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禅:新バージョン

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  • 2018/10/30 00:21
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    また、ボロボロになってしまいましたので、新しくします。

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    mic***** 10月30日 00:21

    大乗涅槃経
    カッサバ菩薩はブッダに申し上げた。

    『世尊、いま妙寂の光は人々の心にさとりを求めようという気持ちが●なくても、彼らの毛孔に光が●入り込み、さとりを求めようという気持ちを起こさせると説かれましたが、そのお考えには納得できません。なぜかといいますと、彼らの多くには四つの規則破りの者(四重禁)がおり、五つの大罪(五逆罪)を犯した者がおり、そして極悪人の一闡提もおります。世尊の説で考えますと、光明が毛孔から入り、さとりの原因になるといわれるのでしたら、これらの●悪人どもと、正しく規則を守り、さまざまな善行を修めている人たちの間にはどのような違いがあるのでしょう。両者の間に違いがなければ、ブッダは先に四つの頼りとすべき聖者の意義をお説きになったのはなぜですか。
    ブッダは「この妙寂の教えを●一度でも聞いたら、あらゆる煩悩が消え去る」と説かれましたが、では、先に「ある人がガンジス河の沙の数に等しいほどの数のブッダに就いていてさとりを求めようという心をいくども起こしたが、ついに彼はこの妙寂の教えを聞いてもその意味が理解できなかった」と説かれたことはどういうことでしょう。このことが納得いかないと、私のすべての悩みは消えません』

  • >>61774

    >  実は、『本来的』三位一体に対して、
    > 『修証辺的(=俗的=疑似)』三位一体というものを想定・対置してみると
    > 話がしやすくなるのかな、ということを考えていました。

    >  とにかく、とりあえず、そんなような疑似三位一体を観念してみますと、
    > 原罪・無明状態の疑似三位一体が、覚不覚を繰返しながら、
    > 本来的三位一体に向けて、次第に近づいていく
    > というイメージ図が出来上がります。

    > 疑似三位一体は、途中に様々な無限の段階・階層があり、
    > それぞれの段階・階層における三位は、その境位相当の必然的なバランスを
    > 保っており、その意味でそれ相当の「一体性」にあると考えられます。
    >
    > こうすると、キリスト教と仏教を突き合せやすくなりそうですね。

    キリスト教の人は「擬似三位一体」という語はどんなことがあっても絶対に使わないでしょうが、内容的には、水月さんのイメージ図は非常に的確だと思います。このイメージ図を適用し、使うことは有効でしょう。いろんなことが理解できて、実践的にも深められそうです。

  • >>61773

    井筒先生に関しては、全く知識ゼロなんですが、それはとにかくとして、
    井筒先生は、『境位』という表現を使われるんですね。境涯の境ですね。
    霊位より、こちらの方がいいから、『境位』を使わせて戴くことにしましょうか。

     実は、『本来的』三位一体に対して、
    『修証辺的(=俗的=疑似)』三位一体というものを想定・対置してみると
    話がしやすくなるのかな、ということを考えていました。
     
    問題は、その場合の三位の一つ一つをどういう言葉で表現するかなんですが、・・・。
     存在・知(俗諦)・愛(境位)・・・・・???。

     とにかく、とりあえず、そんなような疑似三位一体を観念してみますと、
    原罪・無明状態の疑似三位一体が、覚不覚を繰返しながら、
    本来的三位一体に向けて、次第に近づいていく
    というイメージ図が出来上がります。

    疑似三位一体は、途中に様々な無限の段階・階層があり、
    それぞれの段階・階層における三位は、その境位相当の必然的なバランスを
    保っており、その意味でそれ相当の「一体性」にあると考えられます。

    こうすると、キリスト教と仏教を突き合せやすくなりそうですね。

    西田哲学なども、対比しやすくなりそうで、
    絶対無に向けて、限りなく自己を空じていく、
    そのことと逆対応的にそのことに逆限定されて、新たな境位に移行する、
    論理的には、絶対無のところが終末になるんですか、
    こんな感じの対比に・・・・・・。

  • >>61762

    水月さんの坐禅スレでの新しい投稿は、下記と同じようなことに触れられていると思いました。

    > ●井筒俊彦「大乗起信論の哲学」p158~159
    > 「起信論」の語る「究竟覚」の意味での「悟り」を達成するためには、人は己自身の一生だけでなく、それに先行する数百年はおろか、数千年に亙って重層的に積み重ねられてきた無量無数の意味分節のカルマを払い捨てなければならず、そしてそれは一挙に出来ることではないからである。
    >  かくて、一切のカルマを棄却し、それ以前の本源的境位に帰りつくためには、人は生あるかぎり、繰り返し繰り返し、「不覚」から「覚」に戻っていかなくてはならない。「悟り」はただ一回だけの事件ではないのだ。
    >  実存意識が、ついに絶対的「覚」に到達し、意識の真に本源的な境位、「自性清浄心」、が最後的な形で現成しおわったとき、そのときにのみ、円環は閉止され、形而上学的意味での「終末」の時がくる。

