ここから本文です

仏教って何?

  • 53,587
  • 0
  • 2019/01/08 17:14
  • rss
  • 1

    *****

     仏教って何でしょう?哲学?宗教?
    経典も宗派も部派も多すぎて何がなんだか。
    仏教にいて、総合的に会話しましょう。

  • <<
  • 53587 53566
  • >>
  • 53587(最新)

    和弘 1月8日 17:14

    >>53585


    ●手離せば、永遠へと広がり続ける●

    >つまりは、私たちがどこか他所に向って聖なる地を求める必要のないことが説かれています。

    ハイハイ、今ここで、生かされている場こそが浄土ですね。
    だから、今を大切に生きる以外にない、と言い続けています。

    “自我の思い”を、常在する“如来の慈悲”に手離し手離し生きる、旅の途中のその時その時に
    仏からいただきた命(仏性)が輝くと思います。

    「手離せば、永遠へとひろがり続ける」――『法華経』の道は「永遠の菩薩道」だと信解しています。

    それでは、弛まぬご精進をお祈りいたします。
    お世話になりました。 (-“-)

  • >>53584

    本事経より
    「弟子達よ、例えば我が弟子であって私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足跡を踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。何故なら、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかし私から百里離れていても、彼が欲を離れ、正しい心でいるならば、彼は私の側にいる者である。何故かといえば、彼は法を見、法を見ることによって私をみるものであるからである。」


    仏教には現世利益の霊験があるというお経や陀羅尼が存在します。それらは「信心」がなければ読んでも効果がないのでしょうか。自分のためでなく他者のために読んでも効果がないのでしょうか。・・・
    世間にはそのような現世利益のみを言われる所もありますが、お釈迦様の本当の教えでは、逆に真の信心さえあれば、現世安穏、後生善処と説かれています。現世利益だけを求める心は本当の信心とは全く反対の心です。仏教の本当の利益は現世利益といわれるものと比較にならないほど素晴らしい利益です。現世利益そのものは、飲んでも飲んでも喉が潤わない水のようなもので、真の利益は一度飲めばもう喉の渇くことない水なのです。自分がその境界(きょうがい)になれば周りにいる他者も真の幸せに導かれ救われます。



    お釈迦様のお生まれになったインドは、悟りを開くのに一番いい国でしょうか。・・・
    お釈迦様は法華経で「即是道場」の教えを説かれています。

    「まさに知るべし、この処は即ち是れ道場なり。諸仏ここにおいて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃したもう。」

    これは、お釈迦様の教えを真に信じ修行しようとするところはどこでもそこが道場であり仏様のいらっしゃる場所である、ということで、つまりは、私たちがどこか他所に向って聖なる地を求める必要のないことが説かれています。

    即是道場 南無妙法蓮華経

  • >>53583

    最初は仏教をどのように学んでいけばよいでしょうか。どちらかの団体に属した方がよいのでしょうか・・・
    仏教には、「自燈明 法燈明」つまり、「自らを依りどころとし、法を依りどころとせよ。」という言葉があります。
    一般に、仏教を学び修行するには、どこかの集団に属さないといけないと思いがちです。しかし、そうではなく、自らの菩提心によって、仏陀の教えを頼りに悟りへの道、衆生救済への道を歩まれるのが最良の道であるということです。同じ道を歩む者同士ならば、ともに学び、ともに支えあうこともあってよいとは思いますが、宗教団体となってしまうと、各人の悟りとは無関係な次元での患いが生じ、その弊害の方が大きくなるようですので、どちらかの宗派や宗教団体に属されることはあまりお勧めできません。あくまでも仏陀の法(教え)と自らを依りどころとして一歩一歩着実に進まれることです。

