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仏教って何?

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  • 2018/09/26 17:32
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     仏教って何でしょう?哲学?宗教?
    経典も宗派も部派も多すぎて何がなんだか。
    仏教にいて、総合的に会話しましょう。

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    san***** 9月26日 17:32

    ● 宮仕えを法華経とおぼしめせ ●

    四條金吾は法華の信者さんでしたが、この方は薬師としても、精通していたが、 念仏信者である主君の江間氏によって、金吾は、冷遇され左遷され領地を減らされてしまう。 そのようなときに宮仕えを法華経とおぼしめせと言われた手紙で、不平不満を言わず、勤めを正しくしていれば、春のこない冬は無いと励まされたのでしょう。
    主君の江間氏は、病気になってしまい、そこで金吾は薬をつくり、病気は治った。  江間氏はここで前よりも大きな領地を金吾に与えた。

    諸法実相ですから、自分の思い通りに事が運ぶわけではありません。 苦しいから辛いからと逃げても、幸せはつかめるかどうかは、わからない。 現実の今を正法を受持してゆけば、必ず春は来る。

    南無妙法蓮華経

  • ● 釈尊の真意は法華経にある ●

    釈尊は「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」とし、仏教経典の中で法華経こそが最高の無上道の教えであると明言されている。

    法華経という経は、 お釈迦様は、菩提樹の下ではじめて、さとりを開いたのではなく、実は久遠(無限)の過去からさまざまな姿に身を変えてこの世に現れ、人々に仏の教えを説き、導いてきたことを明らかにしている経です。

    徳が備わらない人々に、仏にめぐりあえることの尊さを教えるために、お釈迦様は入滅したのだが、入滅は教えを説くための方便であって、お釈迦様は、いつでも何度でもこの世に現れて教えを説き、無限に庶民を救い続けます。これが寿量品です。
    さらに神力品では他土の菩薩ではなく、 娑婆世界に生じてきた地湧の菩薩(私達)に対して、特別な付属をします。
    「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」と示し、仏が具えるあらゆる功徳は、すべて法華経に説き尽くされていることを教えています。

    天台大師は五重玄義から、
    釈名 題名の解釈
    弁体 題名に現された本質を明確にする
    明宗 教えの修行宗旨を明らかにする
    論用 教えのはたらきを論ずる
    判教 仏教全体中で経の教えが占める位置を定める とし 名体宗用教を [妙法蓮華経]として、天台宗では、妙法蓮華経に南無する人もいたが、ほとんどが自行の為のお題目だった、 日蓮の場合は自行だけでなく、他を利する化他のお題目になる。

    道元禅師が死ぬ間際に自室に妙法蓮華庵と張り紙をし、お釈迦様はここに居られたとし、神力品を唱えて亡くなられたという。内に秘めた法華の人。 人々の救済のために命がけで布教された日蓮と違うが、やはり法華の人であったのは、間違いない。  死ねば何もないというのは、仏教では断見とする。

    命に合掌

  • >>53459

    雲禅、とり禅、愚か禅のアホ禅は時間も何もかも無いとしてしまう、仏法ではなく、外道、マヌケ禅そのもの。  現在の一瞬の時間に過去からの全宇宙の生命や働きの存在が宿っていて、自身が生かされている事実だという事を知る。 現在自分が身に着けている洋服のボタンひとつとっても、このボタンはアフリカの人たちが造ったかもしれません。 大自然の物質や動植物、過去の多くの先人たち、そして電気をつくる人、電気を安定的に管理する人、石油を運ぶ人、配達をする人、シャツにボタンを縫い付ける人、商品を販売する人、管理する人。目に見えない多くの大自然や動植物先人たちや現在の多くの人たちの存在のお蔭てボタン一個の恩恵にあずかっている。おしゃれなボタンは全ての存在のお蔭で着飾っている、だから、仏教ではお蔭様という陰の力に、感謝です。 何もかも無いではない何もかも、自分以外のもののお蔭で生かされている、大事な生命だと知りなさい。

