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禅:新バージョン

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  • 2018/07/15 21:00
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    また、ボロボロになってしまいましたので、新しくします。

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    水月 7月15日 21:00

    >>61486

    > >これらが難しいのは、手を加えなければいいということなんですが、
    > 手を加えないようにしようとすること自体が、
    > 手を加えていることになるからです。
    >
    > まさにそうですよね。
    > 「ビカミングしない」ということ自体が、実はビカミングだと言うことと同じなんでしょうね。

    親鸞上人の「自然法爾章」の最終部分も、
    同じ雰囲気の表現です。

    『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。
     この道理をこころえつるのちには、
     この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

     つねに自然を沙汰せば、
     義なきを義とすといふことは、
     なほ義のあるになるべし。

     これは仏智の不思議にてあるなるべし。』

    知的言語的・・・分別智的地平を超えてしまっていて、
    全体運動的全体作用的無分別智的な沈黙の洞窟のなかに身を投じていくというか、
    吸い込まれていくというか、流れ込んでいくというか・・・・そんな世界に身を委ねていくような感じがしてきます。

  • >>61485

    >これらが難しいのは、手を加えなければいいということなんですが、
    手を加えないようにしようとすること自体が、
    手を加えていることになるからです。

    まさにそうですよね。
    「ビカミングしない」ということ自体が、実はビカミングだと言うことと同じなんでしょうね。

  • >>741

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    >>イメージとしては良寛さんとかいうところですかね・・・・

    >悟った先を抜けてゆかんとダメなんでっかね。
    まあ、そのためにはとりあえず悟ることが必要だと言うことでっか。


    やはり、世界が対立してると妄想しているのはつらいんで、
    まずは、対立がなかったと見抜いた方が楽なんです

    ・・・・だからといって、うまく生きられるというわけには簡単にいきませんが


    >>水月の道場に坐し、空華(くうげ)の万行を修すって、ことになるんですが、
    まあ、無我無心で、寝たり、起きたり、泣いたり、笑ったりしている情景です。
    これは大境涯で、死ぬまでできないでしょうね

    >・・・と言うのは、・・・・・・「あるがまま」とは違うんでっか?
    違うとすれば、どのように違うんでっしゃロ。


    分別がないのを、「あるがまま」っていえば、同じです。
    ただ、「分別がない」という状態を規定することはできません。

    これは理屈でいえばややっこしいんですが、
    歌に、

    分別も分別せねば、分別でなし、

    というのがあります。

    つまり、分別=二元性を、二元性とみなければ、
    二元性にならない、という意味です。

    逆にいえば、無分別=「あるがまま」を、無分別とみれば、
    分別=二元性になっちゃうということです。

    実際は、暑い、寒い、うれしい、悲しい、そのままで、
    手を加えなければ それでいいということなんですが、
    「それでいい」、となり、
    そのような状態を追い求めたとき、それはアウトということです。

    これらが難しいのは、手を加えなければいいということなんですが、
    手を加えないようにしようとすること自体が、
    手を加えていることになるからです。

    いわゆる、瞑想、禅、とかは、手を加えない訓練なんです。
    これほど簡単なものはないのに、これほど難しいことはありません。
    これ困ったものなんですが、やれば、なぜか、できます。

    これはわたしだけのことじゃなくて、いろいろな人を見てきた結果です

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>740

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    このごろは、憎悪とかいう感覚がまったくないんで
    ・・・今現在、憎んだり、怨んだりしているひと、だれもいないんで・・・

    憎いという感情自体が、なんかピンとこなくなっちゃってますね

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>739

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    >相手が向かう自分に、自我がなければいいんですよね?・・・・

    それはそうです。

    物理的な攻撃はそりゃ避けなければなりませんが、
    言葉とかは、別にどうってことなくなりますから・・・

    とはいっても、腹が立つときは腹が立つわけですが・・・・・

    ポルコ・愚・ロッソ  {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>738

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    理屈でいえば、相手が空だとわかればそうなります。
    ただまあ、つい、イメージを持ってしまうんで、対立観念が生まれちゃうということでしょうかね

    ポルコ・愚・ロッソ   {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>737

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    しょうもないひとは、しょうもないんです。

    そして、以下「菩薩願行文」によると、
    しょうもないひとこそ憐れまなければならず、
    悪口を言われようが、
    それを、自分の我をとる手立てとしろってなってますね。

