ここから本文です

仏教って何?

  • 53,352
  • 0
  • 2018/06/17 22:40
  • rss
  • 1

    *****

     仏教って何でしょう?哲学?宗教?
    経典も宗派も部派も多すぎて何がなんだか。
    仏教にいて、総合的に会話しましょう。

  • <<
  • 53352 53333
  • >>
  • 53352(最新)

    san***** 6月17日 22:40

    >>53351


    第五識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識など人間の五官の働き
    第六識:意識、第六感、知性・理性が形成する意識
    第七識:未那識(マナ識)無意識・思考では調整出来ない奥底の心の働き
    第八識:阿騾頼耶識(アラヤ識)生死を超えた三世に渡る業で形成された識
    第九識:阿摩羅識(根本常識)九識心王真如の都、法性清浄心

    禅宗の人が、第七識 無意識・思考では調整出来ない奥底の心の働きが、どうのこうので、やるが、その先には阿騾頼耶識、そして、仏性、如来蔵、仏種の第九識:阿摩羅識(根本常識)九識心王真如の都、悪に染まらない法性清浄心は、仏様の心、生命そのもですから、 無ではなく、有でしょう。 だから衆生には仏性が具わっているとされた。 自身の心に仏界が開かれれば、このしゃばせかいも、虚空も素直にみる事ができる。

    悪に染まらない法性清浄心(清浄魂)に無始以来多くの業罪が、焼きつき、 ゆがんだものになって、生じてきた。
    この娑婆世界は、焼け付いた業罪を修めるための道場であり、修業の場でもある。
    悪の行いをしない,光輝く珠になるよう、業を修める、ありがたい道場でもあります。修業ですから、辛く、厳しい事もあるでしょう。 因果応報の理。 辛くても、悪に打ち勝つ事で、ゆがんだ珠が磨かれる。今世でさらに悪業を重ねれば、行き先は闇の三悪道の世界に赴く。
    唯識教義から離れられないカズマ氏は、かわいそうだけれども、素直でないから、清浄魂には至れない。

    南無妙法蓮華経

  • >>53350

    法相宗では、八つの識が心王とされ八識心王といわれる。これに対して天台宗などでは第9識が生命の働きの中心であるので心王といい、仏の覚りの真実である真如と一体であるので九識心王真如という。第9識は真如を覚った仏の境涯の識であることから、天台大師智顗は『金光明経玄義』巻上で仏識と位置づけている。この第9識は、万物を貫く本性である覚りの法性が現れた覚りの境地そのものであり、法性と第9識は一体であるので、九識法性という。また第9識は、衆生の生命に本来的にそなわる覚りである本覚と一体であるので、九識本覚ともいう。


    禅宗が俺たちは元々悟っている仏だというのは、九識本覚に由来するのだろう。  日蓮聖人は釈尊の悟りの法を、妙法蓮華経の五字とし仏種である九織心王の都を絶対清浄心とされた。 お釈迦様の心魂、一切三世諸仏の眼目を妙法蓮華経の五字にあてた。 自身に内在する心意識(魂)妙法蓮華経の五字に南無することで、自己に内在する仏界が内面から開かれ自然と授かる、事の一念三千の法門を打ち出した。

    (法華初心成仏抄)
    凡そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解りの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。
      故に一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神、乃至、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を、唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。
      譬へば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。
      されば「若し暫くも持つ者は、我則ち歓喜す、諸仏も亦然なり」と説き給ふは此の心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云ふは是れなり。
      是等の趣能く能く心得て、仏になる道には我慢偏執の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。


  •  この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、だれもこれに代わるものはない。まことに因果応報の道理は必然である。悪い行いをすれば罪はそのものにつきしたがい、決して捨て去ることはできない。善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、そして悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。この道理はだれも知るものがなく、ただ仏だけが知っている。そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているのであるが、信じるものは少ない。それでいつまでも生れ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである。このような世間の人々のありさまは、そのすべてを述べ尽くすことなどとてもできない。

     このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に焼かれるようである。

     もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第五の大善というのである

    他力も自力もない、善因善果、悪の行為は悪の応報  善の行為は善の応報

    南無妙法蓮華経

  • >>53348

    第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。

    このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。自身は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである。

     このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。だから、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、しばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきりとなり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。そうして寿命が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に集まってきて、その人とともに次の世に至る。また天の神がその行いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ行くのである。罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛み苦しむことになる。そのときになってどのように後悔しても、もはや取り返しはつかない。まことに因果の道理は必然であって、少しのくい違いもないのである。

     このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第四の大悪、第四の痛、第四の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

     もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第四の大善というのである 」

    親鸞の他力信心を信じていても、地獄行き。

    南無妙法蓮華経

  • >>53346

    「 第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。

     そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。

     このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

     もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである 」

  • >>53346

    「 第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道義をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺き惑わしあっている。言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。