    >  そして、そのとき、絶対的「覚者」(ブッダ)が誕生する。

  • >>61771

    > > 「聖書は全篇が、アガペーを壊した人間の修復の物語だ」
    > >
    > > と言われています。アガペーとは三位一体の神の愛です。それ以外にありません。
    >
    > 人間がアガペーを壊すというのは、本当をいうと不正確なんですね。
    >
    > 人間ごときに、被造物ごときにアガペーは壊せない。というのがリアリティーに近い。人間ごときがアガペーを壊すのは不可能だ。これが三位一体論です。
    >
    > しかし同時に、聖書的、キリスト教的な世界観としては、全知全能の創造主が、人間による罪の逸脱を赦してくださる。そういう「俗諦」的な表現にもなっています。
    >
    > 完全無欠のリアリティーに対して、人間や自然という現象世界は幻影だ、非実在だ、妄想だからすぐ消える。そういう「俗諦」的な表現をとる宗教も少なくないですが、キリスト教はそうならないのですね。私はそれがキリスト教の強みだと思います。
    >
    > そもそもアガペーは破壊不可能だから何をやってもいい、そうはならないんです。

    ここは、逆から言えば、なぜ原罪なり、無明煩悩なり、とにかく、真理を外すことになったのかという理由が、どの宗教でも説明されていない最も悩ましいところです。
    他方、もう一方では、本来的真理、すなわち、真諦は完璧なものとして、俗諦上構成されるわけで、完璧なはずのものから、なぜ、『手違い(錯覚)?』が生じたのか、という困った話になってます。同じ問題の表裏です。

     とにかく、宗教の話はややっこしくて、骨がおれること限りなしです。
    でも、はずれるわけにもいかないし、エッサカ、エッサカ行くしかありません・・・。

  • >>61763

    > 「聖書は全篇が、アガペーを壊した人間の修復の物語だ」
    >
    > と言われています。アガペーとは三位一体の神の愛です。それ以外にありません。

    人間がアガペーを壊すというのは、本当をいうと不正確なんですね。

    人間ごときに、被造物ごときにアガペーは壊せない。というのがリアリティーに近い。人間ごときがアガペーを壊すのは不可能だ。これが三位一体論です。

    しかし同時に、聖書的、キリスト教的な世界観としては、全知全能の創造主が、人間による罪の逸脱を赦してくださる。そういう「俗諦」的な表現にもなっています。

    完全無欠のリアリティーに対して、人間や自然という現象世界は幻影だ、非実在だ、妄想だからすぐ消える。そういう「俗諦」的な表現をとる宗教も少なくないですが、キリスト教はそうならないのですね。私はそれがキリスト教の強みだと思います。

    そもそもアガペーは破壊不可能だから何をやってもいい、そうはならないんです。

  • >>61769

    > > イエスの十字架における贖罪によって、人間の罪が根こそぎ破壊されてのにもかかわらず、それでも人間は基本的に罪深いとされて、これは矛盾しているんじゃないか、おかしいと考える人は少なくないです。
    > >
    > > これは要するに、もはや罪はリアリティーを完全に欠いているのに、「幻想の罪のマトリックス時空」を人間が選んでしまうということだと思います。
    > >
    > > そのマトリックスを出て、三位一体の交わりに入るしか道はない。
    >
    > 道元さんも、衆生本来仏なり、であるけれども、修さざれば現れず、といわれているところですね。

    そのとおりだと思います。

    只管打座の意味もそれに近いのではないかと。

  • >>61768

    > イエスの十字架における贖罪によって、人間の罪が根こそぎ破壊されてのにもかかわらず、それでも人間は基本的に罪深いとされて、これは矛盾しているんじゃないか、おかしいと考える人は少なくないです。
    >
    > これは要するに、もはや罪はリアリティーを完全に欠いているのに、「幻想の罪のマトリックス時空」を人間が選んでしまうということだと思います。
    >
    > そのマトリックスを出て、三位一体の交わりに入るしか道はない。

