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菩薩庵

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    michioqqqと語りあいましょう  ね。。。

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    mic***** 2016年1月14日 03:58

    弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
    道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

    弘経の大士宗師等 無辺の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう。道俗時衆共に同心に唯、斯の高僧の説を信ずべしと。
    (意訳)浄土の教えをひろめて下さった祖師方は、数限りない五濁の世の衆生をみなお導きになる。出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに、ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい

  • 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
    真宗教証興片州 選択本願弘悪世
    還来生死輪転家 決以疑情為所止
    速入寂静無為楽 必以信心為能入

    本師源空は仏教に明かにして、善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ。真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
    生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情を以って所止とす。速やかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽に入ることは、必ず信心を以って能入と為すといえり。
    (意訳)源空上人は、深く仏の教えをきわめられ、善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで、この国の往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ、選択本願の法を五濁の世におひろめになった。
    「迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからである。速やかに悟りの世界にいるには、ただ本願を信じるより他はない。」と述べられた。

  • 源信広開一代教 偏帰安養勧一切
    專雑就心判浅深 報化二土正弁立
    極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
    煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

    源信広く一代の教を開きて、偏えに安養に帰して一切を勧む。專雑(せんぞう)の就心浅深を判して、報化(ほうけ)二土正しく弁立せり。極重の悪人は唯仏を称すべし。我亦 彼の摂取の中に在れども煩悩眼(まなこ)を障へて見たてまつらずと雖も 大悲倦(ものう)きこと無く、常に我を照したまふといえり。
    (意訳)源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった。さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、化土にしか往生できないが、念仏一つを専ら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかにされた。
    「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩が私の眼をさえぎって見立てまつる事ができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てる事無く常に照らしていてくださる。」と述べられた。

  • 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
    光明名号顕因縁 開入本願大智海
    行者正受金剛心 慶喜一念相応後
    与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

    善導独り仏の正意を明かせり。定散(じょうさん)と逆悪とを矜哀(こうあい)して、光明・名号因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、行者正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提(いだい)と等しく三忍を獲、即、法性の常楽を証せしむといえり。
    (意訳)善導大師はただ独り、これまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。善悪のすべての人を哀れんで、光明と名号が縁となり因となってお救い下さると示された。「本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を回向され、如来の本願にかなうことが出来たその時に、韋提希(いだいけ)と同じく三忍を得て、浄土に往生してただちに悟りを開く。」と述べられた。

    ○三忍・・無生法忍の持つ三つの徳義・・喜忍(歓喜の思い) 悟忍(仏智を了解する事) 信忍(仏力を信じること)
    ○無生法忍
     真如は本来、無生無滅であるからこれを無生法という。忍はさとる事。そこでこの無生法を悟る事を無生法忍という

  • 道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
    万善自力貶勤修 円満徳号歓專称
    三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
    一生造悪値弘誓  至安養界証妙果

    道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証し難きことを決して、唯、浄土の通入すべきことを明かす。万善の自力勤修(ごんしゅう)を貶(へん)す。円満の徳号專称を勧む。三不三信の誨(おしえ)、慇懃(おんごん)にして像末法滅同じく悲引す。一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界(あんにょうかい)に至りて妙果を証せしむといえり
    (意訳)道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく。浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた。自力の行はいくら修めても劣っているとして、ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをおすすめになる。三不と三不信の教えを懇切に示し、正法、像法、末法、法滅、いつの時代においても、本願念仏の法は変わらず人々を救い続ける事を明かされる。「たとえ生涯悪を作り続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば、浄土に往生しこの上ないさとりをは開く」と述べられた。

  • 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
    三蔵流支授浄経 梵焼仙経帰楽邦
    天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
    往還回向由他力 正定之因唯信心
    惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
    必至無量光明土 諸有衆生皆普化

    本師曇鸞(どんらん)は、梁(りょう)の天子、常に鸞の処に向かうて菩薩と礼したてまつる。三蔵流支(さんぞうるし)、浄経を授けしかば 仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき
    天親(てんじん)菩薩の論、註解して 報土の因果誓願を顕す。往還(おうげん)の回向(えこう)は他力に由(よ)る。正定(しょうじょう)の因は唯信心なり。惑染(わくぜん)の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生皆普(あまね)く化すといえり
    (意訳)曇鸞大師は、南朝の梁の皇帝が、常に菩薩と仰がれた人である菩提流支三蔵から浄土の教典を授けられたので、仙経(不老不死を説いた道教の書)を焼き捨てて浄土の教えに帰依された。
    天親菩薩の浄土論を註釈して、浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし、往相も還相も他力の回向であると示された。「浄土へ往生するための因はただ信心一つである。煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことが出来る。はかりしれない光明の浄土に至ると、あらゆる迷いの衆生を導くことができる。」と述べられた。

