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坐禅

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  • 2018/10/20 05:13
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     『君は仏 私も仏』
    「坐禅」談話室です。ご投稿どうぞ。

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  • 21703(最新)

    水月 10月20日 05:13

    >>21702

    (続き)

    こうして『回向』を続けて修行しているうちに、
    ある日突然「衆生本来佛」の大光明の中に生かされている
    真の自己に気付く時節が必ずある筈です。

    この時節到来の端的を
    「本来の面目」とか「一無位の真人」などと呼んでいますが、
    ここでは「衆生本来佛なり」と
    「佛」を指して『自性』(自分の本当の心)と言うておられます。

    『無性』とは「有無」の二見に渉らない絶対的な自己の存在のことです。
    これは、静かに坐禅して「廻向返照」を続けていると、
    これまで自分と他の二つに分かれていたものが、
    畢竟「無自性」であったことにハッと気付く時節があります。
    このように自らが、自らの体験によって目覚めることを
    『証する』といいます。

    例えば、花を眺めて居るときは
    自分も花もない只、美しい!という心の動きがあるだけ…。
    茶を飲む時は、
    うまい!というだけ・・・。

    ようするに「縁に逢うては力を入れず心を用いずその縁に随う」だけ…。

    試みに静かな処に坐って自分の心と向かい合ってみて下さい。
    取り巻く環境の様子が入ってきて、
    その様々なことを次々と感受しながら、
    一瞬も止まることなく「流れる」ものがある…。

    どこから流れ出て、どこに向かって流れ去るのか皆目分からないが、
    確かに流れ去る思念があることにお気付きの筈です。

  • >>21701

    白隠禅師座禅和讃講義 再掲示 No.10 耕月庵 雲さん著

    (元投稿)
    h ttps://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/baaa5/1?offset=1435&rv=1&back=0


    ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その十)―

    『いわんや自ら回向して
    直に自性を証すれば、
    自性即ち無性にて
    すでに戯論を離れたり』―

     8~9号では、僅かな時間でも、断えることなく坐禅を続けている人、
    あるいは法縁を得た人が心から素晴らしいと発心し、
    教えを日常生活の中で実践するれば、
    限りない幸福が訪れることだろうと約束されたのでした

    この段では『いわんや(それにもまして)自ら回向して』とありますように、
    自己究明に骨折っている真の修行者が、
    やがてたどり着く境地を詠われるのです。

    今までの私たちは、自分の外に向かって
    頼ろうとする気配があったようです。
    そして叶わぬ時の神頼みとばかりに、
    無闇矢鱈に向こうに向かってお祈りするのですが、
    そう易々と、人の願い事を叶えて下さる神佛はありません。

    今こうした奇しき縁を頂いて
    「衆生本来佛なり!」という声にびっくりした私達は、
    ハッ!と目が覚めたように、他に頼ろうとしていた心を
    360度転回して身内に具有している「佛」に相見する為の、
    懸命な禅修行に打ち込むのです。

    (続く)

  • >>21700

    (続き)

     昔、中国の趙州禅師は何とかしてこの佛の所在を弟子たちに教えてやろうと
    「金属で造った佛は炉に入れれば溶ける。
    木製の佛は火で燃える。
    土で固めた佛は水に入れれば溶ける。
    火にも焼けず水にも溶けることのない真実絶対なる佛は、
    お前さんの身の中に坐っているぞ!」
    と言うておられます。

     「佛心」とは、白隠禅師が『衆生本来佛なり』と言われた
     そのものでありますから、
    そのことをはっきりと自覚した人なら、
    自分の外にある佛を礼拝するのではなく、
    自分の内にある佛を礼拝することになります。

     そして、私たち人間はすべて釈尊と寸分変わらぬ「佛心」を持ち合わせ、
    今、此処で、斯くして働いている「佛」の当体であること
    を理屈抜きに体得する
    のが坐禅の目的と言えましょう。

  • >>21699

    白隠禅師座禅和讃講義 再掲示 No.9 耕月庵 雲さん著

    (元投稿)
    h ttps://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/baaa5/1?offset=1434&rv=1&back=0

    白隠禅師坐禅和讃」を読んで その9

    『辱(かたじけな)くも此の法を、一たび耳にふるる時、
    さんたん随喜する人は、福を得る事限りなし』
     
     先号では坐禅の妙徳を唱われていましたが、
    この段では、たとえ坐禅ができない人であっても、
    その功徳を享受することができると唱われるのです。

     即ち『辱くも此の法を』、何らかの縁に恵まれて『一たび耳にふるる時』、
    肚の底から『讃嘆随喜』できる人は
    まことに稀なことではあるけれども、その人は『福を得る事限りなし』で、
    必ずや限りない『幸福』を受けることは請け合いである
    …と、約束されるのです。