    道元さんも、衆生本来仏なり、であるけれども、修さざれば現れず、といわれているところですね。

  • >>61764

    > > 出発点も究極の行き着く先も、三位一体しかないわけです。
    > > キリスト教には無限の深さがありますが、思いっきり単純化すれば、三位一体と、三位一体から外れるのを元に戻す。これだけです。罪というのは、三位一体から外れることそのものです。
    >
    >
    > 『罪というのは、三位一体から外れることそのものです。』というのは、
    > 仏教的に言うと、
    > 『無明煩悩による錯覚は、真諦から外れることそのものです。』
    > ということになります。
    >
    > 真諦から外れることは、
    > 譬喩的に「(父・長者のもとからの)家出」「(楽園からの)追放」
    > などと表現され、

    聖書の有名な物語と似ています。

    > ところで、仏教では『三界、ないし、世界の一切は、唯心の所造である』といわれ、
    > 錯覚によって真諦を外れた、霊位の低い衆生による天地創造があることになります。

    イエスの十字架における贖罪によって、人間の罪が根こそぎ破壊されてのにもかかわらず、それでも人間は基本的に罪深いとされて、これは矛盾しているんじゃないか、おかしいと考える人は少なくないです。

    これは要するに、もはや罪はリアリティーを完全に欠いているのに、「幻想の罪のマトリックス時空」を人間が選んでしまうということだと思います。

    そのマトリックスを出て、三位一体の交わりに入るしか道はない。

  • >>61766

     但し、三つのうちの、どれか一つが欠けていたら、
    的を外していると、はっきり言えるような気がします。
    三つそろっていなければならないという感じです。
    仏教でも三尊像が自然です。

  • 真諦の『位格』というものを考えると、
    前にもチラッと書きましたが、

    真諦を再定義することになりますが、
    真諦は、一体不可分なる一
    その位格ということで
    一つは、知性の超越方向としての霊性(直観・無分別智・・・一切無限同時的)
    仏教では、(般若の)智慧(=神の御言葉とパラレル)といわれる方向、
    もう一つは、感性・情性の超越方向としての神の愛・仏の慈悲、
    という感じも、まだ有力に残っています。
     そうだとすると、霊位といったところは、そういう理解になるんですが、
    相互相関的なので、重層的に重なってしまい、
    ・・・『(三位)一体』なんで、当然なんでしょうが
    ・・・わかりにくく、なかなか断言できません。

  • >>61760

    > 出発点も究極の行き着く先も、三位一体しかないわけです。
    > キリスト教には無限の深さがありますが、思いっきり単純化すれば、三位一体と、三位一体から外れるのを元に戻す。これだけです。罪というのは、三位一体から外れることそのものです。


    『罪というのは、三位一体から外れることそのものです。』というのは、
    仏教的に言うと、
    『無明煩悩による錯覚は、真諦から外れることそのものです。』
    ということになります。

    真諦から外れることは、
    譬喩的に「(父・長者のもとからの)家出」「(楽園からの)追放」
    などと表現され、
    帰還先は、本来のところ(父)=本来の自分(面目)=命(南無=帰命)となります。
    仏教的悟りで、衆生は仏(真諦)であることが判明するため、
    ありのまま・自然状態への帰還が錯覚からの解脱と表裏の関係になります。
    (父とは、真諦としての、本来の面目(自分))

    神による天地創造とは、真諦(神の御言葉)によるによる天地創造である。

    ところで、仏教では『三界、ないし、世界の一切は、唯心の所造である』といわれ、
    錯覚によって真諦を外れた、霊位の低い衆生による天地創造があることになります。

    しかし、衆生が錯覚から解脱し、真諦そのもの(仏・如来)であるとき、
    天地はそれに相応したパラダイム(レイヤー)の天地が創造されている。

  • >>61760

    > 出発点も究極の行き着く先も、三位一体しかないわけです。
    > キリスト教には無限の深さがありますが、思いっきり単純化すれば、三位一体と、三位一体から外れるのを元に戻す。これだけです。罪というのは、三位一体から外れることそのものです。

    これは私一人だけが無責任に言っているのではなく、東京教区の松田神父さまも、
    この方は40年間神父をされていて、聖書通読の会をずっと主宰されていますが、その神父さまも、

    「聖書は全篇が、アガペーを壊した人間の修復の物語だ」

    と言われています。アガペーとは三位一体の神の愛です。それ以外にありません。

  • >>61754

    > 「体の復活」は神であることが証明された出来事であり、同時に人間の中の罪それ自体が破壊・消滅され、それに基づく神の国の完成に向けた人間の歩みが開始された、そういうことです。