    南無妙法蓮華経

  • 時間の感覚は人によって違う。  自分が勝手に時間を創造しなくても、周囲を観れば、生死は誰もが理解する。  形あるものは、必ず滅する。
    それぞれ時間や空間の感じ方が違うだけであって、自分が時間をつくってしまわなくても、 周囲を観察すれば、過去から現在、未来へと時は流れる。何かに熱中しているときは、もうこんなに、時が経ったかと思う。  現在の一瞬の時に、過去や空間をこえて、全ての存在の有を知った。

    天台大師智顗は、この法華経方便品の十如是を基として、十界互員・百界干如・一念三千の教理を立て、これを究極の説とした。  道元は天台大師が説かれた時間や空間を自己に重ねたのだろう。 過去から未来につづくすべての存在が一瞬の今に現生している。

    日蓮聖人は、一念三千の意味は法華経本門の如来寿量品によって初めて明らかになると説く。本門寿量品において、釈尊は歴史上実在した仏であるだけでなく、久遠の生命をもつ仏であり、久遠の過去から救済活動をしていたことが明らかにされた。すなわち、仏の加護は永遠に働きつづけており、これによって真の成仏が可能となると示し、これを本門の一念三千とした。

     そして、本仏釈尊の久遠以来から、衆生救済の菩薩行とその功徳とは、本門の教法である妙法五字(妙法蓮華経)という題目にそなわっているから、われら凡夫は妙法五字を受持することによって、釈尊の因果(いんが)の功徳(くどく)を自然に受得(じゅとく)すると説く。すなわち、本門の一念三千の修行とは南無妙法蓮華経と唱えることであり、唱題によって釈尊の救済の世界につつみこまれ、成仏が実現するとしたのである。

     日蓮聖人は、天台智顗(てんだいちぎ)の、『理の一念三千』の観法(かんぽう)の実践を、信を媒介として妙法五字の受持唱題という信心行にしぼり、これを本門事の一念三千とし、末法の行法としたのである。

    南無妙法蓮華経

  • この国は少子化によて、極体に子供の数が減っているのに、現在では親から虐待をうけたり、捨てられたりする子供が逆に増えて4万人以上いて、里親を待っている。 子供が欲しくてもできない、こういう方々は、ぜひ里親になってほしい。  社会全体で子供を育てる。

    里親になっても、そこで、又捨てられる子供がたくさんいると言われる。 子供は仏様からの未来の預かりの子として見守って頂きたい。

     外国ではキリスト教の影響からだと思うがブラッドビットやマイケルジャクソンが多くの子供たちを引き取る事が当たり前になっている。  儒教の悪い影響があり、子供を使用人というような考えの人もいる。 孤児院で育っても、携帯電話を手に入れるのは、保証人がいる。 この国はこうした問題を根本から見直す、仏教は生きている人の為に有らねばならない。 ジジババだから、里親にはなれないが、こうした子供たちにたまに食事ぐらい誘ってあげたい。

    南無妙法蓮華経

  • 命を賭けて法華経を広めた日蓮は日本第一の法華経の行者也。
    日蓮が弟で子檀那等の中に日蓮より後に来り給い候わば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮房が弟子檀那なりと名乗って通り給うべし。
    此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては燈となり、霊山へ参る橋也。
    霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給え、必ず待ち奉るべく候う。


    人生最後を迎える時、最も不安なのは「死後自分はどうなるのか」という事はとても大事な覚悟です。
    日蓮聖人が、このようにはっきり明確に行き先が示されたなら、私達は安心した大きな安らぎが得られることでしょう。 そのためには日々の信心が肝心です。 身に心に大いにお題目を唱える。  道元禅師は死の直前にお釈迦様はここにおられたとし、自室に妙法蓮華庵と張り紙をされた。 

    親鸞聖人は法然聖人を信じるがゆえに、阿弥陀如来を信じた。  法然に騙されて地獄に落ちても自分は後悔しないと。  法然が正法である法華経を観るな、閉じろとされ、それが、法華経への謗法ならば、やはり、念仏の人は、この娑婆世界でしっかり他力で救われるなんて言っていないで、まずは浄土経典通り、この娑婆世界で仏陀の教え通り修業する。 そうすれば、必ず。本師、釈迦牟尼仏が、道を開いてくれる。