    ではその教えについてですが、仏教には蔵教・通教・別教・円教の四種類の教えがあります。その全ての種類の教えが仏教聖典には収められています。この中で、最後の円教が完全な教えなのですが、内容が深すぎて初めのうちはその意味が理解しにくい場合もあります。 (円教とは法華経のことで、当HPにも法華経の中心の妙法蓮華経第十六を載せています)
    それゆえ、初めは生活に即した教えである蔵教(パーリ語聖典や法句経、阿含経など)を中心に学ばれると、入っていきやすいかと思います。
    ただ、とても重要なことは、仏教とは、日頃無常に消え行くと思っているこの小さな自己が仏陀の無限で永遠の命を生きることができる教えであるということです。また死後の成仏ではなく生きたこの身のままで仏の国に入れる教えなのです。どうかそのように信じて日々教えを学び実践されてください。

    法を見る者は私(釈迦牟尼仏)を見る。法と釈迦牟尼仏は不二一体

      「法華経は釈迦牟尼仏なり、法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ず
       る者の前には滅後たりといえども仏の在世なり」

    南無妙法蓮華経

  • >>53582

    ≫私の現世も、私の来世も求めないのが菩薩です。
    生きられるのは、諸行無常の先端の「今ここ」しかありません。
    ですから、輪廻転生も、三時業も否定しないで「今ここに在る」と言っています。
    明日は計り知れずとも「今ここの業」が一切を決める。
    今の命を、深刻にならず真剣に生きたいですね。≫ <


    自己がお釈迦様と隨縁になっていれば、現世でそれを実践すればよいですね。 自己の家庭や職場が滅茶苦茶では、人を導くことはできない。 カズマさんの能書きはいらない。 あなたは、必ず死にます。その時まで 少しでも、悪業の清算をするのが、仏法でしょうね。 今ここは、大切な事だが、臨終の事をしっかり考える事が生きるという事。

    南無妙法蓮華経

  • >>53581


    ●「ひとかけらの慈悲(愛)」を探す旅●

    >カズマさんは華厳経、そして唯識の教義が絶対だと思っているから。
    >私の一乗法華は慈悲がないという結論ですよね。

    「私」とは誰かは知りませんが、法華経「普門品」の行者として、20年の仏法探求の結果、
    釈尊正覚後の「七日間」という「此縁性」による縁起の連鎖の観察に帰り。
    その七日間の後追いが2500年の仏弟子たちの歩みだったという、個人的な自覚を言って
    います。華厳の唯識も、「普門品」の中に納まります。

    「法華一乗」は「慈悲一乗」だと言っているのであり、SANさんのお考えとは関係ありません。

    >それも輪廻はないとし、三世業を否定する。

    私の現世も、私の来世も求めないのが菩薩です。
    生きられるのは、諸行無常の先端の「今ここ」しかありません。
    ですから、輪廻転生も、三時業も否定しないで「今ここに在る」と言っています。
    明日は計り知れずとも「今ここの業」が一切を決める。
    今の命を、深刻にならず真剣に生きたいですね。

    そして、「今の命を生きる」とは、遍満する仏の慈悲の“ひとかけら”の出会いを求めて
    生きることだと思っています。

    「ひとかけらの慈悲(愛)」を探す旅に出ています。

    貴方は貴方の信じた道を真っ直ぐにお進み下さい。
    それではご精進をお祈りしています !(^^)!

  • >>53580

    カズマさんは華厳経、そして唯識の教義が絶対だと思っているから。私の一乗法華は慈悲がないという結論ですよね。
    それも輪廻はないとし、三世業を否定する。  こうなると、仏の教えではないと言っているのです。

    法華経に説かれている、仏さまの教えを変える事は出来ません。変えてしまえば、成仏経が不成仏経の教えになってしまう。 理論でお釈迦様と私達は同体だとしっていても、お釈迦様の様に大きな広い心になれない。 だからこそ、自身の心の中に釈迦如来を抱き、我が身をお釈迦様に使って頂く喜び。 これはあなたには分からない事でしょう。
    慈悲があるから、成仏経に帰依すると良いですよ。言っている。