    このお経、ちょっと読みづらいかもしれませんが、
    難しくないし、面白いですよ・・・・臨済宗のお寺で読みます。

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    菩薩願行文(ぼさつがんぎょうもん)
     
     
    弟子某申(それがし)謹んで諸法の実相を観ずるに
    皆是れ如来真実の妙相にして
    塵々刹々(じんじんせつせつ)一々不思議の光明にあらずということなし 

    之に因って古(いにし)え先徳は
    鳥類畜類に至るまで合掌礼拝(らいはい)の心を以って愛護し給へり 

    かるが故に十二時中
    吾等(われら)が身命養護(しんみょうようご)の飲食衣服(おんじきえふく)は
    素(もと)より
    高祖の暖皮肉(だんぴにく)にして
    権現慈悲(ごんげんじひ)の分身なれば
    誰か敢(あえ)て恭敬(くぎょう)感謝せざらんや 
    無情の器物猶(なお)然り 
    況んや人にして愚かなる者には
    ひとしお憐愍眷念(れんみんけんねん)し
    設(たと)え悪讐怨敵(あくしゅうおんてき)と成って
    吾を罵り吾を苦しむることあるも
    此は是れ菩薩権化の大慈悲にして
    無量劫来(むりょうこうらい)
    我見偏執(がけんへんしゅう)によって造りなせる
    吾身の罪業を消滅解脱せしめ給う方便なり
    と一心帰命(いっしんきみょう)
    言辞(ごんじ)を謙譲(けんじょう)にして
    深く浄信を起さば
    一念頭上(いちねんとうじょう)に蓮華を開き
    一華一佛(いちげいちぶつ)を現じ
    随所に浄土を荘厳(しょうごん)し
    如来の光明却下(こうみょうきゃっか)に見徹せん

    願わくばこの心を以て
    普(あまね)く一切に及ぼし
    我等と衆生(しゅじょう)と同じく
    種智(しゅち)を円かにせんことを

  • >>736

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    >人間が抱く憎悪というものは、
    結局自分自身へと向けられた歪んだ愛情・感情であるわけで、
    動物のそれは<危険の感覚>ということじゃないかと思いますね。

    それはそうでしょうね・・・

    ひとはひとに憎悪を抱くわけですが、
    それは、結局、ひとの作り上げた相手に対するイメージに
    憎悪をいだいているわけですから、
    自分を憎んでるのと一緒なわけです。

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>728

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    相手がいかに憎悪とか、悪意をもって、自分に向かってきても、
    それに反応しないことが可能か?
    ・・・・・・・
    これは可能だと思うんです。

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>717

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    >何かになろうとする思考を停止した時、
     わたしは花なんだってことかな。
     
    それは正しい。
    あとは、それを実感することですね

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>724

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    >>結局、仏法というのは、絶対平等、絶対差別、それらの円融・・マージ、ということだけなんです。

    >これは【中道】ということでっしゃろか?

    中道というのは、
    本体を、絶対平等のところにおいて、
    絶対差別の領域で生きていくこと
    を意味します。

    臨済禅師でいえば、途中にあって、カシャを離れず。

    言葉にすると難しいですが、要は、無我無心で生きていくことです
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ポルコ・愚・ロッソ  {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>724

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    結局、仏法というのは、絶対平等、絶対差別、それらの円融・・マージ、
    ということだけなんです。
    教相上は・・・理屈、哲学の上では・・・これ以外ないんです。

    これが日常性に降りると、
    わたしたちの寝たり起きたり、泣いたり笑ったり、日が昇り、雲があったり、
    ということだけなんです。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>61471

    こんにちは

    >日本の文化は文武両道で、
    体と繋がることによって全体性が維持されるんじゃあないかって・・・・。

    古代ギリシャで開催されていた競技会も、オリンピッくのようなスポーツだけではなく、詩(脚本)のコンテストも開催されていました。古代ローマにおいても、優秀な軍人は教養も高かったのではなかったかと思われます。

    日本で文武両道が確立されたのは、おそらく武家社会の確立と関わっていると思います。

    現在の英国でもパブリック・スクールと呼ばれるイートン校、ラグビー校、ハーロー校等、皆スポーツも学問同様に秀でるように、教育されているようです。

    肉体と精神の関わりの重要性は、こと日本に限ったわけではないと思います。

  • >>61470

    > >身体の問題はものすごく大きいです。
    >
    > まあ、感じるんですが、
    > 唯識とかは、ヨーガから入ってきてるわけですが、
    > 阿頼耶識とかマナ識とかは、意識から入るんじゃなくて、
    > 身体から見つけてきたと想像します。
    >
    > どうも、一般的に思われているのとは逆で、
    > 知性より、身体のほうが、はるかに叡智をもっている
    > ような気がしてならない今日この頃です。<
    >
    > おそらく、このような感覚があるから、自己=身体という枠に閉じ込めてしまうのかもしれませんね・・・

