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禅:新バージョン

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  • 2018/09/25 20:45
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    また、ボロボロになってしまいましたので、新しくします。

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    水月 9月25日 20:45

    >>61713

    > 「神の独り子」は、ヨハネ福音書1・1の言と完全にイコールですね。
    > つまり始めに三位一体があるのです。
    >
    > なぜ三位一体ありきなのかという問いに対しては、いくつもの、何通りもの説明ができると思いますが、
    > とりあえずいえることは、旧約から新約までの全聖書を統一的、体系的に首尾一貫して読み解くという作業に不可欠なのが三位一体のコンセプトだということです。不思議なことに、このコンセプトを置くと、全聖書の真理性がキレイに浮かび上がってくるのです。ちょうど、悟った後の白隠が法華経を読んで号泣したように、悟りの目で読まれた法華経におけるのと同じように、三位一体の目で読まれた聖書は、それによって初めて、霊的に息を吹き返すということができるというか。
    >
    > >  そもそも、神の位格として三位一体を論じるということは、上記(真諦)の意味で定義されているものを、『俗諦的に』論じているという無理矛盾があるわけです。
    >
    > 一般的にはプロテスタントより理性について楽観的なカトリックですが、カトリックでは、神の存在を理性によって知ることは可能であっても、三位一体は信仰の神秘とされています。俗諦的な理解の上限を画すのが三位一体であるという位置づけですね。

    なるほど、とにかく三位一体を前提してしてしまって聖書を理解する
    というスタンスをとっていくと、全体の理解がしやすいということですね。

    神の位格ということなんですが、神と空を対応させて、
    キリスト(キリストの体)が、絶対差別(空の位格と見ることができる)
    というような仮説はあるんです・・・・確認中。
    霊位、特に聖霊、ないし、聖霊が降りるというところは、
    仏教的に何がパラレルになるのかが、まだ、はっきりしないんで・・・・。
    自覚力(悟り)をその裏づけとしてともなう慈悲(神の愛)、ないし、アイデンティティあたりの見当でいるのですが・・・・・。

     oli***さんと話していると、その辺が次第にわかってきそうな気が
    していて・・・・。

  • >>61711

    >禅的用語をつかわせてもらいますと、
    ヨハネ福音書1・1は、完全に「本分」を表現しているレベル(愚さん用語では、レイヤー(階層)は、そこ)っていうことでしょうか

    そういうことだと思います。ヨハネ福音書1・1のレイヤー(階層)が、旧約から新約に至る、全聖書の全章句の基底にあるといっていいでしょう。このレイヤーがなければキリスト教はありえません。

  • >>61710

    > ということは、要するに、最初私は定義した意味での真諦、
    > すなわち、知的認識・言語的表現の枠では捉えきれない(全的表現では、たとえば「不可得」)、そこを超越した究極の真理、
    > これをoli***さんは神がこれにあたるとされました(同見です)が、
    > 「御ことば」自体も、実質的にどうもこれに近い(同質的)ことになって、
    > 最初の疑問、神に対して「神の独り子」を立てる意味・意義は?という疑問が
    > 消えません。

    「神の独り子」は、ヨハネ福音書1・1の言と完全にイコールですね。
    つまり始めに三位一体があるのです。

    なぜ三位一体ありきなのかという問いに対しては、いくつもの、何通りもの説明ができると思いますが、
    とりあえずいえることは、旧約から新約までの全聖書を統一的、体系的に首尾一貫して読み解くという作業に不可欠なのが三位一体のコンセプトだということです。不思議なことに、このコンセプトを置くと、全聖書の真理性がキレイに浮かび上がってくるのです。ちょうど、悟った後の白隠が法華経を読んで号泣したように、悟りの目で読まれた法華経におけるのと同じように、三位一体の目で読まれた聖書は、それによって初めて、霊的に息を吹き返すということができるというか。