    ↑井筒俊彦がいう「円環運動」と重なり合うと思う。絶対的「覚者」(ブッダ)の誕生は、終末における神の国の完成に対応する。井筒俊彦は古今東西の宗教を統合するメタ宗教理論(笑)を模索されていたのではないか?高弟の言語学者には、「入信するならカトリックだ」と語っていたそうだ。

    ●井筒俊彦「大乗起信論の哲学」p158~159
    「起信論」の語る「究竟覚」の意味での「悟り」を達成するためには、人は己自身の一生だけでなく、それに先行する数百年はおろか、数千年に亙って重層的に積み重ねられてきた無量無数の意味分節のカルマを払い捨てなければならず、そしてそれは一挙に出来ることではないからである。
     かくて、一切のカルマを棄却し、それ以前の本源的境位に帰りつくためには、人は生あるかぎり、繰り返し繰り返し、「不覚」から「覚」に戻っていかなくてはならない。「悟り」はただ一回だけの事件ではないのだ。「不覚」から「覚」へ、「覚」から「不覚」へ、そしてまた新しく「不覚」から「覚」へ・・・・
    「究竟覚」という宗教的・倫理的理念に目覚めた個的実存は、こうして「不覚」と「覚」との不断の交替が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく。
     この実存的円環行程こそ、いわゆる「輪廻転生」ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか、と思う。
     「不覚」から「覚」、「覚」から「不覚」・・・・。
    「輪廻」の円環は、いつまでも、どこまでも、めぐりめぐる。

     実存意識が、ついに絶対的「覚」に到達し、意識の真に本源的な境位、「自性清浄心」、が最後的な形で現成しおわったとき、そのときにのみ、円環は閉止され、形而上学的意味での「終末」の時がくる。
     そして、そのとき、絶対的「覚者」(ブッダ)が誕生する。こうして、「起信論」の構想する倫理学的修行の道は最終点に達するのだ。

  • >>61758

    > > > イエスが神であるとは、33年生きた生涯のどの瞬間をとっても、パーフェクトな神であるということです。神は時間を完全に超越している、神はリニアーな時間の流れと共にその中で生きる存在ではない、むしろ神は過去・現在・未来に同時に遍在しているといいうる。イエスは神である以上、上述の意味での神であった。ちょうど禅などで、宇宙の究極の在り方は「即今」だという意味での永遠の現在にある存在、それが神です。
    > >
    > > 「体の復活」は神であることが証明された出来事であり、同時に人間の中の罪それ自体が破壊・消滅され、それに基づく神の国の完成に向けた人間の歩みが開始された、そういうことです。
    >
    >  禅的には、十牛図が完了したところ、ここが印可が降りるところなんでしょうが
    > そこに大きなひと区切りがあります。
    >
    >  その先に十地菩薩の道のりがあり、
    > そこが完結したところが如来にあたるのでしょうか。
    > 華厳経入法界品の毘盧遮那楼閣の楼門が開いてそこに入閣するのは、
    > そこなのでしょうか。
    >
    > 今いる位置からは、見当に過ぎませんが、
    > キリスト教の節目とどう対応してくるのか、確定的なことは言葉わからず、
    > 今は、想像するだけのことにすぎません。

    私も細かい対応はよくわかりませんが、非常に興味深いですね。

  • >>61757

    >  そうですね、禅では最終的に「即今」の場で、一切の俗諦的事柄が現成する、そこが究極の場になるという感じがします。
    >  ですから、キリスト教は、とにかく三位一体を前提してしまって、
    > その場で理解をしていった方が早いというのと同等のことを禅で言おうとしたら、
    >
    > わかろうとわかるまいと、とにかく前後裁断した即今の場を自分なりに確立してしまって(=動中の工夫の場として前提してしまって)、修行はその場にすべてを盛り込んでしまえばいい、っていう感じがします。それをやっています。

    出発点も究極の行き着く先も、三位一体しかないわけです。
    キリスト教には無限の深さがありますが、思いっきり単純化すれば、三位一体と、三位一体から外れるのを元に戻す。これだけです。罪というのは、三位一体から外れることそのものです。

  • >>61755

    > > 三位一体の神とは、時間なき全体運動、対象なき全体運動、でしょう。
    > >
    > > そこから時間と物質からなる宇宙が生まれたわけです。
    >
    > おお~、これは全く同感ですが、
    > え~、キリスト教のほうから、こういう言葉が投げかけられるとは、
    > いままで想像したこともありませんでした。
    >  いや~、ここが一致したら完全に一致したっていう感じですね~。