    南無妙法蓮華経

  • >>53579


    ●「ひとかけらの愛(慈悲)」一乗●

    掲示板も終わるようですが、議論してみても、人間は何も分かっていないと気づきました。
    宗教・哲学を論じても、その正体については知らないでいます。
    ですから、誰もいばることはできず、謙虚に生きるしかないということを思い知らされます。

    それでも、しかも尚、大切なのは「わかろう」とすることですが、分かるためにはやはり、
    優しくならなければならず、結局は、「ひとかけらの愛」という慈悲を超えることはできない。

    「法華一乗」とは「慈悲一乗」で、どんな宗教、どんな哲学であれ、究極的には「ひとかけらの愛」
    という慈悲の海にたどり着く。

    「法華一乗」は「慈悲一乗」なり。
    今ここに在る「ひとかけらの愛」を大切に生きて行きたいですね。

  • >>53578

    ≫釈尊の悟りの何たるかは本人も生存しませんし、自らの著書も現存しませんので想像するしかないのが厳然たる事実です、で、その解釈は100人100様であるのもまた避けられぬ事実でしょう。
     ただ私は釈尊の残したもの、それを継承した先哲達の遺産を自分の人生の糧となる様、活かしていくことが大事なのだろうと思います。<

    なにしろ仏陀は対機説法でしたから文字で教えは残されていません。 400年くらいたってからだアーガマやスッタニパータ等の文字にされた。文字にされた事から、多くの部族の知るところになり、さらに多くの教絵が集められ大乗の教えが発展してゆかれたのでしょう。

    ただ私は釈尊の残したもの、それを継承した先哲達の遺産を自分の人生の糧となる様、活かしていくことが大事なのだろうと思います、は間違いありませんが、 それでも、仏教ですから最低三法印、八正道の実践。
    迷いの道からの三世に渡る解脱。業応報論をはずしたら、仏教ではなくなる。
    私が最初にこのトピに参加された時はヤマガタさんという方がおり、ずいぶん勉強させていただきました、
    諸行無情ですから、どんなに素晴らしい、書き込みであっても、時の流れに巻き込まれ、やがては滅します。

    ありがとうございました。

    命に合掌

  • >>53572

     返信が遅れてすみません。
    YAHOO掲示板からシステムが変わる辺りで自ら終了宣言をしてあまり寄り付かなくなっていましたが、このトピを立てたのは私です、現在のハンドルシステム「和弘」様では判りませんがおそらく交流のあった方だと思います、失礼いたしました。
    釈尊の悟りの何たるかは本人も生存しませんし、自らの著書も現存しませんので想像するしかないのが厳然たる事実です、で、その解釈は100人100様であるのもまた避けられぬ事実でしょう。
     ただ私は釈尊の残したもの、それを継承した先哲達の遺産を自分の人生の糧となる様、活かしていくことが大事なのだろうと思います。
     本当にここでは色んな出会いがあり勉強させて頂きありがたく思っています。
     まだこのトピが存在していて、つい懐かしくなり久しぶりに書き込みを入れてしまいました。m(_ _)m

  • ≫諸行無常・・・・・あらゆるものは(自分は)変化している
    諸法無我・・・・・だから、あらゆるものは(自分は)(変化しないという)アイデンティティ、自我はない
    涅槃寂静・・・・・だから、こころおだやかで、楽しいな

    これで仏教は十分です、終わりです。
    あとは、この仮説を実験して、その真偽を確かめるだけです。 <


    これが愚か禅信徒の大きな誤りです。 苦の解決の為に仏陀は八正道を説きました。
    最初の正見は正しく物事を見る、自分中心の見方でなく、対象の者の見方も考え、どちらにも偏らない中道の道を歩む。 この見方がありのまま。
    これができないから、身、口、意の三種の教えに背く行為を固定してしまう。 
    早く眼を覚ましてほしい。