    南無妙法蓮華経

  • 諸法実相だから、いくら賢者であろうとも、肉体を以ている身だから、自分の思うようにはいかなく、苦は免れない
    日蓮聖人が信者さんにあてた、教えです。

    一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文・あに自受法楽にあらずや、衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり、ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ、恐恐謹言。

    法華経に入るまでは、この娑婆世界は穢土として言われていたが、久遠からの仏様のおられる常寂光土であると説かれる。 御仏と共に歩む人は自受法楽。  高い山は登るには苦しいが、到達した喜びはつらく、厳しい山だからこそ、さらに喜びが大きい。

    南無妙法蓮華経


  • ②道元禅師は『正法眼蔵』「阿羅漢」巻の冒頭で、『妙法蓮華経』「序品」を引用しながら、次のように示される。
    諸漏已に尽き、復た煩悩無く、己利を逮得し、諸の有結を尽くして、心自在を得たり。これ大阿羅漢なり、学仏者の極果なり。第四果となづく、仏阿羅漢あり。

    特に、「仏阿羅漢」の記述については、本来阿羅漢が仏の別称であったことを存知していた道元禅師が、改めて、大乗仏教に於いて低く見られがちな阿羅漢の復権を図ったものとして、評価すべきであるが、その見解を『妙法蓮華経』の経文(「序品」「方便品」「信解品」)を引用して提唱しながら構築していることに、同巻の特色がある。


    禅寺には五百羅漢を安置している古寺も多い。 一つ一つの表情が違うところが、面白く、仏法に通じる。

    南無妙法蓮華経

  • 禅と法華経

    法華経薬草喩品に
    「一味の雨を以って人華を潤し各々実を成ずることを得せしむ」 と説かれていますが、天から雨が降ればどんな木でも草でも潤うように、お釈迦様のお悟りである法華経から一切の仏法は出たのです。
    木や草にも大きい木とか小さい草とかがあって、たくさん雨をうけたり、少ししか受けなかったりするのは、それは草木の方についていうことであり、仏様の雨の方に於いては平等にして一切差別なく与えれたものであります。
    このように釈尊の教えは法華経によって統一されています。それはあたかも、すべての川が大海に流れ込んでいるようなものです。
    そうした眼で原始仏典やその他の大乗仏典を読むときには、すべてが一つの悟りに導かれるためのものであったことが悟られるはずです。

    法華経については道元禅師も遷化される庵を「妙法蓮華経庵」と名付けられましたし、ご著書の「正法眼蔵」は法華経の解説書です。臨済宗中興の白隠禅師も法華経によって大悟されました。また、良寛様もいつも無一物の庵でも法華経は常に読まれて法華経に関する詩を多数遺されています。
    有名な行基菩薩も中国から鑑真和尚が来日されたときに、船までお出迎えされ、
    「霊山の釈迦のみもとに誓いてし真如つきせじあいみつるかな」
    と歌われています。この意味は、あなた様とわたくしは昔釈尊ご在世の時に、霊山会上において法華経のご説法を一緒に聴聞し、未来永劫お互いに仏法のために働きましょうと誓いあいましたが、その因縁が尽きないで今日ここにお会いできて、まことに嬉しいとのことです。非常に感動的なエピソードです。

    法華経は、本来言葉では言い表せない悟りとはいかなるものであるかを巧みな譬え話を用いながら壮大なスケールで説き明かします。その中でも上記の妙法蓮華経如来寿量品第十六が法華経の最大のテーマの部分になります。
    いままで人間として生まれられたお釈迦様が悟りを開かれて仏になったと思っていたのが、実は久遠実成の釈迦牟尼佛であったといわれるのです。つまりもともと永遠の仏であるといわれたのです。そして、我々も釈尊と同じ仏性(仏としての本性)をもっており、衆生も本来悟っている仏であるといわれます。一般的にいうと、釈尊も我々も大いなるもの、宇宙のもともとの実在の絶対者(慈悲の当体である神的な存在)と本来同じということです。

    南無妙法蓮華経

  • 「法華経 従地涌出品 第十五」で、他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまってこの法華経を広めたいと申し出たのを、きっぱりとお釈迦さまは、お断りになったとたん、突然地面の中から涌き出した四大菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)等は、どのような意味があるのか?

