無常は諦めじゃない明きらめなんです。大喜悦大安心ということがあります。他にはなんにもいらない、
     雪月花をほんとうに雪月花と知るんです。如来あるがまんままというのは、実にそうできているからです。そうでなきゃわれわれの存在自体の意味がないんです。花も月も人間以外みな如来、だのにどうして人間だけそぐわないという、即ちこれが仏教の命題なんです。
    http://www17.plala.or.jp/tozanji/bn/butuda.htm

  • >>510

    > 明治以来西向け西で来た日本人の、そうなんです、唯一賢治だけが、西欧精神をマスターしたといっていい、ものまねじゃないんです、人を感動させるんです。
     でもね、「すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はない。」という、実に美しい語なんです。美しいこの語はヨーロッパの物です。およそこの語によってヨーロッパは退廃し滅ぶんです。
    <

    賢治のこの万人の幸福を願う姿勢は、ヨーロッパの影響ではなく、「法華経」の菩薩の誓願だと私は思います。

    > 宮沢賢治を私が熱愛したころはほんのマイナーでした。今はむしろ日本人のバイブルといっていい。ですから、「すべての人が~」の美しい過ちは知らぬまに影響大なんです。
     これを逆にしなければならない、
    「一個の人間がほんとうに解き放たれれば、ふれあう万人を救う。」
    にです。
     これは東洋の心と西洋の心の違いなんです。いいですか、いま他から外れてはなんにもできないという、マスコミ一辺倒だったり、視聴率第一とかいうの、学校教育とかいうの、
    「それはかまわん、でも私は私のすることをする。」
    っていう、一人二人出て来ることを切望します。
     英語をしゃべればさくらマークじゃないんです。
     陪審員制度じゃだめです。
     
    > スフィンクスという謎をおいての約束ごとです、外では生きられない、ほんとうよりも人間同士ってことです。だから、すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はないんです、これね、後の一神教に受け継がれて今に至る、西向け西の日本人にどうしても理解出来ないことだったんです。心がそういう構造を持っている、恐ろしいことです、ドストエフスキーの小説はこれが崩壊の赤裸々な記述です、さすがの黒沢明が映画に仕切れなかった。そうです、ゴッホをみてその苦しみを理解する日本人はいなかった。

    > 釈尊は森林に坐すんです、ガンジスの辺です。
     自然と一体化するんです。 
     一個よく百万人を救うんです。
     
    > 賢治の現実はほんとうは、「ただの現実」だったと知って下さい。

    ここの、和尚さんの意図はわかりませんが、宮沢賢治は、来世も菩薩として、人の幸福に寄与する生き方をしたいと願ったことでしょう。
    目標を持って一途に誠実に生きられた。美しい生命という印象です。

    法華経に出会えて、彼は救われていたと思うし、そういう意味で、世界も救っていたかもしれません。

  • >>512

    >七年間のアレヤコレヤの苦行の末、、途方に暮れて坐した。

    そうだよね、人間は途方に暮れるんです。詩人はそこを美しい死に昇華させて、道人はそこから逃れようとする答えのなかに自分がおぼれているのに気づくのでしょうけど・・・・・詩人でも道人でもない人間は、やはり途方に暮れます。

    せっちゃん >七年間のアレヤコレヤの苦行の末、、途方に暮れて坐した。  そうだよね、人間は途方に暮れるんです。詩

  • .【おんせん県】「シンフロ」篇 フルバージョン SHINFURO Full Version .
    https://www.youtube.com/watch?v=20ZWZJgixtw

    『仏はほどけ、自分で自分を縛っている自縄自縛の縄をほどけばもと仏、自分という思い込み=自縄自縛の縄のはしっくれ。』
    で、、、、


    『物心つく三歳くらいからの垢が落ちてサッパリしたら、、やっとこさ、人としてのお仲間入り。
    がんばれよ~ ~』
    ってのが、おしょさんから受け継いだ メッセージ。


    あたし、25歳でエレクトーン指導資格取得。20年教えた。
    水泳32歳で始めて、35歳で指導員資格合格。12年間教えた。
    新潟市の水協では、シンクロ部会員だったよ。