  • 天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
    依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
    広由本願力回向 為度群生彰一心
    帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
    得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
    遊煩悩林現神通 入生死薗示応化

    天親菩薩論を造りて説かく 無碍光如来に帰命したてまつる 修多羅(しゅたら)に依りて真実を顕して横超の大誓願を光闡す
    広く本願力の回向に由りて 群生を度せんが為に一心を彰す 功徳大宝海に帰入すれば必ず大会衆の数に入ることを獲。蓮華蔵世界に至ることを得れば 即ち真如法性(ほっしょう)の身を証せしむと。煩悩の林に遊びて神通を現じ 生死の薗に入りて応化を示すといえり 。
    (意訳)天親菩薩は「浄土論」を著して、「無碍光如来に帰依したてまつる」と述べられた。浄土の教典に基づいて、阿弥陀仏の真実をあらわされ、横超のすぐれた誓願をひろくお示しになり、本願力の回向によってすべてのものを救うために、一心すなわち、他力の信心を明らかにされた。「大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身と定まる。阿弥陀仏の浄土に往生すれば、直ちに真如を悟った身となり、さらに迷いの世界に還えり、神通力をあらわして、自在に衆生を救う事が出来る」と述べられた。

  • 釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
    竜樹大士出於世 悉能摧破有無見
    宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
    顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
    憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
    唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

    釈迦如来 楞伽山(りょうがせん)にして 衆の為に告命したまわく 南天竺(なんてんじく)に竜樹大士世に出て悉く能く有無の見を摧破(ざいは)せん。大乗無上の法を宣説して 歓喜地(かんぎじ)を証して安楽に生せむと。難行の陸路苦しきことを顕示して 易行の水道楽しきことを信楽せしむ。弥仏の本願を憶念すれば 自然に即の時、必定(ひつじょう)に入る。 唯能く常に如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべしといえり
    (意訳)釈尊は、楞伽山で大衆に、「南印度に竜樹菩薩が現れて、有無の邪見をすべてうち破り、尊い大乗の法を説き、歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろう。」と仰せになった。難行道は苦しい陸路のようであると示し、易行道は楽しい船旅のようであるとおすすめになる。「阿弥陀仏の本願を信ずれば、自ずからただちに正定聚に入る。唯、常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい」と述べられた

  • 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
    仏言広大勝解者 是人名分陀利華

    一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解(こうだいしょうげ)の者とのたまへり 是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく
    (意訳)善人も悪人も、どのような凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を信ずれば、仏は、この人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、汚れのない白い蓮の華のような人とおほめになる。

    弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
    信楽受持甚以難 難中之難無過斯

    弥陀仏の本願念仏は邪見・驕慢(きょうまん)の悪衆生 信楽(しんぎょう)受持すること 甚だ以て難し 難の中の難、斯(こ)れに過ぎたるは無し
    (意訳)阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。

    印度西天之論家 中夏日域之高僧
    顕大聖興世正意 明如来本誓応機

    印度西天の論家 中夏日域の高僧 大聖興世の正意を顕し 如来の本誓 機に応ぜることを明かす
    (意訳)印度の菩薩方や中国の高僧方が、釈尊が世に出られた本意をあらわし、阿弥陀仏の本願は私達のためにたてられたことを明らかにされた。

  • 摂取心光常照護 已能雖破無明暗
    貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
    譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

    摂取の心光、常に照護したまう すでに能く無明の闇を破すと雖も 貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧、常に真実信心の天に覆(おほ)へり 譬へば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下 明にして闇無きが如し
    (意訳)阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂取してお護り下さる。すでに無明の闇ははれても、貪りや怒りの雲や霧は、いつっもまことの信心の空を覆っている。しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇がないのと同じである。

    獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

    信を獲て見て敬ひ大きに慶喜(きょうき)すれば、即ち横に五悪趣を超截(ちょうぜつ)す。
    (意訳)信を獲て見て敬い大いに慶喜(きょうき)すれば、ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ちきられる。