    実は、この四大菩薩は、菩薩としての四つの大誓願を代表しておられるのです。これを四弘誓願といいます。
    安立行(衆生無辺誓願度)- 衆生の数は無辺であろうとも、すべてもれなくお救いしようという誓願。
    浄行(煩悩無数誓願断)- 煩悩の数は無数であろうとも、かならずすべてを断ち切ろうという誓願。
    無辺行(法門無尽誓願学)- 仏の教えは無尽であろうとも、かならず学びつくそうという誓願。
    上行(仏道無上誓願成) - 仏の道は無上であろうとも、かならず成就しようという誓願。

    ● 娑婆世界の地から涌き出したということは、娑婆世界の住民であるわれわれが、自らこの世界を法華経(正しい教え)によって、平和をつくりださねばならない、という力強い意味があります。

    また、菩薩の名前に「行」が付いているのは、まさに「この世界を法華経(正しい教え)によって平和を作りださねばならない」という「行」そのものなのです。そして、その「行」は、四弘誓願の実践です。

    南無妙法蓮華経

  • >>53446

    >天台本覚論の毒が阿羅漢果であるともいえます。
    そして、それは仏果とは違うと道元は言う。
    それを仏果と思い上がると、阿鼻地獄に落ちるとも獅子吼します。


    日蓮聖人の教えは天台本覚論ではない。 もちろん法華経は諸経の王と言われる無上道の教えです。

    法師品にも、法華経を信受修行する者を讃えて、
    「是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり。」 また、
    「此の人は是れ大菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を成就して、衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。何に況んや、尽くして能く受持し種々に供養せん者をや。・・・若し是の善男子・善女人、我が滅度の後、能く窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや大衆の中に於て広く人の為に説かんをや。」
    とも讃えていますが、あくまで法華経を如説修行する者を称賛している文です。

    修行を歴なくともそのままで「誰も彼もが仏だよ」などと云う中古天台本覚法門の亜流の当体全是の思想などは脱線仏教そのものの思想です。

     俺たちは本来仏だというのは、少し危ない。本来仏だというのなら、仏のように、坐していなくても、生活空間の中で実践しなければね。 怒りや恨み、邪淫や愚痴の心など起こすのは、いまだ仏法を知らず。

     説の如く修行しないとね。 やはり、お釈迦様の使い如来使として、この娑婆世界で実践しなければ、何もならない。  自分だけが悟って、まだ多くの迷いの者がいるのに、法を説かない、 こうした教えを小さな乗り物としたのでしょう、  如説修行

    南無妙法蓮華経

  • >時は、めぐっていく、
    今日から明日へ・・・・これはわかります
    今日から昨日へ・・・・これ変です
    昨日から今日へ・・・・これはわかります
    今日より今日へ・・・・ちょっと変です
    明日より明日へ・・・・ちょっと変です

    道元禅師のわざとらしい表現ですが
    ・・・・善意で、悪意からではないんですが・・・・
    今日から昨日へ、といっても、
    いずれにせよ即今しかないですから、
    なんといってもいいんです。

    わざとらしいとは、思わない、心の経歴だから、ちっとも、おかしくもない。人の心は無常 即今といっても、過去の業は無くならない、業を背負って自身が後世に報いを受ける。

    南無妙法蓮華経

  • >さて、「四禅比丘」は、日蓮宗の「折伏教本」にあるようで、「禅天魔」の禅批判に「四禅比丘」を利用して
    いるようなんので、簡易に、石井恭二『現代文訳・正法眼蔵5』273~274を引用したまでのことです。

    日蓮宗には折伏経典なるものは何も無いよ。 日蓮正宗や創価学会にはある。  私は日蓮聖人の教えを踏襲する法華の行者ですから、四禅比丘の二乗も菩薩の三乗も差別はしない。法華一乗への信がおこれば、一気に無上道に至る。