    >  そもそも、神の位格として三位一体を論じるということは、上記(真諦)の意味で定義されているものを、『俗諦的に』論じているという無理矛盾があるわけです。

    一般的にはプロテスタントより理性について楽観的なカトリックですが、カトリックでは、神の存在を理性によって知ることは可能であっても、三位一体は信仰の神秘とされています。俗諦的な理解の上限を画すのが三位一体であるという位置づけですね。

  • >>61707

    > ここでイエスは, 自らを始原と言っていることを典拠に, アウグスティ ヌス
    >
    > は『創世記』官頭の「はじめに(in principio) Jを「始原においてjすなわち
    > 「御言・イエスキリストにおいてjと解釈する立場を提示する.
    > 神の言・御言は神の意志・観念(ratio) を表している. しかも御言は音声
    > のように時間的な被造物の動きではない. もし時間的な仕方で神が語り, 天地
    > を造ったとすれば, 天地の存在以前に既に物体的被造物が存在していたことに
    > なるからである. 従って御言は音声ではなく神と等しく永遠の御言である. 御
    > 言は神の思惟内容としての永遠の観念(aeterna ratio)を言い表すのである.

    このレベルは、やはり真諦というレベルで、知的認識とそれに基づく観念的言語表現を超えた霊性的レベルのことで、仏教的禅的には、『空』の扱いがそんなレベルのように思います。
     縁起的説明は、後得智として知的認識である程度扱え、その意味でわかりやすいレベルになっていると思うのですが、真言密教の曼陀羅などは、超越的レベルの感じがしますけれど、もうわからない・・・・・。

    キルケゴールの「関係の関係の関係」というのは、あれはなんなんですか。
    関係が三つなのは、もっとたくさん関係が後に連なっても同じで、
    とにかく、知的認識の範疇を超える「不可得」「不可思議」の領域っていうことなのかな・・・・・よくわかりませんが。

  • >>61709

    禅的用語をつかわせてもらいますと、
    ヨハネ福音書1・1は、完全に「本分」を表現しているレベル(愚さん用語では、レイヤー(階層)は、そこ)っていうことでしょうか。

    他方、創世記冒頭は、どちらかというとサラッと表現されている。
    ですから、本分的な(絶対差別的な)受け取り方も、修証辺的な(被造世界的・相対差別的な)受け取り方もできる。ともすれば、修証辺的な(被造世界的・相対差別的な)受け取り方になりがちな面もある。
     それらを、全体的な聖書解釈として、どう整合的にまとめ上げていくかというもんだいでしょうか。

  • >>61708

    > >神の言・御言は神の意志・観念(ratio) を表している. しかも御言は音声
    > のように時間的な被造物の動きではない. もし時間的な仕方で神が語り, 天地
    > を造ったとすれば, 天地の存在以前に既に物体的被造物が存在していたことに
    > なるからである. 従って御言は音声ではなく神と等しく永遠の御言である.
    >
    > この点について、私は何度も投稿していますが、みことばは人間の言語音声や文字ではないんです。日本語や英語でないのはもとより、聖書という原テキストが書かれているヘブル語やギリシア語でさえない。

    了解。
    ということは、要するに、最初私は定義した意味での真諦、
    すなわち、知的認識・言語的表現の枠では捉えきれない(全的表現では、たとえば「不可得」)、そこを超越した究極の真理、
    これをoli***さんは神がこれにあたるとされました(同見です)が、
    「御ことば」自体も、実質的にどうもこれに近い(同質的)ことになって、
    最初の疑問、神に対して「神の独り子」を立てる意味・意義は?という疑問が
    消えません。
     そもそも、神の位格として三位一体を論じるということは、上記(真諦)の意味で定義されているものを、『俗諦的に』論じているという無理矛盾があるわけです。
    ただ、それを承知の上でそれをしているのは、それなりの必要があってのことだと
    思うんですが、・・・・こちらがそこまでとどいていないのでしょう・・・わからないということで、とりあえず保留。