     ここに『随喜』とあるのは、佛の教えを信じて「喜び随う」という意味です。
     ところが私のような凡夫は、他人が善いことを進んでやっているのを見ても
    なかなか参加できないばかりか、時には妬み心が湧くこともあります。

     次の『福を得る事限りなし』は、
    一判に言う「幸福」は、自分の欲望を満たされているか否かによって、
    その人の心が決める 幸、不幸でありますから
    その幸福というものは限りがあり、長く続くものではありません。
    本当の「幸福」というものは『限りなし』でなければなりません。・

    ( 続く)

  • >>21698

    (続き)

    さて初めにも触れましたように、
    初心者の方が禅堂に来られますと、
    指導に当たられる人から禅堂における作法や坐り方など、
    細々と指導を受けます。

    呼吸方法は特に丁寧に教えてくれますが、
    簡単に説明しますと、下腹の息を吐き切ります。

    これを数回繰り返したら吐き出す息を
    「ひとーつ、ふたーつ」と数えてゆき、
    十まで数えましたら
    また一に戻って数え直します。

    これを繰り返していますと、
    いつの間にか自分が無くなって、
    「ひとーつ、ふたーつ」だけが残ります。

    ここまで来るには相当の修行を覚悟しなければなりませんが、
    この端的を「数息三昧(数息観)」と呼んでいます。

    次には「随想三昧(随想観)」に移ります。
    「随想三昧」とは「数息三昧」から離れましたら
    外部から感触として伝わってくる一切のことと
    一枚になって座ることです。

    禅師は「三昧」の境地を
    「積みし無量の罪ほろぶ、悪趣何処にありぬべき」
    と詠っておられますように、
    縁に随っている三昧境にある端的には、
    邪念が入る隙間はありません。

    この消息を「浄土即ち遠からず」と詠いながら、
    「その『三昧』道が衆生本来佛としてのお前の住家じゃ!」
    と、示しています。

  • >>21697

    白隠禅師座禅和讃講義 再掲示 No.8 耕月庵 雲さん著

    (元投稿)
    h ttps://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/baaa5/1?offset=1433&rv=1&back=0


    「白隠禅師坐禅和讃」を読んで その8
     
    『一坐の功を成す人も、積みし無量の罪ほろぶ、
    悪趣何処に有りぬべき、浄土即ち遠からず』

    先号までは、今こうした佛縁を得た私に対して
    「衆生本来佛なり」と示され、
    その教えどおり坐禅に鞭打った結果
    「本来佛」である自己をハッキリ自覚させて頂きました。

    そしてこの「本来佛」が歩くべき道筋を
    『布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等』と示されたのでした。

    この段ではそのうちの「坐禅」を取り上げて
    「一坐の功を成す人も積みし無量の罪ほろぶ…云々」と、
    その妙徳を説き始められるのです。


    「一坐の功を成す人」とは、
    坐禅するとき一本の線香を立てて、
    それが燃え尽きるまでの三十分~四十五分位坐りますが、
    これを「一坐」といい、
    この一坐一坐の坐禅を積み重ねている人を
    「功を成す人」と言われているようです。

    東福寺(京都)の開山聖一国師が
    「一時坐禅すれば一時の佛なり」と言われていますが、
    正にそのとおりです。

    たとえ一分という僅かな時間であっても、
    倦まず弛まず坐禅に精進しておれば、
    必ず「本来佛」としての真実の自己にまみえる時節がある筈です。

    (続く)

  • >>21696

    (続き)

    「禅定」とは、坐禅そのもののことです。
    三昧とも言いますが、
    その端的は、自分の責任としてやらなければならないその事と、
    一枚になって働いているその場その場の様子です。 
    大工さんなら”トントン”三昧、、禅堂では坐禅三昧になりましょうか。

    次に『念仏懺悔修行等』とありますが、
    「念仏」とは「南無阿弥陀仏」と唱える称名のことで、
    禅宗でも念仏禅と言いまして、これを唱えることがあります。

  • >>21695

    白隠禅師座禅和讃講義 再掲示 No.7 耕月庵 雲さん著

    (元投稿)
    h ttps://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/baaa5/1?offset=1432&rv=1&back=0


    「白隠禅師坐禅和讃」を読んで その7

    『布施や持戒の諸波羅蜜、
    念仏懺悔修行等その品多き諸善行、
    皆この中に帰するなり』

    先号では、「称歎するに余りあり」と、
    白隠禅師が感じ入っておられた坐禅に実際に参じてみて、
    生死、苦楽、貧富、損得などの両辺に渉らない自分・
    つまり「衆生本来佛なり」と自覚することができました。

