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  • >>142

    > >人間の意識レベルでは我と汝が存在する。しかし宇宙的意識のレベル、神秘主義では「一なるものの体験、全体の体験」、二として区別されながら一である「不二」(Nicht-Dualität)の体験をする。あるいは神秘的一致しか存在しない。(「東西の叡智」p123)
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    > >ちなみに、Nicht-Dualitätというドイツ語は、英語のNonーDuality、日本語ならノンデュアリティ、二元と全く同じ。つまりAdvaitaの各国語訳にすぎない!
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    > 訂正。二元→非二元

  • >>272

    肉体と霊魂がともども天の栄光に引き上げられる存在として、
    ①キリスト②聖母マリア③カトリック教会
    が挙げられている。↓

    > 966 「最後に、原罪のいかなる汚れにも染まずに守られていた汚れなき処女は、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべてのものの女王として高められました。それは、主たる者の主であり、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよりよく似たものとなるためでした」。聖マリアは天に上げられることによって御子の復活に特別なしかたであずかり、他のキリスト者の復活を先取りされました。
    >
    > 972 これまで、教会とその起源、その使命ならびに将来について眺めてきましたが、やはり最後は、マリアに目を向けて、彼女の中に教会の神秘、「信仰の旅路」にある教会の姿、旅路の果てにある祖国での教会の姿を観想しながら締めくくるべきでしょう。この旅路の終わりに、教会が「至聖にして不可分の三位一体の栄光となるよう」、「すべての聖人たちの交わりのうちで」待っているのは、まさに、教会が主キリストの御母として、また自分たちの母としてあがめているかたなのです。
    >
    > 「イエスの母は天上において、肉体と霊魂ともどもすでに栄光を受けているものとして、来世において完成されるべき教会の像であり始まりであるように、地上においては、主の日が来るまで、旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしとして輝いています」。
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    > ====「カトリック教会のカテキズム」

  • ベネディクト16世の説教はやはり深い。カトリック神学の本質が凝縮されている。

  • >>278

    親愛なる友人の皆様。わたしは、この真理が深い喜びでわたしたちを満たしてくれるはずだと思います。キリスト教は、どこにあるか知れない来世で霊魂が救われること、来世では、現世で大事にしていたもの、愛していたものが消え去ることのみを告げ知らせるのではありません。むしろキリスト教は、永遠のいのちを、すなわち「来世のいのち」を約束します。大事にしていたもの、愛していたものは何も滅びません。むしろそれらは神のうちにあって完成されます。あるときイエスは、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられているといわれました(マタイ10・30参照)。世の終わりは地上の完成でもあります。聖パウロが述べたとおりです。「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(ローマ8・21)。それゆえ、キリスト教は、輝かしい未来への深い希望を与え、このような未来が実現するための道を開くものだということが分かります。わたしたちはまさにキリスト信者として、この新しい世界を築くよう招かれています。この新しい世界が、いつの日か「神の世」となるように働くよう招かれています。「神の世」とは、わたしたちが造り上げることのできるすべてのものを超えた世界です。わたしたちは、天に上げられ、御子の復活に完全にあずかったマリアのうちに、「神の世」に従って造られた人間の完成を仰ぎ見ます。
     主に祈ろうではありませんか。あなたのみ前で、わたしたちの生涯全体が尊いものであることを悟らせてください。永遠のいのちへの信仰を強めてください。わたしたちを希望の民としてください。神に開かれた世を築くために働くことができますように。わたしたちを喜びに満ちた民としてください。日々の生活の苦悩のただ中で来世のすばらしさを見いだし、この確信をもって生き、信じ、希望することができますように。
     アーメン。