    指導員とったら、教えると、 深まるぜ~。

  • >>510

    > >賢治の現実はほんとうは、「ただの現実」だったと知って下さい。この和尚のコトバは印象深くて、折々に考えてみるのだけれど・・・・・・・この言葉、「賢治の現実」とは何か、「ただの現実」とはどういうことか、だれか説明できる人はいます?「すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はない」といえばわかりやすい、当たり前の話です。「一個よく百万人を救う」といえばそこには主客の別もないけれど

    >「ガンジスの辺」で坐して

    七年間のアレヤコレヤの苦行の末、、途方に暮れて坐した。
    そして、心身脱落した。 独立した自分はなく、全体だ。

    そこから『長長出』で、肉体死まで、積極的に生きた。


    ブッダさん おしょさん   は  同じだね。
    あたしも 四捨五入でいえば  同じ。


    ずーっと坐っている  わけじゃない  んじゃ ないでしょうか?・・・

  • >>508

    >いいですか、無心とは何か-自分が答えるたった一通り。それはどういうことか、あなたの答える一切がなんの役にも立たぬことを先ず知るんです、たといどのように答えようが糠に釘、その厄たいもない「答え」の中に自分溺れかけている-ということに気がつくんです、ついに無心の行なわれている様子を見る。

    こんなことをサラリと言えるなんて、ホントにすごい和尚さんでした。

  • >>506

    >賢治の現実はほんとうは、「ただの現実」だったと知って下さい。

    この和尚のコトバは印象深くて、折々に考えてみるのだけれど・・・・・・・この言葉、「賢治の現実」とは何か、「ただの現実」とはどういうことか、だれか説明できる人はいます?

    「すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はない」といえばわかりやすい、当たり前の話です。「一個よく百万人を救う」といえばそこには主客の別もないけれど「ガンジスの辺」で坐して人はホントに生きられるのか、ちと疑問ではあります。

  •  禅門たった一つ

    禅門たった一つと心得て下さい。世の中あまりに偽物多い、いいかげんな切った貼ったみたいのばっかりですが、これ今に始まったこっちゃないです。自分まっすぐに求める、ただこれ唯一の方法です、脇見運転しないんです、禅門はこうあるべきとやらないんです、自分は何が欲しいかです、禅門が欲しいのか自分の本来ほんとうが欲しいのか、たとえば無有恐怖にしても、
    「無心なら恐怖なし、なぜなら心が無いから。」
    というアプロ-チじゃダメなんです、
    「こわい、どうにもならない。」
    に面と向かうんです、答えは自分自身です、たとい、
    「どうにもならなかった。」
    という答えも正解の時は正解、役に立たないときは役に立たない、尽くしていない=自分の辺に答えが出ていないんです。
    わかりますか、
    「無心とは何か、アンチ有心である、だからこうだ。」というのはダメです、心とは自分にある一個しかないんです、禅門も仏教もまさに自分たった一個です、これに聞きこれに確かめるよりないんです。いいですか、ここにおいて自ずから正師邪師を見るんです。禅宗旨とはこういうものだという、あなたのいうのは思い込み、種々雑多です。分裂病だなんて(504そんなの何云ったんだかほっとけって、いや失礼)無限ル-プの生き地獄なんて恐怖やってないんです、それ自分で思い決めて一人相撲=有恐怖ですよ。
    なにさ地獄ぐらいじゃ心無ケゲ-かすっともかすらないんですよ。
    それを確かめて下さい。
    いいですか、無心とは何か-自分が答えるたった一通り。それはどういうことか、あなたの答える一切がなんの役にも立たぬことを先ず知るんです、たといどのように答えようが糠に釘、その厄たいもない「答え」の中に自分溺れかけている-ということに気がつくんです、ついに無心の行なわれている様子を見る。
    「答えがない。」
    答えを知ることができない、答えが自分だからです。
    わかりますか、実に単純な問題です。
    東山寺アッハッハ逃げも隠れもせんですよ、評判わるいのはよく承知してます、でもさハテナと思ってもとことん付き合うことおすすめ-自分で云ってりゃ世話ないが、この事初めから終わりまで自分自身との対決です、ための踏み台にしてくれりゃいい、踏み台はめちゃんこ踏んでみて、しまいもう一回踏むぐらいすりゃいいです。
    http://www17.plala.or.jp/tozanji