  • 如来所以興出世 唯説弥陀本願海
    五濁悪時群生海 応信如来如実言

    如来、世に興出したまうゆえは 唯、弥陀本願海を説かむとなり 五濁(ごじょく)悪時の群生海(ぐんじょうかい) 如来如実の言を信ずべし
    (意訳)如来が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願海の教えを説くためである。五濁の世の人々は、釈尊のまことの教えを信ずるがよい。

    能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
    凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

    能く一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)をうるなり
    凡聖逆謗(ぼんじょうぎゃくほう)斉(ひと)しく回入すれば 衆水海に入りて一味なるが如し
    (意訳)信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ちきらないまま、浄土でさとりを得る事が出来る。凡夫も聖者も五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。

  • 普放無量無辺光 無碍無対光炎王
    清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
    超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

    普く無量 無辺光 無碍 無対 光炎王 清浄 歓喜 智慧光 不断 難思 無称光超日月光を放って塵刹(じんせつ)を照らす 一切の群生光照を蒙(こうむ)る
    (意訳)本願を成就された仏は、無量光、無辺光、無碍光、無対光、光炎王、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる。

    本願名号正定業 至心信楽願為因
    成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

    本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す 等覚を成り大涅槃を証することは必至滅度の願成就なり
    (意訳)本願の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり、至心信楽の願(第十八願)に誓われている信を往生の正因とする。正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことが出来るのは、必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによる。

  • 帰命無量寿如来 南無不可思議光
    無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
    (意訳)限りない命の如来に帰命し、思いはかることの出来ない光の如来に帰依したてまつる。

    法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
    覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
    建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
    五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
    法蔵菩薩の因位の時 世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因 国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと
    (意訳)法蔵菩薩の因位の時に、世自在王仏のみもとで、仏がたの浄土の成り立ちや、その国土や人間の善悪をご覧になって、この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。五劫もの長い間思惟して、この誓願を選び取り、名号をすべての世界に聞こえさせようと重ねて誓われたのである。

  • 正信念仏偈

    凡就誓願有真実行信 亦有方便行信 其真実行願者諸仏称名願其真実信願者至心信楽願 斯乃選択本願之行信也其機則一切善悪大小凡愚也 往生者則難思議往生也 仏土者則報仏報土也斯乃誓願不可思議一実真如海大無量寿経之宗致他力真宗之正意也

    凡そ誓願に就いて真実の行信有り 亦方便の行信有り 其の真実の行願は、諸仏称名の願なり 其の真実の信願は至心信楽(ししんしんぎょう)の願なり 斯れ乃ち選択本願の行信なり 其の機は一切善悪大小凡愚なり 往生は難思議(なんじぎ)往生なり 仏土は則ち報仏報土なり 斯れ乃ち誓願不可思議一実真如海なり 大無量寿経の宗致 他力真宗の正意なり 
    (意訳)およそ弥陀の誓願には、真実の行信と方便の行信とがある。その真実の行を誓われたものが第十七の諸仏称名の願である。その真実の信を誓われたものが第十八の至心信楽の願である。これがすなわち選択本願の行信である。その救われる本願の対象は、一切の善悪大小の凡愚である。またその往生は難思議の往生である。また仏土は報仏報土である。これがはかりがたい弥陀の誓願の不思議であり、真如法性にかなった一乗海で、それが大無量寿経に説かれた本旨であり、これこそ他力真宗の正意である。

  • 唯信鈔文意 ゆいしんしょうもんい

    『観経疏』に「不得外現賢善精進之相 ふとくげげんけんぜんしょうじんしそう(*外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ)」といわれているのは、表だって、自分が立派ですぐれているような振舞いや、善人であるような素振りを見せてはならない、仏道に励んでいるような姿を示してはならないというのである。なぜなら、「内懐虚仮(内に虚仮を懐いて)」だからである。「ない」は「うち」ということである。心のうちに煩悩をそなえているから、「虚」なのであり、「仮」なのである。「虚」は「むなしい」ということで、実ではないということである。「仮」は「かりの」ということであり、真ではないということである。これらの文字の意味については、すでに示した通りである。この信心は真実の浄土に生まれる種となり、実となるべきものであるというのである。それは、いつわりやへつらいを離れた、真実の浄土に生まれる因となる信心なのである。わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。賢者というのは、立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは、仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりであり、心のうちはいつも、むなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であると知らなければならないというのである。『唯信抄』に「斟酌しなければならない」といっているのは、自分自身がどのようなものであるのかということを知り、それにしたがってよく考えなければならないという言葉である。