     ついでに、仏教のほうで似たような問題を取り上げておきましょう。
    よくわかっていないので、うまく言えないかもしれませんが・・・・。
    まず、「如来」と「仏」。これは、基本的に全く同じと見ています。
    つまり、違いを問題にする必要がないと思います。
    また、神とパラレルにとらえています。

    但し、どこかで論ずることになるかと思われますが、
    上記は、本分上の(到達点の霊位からみた)表現・理解です。
    修証辺からみる(より低い修行段階の霊位からみる)と、唯識に「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があるように、おかれている霊位からは、同じものも異なって見えるという、悩ましい問題が絡んでくることの扱いがあります。

    字数制限で書けなくなってきた・・・・法身仏・報身仏・化身仏・・・
    仏教のほうにも、お互い様の問題が・・・。

  • >>61698

    ・ヨハネ福音書1・1
    初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。

    ・創世記1・1

    初めに、神は天地を創造された。


    創世記では天地が創造されているので、天地には時間が流れています(あくまで被造物宇宙からの視点ですが)。一方、ヨハネ福音書では、天地が出現する「前」の、神と言が「共にある」ことを語っています。この段階では時間というものは存在していません。

    ヨハネ福音書1・1は三位一体の根拠の一つになっています。

  • >>61707

    >神の言・御言は神の意志・観念(ratio) を表している. しかも御言は音声
    のように時間的な被造物の動きではない. もし時間的な仕方で神が語り, 天地
    を造ったとすれば, 天地の存在以前に既に物体的被造物が存在していたことに
    なるからである. 従って御言は音声ではなく神と等しく永遠の御言である.

    この点について、私は何度も投稿していますが、みことばは人間の言語音声や文字ではないんです。日本語や英語でないのはもとより、聖書という原テキストが書かれているヘブル語やギリシア語でさえない。

  • h ttp://jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-content/uploads/smt/vol43/69-86_kono.pdf

    『ヨハネ福音書j 8章25節に次のようにある.
    彼ら (ユダヤ人達)はイエスに言った, íあなたは誰か. Jイエスは彼らに
    言った, í始原である, というのは私は君たちに語りもするから」
    ここでイエスは, 自らを始原と言っていることを典拠に, アウグスティ ヌス

    は『創世記』官頭の「はじめに(in principio) Jを「始原においてjすなわち
    「御言・イエスキリストにおいてjと解釈する立場を提示する.
    神の言・御言は神の意志・観念(ratio) を表している. しかも御言は音声
    のように時間的な被造物の動きではない. もし時間的な仕方で神が語り, 天地
    を造ったとすれば, 天地の存在以前に既に物体的被造物が存在していたことに
    なるからである. 従って御言は音声ではなく神と等しく永遠の御言である. 御
    言は神の思惟内容としての永遠の観念(aeterna ratio)を言い表すのである.
    それ故全ての被造物は, 存在し始めるべきであるとか, 存在することを止める
    べきであると, 神の永遠の観念において知られるまさにその時, 存在し始めた
    り存在することを止めたりするのである)

  • >>61705

    > かれは、旧約聖書創世記冒頭の「初めに、神は天地を創造された。」の解釈として、
    > 「「初めに」は、時間的な初めではなく、
    > 自分はこの「初めに」を『御子(イエスキリスト)において』の意味に解する、
    > って書いてありましたね。

    > それで、私はこれは、『イエスキリスト=御言葉において』ということで、

    > というのは、ここで私は、キリストの御名インマヌエル、
    > すなわち、「神は私たちと共にいる」をもってきます。
    > 名は、その本体をあらわします。
    > その意味は、仏教的な諸法無我=法界縁起=空と同じ感覚を感じます。
    > 厳密にいうと、絶対差別のところで捉える感覚です。
    > 華厳でいう、「一微塵の中に、宇宙全体が入っている」・一即多の感覚です。
    > すなわち、こう理解していました。
    > 神は、「神自身が私たちと共にいるという構造に(インマヌエルの構造に)」、
    > 天地を造った。
    > これは、仏教と極めてパラレルな理解です。

    その通りだと思います。キリスト教が結論として提示する世界観と符合しますね。

    天地創造「前」からある「三位一体の神が共にいる」構造に、子であるキリストを介して人間が直接入ることができるように、そのように宇宙全体が造られている。三位一体の神は時間を超越しているので前も後もない、キリストと結ばれるということは、宇宙の創造以前にそこで既に「交わっていた」となります!