    被造物から隔絶した唯一絶対神が、人間に隷従と神への愛を要求し、人間が正しく応じなかったら、容赦なく罰を加える。そういう風に聖書の神を理解する人がいますが、それだと神が対象に条件づけられる、対象に依存することになってしまう。

    そうではなく、対象や相手に一切条件づけられずに、無条件で愛を与え尽くす、与え続ける神が三位一体の神です。それも被造物宇宙の一部だけではなく、被造物宇宙全体への依存・条件づけから完全に自由でありうるのは、被造物宇宙が誕生する以前から、三位一体の愛の運動はパーフェクトであって本来何も必要なかったといえる場合です。

    これは私が思いつきでいっているのではなく、カトリックの三位一体論がそうなっています。

    そのパーフェクトな関係である三位一体の「子」の位置に人間を招待したのだと。「父」と「子」は自他不二で完全に一体です。

    こういった意味でも、三位一体は対象なき全体運動といえると思います。

  • >>61754

    > > イエスが神であるとは、33年生きた生涯のどの瞬間をとっても、パーフェクトな神であるということです。神は時間を完全に超越している、神はリニアーな時間の流れと共にその中で生きる存在ではない、むしろ神は過去・現在・未来に同時に遍在しているといいうる。イエスは神である以上、上述の意味での神であった。ちょうど禅などで、宇宙の究極の在り方は「即今」だという意味での永遠の現在にある存在、それが神です。
    >
    > 「体の復活」は神であることが証明された出来事であり、同時に人間の中の罪それ自体が破壊・消滅され、それに基づく神の国の完成に向けた人間の歩みが開始された、そういうことです。

     禅的には、十牛図が完了したところ、ここが印可が降りるところなんでしょうが
    そこに大きなひと区切りがあります。

     その先に十地菩薩の道のりがあり、
    そこが完結したところが如来にあたるのでしょうか。
    華厳経入法界品の毘盧遮那楼閣の楼門が開いてそこに入閣するのは、
    そこなのでしょうか。

    今いる位置からは、見当に過ぎませんが、
    キリスト教の節目とどう対応してくるのか、確定的なことは言葉わからず、
    今は、想像するだけのことにすぎません。

  • >>61753

    > イエスが神であるとは、33年生きた生涯のどの瞬間をとっても、パーフェクトな神であるということです。神は時間を完全に超越している、神はリニアーな時間の流れと共にその中で生きる存在ではない、むしろ神は過去・現在・未来に同時に遍在しているといいうる。イエスは神である以上、上述の意味での神であった。ちょうど禅などで、宇宙の究極の在り方は「即今」だという意味での永遠の現在にある存在、それが神です。
    >
    > 以上のようなイエスの神性について、理解している人は、掲示板では非常に少ない。もしかしたら全滅に近い?

     そうですね、禅では最終的に「即今」の場で、一切の俗諦的事柄が現成する、そこが究極の場になるという感じがします。
     ですから、キリスト教は、とにかく三位一体を前提してしまって、
    その場で理解をしていった方が早いというのと同等のことを禅で言おうとしたら、

    わかろうとわかるまいと、とにかく前後裁断した即今の場を自分なりに確立してしまって(=動中の工夫の場として前提してしまって)、修行はその場にすべてを盛り込んでしまえばいい、っていう感じがします。それをやっています。

  • >>61752

    > > ただ、真諦のみ、ないしは、『真諦的あり方』のみがそこにある、
    >
    > これにあたるのが、イエスキリストです。人間によるイエスキリストを廻る言説は俗諦的なものを引きずらざるをえないのの対して、イエスキリストという存在そのものは、「真諦的あり方」のみがそこにある。「キリストの体」というのは、俗諦と真諦に同時に帰属していることでしょう。真諦への帰属も完全なんです。それを媒介するのが、イエスキリストという真諦それ自体。

     キリスト教のどこに何が体系的(?)・俗諦的に位置付けられるかは仏教の側からははっきりわかりませんが、そういうキリスト教固有のことを別にすると、言われている事柄自体は、禅などでもどこかにあって、あ~そうか、そことここが対応しているのかなっていう感じをもちますね。
     「理事無礙法界」「事事無礙法界」っていうのが華厳経のことばにありますが、
    理=悟り=俗諦、事=真諦っていう感じかな、と思うんですが、「真諦的あり方」のみっていうのが、「事事無礙法界」だっていう気がしているんです。理=悟り=俗諦が忘れられたところっていう感じがしています。
     『有為』から『無為』にということ・・『はからいの終焉』っていうのかな
    ・・が関心事なんですが、この辺が関係しているのかなっていう見当でいます。

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