  • 唯信鈔文意 ゆいしんしょうもんい

    『観無量寿経』に「汝若不能念(なんぢもし念ずるあたはずは)」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっている言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏(まさに無量寿仏を称すべし)」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

  • 唯信鈔文意 ゆいしんしょうもんい

    「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれのこころにまかせてさまざまな善を修め、それを極楽に往生するために*回向することである。すなわち*八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから真実の浄土には生まれることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の浄土にはさまざまな自力の善によって生まれることができないことを気づかわれているのであり、「難生」とは生まれることができないというのである。

    *回向/ここでは自力の回向のこと。行者が自ら治める善根の功徳をふり向けて浄土へ往生しょうとすること。
    *八万四千の法門/八万四千とは釈尊の説かれた教えが数多いことを表わす。親鸞聖人はこれらの法門を方便の教えとし、他力真実の教えである第十八願の名号法とは区別して見られた。

  • 「教行信証」現代語

    513P
    また、「往生礼賛」にいわれている。
    「このごろ、方々の出家のものや在家のものについて見たり聞いたりしたところでは、その理解も行も同じではなく、専修と雑修の違いがある。ただひとすじに念仏すれば、十人が十人、すべて往生する。他の行をまじえるのは心が真実でないから、千人に一人も往生できない」

    元照律師(がんじょうりつし)の「阿弥陀経義疏(あみだきょうぎしょ)」にいっている。
    「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしょうとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、また坐禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったら、そのような善によって浄土に往生しょうと願っても、みな僅かな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、「阿弥陀経」の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

    かってわたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽(じょうよう)の石碑に刻まれた「阿弥陀経」の文を見たところ、わたしの解釈に見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳を備えた行である」

    [孤山(こざん)の「阿弥陀経義疏(あみだきょうぎしょ)」にいっている。
    「阿弥陀経」に<名号を執持する>と説かれているのは、<執>とは受け取ることであり、<持>とはたもつことである。信心のはたらきにより、名号を受け取って心におき、念仏のはたらきにより、名号を保って忘れないのである。

  • 十二種の因果関係は世間のものか否か

    カッサバ菩薩、私は次の説法をしたことがある。
    「一体、十二種の因果関係とはなにか。それは次のような関係をいう。
    無明(道理についての無知)によって行(意思作用)がある。行によって識(分別作用)がある。識によって色識(名称と形相、つまり身体)がある。色識によって六処(六つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身・意)がある。六処によって触(外界との接触)がある。触によって受(感受作用)がある。受によって愛(渇愛)がある。愛によって取(執着)がある。取によって有(生存)がある。有によって生(出生)がある。生によって老死や悲しみや苦しみや悩みが生じる」と。
    これを聞いた弟子の中に、この趣意を理解できない者がいて「ブッダは十二種の因果関係は世間のものだと説いておられる」と考えた。

    またある時、修行者に、
    「十二種の因果関係はブッダがこの世に出現しようとしまいと関係そのものも、その働きも常在で不変である」
    と喩えをもって説いたことがある。
    カッサバ菩薩、十二種の因果関係があっても、条件にしたがって生じないことがあり、条件にしたがって生じても十二種の因果関係をなさないこともある。条件にしたがって生じて十二種の因果関係をなすこともある。条件による生起ではなくて十二種の因果関係をなさないこともある。

    ところで十二種の因果関係があって、条件による生起でないものとはなにかというと、未来の世間における十二種の因果関係である。

    条件にしたがって生じて、十二種の因果関係をなさないものとは阿羅漢がもっている五つの集り、つまり身体である。

    条件にしたがって生じて、十二種の因果関係があるものとは凡夫の人々が所有する五つの集り、つまり身体の十二種の因果関係である。

    条件による生起ではなくて、十二種の因果関係をなさないものとは虚空であり、妙寂である。

    カッサバ菩薩、私がこのように説いたことを聞いた弟子たちの中で趣意を理解できない者は「ブッタは十二種の因果関係は世間を越えたものであると説かれた」と考えた。
    涅槃経

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