    道元は、間違いなく、経典から外れた教えを用いてはならない。 土着信仰だった、中国禅を権威有る様に見せかける為、、釈尊が睡蓮の花を拈って迦葉尊者が一人微笑んだという、話を創作した禅師等を批判している。

    三経一致についても、道元は「諸法実相」巻と同じく批判されており、インドで生まれた釈尊と中国思想の違いを主眼にしているが、儒教などは内容的に孔子や老子が仏教に遠く及ばないこと、そして、最終的に道元禅師は出家をしていない荘子や老子を大事な説だと主張すること自体間違いだとする。  このような迷いの輪廻からの解脱をとかない、儒教や現生利益の道教と、仏教は違うとはっきりしている。

    南無妙法蓮華経

  • >>53447

    「近来大宋国に禅師と称するともからおほし。仏法の縱横をしらず。
    見聞いとすくなし。わづかに臨済・雲門の両三語を諳誦して
    仏法の全道とおもへり。[中略]かれらおのれか愚鈍にして仏経のこころ
    あきらめがたきをもて、みだりに仏経を謗す。さしおきて修習せず。
    外道の流類といひぬへし。仏祖の兒孫にあらず。」
    (『正法眼蔵』「見仏」巻)

    道元は、教外別伝・不立文字を極端に解釈して経典を無用視した人々は仏教を謗す。
    このような、禅は外道だと言われている。 いうなれば、魔の眷族。

    これは日蓮が禅天魔と言われた事と、道元が言う事は、同じだと解釈をする。

    南無妙法蓮華経

  • >>53446

    >SANさん、率直な感想ですが、SANさんのレスを拝見していますと、創価学会の「折伏教本」
    たるものが思い出されます。
    正法眼蔵「四禅比丘」を拝読して、その「折伏教本」こそが、道元のいう阿羅漢果で仏果では
    ないと気づきました。
    阿羅漢果に、天眼通・宿命通、漏盡通の三明があります。蒙古襲来を予言とされることが天眼通
    ということで、阿羅漢果になってしまったのでしょうか。
    SANさんのしていることは、ただ「折伏教本」のようなものにあることを実行しようとしている
    だけです。<


    カズマは道元の記した文章すら素直に読むことがでなきない。  このような読み方では学会にもバカにされるだろうね。  悪口ばかりで、逃げないで、しっかり読めよ。

    【仏法、いまだその要、見性にあらず。西天二十八祖・七仏、いづれの処にか仏法の、ただ見性のみなりとある。六祖壇経に、見性の言あり、かの書、これ偽書なり、附法蔵の書にあらず、曹渓の言句にあらず。仏祖の児孫、またく依用せざる書なり。正受・智円、いまだ仏法の一隅をしらざるによりて、一鼎三足の邪計をなす。 「四禅比丘」巻】

    六祖壇経に、見性の言あり、かの書、これ偽書なりと言われていることが、アホ禅の信者は、見る事も知ろうとする意志もない。(笑う
    小乗仏教の 拈華微笑という、釈尊が睡蓮の花を拈って迦葉尊者が一人微笑んだというような話は偽書だと道元ははっきり言われている。  そのうえ、一鼎三足の邪計をなすとは、儒教と仏教と道教の一致の見性の話は作り話と言われている。 迦葉尊者は小乗だから、瞑想はしても、坐禅はない。

    南無妙法蓮華経

  • >>53445


    ●折伏教本●

    SANさん、率直な感想ですが、SANさんのレスを拝見していますと、創価学会の「折伏教本」
    たるものが思い出されます。
    正法眼蔵「四禅比丘」を拝読して、その「折伏教本」こそが、道元のいう阿羅漢果で仏果では
    ないと気づきました。
    阿羅漢果に、天眼通・宿命通、漏盡通の三明があります。蒙古襲来を予言とされることが天眼通
    ということで、阿羅漢果になってしまったのでしょうか。
    SANさんのしていることは、ただ「折伏教本」のようなものにあることを実行しようとしている
    だけです。