    しかしこの段階では「衆生本来佛」としての一人歩きは出来ません。

    この段では「衆生本来佛」が自由自在に生活できるようにする為に
    『布施や持戒の諸波羅蜜』という修行者としての、実践すべき基本的な項目を挙げ、
    その具体例として『念仏、懺悔、修行等』の諸善行を示すとともに、
    これら一切の行為は『皆この中に帰するなり』と詠いあげています。

    『諸波羅蜜』とは、以上のことを着実に実践しておれば
    自ら悟りの彼岸に到る道筋のことです。

    本段では「布施」と「禅定」だけ簡単に勉強することとしましょう。

    先ず「布施」には大まかに分けて「布施」と「財施」があるとされています。
    「布施」とは、私達のような迷える者を済度することを一生の念願とし、
    俗世の一切のしがらみから離れて出家して法を説かれる坊さんの事です。

    但しこの「法施」は、決して出家しなければ出来ないということではありません。 
    在家の者であっても、真に佛の御教えを背骨に刻み込み、
    身を投げ出して生活をしておられる方なら、
    もう「布施」をされていると言っていいでしょう。

    そして「法施」とは、難しい教典を説くことだと思いがちですが、
    決してそればかりではなく、
    日頃、何気なく交わしている挨拶なども立派な「法施」です。

    次の「財施」とは、物を施すことを言います。 
    説明すればこういうことになりますが、施しに区別がある訳ではありません
    要するに佛の慈悲心をわがものとして、
    他人の苦楽と共に苦しみ、共に楽しみ
    誰彼の区別なく恵み施すことだと思えばよろしいでしょう。

    (続く)

  • >>21661

    白隠禅師座禅和讃講義 再掲示 No.6 耕月庵 雲さん著

    (元投稿)
    h ttps://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/baaa5/1?offset=1430&rv=1&back=0

    「白隠禅師坐禅和讃」を読んで その6

    『夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり』

    先号では、六道輪廻の迷いの生活から抜け出すことのできないのは、
    何も宿命とか運命とか悲観的なものではない。
    いつまでも愚痴から愚痴へと闇路を歩くような生活をしていたら、
    一生かかっても安心立命の生活はできまい。

    この問題を解決する方法は
    唯一つ「衆生本来佛」なる真実の自己に目覚めることだ
    …と、親切に指示して下さいました。

    この段から、白隠禅師が冒頭で詠い出された「衆生本来佛なり」の立場から、
    『摩訶衍の禅定』の妙徳を無上に称歎されながら、
    「衆生本来佛」と自覚した者の日常の働きは
    『皆この中に帰するなり』と説き始められるのです。

    『摩訶衍』とは、大きな乗物という意味で、
    この乗物は誰彼を問わず迷いの世界から悟りの佛国土に
    運んでくれるというものです。

    『禅定』とは≪三昧≫とも釈しますが、
    ここでは≪坐禅≫そのものを指しています。

    したがって『摩訶衍の禅定』のことを≪大乗禅≫と呼ばれていて、
    誰でも佛祖伝来の坐禅修行を続けて居れば、
    いつの日か釈尊と同じように迷界から、
    悟りの彼岸に渡ることが出来るということになります。

    こうして釈尊は≪大乗禅≫という乗物を用意して、
    「さあ乗れ!さあ乗れ!」と待っていて下さるのですから、
    このチャンスを逃す手はありません。
    乗ってみようじゃありませんか。

    さて、白隠禅師はこの坐禅の功徳を『称歎するに余りあり』
    と大層誉め上げておられるわけですが、坐禅のどこを称歎されているのでしょうか。
    とに角、無条件に坐禅を続けていますと『称歎するに余りあり』と、
    無上に誉め讃えて止まない白隠禅師の肚とひとつになることができる筈です。

  • 親鸞さまに 興味を 示すが

      書いてあっても 観えない


    そういうことだな

  • >>21685

    東大をでてもな  まだ わからんものも おる


    おもしろいだろーーーーー  自力に 縛られると  こーなる


    わらっても いけないが  笑うよな


    はい

    また

  • まあ
    これも 因縁らしいか

      しかし  もー  この教えは  覚えただろ  ?


    東大をでてもな  まだ わからんものも おる

  • 無学のものたち  以下

    だろーーーーーーーーー  ?  極悪人 含む   わらい


    とにかく駄目


    鈍い !


    はい  デロリン  回答は どーーこだ  わらう

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