  • >>277

    この神の愛が、死に打ち勝ち、わたしたちに永遠のいのちを与えてくださるのです。そしてわたしたちは、この愛を「天」と呼ぶのです。神は大いなるかたなので、わたしたちのためにも場所をもっておられます。そして、人間であると同時に神ご自身でもあるイエスは、わたしたちに保証してくださいます。人間であることと神であることは、互いに存在し合い、永遠に生きることができるのだということを。これはこういう意味です。わたしたちは皆、いわば自分から引き裂かれ、他の部分が失われたような一部分としてだけ存在し続けるのではありません。ここでいわれているのはむしろ次のことです。神は人間全体を、人間のあるがままの姿を、知り、愛しておられます。だから神は、「現世において」苦しみも愛も、希望も、喜びも悲しみも含めて、わたしたちの生涯の中で育ち、生まれてくるものをすべて永遠のいのちへと受け入れてくださいます。神は人間全体を、人間の生涯全体を取り上げ、ご自身のうちで清めて、永遠のいのちへと受け入れてくださるのです。

  • >>276

    このことに関連して、被昇天の教義の一つの側面について考えてみたいと思います。すなわち、マリアが天の栄光に上げられたことについて述べている点です。現代のわたしたちは皆、「天」ということばが、星やそのたぐいの、宇宙のどこかの場所を指すのでないことを十分自覚しています。確かにそうではありません。わたしたちは、人間の限られた概念をもって、もっと偉大で、定義するのがむずかしい何かをいおうとしています。わたしたちがこの「天」ということばでいいたいのはこれです。神はわたしたちに近づいてくださったかたです。だからこの神は、死においても、死の彼方においても、わたしたちを決して見捨てることがありません。むしろ神は、わたしたちのための場所をもっておられます。わたしたちに永遠のいのちを与えてくださいます。わたしたちがいいたいことはこれです。神のうちにはわたしたちのための場所があります。このことをもっとよく理解するために、自分たちの人生に目を向けてみたいと思います。わたしたちは皆、次のことを体験します。人は死んでも、その人を知っていた人、愛していた人の記憶と心の中に、ある意味でとどまります。これらの人々の中に、その人の一部分が生き続けるということもできます。しかし、この一部分は「影」のようなものです。なぜなら、このように愛する者の心の中で生き延びることも、いつかは必ず終わるからです。しかし、神は決して過ぎ去ることがありません。だからわたしたちは皆、神の愛の力で生き続けます。わたしたちは生き続けます。なぜなら、神がわたしたちを愛してくださるからです。神がわたしたちのことを思い、わたしたちをいのちへと招いてくださったからです。わたしたちは神の思いと愛のうちに生き続けます。わたしたちはたんなる「影」としてではなく、自らの存在全体をもって生き続けるのです。わたしたちが心を落ち着かせ、希望し、平和でいられるのはまさにこのことに基づきます。わたしたちは、神と、その思いと愛によって、ただ自分の「影」として生き続けるだけではありません。むしろ、神のうちに、万物を造られる神の愛のうちに守られ、全生涯と全存在をもって、永遠のいのちに導き入れられるのです。

  • >>275

    さて、聖パウロがすべての人について述べたことを、教会は、その不可謬の教導職により、正確なしかたと意味において、マリアについても述べます。神の母はキリストの神秘と深く結び合わされていたので、すでに地上の生涯を終えるときから、存在全体をもって御子の復活にもあずかります。神の母は、世の終わりにわたしたちが待ち望むことを生きておられます。そのとき、「最後の敵」である死が滅ぼされるからです(一コリント15・26参照)。神の母は、わたしたちが信条の中で「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます」と宣言することを、すでに生きておられるのです。
     ここでわたしたちは自問するかもしれません。マリアのうちに驚くべきしかたで先取られた、この死への勝利は何に基づくのだろうか。それは、ナザレのおとめの信仰に基づきます。今日朗読された福音の箇所があかししているとおりです(ルカ1・39-56)。この信仰は、大天使が告げたとおりに、神のことばに忠実に従い、神の呼びかけとわざに完全に身をゆだねます。それゆえ、マリアの偉大さはその信仰です。エリサベトが喜びのうちに叫んだとおりです。マリアは「女の中で祝福されたかた」です。「胎内のお子さまも祝福されています」。なぜなら、マリアは「主のお母さま」だからです。マリアは独自のしかたで「第一の」至福を、すなわち信仰という至福を、信じ、かつ生きたからです。エリサベトはこのことを、自らの喜びと、胎内にみごもっていた幼子の喜びをもって告白しました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1・45)。親愛なる友人の皆様。マリアを、わたしたちからかけ離れたかたとして、その栄光ある定めのうちにあがめるだけではいけません。そうであってはなりません。わたしたちは、主がその愛によって、わたしたちのためにも、わたしたちの最終的な定めとして望まれることを仰ぎ見るよう招かれています。主が望まれることとは、わたしたちが信仰により、主との完全な愛の交わりのうちに生きること、そこから、真実の意味で生きることです。