  • >>61704

    >  アウグスチヌスの「告白録(懺悔録)」をかじっていた時の記憶ですが、
    > かれは、旧約聖書創世記冒頭の「初めに、神は天地を創造された。」の解釈として、
    > 「「初めに」は、時間的な初めではなく、
    > 自分はこの「初めに」を『御子(イエスキリスト)において』の意味に解する、
    > って書いてありましたね。
    >
    > それで、私はこれは、『イエスキリスト=御言葉において』ということで、
    > ヨハネ福音書冒頭と創世記冒頭が完全に整合しているんだ
    > という理解をしてきました。
    > 以下の記述と合わせてのことですが、どちらが時間的に先か後かというような問題が出てくる余地があるんですか。
    >
    > というのは、ここで私は、キリストの御名インマヌエル、
    > すなわち、「神は私たちと共にいる」をもってきます。
    > 名は、その本体をあらわします。
    > その意味は、仏教的な諸法無我=法界縁起=空と同じ感覚を感じます。
    > 厳密にいうと、絶対差別のところで捉える感覚です。
    > 華厳でいう、「一微塵の中に、宇宙全体が入っている」・一即多の感覚です。
    >
    > すなわち、こう理解していました。
    > 神は、「神自身が私たちと共にいるという構造に(インマヌエルの構造に)」、
    > 天地を造った。
    >
    > これは、仏教と極めてパラレルな理解です。
    >
    > そうすると、英語では in the beginning と訳されている「初めに」は、「時間的な・はじめ」ではなく「事柄の・はじめ」、『事柄の根底』の意味、
    > 天地のでき方の根底は、インマヌエルの構造に造られているんだという意味かな、
    > という解釈で、
    > そうすると、創世記とヨハネ福音書間の時間的前後問題は
    > 出てこないんではないかと・・・・。

    神は時間を超越した永遠の存在です。その神によって時間それ自体とその中で生きる全被造物が創造された。そのことを語るのが創世記1・1でしょう。キリストも神なので時間を超越しています。同じ時間の中にいる存在としての前後というのは、その意味で不十分な表現かも知れません。
    ただ、時空間秩序が生み出される「前」を語るという点で、ヨハネ福音書1・1が微妙な意味で先行するということは言えるでしょう。

    ヨハネ福音書1・1と創世記1・1が完全に整合していると言われるのは、まったくその通りだと思います。

  • >>61698

    > 旧約聖書の神と新約聖書の神が完全に同一であることを受け入れ、ヨハネ福音書1・1をそのまま素直に読めば、「みことば」によって宇宙被造物がすべて創造されたと解釈するのが理にかなう。そういうことです。

     アウグスチヌスの「告白録(懺悔録)」をかじっていた時の記憶ですが、
    かれは、旧約聖書創世記冒頭の「初めに、神は天地を創造された。」の解釈として、
    「「初めに」は、時間的な初めではなく、
    自分はこの「初めに」を『御子(イエスキリスト)において』の意味に解する、
    って書いてありましたね。

    それで、私はこれは、『イエスキリスト=御言葉において』ということで、
    ヨハネ福音書冒頭と創世記冒頭が完全に整合しているんだ
    という理解をしてきました。
    以下の記述と合わせてのことですが、どちらが時間的に先か後かというような問題が出てくる余地があるんですか。

    というのは、ここで私は、キリストの御名インマヌエル、
    すなわち、「神は私たちと共にいる」をもってきます。
    名は、その本体をあらわします。
    その意味は、仏教的な諸法無我=法界縁起=空と同じ感覚を感じます。
    厳密にいうと、絶対差別のところで捉える感覚です。
    華厳でいう、「一微塵の中に、宇宙全体が入っている」・一即多の感覚です。