    若い頃は考えてもみなかったことで、
    最近思うことなんですが、
    文武両道っていうことです。
    武士道という意味での、体育会系精神文化っていうか・・・・・・。

    中国、朝鮮半島は、ずっと文官支配で、
    武は格下なんですね。
    ここでは、人間の精神は腐敗するということを
    最近感じるようになりました。

    日本の文化は文武両道で、
    体と繋がることによって全体性が維持されるんじゃあないかって・・・・。
    文官文化は頭の先っぽだけで、全体性に繋がらないっていうか・・・・。
    だから、文民統制という視点は正しくない・・・・文武両道。
    いや、只管打坐・非思量・・・・
    頭の上位に体をおいているのかなっていう見方もできてしまいます。

    日本人の美意識は、カラダとむすびついているのかな。
    ユダヤ的・中国的朝鮮半島的なるものと日本的なるもののちがいを感じます。

    歳とって、いわゆる随分右寄りの傾向が濃厚になったかな。
    若いときから、左右どっちつかずできましたけれど・・・・。

  • >>61463

    >身体の問題はものすごく大きいです。

    まあ、感じるんですが、
    唯識とかは、ヨーガから入ってきてるわけですが、
    阿頼耶識とかマナ識とかは、意識から入るんじゃなくて、
    身体から見つけてきたと想像します。

    どうも、一般的に思われているのとは逆で、
    知性より、身体のほうが、はるかに叡智をもっている
    ような気がしてならない今日この頃です。<

    おそらく、このような感覚があるから、自己=身体という枠に閉じ込めてしまうのかもしれませんね・・・

  • >>61465

    こんにちは

    >つまり、わたしたちの脳の根本には、
    爬虫類のときの条件付けが残っているということでしょう。

    これ?
    つまり条件付けって思考ですよね。爬虫類が思考するとは思えません・・・

  • >>698

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    過去の出来事を思い出す時、悔恨があったりします。
    苦い思い出があります。
    悔しかったこと、傷つけたこと、傷つけられたこと、
    そういったものが精神の奥に抑圧されています。

    これを意識化して出すか、
    もしくは、坐禅で、自然に解消させていくかしなければなりません。
    精神を浄化していくんです。
    これは危険なことではないし、サッパリすることなんです。

    本質的には、過去はどうでもいいんです。
    過去はないんです。
    現在のわたしは、過去のわたしに責任を持つ必要はないんです。
    過去は切れています。

    しかし、いくら理屈ではわかっても、うまくいかないんで、
    しょうがないんで、浄化させていきます。

    過去が観念だと気がつけば、自己は消滅します。
    完全な自由な感覚があります。
    精神が浄化されれば、自然と気づきます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    自分の過去のすべてを許すことです。
    過去の悲しみをシェアすることです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    過去の自分に口を出しちゃダメなんです。
    口を出している限り、問題は解消されません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    一切の正当化、善悪の分別、そういったものなしに、タダ観ていくことです。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    いまは、悪い夢をみているだけなんです。
    この夢から覚めるには、やはり、坐禅が最速なんだと思います。

    つまり、困ったことに、わたしたちはすでに完全無欠なんです。
    なにひとつ手を付け加える必要はないんです。
    宗教も哲学も、仏教も禅もなんもいらないんです。

    このことに気づくには、まず坐ることなんでしょうね・・・
    坐禅がつれていってくれます。

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>696

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    それはそれとして、身近な問いに、話を戻して、
    なぜこのような問いが生まれるかということを考えてみます。

    業という問いは、すべてがうまくいっているとき起きないんです。
    自由と束縛という問題も起きません。

    野原で風に吹かれて舞っている子供は、このような問いを出しません。
    もちろん、うさぎのコロちゃんも出しません
    ・・・というように推測されます。

    まあ、若くとも、歳とっても、それはそれなりの過去があります。
    家族・・・両親や兄弟・・・こども・・・わかれた恋人、ああだこうだです。

    うれしかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、
    ひとへの感謝、怨み、それはひとそれぞれでしょう
    ・・・まあ、生きていくことは結構大変なのであります。