  • >>274

    聖パウロは、今日の第二朗読の中で、人間の歴史とわたしたちの信仰の中心にある出来事からこの神秘に光を当てる助けとなってくれます。その出来事とは、キリストの復活です。キリストは「眠りについた人たちの初穂」です。わたしたちはキリストの過越の神秘に浸されることによって、キリストの罪と死に対する勝利にもあずかりました。ここに驚くべき秘密が、人類の歴史全体を解く鍵があります。聖パウロはわたしたちにいいます。わたしたちは皆、古い人である人祖アダムに「結ばれて」います。わたしたちは皆、アダムに由来する同じ人間の遺伝を受け継いでいます。すなわち、苦しみと死と罪です。しかし、わたしたち皆が日々、目にし、体験しうるこの事実に、パウロは一つの新しいことがらを付け加えます。わたしたちはアダムから始まる一人の人の遺伝を受け継ぐだけではありません。わたしたちは、新しい人、すなわち復活したキリストにも「結ばれて」います。だから、復活のいのちはすでにわたしたちの中に存在するのです。それゆえ、第一の生物学的な「絆」は、死との絆です。それは、死を生み出す絆です。洗礼によってわたしたちに与えられる、第二の新しい絆は、いのちをもたらす「絆」です。もう一度今日の第二朗読を引用します。聖パウロはいいます。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」(一コリント15:21-24)。

  • >>272

    ●教皇ベネディクト十六世の聖母の被昇天の祭日ミサ説教

    http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message535.htm

    今年は尊者ピオ十二世が1950年11月1日に正式に聖母の被昇天の教義を決定してから60周年を記念します。すこし難しいですが、この教義を定めた文章を読みたいと思います。教皇は述べます。「唯一で同一の予定の計画によって、永遠の昔からイエス・キリストとひそかに結ばれていた神の母マリアは、原罪なくして母の胎内に宿り、神の母としても完全におとめであり、神であるあがない主の寛大な協力者であった。罪とその結果に完全な勝利を収めた救い主は、最後にこれらの特典の最高の飾りとして、ご自分の母の肉体の腐敗を免除したのであった。こうしてマリアは、その独り子と同じように死に打ち勝ち、霊魂も肉体もともに天の栄光に上げられ、そこで永遠かつ不滅の王であるその独り子の右に、輝かしい元后としての位置を占めている」(使徒憲章『ムニフィケンティッシムス・デウス』:Munificentissimus Deus, AAS 42 [1950], 768-769)。
     それゆえ、わたしたちの被昇天に対する信仰の核心はこれです。わたしたちは信じます。マリアは、御子キリストと同じように、すでに死に打ち勝ち、存在全体をもって、すなわち「霊魂も肉体もともに」天の栄光の中で勝利を収めておられます。

  • >>272

    ↑この部分、カトリック教理の要石の一つといっていい。ここを取り除けば、大きな建造物が全部崩れるかもしれない、それくらい本質をなす。

  • 966 「最後に、原罪のいかなる汚れにも染まずに守られていた汚れなき処女は、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべてのものの女王として高められました。それは、主たる者の主であり、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよりよく似たものとなるためでした」。聖マリアは天に上げられることによって御子の復活に特別なしかたであずかり、他のキリスト者の復活を先取りされました。

    972 これまで、教会とその起源、その使命ならびに将来について眺めてきましたが、やはり最後は、マリアに目を向けて、彼女の中に教会の神秘、「信仰の旅路」にある教会の姿、旅路の果てにある祖国での教会の姿を観想しながら締めくくるべきでしょう。この旅路の終わりに、教会が「至聖にして不可分の三位一体の栄光となるよう」、「すべての聖人たちの交わりのうちで」待っているのは、まさに、教会が主キリストの御母として、また自分たちの母としてあがめているかたなのです。