    すなわち、こう理解していました。
    神は、「神自身が私たちと共にいるという構造に(インマヌエルの構造に)」、
    天地を造った。

    これは、仏教と極めてパラレルな理解です。

    そうすると、英語では in the beginning と訳されている「初めに」は、「時間的な・はじめ」ではなく「事柄の・はじめ」、『事柄の根底』の意味、
    天地のでき方の根底は、インマヌエルの構造に造られているんだという意味かな、
    という解釈で、
    そうすると、創世記とヨハネ福音書間の時間的前後問題は
    出てこないんではないかと・・・・。

  • >>61696

    ありがとうございました。
    いろいろそれなりに確認できました。

    > > これだと、まず神とは別個にキリストというものをたてる根拠(理由・存在意義)が理解できません。
    > > 神の原初の創造ということで、キリストの存在意義がわかりません。
    > > 以前に、キリストは、「神の独り子」であるという意味は、どういうことなのか、
    >
    > ここは三位一体に直接触れる内容ですね。キリストや神の独り子というのは、「子」です。「父」に対する「子」。三位一体が腑に落ちないとピンとこないのは誰にとっても同じだと思いますが、私にできる範囲で語ってみます。
    >
    >
    > > 通常、神の御言葉とは、まずは聖書に書いてあること、ないしは、そこで語られるイエスキリストの言葉くらいの認識です。
    >
    > これは決定的に違います。まず、神のみことばがあって、それを人間が写し取ったのが聖書です。みことば>聖書
    >
    > みことばは138億年間、ずっと生きて働き続けています。
    >
    > 日本国憲法の喩えなら、主権者の下で働いている生きた憲法>憲法典
    > 日本国憲法は100年にも達していませんが、みことばは宇宙創世以前からずっとです。

     ここの記述は、oli*** さんにして初めて説明していただけた内容です。
    今まで全く接したことがなかった、すなわち、はじめて理解する内容ですが、
    極めて明快です。
    逆に、全体的理解の整合性に大きく関係しますので、
    そちらの疑問も出てはきますが・・・・。

    俗諦レベルの突合せの困難さの予感は解消しませんが、
    まずはキリスト教をそれなりに理解しないことには、
    話になりませんからね。

  • >>61700

    > もうひとつだけ、「神が自身に似せて、人間を造った」というのは、
    > 普通、どう理解されているんでしょうか。

    神が人格的な主体として愛の交わりに入っていけるように、人間もそういう潜在的な能力を与えられている。カトリックではそうなりますかね。

    実はこれこそが三位一体と密接に関連しています。三位一体の交わりに、神に準じて入ることのできるのが人間であって、そのように人間は造られている。

  • いろいろと詳しく、ありがとうございます。

    もうひとつだけ、「神が自身に似せて、人間を造った」というのは、
    普通、どう理解されているんでしょうか。

    いろいろ取り上げていきたいんですが、これだけ先にお願いします。

  • >>61692

    > 十字架上で死んだのは、「罪そのもの」でしょう。全人類の罪の無限ともいうべき総量を、自らが罪そのものとなることで十字架につけて破壊された。

    旧約聖書にある全知全能の創造主である神にしてはじめて、全人類の罪を総体として破壊し、無化することができるというロジックでしょう。そのために神ご自身が人間イエスとして生きた後、最後は十字架上でそのときだけ「罪そのもの」として自分を客体化された。肉体を裂いた後の復活は、「罪そのもの」の破壊が客観的に達成された証拠でしょう。

    愚かさんは、まとめとして①原理的に罪は存在しない、②罪悪感は自分では解決できない、といって、禅、親鸞、クリシュナムルティ、キリスト教などを同じ原理で説明しているようです。上記のキリスト教の贖罪のロジックというのは、①と②の「俗諦」的な根拠づけの究極形の一つということもできるでしょう。