    クリシュナムルティでいえば、業は、条件付けです。

    わたしたちの日常は、昨日のもつれを、今日解消しようとし、
    また、今日あらたなもつれが生まれ、それを明日解消しようとする、
    というようなことです。

    それはそれでいいんですが、
    それだけだと、精神が参っちゃうんです。

    つまり、自分がホントによって立つところを
    ・・・それは、ある意味でいえば、高みに立つことを意味しますが・・・
    自分は無限絶対の存在であるということに気がつくことが大事なんです。

    そうすると、全体を俯瞰できるようになります。
    というのは、対立がないんで、そのままを観ることができるからです。
    つまり、一回、自分の損得とか、思いとかを、殺して、
    あたかも歴史家のように観ることができます。

    これは結構つらいものがあります。
    というのは、一切の希望とかを捨て去ることを意味ます。
    情緒を排除した現実と向き合います。

    現実は複雑です。
    しかし、こういう作業をしていくなかで、
    だんだん、単純に見えていくようになります。
    物事を複雑に観て、ああだこうだ、理屈をこねていくことは、簡単なことです。
    しかし、単純に見ていくことは、結構、大変です。
    しかし、それは面白いし、意味があるんです。

    業という問題は、結局、自我という問題とからむんです。
    自我があるから、業が問題となります。

    自我がなくなれば、業自体が問題になりません。
    自我も業も、ふたつとも消えていってしまいます。
    どうでもよくなります。

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>61465

    (続き)

    この条件付けは理性で突破できるはずなんですが、
    それを阻害する要因があります。
    自我です。
    これが困ったものなんです。
    人間の問題はこれ以外ありません。

    しかし、よく見てみれば条件付けも、自我も、過去の結果です。
    自我でもそうなんです

    ・・・・もっとも、自意識の働きは、現在に働いていますが、
    そして、これが極めて厄介なんですが、
    それはとりあえず置いておきます。

    自我の本質とは、自己を規定してしまうことです。
    主体を規定してしまいます。
    つまり、時間的には生まれたときから死ぬまで100年弱、
    空間的には2メートル弱、
    子供の時からの経験、育ち、学歴、職歴、ありとあらゆる過去です。

    これらはすべて観念なんです。
    イメージなんです。
    数字の、1とか2と同じなんです。

    自己は自己を知ることはできないんです。
    これは真理なんです。
    それは目が目を見えないのといっしょです。

    だから、すべきことは、
    自分が自分に対して持っているあらゆる自己イメージを
    粉砕してしまうことです。

    この作業が、人生にとって、もっとも重要なことです。

    ポルコ・愚・ロッソ {愚さんの過去の投稿の再掲示}

  • >>695

    {愚さんの過去の投稿の再掲示}

    あるかたから、業についての問いを受けたので、話のとっかかりに・・・

    まあ、仏教的にはとか、バラモン教的にはとか、
    道元禅師で有名な三時の業報とかありますが・・・

    業というのは、原語はカルマで、行為という意味だったでしょうか・
    ・・まあ、ひらったくいえば、自分の過去が業で、
    それがいま現れて、現在の自分を動かしていくということでしょうか・・・

    これは強烈な力を持って、現在のわたしを動かしていきます。
    別のいいかたをすれば、因果の力です。
    明日のわたしは、今日までの因果の結果です。

    意外かもしれませんが、業=仏性です。

    業という問題は、結構ややっこしくて、
    因果と解脱、自由と束縛、そういったことと絡み合っています。

    ・・・まあ、業について書き始めたのはいいんですが、
    どうも、わたしのアタマが整理されていないせいもあって、
    とめどなく拡散してしまいます。

    わたしのイメージでいえば、業は、宇宙開闢以来の歴史性です。
    ビッグバンからの働きです。
    つまり、わたしたちは、宇宙の歴史そのものの結果として
    ここにこうしているわけです。
    単細胞生物、恐竜、爬虫類、ネズミ、猿、
    そういったことを経ていまこうしているわけです。

    だから、ひとの持つ攻撃性とか、排他的な働きとかは、
    まあ、簡単にいえば、無明とか原罪ですが、
    それは単純な話じゃなくて、
    この歴史性から生まれているのだと思います。

    つまり、わたしたちの脳の根本には、
    爬虫類のときの条件付けが残っているということでしょう。
    (続く)

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