  • >>505

     ギリシャ悲劇においでぃーぷす、あがめむのーん、おれすていあの三部作があります、西欧の心というものが、砂漠-壁-人の住む世界という構造をしていることがよくわかります。スフィンクスという謎をおいての約束ごとです、外では生きられない、ほんとうよりも人間同士ってことです。だから、すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はないんです、これね、後の一神教に受け継がれて今に至る、西向け西の日本人にどうしても理解出来ないことだったんです。心がそういう構造を持っている、恐ろしいことです、ドストエフスキーの小説はこれが崩壊の赤裸々な記述です、さすがの黒沢明が映画に仕切れなかった。そうです、ゴッホをみてその苦しみを理解する日本人はいなかった。
     ゴッホもドフトエフスキーも滅ぶんです。
     そいつをまねるこたあないっていうんです。

     釈尊は森林に坐すんです、ガンジスの辺です。
     自然と一体化するんです。
     一個よく百万人を救うんです。
     ちょっと荒っぽい説明ですが、大筋は間違っていないつもりです。
     みなさんどうかよくお考えになって下さい。
     賢治の現実はほんとうは、「ただの現実」だったと知って下さい。

    http://www17.plala.or.jp/tozanji/bn/kenjinokoto.html

  • 賢治のこと

     よだかの星はいいですね、私どものうら山によたかがいます、昼間はやぶっ原に置物みたいにとまっています、見るにつけ千年も前に読んだ(なんせ化石人間ですんで)賢さを思い出します、賢さというのは賢治の署名なんですよ、いい字で賢さと書いてあるんです、よたかってほんとうはちどりの仲間かなあって、いまも賢さのいいなりに思います。
     私化石人間は虔十公園林なんてずっと好きでした、オッペルと象も好きですし、黄色いトマトというのがあって、黄色いトマトって聞くと還暦越えて涙ポロっと落とすんです。
     実に人間のほんとうのって、原点っだって気がします。

     けれども彼は道人ではなく詩人でした、並みの詩人じゃない、ディッヒターと呼ばれる、人生イコールぽうえむというんですか、実にゲーテの詩と匹敵するんです。
     いーはとーぶぉに根づいて、土や雲や恋愛やうずのしゅげです。
     明治以来西向け西で来た日本人の、そうなんです、唯一賢治だけが、西欧精神をマスターしたといっていい、ものまねじゃないんです、人を感動させるんです。
     でもね、「すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はない。」という、実に美しい語なんです。美しいこの語はヨーロッパの物です。およそこの語によってヨーロッパは退廃し滅ぶんです。

     宮沢賢治を私が熱愛したころはほんのマイナーでした。今はむしろ日本人のバイブルといっていい。ですから、「すべての人が~」の美しい過ちは知らぬまに影響大なんです。
     これを逆にしなければならない、
    「一個の人間がほんとうに解き放たれれば、ふれあう万人を救う。」
    にです。
     これは東洋の心と西洋の心の違いなんです。いいですか、いま他から外れてはなんにもできないという、マスコミ一辺倒だったり、視聴率第一とかいうの、学校教育とかいうの、
    「それはかまわん、でも私は私のすることをする。」
    っていう、一人二人出て来ることを切望します。
     英語をしゃべればさくらマークじゃないんです。
     陪審員制度じゃだめです。

  • 花の子守歌

    金のお椀に月を盛り、
    銀のお椀に雪を盛り、
    一つ吸うてはねんころろ、
     二つ吸うてはねんころろ。

    天の舟には旗をのせ、
     風の舟には酒をのせ、
     一つ漕いではねんころろ、
    二つ漕いではねんころろ。

    浅い井戸には花の影
    深い井戸には星の影、
    一つ汲んではねんころろ、
    二つ汲んではねんころろ。

     近い橋には毛槍歌、
     遠い橋には笛太鼓、
     一つ聞いてはねんころろ、
    二つ聞いてはねんころろ。

    金の櫛には春の雨、
     銀の櫛には秋の雨、
    夢や現つやねんころろ、  
     なんに泣くとやねんころろ。
       
    天の窓には吹き流し、
    風の窓には影法師、
    行くも帰るもねんころろ、
    なんに泣くとやねんころろ。 
     、
    はやい流れに桃を投げ、
     おそい流れに箸を投げ、
    人の浮き世をねんころろ、
    なんに泣くとやねんころろ。