  • >>61697

    > ●ヨハネ福音書1・1

    > 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

    旧約聖書の冒頭、創世記の1・1は「初めに、神は天地を創造された」で始まります。

    上記に引用した、ヨハネ福音書1・1は時間的に創世記1・1以前の状況について語っていることに、疑いを差し挟む人をほとんど知りません。今年に入って、掲示板でプロテスタントやエホバの証人の人たちと論争をしましたが、ヨハネ福音書1・1が創世記1・1に先行することでは合意してました。

    旧約聖書の神と新約聖書の神が完全に同一であることを受け入れ、ヨハネ福音書1・1をそのまま素直に読めば、「みことば」によって宇宙被造物がすべて創造されたと解釈するのが理にかなう。そういうことです。

  • >>61694

    > これだと、まず神とは別個にキリストというものをたてる根拠(理由・存在意義)が理解できません。
    > 神の原初の創造ということで、キリストの存在意義がわかりません。
    > 以前に、キリストは、「神の独り子」であるという意味は、どういうことなのか、

    ここは三位一体に直接触れる内容ですね。キリストや神の独り子というのは、「子」です。「父」に対する「子」。三位一体が腑に落ちないとピンとこないのは誰にとっても同じだと思いますが、私にできる範囲で語ってみます。


    > 通常、神の御言葉とは、まずは聖書に書いてあること、ないしは、そこで語られるイエスキリストの言葉くらいの認識です。

    これは決定的に違います。まず、神のみことばがあって、それを人間が写し取ったのが聖書です。みことば>聖書

    みことばは138億年間、ずっと生きて働き続けています。

    日本国憲法の喩えなら、主権者の下で働いている生きた憲法>憲法典
    日本国憲法は100年にも達していませんが、みことばは宇宙創世以前からずっとです。

  • ●ヨハネ福音書1・1

    初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

  • >>61691

    > イエスがみことばであるとは、宇宙における原初の創造力それ自体ということです。人間は知的認識をしたり、人間同士でコミュニケーションしたりする道具として言葉を使いますが、その意味の言葉と「みことば」はまるで次元が違うと考えた方がいいと思います。
    >
    > 宇宙138億年のマクロとミクロの全現象は、みことばの創造力によって存在させられた。宇宙に現象があることは、そのままイコールでみことばが働いていること。宇宙のリアルな現象が一枚のコインの表だとしたら、裏には必ずみことばがある。
    >
    > この意味での「みことば」は、否定することができません。否定という語をどういう意味で使うかによりますが・・一枚のコインの喩えを使いましたが、聖書的には、表の現象が消えてなくなっても、裏のみことばは消えません。みことばは神そのものですから・・

    ここですね。ここになると、俗諦的に私は全くわからなくなります。
    ゆっくり、説明を聞きたいんですが、
    これだと、まず神とは別個にキリストというものをたてる根拠(理由・存在意義)が理解できません。
    神の原初の創造ということで、キリストの存在意義がわかりません。
    以前に、キリストは、「神の独り子」であるという意味は、どういうことなのか、「神」ではなく「神の独り子」というからには、
    何らかの意味で、神とは異なる位置づけが示されないとわからないんです。
     あのときのoli***さんの説明は、全く私には十分ではありません。
    私は、真諦の俗諦的『案内役(=その意味での救い主)』(可視化=知的言語化=有形的有相化)・・・原理的には、それがどれだけのものであれ・・・
    ということのほかに、理解のしようがありません。
    つまり、oli***さんが、いかにキリスト教の俗諦の優秀性をいわれても、
    全く通じません。
    通じないものを優秀だといわれても、困るわけです。

    通常、神の御言葉とは、まずは聖書に書いてあること、ないしは、そこで語られるイエスキリストの言葉くらいの認識です。
    それが、聖書のどういう解釈(筋道)を通じて、oli***さんが言われる上記記述のようなことになるのか、もう少し説明がないと、わかりません。

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