    世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道理に背いたことばかりをするのである。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。

     この世には現に法令に定められた牢獄があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。前世においてさとりの徳を信じず、功徳を積まずに、この世でまた悪を犯すなら、天の神がその罪を漏らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。

     このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを、第二の大悪、第二の痛、第二の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

     もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第二の大善というのである 」

    いくら、阿弥陀浄土をしんじていても、悪の行為をするものは、地獄、餓鬼、畜生の世界。

    南無妙法蓮華経

  • >>53345

      無量寿経

    善い行いをすることを知らず、五逆十悪の罪を犯して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない。それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、身心の不自由なものや、才知の劣ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。また身分の高いものや、裕福なものや、才知のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈しみ、親に孝行を尽すというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。

     世の中には法令に定められた牢獄があるのに、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのような苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。

     このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであってそのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてたとえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した罪が消えない限り、互いに離れることができない。こうして地獄や餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。世の中にはこのような因果の道理がある。たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛、第一の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

     もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければその人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第一の大善というのである」

    他力では救われない

    南無妙法蓮華経

  • >>53344

    いくらあなたがそっとしておきたいといわれても、阿弥陀仏は久遠実成教主釈尊の教えを分身諸仏で私たちの世界の仏ではない。  浄土教やを信じるのはよいが、他力で救われるなんていって、自分を整えようとしない、この娑婆世界は空だけれど、しっかり修行しなさいと、お釈迦様は言われているよね。

      「 そのとき世自在王仏は法蔵菩薩に対して、< どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう >といわれた。すると法蔵菩薩は、< いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います >と申しあげた。

     そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、

    そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。

    そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」

       「 その仏の寿命は、四十二劫であった。さて法蔵菩薩は、こうして二百一十億のさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修めた清らかな行を選び取ったのである。このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王仏のおそばへ行き、仏足をおしいただいて、三度その仏のまわりをめぐり、合掌してひざまずき、<世尊、わたしはすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び取りました>と申しあげた。

    仏を目指すなら、自身が、法蔵菩薩のように清らかな行をしなければ、ならない。 その仏の寿命は、四十二劫なら確かに我々には想像もできない生命だが、阿弥陀仏には始まりが有る。という事は、終わりがあるという事。 

    南無妙法蓮華経

  • >>53342


    ●寿量品「無量寿・無量光の仏」を信解して●

    >三世諸仏も久遠実成の教主釈尊の妙法蓮華の教えを踏襲して仏陀になったのですね。仏法僧の信仰です。
    >阿弥陀仏の浄土は寂光土ではありません。 

    類似性はありますが、同じではありませんね。
    「仏法僧の信仰」も素晴らしいですが、上座部、大乗、一乗とではそれぞれ解釈が違うようです。

    上座部の仏――歴史上の釈尊。
    大乗の仏―――三世十方多仏。
    一乗の仏―――常住の大悲

    寿量品の「自我偈」に次のようにあります。

    「我が智力はかくの如し、慧光の照らすこと無量にして、寿命の無数劫なるは、久しく業を修して得たり」

    その仏は、「無量寿・無量光の仏」とありまして、「無量寿仏」「無量光仏」という阿弥陀仏に類似します。
    そうしますと、直接経験から、一乗の仏というのは「常住の大悲」と自覚しています。

    帰命する仏にもいろいろありますが、同じとは言えないけれど似ていますね。
    似ているままに、そっとしたいですね。

  • >>53342

    浄土は、穢土(えど)に対する土です。浄土という言葉は、よく阿弥陀如来のまします西方極楽浄土や薬師如来まします東方浄瑠璃浄土と言うように使われます。浄土には誰がいるのかといえば、往生した人々を始め、天女たる神々、歴史上の釈尊のお弟子である阿羅漢、釈尊より前に一人で悟りを開いた縁覚(えんがく)達、菩薩達、如来です。如来は各浄土に一人です。次に穢土は、よごれた世界、汚い世界という意味ですからこの娑婆世界です。そこには、浄土の世界に棲む四聖と人天プラス地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界の輩がいるのです。

     しかし、この浄土も穢土もともに仏だけの世界ではありません。ですから、その世界を1.凡聖同居土(ぼんしょうどうごど・略して同居土という)といいます。仏だけの世界までに、実はまだ二つの浄土があるのです。凡聖同居土のうえに、二乗(阿羅漢と縁覚のことをいいます)と菩薩達だけいる2.方便有余土(ほうべんうよど・略して方便土)。その上の浄土は、3.実報無障碍土(じっぽうむしょうげど・略して実報土)といい、菩薩達だけいます。