    高い塀には竜のひげ、
    低い塀には獅子頭、
    末に生まれてねんころろ、
    なんに泣くとやねんころろ。

    http://www17.plala.or.jp/tozanji/douyousyuu/douyou3.html

  • http://www17.plala.or.jp/tozanji/mixi/iroiro.html
    2006年07月02日 20:20 せっちゃん
    これを得るということは、すばらしいことなんです、言説をもって云々したって、なんの役に立ちます、得るか得ないか、得るにはどうしたらいいか、自分ははたしてどうなのか、ただこれだけがあります。坐ってまったく失せる、忘我ということあって、かつての自分ではない真我を生じ、これに住することは、だれあって同じなんです、でなきゃ仏教なんてとうに消えてなくなっています。

  • 和尚さんの文章はまるで声が聞こえてきそうで、身に浸み渡り心の濁りが洗われます。

    久しぶりに読ませていただきました。


    トリさんいつもありがとう。


    返信無用です。

  • http://www17.plala.or.jp/tozanji/mixi/bukkyoutoha.html
    2010年02月03日 10:04 せっちゃん ・趙州因みに僧問ふ、如何なるか是れ道。州云く、道はまがき(竹かんむりに離)の外にあり。垣根の外にあるよと云うんです、自分という囲いを取ったら道です。なんだあただのアスファルトの路面じゃないか。僧云く、我が問ふは大道なり。州云く、大道長安に通ず。すべての道は長安に通じていたんです、てめえ周知の台詞で彼の頭ぶんなぐったんです。ほこりまるけのアスファルトの道、そーかと気がつけばよし、仏とはこれもとっこなーんにもなしの大道長安です。もとまっただ中、自分という甘え根性を捨て去る、取りえのなさに徹底して下さい、かすっともかすらなくなってもなを捨てる、坐るたんびに捨てるんです、大道長安のなんたるかが手に入る、いいえ嘘じゃないんです。

  • 心意識

    (1)たとえば、心とは何かと問うでしょう。すると問うているその心は?となります。自分は何かと問う、同じ事です。自分が自分に問う、どこかおかしいと思いませんか。蛇が自分のしっぽを飲み込んだら、しまいに消え去るかというとお釣りばっかり残ってしまいます。

    (2)心にニ心ありと云います。従前の心と真の心と。従前の心とは、心という残像を追い、無いはずのものに苦しめられる、二分三裂するように見える心です。架空事です。これを先ず知ることが大切です。真の心とは風景そのものであったりします。

    (3)如来という語があるでしょう、何だと思いますか。(逆さから読むと)如来=来る如し、なんです。なぜに自分がこうあるか、どう答えたって答えにならないんです。如来とこうあるっきりです。どうですか、花でも空でも雲でも如来じゃないですか。鳥も獣もたいてい如来の分で活動しています。人間だけが従前の心にとらわれて、戦争だ平和だといって暮らして来て、どうもあんまりいいことがなかったんです。

    (4)仏足石といものがあります。お釈迦さんの足の型が石に刻んであるのです。むかしはこれだけが仏像だったんです。そうです、立派な仏像です。お釈迦さんがその上に立っているんです。え、お釈迦さんなんかいない→いないのがお釈迦さん→いない=すべての風景=天地宇宙です。そうして、自分がその上に立つことが出来ます。

    (5)無心という言葉を聞いた事がありますか。無心にやればうまく行くとか、無心な子供とか、お金をせびるのも無心といったりします。真の心はこの無心と同じと思ってもよろしいのです。従前の心は、心が心を振り返る、省みる省みる心はどこに、というように、不必要であり、既にないものをあると思い込む煩瑣、うるさったくって有害です。そうして、ほんとうの風景、雪月花=心と云われる(春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりきける、なんて云います)。日本人の幸せに、うす汚れたフィルターをかける、身心病に至る、ひょっとしてこれがすべての原因と思われます。心の二人三脚です。歩きながら歩き方を研究したりとか、後ろ向きに歩くetcとかです。