    天台本覚論の毒が阿羅漢果であるともいえます。
    そして、それは仏果とは違うと道元は言う。
    それを仏果と思い上がると、阿鼻地獄に落ちるとも獅子吼します。

    このままで行くと、SANさんは臨終時(中有)に阿鼻地獄に落ちることは必然のようです。
    否、「折伏教本」のようなものを乱用するSANさんが、現在、地獄に落ちているようです。

    私は、地獄に落ちること覚悟で、執金剛神に身を落とし、捨身行としてレスをしていますが、
    お互い気をつけたいものです。

  • >>53444

    > 自分という、体も心もまったくないのに、

    空をしらない、アホ坊主は、体も心もないと決めつける。 身体も心も五蘊和合だが、心意識はある。  だからこそ、善悪を感じたり、心のままに、動かされ、盗みをしたり、邪淫をおこなったり、怒りや、怨みを抱く。心を清浄に整えろとするのが、お釈迦様の教え。 不変なアートマンは非我として否定しただけ。 霊魂自体はお釈迦様は議論をしても、無意味として、無記としたが、弟子達には業応報論を説いた。

    自身に具わる、心意識が未熟だからという事を理解しない。 手足が悪いから、盗みをするわけではない、心が悪いから盗みをする。  道元の上を行くような、僧が一人も出てこない禅は、仏法破壊者として、五逆罪の罪に後生も赴く。 このような、事をいう、アホ僧にそそのかされて、大事な一生を食い物にされないようになりたいものだ、

    『感興のことば』
    「生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。」

    心はつかみどころがないというだけで、無いわけではない、悪しければ、怒りや、貪り愚痴、邪淫や恨みが心意識に焼き付かれる。 今世の生有が終わって、後生の死有が舞っている。 仏教では今世が終わったら、何もかもないなんて言う教えは断見とする。 華厳経や、涅槃経では、自身の心を拠り所にするな。仏様の心をよりどころにして歩めとする。  輪廻がないなどというのは、当然、浄土もない。神も仏もない、無い無い 外道。

    南無妙法蓮華経

  • >>53443

    ●四禅比丘――阿羅漢果(四果)は仏果ではない●

    大乗仏教はその上を行くからね。 それでも、自らの煩悩を完全に消滅できるのなら、それはそれでよい事だと思うがね。  

    「釈尊からの正法」だとしてきた、中国禅宗を偽書によるものと、道元は批判している。 臨済禅師批判みたいだね。 ♪

    ようするに、道元は「中国に唐の時代に興った禅宗は、中国の土着の思想が仏教の仮面をかぶったものである。」という解釈。

    「道元の仏教」は、「釈尊の仏教」「龍樹菩薩の仏教」に連なるものだと思うね。 だから日蓮は当時の鎌倉の建長寺の僧侶を禅天魔と批判したが、道元に関する批判は一つもない。 

    カズマは無我だから、自己なんかはないという、アホ禅の虚無論者そのものだよ。 無我だから我はないというような輩は道元の三時業の基本的な教えにも背く。 道元は、経典からの釈尊の言葉を自分の言葉に変えて示したのが正法眼蔵だと思うね。

    菩薩道を行じるという事は、自己が有るからだよ。 その善悪の行為により、死後はそれぞれの界に赴く。

    南無妙法蓮華経


  • ●四禅比丘――阿羅漢果(四果)は仏果ではない●

    小乗仏教では、釈尊を神格化したために、仏弟子は、釈尊の仏果を得ることできず、阿羅漢止まり
    であるとした。だから、そもそも阿羅漢果と仏果は異なるのだが、中国の宋時代、阿羅漢果が仏果
    であり仏であるとして、中途半端な禅定で、仏果を得たと精進を怠る者が多かったようである。
    そこを道元は叱り、仏を誹る者であり阿鼻地獄に落ちるとまで言い放つ。これも慈悲からである。

    では、道元の仏果と何か?
    言わずと知れた「修証一等」である。
    坐禅の只中、修行の只中に仏果を証するということである。

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