    南無妙法蓮華経

  • 禅宗は仏教とは関係ない宗に成ってしまっているようだ。

    雲禅や愚か禅にかぶれている輩は無我という意味を知らなさすぎる。 唯物論の虚無論者そのもの。

    仏法から逸脱した教えで能書きを垂れる輩が後を絶たない。こうもお釈迦様の教えをないがしろにした輩が後を絶たない、禅はただの新興宗教に落ちたと言わざるを得ない。

    後生という未来世の輪廻を認めない教えは仏教から外れる。
    カズマ氏のように、輪廻は現世だけだとか、道元の三時業は公案だとかいって、三世因果業応論をないがしろにしてしまう。 

    https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%BB%B0%BB%FE%B6%C8


    浄土系のブログから

    ●断見を否定し、永遠不滅の生命を説く仏教

    肉体がどんなに変化しても、自分のした行為に責任を持たねばならないのは当然でしょう。
    してみれば、そこには一貫して続いている統一的主体を認めねばなりません。

    仏教では、私たちの行為を業といいます。業は目に見えぬ力となって残り、決して消滅しません。これを業力不滅といいます。そして必ず果報を現します。いわゆる、まかぬタネは生えませんが、まいたタネは必ず生えると教えられます。肉体を入れ替えても、焼いて灰にしても、業不滅なるがゆえに、その業報を受けねばなりません。

    ここに仏教では、死後も存続する不滅の生命を教え、死後(後生)を否定する「無の見」を、「因果応報なるが故に、来世なきに非ず」(阿含経)と排斥しています。

    では後生を説く仏教は、
    死後変わらぬ魂が有るとする「有の見」ではないか、
    と思うかもしれませんが、そうではありません。

    ●諸法無我

    仏教では「無我」と教えられます。固定不変の我というものは本来無い。つまり有の見のような、死んでも変わらぬ魂というものは無いということです。 そしてあらゆるものは因縁所生のものと説かれます。
    因と縁とが結びついて、仮に出来上がっているものということです。

    これを仏教で諸法無我といわれます。“私”“私”と言っていますが、変わらぬ「我」という実体は無いということが、
    無我です。

    南無妙法蓮華経


  • ●仏教は、「此縁性の縁起」の無限展開●

    私にとって、ヤフーの掲示板は、この「仏教って何?」トピから始まって20年近くになる。
    ここに“善財さん”という方もいたが、私も華厳の善財童子のように、多くの師に仕える旅を続け、
    華厳に事事無礙法界にたどり着いて見れば、そこは釈尊の「此縁性に縁起」の展開の果てだった。

    華厳から釈尊に帰り、そして、「此縁性の縁起」の展開に旅は、これから本番を迎える。
    始めと終りの此縁性である。

    「仏教って何?」――それは「此縁性の縁起」の無限展開だった。

    終りから始まる。


  • ●乞食の自覚(釈迦族→出家→乞食→世界人)●

    今朝方、怖い夢を見た。
    親や家族、そして親戚と意見が合わずに私一人だ責められている、孤独のどん底の夢。
    そこに「家を出てゆくしかないよ」という囁きがする。

    その恐怖から解放されたいと一時間ほど止観に入って、「家を出て行くしかないよ」というのは
    釈尊の声だったと気づいた。

    その出家した釈尊は、苦行で人間の限界に達したところスジャータの乳粥の供養を受けて蘇る。

    他の恵みによって生かされているという「乞食の自覚」後の瞑想によって「此縁性の縁起」の
    真理を発見する。

    釈迦族→出家→乞食→世界人

    その「乞食の自己」という「世界人」の自覚において、人々との照らし合いの旅に出られる。
    スジャータの供養からの、単独では生きられない縁起の自己という「乞食の自覚」が
    重要な役割を果たしていた。