    「イエスの母は天上において、肉体と霊魂ともどもすでに栄光を受けているものとして、来世において完成されるべき教会の像であり始まりであるように、地上においては、主の日が来るまで、旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしとして輝いています」。


    ====「カトリック教会のカテキズム」

  • もちろん、マルタの妹のマリアと聖母マリアはまったくの別人ですが、
    マリアとマルタと聖母マリアは、彼女らの死後、いま天国、つまり天のカトリック教会にいる。ただ、カトリック教会の代表・象徴を人間で一人あげるとすれば、聖母マリア以外にはありません。

    天のカトリック教会と地のカトリック教会の二重構造のようなものがあって、地のカトリック教会には天のカトリック教会がそのまま反映されている。この2つが完全に一つになるのが、終末における「神の国」の完成です。

    この地でのミサは、その「神の国」完成の先取りそのもの。

  • マリアは100パーセント人間、これくらいは押さえているんだろう?

    三位一体の神がマリアにおけるイエスの受胎に先行している。三位一体の神がマリアをお選びになった。逆はありえない。マリアの無原罪に原因を与えたのは、イエス(三位一体としての)。

    それで、イエスの体との、罪が濯がれた交わりを教会と呼ぶなら、人類史上最初の教会に入られた人間は、聖母マリアをおいて他にいないということになる。

    単に抽象的な教義というより、人間の体との交わりをとおして、三位一体の神と一体になることを「天国」というなら、人智を超えた信仰の神秘であるとともに、論理上体系上必然的に要請されるのが「聖母マリア」の存在。

    カトリック教会と聖母マリアは必然的に一体不可分。もちろん同じ人間の次元として。これはマザーテレサなどの聖人の場合も原理的に同じ。

    以上が、聖母マリアに対する純粋な信心は「崇敬」であって「信仰」ではない、という意味の一つの次元。

  • >>261

    > 〇無数の隣人に生かされている自己○
    >
    > >私の生きる姿勢の根本は「あなたの隣人を愛しなさい」ということにあるのではなく、
    > >隣人という存在は存在しないということを体得することなのである。
    > > byイエーガー神父
    >
    > アレアレ…テルちゃんの惚れこむイエーガー神父はそんなことを言っているのですか。
    > 教えていただいありがとう。

    これはたしかにいっています。

    その発言に続いて、

    隣人という存在は存在しないということを体得することにより、地球とこの地球上に生きる一切のものに対する責任が生じる。

    ということはいっていますが、ふつうのキリスト教とはかなりおもむきが違うこともたしかです。

  • 私の生きる姿勢の根本は「あなたの隣人を愛しなさい」ということにあるのではなく、隣人という存在は存在しないということを体得することなのである。
    byイエーガー神父

  • >>252

    > >「妊娠中絶した場合に生まれてこなかった子供と母親の霊魂はどうなるのでしょうか」?

    > これは難しい問題である。意見を述べることは私にはできないが、分っていることといえば、「いのち」は消滅することはあり得ないということだけである。人間にならなかったこうした存在者の「いのち」も何らかの方法で生き続けるであろうということである。

    > 個々の人間の本性である存在者の有するエネルギーの流れであるこのエネルギーのかたまりは、神性なるものの無限のエネルギーとして、私には説明できない形相で、生き続けるであろう。

    > もし私が尋ねられたら、母親に勧めるだろう、この存在者をあなたの同伴者にしなさい、この存在者との結びつきが今なおあるのですから。あなたはきっと道徳的な意味で何ら非難されることはない。

    > この結びつきは個人的な結びつきとは全く違う。枝が枝に向かって、そこにも枝がある、あそこにも枝が、あそこにも枝があるというなら、言ってみればそれは個人的な関係である。枝である自分が木に繋がる存在であることを知った時、すべての他の枝との実存的繋がりを持つからである。亡くなった人々との繋がりもこのように考えられる。それは我々が一般的に考えていることよりもはるかに深い次元の内容豊かで、包括的な繋がりと考えられ、それは私が理性的に考えることをはるかに超えているのである。