    (6)私は若い頃、師に就いて参禅していました。ある時の摂心(5~7日間の坐禅)に妄想妄念が出て困った、振り払おうとするとますます煩瑣です。なんとかしようというんで、まっ黒になってやっていました。4日間ぶっとうしに、こんちきしょうってやっているうちに、もうどうこうもならん、どうともなれと突っ放したら、パアーッみんなどっかへすっ飛んで何にもなくなって坐っていました。

    (7)心意識が失せたんではなく、心が心を追い求める二人三脚の二重性が消えたんです。真っ正面に向くというか心が一つっきりの、もとのありように立ち返ったのです。心意識=念がぽっと出て、ぽっと消える、これだけになった時、ハアーッとなんにもない実感です。

    (8)一つっきりの心、真の心を持っての生活は、一年365日夢という楽しさがあります。真実であればあるほど夢、なぜかたった今を味わいつくして、とやこうの反省文がないからです。子供の頃のことをあんまり覚えていないのは、記憶が失せたんではなくって、あんまり楽しかったからです。
     動植物はみんなこのように生きています。

    (9)従前の心、{振り返りたしかめなければいられない}心が、漠然とも判然とも、すべての不安の原因になります。なぜか。ふり返って見るときに、もはやないからです。残像、記憶としてあると思い込む。或いは、ふり返り見る自分=心という事実から目をそむけるからです。

    (10)心のメカニックは実に単純ですが、だからこれをどうしようという時、そう簡単にはうまく行かないんです。古来さまざまな人が、ほんとうに苦労して手に入れたんだと云っていいです。でも、自分のことだから、だれにだって出来ます。

    (11)出来たとたん、たとえば「正常人と狂人との区別がない」とかのことを、なあるほどと思ったり、狂人は精神病院じゃ治りっこないと思ったりします。。狂うとはなにか、これも単純なメカニックです。幸せや罪悪感も適当なブレーキがかかっている時だけ、正常というんです。なぜなら、幸せにしろ罪悪感にしろ、みんなそういう思い込みだからです。

    (12)月は月花もむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな(至道無難禅師)ということが一生に一度あったらいいんです。

  • http://www17.plala.or.jp/tozanji/bn/kichigaino.htm
      き ちがいの兆候            せっちゃん

    1 自分は正しいんだいいんだという、実はその根拠がない、
    2 従いすべてに能書きが付く、反対されればされるほど鋭利に精妙になる、
    3 それでもっていっぱいになっているから、人のこと他のことが見えない、
    4 自分正しいという以外いやそれ自身もふくめて物語の中、
    5 ゆるやかに回転する堂々巡りが次第に早くなる、
    6 回路が焼き切れてついには発狂、

     以上のことがあります、うっかりしていました、こういう人にはどんな形でも手を付けてはいけない、助長し追いやるだけです。
     仏教にはき ちがい多いです、いろいろ見てきました、実際と思想観念とをごっちゃにして入れ揚げる-いい気になっちゃうからです、どうかよくよく気をつけて下さい、ひけらかすんではない自分をという平らに真っ正直です。

  • http://www17.plala.or.jp/tozanji/mixi/iroiro.html
    2006年06月15日 06:50せっちゃん
    そんだから赤ん坊のように裏表さらけ出してたたわわですよ、赤ん坊になると暮らして行けないではないかという、そんなことはない、人生経験や知識はちゃーんとあって、けいげなくかえって洗練されて働くんです、凧に譬えれば糸の吹っ切れた凧、後ろで糸を操らない、糸を引くものは仏、無に帰するとは思い切ってということ、座禅しながらもなんにもない=断崖絶壁ですよ、そこへ自分をなげうつ工夫なんです、千差万別あろうがそのまんま、たとえばどうなるんだろう恐怖、狂うんではないかというのへ一歩進める、たとえばなーんにもならん十年苦心が水の泡、これであってはならぬしない、なーんにもならんつまらんやつに自分を置く、などなど、こっちが言ったらそりゃあっはっはなーんもならんですか。

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