    そして一番上の浄土は、諸仏のみがまします4.常寂光土(じょうじゃっこうど・略して寂光土)です。いろいろな経典に説かれた浄土は、1~3の浄土にすぎないのです。法華経で説かれる浄土とはこの常寂光土をいうのです。その常寂光土も説かれた浄土というように思われがちですが、上行菩薩の応現である日蓮聖人によって、久遠本仏の実在は証明された。そしてそれを信じる者にとって、この娑婆世界が即常寂光土になったのです。それを霊山浄土という。 法華経からは十方諸仏は久遠実成の釈迦如来の分身諸仏です。 

    南無妙法蓮華経

  • >>53341

    >釈尊の教えではなく、日蓮聖人と祖師信仰ですか。
    大乗の仏は、三世十方多仏説ですから、貴兄が幸せであればそれでいのかも知れません。

    真っ直ぐにご精進あれ。 <

    三世諸仏も久遠実成の教主釈尊の妙法蓮華の教えを踏襲して仏陀になったのですね。  仏法僧の信仰です。
    阿弥陀仏の浄土は寂光土ではありません。 

    南無妙法蓮華経

  • >>53340

    >日蓮聖人の教えです。

    釈尊の教えではなく、日蓮聖人と祖師信仰ですか。
    大乗の仏は、三世十方多仏説ですから、貴兄が幸せであればそれでいのかも知れません。

    真っ直ぐにご精進あれ。

  • >>53339

    >>53338


    >他の悲しみは如来一人の悲しみとされた、お釈迦様の心をわが心として、自行だけでなく、
    >利他行をこの娑婆世界で実践する。 悲しみ、苦しんでいるものには、背中を支えてあげる。
    >他の喜びは良かったねと共に喜んであげる。

    凄いですね。
    頑張ってください。

    **********

    日蓮聖人の教えです。 教えです。お釈迦様が行じた、因行の寿命を証明するために、自ら本因を修行をこの娑婆世界で働く。
    すべての人々はお釈迦様の仏弟子、我が子です。 私にとっては、誰でも、異体であっても同心でありたい、白隠は春日大社にもご縁があったようです。本地は釈迦如来です。 菩提心。 神仏習合の立正で安らかな国土を目指す。 穢土と言われる娑婆世界を仏国土です。 もちろん、人にはそれぞれ仏法に対しての役目やまだ力が具わっていない方もいますが、法華経の教えを人に話すだけでも、お仲間です。 自分ができることを 少しづつでも、心掛ければ、よいですね。

    南無妙法蓮華経

  • >>53338

    >他の悲しみは如来一人の悲しみとされた、お釈迦様の心をわが心として、自行だけでなく、
    >利他行をこの娑婆世界で実践する。 悲しみ、苦しんでいるものには、背中を支えてあげる。
    >他の喜びは良かったねと共に喜んであげる。

    凄いですね。
    頑張ってください。

  • >>53336


    天台云く「当に知るべし依正の因 果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、

    伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用有無の二道は本覚の真徳」と文、天地陰陽日月五星地獄乃至仏果生死の
    二法に非ずと云うことなし、

    是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅」云云、釈

    迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと

    解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経

    を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授

    手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給は

    ん事歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば定めて獄卒迎えに来つて手をや

    取り候はんずらん浅・浅・、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。 (生死一大事血脈抄)

    ※久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと 解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなりとはどういうことかというと、
    本仏である、お釈迦様にも、仏様や菩薩の心だけでなく、私達と同じように、地獄の心、貪りの心、愚痴の心も具わっている。 具わっていなければ、私達の苦しみも理解出来ないし、教化することはできない。
    私達九界の凡夫にも、地獄や餓鬼の心だけでなく、時には仏様や菩薩のような心も具わっている。  

    他の悲しみは如来一人の悲しみとされた、お釈迦様の心をわが心として、自行だけでなく、利他行をこの娑婆世界で実践する。 悲しみ、苦しんでいるものには、背中を支えてあげる。 他の喜びは良かったねと共に喜んであげる。

    南無妙法蓮華経

  • >>53336

    諸法無我をまるっきり理解していない、見ているもの、感じているものは、我だという事。
    愚か禅は仏法をないがしろにする。このような事をグダグダいうような者は、魔の眷族。 しっかり仏陀の教えを考えてもらいたい。
    仏陀は法灯明、そして自灯明を説いている。  我が無いなどという者は、【佛道をならふというは自己をならふなり】とか【自己の依りどころは自己のみなり】という教えは我という重要な事を汚すもの。

    南無妙法蓮華経

  • >>53335

    即身成仏の法理を、別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
    阿含経等の小乗経典では、苦悩の原因は自分自身に具わる煩悩にあると説かれ、苦悩を解決のため、煩悩を消滅させる以外にないとして、多くの戒律を守り厳しい修行を積み重ねて解脱を求める教えです。
    こうした中で煩悩を完全になくした境地こうした中でになり、心身を消滅させ、この世に再び生まれないことを目指すような生き方は、大切な生命自体を否定することになる。