    ↑の「木」は、イエーガー神父の他の喩えでは、「いまここに鳴り響いている交響曲のような存在」のことであり、それが「神」にあたる。

    人間は交響曲の一音符であり、↑ではそれは「枝」のこと。

    宇宙で唯一真に実在しているものを「交響曲」になぞえるあたり、カトリックらしいセンスだとはいえる。マーラーもブルックナーもカトリックだった。

  • >>252

    イエーガー神父は、天国教とどう違うか?アドヴァイタ的な世界観をとると、カトリックから万人天国、万人救済を自然に肯定できる、ともいえる。

    > >「妊娠中絶した場合に生まれてこなかった子供と母親の霊魂はどうなるのでしょうか」?
    >
    > >イエーガー神父はなんと答えているだろうか?
    >
    > ↓です。
    >
    > これは難しい問題である。意見を述べることは私にはできないが、分っていることといえば、「いのち」は消滅することはあり得ないということだけである。人間にならなかったこうした存在者の「いのち」も何らかの方法で生き続けるであろうということである。
    >
    > 個々の人間の本性である存在者の有するエネルギーの流れであるこのエネルギーのかたまりは、神性なるものの無限のエネルギーとして、私には説明できない形相で、生き続けるであろう。
    >
    > もし私が尋ねられたら、母親に勧めるだろう、この存在者をあなたの同伴者にしなさい、この存在者との結びつきが今なおあるのですから。あなたはきっと道徳的な意味で何ら非難されることはない。
    >
    > この結びつきは個人的な結びつきとは全く違う。枝が枝に向かって、そこにも枝がある、あそこにも枝が、あそこにも枝があるというなら、言ってみればそれは個人的な関係である。枝である自分が木に繋がる存在であることを知った時、すべての他の枝との実存的繋がりを持つからである。亡くなった人々との繋がりもこのように考えられる。それは我々が一般的に考えていることよりもはるかに深い次元の内容豊かで、包括的な繋がりと考えられ、それは私が理性的に考えることをはるかに超えているのである。

  • >>251

    「東西の叡智」は大した本ではない。想定内過ぎるし、薄すぎる。
    このレベルの比較神秘主義の論考なら、いくらでもある。

    21世紀の今、いい年こいて、こういうものを印籠にするなんて、今まで何にもまともに読んでこなかった証拠。カトリック司祭という肩書きにひれ伏すとでも思い込んでいるのだろうか?よくそこまでまで卑屈な権威主義になれるもんだよ。

    ケンウィルバーや井筒俊彦くらいは20世紀のうちに読了していなきゃお話しにならない。

  • マリア崇敬とマリア信仰の違いも分らない人が多いようだ。

    カトリックでは「三位一体」の神への信仰がすべてであって、マリア信仰を認めたことはまったくない。

    聖母マリアの場合は崇敬なんだよ。

  • マリア像やイエス像をそのまま偶像として崇拝するのがカトリックだと思い込んでいる人がいるようだが、
    とんでもない妄想・虚偽の認識を抱え込んでいるという他ないね(笑)。ど素人丸出し。

    「三位一体」の神を信仰するのであれば、どんな形のある素材を媒介にしても、なんの問題もなし。像それ自体に執着しているわけではまったくない。逆に「三位一体」の神への信仰が皆無であれば、マリア像やイエス像への愛着はカトリック信仰とはまったく無関係。

    宇宙におけるすべては被造物として「三位一体」の神の作品なのだから、自然であれ芸術であれ、神の作品の美しさを入り口に、「三位一体」の神に思いを寄せても何の問題もない。

    日本で生活するかぎり、神父さんでも神社仏閣、家庭の仏壇などで、手を合わせたりする機会を拒否することが難しい場合が多い。そういう時は、小さく十字を切って、仏像を拝んでもいいとされている。それは、仏像の彼方に「三位一体」の神を賛美しているというだけ。

    キリスト教において偶像崇拝とは、神ではなく、人間本位の狭い価値観に執着すること。お金、地位、名誉、財産、趣味、若さ、権力、自家製のイメージ、感情、知識、思想、などすべて。

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