    私は、他に縁って生かされている乞食である――「乞食の自己」即「世界人」

    釈尊は乞食であり、私もまた乞食である。そこから、

    「これがあるときかれが成立し、これが生ずればかれが生じ、これがなければかれが成立せず、これ
    が滅すればかれが滅する」

    という此縁性の縁起の自覚に至る。
    恐い夢からそんな自覚をしました。

    釈迦族→出家→乞食→世界人

    個人の執着から世界人へ……共同体感覚の広がりが仏教であった。

  • >>53570

    >浄土宗、浄土真宗における阿弥陀如来、真言宗の大日如来、禅宗の釈迦牟尼仏などがある。
    >日蓮宗も禅宗と同じく、お釈迦様を本尊とするが、禅宗のお釈迦様とは、大きく異なります。

    阿弥陀如来も大日如来も釈迦牟尼仏も宇宙の法則の身体化した法身です。
    で、真言宗や禅の御本尊は、即身成仏・即心是仏の「仏性」「仏心」です。
    「大信心は仏性なり」という真宗の阿弥陀仏もまたしかりでしょう。

    偏見を脱しましょうね。

  • >>53571


    ●三界唯一心と「ひと組みずつ」の無限連鎖●

    トーマス山形さんといえば、この「仏教とは何か?」のトピを立て方もそんな名前だった。
    私の命題は、「何か」ではなく「何を」で、「仏教から何を学ぶか?」であるから、トピ主の主旨とは
    違うのだが、強烈な個性の方々とも出会いジャガイモの皮むきをさせていただき、おかげで私もそれ
    なりに成長できたようだ。

    >ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
    >もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
    >― 車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
    >真理のことば(ダンマパダ1)

    これは『ダンマパダ』の第一章「ひと組ずつ」の一偈で、次の二偈と一組ずつとなる。

    >ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
    >もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
    >―――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

    との「ひと組ずつ」。「汚れた心」と「清らかな心」とのひと組ずつである。
    永らく仏教を学んできてたどり着いたところはこの「ひと組ずつ」の無限連鎖と、
    「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」という三界唯一心である。

    釈尊の直説に近い最古の仏典は『スッタニパータ』と『ダンマパダ』と言われるが、到達点は出発点
    にあった。これも「出発」と「到達」の“ひと組ずつ”である。釈尊が何を悟ったのかという個人的
    な直接経験は知るよしもないが、その後の「此縁性の縁起」の法の発見こそが仏教の出発点であった。

    「これがあるときかれが成立し、これが生ずればかれが生じ、これがなければかれが成立せず、これ
    が滅すればかれが滅する」

    という「かれ」と「これ」との“ひと組ずつ”の縁起である。
    ものごとは、単独では存在できないから諸法は無我であり、相反するものと支え合った存在できる、
    「おかげ様の存在」という「此縁性の縁起」で、それを深めていくところに「善き生き方」がある。

    その「此縁性の縁起」を、長い歴史の中で深めていったのが、重々無尽の「照らし合い」という
    華厳哲学の「事事無礙法界」である。すべての出来事は「ひと組ずつの無限連鎖」で、それぞれが
    数え切れない関係性(縁)によって生かされている。その一組ずつの「此縁性の縁起」を限りなく
    拡大していく只中に「善き生き方」という涅槃が在る。

    仏教という「善き生き方」の到達点は、最古層の経典『ダンマパダ』の「ひと組ずつ」という出発
    点にあり、行くとは帰ることであり、帰ることとは行くこと、という「ひと組ずつ」に真実があった。

  • ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。― 車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
    真理のことば(ダンマパダ1)