    権大乗教と呼ばれる経典では、小乗教を実践する二乗や、悪人・女性の成仏を否定する。
    ようするに 小乗教と同じく、凡夫と仏の間に乗り越えがたい隔たりがある。
    仏についても、阿弥陀仏や大日如来など、凡夫の人間を超越し、現実世界から遊離した別世界に住む仏を説く。
    凡夫が仏に成るためには、いくつもの生の間、仏の覚りの境地を一部分ずつ順次に学んで修行し、身に付けていかなければならないというような教えです。
    目覚めた人仏陀には自分の力ではなれないと考え、仏の絶対的な力で救われることを強調する他力の考えも現れます。

    こういうことに対して、法華経は、慈悲と智慧に満ちた仏の境地が、あらゆる衆生に本来的に具わっていて、それを開き顕すことによって成仏できることが明かされた。
    煩悩に覆われ、悪業を積み、苦悩にさいなまれている凡夫であっても、自身の内に仏界が具わっているという真実に目覚めれば、仏の覚り(菩提)の智慧を発揮し、苦悩から解放され、自在の境地を得ることができるのです。
    煩悩に覆われた苦悩の身が、そのまま菩提の智慧に輝く自在の身となるのです。この法理を「煩悩即菩提」といいます。 日蓮大聖人は、己心の内なる仏界とは、南無妙法蓮華経であると示されています。 お釈迦様の全ての智慧は妙法蓮華経に具足されている。 法華経を【信じ】久遠からのお釈迦様を【仰】ぐ 【信仰】で、心はお釈迦様のおられる真実の寂光土に遊び、身はお釈迦様の手足となって、働く歓喜の一念三千。

    南無妙法蓮華経

  • >>53334

    生有→本有→死有→中有→生有→  四有


    私たち今生きている生命は、必ず死ぬ生命です。しかしそれを一つの有(う)としてとらえ、全部でその有は四つあると仏教では教えます。  人間ならば、卵子に精子が受精した瞬間を生有(しょうう)、私達が生まれたから死ぬまでを本有(ほんう)とし、 臨終の時を死有(しう)、死んでから生を受ける瞬間までを中有(ちゅうう)といいます。また、その有は五蘊(ごうん)から成り立っていて、色・受・想・行・識の五つです。そのうちの識には九つがあって、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識の上に一般でいう意識があります。さらにその上に末那識(まなしき)と阿羅耶識(あらやしき)があり、それぞれ深層で挙動する自我執着心と自我根本心であります。そして最後に菴摩羅識(あんまらしき、無垢識ともいいます)です。この根本の究極の識に業(カルマ)といって、身・口・意の働きがこの識に焼きつけられていくわけです。  生有→本有→死有→中有→生有→と繰り返す間もこの最終の菴摩羅識(無垢識)に業が焼き付いて、本有の時にそれが出てくるということです。
    前世から現世そして来世へとそれが展開していくのです。これが輪廻転生ということです。

    前世が誰であったかというようなことがいわれるが、自分ではこうだったのではと感じるだけで、特別こだわらない。 仏教は前世より来世が問題であり、業の方向としては→の方向にある。  前世が分からなくても、自然と感じてくる。 インチキ宗教屋に騙されてはまずい。  仏教は「来世に作仏を得ん」がために、現世の行為という善行を重要視する。 

    南無妙法蓮華経

  • >>53333

    四弘誓願 妙法蓮華の受持成仏  今身より仏身に至るまでよく持ち奉る

    法華の行者として、人としての生命を全うした宮沢賢治の臨終の前の文章です。

    「われやがて死なん
      今日又は明日
    あたらしくまたわれとは何かを考へる
    われとは畢竟法則の外の何でもない
      からだは骨や血や肉や
      それらは結局さまざまの分子で
      幾十種かの原子の結合
      原子は結局真空の一体
      外界もまたしかり
    われわが身と外界とをしかく感じ
    これらの物質諸種に働く
    その法則をわれと云ふ
    われ死して真空に帰するや
    ふたゝびわれと感ずるや
    ともにそこにあるのは一の法則のみ
    その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
    そのこと人に菩提の心あるを以て菩薩を信ず
    菩薩を信ずる事を以て仏を信ず
    諸仏無数数億而も仏もまた法なり
    諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
      帰命妙法蓮華経
      生もこれ妙法の生
      死もこれ妙法の死
      今身より仏身に至るまでよく持ち奉る」

    南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経

    命に合掌

  • 菩提心なければ魔道に堕つ

    http://worldmate-hope-earth.blog.so-net.ne.jp/2012-09-03

    最低、法華経による 菩提心を求め続けることが、白隠の教え、道元にしても同じなのだが、どうでも良いことで、能書きを垂れまくる。 

    四弘誓願

    南無妙法蓮華経

  • <<
  • 53352 53333
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順