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●十地という、覚り後の修道論●

龍樹も在家の一般大衆には“念仏”の正念相続を勧めたが、それも在家向けの“修道論”である。
私の場合も、在家の一般大衆だから、観音菩薩の三界唯一心における“一心称名”の正念相続が修行だ。

龍樹以前に、華厳経の煩瑣な修道論があり、龍樹も聖教量としてそれを受けている。
その煩瑣な修道論を、瑜伽行の実践の中でまとめた唯識の修道論は、頭の悪い私にもわかりやすい。
それは、華厳の修道論を五位にまとめたものである。簡略して示す。

1、 資糧位(尋牛)
自分の向上をたすけるあらゆる修行、華厳における十住・十行・十廻向で、十住の最初が“信”。
“信心”が仏道への出発点ということ。(『十牛図』でいえば「第一・尋牛」)

2、 加行位(見跡)
信心により、資糧位で得た〈智慧と慈悲の思想〉を支えに、真実に向かって、その思想に生きる。
権力闘争や知益追求でなく、智慧と慈悲の仏陀の人格を目指して生きるということである。
しかし、ここではまだ「思想に生きる」段階で、知識が智慧に転換されていない。
(『十牛図』でいえば「第二・見跡」)
而して、親鸞に傾倒した三木清でさえ、次のように詠う。専念というのは念仏の正念相続である。

真実の秋の日の照れば専念に 心をこめて歩まざらぬや

3、 通達位(見牛)
加行により、自分の真相が空なることを自覚する。“蒙昧な自分”が崩壊し、“真なる自己”が体証される。
身心脱落(自我崩壊)という見性である。唯識からでは、「唯識性に住する」「真如を証す」と言う。
大乗(龍樹)的には、我空法空を体証するということになる。
仏教が体験として分かる(体証)段階である。(『十牛図』では「第三・見牛」)。

4、 修習位(得牛以降)――十地の修行。
通達位で我空法空の自己が体証されると、識が崩壊し、識が根本無分別智に転換される。
さらに、後得智といって、末那識の一部が“平等性智”に変り、意識の一部が“妙観察智”に変わると、
「修行と悟りの平等性」を観察できる「妙観察智」が直接経験される。

「悟りという仏」に導かれての「仏と衆生と共に在る修行」――自他不二の修行。
そこから大乗の修行、菩薩の修行が始まる。禅が始まる。
唯識でいえば、阿頼耶識を大円鏡智に換え、五識を成所作智に換える「四智円明への修行」である。
しかし、ここからは、「仏と衆生と共に在る修行」だから、その修行が苦でなくなり歓喜の行となる。
修行することが生きる喜びとなる。

十地の第一極喜地から第十法雲地までは永い。56億7千万年という永遠である。
それを、「俺は四智円明の仏だ」という膨張した自我の妄想をいだく似非禅坊主は害になる。
というわけで、自己を阿修羅に貶めた闡提菩薩が登場しているというわけである。

因果一如――修行が証りである(修証一等)

仏にも実体ない。凡夫との此縁性によって生起する――身心脱落・見性しなければ自覚されないが…。
身心脱落・見性が先決だ。