  • https://ja.wikipedia.org/wiki/法華曼荼羅

    信仰する者が礼拝する対象の中心として、お寺の本堂正面や、家庭の仏壇の上段中央に祀られる仏様を本尊徒言います。浄土宗、浄土真宗における阿弥陀如来、真言宗の大日如来、禅宗の釈迦牟尼仏などがある。
    日蓮宗も禅宗と同じく、お釈迦様を本尊とするが、禅宗のお釈迦様とは、大きく異なります。
    禅宗のお釈迦様は如来寿量品が示される前のお釈迦様ですが、日蓮宗では、如来寿量品で明かされた、本仏としてのお釈迦様、つまり、時間的にも空間的にも、過去にも未来にも永遠で大宇宙に広がった無限大のお釈迦様。
    宇宙大のお釈迦様を木像などで表現することは不可能であり、紙面に図示することも不可能です。それを日蓮聖人は南無妙法蓮華経のお題目を中心として、その周囲に仏様や菩薩、善神など十界それぞれの代表者の名称が記され現わしています。
    慈悲を以て、一切を包み入れる事で、宇宙と一体になっておられる、お釈迦様の生命を紙面二現わしたものが、大曼荼羅本尊です。  法華経本門における、救済の世界、お釈迦様の救済の世界を現わしている。 紙面は小さくても、真の大きさは無限大です。
    題目の五字はお釈迦様のすべて、 題目の五字はお釈迦様の御魂であり御生命です。  宇宙大に広がったお釈迦様の姿は、「妙法蓮華経」の姿そのものです。  この事は大曼荼羅の中央が「南無妙法蓮華経」になっていることに関わります。

    南無妙法蓮華経

  • >>53565

    >簡単に教えるぞ  笑

      末法無戒  仏のことば

      現実を観よ !


    どこに 真実の教えは あるのかな ?

    さんこうくん 応えて <



    法華経の浄土と念仏の西方浄土の違いでしょうね。
    法華経には「私(お釈迦様)は常にこの娑婆世界に在って法(教え)を説き衆生を導いている」と記されている。
    お釈迦様は無限の過去より無限の未来にわたり、常にこの娑婆世界で法(教え)を説いておられる。 つまりこの娑婆世界は元々法華経が説かれている場所、即ち霊山浄土です。

    浄土宗や浄土真宗は、この娑婆世界を捨てて極楽浄土に往生して生まれ変わる事をひたすら願う。
    この汚れた娑婆世界をを厭い娑婆世界から離れる事を願わなければならない。 徹底して娑婆世界を嫌い、徹底して、娑婆世界からの脱出を願う教え。

    これに対して日蓮聖人は法華経の教えを実践している者の住処は浄土であると思いなさい。なぜわざわざ他所に浄土をもとめようとするのでしょうか、

    一念三千は法華経における、重要な教えの一つです。 その一念三千が教えるものは、知恩報恩。法華経特有の教理である開会も一切に対する感謝が基本です。

    私達はこの娑婆世界に生じて以来、この世界で多くの人の世話になり、世界の多くの動植物によって、命を育まれ大地の野や山、川、海などの恩恵受けつつ生きてきました。

    この娑婆世界から逃れようとする行為は、お世話になっている世界からの〝食い逃げ〝であり、法華経の教えに反する者です。

    皆で努力しあい、世話になっている娑婆世界を理想の社会にしようというにが、法華経日蓮聖人の教です。


    地球は常に自転している、従って西方浄土の西方はその方向が常に変化している。 この問題をどのように考えればよいか?  この問題の解決は法華経の如来寿量品によって、解決する。 寿量品によれば、宇宙全体がお釈迦様の生命であり、宇宙全体が浄土です。
    法華経以前の経で示された、十方の浄土と法華経の迹門で示された十方の浄土とは、如来寿量品が説かれた事により、悉く仮の国土と化した。

    一乗戒

    南無妙法蓮華経

  • >>53566

    >過去につくった 業により 今があり   ヒント

    六道輪廻を絶つことができたのは仏陀ひとりかね。笑

  • 鈍いからなあ

    なになに せよで   全員可能かなーー



    とにかく 鈍い    こころのありよう  これ仏教


    以上だ




    過去につくった 業により 今があり   ヒント

  • <<
  • 53587 53566
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順